大相撲、その”粋”の危機

「週刊現代」の八百長疑惑記事をめぐって、大相撲協会が提訴し、横綱・朝青龍が出廷した。

信じがたい事だ。
土俵の上での勝負が真剣だったのかどうかという事を法廷で決めてもらうなんて、大相撲も堕ちたものだ。

確かに、大相撲と八百長は切っても切れない縁だ。
ただ、それはだから大相撲はインチキだという事ではない。
どれが”実”で、どれが”虚”かを妄想をめぐらせてあれこれ詮索する。これぞ”通”の楽しみというものではないだろうか。

また一方、先場所、立会いに両手をつくという基本動作が、再度、厳格化され、おかげで多くの力士が戸惑ったという出来事があった。
朝青龍は、この立会いの厳格化のせいで調子を崩したとも言われている。

大相撲って伝統の国技だったんじゃないの?立会いっていう基本的な部分のルールが未だに曖昧って、なんという大らかさなのだろうか。

恐らく、これらの大相撲的大らかさを、そのものとして楽しめる”通”の振る舞いを”粋”という。
なんでも、わかりやすく、明確にしたいという子供っぽい態度を”野暮”という。

八百長問題、ルール問題、男女差別問題、理事会問題、暴力問題、それぞれの問題は、各個にどんどん野暮な方向に進んでいるような気がする。

気が付いてみたら、大相撲がただのスポーツになっていたなんてゴメンだ。

まさむね

大麻ってそんなに悪いの?

大相撲の大麻問題が連日報道されている。
僕は、この種の事件が起きるたびに、大麻を絶対的な悪として無批判に報道するマスコミの姿勢に、いつも違和感を感じさせられる。

60年代には、厚生省に大麻の取材をしに行った平凡パンチの記者が、担当役人から「これですよ。吸ってみますか?」とハシシタバコを勧められたという伝説が残っている。
また、70年代には、例えば、吉本隆明あたりは「宝島」誌上で、「ジャーナリストたる者、大麻を自分で吸ってみる程度の好奇心が無くてはいかん。」みたいな事を、堂々と書いていたよね。
最近のマスコミ連中は、そのあたりの事、どう考えているんだろうか?

言うまでも無い事なんだけど、大麻が悪っていう観念自体、歴史的に形成されてきたということ。
そもそも、大麻取締法は、戦後、GHQがいつの間にか導入した法律である。戦前は大麻吸引は、法律的には全く問題なかったんだ。明治天皇の御墨付がある植物の研究書に、大麻の活用例として、その吸引方法も紹介されていたっていう話もあるよね。
実際、大麻には常習性は無いし、悪酔いも無い。酒やタバコに比べればよっぽど体にいいっていう医学の報告もされているのは常識だ。

しかし、不思議な事に、日本人は、歴史的に大麻吸引を生活に関わらせてこなかったんだよね。
例えば、インドネシア等で祭りの時に大麻吸引が公に行われていたような形で、日本には大麻吸引の記憶、または記録は無いんだ。
ただ、山に柴を刈りに行った男達がラリって帰ってくる現象を「樵酔い」っていう隠語で伝えている地方もあるそうだ。知る人ぞ知るという秘め事だったんだろうね。

一方、神道では、大麻は神聖は植物として扱われる事もしばしばだ。天岩戸伝説でも、榊と大麻というのは、岩戸の前に飾られる。伊勢神宮への奉納品にも大麻は入っている。
また、大相撲でも初日の前日に行われる「神迎え」の儀式(土俵祭)にも大麻は使われているんだよね。

大麻検査で陽性が出ただけで、見せしめ的に協会から解雇された露鵬、白露山は、その不当さを提訴するんだろうか?
最終的な判決はどう出るんだろうか。
今後、興味深く見守っていきたい。

まさむね

ロシアン力士が持っていた可能性

これは僕の持論なのだが、大相撲は約10年毎にそのスタイルを微妙に進化させる。

70年代、輪島が相撲の稽古にランニングを取り入れ、近代相撲が始まる。
80年代、千代の富士によって、筋肉相撲が全盛となる。
90年代、大型のハワイ系関取の登場で、体格相撲、全盛となる。
00年代、モンゴル相撲の多彩な投げ技、足技、スピードが、朝青龍達によって導入される。

