新潟の監禁事件と文学

新潟の少女誘拐監禁事件を知ってまず、思い出したのが柳田国男の「遠野物語」の以下の一節でした。
「遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり」
ていうことは、人さらいって昔は結構あったんでしょうね。それに貰い子とか捨て子とかも結構あって、漱石や龍之介も確かそうですよね。同じ「遠野物語」の河童の項のところに、子供を産んだ母親が、それが赤い河童みたいな子だったので、気持ち悪くなって村の境界まで捨てるんだけど、帰り道に、「もしかしたら、見世物として売れば、高く売れるかもしれない」と思いついて、境界まで戻ってみるとすでに赤子はいなくっていて、がっかりしたっていうのもあったけど、これなんか、倫理観のかけらも感じられない。サバサバしてるよね。
柄谷行人によれば、柳田国男の友人の田山花袋はこういった柳田が語る民俗学的な話を、唐突すぎて文学にならないというようなことを言ったらしいけど、坂口安吾が文学の「ふるさと」と評価したのは、こういった唐突な残酷さだったんですね。
今回、この事件でポイントとなるのは、犯人の母親だと思うんですが、こういった人は事件の余韻が冷めた後、どのように暮らしていくんだろう。そういった物悲さは文学ですよね。

まさむね。

ついにデングリ返しがきた。

インターネット上で伝栗の文字を発見した私は、さっそく、その伝栗の謎を解くべく東京理科大と中部職業リハビリセンターにメールをだした。

職リハには軽く黙殺された。だが、東京理科大からは返事がきた。これぞ、デングリ返しと呼ばずしてなるものか。その内容初公開。以下のものだ。
記名もあったのだが、ここは伏せ字とさせていただく。

私からの手紙
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はじめてメールを出させていただきます。

平成9年度 春期 第二種 午後 問16の設問2の問題中の文章に関して、の質問です。

...そこで,E君は倉庫に送る納品伝栗ファイルをもとに,...
問題中に以上の表現があります。本来の文脈ではここは納品伝票となるかと思われるのですが、あえて、「納品伝栗」とされている意図はなにかあるのでしょうか。元々の問題がそのようになっていたのでしょうか。あるいは、そちらで書きうつされたときに誤ってそのようになったのでしょうか。
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そして、理科大学からのメール。
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東京理科大学のYと申します。
元々の問題が、
「そこで,E君は倉庫に送る納品伝栗ファイルをもとに,...」
となっています。
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なんと簡潔な文章だろうか。私はさっそく次のターゲットを通産省にしぼるべく、資料集めに奔走した。(本屋に行っただけなのだが。)そこで、日刊工業新聞社から発刊されている「情報処理第二種問題集」をひもとく。しかし、問題の個所は「伝票」となっている。文字を見ると明らかにリタイプした文字だ。ということは、編集スタッフが伝栗を見逃して、伝票と誤写した可能性がある。
同時に、学研から出ている情報処理第二種の問題集を手にする。こちらは、そのままの問題をコピーしたようなレイアウトだ。期待できる。しかし、ななんと残念なことに、問題は平成10年のものまでしかさかのぼられていない。
う~ん。誰か、去年か一昨年のこの学研の第二種の問題集をお持ちの方、調べてはくれないだろうか。勿論、私もいろいろと手を尽くすつもりだ。

なんだか自分が伝栗ストーカーになった気分だ。

以上

まさむね。

伝栗と新潟の監禁事件

伝栗は先人がいたのでしょうかねえ。
パソコンとOCRとが出現した現代ならではの出来事なのでしょうか。気づかないところで他にも同様の文字が出現しているのでしょうか?

さて、新潟の監禁事件ですが、陰謀系のホームページでも紹介されていましたが、真っ先に思ったのは柏崎ということもあり拉致疑惑解決のための陰謀かということです。でもどうも違いそうですね。小説やテレビドラマなら、容疑者に植え付けられたニセの記憶という線もあるかも知れないですけどね。犯人の母親、当然知っていたのでしょうね。直後なら当然泣き喚いたりしたでしょうから。

でも、誘拐されたのが9歳と、言語能力が定着してからだったので幸いでしたね。以前、テレビで教育研究者の資料用のビデオを見ましたが。幼少時に親に放っとかれて、その後、公的機関でかなり育ってから言語を学んだ子供の様子はかなりつらいものがありました。

ところざわ

日本伝栗計画

昨日は、私が密かに、暖めていた伝栗計画がすでに、東京理科大と名古屋の職業リハビリセンターにおいて、進行していた事にショックを隠し切れなかったが、思い直してみた。
もしかしたら、彼らの伝栗は本当の誤植なのではなかったのかという希望だ。例えば、OCRなどを使用して紙からデジタルに文字を起こした場合、票が栗になってしまう事は考えられなくもない。
私は、さっそく、その事実を確認すべく、2つのサイトの担当にメールを出してみた。昨日の今日なので、まだ返事はないが、もしも、彼らからなんらかの返事(これを俗にデングリ返しという)があったら、みなさんにもお知らせする事を約束する。

