佐山とボスマン

鮫肌っていう名前はやっぱりインパクト強いですよね。僕はえんぴつ大賞の件は、中島らもとの対談で知った。びっくりハウスは読んでいたけど、投稿者の名前までは覚えていなかった。

ところで、先日、現役のプロレスファンの方々と話す機会があって大変楽しかった。
彼らの関心はやはりプロレスから少しづつ格闘技にシフトしているようだ。
その中の一人が言った。「何十年後にいまの時代を振り返った時に残っているのは前田じゃなくて佐山だと思う。」
格闘技史の中で佐山は常に時代の先端を走りつづけているというのだ。UWF→シューティング→バーリトゥードそして、新しい格闘技「掣圏道」にたどり着いた佐山。
今度の格闘技はその胴着が背広に近いそうだ。しかも、対戦も必ずしも1対1ではないという。
ようするに、街の喧嘩により近くなったということらしい。必然的に一人の相手に時間をかけて関節を極めるということがナンセンスになる世界ということだ。
僕はその話を聞いて、すぐに「じゃあその先にはビッグボスマンがいるんですね。」と言ったのだが、その場を白けさせただけだった。
ビッグボスマンは、ニューヨークのWWFというエンターテインメント主流のプロレス団体のスター選手だったレスラーで、ニューヨークの監獄の監守の格好をしている。
佐山の変遷は実は常に新しいリアリティへの模索だ。その模索の果てに、全く別の方向からやってきたビッグボスマンが待っていたという話に僕はロマンを感じるのだが。

まさむね

振り出しに戻るって感じでいいすね

16日本日昼間サーバーが動かずブラウザーでご覧いただけず、すいませんでした。時々不調になりますので、時間をおいて見てみてください。
それからコーナー名が往復書簡から毎日コメントという名前に変わりました。

で、ビッグボスマンが待っていたという話は結局は振り出しに戻るって感じでいいですね。
原罪というか、出自には逆らえないって感じでしょうか。

大陸から流れて来たのか、支配しにきたのか、の末裔たちが出自たる大陸を制覇しに行くという倒錯したシチュエーションを思い出しました。プロレスでいうケーフェイが明治憲法なのかもしれませんね。

あ、昔聞いた、半島出身の力道山が沖縄の空手チョップで日本人代表としてアメリカ人レスラーを倒すという構図も倒錯してますもんね。この場合は国技の相撲出身というのが要な訳でしょうか

ところざわ

相撲について

相撲の件に関しては、八百長だという話はかなり前からあったわけだし、事実としては、我々もすでにそれを、前提として相撲を見ていたわけですよね。
僕はそれほど相撲通じゃないけど、もしも、本物の通だったら、「今のあの寄りの筋肉の動きは怪しい」とか「今のみたかよ。ガチンコはやっぱり迫力あるねぇ」みたいに、本物と偽物とを見分けながら、時に協会や部屋筋からの情報もからめながら、「○○部屋がタニマチから融資してもらったからな」とか言って楽しんでみてるんじゃないかな。
問題は、今回の騒動が外人記者クラブだからこそ発生したという事ですよね。相撲協会が外圧からどう話をそらして、丸く治めるのか。その手腕が楽しみですな。
元々、相撲というのは、柔道や空手と違って、見世物とか神事から発生したわけです。村々のお祭りの時に、ある一方が勝てば来年は豊作とか言って、かならず豊作の方が勝つような疑問の無い八百長をしていたんですね。
一方、興行という視点で見れば江戸の勧進相撲っていうのは、力士はかならずお抱えの大名なりがいて、そういう人が見に来たとき、どうなるかっていうのは、今の地方巡業を見ればわかりますよね。また、それと同時に10歳位で、物凄く太った子供とかを土俵に上げて、みんなで見て楽しんだみたいな記録も残っている。ようするに見世物ですよね。
で、それに対して、いろいろと文句を言うような野暮はいなかったはずです。そういったのどかな相撲文化が明治以降、戦意高揚のための道具になったり、国家的神事に昇格したり、戦後、スポーツになったり、NHK用に時間制限とかできたりと、いろいろとあったわけです。ちょんまげ結ってるから、あれが江戸時代からずっと同じ形式を保っているというのは錯覚です。それはたとえば、江戸時代から寿司には軍艦巻きがあったという勘違いするのと同じようなものですね。
だから、これからも相撲はどんどん変わって行く。おそらくオリンピック競技種目を目指すような方向も強くなっていくんでしょう。まぁ、格闘技のルールとしては、場所から出たら、それで負けみたいなユニークなところもありますよね。またレフェリー=行司が「取り直し」っていう最終決定があるにもかかわらず、それを言う権利が無い、現場審判の立場があまりにも弱い競技っていうのも極めてユニークですよね。
まぁ、そういう風にいろんな風に思いを巡らす事の出来るジャンルっていうのも貴重なのではないでしょうか。