そして、次の時代の可能性だが、僕はロシアン力士のユニークな相撲スタイルに密かに期待を寄せていたのだ。

ロシアン力士達のユニークさは、”叩きこみ率”が異常に高い事である。
大相撲協会の公式サイトの決まり手ランキングによると、若ノ鵬は27%、露鵬は24%、そして白露山に至っては31%の”叩きこみ率”を誇っている。
恐らく、それは、彼らがレスリングという相撲とは全く別の格闘技のベースを持っているという技術的特質と、手足が長く懐が深いという肉体的特質によっているのではないか。

彼らの技術がさらに磨かれていけば、その先に相撲の新しい可能性があったかもしれないと、僕は考えていたのだ。
しかし、残念なことに、今回の大麻事件で、その可能性の萌芽が摘まれてしまった。

ここからは、妄想。

大相撲は、昔から”寄り切り”や”押し出し”等、前に出て勝つ相撲こそが正しい相撲であるというイデオロギー(美学)が圧倒的に強い。
それゆえ”叩きこみ”は嫌悪されてきた。
しかし、ロシアン力士達は、その美学をどうしても受け入れられない。相撲をスポーツとしてしか捉えられない彼らには、”叩きこみ”が何故、問題なのかが理解できない。
スポーツなんだから、ルールの範囲内で、勝つのは当然ではないかと彼らは考える。ある意味、当然の事だ。

そんな兆候に対して、大相撲の美学の崩壊を懸念した協会は、彼らをひっかける。それが、大麻事件だ。

どうでしょう...有り得ないか。

まさむね

内柴正人が見せた武士道精神

今回の五輪の柔道は、前回に比べるとメダルが取れなかった。
その理由として、国際化した柔道が、一本を取る柔道から、ポイントを稼ぐJUDOに変ったからという説明がなされていた。
今後、日本柔道界は、心中覚悟で美学を貫くのか、時代の流れに対応して勝利を目指すのか。興味深いところだ。

さて、今回の五輪で最も印象的だったのが、66kg級で金メダルを奪取した内柴選手が決勝戦で、縦四方固めでフランスのダルベレ選手を破った瞬間だ。

彼は、喜びを表現する前に、相手の怪我を気遣い、そして相手の心情を忖度して、畳上ではガッツポーズをしなかった。
テレビの報道では、畳から降りた後のガッツポーズと、その後の「ひかる ひかる」という息子への叫びが何度も流されたが、僕的には、この畳上での立ち振る舞いの方が印象に残っている。

これは、まさに、「惻隠の情」という武士道精神が、国際舞台で表現された瞬間だったのではないか。

新渡戸稲造は「武士道」の中で「惻隠の情」というものを最高の美徳としているが、惻隠の情とは、簡単に言えば敗者への思いやりのことだ。
大相撲でも勝った後に土俵上では喜びを表さないが、それも同じ思想から来ている。

恐らく、起源は、敗者からの怨念を受けないための所作なのであろう。
日本人の心の中に潜む宗教観がこんなところにも現れているのだ。

まさむね

グルジア紛争と大相撲

北京五輪開会式と同じ日、グルジアは国内の南オセチアに軍事行動を起した。
そして、それに対抗する形で、ロシアがグルジア国内に侵攻した。いわゆるグルジア紛争が勃発したである。

この戦争の本質的なところには、アメリカとロシアの間での覇権争い、エネルギー争奪戦があると言われている。
不謹慎のようだが、僕は、とっさに、秋場所でのロシアン力士(若ノ鵬、露鵬、白露山、阿覧)とグルジアン力士(栃ノ心、黒海)との対戦(代理戦争)が楽しみになったなぁとワクワクしてしまった。僕の中には、俗っぽいプロレス体質がまだ残っているのだ。

ところが、こともあろうに、その後、若ノ鵬、露鵬、白露山がいわゆる大麻問題で続々と解雇されてしまった。
僕の夢は、しばらくお預けになってしまったのだ。(阿覧はまだ新十両のため)誠に残念だ。

そして、ここからは、妄想。

しかし、この大麻事件、意外な事実が出てきた。
露鵬、白露山がロサンゼルス巡業の際にアメリカ人から大麻から勧められて、思わず手を出してしまったというのだ。

それは、軍事同盟国である日本のロシアに対する心証を悪化させることを画策したCIAが、ロシアン力士に大麻(体内に残存しやすく改良された品種の)を吸わせ、ロシアがグルジアに攻め込んだタイミングで、日本で大麻事件を起したのではないだろうか?

