無くなった自転車戻ってきたというただそれだけの事

昨年の9月頃だったか、自転車が盗まれた。
家の前に置いてあったのだが、修理したその次の日に突然、無くなっていたので、妻と残念がった。
その自転車は友人のA君から結婚祝にといただいたものだったが、ちょうどその頃A君といろいろとあったので、まぁしかたないかとあきらめた。それに、僕の住んでいた代官山は、夜でも若者がフラフラしているところで、誰かが家に帰ろうと思って、持っていったというような事は想像しやすいことだったのだ。

ところが、今年になって、これも突然、警察から電話があり、自転車が見つかったという。しかも、小田急線の豪徳寺駅の近くの赤堤というところの秋定さんというお宅の庭に鍵がかかったまま放置されていたということだ。鍵がかかったままという事は、誰かが、そのまま代官山から豪徳寺に乗らずに運んだということだ。不思議な事もあるものだ。

僕はそこの派出所の海老沢という巡査にお礼の電話をし、次の日曜日に自転車を取りに行く約束をした。海老沢は、いかにも平和な住宅街の派出所の巡査という感じの話し方で、「よかったですね。」と電話の向こうで過剰に喜んでいた。他人事なのに。おそらく、善い事をする事に生きがいを感じるタイプの人なんだろうと思った。
その日、パソコンを開いてみると、あのA君からメールが入っていた。これも突然であった。僕はさっそく、電話をかえし、その週の週末に会う約束をした。そして、僕は頭の中で、自転車の発見とA君との再開を繋げたのであった。
日曜日が来て、赤堤交番まで自転車を取りに行った。何故か海老沢は不在だった。別の巡査に秋定さんのところに、電話してもらったが、こちらも不在らしく、誰も出なかった。僕は自転車をこいで田無まで帰った。予想では3時間くらいかかると思われたが、なんと1時間半くらいで田無までたどりついた。途中、青梅街道で一人の老婆から道を聞かれた。

老婆「ここは青梅街道ですか。」
僕 「そうですよ。」
老婆「それじゃあ、私はこの道を行けばいいんですね。」
僕 「....多分、そうです。...」

次の日、海老沢から電話があった。「まさむねさん、通信本部にお知り合いがいるんですか。そんなに気をつかってもらちゃってこまりますよ。ははは。」こちらは何もしていない。全く、意味不明でご機嫌な海老沢だった。僕は、「いや、とんでもありません。」とよく分からないながらも、当たり障りのない応対をした。海老沢は、「それじゃ、かぁちゃん(妻のらしい)の方か。」と言って、電話を切った。僕は取り残されたような気がした。その日、妻に確認をしたところ、海老沢から全く同じような電話があったという。海老沢は妻に対しても「それじゃとうちゃんの方か。」と言って、電話を切ったらしい。謎は残った。
結局、妻の方から、秋定さんにお礼のタオルと手紙をだし、この件は終わるはずだったが、昨日、その秋定さんからお礼の電話が入った。「ご結婚祝いの自転車、見つかってよかったですね。実は、うちには痴呆の母がいて、その母がこの自転車を自分のものだと思い込んで、本当に毎日毎日、磨いていたんですよ。」と話していた。

僕は、ちょうど麻雀をしていたのだが、その手が止まった。ちょっと不気味な感じがした。

まさむね。

売れたもの勝ちという論理

売れたら勝ちという論理は、多数決が善という民主主義のルールと通底していて、「まだまし」なものなのでしょう。

僕も売れたら勝ちという論理と作品自体は私のため
にあるはずだという論理の間を行ったり来たりして
いるような気がします。あるいいは、もっとずるく、使い分けているような気がします。

先日、読売新聞で、最近の事件を例に引いて、報道が動機を探る事に偏るあまり、人々に受け入れられやすい動機探しに奔走していく事の無責任さを指摘する論説が出ていて、その通りだと思いつつ、そんな状況はしかたなく、でも嫌でしょうがない気もしました。

嫌と言えば、今年の僕のキーワードのような言葉でしたが、先日また、嫌について考えさせられるテレビ番組がありました。

フジテレビの「しらばか」という番組で、あるイラストレータが夫の名字が嫌で離婚したんだけど、離婚の理由はそれだけで、子供もいて、一緒に楽しく暮らしているという話が出て、それに対して、出演者は一斉に、それはおかしいと、責めるんですね。「子供はどうなるんだ」とか「やっぱり結婚と同棲
は心構えが違うんだ」とか「これが日本のルールだ」とかいろいろと言うんですが、結局は論破できず、その人がよければそれでいいという事になってしまったんですね。

