菊紋 -後鳥羽上天皇の意地が生み出した優美な紋- 西郷隆盛、夏目漱石、野口雨情...

天皇家が菊紋を使用し始めたのは、後鳥羽上皇の頃からだといわれている。

後鳥羽天皇(後の上皇)は、平氏が持ち去ったため、三種の神器が無い状態で即位せざるを得なかった。
後に、神器のうち、勾玉と鏡は戻ったが、本物の剣は壇ノ浦に沈み、戻ることは無かったのである。

しかし、剣の無い天皇は、刀を打つ事を好み、自分専用の鍛冶場を庭に創らせたという。
さらに、力で幕府を倒そうと承久の変を起こしたが、失敗し、隠岐に流され、その地で崩御。

おそらく、天皇の刀へのこだわりは、剣無しで即位した自分の正当性に対するコンプレックスへの補償行為だったのではないだろうか。

そして、天皇は、自分の刀に優美な菊の紋章を入れた。
台頭する武家文化に対抗べく王朝文化の最後の維持をこの紋章に込めたのである。

その後、この菊紋は天皇を象徴する紋となる。
江戸の時代こそ、一般庶民にも広まったこの紋であるが、明治になると国家主義とも結びつき、権威を持った。

比較的多い地域は東京都(24位)、宮崎県(25位)、愛知県(27位)、北海道(28位)。茨城県、福井県、滋賀県、京都府、兵庫県、広島県、福岡県で29位。

さて、菊紋を用いた有名人であるが、以下の通りである。


楠木正成。1294年 – 1336年7月4日、南北朝時代の河内の武将。
河内国石川郡出身。伊予橘氏の橘遠保の末裔。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍するが湊川の戦で敗れ自害。明治以降大楠公と称される。後醍醐天皇から下賜された菊紋を菊水紋として使用。画像は楠木家の菩提寺・楠妣庵観音寺の菊水紋。


由井正雪。1605年 – 1651年9月10日、軍学者。
静岡県清水区由比町の紺屋の子として生まれるが、江戸へ奉公に出て楠木正成の子孫の軍学者・楠木正辰の婿養子となる。神田連雀町に軍学塾「張孔堂」を開いた。「慶安の変(由井正雪の乱)」を起こし駿府にて自害。菊水紋は養子先の楠木家の家紋。


得能良介。1825年12月18日 – 1883年12月27日、武士、官僚。
鹿児島の城下新屋敷にて薩摩藩士・得能直助の長男として出生。維新後、大久保利通の推挙によって大蔵大丞兼民部大丞に任じられる。その後、司法大丞、印刷局長、初代大蔵技監等を歴任。家紋は丸に三つ割菊に三の字紋。画像は青山霊園にて撮影。


外島機兵衛。1826年7月5日 – 1868年3月30日、会津藩士。
会津藩士・堀藤左衛門の次男として生まれ、外島家の養子となった。京都守護職に就任した藩主松平容保に従って上洛。鳥羽・伏見の戦いでは兵糧などの調達にあたる。容保に対しては新政府への恭順を説いた。家紋は菊水紋。画像は青山霊園にて撮影。


那珂通高。1827年 – 1879年5月1日、折衷学派儒学者。
盛岡藩藩医江帾道俊の次男。読みは、なかみちたか。戊辰戦争後は奥羽越列藩同盟参加藩の幹部として責任を問われるが、維新後は大蔵省・文部省に出仕して「古事類苑」「小学読本」編纂に携わる。家紋は十六菊に一の字紋。青山霊園にて撮影。


西郷隆盛。1828年1月23日 – 1877年9月24日、藩士、政治家。
薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長子。薩長同盟の成立や王政復古に成功し戊辰戦争を巧みに主導した。大久保利通や長州藩の木戸孝允と並び維新の三傑と称される。家紋は天皇より下賜された抱き菊の葉に菊紋。元の家紋は鷹の羽とも言われる。


木戸孝允。1833年8月11日 – 1877年5月26日、武士・政治家。
長門国萩呉服町萩藩医 和田昌景の長男として出生。桂家の末期養子となる。尊王攘夷派の中心人物。西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑として並び称せられる。桂小五郎時代は丸に三つ星紋。画像は多磨霊園にある類縁・木戸幸一の墓所にて撮影。


松方正義。1835年3月23日 – 1924年7月2日、薩摩藩士、政治家。
薩摩藩出身。松方正恭の四男として出生。第4代、6代内閣総理大臣。日露戦争に関しては積極的に開戦を主張。日本銀行券発行を行ったが深刻なデフレを招き松方デフレと呼ばれた。家紋は抱き菊の葉に抱き茗荷紋。画像は青山霊園にて撮影。


永山武四郎。1837年5月28日 – 1904年5月27日、陸軍軍人。
鹿児島藩士・永山盛広の四男として出生。北海道庁長官となり、北海道の開拓と防衛に情熱を傾け、「屯田兵の父」と呼ばれた。軍人としての最終階級は陸軍中将。家紋は丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋。画像は青山霊園の弟・永山盛輝の墓所にて撮影。


西郷従道。1843年6月1日 – 1902年7月18日、海軍軍人。
薩摩藩鹿児島城下加治屋町出身。読みは、さいごうつぐみち。西郷隆盛の弟だが西南戦争の際、隆盛には加担しなかった。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。最終階級は元帥海軍大将。家紋は三つ寄り菊葉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


高島鞆之助。1844年12月18日 – 1916年1月11日、陸軍軍人。
薩摩藩士高島喜兵衛の四男。読みは、たかしまとものすけ。戊辰戦争、西南戦争に従軍。第1次松方内閣の陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。大阪偕行社附属小学校(現在の追手門学院小学校)を創設した。家紋は抱き鬼柏に剣菊紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


日高壮之丞。1848年4月26日 – 1932年7月24日、海軍軍人。
鹿児島県出身。薩摩藩士・宮内清之進の次男。日高籐左衛門の養子となり家督を相続。NHKドラマ「坂の上の雲」では中尾彬が演じた。最終階級は海軍大将。幾多の軍功によって男爵位を受勲。家紋は割り杏葉菊に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。


益田孝。1848年11月12日 – 1938年12月28日、実業家。
佐渡国出身。明治維新後、世界初の総合商社・三井物産の設立に関わる。草創期の日本経済を動かし三井財閥を支えた。更に日本経済新聞の前身・中外物価新報を創刊。茶人としても著名。家紋は三つ割り菊紋。画像は総持寺にて撮影。


東郷正路。1852年4月19日 – 1906年1月4日、海軍軍人。
福井藩士・東郷晴霞の息子として生まれる。日清戦争時は「鳥海」艦長、「西京丸」艦長を、日露戦争では第6戦隊司令官として出征し、黄海海戦、日本海海戦に参戦し、後に海軍中将となった。家紋は抱き菊の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


青山幸宜。1854年12月9日 – 1930年2月5日、郡上藩青山家11代。
第6代藩主・青山幸哉の長男として生まれる。版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、廃藩置県で免職された。その後は実業家、貴族院議員となって活躍した。市川米庵に書を学び、多くの名筆を残した。家紋は青山紋。菩提寺である梅窓院の墓所にて撮影。


大橋新太郎。1863年9月11日 – 1944年5月5日、出版業者。
越後国長岡出身。博文館創業者大橋佐平の三男。父没後、博文館館主となり、博文館印刷所(現在の共同印刷)、日本書籍株式会社を設立。衆議院議員・貴族院議員もつとめる。家紋は杏葉菊菱紋。画像は護国寺の墓所にて撮影。


夏目漱石。1867年2月9日 – 1916年12月9日、小説家。
江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子として出生。千円札の図柄としても著名。代表作は『坊ちゃん』『我輩は猫である』『こころ』など。家紋は井桁に菊紋とも言われるが雑司が谷霊園には菊菱紋(画像)がある。


尾上梅幸(6代)。1870年11月8日 – 1934年11月8日、役者。
尾張国名古屋出身。父は尾上朝次郎本名は寺島榮之助。屋号は音羽屋。昭和初期を代表する名女形役者。十五代目市村羽左衛門の名相方とうたわれ墓も隣にある。役者としての家紋は重ね扇に抱き柏だが、雑司が谷墓地の墓所の家紋は杏葉菊紋。


伏見宮博恭王。1875年10月16日 – 1946年8月16日、海軍軍人。
伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加。艦長や艦隊司令長官を務めるなど皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富。家紋は伏見宮裏菊紋。画像は青山霊園にて撮影。


野口雨情。1882年5月29日 – 1945年1月27日、童謡・民謡作詞家。
茨城の廻船問屋を営む名家に生れる。実際、野口家は、正成の弟、楠木正季が先祖と伝えられているという。代表作は、『シャボン玉』『こがね虫』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など多数。家紋は菊水紋。画像は小平霊園所に撮影。


小松輝久。1888年8月12日 – 1970年11月5日、華族、海軍軍人。
北白川宮家出身。長兄・恒久王は特に竹田宮家を創設し、自身は臣籍降下し小松侯爵家を創設する。終戦間際まで帝国海軍の軍務に服し、最終階級は海軍中将。戦後は平安神宮宮司を務める。家紋は三つ割菊紋。画像は護国寺にて撮影。


恩地孝四郎。1891年7月2日 – 1955年6月3日、写真家、詩人。
宮内省式部職・恩地轍の四男として東京に生まれる。前衛的な表現方法を好んで用いた芸術家としてあらゆるジャンルで活躍。代表作は自身の詩や版画との組み合わせた写真集『飛行官能』『博物誌』。家紋は楠木氏家臣からの流れで菊水紋。


甲斐庄楠音。1894年12月23日 – 1978年6月16日、日本画家。
甲斐庄氏は楠木正成末裔を自称した旗本の一族。読みは、かいのしょうただおと。大正末期の暗い風潮を象徴するデカダンス画家の代表。代表作『青衣の女』『横櫛』等。溝口映画の風俗考証を行う。家紋は菊水紋。画像は文京区・吉祥寺にて撮影。


笹川良一。1899年5月4日 – 1995年7月18日、政治運動家。
大阪府三島郡豊川村に造り酒屋の長男として出生。衆議院議員、財団法人日本船舶振興会会長、福岡工業大学理事長を務めた。戦後は政財界の黒幕として「日本の首領(ドン)」と呼ばれた。家紋は半菊に一の字紋。顔画像は高見山の引退興行での紋付姿。


中村泰三郎。1912年1月24日 – 2003年5月13日、抜刀家。
山形県上山市出身。実践剣術・戸山流抜刀術を修練し中村流抜刀道を創始。国際居合抜刀道連盟(国際抜刀道連盟の前身)を組織。国際武道院より抜刀道十段を授与される。橋本龍太郎に山岡鉄舟愛刀「左文字」の写しを献上した。家紋は丸に菊水紋。


石井ふく子。1926年9月1日 – 、テレビプロデューサー。
東京都出身。父(養父)は劇団新派の俳優・伊志井寛。TBSのプロデューサーとして「肝っ玉かあさん」「ありがとう」「女と味噌汁」「おんなの家」「渡る世間は鬼ばかり」等を手がける。家紋は菊杏葉紋。谷中・瑞輪寺の伊志井寛の墓にて撮影。


綿貫民輔。1927年4月30日 – 、実業家、政治家。
富山県南砺市出身。父・南佐民は兵庫県淡路島の出身で楠木正成の系譜だが、井波八幡宮の宮司を務める綿貫家の婿養子に入る。自民党の重鎮であったが郵政民営化を巡る党内抗争の結果、離党し国民新党を結成。菊水紋は南家の家紋。

まさむね



雁金紋 -群れ飛ぶ雁に希望を仮託した紋- 柴田勝家、犬養毅、鳩山由紀夫...

群れをなして空を飛ぶ雁の家紋が雁金だ。

鳥に対する人間の願望が家紋として表出したのだと思う。
現代人の発想だと、鳥は自由の象徴ということになるのだが、昔はそうではなかった。

彼岸にいるであろう先祖との使者としての雁、仲良く群れをなす絆の強さの象徴としての雁。
そんなことを考えて家紋として採用したのであろう。

雁金紋で有名なのは、戦国武将の柴田勝家の「二つ雁金」だ。
この家紋の図案は、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した武将・勝家の悲劇を物語っているようにも見えるから不思議だ。

現在の県別分布では、雁金紋の発祥地・長野県と、何故か鹿児島県で比較的多い。
そういえば、梶紋も元々は長野県発祥の紋であるが、鹿児島県にも多い。
長野と鹿児島の間には何か独特の繋がりがあるのであろうか。

さて、雁金紋を持つ有名人は以下だ。


柴田勝家。1522年 – 1583年6月14日、武将・大名。
尾張国愛知郡上社村で土豪階層の家に生まれる。織田信長の家臣として近江、摂津など各地を転戦。長篠の戦いにも参加。信長死後、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ越前北ノ庄にてお市と共に自害。家紋は二つ雁金。画像は勝家の孫・柴田勝重の墓所にて撮影。


平岩親吉。1542年 – 1612年2月1日、武将・大名。
三河国額田郡坂崎村で生まれる。家康の小姓として仕える。小田原征伐に戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。関ヶ原の戦い後甲府6万3,000石を、その後、犬山藩主として12万3,000石を領した。家紋は丸に結び雁金。


肝付直五郎。1835年12月3日 - 1870年8月16日、薩摩藩士。
生家は肝付家。後の小松帯刀。大河ドラマ「篤姫」では瑛太が演じる。この「尻合わせ四つ結び雁金」が家紋。また、別に鶴の丸紋も使用。ちなみに、小松家の養子入ってからの使用家紋は、「抱き鬼梶の葉」(抱き鬼菊の葉とも)。


花房義質。1842年2月10日 – 1917年7月9日、外交官。
岡山藩士で実業家、政治家・花房端連の長男。壬午事変では暴徒に包囲された公使館を脱出して命からがら帰国。事件の損害補償とともに漢城への日本軍駐留を認めさせる。宮内次官、日本赤十字社社長等を歴任。画像は池上本門寺にて撮影。


犬養毅。1855年6月4日- 1932年5月15日、政治家。
備中国賀陽郡庭瀬村で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男。若槻禮次郎内閣が崩壊したため反対党(立憲改進党)の総裁として第29代内閣総理大臣に就任。五一五事件で凶弾に倒れる。家紋は嘴合わせ三つ雁金。画像は青山霊園にて撮影。