日本伝栗計画実行委員会

まさむね。

伝栗計画

自転車の件はシンクロニシティっぽいけど、私的にはシンクロニシティを信じてはいません。

伝栗計画はパソコンの文字って小さい文字は簡略化して表示しているのと、その文字を人の目が認識する特に補正してしまうからなかなか気づきませんよね。
パソコンのデータはコピーペーストでどんどん伝播していくので気づかないうちに広まりそうですね
慣用句でも間違った使い方が主流派になればそのままなし崩しに正しい使いかたになるので、それを目指してほしいですね。

ゆくゆくは伝栗計画で一コーナーとして展開したいですね

ところざわ

坂口安吾とモーニング娘。

かつて、坂口安吾は「突然、何かに突き放されるような感じ」の事を文学における「ふるさと」という言葉で表現したが、これは、例えば、ジャイアント馬場を見ていたときに感じた一瞬の沈黙とか、漫画ならばつげ義春なんかにも感じるような冷たさとも通じるものなのじゃないかと思っている。
こういう観念に取り付かれてしまうと、どうもそれからは自分が何かを見るときの指標としてこの「ふるさと」探しという事がメインテーマになってしまう。
そこで、モーニング娘である。別に彼女たちの「ふるさと」という曲の事を言いたいのではない。僕はそのモーニング娘。の飯田香織に、そんな感じを感じたのだ。彼女の自分を持て余した感じ、居心地の悪さは、モーニング娘。でも異色中の異色である。
それは中澤のあねさん的なサバサバした魅力とも、なっちの正統的なアイドル性よりも、後藤のまだアイドルになりきれないが、その成長物語よりも、市井さやかの健康な向上心よりも、矢口のロリコン的なエロスよりも、保田のアイドルにしかなれなかったと言わんばかりのハツラツな馬鹿よりも、実は僕の目をひくのであった。

おそらく沖縄アクターズスクールからは逆立ちしても登場し得ないような彼女たち、特に飯田に僕は注目したい。

まさむね。

ミクロの悪意、いまだ発見されず。

僕の現在の仕事は、ある政府機関でプログラマ達に仕様書を書くということです。
顧客も省庁関係で、そこの経理システムの仕様を作っています。
で、そういった経理システムだから、仕様書の中には、資産とか損益とか借方とか伝票とかいう言葉がすごくよく出てくるんですね。
そこで、僕は一つ、本当にささやかなたくらみを考えたわけです。それは、その仕様書の「伝票」という言葉をこっそりと「伝栗」に変えておくというものです。勿論、何百個のうち、2,3個なんだけど、それの「伝栗」はひっそりと仕様書の中に埋もれているのです。これぞ、知る人は知る恐怖の「伝栗計画」。でも、いまだに誰にもばれていません。
僕がこの会社にいるのは、3月までなんだけど、それからもその仕様書はここの資料として残りつづけます。そして、いつの日にか、誰かが偶然にそれを発見して、その誤植に、ささやかなでもとてつもなく不気味な感じがして、ブルってなるような時を夢見ています。

まさむね

伝栗発見&椎名林檎

伝栗計画はついに、見つかってしまいました。下の2つのサイトで発見されてしまいました。(By goo)
http:// infoserv.sut.ac.jp/ j-siken/ H9a1/ af16.html

http:// www.normanet.ne.jp/ ~ww500002/ ol_tube/ ol_tube_13.html
さて、それはともかく、椎名林檎である。かつて、細野晴臣が、音楽にとって、大事な三つを以下のように表現した。
下半身ムラムラ
脇の下ゾクゾク
頭クラクラ
これは、ようするにリズムとメロディとコンセプトという事らしい。特にコンセプトに関しては、その音楽家のどうしようもない衝動というであって、けっしてマーケッティングのプランということじゃないということ。
そこで、椎名林檎である。新宿系という事で売り出している彼女の「ギブス」発売というポスターが新宿の二丁目に大きくある。どだいエンターテインメントに「ギブス」はないだろうと思って、その歌を聴いてみる。衝動だけで作ったような歌だった。
いつか沖縄アクターズスクールの校長とかいう男がテレビで、自分の学校を出た生徒達を自慢しながら、個性やノビノビとか自分を大事にすることとかが身につく教育とか言っていたが、それはせいぜい商品としての個性やノビノビだろうと思った。明らかにたんなるイデオロギーだ。
もしも、椎名林檎がそこの学校の生徒だったら、僕はその校長を少しは信じてもいいような気がした。

まさむね。

無くなった自転車戻ってきたというただそれだけの事

昨年の9月頃だったか、自転車が盗まれた。
家の前に置いてあったのだが、修理したその次の日に突然、無くなっていたので、妻と残念がった。
その自転車は友人のA君から結婚祝にといただいたものだったが、ちょうどその頃A君といろいろとあったので、まぁしかたないかとあきらめた。それに、僕の住んでいた代官山は、夜でも若者がフラフラしているところで、誰かが家に帰ろうと思って、持っていったというような事は想像しやすいことだったのだ。