僕もそのイラストレータを見ていて、もの凄く不快な感じがしてのですが、その不快の理由が全く解明出来なかった。
新しいものは常に保守的な人には不快なものとして感じられるんでしょうか。例えば、それはビートルズの登場みたいに。

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ところで、はやくも明日、引越になってしまいました。
なるべく早くマシンを使えるようになります。

まさむね

売れたら勝ちという論理-2

売れたら勝ちという論理が私が好きな理由は、数字と言う絶対値だからからもしれません

たとえば、私はデザイン系の学校出身だったりするのですが、そこのコンサバな芸術の論理だったりすると大衆に迎合したり、売れ線を狙ったりする行為はさげずまれたりします。

でも、実際は自己満足の芸術は何の価値や評価もえらないわけで、大衆的な芸術なら売れなきゃ行けないしいま、芸術的と言われるようなハイソなモノなら評論家やその路の大家に評価されるもので無ければ意味無いわけです。
その論理も、今や手が混んでいて例えば一部の人に受け入れるようにしたりしてブームが延命するように、いろいろ演出するわけです
昔は芸術家は王様に迎合していたわけで、今は大衆が王様なわけです。

マスコミやテレビに嫌悪感あるのは正義とか知る権利とか真実とか、言っておきながら
実は自分達は利権にまみれて扇動的に動いているからでしょう

いろいろな常識や倫理とか風習とか、社会には縛りがあるけど、いまは、社会も村とか小集団に依存してしか生きて行けないわけじゃ無いから
それを乗り越えてしまったら、ヤッタもん勝ちなのかもしれません。
造反有利ですね

以前のログの整理もおねがいします

ところざわ

劇場性

どんな行為も結局、他の人に見てもらって
ナンボの世界ですもんね
いや、ナンボという言葉が違和感あるなら
ケレンミが大切というか
評価されなければ何の意味が無いのかもしれません

芸術性やストイックさを競っても
見てもらって楽しんでもらったり
心揺さぶってもらって、自分も嬉しいと言うのが
大切だともいます

ミュージシャンも自堕落や無頼を気取っていても
巨大なお金を産む音楽産業の自営の事業部長って
存在ですモンネ

もちろん、スポーツマンも
同じでしかルべきだと思います

人の見ていな所で新記録を打ち立てても
しかも、新記録を誰も興味示さなければ
彼等もモチベーションが無くなるでしょう

GAGAで強烈に意識したことは
やはり客商売は楽しんでもらって
お金落としてもらうことが大切だってことです

K1も、その意味では十分正しいのかもしれません

ラーメン屋が2軒しか無かった街が
暖簾別けして散って、屋台だらけになった街に
バーミヤンが登場したって感じかもしれません

ところざわ

悪意というのは人生のスパイスではないでしょうか。

悪意というのは人生のスパイスではないでしょうか。
僕はプロレスあるいはその他の観るときには、必ず
悪意を入れて見ています。
でも、それでもパワーのある作品には涙するし、感動したりもするから、逆にその悪意というものが一つのハードルになって力のある作品と、そうでない作品を篩い分けしてくれているのかもしれません。

でも、例えば、他人の言葉や態度に悪意があるかどうかを見極めるのはとても困難ですよね。本当のところ、自分にも悪意があるのか無いのかを自覚するのだって難しい。福永さんはもしかしたら、全く善意の人かもしれない。

よく、援助交際とかに対してもそうなんだけど、お金という事で説明しようとして、それで大体が納得も出来てしまう
んだけど、本当のことがみえなくなることがありますよね。
例えば、山田みつ子だって、春奈ちゃん家の生活水準に嫉妬したとか、林マスミだって、いい生活をしたかったとか、工藤や佐々木の行動もお金で考えるっていうのはどっか正しくしかし、どこか確実に間違っている(というか面白くなくさせている)と思います。

ところで、最近僕が夢想しているシュミュレーションゲームがあって、それはメチャクチャなカップル、堕落した父親。救いのない教室、終わりの無い嫁姑戦争というすでに現実的などうしようもない問題が多発している世界で、その問題を一つ一つ
解決していくというゲームです。解決の方法は、人生相談みたいなものとかでいいんですが。このゲームのポイントは、リアリティなので、セリフのセンスがすべてみたいな感じの世界なのですが、もしそういうのがあったら教えてください。