高田実。1871年5月8日 – 1916年5月24日、新派俳優。
東京生まれ。川上音二郎一座の「日清戦争」で李鴻章に扮したのが出世役。大阪で成美団を結成。評論「自然主義新演劇を唱ふ」を発表、関西新派の中心俳優として活躍し「新演劇の団十郎」と呼ばれた。家紋は丸に結び雁金紋。画像は金嶺院にて撮影。


寺田寅彦。1878年11月28日 – 1935年12月31日、随筆家。
高知県出身。土佐藩士族・寺田利正の息子。安岡章太郎、別役実とは親戚。夏目漱石の『吾輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデル。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉。家紋は二つ雁金紋。寺田寅彦記念館にて確認。


芦田均。1879年10月1日 – 1941年8月22日、政治家。
芦田家は京都府福知山市の豪農。敗戦直後の日本政治の中心の1人で鳩山一郎を中心とする日本自由党の結成において指導的役割を果たし第47代内閣総理大臣となるが昭和電工事件により総辞職、逮捕される。家紋は桜輪に結び雁金。画像は総持寺にて撮影。


竹田敏彦。1891年7月15日 – 1961年11月15日、小説家。
香川県仲多度郡多度津町生まれ。本名は敏太郎。「大阪毎日新聞」記者をへて新国劇に入り文芸部長を務める。のち小説家として多くを書いた。代表作は「薔薇夫人」「母は強し」。家紋は亀甲に頭合わせ三つ雁金紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


鳩山由紀夫。1947年2月11日 – 、政治家。
東京都小石川出身。父・鳩山一夫は初代自民党総裁、第52・53・54代内閣総理大臣。弟・邦夫は元総務相、文相。自身は民主党代表(第2・7代)、内閣総理大臣(第93代)を歴任。家紋は尻合わせ三つ結び雁金紋。画像は谷中霊園の鳩山家の墓所にて撮影。


陣内栄。大正年間8月1日 – 8月、「サマーウォーズ」登場人物。
戦国時代から続く陣内家の16代目当主。元教師で、教え子には政治家、官僚、地方の実力者なども多く、政財界に幅広い人脈を持つ。一族はもとより、国を動かせるだけの影響力をもっている。吹き替えは富司純子。家紋は右向き結び雁金紋と変り六文銭紋。

参照サイト:家紋の話あれこれ

まさむね



亀甲紋 -北方を守護する玄武の力にあやかった紋- 浅井長政、手塚治虫、羽生善治...

亀甲紋は、北方を守護する玄武(亀)を表象する紋である。

出雲神社、香取神宮の神紋として知られている。
おそらく、元々、出雲大社は大陸(半島)、香取神宮は蝦夷(東北地方)に対する守りという意味があったのであろう。

ただ、この形状自体が美しいデザインのため、企業のマークとしても使用されている。
例えば、醤油でお馴染みのキッコーマンのマーク。
昭和のはじめに創業者の茂木佐平次が、香取神宮の氏子だったことから亀甲紋をマークに、採用したとのことである。

また、商標、後には会社名としても採用した。

また、ビデオレンタルのゲオ。
こちらのマーク、隅立ての3つの正方形のように見えるが、実は、創業者の遠藤結城氏の家紋であった三つ盛り亀甲のイメージをそのマークに込めたとのことである。

全国では20位。特に多い地域は、秋田県(15位)、徳島県(16位)、北海道(17位)、青森県(17位)、愛知県(17位)、佐賀県(17位)、山形県(18位)、島根県(18位)、香川県(18位)、千葉県(19位)といったところか。

さて、この紋を持つ有名人は以下の通り。


浅井長政。1545年 – 1573年9月26日、戦国大名。
浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江観音寺城下に出生。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させる。織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが後に信長と決裂。姉川合戦に敗れ追い詰められ自害し滅亡。家紋は三盛亀甲花菱。


直江兼続。1560年 – 1620年1月23日、戦国時代武将。
戦国から安土桃山時代にかけて上杉家の生存を賭けた戦いと外交に尽力。大河ドラマ「天地人」の主人公。三つ盛り亀甲の中の文様は細い葉説と剣花菱説がある。2009年節分の成田山での豆まきの際、兼続役の妻夫木聡も三つ盛り亀甲の紋付だった。


安松金右衛門。1611年 – 1686年10月24日、武蔵川越藩士、郡代。
本国は河内国、生国は播磨国。安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し,名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。玉川上水・野火止用水の開削を行う。「算術の達人」と称された。家紋は一重亀甲に左三つ巴紋。平林寺の墓所にて撮影。


竹本義太夫。1651年 – 1714年10月18日、浄瑠璃太夫。
摂津国の農家の出身。読みは、たけもとぎだいゆう。大坂道頓堀に竹本座を開設し近松門左衛門・作の『世継曽我』を上演。近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。浄瑠璃の義太夫節の創始者。家紋は竹亀甲に九枚笹。画像は回向院にて撮影。


川路聖謨。1801年6月6日 – 1868年4月7日、旗本、勘定奉行。
豊後国日田出身。読みは、かわじとしあきら。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ小普請組の川路家の養子となる。海防掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺にて撮影。


周布政之助。1823年5月3日 – 1864年10月26日、武士・長州藩士。
長州藩士(大組219石)・周布吉左衛門の五男として生まれる。財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力。禁門の変第一次長州征伐に際して事態の収拾に奔走。家紋は亀甲に久の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。


税所篤。1827年12月22日- 1910年6月21日、武士、官僚。
薩摩藩士・税所篤倫の二男。読みは、さいしょあつし。勘定所郡方に任じられ戊辰戦争では新政府軍の軍事費工面などの財政処理を行う。維新後は、関西の各県令・知事、霧島神社宮司を歴任。家紋は丸に亀甲に唐花紋。画像は青山霊園にて撮影。


米倉一平。1831年 – 1904年6月1日、実業家。
豊後国出身。読みは、よねくらいっぺい。鳥羽・伏見の戦いで功をたてる。第五国立銀行取締役となり米穀市場を開き蠣殻町米商会所をおこし頭取となる。後に米穀取引所理事長などをつとめた。家紋は亀甲に唐花紋。画像は谷中霊園にて撮影。


岡内重俊。1842年5月11日 – 1915年9月20日、司法官。
土佐国土佐郡に藩士岡内清胤の長男として出生。読みは、おかうちしげとし。海援隊に入り秘書役として活躍。維新後、岩倉具視、伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。家紋は丸に亀甲に武田菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


千家尊福。1845年9月7日 – 1918年1月3日、宗教家、政治家。
出雲大社宮司である出雲国造家に生まれ教派神道出雲大社教を創始。貴族院議員、埼玉・静岡県知事、東京府知事、司法大臣を歴任。「年の始めの 例(ためし)とてで」始まる「一月一日」の作詞者。家紋は亀甲に剣花菱紋。青山霊園にて撮影。


原口兼済。1847年4月2日 – 1919年6月18日、陸軍軍人。
森藩士・林寛吾の四男として生まれ同藩士・原口等の養子となる。西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行し樺太全土を占領。貴族院議員も務める。最終階級は陸軍中将。家紋は亀甲に木瓜紋。画像は青山霊園。


寺内正毅。1852年2月24日 – 1919年11月3日、陸軍軍人、政治家。
周防国山口出身。長州藩士宇多田正輔の三男。母方の寺内勘右衛門の養嗣子となる。陸軍大臣、外務大臣、韓国統監、朝鮮総督、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は亀甲に三つ柏紋。


下瀬雅允。1859年7月11日 – 1911年9月6日、発明家、工学博士。
広島市鉄砲町出身。広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男。読みは、しもせまさちか。日露戦争における大戦果の一因とされた下瀬火薬を発明。実験事故で指を失ってもなお研究を続けたという。家紋は一重亀甲に右二つ巴紋。画像は染井霊園にて撮影。


宮武外骨。1867年2月22日 – 1955年7月28日、ジャーナリスト。
讃岐国阿野郡小野村の庄屋宮武家の四男。読みは、みやたけがいこつ。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行い、たびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


山田美妙。1868年8月25日 – 1910年10月24日、小説家・評論家。
神田柳町出身。旧南部藩士・山田吉雄の長男。本名は山田武太郎。読みは、やまだびみょう。言文一致体および新体詩運動の先駆者。尾崎紅葉らとともに硯友社を結成。雑誌『我楽多文庫』を刊行。家紋は丸に三つ割亀甲に花菱紋。画像は染井霊園にて。


岩元禎。1869年6月12日 – 1941年7月14日、哲学者。
鹿児島県出身。士族の長男。読みは、いわもとてい。夏目漱石の『三四郎』の広田先生のモデル。極めて採点が厳しい名物教授として知られた。また、志賀直哉にドイツ語を教えた。主著は『哲学概論』。家紋は亀甲に花菱。画像は総持寺にて撮影。


馬場孤蝶。1869年12月10日 – 1940年6月22日、作家、翻訳家。
高知市出身。本名は勝弥。読みは、ばばこちょう。島崎藤村や北村透谷、上田敏らと雑誌「文学界」を創刊。本邦初訳のトルストイ『戦争と平和』を刊行。代表作は 『明治の東京』 『社会的近代文芸』 等。家紋は違い一重反り亀甲。画像は谷中霊園にて撮影。


畑英太郎。1872年8月28日 – 1930年5月31日、陸軍軍人。
福島県出身。会津藩士・警察官、畑能賢の長男として生れる。軍事課長、航空局次長、軍務局長、陸軍次官、兼軍事調査委員長、第1師団長を歴任。最終階級は陸軍大将。家紋は亀甲に根笹紋。画像は多磨霊園にて撮影。


蒲原有明。1875年3月15日 – 1952年2月3日、詩人。
東京麹町隼町に蒲原忠蔵の息子として出生。本名、隼雄。象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され北原白秋、三木露風らに影響を与えた。家紋は亀甲に梅鉢紋。画像は麻布・賢崇寺にて撮影。


平福百穂。1877年12月28日 – 1933年10月30日、日本画家。
秋田県角館出身。本名は貞蔵。読みは、ひらふくひゃくすい。日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指し自然主義と古典が融合した作品を生み出す。家紋は陰亀甲に隅立て陰四つ目結紋。画像は多磨霊園にて撮影。


冠松次郎。1883年2月4日 – 1970年7月28日、登山家。
東京出身。読みは、かんむりまつじろう。日本アルプスや奥秩父の渓谷の多くを遡行し、優れた記録や紀行文を残した。登山の中に沢登りという日本独自の分野を開く。黒部の父とも呼ばれる。代表作は『黒部渓谷』『剣岳』等。家紋は三つ盛亀甲紋。


山本宣治。1889年5月28日 – 1929年3月5日、政治家。
京都府宇治に料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松の長男。日本共産党系の労農党の京都府連合会委員長。衆議院議員として治安維持法改正などに反対するが、「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。家紋は一重亀甲に右寄り三階松紋。


丸山敏雄。1892年5月5日 – 1951年12月14日、宗教家、教育家。
福岡県豊前市合河町出身。倫理研究所の前身・新世文化研究所を設立し、社会教育、研究、文化、出版等の事業を行なう。後に、日本全国に50,000社を擁する倫理研究所として発展させる。家紋は一重亀甲に左寄り三階松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


中川一政。1893年2月14日 – 1991年2月5日、洋画家、美術家。
東京本郷に生まれ、岸田劉生に見出されて画家を志す。多彩な作品を制作し、全てが独学であり自ら「在野派」と称した。妻は千田是也の姉の暢子。次男・は映画監督中川晴之助。孫に女優の中川安奈。家紋は亀甲に花菱紋。雑司が谷霊園にて撮影。


甲賀三郎。1893年10月5日 – 1945年2月14日、推理作家。
滋賀県蒲生郡日野町出身。生家は、甲賀郡水口藩の藩士であった井崎家。本名は春田能為。読みは、こうがさぶろう。江戸川乱歩と並び本格派の探偵小説に取り組んだ。代表作は「琥珀のパイプ」「支倉事件」など。家紋は一重亀甲に立ち沢瀉紋。


玉川勝太郎(2代)。1896年5月1日 – 1969年8月13日、浪曲師。
東京牛込区の生まれ。本名は石渡金久。17歳で初代に入門。師匠譲りの関東節任侠物を磨き上げ、『清水次郎長伝』『国定忠治』などを十八番にした。弟子には玉川良一、玉川ゆたか等がいる。家紋は三つ盛亀甲紋。画像は寛永寺第二霊園にて撮影。


小林多喜二。1903年10月13日 – 1933年2月20日、作家・小説家。
秋田県北秋田郡下川沿村生まれ。4歳の時に北海道・小樽に移住。伯父からの学資を受け小樽高等商業学校へ進学。『蟹工船』を発表し一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集める。非合法の日本共産党に入党。治安維持法違反容疑で逮捕され獄死。


塚本憲甫。1904年9月16日 – 1974年6月7日、医学者。
東京府生まれ。ノンフィクションライターの塚本哲也は長女ルリ子の夫。放射線医学総合研究所の二代目所長、国立がんセンター病院長を歴任するが、自身が癌に罹り在職のまま死去した。家紋は一重亀甲に違い笏紋。画像は多磨霊園にて撮影。


立原道造。1914年7月30日 – 1939年3月29日、詩人、建築家。
日本橋区橘町出身。家系は桓武平氏の一家系 常陸平氏 大掾氏の一門 鹿島氏の庶流 立原氏。代表詩集『ゆふすげびとの歌』『萱草に寄す』『曉と夕の詩』。家紋は三つ盛り亀甲紋。上の紋は花菱、下の二つは角字(平と東)。画像は多宝院の墓所にて撮影。


手塚治虫。1928年11月3日 – 1989年2月9日、漫画家。
大阪府に出生、5歳から兵庫県宝塚市に育つ。代表作は、『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『ブッダ』『マグマ大使』『どろろ』『ブラック・ジャック』等、多数。ストーリー漫画の父と言われている。家紋は三つ盛亀甲紋。画像は巣鴨・摠禅寺にて撮影。


有吉佐和子。1931年1月20日 – 1984年8月30日、小説家。
曽祖父は長州藩士の有吉熊次郎。カトリック教徒で洗礼名はマリア=マグダレナ。『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビュー。代表作は『紀ノ川』『華岡青洲の妻』。家紋は亀甲に並び矢。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


梅宮辰夫。1938年3月11日 – 、俳優。
満州・ハルビン市出身。茨城県水戸市で育つ。本名は梅宮辰雄。タレント・モデルの梅宮アンナは娘。代表出演作は『人生劇場 飛車角』『仁義なき戦い』。テレビドラマ、CMでも活躍。家紋は丸に三つ盛り亀甲紋。画像は小平霊園の梅宮家の墓所にて撮影。


落合博満。1953年12月9日 – 、プロ野球選手、監督。
秋田県南秋田郡若美町出身。現役時代はロッテ、中日、巨人、日本ハムなどで活躍。3度の三冠王に輝く。2004年から中日ドラゴンズ監督。3度のリーグ優勝に輝く。家紋は息子・福嗣の自伝「フクシ伝説」の表紙の紋付より亀甲と判断。中は梅鉢か。


夏目雅子。1957年12月17日 – 1985年9月11日、女優。
六本木の輸入雑貨商・亀甲屋の子として出生。旧姓は小幡。代表出演作はドラマ『西遊記』、映画『瀬戸内少年野球団』など。27歳の若さで突然亡くなり多くのファンからその死を惜しまれた。多磨霊園の小幡家の墓所(田中好子も埋葬)にて撮影。


青木達之。1966年8月15日 – 1999年5月2日、ドラマー、作曲家。
日本を代表するスカバンド、「東京スカパラダイスオーケストラ」の結成当時からのドラマーとして活躍。小泉今日子などにも曲を提供。列車事故により急逝。亀甲紋であることが確認できる。画像は多磨霊園の青木家の墓所にて撮影。


羽生善治。1970年9月27日 – 、将棋棋士。
埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持。通算タイトル獲得数は、大山康晴に次ぎ歴代2位。数々の実績から、将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。紋付姿の写真より、家紋は亀甲に梅紋と判断。


丹下左膳。江戸時代、剣士。
林不忘の新聞連載小説、およびその作品内の主人公。隻眼隻腕の異様な姿の剣士。手塚治虫も同名の作品を漫画化している。映画では団徳麿、嵐寛寿郎(当時は嵐長三郎)、大河内傳次郎、阪東妻三郎等が主役を演じている。家紋は一重亀甲に二引両紋。

まさむね



蝶紋 -優美さと物悲しさ漂わせる紋所- 大谷吉継、芹沢鴨、藤原紀香...

