葵と夕顔

前回、平安時代の相撲会の伝統を踏まえて、瓢箪=夕顔に対抗して、家康が葵紋にこだわったという話をしたが、葵と夕顔と言えば、源氏物語に登場する二人の女性を思い出す方も多いのではないか。

葵の上は源氏の正妻ではあったが、気位が高かったゆえに、源氏からはあまり愛されず、息子の出産時に亡くなってしまう。また、夕顔は源氏お気に入りの気さくな女性だが、源氏と一夜をともにしている間に腹上死してしまう。いずれもの死も、六条の御息所の生霊の仕業というのが因縁めいている。

しかし、この葵の上と夕顔の落とし子(夕顔は源氏の子ではなく、ライバルの頭の中将の子)達はその後の物語の展開で重要な役割を果す。

葵の上と源氏の間に出来た夕霧は、葵の上の遺伝か、源氏の厳しい教育のせいもあってか、わからないが面白味の無い性格として大きくなる。

一方、夕顔の子供、玉蔓は、一時、九州に都落ちするが成人して状況、偶然に源氏の保護・後見を受ける。しかし、その後、源氏はこの玉蔓にちょっかいを出そうとするが、結局は相手にされなかったという、光源氏の一連の恋物語の中では最も寂しいオチを迎えるのでした。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(2)

前回、豊臣秀吉の紋所が桐紋との話をしたが、秀吉の象徴として瓢箪を思い浮かべる人も多いだろう。

これは、家紋というよりも戦場での馬印に使われたようだ。戦に勝つたびにその瓢箪が増えていったとの伝説(千成瓢箪伝説)もあるが真偽はわからない。しかし、当時、秀吉といえば、瓢箪というイメージは一般に共有されていた。

一方、家康は当時の武家にはめずらしく教養のある人で、幼少の頃から様々な古典文学に慣れ親しんでいたという。

それを考慮に入れると家康が東国の王として桐紋を拒否し続け、葵紋にこだわった理由が見えてくる。秀吉の生前、主に西日本は秀吉の勢力下だったが、その象徴の瓢箪(=その花は夕顔)に対抗する理由から、家康は、葵にこだわったのではないか。

というのも、平安時代の宮中で、に七夕に行われた相撲会では、古来より、西からの力士は夕顔を、東からの力士は葵を髪かざりとして土俵に上がっていたという。(ちなみに、花道という言葉の由来はここから出ている。)

そんな故事が、葵紋にこだわった家康の頭をかすめていたというのが、俺の想像だよ。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(1)

徳川家の家紋はご存知、葵である。

NHKの大河ドラマ「篤姫」では薩摩の島津家の分家から将軍の御台所まで上り詰める話であるが、その島津家の本貫は宮崎だったとの説もある。その昔、源頼朝から地頭として派遣された惟宗忠久が、宮崎県都城市あたりの「島津荘」を領地としたのが島津家の始まりというのだ。(ちなみに、この忠久は頼朝のご落胤との噂もある)

だとすると、宮崎から出てきて、徳川家に入り葵紋をつけたという意味で、篤姫に、宮崎あおい(葵)が抜擢された深層が見えてこようというものだ。まぁいつもながら、かなり苦しい説だが...

さて、この徳川政権の基礎を築いた徳川家康は、朝廷からの懐柔策見え見えの桐紋下賜を、何度も断り続けたという。
織田信長、豊臣秀吉はそういうことはなかった。彼らはもらえるものはもらう、利用できるものは利用するのだ。
例えば、愛知県長興寺にある信長の肖像の紋は、織田木瓜でも、揚羽蝶でも無い。正親町天皇から下賜された五三の桐紋だ。

また、秀吉は晩年にすべての自分関連グッズ(身の回りの小物、着物等)にいわゆる太閤桐という独自紋をつけている。成り上がりはいつの世もブランドを志向するということだろうか。

しかし、その後、この桐紋は最も正統な紋所として、脈々と受け継がれ、特に西日本の家の多くが桐を家紋としている。
そして、現在は、日本政府の象徴にもなっている。

木村拓也主演の「CHANGE」の冒頭では、この桐紋(五七の桐)がCHANGEというロゴにモーフィングするシーンが放送されているが、それを見るたび、桐紋の歴史が脳裏をよぎるのであった。

つづく

まさむね