まさむね。

相撲の八百長

外人記者クラブで話題になったけど、新聞は各社取り上げているけど、テレビはフジだけなのかな。協会に楯突くと取り組みのビデオが放送できないからね。
スポーツ全般なんでみんな神聖視するのかな、オリンピックにしろサッカーにしろみんなドロドロなのにね、
その点、プロレスはもうそんな次元は超越しているからね。スポーツは程度低いよって感じです
プロ野球は、ダイエーとオリックスのスカウト自殺絡み遺恨からスパイの暴露とかになってダイエーと王の立場を守るためにリーグ一丸となってダイエーを優勝させて一安心だし、サッカーもワールドカップ出場決定戦は韓国に金払って試合買ってるしね。
「健全な体に健全な魂が云々」の箴言は文末は「魂が宿ればいいけどそうならない」というのがホントらしいね。
まあ、テレビやマスコミは神聖視してドラマに仕立てないと盛り上がらないからショーがないよね。

ところざわ

オブライトは手塚マンガチックな肉体でしたね

過去の一本木の中にオブライトの全日移籍に関するものがあって読み返してみて懐かしかったです
馬場さんの、そいつはレスリングができるのか発言が最高でした
文章はどんなものでも書き溜めて量があると、それだけで価値ありますね。この往復書簡もできるだけ長く続けましょう。

ところざわ

オブライトの死に馬場さんを思い出す

プロレスラーのゲーリーオブライトが亡くなったそうだ。昨年の12月に世界最強タッグリーグ戦に出ていたのに、あまりにも突然の死であった。
そういえば、馬場もアンドレも大熊もこの1月に亡くなっている。全日本の選手にとって1月というのは死の月なのだろうか。もともと全日本プロレスは現役レスラーが死ぬとそれらのレスラーの回忌を毎年行っている。供養としての興行というのを一つの特徴にしてきたのだが、それに新たな命日が加わったということだ。
さて、馬場さんも亡くなって早くも一年が経とうとしている。晩年の馬場さんはそのリング上の動きに農耕民族的な日本人の原風景を思わせる動きを映し出していた。さらにその動きは他のレスラーの洗練されたプロレスラーとしての動きに独自の老いの美学を付加した、滑稽且つ奥深い世界をかもしだしていた。
ちょうど日本舞踊が見立てで成り立っている事、そして老いを排除しない事の2つで西洋舞踊と対峙しているのとパラレルな関係で馬場さんのプロレスは他の人のプロレスに対して独自性を保っていたのだった。
しかも、プロレスラーにとって最も大事な事はプロレスの技を見せる事ではなく、肉体の存在感を見せる事だという独自の哲学そのままに、その異様な姿は他の追随を許さないものがあった。もちろん、その伝統はあらゆる肉体のバラエティを誇る全日本プロレスに息づいているわけである。
馬場さんが亡くなってプロレスファンを辞めた私であるが、どうしても馬場さんの事になると饒舌になってしまう。オブライトの死をきっかけにまた馬場さんを思い出してしまった。