家紋の中で一番、優美なのがこの蝶紋である。

一般的には、平家の代表紋と言われている。
確かに、公家で平家流の平松家、西洞院家などはこの紋を使用しているが、実際、武家の桓武平氏では、この紋はそれほど普及しているわけではない。

ただし、織田信長のように、後から平氏を自称した諸家では、この紋を定紋としたようである。

ところで、よく見ると、揚羽蝶紋で描かれている蝶の目はどこか物悲しい。
壇ノ浦で滅んだ平家を哀れんでいるかのようでもある。

全国分布だが、県別家紋数では、まんべんなく20位~30位くらいの位置をキープしている。
敢えて言えば、三重県(18位)、鹿児島県(18位)、岐阜県(19位)、群馬県(20位)、石川県(20位)などが20位以内に入っている。
逆に宮崎県、徳島県ではベスト30にも入っていない。

さて、この紋を使用している有名人だが以下が確認できている。


織田信長。1534年5月12日 – 1582年6月2日、戦国武将。
古渡城主・織田信秀の次男または三男として出生。日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて世に多大な影響を残した武将、大名(戦国大名)。重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い自刃に追い込まれた。画像は織田蝶紋。


長谷川等伯。1539年 – 1610年3月19日、絵師。
能登国七尾出身。当時の主流・狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち独自の画風を確立。晩年には事故により利き腕である右手の自由を失うなど私生活は不幸であった。代表作『旧祥雲寺障壁画』『松林図屏風』『花鳥図屏風』。家紋は丸に揚羽蝶紋。


佐野房綱。1558年- 1601年7月31日、武将。
佐野宗綱の弟。佐野氏は秀郷流の系統。藤姓足利氏の庶流。豊臣秀吉に仕え、小田原征伐のとき、功績により、佐野氏の領地である唐沢山城と3万9000石の所領を安堵される。戦国時代においては、剣術の達人の一人であったと言われている。


大谷吉継。1559年 – 1600年10月21日、武将・大名。
近江国出身。秀吉の小姓となる。九州征伐で功を上げ、5万石を与えられ、敦賀城主となった。賤ヶ岳の戦いの際に長浜城主柴田勝豊を調略して内応させる。関が原の戦いでは西軍に与し、破れる。家紋は向かい蝶。


池田輝政。1565年1月31日 – 1613年3月16日、武将・大名。
織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれた。家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。関ヶ原の戦いでは徳川方に与する。また、姫路城を形に改築。家紋は揚羽蝶(左画像は姫路城の瓦の揚羽蝶)、備前蝶。


荷田春満。1669年2月3日- 1736年8月8日、国学者・歌人。
京都の神官の子。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人。賀茂真淵は弟子。主著は『春葉集』『創学校啓』『伊勢物語童子問』。赤穂義士に吉良上野介義央在宅確実の茶会の日を教えたという。画像は養子・在満の墓所にて撮影。


伊勢貞丈。1718年1月29日 – 1784年7月15日、有職故実研究家。
伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄。伊勢平氏・平維衡の後裔と言われる名門で江戸時代には徳川氏に仕え中世以来の武家を中心とした制度・礼式を伝える家として残る。「貞丈雑記」「安斎雑考」「軍用記」等を残す。家紋は向かい蝶紋。


大塩平八郎。1793年3月4日 – 1837年5月1日、大坂町奉行所与力。
大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。大塩家は代々与力として禄を受けていた。天保の大飢饉の際、人民救済のために大塩平八郎の乱を起す。その乱の際、元々の大塩家の家紋の蝶の丸ではなく桐紋を旗印にした。


芳村伊三郎。1800年 – 1847年7月27日、長唄の師匠。
上総出身。芳村伊千五郎が4代目伊三郎を襲名。歌舞伎の世話物の名作「与話情浮名横櫛」(別名お富与三郎)のモデル。春日八郎のヒット曲『お富さん』はこの演目からセリフを取り入れている。家紋は三つ盛り揚羽蝶。画像は品川・天妙国寺にて撮影。


芹沢鴨。1827年 - 1863年10月28日、幕末の水戸藩浪士。
中世に興起した常陸国芹沢村の豪族、芹沢氏から発祥した水戸藩上席郷士、芹沢家の当主貞幹の三男として生まれた。江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加。新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長。暗殺される。


川崎八右衛門。1834年12月 – 1907年1月13日、実業家。
茨城県東茨城郡茨城町出身。川崎家は水戸藩第二藩主光圀の時代にとりたてられる。幕末に水戸藩の鋳銭事業に着手、家業である廻船事業をはじめ事業を拡大し東京川崎財閥の前身・川崎組、川崎銀行の創始者となる。画像は谷中霊園にて撮影。


山城屋和助。1836年 – 1872年12月29日、陸軍省御用商人。
周防国玖珂郡出身。医師・野村信高右の四男。本名は野村三千三。読みは、やましろやわすけ。奇兵隊に入隊し山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦。長州人脈を活かして兵部省御用商人となるが汚職が発覚し自殺。野村家の家紋は浮線蝶紋。


池田章政。1836年6月16日 – 1903年6月5日、藩主。
肥後国人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し藩内における信望もあった。明治維新後は侯爵に叙任、従一位・勲一等・麝香間祗候。家紋は池田向い蝶紋。画像は谷中霊園の長男・池田政保の墓で撮影。


チャリヘス。1838年 – 1897年、料理人。
スイスのチューリッヒに生まれ、フランスのパリでコックの修業を積み、上海を経て1869年頃に来日。築地精養軒の料理顧問となる。日本におけるフランスパンの開祖として今に語り伝えられる。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園内の外人墓地にて撮影。


武井守正。1842年5月5日 – 1926年12月4日、政治家、実業家。
父は姫路藩士・武井領八。幕末には勤王派として国事に奔走し捕らえらるが維新後出獄し新政府に出仕。鳥取県知事、石川県知事、貴族院勅選議員を歴任。実業界に転じ帝国海上保険などを創立。家紋は花形蝶紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


吉田清成。1845年3月21日 – 1891年8月3日、武士、官僚。
薩摩藩の留学生として英米に留学。帰国後、大蔵省に出仕して租税権頭・大蔵少輔を歴任。外務大輔に任命され、井上馨外務卿の元で条約改正にあたる。元老院議官、枢密顧問官となる。「吉田清成文書」は有名。家紋は丸に浮線蝶紋。青山霊園にて撮影。


柳川一蝶斎(3代目)。1847年11月 – 1909年2月17日、手品師。
江戸神田の御用金物屋・青木常次郎の子。本名は青木治三郎。太神楽・曲芸の一座と共に欧州巡業に出る。獅子の曲、独楽の曲など日本手品を得意とし、とりわけ和紙の切れを扇であおいで蝶の飛ぶさまに見せる芸は見事であった。家紋は備前蝶紋。


平田東助。1849年3月26日- 1925年4月14日、官僚・政治家。
山形県米沢出身。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。大逆事件が発生した際は内相として犯人検挙を指揮。山縣有朋の側近として貴族院および宮中における山縣閥重鎮として元老に次ぐ影響力を保ち続ける。護国寺の墓所も山縣有朋の近くにある。


グラバー・ツル。1851年 – 1899年3月23日、女性。
旧士族・談川安兵衛の養女。幕末に長崎を拠点として活躍した英国商人トーマス・ブレーク・グラバーの妻。倉場富三郎の母親。プッチーニのオペラ、『蝶々夫人』の蝶々さんのモデルとされる。家紋は蝶紋と言われている。


小村寿太郎。1855年10月26日 – 1911年11月26日、外務大臣。
日向国飫肥藩に下級武士の子として生まれる。大学南校(東京大学の前身)入学。ハーバード大学へ留学。第1次桂内閣の外務大臣に就任。日英同盟を積極的に主張。日露戦争における戦時外交を担当し、ポーツマス条約の全権委任大使となる。


城泉太郎。1856年8月17日 – 1936年1月8日、教育者。
越後長岡藩士・河井資信の長男として生まれる。河井継之助は親戚筋。徳島慶應義塾の二代目校長となる。後に英学の教師をし、自由民権運動に携わる。『通俗進化論』、翻訳書『経世危言』を刊行。家紋は丸に揚羽蝶紋。墓所のある禅林寺にて撮影。


尾崎行雄。1858年12月24日 – 1954年10月6日、政治家。
相模国津久井県出身。議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」と呼ばれる。家紋は鬼蔦と五つ蝶紋。青山霊園の義父の尾崎三良の墓所にて撮影。


矢部辰三郎。1863年 – 1924年3月29日、海軍軍医。
岡山出身。軍医校監事、海軍大軍医、海大教官、海軍軍医少監、軍医校教官、軍医校教頭、海軍軍医総監、佐世保病院長、佐鎮軍医長、軍医校長、海軍軍医総監等を歴任。最終階級は海軍軍医中将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。


山路愛山。1865年1月23日 – 1917年3月15日、評論家、歴史家。
幕臣・山路一郎の子として江戸淺草の天文屋敷に出生。徳富蘇峰の知遇をえ國民新聞記者として政治および史論に筆をとる。日露戦争勃発と同時に『日露戦争實記』を発刊し「草木皆兵」を論じ愛国心を鼓舞した。家紋は揚羽蝶紋。青山霊園にて撮影。


神戸寅次郎。1865年1月24日 – 1939年5月17日、法学者。
静岡県出身。法学科第一期生として慶應に入学。慶應義塾大学新設にあたり法学部教授兼法学部長に就任し慶應義塾学事顧問を務めた。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。


平沼騏一郎。1867年10月25日 – 1952年8月22日、政治家。
岡山県津山市出身。日本の官僚で第35代内閣総理大臣。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、A級戦犯で訴追され終身刑の判決を受けた。立ち上がれ日本平沼赳夫は平沼騏一郎の兄・平沼淑郎の曾孫。画像は多磨霊園にて撮影。


岡本綺堂。1872年11月15日 – 1939年3月1日、小説家、劇作家。
東京高輪に生まれて麹町に育つ。英公使館に勤めていた元徳川家御家人、岡本敬之助の長男。本名は岡本敬二。24年間、東京日日新聞の記者として過ごす。代表作は岡っ引捕り物小説の『半七捕物帳』。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園にて撮影。


塩田広重。1873年10月14日 – 1965年5月11日、外科学者。
京都府生まれ。東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授および同学長を兼任した。胃腸手術の権威として知られる。狙撃された濱口雄幸の治療をしたことでも有名。また老人学の草分けでもある。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


曽我廼家五九郎。1876年4月12日 – 1940年7月7日、喜劇俳優。
徳島県麻植郡鴨島村出身。本名は武智故平。壮士芝居を経て、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名乗る映画『ノンキナトウサン』シリーズが大当たり。トウサン役は五九郎の当たり役となる。家紋は揚羽蝶紋。


今村均。1886年6月28日 – 1968年10月4日、陸軍軍人。
宮城県仙台区出身。父は裁判官の今村虎尾。最終階級は陸軍大将。占領地での軍政・指導能力は高く名将という評価を受ける。水木しげるは「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評した。家紋は浮線蝶紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。


光用穆。1887年3月10日 – 1943年10月12日、小説家、翻訳家。
新潟県高田市出身。読みは、みつもちきよし。早稲田大学文学部を出た後、中央新聞に入社し短編小説を数編、書く。葛西善蔵、相馬御風、広津和郎らとともに同人誌「奇蹟」に関わる。H・G・ウェルズの『宇宙戦争』を翻訳した。家紋は揚羽蝶紋。


南雲忠一。1887年3月25日 – 1944年7月8日、海軍軍人。
米沢市信夫町に旧米沢藩士南雲周蔵の次男。真珠湾にあるアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の母港を奇襲攻撃、開戦劈頭の勝利を飾るがミッドウェー海戦では大敗を喫する。最終階級は海軍大将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は鎌倉・円覚寺にて撮影。


一龍斎貞丈(4代目)。1889年 – 1931年12月23日、講釈師。
本名は、安原大二郎。亭号を昇龍斎として、昇龍斎貞丈と名乗った。5代目・一龍斎貞丈の師匠にあたる。講釈は、日本の伝統芸能のひとつで、高座におかれた釈台と呼ばれる小さな机の前に座り、軍記物や政談を読み上げる。家紋は丸に揚羽蝶紋。