どうでしょう...有り得ないか。

まさむね

大相撲、この愛すべき見世物の伝統

大相撲.名古屋場所、琴欧洲の横綱昇進も無くなり、ほぼ、白鵬の優勝が決まってしまった。場所前の稽古で朝青龍に5連勝したという琴光喜に期待したが、大爆発とはいかなかった。

一方で、現在幕下筆頭の山本山という力士の調子がいい。恐らく、来場所は十両昇進するには間違いない。期待大だ。
さて、この山本山、どこが期待大かといえば、とにかく体が大きいのだ。体重が230Kgもあるのだ。

元々、大相撲の起源は、相撲を見せる勝負事というよりも、力士のふくよかな肉体を見せる事がメインの見世物だった。
そして、恐らく、そのふくよかな肉体を見せながら、格闘技として興行として成立させるために、丸い土俵を発明したのだ。
およそ、世界中に格闘技で、戦闘エリアから外に出た瞬間に負け、というのは相撲だけである。
柔道、空手、レスリング、ボクシング、シムル、サンボ、カポエラ…どんな格闘技だって、エリアから出たらやり直しである。
ところが、大相撲は、土俵(というルール)を考え出す事によって、極めてユニークな格闘技になった。
これで、”ふくよかな肉体”と”格闘技”という本来、矛盾するものが融合したのだから、土俵というルールを考え出した人は天才である。

さて、極論するならば、日本人は、異界からやって来るふくよかな肉体に幸せを感じ、憧れ続けた歴史を持っている。
古くは達磨さん、布袋、恵比寿から、最近ではビリケン、ドラエモン、トトロから江原さんまで…

最近、外国人力士の増加をいぶかる声もあるが、僕はそうは思わない。
彼らの肉体を見ることこそ、日本の見世物の伝統に沿っているからだ。

大相撲は続いていく。大丈夫だ。

まさむね

大相撲のしごき問題に関して

大相撲.名古屋場所は7日目を終えた。
朝青龍の途中休場、琴欧洲の不振もあり、戦前の興味はかなりそがれたが、後半は、白鵬を追う形となった1敗の安馬、琴光喜の両脇役の活躍を期待したい。

さて、今回は、大相撲のいわゆる「しごき問題」に関して。

僕らの世代のイメージでは、大相撲といえば、厳しさの象徴だった。そして、その厳しさには当然のように竹刀やゲンコツでのしごきも入っていたように思う。
「無理ヘンにゲンコツと書いて、兄弟子と読む」みたいな相撲格言が我々の耳にも自然と、しかし確かに届いていた。

それが平成のここに来て、「しごき問題」だ。勿論、そのしごきが度を越して弟子を死なすというのは論外だが、相撲社会が一般社会と同じ価値観で運営されるようになる事を誰が望んでいるのか。その根本的なところももう一度再考してらいたい。

己の巨体を、自分も、そして家族も持て余した少年が、偶然に親方の目に止まり、「メシは腹一杯食わせてやる」的に半分、騙されて一人で上京し、中卒だから、大きすぎるからと他に行くところもなく、それゆえに不条理なしごきに耐え、一人前の関取になって、巨額の富を築いていく。
そういった、どこかうら寂しくも理想的な物語を背中に貼り付けているからこそ、相撲は残酷な視線を持つ大衆に支持されてきたのではなかったのか。

インターネットかなんかで新弟子が公募され、科学的なトレーニングをして、民主的に運営される相撲部屋から出た力士が、見世物としての物語性を身にまとう事など可能なのであろうか。
相撲界に対して思いやりのかけらもないような、世間の表面的な建前論にあらゆる場面で土俵際まで追い詰められた相撲界は今後、どうなっていくのであろうか。

角界の内情を少しでも知っている自称相撲通(会友)の方々には、こういう時こそ、世間側に擦り寄らずに「しごきなど当然です。だって、相撲ですから。」という、あたり前の論陣を張ってもらいたい。

やくさん、デイモンさん、杉山さん、あなた達のことですよ。

まさむね

プロレスの敵はナベツネだ!