まさむね。

プロレスは今年もプロレス

プロレスラーがバラエティに出ない事、それ自体は
確かに淋しい事。でもなんかのついでに出てもらってもそれはそれで、他のジャンルと比べられているような感じがしてよろしくない。
いつか、筋肉番付に全日本の川田が出ていて、かなり期待していたのでに全くダメでした。大きな俵みたいなのを投げるヤツとか。
プロレスというジャンルがいかにイメージに依存しているのかがわかります。その昔、ジャイアント馬場が医者に「運動不足ですね。」と言われたという笑い話がありましたが、自分が癌なのも知らずに戦っていたというオチは、いろんな事を考えさせられます。
ところで、今年のお正月は松坂ばかり出ていましたね。
当たり前の事ですが、彼はユニフォームを脱げば普通の19才なわけですから、あまり期待しちゃいけないのですが、何のハプニングもなく、彼が何もしゃべれないという事のみを表現する結果となりました。平和です。
一方、1・4の東京ドームでの小川VS橋本のタッグ戦。
混沌のうちに橋本優勢の結末。4月の再戦の予告編のようなものでしたね。小川の元気の無さが気になりました。あれで観客は満足したのでしょうか。
まぁ、満足したかどうかが気になるという事自体が
反スポーツ的なのですが、スポーツじゃないんだからしかたないか。

お正月のテレビ

あんまりテレビ見なかったんだけど
一昔に比べてプロレスラーがお正月特番に
出ること少なくなったね
いくらマイクパフォーマンスが
主流になっても、プロレスの文脈が通じるリング以外じゃ
お笑いの人に比べれば喋れないもんなあ
体使う番組も跳び箱とか
技術的に本格的なの増えちゃうと
入り込めないもんね

深夜K-1みたけど、体大きいとみごたえあるね
編集してあるんでなんともいえないけど
短時間で一試合が終わるのもいいです

ところざわ

K-1

プロレスは我々というか
子供時代や学生時代に黄金期でしたらね対立する二つの軸が存在するというのは盛り上がる為のセオリーなのかも知れませんね

K-1は盛り上がっているし認知度も高いけど寄りから門外漢まで認知しているわけじゃありませんからね。
ただ、2軸が存在しなくなって、はじけてからは各々の団体や軸よりはKー1の方がよりメジャーなのかもしれません。

式典や賞関係も、逆に世間の風向きを見て
流れにのっかることで、自分達もその威光を高めようとしますからね。
そい売った意味ではプロレスよりはK-1 なのかもしれませんね
ボクシングも最近はやっていませんもん

ところざわ

石井館長の思い出

K1がはじまる前にたまたま石井館長と食事を
する機会があった。彼を含めて3人での会食
だったが、彼はその時、ラーメン屋でやたらに、
料理を注文し、10品位、テーブルに並べて
そして当然のように残した。

その豪快さ(非日常性)に触れたとき、
あぁ成功する人ってこういう人なんだろうな
と思った。彼はその時、格闘技もプロレス
のように見世物(ショー)として成立する
はずであり、そのためには最初の10分間
くらいはナァナァでやって、その後、10分経過
のアナウンスを合図に真剣勝負をすれば
いいのではないかと、語っていた。

今、K1を前にして僕はその言葉がずっと頭
から離れない。だから、K1を見るときのポイント
はその合図がどのタイミングなのか。いつ、戦い
のモードが変わったのかという事を見抜く事
になってしまった。

まぁと言ってもテレビでしか、しかも偶然で
しか見ないんだけどね。

突然の話だが、田無に引っ越す事になった。
今月の28日である。
GAGAへ行くため、やって来た恵比寿には、
6年位いたが、ここで一度、引きこもることに
なり、少しは残念であり、少しはほっとして
いる。本も大量に処分しようと思っている。
プロレス関連の本はすべてヴァリスに譲ろうと
思う。僕にとって、今年はプロレス最終年に
しようと思う。
さて、本棚を整理していて、思ったことは、
自分がいかに偏った本の趣味をしているかと
いうこと。そして一方、確実に流行に影響され
ているということだった。
主な著者はこんなところだった。

柄谷行人、蓮実重彦、三浦雅士、井沢元彦
網野善彦、赤坂憲雄、司馬遼太郎、宮台真司
橋本治、岡田斗志夫

まさむね