池田義信。1892年3月10日 – 1973年9月1日、映画監督。
長野市宇木出身。本名は義臣。栗島すみ子の夫。松竹蒲田撮影所にはいり、11年の「生(な)さぬ仲」で初監督をする。代表作は「船頭小唄」「いろはにほへど」「不如帰」「真珠夫人」。家紋は丸に揚羽蝶。画像は池上本門寺にて撮影。


池田亀鑑。1896年12月9日 – 1956年12月19日、国文学者。
鳥取県日野郡福成村出身。「源氏物語」研究の権威で文献学の知見を日本古典文学研究に導入。「源氏物語大成」全8巻を刊行、異本を比較して古典の原型を明らかにする文献批判学研究を行う。紫式部学会の創設する。画像は多磨霊園にて撮影。


神谷正太郎。1898年7月9日 – 1980年12月25日、実業家。
愛知県知多郡横須賀町出身。トヨタ自動車系ディーラーの礎を一代で築き上げ、その豪腕から「販売の神様」と称される。「一にユーザー、二にディーラー、三にメーカーの利益を考えよ」との名言を残す。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。


安藤鶴夫。1908年11月16日 – 1969年9月9日、小説家、評論家。
東京市浅草区向柳原町に、義太夫の八代目竹本都太夫の長男として出生。古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒。芸人の好き嫌いが激しかった。『巷談本牧亭』で直木賞受賞。小林信彦、高田文夫等に影響を残す。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


トニー 谷。1917年10月14日 – 1987年7月16日、コメディアン。
東京市京橋区銀座に生まれ、小伝馬町に育つ。本名は大谷正太郎。戦後日本の特殊状況を鋭く批評するキャラクターを構築したゲテモノ芸人。リズムに乗りソロバンをかき鳴らす珍芸が売。妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。


宮尾登美子。1926年4月13日 – 、小説家。
高知県高知市生まれ。『連』で婦人公論女流新人賞を受賞。『櫂』が太宰治賞を受賞。作品のテーマは一貫して女性である。代表作は『櫂』『鬼龍院花子の生涯』『宮尾本 平家物語』『天璋院篤姫』『義経』など。家紋の揚羽蝶紋は宮尾家の家紋。


萬屋錦之介。1932年11月20日 – 1997年3月10日、俳優。
初名・中村錦之助。吉右衛門劇団立女形を父に持つ歌舞伎役者の御曹司。本名は小川錦一。昭和時代劇を代表する大スター。代表出演映画『宮本武蔵』『風雲児 織田信長』。代表出演テレビドラマは『子連れ狼』『破れ奉行』等。画像は鎌倉霊園にて撮影。


張本勲。1940年6月19日 – 、元プロ野球選手、野球解説者。
広島県広島市出身。プロ野球時代には、安打製造機の異名を取り、日本プロ野球で3000安打を記録している唯一の選手。引退後は、プロ野球解説者として活躍。画像は夫人の墓(張本家の墓)にて撮影。家紋の揚羽蝶は”張”の読みから使用か?


二代目・中村吉右衛門。1944年5月22日 -、歌舞伎役者、俳優。
藤間久信→波野久信→波野辰次郎と改名。歌舞伎では『勧進帳』『義経千本桜』の武蔵坊弁慶が当たり役。また、テレビドラマでは池波正太郎原作『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵役で有名。画像の揚羽蝶は青山霊園・初代の墓所にて撮影。


藤原紀香。1971年6月28日 – 、女優。
1992年神戸親和女子大学在学中に、第24回ミス日本グランプリを受賞。女優としては『スタアの恋』『ハッピーマニア』『金曜日の恋人たちへ』等が代表出演作。その他、国際活動や人道支援への協力でも知られている。家紋は揚羽蝶紋。


中村獅童(2代目)。1972年9月14日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「レッドクリフ」など。萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。

まさむね



木瓜紋 -この紋はキュウリ?鳥の巣?女陰?- 沖田総司、樋口一葉、森喜朗...

木瓜(もっこう)紋は不思議な紋である。
この紋の起源がよくわからないのだ。
代表的なものを上げてみると以下のようなものである。
1)キュウリの切断面を図案化したもの
2)鳥の巣を象ったもの
3)神社の御簾の帽額(モコウ)に使われた文様
4)女陰
いずれにしても、子孫繁栄や縁起のよいものにあやかろうという精神がこの紋の普及を促進したのであろう。
また、都道府県別でこの木瓜の割合が一番多いのは以下の県である。
(都道府県別姓氏家紋大辞典 千鹿野茂著より)
北海道、青森県、岩手県、栃木県、埼玉県、新潟県、富山県、和歌山県。
この中でも特に、富山では、他県に比べて著しい普及率(28%)を示している。
この地域は、戦国時代に朝倉氏が勢力を持っていて、この紋を広く門徒に使わせたためと言われている。
また、2位の地域は、秋田県、宮城県、福島県、石川県、福井県、鳥取県、島根県など。四国と南九州では比較的少ない。
有名人では以下の人々が使っている。


滝川一益。1525年 – 1586年10月21日、戦国時代の武将。
近江国甲賀の土豪・滝川資清の次男として出生。織田信長の家臣として伊勢長島攻め長篠の戦い石山合戦で功を上げる。上野と信濃の一部を与えられ関東管領を名乗ったという。領地よりも茶器を所望したと言われている。家紋は丸に立木瓜。


朝倉義景。1533年10月12日- 1573年9月16日、戦国大名。
越前の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。信長と敵対したが、一乗谷城の戦いで敗れ自刃した。その際、往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った一乗谷の市街地は、灰燼に帰した。家紋は三つ盛木瓜。


伊東マンショ。1569年頃 – 1612年11月13日、キリシタン。
日向国都於郡出身。日向国主伊東義祐の孫。本名は祐益。マンショは洗礼名。天正遣欧少年使節の一人として渡欧。帰国後、豊臣秀吉に謁見。仕官を勧められるが、断る。イエズス会に入会し、でカトリック教会の司祭となる。家紋は庵木瓜紋。


塙保己一。1746年6月23日 – 1821年10月7日、国学者。
武州児玉郡保木野村出身。塙は師の雨富須賀一の本姓を用いたもので出自は荻野氏。『群書類従』『続群書類従』を編纂した。『史料』編纂の事業は現在も東京大学史料編纂所に引き継がれている。家紋は丸に木瓜。画像は四谷・愛染院にて撮影。


二宮尊徳。1787年9月4日 – 1856年11月17日、農政家・思想家。
相模国足柄上郡栢山村に百姓利右衛門の長男。日本の江戸時代後期に報徳思想を唱えて農村復興政策を指導。子供の頃草鞋を編んで金を稼ぎ寝る間も惜しんで読書をしたという。銅像が全国の小学校等に建てられた。画像は文京区・吉祥寺。


塩谷宕陰。1809年5月30日 – 1867年9月25日、儒学者。
江戸愛宕山下出身。昌平黌に入門。浜松藩(静岡県)藩主水野忠邦に仕える。水野忠邦が老中として天保改革を進めるに当たってその顧問となる。ペリー来航に際し「防禦策」などを草し建言した。家紋は丸に四方木瓜紋。画像は谷中霊園にて撮影。


堀田正睦。1810年8月30日 – 1864年4月26日、大名・老中首座。
佐倉藩第3代藩主堀田正時の次男として生まれる。幕府では寺社奉行や大坂城代などを務め老中となる。開国派として日米修好通商条約締結のために奔走。桜田門外の変後に謹慎処分となる。家紋は堀田木瓜。画像は品川・東海寺の堀田家の墓所にて撮影。


三輪田米山。1821年2月12日- 1908年11月3日、書家。
伊予国久米郡の日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男に生まれる。また、明治天皇の侍候を務め書の訓導にあたった。義理の妹・三輪田眞佐子は三輪田女学校(現三輪田学園中学校・高等学校)の創立者。家紋は井桁に木瓜紋。青山霊園にて撮影。


伊東甲子太郎。1835年 – 1867年12月13日、武士。
常陸志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の長男として出生。北辰一刀流剣術伊東道場に入門。見込まれて婿養子となり伊東大蔵と称した。藤堂平助の仲介で新選組に加盟。文学師範、のち御陵衛士盟主。油小路事件で暗殺される。家紋は庵木瓜紋。


徳大寺実則。1840年1月10日 – 1919年6月4日、公卿・官僚。
尊皇攘夷派の公卿として活躍。明治以降は天皇の側近(内大臣兼侍従長)として天皇が崩御するまで補佐。内閣総理大臣・西園寺公望は実弟。徳大寺家は清華家の家格を有する公家で笛を家業とした。家紋は木瓜花菱浮線綾。画像は多磨霊園にて撮影。


沖田総司。1842年夏の日 – 1868年7月19日、武士。
父は陸奥白河藩士の沖田勝次郎で長男。新選組隊士。副長助勤、一番隊組長、撃剣師範。本姓は藤原氏。池田屋事件で討幕派数人を切り伏せ活躍したものの直後に肺結核により喀血して倒れる。家紋は丸に横木瓜紋。画像は港区・専称寺にて撮影。


伊東祐亨。1843年6月9日 – 1914年1月16日、海軍軍人。
薩摩藩士伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身。戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍。維新後は海軍の発展に貢献。最高階級は海軍大将。軍人としての生涯を全う。家紋は庵木瓜紋。


田中光顕。1843年11月16日 – 1939年3月28日、官僚、政治家。
土佐藩の家老深尾家々臣・浜田金治の長男として土佐国高岡郡佐川村に出生。土佐勤皇党に参加。高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。戊辰戦争で活躍。維新後は宮内大臣に就任。画像は護国寺にて撮影。


原口兼済。1847年4月2日 – 1919年6月18日、陸軍軍人、政治家。
森藩士・林寛吾の四男として生まれ同藩士・原口等の養子となる。西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行し樺太全土を占領。貴族院議員も務める。最終階級は陸軍中将。家紋は亀甲に木瓜紋。画像は青山霊園。


山脇正勝。1849年 – 1905年5月6日、新選組隊士。
桑名藩士山脇十左衛門の子。変名、大河内太郎。鳥羽伏見の戦いに敗走し函館で土方歳三配下の新選組に入隊。箱館戦争に参戦。維新後は三菱入社。長崎造船所初代所長を務める。バーバラ寺岡は子孫。家紋は横木瓜紋。画像は染井霊園にて撮影。


真鍋斌。1851年3月7日 – 1918年12月14日、陸軍軍人、政治家。
長州藩中士・真鍋安信の長男として出生。陸軍少将まで昇進したが馬蹄銀事件のために休職。後に男爵を叙爵し華族となり貴族院議員、陸軍参政官を務める。最終階級は陸軍中将。家紋は三つ組み合い木瓜紋。青山霊園にて撮影。


中上川彦次郎。1854年10月4日 – 1901年10月7日、実業家。
中津藩士・中上川才蔵の長男。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。三井財閥の工業化と不良債権処理を推進し「三井中興の祖」として高く評価されている。家紋は割り菱に鐶木瓜紋。青山霊園にて撮影。


片山潜。1859年12月26日 – 1933年11月5日、社会運動家。
美作国粂郡羽出木村の庄屋藪木家の次男。『労働世界』を創刊し主筆を務め日本で最初の労働組合・労働組合期成会の設立に大きな役割を果たす。また、幸徳秋水らと共に日本で最初の社会主義政党・社会民主党の結成に加わった。青山霊園にて撮影。


服部金太郎。1860年10月9日 – 1934年3月1日、実業家。
江戸の京橋采女町の貧困な夜店商人の家に出生。独立して服部時計店を開業し、銀座4丁目に進出。外国製品に比肩しうる精巧品の製造に成功し、セイコー(SEIKO)に育てた。家紋は丸に横木瓜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


豊田佐吉。1867年3月19日 – 1930年10月30日、実業家、発明家。
遠江国山口村の貧しい農家に生まれた。父は大工だった。「豊田式木製人力織機」、「豊田式汽力織機」などを次々と発明。後に、豊田商会を設立し、今日、日本の代表企業・トヨタグループの礎を築く。家紋は丸に横木瓜。


伊東忠太。1867年11月21日 – 1954年4月7日、建築家、建築史家。
山形県米沢出身。叔父(父の弟)に官僚・政治家の平田東助がいる。元々画家(漫画家)を志望し妖怪等を描いた漫画も多く残している。主な作品に「祇園閣」「築地本願寺」「新勝寺太子堂」等。家紋は庵木瓜紋(伊東氏の代表紋)。画像は総持寺にて撮影。


増田義一。1869年10月21日 – 1949年4月27日、出版人、政治家。
越後(新潟県)出身。読売新聞記者をへて、実業之日本社を創立、社長となる。「実業之日本」「婦人世界」など多くの雑誌を刊行。日本雑誌協会会長も務める。政治家としては衆議院副議長となる。家紋は丸に横木瓜紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。


伊原敏郎。1870年5月24日 – 1941年7月26日、演劇評論家。
松江生まれ。青々園の名で劇評を書き坪内逍遥と親しくなる。三木竹二と『歌舞伎』を創刊。さらに『日本演劇史』『近世日本演劇史』『明治演劇史』三部作で朝日文化賞を受賞。また新聞小説や戯曲『出雲の阿国』を書いた。家紋は丸に地抜き横木瓜紋。


上野英三郎。1872年1月19日 – 1925年5月21日、農業土木学者。
三重県出身の農業土木・農業工学の創始者。忠犬ハチ公の飼い主。大学で講演中に脳溢血で倒れ急逝。愛犬ハチは帰らぬ上野を長期間待ち続け、「忠犬ハチ公」として秋田犬の名を世間に知らしめることとなった。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


田山花袋。1872年1月22日 – 1930年5 月13日、小説家。
群馬県館林市出身。中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた『蒲団』を発表。女弟子に去られた男が、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという描写は、読者、さらに文壇に衝撃を与えた。家紋は丸に横木瓜。多磨霊園にて撮影。


樋口一葉。1872年5月2日 – 1896年11月23日、小説家。
元々父親である則義は甲斐国山梨郡中萩原村の百姓であった。7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。代表作は、「たけくらべ」「にごりえ」。五千円札の肖像となっている。現在の墓所は、杉並区和泉の西本願寺和田掘廟所。


百武三郎。1872年6月3日 – 1963年10月30日、海軍軍人。
佐賀藩士、百武庭蔵の三男として生まれる。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。本人の最終階級は陸軍大将。海軍史上唯一組の海軍大将兄弟。家紋は丸に木瓜紋。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。