ところが、今年になって、これも突然、警察から電話があり、自転車が見つかったという。しかも、小田急線の豪徳寺駅の近くの赤堤というところの秋定さんというお宅の庭に鍵がかかったまま放置されていたということだ。鍵がかかったままという事は、誰かが、そのまま代官山から豪徳寺に乗らずに運んだということだ。不思議な事もあるものだ。

僕はそこの派出所の海老沢という巡査にお礼の電話をし、次の日曜日に自転車を取りに行く約束をした。海老沢は、いかにも平和な住宅街の派出所の巡査という感じの話し方で、「よかったですね。」と電話の向こうで過剰に喜んでいた。他人事なのに。おそらく、善い事をする事に生きがいを感じるタイプの人なんだろうと思った。
その日、パソコンを開いてみると、あのA君からメールが入っていた。これも突然であった。僕はさっそく、電話をかえし、その週の週末に会う約束をした。そして、僕は頭の中で、自転車の発見とA君との再開を繋げたのであった。
日曜日が来て、赤堤交番まで自転車を取りに行った。何故か海老沢は不在だった。別の巡査に秋定さんのところに、電話してもらったが、こちらも不在らしく、誰も出なかった。僕は自転車をこいで田無まで帰った。予想では3時間くらいかかると思われたが、なんと1時間半くらいで田無までたどりついた。途中、青梅街道で一人の老婆から道を聞かれた。

老婆「ここは青梅街道ですか。」
僕 「そうですよ。」
老婆「それじゃあ、私はこの道を行けばいいんですね。」
僕 「....多分、そうです。...」

次の日、海老沢から電話があった。「まさむねさん、通信本部にお知り合いがいるんですか。そんなに気をつかってもらちゃってこまりますよ。ははは。」こちらは何もしていない。全く、意味不明でご機嫌な海老沢だった。僕は、「いや、とんでもありません。」とよく分からないながらも、当たり障りのない応対をした。海老沢は、「それじゃ、かぁちゃん(妻のらしい)の方か。」と言って、電話を切った。僕は取り残されたような気がした。その日、妻に確認をしたところ、海老沢から全く同じような電話があったという。海老沢は妻に対しても「それじゃとうちゃんの方か。」と言って、電話を切ったらしい。謎は残った。
結局、妻の方から、秋定さんにお礼のタオルと手紙をだし、この件は終わるはずだったが、昨日、その秋定さんからお礼の電話が入った。「ご結婚祝いの自転車、見つかってよかったですね。実は、うちには痴呆の母がいて、その母がこの自転車を自分のものだと思い込んで、本当に毎日毎日、磨いていたんですよ。」と話していた。

僕は、ちょうど麻雀をしていたのだが、その手が止まった。ちょっと不気味な感じがした。

まさむね。

サッカーは嫌い

今朝、安室が、その母の死以降の気持ちをインタネットで告白ってワイドショーでやっていました。それで安室の暗さもちょっとは納得できたっていうところでしょうか。
でも、TBSのワイドショーで、安室ちゃんのインタビューをご覧くださいって言うから、思わず身を乗り出したのに、出てきたのは何故か瀬川暎子の映像だったのには、思わず目眩がしました。しっかりしてくれよTBSという感じでした。
昨日は、野球の話だったので、今日はサッカーの話。いきなりですが、僕はサッカー観戦が嫌いです。一度、カナダでメキシコVSカナダという試合を観た事があるんですが、その時、トイレに行っている間にカナダが1点入れて、それで、そのまま1対0でカナダの勝ちっていう試合を観てから、生観戦はしていません。
大体あの、試合の展開の速さがおそらく、日本人の観戦(観見世物)のリズムに合わないんだろうな。野球だったら観るべき所と、休憩すべき所が明確に存在するし、元々相撲もそうです。明治時代の記録とか見ると、大相撲の仕切りで延々2時間も組み合わなかったなんていうのがあるんだけど、それってようするに、延々2時間、裸の大男が塩を撒きつづけるのを見てたって事ですよね。
そういうよく分からない風景をも見世物化していた我々の先祖のセンスにちょっと唖然。
世阿弥の花伝書に「秘すれば花なり」というのがあるけど、やっぱり見世物の本質は実は、想像させることにあるんじゃないでしょうか。馬場さんのプロレスだって結局、あの人本気出したら、めちゃくちゃ強いんじゃないの?いや、めちゃくちゃ弱いんじゃないの?っていう想像域の広さで我々を楽しませてくれたわけですよね。
まぁ、そういう意味でサッカーって想像から最も遠いスポーツだと思います。結果がすべてというか。その結果の全て性がサッカーくじなんていうものを呼び寄せたわけですからね。
前もちょっと言ったけど、ヒール性を失った文部省が、サッカーくじで金儲けしてさらに、お子様にサービスする気でしょうか。

まさむね。