インタネットの世界が発生していっては消えていくというのは、なんだか、僕の興味のある一般の民俗学的世界と共通していますよね。日本の歴史だって、ほとんどの人々の気持ちみたいなものはすでに消えてしまっていて、残っているのは公式の資料だったり坊さんの日記みたいなものだったりしますよね。例えば、14世紀の新潟県の漁民の心情なんて、全く分からない。想像は出来るんだけど、そういう想像って極めて失礼なものになる可能性がある。

こういう話がありますよね。僕が高校時代に習ったことに、江戸時代の農民は米は作っていたけど、食べることはめったになかったという神話。特に東北の農民は毎日飢えと戦いながら、年貢のためだけに働かされていたという神話。でもこれってちょっと考えればすぐに分かることだけど、そういう事はありえないよね。当時の客観的な資料を見ればすぐにわかるんだけど、人口と石高ってほぼ等しいんだって。
ご存知の通り、1石というのは普通の大人一人が1年間で食べる米の量ですよね。そうすると、その米っていうのは、絶対最終的には日本人の口の中に入ったいたということなんですね。牛や馬が食べていたり、密輸していたということがなければ。

ちょっと話しがそれましたが、インタネットの言葉が書かれては消えていくイメージってなんか、無数の人々の独り言が次々に発せられてそして忘れられていくような世界に似ていて美しいですよね。

それではまた。

まさむね

サーバーの調子悪いみたいです

虚言の話もあるけど、シュミレーションの話で言えば何かでよんだ本に、同窓会に幾度に、お金持ちやらホームレスやら毎回トンでもない設定で出かけていくって言うのもありました
その日一日で良ければ結構演技できると思います
試してみるには面白そうです

消されるメディアって紙に書かれていれば、結構偶然残っていたりすると思うのですよでも、電子メディアじゃ、むずかしいかも、私みたいに適当にCD-Rでバックアップ取る人間のデータが残されていれば後世の人はおもしろがるかも・・・
でも、こういう人間ばかりゃ認識が片寄りそうだな

それに読むソフトやハードの問題もあるしね

でも、残されるのって文字情報なんですよね
文字情報って過激じゃないですか、刺激的な本や雑誌も多いしでも、実際は道徳やら社会のルールでもう少しずれたところに社会の軸はあるわけでしょう。その辺、後世の人はどう考えるのかな
聾唖の人とかも社会とのやり取りは文字情報が主体なので、その辺の意識の違いもあるかもしれませんね

いまは、検索サービスの基礎データが更新されてしまったので無くなっているけどひところはアスキーのインターネットサービスが無くなって個人のホームページのデータが検索上は見つかるけど元データはなくってその喪失感は結構な物があったのだけど、こんなこと考えるのは少数なのかも・・
身の回りが雑多なのも何でもとっておきたいと言う意識があるのかもしれないです

農民の神話で言えば、けっこう、こうあって欲しいと言う意識が一人歩きしたというのってありますよね、以前の白痴やバカに聖性を持たせてしまう話もありますけど、あと、インディアンやアイヌなど、マイノリティに自然派志向をもたせてしまうのというのもあると思います。産業革命を経てない民俗は当然どの民俗も全部、自然や環境の事象に聖性を持たせてきたわけで、それを特別視するものなンだかなって感じです
人口が物凄く少なかったわけだから資源も必要としていないし、消費するすべを知らなかったわけだしね

後世の人の為に虚言な情報を残しておくというのも
いいですね

ところざわ

見世物としての虚言癖

確か、柳田国男の「不幸なる芸術」の中だったと思うが、虚言=ウソはその昔、一つの芸として珍重されたという。

例えば、かわいらしい子供とかが、母親から聞いたおとぎ話をあたかも自分の体験談として、話したり、いつのまにか行く知れずになった人が戻ってきたら、全国を回ってきたと言い張り、全国名所絵図の解説のような内容を自慢げに話したり、自分は、もう千年も生きているとこれまた言い張る爺さんにじゃあ過去の話をしてみろと詰め寄ると源平の合戦とか太平記とか講談に出てくる話ばかりしたとか、そういう話はいくらでもあって、それを聞く人々の態度は極めて温かかったという。

それが、ある時代から、嘘=「いけないこと」という常識がいろんな言葉を抑圧したのではないだろうか。

僕が好きでしかし、五十嵐君が大嫌いな大仁田厚は一時期自分は大嘘つきだと言ってはばからず、それが一つの見世物になっていた。
同様に、彼の泣きの芸は、これまた柳田国男の「梯泣史談」によると日本伝統的な芸風を踏襲しているのではないかと思う。