平田禿木。1873年2月10日 – 1943年3月13日、英文学者、随筆家。
東京生まれ。本名・喜一郎。島崎藤村らの『文學界』同人として活躍。のち英文学者として多くの翻訳を刊行、『禿木随筆』などがある。またアーネスト・フェノロサの能楽研究に助力した。のち『平田禿木選集』全5巻が刊行された。画像は回向院にて撮影。


芳沢謙吉。1874年1月24日 – 1965年1月5日、外交官、政治家。
新潟県高田出身。中国公使となり、,ソ連のカラハン大使との間で日ソ基本条約を締結。仏大使と国際連盟日本代表を兼務。犬養内閣では外相を務める。戦後初代の駐中華民国(台湾)大使となる。家紋は四方木瓜紋。画像は青山霊園にて撮影。


大角岑生。1876年5月1日 – 1941年2月5日、海軍軍人。
愛知県三宅村出身。読みは、おおすみみねお。日露戦争の第3次旅順口閉塞作戦では出撃した「釜山丸」はエンジンが故障し、船団から脱落する。犬養、斎藤、岡田の各内閣で海軍大臣を務めた。最終階級は海軍大将。画像は青山霊園にて撮影。


駒田好洋。1877年7月1日 – 1935年8月11日、映画制作者。
大阪に生れる。実家は呉服商。読みは、こまだこうよう。本名は駒田万次郎。日本初の商業公開用の映画(『芸者の手踊り』)を製作し、さらに日本初の劇映画(『清水定吉』)の製作も行った。家紋は庵木瓜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


立浪(4代)。1878年1月12日 – 1952年12月16日、大相撲親方。
石川県上新川郡出身。本名は、高木友之助。現役時代の四股名は緑嶌で小結が最高位。引退後、立浪部屋親方として双葉山羽黒山、名寄岩等の名力士を育て一代で立浪部屋を角界屈指の名門にまで引き上げた。画像は谷中霊園にて撮影。


山野政太郎。1878年3月3日 – 1969年5月29日、実業家。
富山県出身。 西洋楽器店を創業。松本ピアノから営業権を譲り受け「山野楽器店」と改称し初代社長に就任。ピアノ、オルガン、レコードの販売に成功。東京蓄音器商組合長、全国蓄音器商組合連合会会長などを歴任。画像は多磨霊園。


梅ヶ谷藤太郎。1878年3月11日 – 1927年9月2日、第20代横綱
石川県上新川郡(現在の富山県富山市)に生まれる。常陸山谷右エ門と同時に横綱に昇進。「梅・常陸時代」と呼ばれる黄金時代を築く。168勝27敗47分2預116休、勝率.862。優勝相当成績3回。家紋の木瓜は、本門寺の墓所にて撮影。


下中弥三郎。1878年6月12日 – 1961年2月21日、実業家。
兵庫県多紀郡今田村出身。アナキズムや農本主義の影響を受け「教育改造の四綱領」を発表。平凡社を創設。『大百科事典』を出版して一躍「事典」出版社として著名になる。世界平和アピール七人委員会を結成し世界連邦運動を推進。画像は多磨霊園。


長塚節。1879年4月3日 – 1915年2月8日、歌人、小説家、歌人。
茨城県岡田郡国生村の豪農の家に出生。アララギの創刊に携わり万葉の短歌の研究と作歌に励む。長編『』を東京朝日新聞に連載し代表作となる。また農民小説のさきがけともなった。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は横木瓜紋。


佐野利器。1880年4月1日 – 1956年12月5日、建築家。
山形県西置賜郡荒砥村出身。生家(山口家)が没落し佐野家の養子となる。鉄骨煉瓦造の丸善書店の構造設計を行う。関東大震災後の復興事業・土地区画整理事業を推進。清水組副社長も務めた。家紋は剣木瓜紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


岩波茂雄。1881年8月27日 – 1946年4月25日、出版人。
長野県諏訪郡中洲村の農家に出生。古書店から出発し夏目漱石の知遇を得て「こゝろ」を出版。岩波書店を創業する。後に『思想』『科学』『文化』などの雑誌や、岩波文庫を創刊。貴族院多額納税者議員に互選、任命される。家紋は丸に剣木瓜紋。


丸山鶴吉。1883年9月27日 – 1956年6月3日、官僚。
丸山茂助の四男として広島県沼隈郡松永村に出生。警視庁特高課長、保安課長、静岡県内務部長、宮城県知事、朝鮮総督府警務局長、大政翼賛会事務総長、武蔵野美術学校校長、警視総監を歴任。家紋は丸に横木瓜紋。青山霊園の墓所にて撮影。


植芝盛平。1883年12月14日 – 1969年4月26日、武道家。
和歌山県田辺市の農家に生まれる。宗教団体大本に入信し「植芝塾」道場を開設。出口王仁三郎の命名により、自ら創始した武術を合気武道と呼称した。合気道関係者は開祖、特に古い高弟は大先生、翁先生と呼ぶことが多い。家紋は丸に横木瓜紋。


竹久夢二。1884年9月16日 – 1934年9月1日、画家・詩人。
岡山県邑久郡本庄村に代々酒造業を営む家に次男として出生。本名は竹久茂次郎。数多くの美人画を得意とした大正浪漫を代表する画家。作品は「夢二式美人」と呼ばれた。詩『宵待草』には曲が付けられて全国的な愛唱曲となった。家紋は丸に木瓜紋。


正力松太郎。1885年4月11日 – 1969年10月9日、実業家、政治家。
富山県射水郡枇杷首村に土建請負業を営む正力庄次郎の次男。読売新聞社の経営者として同新聞の部数拡大に成功。また、長らく巨人軍のオーナーを務め、その業績を称え、正力松太郎賞が設立される。家紋は横木瓜紋。画像は鎌倉・円覚寺にて撮影。


川端龍子。1885年6月6日 – 1966年4月10日、日本画家、俳人。
和歌山県和歌山市に出生。本名は昇太郎。弟(異母弟)は「ホトトギス」の俳人川端茅舍。横山大観率いる日本美術院同人となる。代表作は『火生』『千住大橋』『山葡萄』等。喜寿を記念して長年住んだ大田区に龍子記念館を設立した。家紋は横木瓜紋。


平塚雷鳥。1886年2月10日 – 1971年5月24日、思想家・作家。
東京府出身。父親は紀州藩士で明治政府の高級官吏・平塚定二郎。関ヶ原の合戦で戦死した西軍の武将平塚為広の末裔。女性解放運動・婦人運動の指導者。日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を創刊。画像は春秋苑にて撮影。


木村謹治。1889年1月2日 – 1948年1月13日、独文学、語学者。
秋田県南秋田郡大川村出身。東京帝国大学独文科教授となり、その際、同僚の相良守峯とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれて長く使われた。またゲーテ研究に力を注いだ。家紋は横木瓜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


福士幸次郎。1889年11月5日 – 1946年10月11日、詩人、評論家。
青森県弘前市出身。第一詩集『太陽の子』を上梓、口語自由詩の先駆となる。のち評論で『日本音数律論』、民俗学の『原日本考』などを著す。1932年に日本ファシズム連盟を結成した。画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に横木瓜紋。


伊藤整一。1890年7月26日 – 1945年4月7日、海軍軍人。
福岡県三池郡高田町出身。読みは、いとうせいいち。第2艦隊司令長官着任後、戦艦「大和」による天一号作戦参加を命令され、アメリカ航空艦隊の艦載機からの総攻撃により撃沈され、戦死する。最終階級は海軍大将。家紋は庵木瓜紋。


西ノ海嘉治郎。1890年11月2日 – 1933年7月28日、第30代横綱
鹿児島県西囎唹郡国分村浜の市出身。本名は松山伊勢助。三代目の西ノ海嘉治郎。幕内通算成績は30場所、134勝60敗2分2預116休、勝率.691。優勝1回。年寄浅香山を襲名し、井筒部屋から独立して浅香山部屋を旗揚げした。画像は小平霊園にて撮影。


下村千秋。1893年9月4日 – 1955年1月31日、作家。
茨城県稲敷郡朝日村出身。読みは、しもむらちあき。小説・短歌・戯曲などを発表するほか、ゴーリキー全集の翻訳も行う。私娼を描いた「天国の記録」で有名となる。代表作は「天国の記録」。家紋は丸に木瓜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


大川博。1896年12月29日 – 1971年8月17日、実業家。
新潟県西蒲原郡加奈居村出身。五島慶太にヘッドハンティングされ東急電鉄に入社。東京映画配給(東映)社長に就任。プロ野球・東映フライヤーズのオーナー。東映動画のアニメーション制作にも進出。家紋は丸に剣木瓜紋。画像は多磨霊園。


伊東深水。1898年2月4日 – 1972年5月8日、日本画家。
東京深川出身。本名は伊藤一。娘は女優の朝丘雪路。日本画独特のやわらかな表現による美人画が有名だが、美人画とも並行し個人的に独自の題材で日本画も制作。代表作は『対鏡』『潮干狩』等。家紋は丸に木瓜菱紋。画像は隆崇寺。


宮田東峰。1898年3月24日 – 1986年1月13日、ハモニカ奏者。
群馬県出身。本名は宮田孝三郎。読みは、みやたとうほう。ハーモニカの奏法は独習し日本初のハーモニカ合奏団を結成。当時流行の歌謡曲を多数演奏した。これが後の「ミヤタ・ハーモニカバンド」。家紋は丸に四方木瓜紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


神吉晴夫。1901年2月15日 – 1977年1月24日、編集者、事業家。
兵庫県加古川市西神吉町出身。プロデューサーとして「かもめの水兵さん」などのヒット曲を飛ばす。光文社第2代社長に就任。『女性自身』の部数を147万部にまで伸ばす。軽装新書版による書き下ろしのカッパ・ブックス創始者。画像は八柱霊園にて撮影。


岡田嘉子。1902年4月21日 – 1992年2月10日、映画女優。
広島市細工町に新聞記者の娘として出生。奔放な恋愛遍歴とソビエト連邦へ亡命するなど波乱の生涯を送った。トップ女優として主演映画『また逢う日まで』『東京の女』『日輪』等。画像は多磨霊園の山本家の墓所(岡田の墓がある)の丸に木瓜紋。


石田一松。1902年11月18日 – 1956年1月11日、演歌師、議員。
広島県安芸郡出身。父は井戸堀職人。大学卒業後、『酋長の娘』を作詞・作曲し大ヒットする。代表曲は『のんきな父さん』『いやぢゃありませんか』『のんき節』等。タレント議員のはしり。家紋は丸に木瓜紋。画像は谷中・安立院の墓所にて撮影。


大槻文平。1903年9月27日 – 1992年8月9日、経営者、財界人。
宮城県丸森町出身。三菱鉱業セメント会長、日本経営者団体連盟会長、臨時行政改革推進審議会会長。三菱鉱業の労務畑を長らく努め炭鉱合理化の際には首切り文平のあだ名があった。勲一等瑞宝章受章。日勲一等旭日大綬章受章。画像は春秋苑。


青井忠治。1904年3月30日 – 1975年8月18日、実業家。
富山県小杉町出身。生家は旧家の分家。高校卒業後、月賦販売商・丸二商会に入社。中野店を譲り受けて独立。商号を「丸井」に改め、同社を月賦百貨店業界のトップ企業に育て上げた。家紋は丸に横木瓜。画像は宝仙寺の墓所にて撮影。


古賀政男。1904年11月18日 – 1978年7月25日、作曲家。
福岡県三潴郡田口村に生まれた。『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』『人生劇場』『東京五輪音頭』『』『悲しい酒』など昭和を代表する数々のヒット曲を生み出し国民栄誉賞受賞。家紋は丸に横木瓜紋。古賀政男音楽博物館にて確認。


松島詩子。1905年5月12日 – 1996年11月19日、歌手。
山口県玖珂郡日積村出身。本名は内海シマ。夫は内海一郎。小学校教師から一転、歌手を目指し柳井はるみという名前でデビュー。ヒット曲は「夕べ仄かに」「マロニエの木陰」「銀座行進曲」。NHK紅白歌合戦には10回出場。画像は小平霊園。


平林たい子。1905年10月3日 – 1972年2月17日、小説家。
長野県諏訪市出身。体験に基づく『施療室にて』でプロレタリア作家として認められる。代表作は『秘密』『かういふ女 』『黒札』など。没後、遺言により「平林たい子文学賞」が創設された。画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に横木瓜紋。


海沼実。1909年1月31日 – 1971年6月13日、童謡作曲家。
長野県埴科郡松代町出身。実家は菓子舗。「お猿のかごや」「あの子はたあれ」「からすの赤ちゃん」「里の秋」「みかんの花咲く丘」など、国民的ヒット曲を多数、作曲する。家紋は丸に木瓜紋。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。


源氏鶏太。1912年4月19日 – 1985年9月12日、作家。
富山市出身。父親は富山の置き薬売り。本名は田中富雄。ペンネームの由来は「平家より源氏が好きだったから」という。代表作は『英語屋さん』『口紅と鏡』等。『三等重役』は社長シリーズとして映画化され大ヒットする。画像は善福寺。


伊東正義。1913年12月15日 – 1994年5月20日、政治家。
福島県会津若松市生まれ。祖父の伊東健輔は会津藩士。衆議院議員、外務大臣、内閣官房長官、自由民主党政調会長、自由民主党総務会長を歴任。大平が急逝した後は内閣総理大臣臨時代理を務めた。家紋は庵木瓜紋。画像は鎌倉霊園墓所にて撮影。


三船敏郎。1920年4月1日 – 1997年12月24日、俳優。
中華民国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男。父は秋田県鳥海町出身。代表出演作品「羅生門」「レッド・サン 」「七人の侍 」「黒部の太陽」「椿三十郎 」「用心棒 」。三船美佳は内縁の妻との間にできた子供。画像は春秋苑。


山岡久乃。1926年8月27日 – 1999年2月15日、女優。
東京府東京市大森区馬込生まれ。本名・山岡比佐乃。宝塚歌劇団入団。男役で芸名は清澄あきらを名乗った。「日本を代表するお母さん女優」として不動の地位を築いた。代表出演作「ありがとう」「渡る世間は鬼ばかり」等。画像は墨田区・法恩寺。