山本モナと巨人の二岡との不倫疑惑に関して、また、ナベツネ(読売新聞グループ渡辺会長)吠えたという。

「君らだってやってんだろ。同じようなもんじゃねえか」

いつもの事ながら、その乱暴な言動には笑わせられる。
独り言とコメントの区別つけないのかね。この人。
ある意味、名人芸だね。
恐らく、この人、元々は普通だったんだろうけど、周りの茶坊主連中の怯えとチヤホヤがこの芸風を徐々に成長させていったんだろうな。
別な意味で、かわいそうな人だ。

去年、小沢と福田との大連立の話になったとき、ナベツネは仕掛人だと言われたが、この暗躍をあの中曽根も評した。

「政治家を動かすということを主筆はやっていいんですよ。それが天下を動かすジャーナリストの力」

元総理をも茶坊主化させるナベツネの存在感は稀代のヒールとでも言うべきか。

さて、その他、ヒールと言えば、例えば、麻原や金正日は勿論の事、薬害エイズ問題の故・安部英(帝京大学副学長)、肉体派ヒールの亀田史郎(父)を思い浮かべる人も多いだろう。

90年後半以降のプロレス界の衰退の背景には、現実世界でのヒールの台頭があった。
プロレス界の真の敵はK-1ではない。ナベツネだ。

まさむね

プロレスとしての丸明

丸明の吉田社長の事が実は好きだ。

おとといの「謝罪に漂うものの哀れ」で思わず、あの謝罪会見をプロレス的なアナロジーで語ってしまったが、よく考えたら、あの社長が醸し出す匂いは昭和プロレスのヒールのそれと酷似していることに気付いた。

最初に報道された従業員との口論。社長は従業員達の前で偽装の指示を喧嘩腰で否定する。
吉田社長の鮮烈なデビューだ。

次は、ただ「申し訳ありませんでした」とだけ言って逃げたわずか40秒の記者会見。
やりたい事だけやって帰っていくヒールの姿だ。
我々の興味をしっかりと次に繋ぐ。

そして、例の記者会見。
前半は下を向いての欺瞞謝罪。
中盤は笑顔での饒舌。
最後は決着をつけないまま、場外逃亡。

この展開がまさしく「昭和プロレス」なのだ。
例えば、テリー・ファンクVSザ・シーク、G・馬場VSアブドーラ・ザ・ブッチャー、A・猪木VSタイガージェットシン。

この嫌な感じの不完全燃焼感、あるいは残尿感。
がっかりさせられると同時に、また見たくなる期待感。
そして、ヒールに対するなんとも言えない愛着感。

人間にとって最も楽しい見世物は他人の感情だが、この社長の判りやすい感情の露出は、我々を必要以上にワクワクさせる。

興味津々の生立ち、成り上がりの軌跡、欲望・業の深さ、抜き差しならない社内関係、謎の明るさ等、社長の存在は、我々に様々な妄想を喚起させるのだ。

だから、吉田社長を好きにならずにはいられない。

まさむね

横綱同士の一触即発に思う

昨日の大相撲夏場所千秋楽、結びの一番終了直後にで起きた横綱同士の一触即発状態。

北の湖理事長は「朝青龍のダメ押しについては勢いというものがある。しかし、白鵬の行為はいただけない。横綱は、どんなことがあってもカーッとなってはいけない」とコメントし、各方面から、悪いのは朝青龍だろうとか、喧嘩両成敗的な批判が相次いだ。

北の湖理事長の真意について、夏のモンゴル巡業を控えた政治的な意図を詮索する向きもあるようだが、俺は理事長の見解には納得出来る。
思い出してみれば、現役時代の北の湖は、土俵に転がした相手や土俵の外に突き出した相手に対して、決して助けの手を差し伸べなかった。その態度が当時から傲慢とか、ぶっきらぼうとか言われたものだが、そこには、確実に「くやしかったら立ち上がって来い」的な哲学があった。

正直言って、当時は、北の湖ファンだったからよく覚えているんだよね、俺。

だから、そんな北の湖の哲学からすれば、朝青龍のダメ押しが流れの中での出来事と見えるということは十分ありえたのではないだろうかと思うわけです。

まさむね