確かに、現在は泣くということも抑圧された仕草である。

かつて僕は大仁田のシャツ破りパフォーマンスは包茎手術のシュミュレーションであり、それは成人通過儀礼であるということを考えていた。そうすると、試合後の潮吹き=射精、試合中の頭突き合戦=堅くするためのトレーニングだという事でなんだか納得が行く。後に、大仁田が自分のシャツに「男樹」という文字を入れるようになったのを観てさらにその意を強くしたものだ。

大仁田厚のそういった無意識的(もしかしたら意識的)なパフォーマンスは日本人のそういった民俗学的欲求を満足させているのではないか。彼が他のプロレスラーと違うレベルに存在するのも当然だと思う。

さて、話は変わって、上原だ。結局松坂に及ばない金額で契約更改。
当分、純粋青年の姿勢はくずれそうもない。
なぜか、スポーツ選手に純粋さを求める日本では、工藤や桑田のように不純な感じがする人はウケない。しかし、上原と松坂を比較すると残酷なようだが、生まれつきのスターと成績のよい普通の人という対比が見えてしまう。上原の純粋さがこの対比をどう壊していくのかが楽しみだ。

さて、純粋と言えば、先日の雅子様ご懐妊騒動において、マスコミ各社の「純粋ぶり」も、見世物として楽しかった。気持ちさえ純粋ということになっていれば、何をやってもいいという気風も極めて日本的だ。

しかし、法の華の信者の純粋ぶりも観ていて面白かった。

まさむね

純粋さについて

気持ちが優先されるというのか
悪意がなケリゃ大概の事は
許してもらえるからね

虚言癖の人もそうだし、
法の華も定説オヤジもそうだけど
間違っていても言葉尻をとられて
反論されても、それでも、まだ言い張っちゃえば
それ以上、反論できないからね
いかに楽しい話をその人から聞き出すかが
大切だとお思います

そう、別の話題だけど
気に入っていたホームページが
無くなりかけていて
昔はメディアが紙が主体だった頃は
保存が効いて、過去を知るのに
役立ったけど、放送とかも含めて
インターネットとか保存が効かないから、
今の膨大な情報類が
ほとんど歴史に残らないのは
残念です

でも、どこかにマメな人がいて
掲示板の過去ログとかその他いろいろ、声をかけると
保存してたりする人がいるのが
この世界の凄いトコなんだけど

ところざわ

おばさん顔の恐怖

あるとき突如として、目立つ事の快感にはまった
おばさんあるいは、ある時、そういう欲望を実現
してしまったおばさんの顔は醜悪になるのかも
しれないと思った。

先日、起きた春奈ちゃん殺人事件の犯人、山田みつ子
は実家の裏庭に死体を埋めた。すぐに発見されること
を望んだとしか思えない行動。
この愚かさを自己顕示欲という言葉で説明することは
できはしまいか。主婦グループでも地味だった彼女が
リーダー的存在の子供を殺す事で、何を実現したかった
のか。おばさん達の犯罪のドラマ「OUT」に期待したい。

さて、一方、私におばさんと断定された工藤投手である
が、昨日の長島監督との記者会見。帽子をかぶせてもら
ったり、ユニフォームを着せてもらったりしていた。
関係ないが、僕が興味あるのは、入団発表の時のそう
いった儀式の起源だ。帽子をかぶせてもらうのは、
王様の戴冠式にも似ている。それと根本的に野球帽の
ヒサシの起源はなんなのだろうか。

特ダネの小倉氏について。確かに彼は全てのことに
対して、自分とのかかわりを語る。感じとしては、
全てのドラマを見てるし、すべての人に会ったことが
あるし、全ての流行歌を聴いている。
それは、批評=「作品をダシにして己を語ること」
という小林秀雄の流儀から言えば正しい事かもしれない
が、そうしているうちに実は段々とおばさん顔になって
いくのかもしれないと思った。当然、それは、私に
ついても言えれることだが、大変恐ろしいことである。

まさむね

虚言癖

だれでも、自分は特別の存在と思いたいからか、
中には、こうありたいって思ったら、
そのまま話が口からでてしまって、
現実と一緒になっちゃう人っていますよね。
特にテレビの世界は、裏方が出演者達を支えて
想像以上のモノに仕立てちゃうから
勘違いする人も多いのかもしれません。
ピッチャーも、言わばステージに
立っているわけだしね。

身近にもいるのですが、それはそれで、
話を聞くには楽しかったりします。
でも、まさむねさんじゃないよ。
ほとんど、聞く方にはホラ話しの領域なんだけど
まあ、負けん気が強いのかな
何かの話題をふると、極限迄、誇張しちゃうみたいです

戴冠式と言えばナポレオンは
自分の手で戴冠したんですよね。

ところざわ