三波伸介。1930年6月28日 – 1982年12月8日、コメディアン。
東京府東京市本郷区出身。本名:澤登三郎。1970年代から1980年代にかけて日本のお笑いをリードしてきたエンターティナー。代表出演『笑点』『日曜お笑い劇場』『てなもんや三度笠』。当たりギャグは「びっくりしたなぁ、もう!」。画像は所沢霊園。


道場六三郎。1931年1月3日 – 、和食料理家。
石川県江沼郡山中町出身。実家は老舗の山中漆器店。『料理の鉄人』に「和の鉄人」としてレギュラー出演、料理人ブームのさきがけとなる。「現代の名工」として厚労省から表彰される。家紋は丸に木瓜紋。画像は鎌倉・瑞泉寺の生前墓にて撮影。


樋口恵子。1932年5月4日- 、評論家。東京家政大学名誉教授。
東京出身。父は考古学者の柴田常恵。広く自治体主催の講演会等で活動。男女共同参画審議会のメンバー。東京都知事選挙に出馬したが石原慎太郎の前に惨敗。元日本ジャーナリスト会議副議長の新井直之と事実婚関係にあった。画像は春秋苑の生前墓にて。


桂歌丸。1936年8月14日 – 、落語家。
神奈川県横浜市出身。本名は椎名巌(しいな いわお)。位階勲等は旭日小綬章。演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利のメンバーとして活躍、現在では同番組の5代目司会者を務める。その際に着る羽織には、丸に横木瓜紋をつけている。


山本學。1937年1月3日 – 、俳優。
大阪府茨木市生まれ。東京育ち。父は建築家の山本勝巳。弟は俳優の山本圭、山本亘。叔父は映画監督の山本薩夫。女優の水野久美とは一時結婚していた。出演作は『白い巨塔』『金環蝕』『梟の城』等。家紋は三つ割り木瓜。画像は春秋苑にて撮影。


森喜朗。1937年7月14日 ‐ 、政治家。
石川県能美郡根上町に、根上町長を務めた森茂喜の長男として出生。文部大臣、通商産業大臣、建設大臣、自由民主党総裁、内閣総理大臣(第85代・第86代)を歴任。退任後も小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎などを支持。家紋は丸に横木瓜紋。


円谷幸吉。1940年5月13日 – 1968年1月9日、マラソン選手。
福島県岩瀬郡須賀川町出身。自衛隊体育学校所属。東京オリンピックではマラソンで3位となり、銅メダルを獲得した。1968年1月9日にカミソリで頚動脈を切って自殺。川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』を発表した。家紋は丸に横木瓜。


坂本九。1941年12月10日 – 1985年8月12日、俳優・歌手。
神奈川県川崎市出身。愛称は九ちゃん。「上を向いて歩こう」が国内外でヒット。米国・ビルボード誌のヒットチャートでも3週連続1位を獲得。代表作は「見上げてごらん夜の星を 」「明日があるさ 」等。画像は青山・長谷寺にて。


アントニオ猪木。1943年2月20日 -、プロレスラー、実業家。
神奈川県横浜市鶴見区出身。本名は猪木寛至。元参議院議員。日本プロレス、東京プロレスを経て、新日本プロレスを立上げる。異種格闘技戦の実現などにより日本のプロレス・格闘技界に大きな影響を与えた。画像は総持寺の猪木家墓所にて撮影。


内田樹。1950年9月30日 – 思想家、随筆家。
東京都大田区生まれ。内田樹の先祖は山形県鶴岡の士族。神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。合気道六段、居合道三段の武道家。主著『日本辺境論』『邪悪なものの鎮め方』等。家紋は丸に横木瓜紋。Twitterで直接返信をいただいた。


オール巨人。1951年11月16日-、漫才師。
大阪市天王寺区生まれ、大阪府豊中市育ち。本名は南出繁。吉本興業所属の漫才コンビ、オール阪神・巨人に所属。コンビとして花王名人大賞の最優秀名人賞など、多くの賞を獲得している。家紋は丸に横木瓜紋。自身のブログの写真にて確認。


マディ上原。1957年 – 2009年12月22日、特殊漫画家。
東京生まれ。1981年、谷岡ヤスジに師事。1982年、漫画家として独立。エロ漫画誌、『ガロ』等に不条理四コマなどを発表。漫画家・原律子は元妻。また、根本敬との漫画ユニット「お岩」でも作品を発表。家紋は井桁に木瓜紋。


野沢尚。1960年5月7日 – 2004年6月28日、脚本家・推理小説家。
愛知県名古屋市出身。父親は京都大学霊長類研究所の所長・生物学者・野澤謙。北野武の映画監督デビュー作「その男、凶暴につき」の脚本を手掛ける。代表作は「青い鳥」「眠れる森」など。家紋は丸に木瓜紋。画像は新宿原町の瑞光寺にて撮影。


いとうせいこう。1961年3月19日 – 、小説家、タレント。
東京都三鷹市出身。父の伊藤郁男は元参議院議員で民社党政審副会長を務めた。俳優、編集者、小説家、作詞家、ラッパーなど、幅広く活動するクリエイター。代表作は『ノーライフキング』『ワールズ・エンド・ガーデン』。家紋は丸に横木瓜紋。


馳浩。1961年5月5日 -、政治家、元プロレスラー。
富山県小矢部市生まれ、石川県金沢市育ち。妻は高見恭子。新日本プロレス時代にIWGPジュニアヘビー級王座奪取。2006年8月27日に、両国国技館で引退試合を行い、プロレスラーを引退。2008年8月に、自民党文部科学部会長に就任。家紋は丸に木瓜紋。


山口智子。1964年10月20日 – 、女優。
栃木県栃木市出身。実家は栃木市に存在した老舗旅館・鯉保。代表出演作『29歳のクリスマス』『ロングバケーション』『スウィート・ホーム』等。俳人松尾芭蕉を経済的にも支援した門弟杉山杉風の子孫。画像の家紋は杉山杉風の家紋・丸に横木瓜紋。


江角マキコ。1966年12月18日 – 、女優、タレント。
島根県出雲市出身。本名は平野真紀子。高校卒業後、バレーボール選手として活躍。後にモデルに転進。代表出演作「ショムニ」「ラブ・レボリューション」「トリプル・キッチン」等。画像は青山・長谷寺にある江角家の墓所にて撮影。


安住紳一郎。1973年8月3日 – 、アナウンサー。
北海道帯広市出身。1997年にTBSに入社。『ぴったんこカン・カン』『中居正広の金曜日のスマたちへ』等の人気番組のレギュラー司会者として活躍する。ラジオ番組『安住紳一郎の日曜天国』において自家の家紋が木瓜紋であることを告白した。


出島。1974年3月21日 – 、元大相撲力士。
石川県金沢市出身。本名は出島武春。現役時代の最高位は東大関。幕内成績:546勝478敗98休(勝率.533)。現在は大鳴戸を襲名している。出足が冴えたときには四股名に因み「出る出る出島」また「白い弾丸」とも呼ばれた。家紋は丸に横木瓜紋。


高岡蒼甫。1982年2月8日 – 、俳優。
東京都出身。本名は非公開。宮崎あおいは元妻。『ROOKIES』『リアル・クローズ』に出演し人気を博す。2011年に自身の思想信条をツイッターで告白。それが原因で所属事務所との契約を解消。家紋は丸に横木瓜紋。ツイッターのアイコンより判断。

まさむね


何故、福男選びは足が不自由な恵比寿様の前で行われるのか

昨日、恒例の開門神事福男選びがあった。

西宮神社は”えべっさん”(恵比寿様)を奉る神社である。
ご存知の通り、恵比寿様は、イザナギ命とイザナミ命との間に生まれた最初の子である。
ところが、不具であったため葦の舟に入れて流され、この西宮に漂着し、海を司る神として祀られたという。

そのために、恵比寿像は座っている、あるいは膝立ちしている。
(写真はJR恵比寿駅前にある恵比寿像)
すなわち、恵比寿様は足が不自由な神様なのである。

さて、開門神事福男選びであるが、元々、1月9日の夜は、”えべっさん”が市中を廻られるということで、氏子は家に篭る風習があったという。
おそらく、その篭りには、”えべっさん”の不恰好な徘徊を見ては失礼だという氏子達の配慮という面もあったのではないかと、僕は思う。

そして、その忌篭りが解かれたと同時に、氏子達は、一斉に神社まで駆ける。
その風習が、現在の開門神事福男選びの起源ということなのだ。
     ◆
しかし、よく考えてみれば、足が不自由な”えべっさん”を前にして、氏子が足を競うというのはどこかおかしくないか。
普通の感覚ならば、逆にえ”べっさん”は嫉妬すると思うのだが。
例えば、弁財天をカップルでお参りすると、そのカップルは別れるという伝説があるみたいに。
しかし、逆に言えば、開門神事の賑わいは、そんな人間の無作法な行事を許してくれるほど”えべっさん”は太っ腹な神様、という事の証明なのではないだろうか。
それだけ太っ腹だからこそ、どんな人に対しても大漁安全、商売繁盛を約束してくれるのだ。
     ◆
あるいは、”えべっさん”は自らの御足を、ある種、スケープゴードにすることによって、氏子に健脚を保障したのかもしれない。
雛人形の川流しが元々、それらを生贄にすることによって、子供達の健康を守るように。
あるいは、縄文時代の土偶は必ず体の一部が壊されて、埋められたという話を聞いたことがある。
それは次に生れてくる子が、五体満足に生れてくるようにとの願いが込められていたというのだ。
     ◆
本当の事はわからない。

もしかしたら、何も考えないで、いつの間にか、なんとかく、そういう儀式になったのかもしれない。
おそらく、その確率が高い。
しかし、そうだとしても、それはそれで、日本的なおおらかさがあって、僕は好きである。

まさむね

引両紋 -無骨な武家紋の代表- 足利尊氏、近藤勇、オノ・ヨーコ...

引両紋は、源平時代からある古い紋である。
引両の両は霊(精霊)を表し一引両は「日」を、二引両は「月」を表すという説、両は「龍」を表すという説、あるいは「結界」を表すという説などがあり、いまだに議論が続いている。

ただ、少なくとも武家の紋が元々、戦場で自分を目立たせるためにつけたのが始まりであるため、引両のような簡単に描ける紋は実用的だったのではないかと考えられている。
建武の時代、新田軍(一引両)が足利軍(二引両)を追い落とした際に投降した兵士達が自持の笠符(かさじるし)の二引の間の白いところを黒く塗りつぶし、急ごしらえで一引両に直したため、翌日、五条の辻に以下のような落書が書かれたという。(「家紋散策」による)

二筋の中の白みを塗り隠し 新田新田(ニタニタ)しげな 笠符かな

室町時代が全盛で、足利氏族の吉良、斯波、一色、山名、今川、細川、畠山等の大名がこの紋を使用した。
種類としては、線の数で、一引両、二引両、三引両がある。

シンプルで、ある意味、無骨な紋のため、鍋蓋、あるいは釜蓋などと呼ばれ、女性からは人気がなかったようである。

全国分布では18位。特に多い地域は、山梨県(11位)、東京都(12位)、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、愛媛県などが13位、栃木県、長野県が14位、青森県、群馬県、千葉県、兵庫県、岡山県、広島県で15位といったところ。

有名人では以下の人々が使っている。元々武家紋であるため政治家が多い。


新田義貞。1301年 – 1338年8月17日、武将。
源義国の子・贈鎮守府将軍新田義重を祖とする上野国に土着した新田氏本宗家の8代目棟梁。読みは、にったよしさだ。足利尊氏の京都六波羅攻略に呼応して挙兵。北条方を撃破し、鎌倉幕府を滅亡させる。家紋は新田一つ引両紋(大中黒紋)。


足利尊氏。1305年8月18日 – 1358年6月7日、武将。
鎌倉幕府の御家人・足利貞氏の次男。読みは、あしかがたかうじ。後醍醐天皇挙兵に応じて六波羅探題を滅ぼすが建武の新政に失望し光明天皇を擁立、征夷大将軍に補任され室町幕府を開く。画像は足利市・法玄寺の北条時子墓の丸に二引両紋。


赤松満祐。1381年 – 1441年9月25日、守護大名。
播磨・美作・備前の守護大名・赤松義則の子。読みは、あかまつみつすけ。二度に渡って侍所頭人を務め幕府内の長老格として権勢を振るう。結城合戦の祝勝会として足利義教を自邸に招き暗殺(嘉吉の乱)するが派遣された幕府軍に敗北した。


山名宗全。1404年7月6日 – 1473年4月15日、守護大名。
家系は清和源氏、河内源氏の流れを汲む新田氏庶流の山名氏。読みは、やまなそうぜん。嘉吉の乱後、播磨国など8ヶ国の守護職を得て権勢を得た。大内氏や細川氏と縁戚関係を結ぶが足利義政と対立。応仁の乱では西軍を率い幕府管領の細川勝元と対抗した。


三浦義同。1451年 – 1516年8月19日、武将、小大名。
扇谷上杉家から、新井城(三崎城とも)主・三浦時高の養子に入る。出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることも多い。読みは、みうらよしあつ。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主。家紋は三つ引。


今川義元。1519年 – 1560年6月12日、守護大名・戦国大名。
駿河今川家第9代当主。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流吉良氏の分家にあたる。所領も駿河・遠江・三河、尾張の一部にまで拡大したが桶狭間の戦いで信長軍の奇襲により戦死。家紋は二引両と赤鳥(左)。


蘆名盛氏。1521年 – 1580年7月28日、陸奥の武将。
第15代当主・蘆名盛舜の子として生まれる。山内氏を討ち、会津から中通りにかけて勢力を拡大。一方で白河結城氏の白河義親の家督相続問題に介入したり、二階堂盛義を攻めて降伏させ二本松義国と同盟する等して軍事的・政治的に勢力を拡大した。


吉川元春。1530年 – 1586年12月25日、武将。
毛利元就の次男で毛利両川の一人。吉川氏は藤原南家流、安芸国を領有した鎌倉幕府御家人。毛利両川の一人として弟の小早川隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げた名将。生涯で76度の合戦に臨み64度の勝利を収める。家紋は丸に三つ引両。


里見義弘。1530年- 1578年6月25日、戦国時代の武将。
安房の戦国大名、里見義堯の長男。里見家の本姓は源氏。家系は源義重を祖とする新田氏の庶宗家。第二次国府台合戦で北条綱成と戦うなど、後北条氏と徹底して対立。安房、上総、下総にかけて一大領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を築き上げる。


古田織部。1544年 – 1615年7月6日、戦国時代の武将。
茶人の古田重定の子として生まれる。信長、秀吉の家臣だが一般的には茶人として有名。利休七哲の一人。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。


