プロレスとしての丸明

丸明の吉田社長の事が実は好きだ。

おとといの「謝罪に漂うものの哀れ」で思わず、あの謝罪会見をプロレス的なアナロジーで語ってしまったが、よく考えたら、あの社長が醸し出す匂いは昭和プロレスのヒールのそれと酷似していることに気付いた。

最初に報道された従業員との口論。社長は従業員達の前で偽装の指示を喧嘩腰で否定する。
吉田社長の鮮烈なデビューだ。

次は、ただ「申し訳ありませんでした」とだけ言って逃げたわずか40秒の記者会見。
やりたい事だけやって帰っていくヒールの姿だ。
我々の興味をしっかりと次に繋ぐ。

そして、例の記者会見。
前半は下を向いての欺瞞謝罪。
中盤は笑顔での饒舌。
最後は決着をつけないまま、場外逃亡。

この展開がまさしく「昭和プロレス」なのだ。
例えば、テリー・ファンクVSザ・シーク、G・馬場VSアブドーラ・ザ・ブッチャー、A・猪木VSタイガージェットシン。

この嫌な感じの不完全燃焼感、あるいは残尿感。
がっかりさせられると同時に、また見たくなる期待感。
そして、ヒールに対するなんとも言えない愛着感。

人間にとって最も楽しい見世物は他人の感情だが、この社長の判りやすい感情の露出は、我々を必要以上にワクワクさせる。

興味津々の生立ち、成り上がりの軌跡、欲望・業の深さ、抜き差しならない社内関係、謎の明るさ等、社長の存在は、我々に様々な妄想を喚起させるのだ。

だから、吉田社長を好きにならずにはいられない。

まさむね

謝罪に漂うものの哀れ

飛騨牛の等級偽装を内部告発された丸明の吉田明一社長の記者会見がワイドショーで流されている。
この社長、最初は神妙面して「申し訳ありません。」と頭をさげまくっていたのに、会見の後半では、緊張がほぐれたのか、笑顔すら見せ、肝心の質問から逃げ続けた。
各番組ともに同様のコメントをしていたが、現代的に言えば、史上最低の謝罪会見だったよね。

しかし、ミートホープ、船場吉兆、谷本整形、丸明と続く一連のワンマン会社の没落パターンは、なんと類似していることか。
俺的には、かつてのジャイアント馬場の必殺フルコースに捕らえられた悪役レスラーの末路を思い出してしまう。

ワンマン会社の没落パターン
内部告発→責任逃れ→遅すぎた謝罪→隠し事次々露見→業務停止

ジャイアント馬場の必殺フルコース
河津かけ→河津落とし→十六文キック→椰子のみ割り→三十二文ロケット砲

さて、こういった会見を見るといつも思うのは、人は誰しも所属している「身内」、「村」、「世間」と同心円の世界があるけれど、それぞれの場面で相応の態度、言葉、論理を持って接しないと大変な結末を招くんだなぁという事である。
日本がかつて村社会だった頃、所属メンバー(ただし上級メンバー、いわゆる旦那衆)が不祥事を起したときでも、「村」の中では、謝罪で済んだんだと思う。
いわゆるヤクザの手打ちみたいなもんで、細かく説明させなくても、その人が本当に反省していなくても、「あの旦那が頭を下げた(シメシをつけた)んだから」って事をおさめたに違いない。
さらに言えば、「身内」では、謝罪も必要なかったんだろうね。

今回の一連の会見を見ていると社長達は、「村」言葉、態度、論理で、「世間」に対峙しようとしているのが恥ずかしくも、悲しい。
恐らく、長年に渡って、「身内」と「村」にどっぷりつかりきった人達だから、「世間」用の言葉、態度、論理を装備してないんだよ。
「世間」慣れしてない「村」の旦那衆への「世間」の残酷な血祭りとでも言うべきか、そこには、竹槍で戦車に向かっていくような「ものの哀れ」がただようよね。

今から10年位前に、山一證券の社長が倒産会見で「悪いのは社員じゃありません」と泣きじゃくった事があったけど、その頃既に、白けてみていたよね。
「村」の大らかな良さってものもかつてはあったはずなんだけどな。
マスコミというシステムが「村」言葉を許容出来なくなったのは、いつ頃からなんだろうか。風俗史的に興味深い。

まさむね