最上義光。1546年2月1日 – 1614年2月26日、武将・大名。
家系は清和源氏の流れを汲む足利一門・斯波氏の血筋。最上氏第11代当主。読みは、もがみよしみつ。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原合戦において東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させた。家紋は二引両。


細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。丹後宮津城主、豊前小倉藩初代、熊本藩細川家初代藩主。教養人・茶人としても有名。元首相の細川護熙は末裔。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。


伊達政宗。1567年9月5日 – 1636年6月27日、武将。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。出羽国と陸奥国の戦国大名。仙台藩の初代藩主。最も古い紋は縦三つ引き両。九曜紋は細川氏から使用を許可される。仙台笹、仙台牡丹も使用。画像は谷中霊園の伊達家墓所にて撮影。


間部詮房。1666年6月18日-1720年8月19日、側用人、藩主。
6代将軍徳川家宣の側用人として活躍。新井白石とともに、「正徳の治」を断行。猿楽師・喜多七太夫の弟子であったが、甲府藩主・徳川綱豊の用人として用いられ出世。のちに高崎藩5万石を得た。日本の歴史上において猿楽師が大名になった例は他にない。


遠山金四郎景元。1793年9月27日 – 1855年4月15日、旗本。
明知遠山氏の分家六代目にあたる人物。父親は長崎奉行を勤めた遠山左衛門尉景晋。正式な名のりは遠山左衛門尉景元。江戸北町奉行。時代劇『遠山の金さん』のモデルとして知られる。家紋は丸に二引き両。丸に九字直違も使用。


佐久間象山。1811年2月28日 – 1864年7月11日、兵学者・思想家。
信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。読みは、さくましょうざん。私塾・象山塾には長岡藩士以外にも勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などが名を連ねる。動乱の京都で開国佐幕派の策士として活動したが、尊皇攘夷派の刺客によって暗殺された。


吉田東洋。1816年 – 1862年5月6日、土佐藩士、政治家。
土佐国出身。父は藩馬廻役吉田光四郎正清。土佐藩主山内容堂から参政に起用され富国強兵論を主張し藩政改革を行う。また私塾では後藤象二郎、岩崎弥太郎などを育てる。家紋は半二つ引両紋。画像は息子・吉田正春の墓所(谷中霊園)にて撮影。


伊達宗城。1818年9月1日 – 1892年12月20日、大名・政治家。
旗本・山口直勝の次男として江戸に生まれるが宇和島藩主伊達宗紀の養子となる。読みは、だてむねなり。後に宇和島藩8代藩主となり賢公と称えられる。家紋は他に宇和島笹、九曜紋等。画像は小金井公園にある宇和島藩伊達家・門の丸に竪三つ引両紋。


三浦休太郎。1829年9月15日 – 1910年12月11日、政治家。
西条藩士・小川武貴の長男として生まれ紀州藩に出仕。いろは丸沈没事件で紀州藩代表として交渉。龍馬暗殺を疑われ天満屋事件海援隊士らに急襲される。新政府では元老院議官、東京府知事等を歴任。家紋は丸に出二つ引両紋。画像は妙行寺にて撮影。


若松竹軒。1831年 ‐ 1908年12月18日、漢学者。
上野沼田藩士。名は節。字(あざな)は甘吉。読みは、わかまつちくけん。川崎魯斎、佐藤一斎らに学ぶ。江戸麻布に漢学の塾を開き、のちに商工学校で教える。著作に「大学句解」がある。家紋は、丸に太二引両紋。護国寺の墓所にて撮影。


近藤勇。1834年11月9日 – 1868年5月17日、幕臣。
農民・宮川久次郎の三男として出生。幼名は勝五郎。新選組局長として京都警護のため奔走。池田屋襲撃、禁門の変で活躍。鳥羽・伏見の戦いに敗れ、斬首されて京都・三条河原に梟首された。家紋は丸の内に三つ引両。画像は三鷹市・龍源寺にて撮影。


高畠藍泉。1838年5月12日 – 1885年11月18日、ジャーナリスト。
江戸幕府御本丸奥勤のお茶坊主衆の家に生まれる。読みは、たかはたけらんせん。東京日日新聞、読売新聞等の記者を務める。小説家としては「怪化百物語」等の作品がある。三世・柳亭種彦と言われた。画像は浅草松葉町正定寺の墓所にて撮影。


宮島誠一郎。1838年8月25日 – 1911年3月15日、官僚・政治家。
米沢藩の中級武士・宮島吉利の子として生まれる。幕末に締結された奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たした。明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行なう。家紋は丸に二引両紋。青山霊園の墓所にて撮影。


松田道之。1839年6月22日 – 1882年7月6日、内務官僚、政治家。
鳥取藩家老・鵜殿氏の家臣久保居明の次子として生まれ、後に松田市太夫の嗣子となる。大津県令、滋賀県令、東京府知事を歴任。琉球処分において中心的な役割を果たした。家紋は外雪輪に変り三つ引両紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


原田左之助。1840年 – 1868年7月6日、新選組隊士。
伊予松山藩の中間だったが出奔。槍の名手。近藤勇の江戸道場、試衛館以来の生え抜き隊士で十番組長となる。池田屋事件、禁門の変、油小路事件等で活躍。彰義隊に加入し上野戦争の際に負傷した。家紋は丸に一引両紋。画像は薄桜鬼の原田左之助。


松本楓湖。1840年10月9日 – 1923年6月22日、日本画家。
常陸国河内郡出身。読みは、まつもとふうこ。欽定教科書『幼学綱要』全7巻において61図の挿絵を描き名を轟かせた。日本美術院の創設に参加。歴史画に長じ「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」を発表。家紋は五つ瓜に丸に二引両。画像は谷中・全生庵にて撮影。


吉田稔麿。1841年3月16日 – 1864年7月8日、長州藩の活動家。
萩藩松本村新道の足軽吉田清内の嫡子。読みは、よしだとしまろ。吉田松陰の松下村塾に入門し兵学を究める。高杉晋作、久坂玄瑞と並び松陰門下の三秀の一人と称される。高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。池田屋事件で憤死。家紋は丸に二つ引両。


高木兼寛。1849年10月30日 – 1920年4月13日、医学者。
薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷に出生。読みは、たかきかねひろ。戊辰戦争には薩摩藩兵の軍医として従軍。東京慈恵会医科大学を創設し脚気の撲滅に尽力しビタミンの父と呼ばれる。また海軍の食事にカレーを導入した。画像は青山霊園にて撮影。


新井有貫。1849年12月25日 – 1909年12月1日、海軍軍人。
東京青山生まれ。幕臣出身。読みは、あらいありつら。日清戦争に扶桑艦長として出征し黄海海戦で功をたてる。日露戦争時には仁川で沈没したロシア軍艦ワリアークの引き上げを成功させた。最終階級は海軍中将。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


荻野吟子。1851年4月4日 – 1913年6月23日、医師。
武蔵国幡羅郡俵瀬村に、代々苗字帯刀を許された名主の末娘として生まれる。近代日本における最初の女性の医師となり、本所区小梅町に医院を開業する。女性運動家としても知られ、廃娼運動に取り組む。家紋は丸に二引両。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


平山藤次郎。1851年8月 – 1910年5月11日、海軍軍人。徳島藩士。
西南戦争で功あり太政官より金五十円を下賜される。「天城」艦長、「葛城」艦長を経て日清戦争で「八重山」艦長などを務めるも船上の不祥事で予備役に入る。後に商船学校長となるが最終階級は海軍大佐。青山霊園の墓所にて撮影。


仁尾惟茂。1853年12月28日 – 1932年4月11日、官僚。
土佐国出身。読みは、におこれしげ。戊辰戦争や会津戦争に従軍。維新後、大蔵省の官僚として煙草専売局長、専売局長官などを歴任。韓国政府の財政顧問も勤める。中村市の日本たばこ構内に銅像が建つ。家紋は丸に二引両紋。画像は青山霊園にて。


高平小五郎。1854年1月29日 – 1926年11月28日、外交官。
岩手県一関市の生まれ。陸奥国一関藩の藩士田崎三徹の三男。外交官として日露講和会議に外務大臣小村寿太郎とともに全権委員として出席。駐米大使時代には高平・ルート協定を結んだ。家紋は丸に二引両紋。画像は多磨霊園にて撮影。


有馬良橘。1861年12月16日 – 1944年5月1日、海軍軍人。
紀伊和歌山に紀州藩士・有馬元函の長男として出生。読みは、ありまりょうきつ。養子に海軍中将・有馬寛がいる。日露戦争・旅順港閉塞作戦の立案者。最終階級は海軍大将。晩年は明治神宮宮司を務めた。家紋は丸に二引両紋。画像は青山霊園にて撮影。


浅田栄次。1865年5月22日 – 1914年11月10日、英語学者。
徳山藩出身。東京帝国大学(現:東京大学)にて数学を学んだ後、渡米して神学と言語学を学ぶ。帰国後、東京外国語学校(現:東京外国語大学)などにおいて英語教育に尽力した。家紋は隅切り鉄砲角に二引両紋。画像は多磨霊園にて撮影。


福田雅太郎。1866年7月7日 – 1932年6月1日、陸軍軍人。
大村藩藩士・福田市兵衛の二男。読みは、ふくだまさたろう。日露戦争では秋山真之らとともに対露早期開戦を主張。関東大震災時は関東戒厳司令官。最終階級は陸軍大将。大日本相撲協会会長にも着任。家紋は丸に竪二引両紋。青山霊園にて撮影。


神保小虎。1867年6月19日 – 1924年1月18日、地質・鉱物学者。
江戸の生まれ。北海道,樺太あるいはウラジオストック地方などの地質調査を行い東京地質学会会長、東京地学協会会長を務める。著作には『北海道地質報文』『日本鉱物略記』などがある。家紋は丸の内に縦二引き両紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


浜口雄幸。1870年5月1日 – 1931年8月26日、政治家。
高知県長岡郡出身。大蔵大臣、内務大臣歴任後、第27代内閣総理大臣となる。在任中に金解禁や緊縮政策を断行し、ロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。その風貌からライオン宰相と呼ばれた。家紋は丸に上付き二つ引両紋。画像は青山霊園にて撮影。


島崎藤村。1872年3月25日 – 1943年8月22日、詩人、小説家。
信州木曾の馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。本名、春樹。『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。家紋は丸に三引両紋。画像は馬籠宿の永昌寺の島崎家墓所より。


木暮理太郎。1873年12月7日 – 1944年5月7日、登山家。
群馬県生まれ。山岳展望や登山史の研究、地名の考証にも大きな熱意を示す。著書『山の憶い出』は日本の山岳書中でも内容の濃い傑作される。職業は、雑誌『ハガキ文学』や東京市の史料の編纂。家紋は丸に三つ引両紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


静間知次。1876年5月5日 – 1926年12月7日、陸軍軍人。
山口県出身。読みは、しずまともじ。日露戦争に野戦鉄道提理部員として従軍。戦後、陸軍砲工学校教官、伊大使館付武官など勤め国際連盟空軍代表、砲工学校長となる。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に二引両紋。画像は青山霊園にて撮影。


西義一。1878年1月1日 – 1941年4月15日、陸軍軍人。
福島県出身。旧会津藩士・西忠義の長男として生れる。日露戦争では第2師団後備野砲中隊長として出征。後に、第8師団長となり満州で活動した。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に二引両紋。画像は多磨霊園にて撮影。


上田良武。1878年5月6日 – 1957年2月21日、海軍軍人。
鹿児島県出身。読みは、うえだよしたけ。正四位勲三等功四級。1924年に海軍少将となる。最終階級は海軍中将。義勇財団海防義会の理事長となる。終戦後に第一次A級戦犯として指名を受ける。家紋は丸に一引両紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


三船久蔵。1883年4月21日 – 1965年1月27日、柔道家。
岩手県久慈町に生まれる。読みは、みふねきゅうぞう。身長159cm、体重55kgの小柄な体型ながら「空気投げ」などの新技をあみ出し最高位の十段を授けられ「名人」の称を受ける。「柔道の神様」とあがめられた。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。


中勘助。1885年5月22日 – 1965年5月3日、作家・詩人。
東京神田生まれ。漱石の推薦で自伝的小説『銀の匙』を東京朝日新聞に連載。嫌味のない美しい文章は、今なお評価が高い。文壇政治から距離を置き特定の派閥にとらわれない孤高の文人だった。野上弥生子の初恋の人。画像は青山霊園にて撮影。


石原莞爾。1889年1月18日 – 1949年8月15日、陸軍軍人。
山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、石原啓介の息子。陸軍大学校を次席で卒業。満州事変を実行。23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で満州を占領した。スローガンは「王道楽土」「五族協和」。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に三つ引両紋。


三神吾朗。1889年11月6日 – 1958年6月24日、プロ野球選手。
山梨県中巨摩郡出身。甲府電灯会社の創業者・三神有長の五男。日本にまだプロ野球が無い時代にアメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」でプレーしジャップ・ミカドという日本人選手として後世に伝説を残す。青山霊園の墓所にて撮影。


甘粕正彦。1891年1月26日 – 1945年8月20日、陸軍軍人。
宮城県出身。甘粕事件で軍法会議で懲役10年の刑を受けたが出獄。フランスに渡った後、満州事変の陰謀に加わり黒幕となる。満州国民政部警務司長に就任するが敗戦時に新京で服毒自殺した。最終階級は陸軍大尉。画像は多磨霊園にて撮影。


成田きん。1892年8月1日 – 2000年1月23日、タレント。
愛知郡鳴海村で矢野家の長女。長寿で話題となった双子姉妹の一人。愛称はきんさん。(妹はぎんさん)。血液型O。満107歳没。100歳を過ぎても元気な姿は「理想の老後像」と言われ国民的アイドルとして慕われた。家紋は成田家の丸に二引両紋。


新田純興。1897年1月14日 – 1984年8月1日、サッカー指導者。
裁判官の父・純孝の任地・函館にて出生。新田家は新田義貞の流れを組む。読みは、にったすみおき。大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)創設に尽力。後にJFA常務理事に就任。日本サッカー殿堂入り。家紋は新田一つ引き紋。画像は谷中霊園にて撮影。


佐伯祐三。1898年4月28日 – 1928年8月16日、洋画家。。
大阪市出身。藤島武二に師事し東京美術学校に学ぶ。満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。代表作は『郵便配達夫』『パリの裏街』『ガス灯と広告』など。家紋は丸の内に二引両紋。


小国英雄。1904年7月9日 – 1996年2月5日、脚本家。
青森県八戸市出身。読みは、おぐにひでお。黒澤作品の脚本家として活躍。代表脚本は『生きる』『天国と地獄』。映画監督としては『ロッパ歌の都へ行く』『金語楼の親爺三重奏』を残す。家紋は丸の内の三引両紋。画像は多磨霊園にて撮影。


ディック・ミネ。1908年10月5日 – 1991年6月10日、歌手。
徳島市出身。本名は、三根徳一。東京帝国大学卒の厳格な教育者・三根円次郎(土佐中学校・高等学校・初代校長)を父に持ち、日光東照宮の宮司の娘を母に持つ。代表曲は『波止場がらす』『二人は若い』。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


古関裕而。1909年8月11日 – 1989年8月18日、作曲家。
福島県福島市の呉服店「喜多三」に出生。本名は古關勇治。読みは、こせきゆうじ。早大応援歌「紺碧の空」、高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神の「六甲おろし」など多くの応援歌の作曲を手がける。家紋は丸に二引き。画像は春秋苑にて撮影。


山形勲。1915年7月25日 – 1996年6月28日、俳優。
英国・ロンドン生まれ。本名は塙勲。時代劇の名悪役として名高い。『水戸黄門』の柳沢吉保役ははまり役。米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ・ベルリン・ヴェネツィア)の全てで受賞。家紋は丸に二引両紋。画像は南池袋・玄静寺の墓所。


丘灯至夫。1917年2月8日 – 2009年11月24日、作詞家。
福島県田村郡小野新町出身。本名・西山安吉。読みは、おかとしお。代表作は『高原列車は行く』『高校三年生』等の歌謡曲や『ハクション大魔王』『みなしごハッチ』『ガッチャマンファイター』などのアニメ主題歌。家紋は丸の内に二引両紋。


村田英雄。1929年1月17日 – 2002年6月13日、演歌歌手、俳優。
佐賀県東松浦郡相知町出身。出生は福岡県浮羽郡吉井町。本名は梶山勇。「王将」のミリオンヒットにより第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。「人生劇場 飛車角」「兄弟仁義」等の任侠映画に出演。家紋は丸に二引両紋。記念館のHPのアイコンもこの紋。


三橋美智也。1930年11月10日 – 1996年1月8日、演歌歌手。
北海道函館市近郊の上磯町出身。本名は北沢美智也。春日八郎、村田英雄らとともに戦後日本を代表する流行歌手。代表曲は「古城」「哀愁列車」など多数。三橋美智也の家紋は丸に三つ引両紋だが、小平霊園の北沢美智也の墓には丸に橘紋がある。


三浦哲郎。1931年3月16日 – 2010年8月29日、作家。
青森県八戸市三日町の呉服屋「丸三」の三男として出生。読みは、みうらてつお。『忍ぶ川』で芥川賞を受賞。NHK朝の連続テレビ小説『繭子ひとり』の原作を書く。1984年から2003年まで芥川賞選考委員を務めた。家紋は丸に三つ引両紋。


オノ・ヨーコ。1933年2月18日 – 、前衛芸術家。平和運動家。
東京府出身。明治・大正期の銀行家、日本興業銀行の第4代総裁・小野英二郎の孫。ジョン=レノンと結婚。レノン死後も「愛と平和」のメッセージを世界に向けて発信し続ける。家紋は丸の内に一引両紋。画像は多磨霊園の小野家墓所にて撮影。


若尾文子。1933年11月8日 – 、女優。
東京市豊島区出身。本名は黒川文子。亡夫は建築家の黒川紀章。甲州財閥・若尾逸郎の一族。大映から映画界入り。代表出演作は『赤線地帯』『女は二度生れる』『新・平家物語』など。家紋は丸に三つ引両紋。画像は多磨霊園の若尾徳平の墓所にて撮影。


高橋悦史。1935年8月2日 – 1996年5月19日、俳優で、声優。
大阪府岸和田市に大工の息子。日活映画『私、違っているかしら』に出演し映画デビュー。岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』の青年将校役に抜擢され注目を浴びる。出演作『戦争と人間』『皇帝のいない八月』等。画像は春秋苑にて撮影。


片岡仁左衛門 (15代目)。1944年3月14日 – 、歌舞伎役者、俳優。
大阪府に生まれる。十三代目片岡仁左衛門の三男。芸術祭賞、毎日芸術賞、紫綬褒章等を受賞。テレビドラマ「太閤記」「太平記」「元禄太平記」等に出演。家紋は丸に二引両。また池上本門寺の片岡氏墓所には一つ銀杏巴の紋がある。


ピーコ。1945年1月18日 – 、タレント、評論家。
神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。本名:杉浦克昭。映画評論家のおすぎは一卵性双生児の弟。古舘伊知郎のスタイリストを担当。『とくダネ!』『笑っていいとも!』のレギュラー。『笑っていいとも!』出演時に家紋は丸に三つ引であることを告白。


有元利夫。1946年9月23日 – 1985年2月24日、画家。
岡山県津山市(疎開先)に出生。妻は日本画家の有元容子。独自の宗教的な画風で知られる。『花降る日』で安井賞特別賞、『室内楽』で安井賞を受賞。代表作は「厳格なカノン」「望郷」「出現」等。家紋は丸に二引両紋。画像は谷中・長久院にて撮影。


大原麗子。1946年11月13日 – 2009年8月3日、俳優。
東京都文京区出身。実家は老舗の和菓子屋。数多くの映画、テレビドラマに出演。サントリーCMの「すこし愛して、なが~く愛して」のキャッチコピーはよく知られた。代表出演作『おはん』『春日局』等。家紋は丸に三つ引き両紋。墓は烏山の妙寿寺。


三浦友和。1952年1月28日 – 、俳優。
山梨県塩山市出身。本名は三浦稔。山口百恵(妻)と共演した主演映画・ドラマが次々とヒットし百恵友和コンビ=ゴールデンコンビと呼ばれた。代表出演作は『赤いシリーズ』『独眼竜政宗』等。結婚式披露宴の紋付と姓名より三つ引両と判断。


河野太郎。1963年1月10日 – 、政治家。
出身地は神奈川県平塚市。父は、元衆議院議長の河野洋平。祖父は元衆議院議員河野一郎。総務大臣政務官、法務副大臣を歴任。谷垣総裁の下で幹事長代理に正式に就任。家紋は丸に三つ引両紋。画像は小田原・成願寺の河野家墓所にて撮影。


栃東大裕。1976年11月9日 – 、元大相撲力士。
東京都足立区出身。元関脇・栃東知頼の次男。玉ノ井部屋に所属。序の口から幕の内まで各段優勝を果たす。最高位は大関。現在は年寄・14代玉ノ井。幕内最高優勝:3回。通算成績:560勝317敗169休(75場所)。家紋は丸に三つ引両。


琴奨菊和弘。1984年1月30日 – 、大相撲力士。
福岡県柳川市に建設会社の三男として生まれる。本名は菊次一弘。佐渡ヶ嶽部屋所属。得意技は左四つ、がぶり寄り、突き、押し。2011月9月場所で12勝を上げ、念願の大関昇進を果たす。時津風部屋の豊ノ島とは良きライバル。家紋は丸に二つ引両。

まさむね



蔦紋 -遊女が好んだ優美な紋- 藤堂高虎、谷崎潤一郎、いかりや長介...

蔦紋は、江戸時代におおいに広まった。
大名では、藤堂、松平、六郷などの諸氏が使用している。一方で、遊郭でも大流行。形が優美で、しかも、纏わりついて繁栄するという蔦の姿が、遊女達の心情を表現していたからであろうか。

石川県(1位)、新潟県(2位)、富山県(4位)、島根県(5位)など、日本海側の各県で使用者が多い。
逆に高知県では24位と断然少ない。また、佐賀県で16位、山梨県、長崎県で15位、青森県、岐阜県、和歌山県で14位と少ない。

使用している有名人は以下である。
何故か、政治家よりも文化人が多いのが目立つ。


松永久秀。1510年 – 1577年11月19日、戦国時代の武将。
出身については阿波国・山城国西岡・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を殺害し畿内を支配。第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者。北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とされる。


藤堂高虎。1556年2月16日 – 1630年11月9日、武将・大名。
近江犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。築城の名手としても知られている。家紋は藤堂蔦。画像は染井墓地の藤堂家の墓所にて撮影。


成富茂安。1560年 – 1634年、龍造寺氏次いで鍋島氏の家臣。
佐賀県佐賀市鍋島町増田に生まれ、龍造寺隆信、龍造寺政家、鍋島直茂などに仕える。熊本城などの築城、筑後川の堤防工事、潅漑事業に手腕を振るう。明治天皇に業績を賞賛され従四位を追贈される。家紋は丸に蔦紋。画像は佐賀市本行寺の墓所にて撮影。


出雲阿国。1572年 – 没年不詳、女性芸能者。
伝説によれば出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘とされる。1603年春に北野天満宮に舞台をかけて興行を行ない大変な人気を集めた。江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえた。歌舞伎の創始者。画像は出雲大社近くの阿国のものとされる墓。


徳川吉宗。1684年11月17日 – 1751年7月12日、将軍。
徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。江戸幕府の第8代将軍に就任し、新田開発、定免法や上米令、目安箱の設置、公事方御定書の制定、江戸町火消しを設置等、いわゆる享保の改革を行う。定紋の三つ葉葵紋の他、蔦紋も使用。


蔦屋重三郎。1750年2月13日 – 1797年5月31日、版元(出版人)。
父(丸山氏)は江戸の吉原で遊廓の勤め人。喜多川氏の養子になる。蔦屋は喜多川氏の屋号、吉原の茶屋。山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿東洲斎写楽の浮世絵の出版をした。家紋は山形に蔦。画像は「蔦屋重三郎展」のポスターより。


山田検校。1757年6月14日 – 1817年5月25日、箏曲家。
尾張藩・宝生流能楽師の三田了任の子で山田は母方の姓。本名は斗養一。浄瑠璃の叙事的な要素を導入して語り物的な箏曲の分野を確立した。代表作は「小督の曲」「長恨歌の曲」「葵上」。没年には当道最高位の惣録検校に昇進した。家紋は鬼蔦紋。


瀧山。1805年 – 1876年1月14日、大奥御年寄。
御鉄砲百人組・大岡義方の長女。江戸幕府12代将軍徳川家慶・13代家定・14代家茂時代の御年寄を務め江戸開城に伴い大奥の最後の幕引きをした。家紋は丸に大割り蔦紋。家紋画像は川口・錫杖寺にて撮影。顔画像は『篤姫』の稲盛いずみ。


古河市兵衛。1832年4月16日 – 1903年4月5日、実業家。
幼名は木村巳之助。木村家は京都岡崎で代々庄屋を務める家柄。渋沢栄一から援助を受け、事業を発展させる。足尾銅山を買収。古河財閥の創業者。事業は後の古河電気工業へと発展していく。家紋は鬼蔦紋。画像は南麻布・光林寺にて撮影。


頼山陽。1780年1月21日 – 1832年10月16日、歴史家、文人。
広島藩の城下の袋町に育つ。幼名は久太郎。主著『日本外史』が幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。画像は、帆足杏雨筆の頼山陽像。紋付の家紋は丸に蔦紋。定紋は四つ又抱き鹿角。


有村次左衛門。1839年2月11日 – 1860年3月24日、尊攘派志士。
薩摩藩士・有村兼善の四男として生まれる。兄に後の貴族院議員・海江田信義。大老井伊直弼暗殺を水戸藩士らと計画し、江戸城桜田門外で行列を襲撃した。のちに正五位が追贈される。家紋は浮線蔦。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


市川左団次(初代)。1842年11月30日 – 1904年8月7日、役者。
大坂道頓堀生まれ。父は歌舞伎役者の結髪師・中村清吉。本名は高橋榮三。明治座を新築し、座元(劇場所有者)として近代的な劇場経営を行う。定紋は三升に左の字、替紋は松川菱に鬼蔦。また、肖像写真から中陰鬼蔦も使用と判断。


藤堂平助。1844年 – 1867年12月13日、新選組隊士。
武蔵国江戸出身。新選組結成当時からの同志。新選組八番組組長。池田屋事件では、近藤勇・土方歳三に次ぐ褒賞金を幕府から下賜される。伊東甲子太郎に従って新選組を離脱し後に油小路事件で暗殺される。家紋は丸に蔦紋。画像は薄桜鬼の藤堂平助。


森有礼。1847年8月23日 – 1889年2月12日、薩摩藩士・政治家。
薩摩国鹿児島城下春日小路町で薩摩藩士森喜右衛門有恕の五男として生まれた。明治維新後に福澤諭吉、西周らと共に明六社を結成。初代の文部大臣。英語の国語化を提唱したことでも有名。家紋は頭合わせ三つ鬼蔦。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


東郷平八郎。1848年1月27日 – 1934年5月30日、海軍軍人。
薩摩国鹿児島城下出身。父親は薩摩藩士・東郷実友。日本海軍司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し日本の国際的地位を引き上げた。特に日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った。最終階級は元帥海軍大将。画像は多磨霊園にて撮影。


島村速雄。1858年10月26日 – 1923年1月8日、海軍軍人。
高知県出身。土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。第四艦隊司令官、海軍兵学校校長、海軍大学校校長、海軍教育本部長、海軍大将を歴任。「天性的に度量のある人物」といわれた。家紋は丸に変り三つ蔓蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


元良勇次郎。1858年12月5日 – 1912年12月13日、心理学者。
摂津国三田出身。旧姓は杉田。読みは、もとらゆうじろう。東京英和学校(青山学院の前身)や、正則予備校の設立に参画。帝国大学文科大学教授として日本における近代心理学の礎を築いた。家紋は鬼蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


高田早苗。1860年4月4日 – 1938年12月3日、政治家、教育家。
東京深川生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立に参加。第1回衆議院議員総選挙に全国最年少で当選。衆議院議員、貴族院議員、早稲田大学総長、文部大臣などを歴任した。家紋は大割り蔦紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


本野一郎。1862年3月23日 – 1918年9月17日、外交官、政治家。
肥前国佐賀生まれ。父は読売新聞創業者の本野盛亨。弟に化学者・早稲田大学教授の本野英吉郎がいる。外務省に入りフランス公使、ベルギー公使を歴任。寺内内閣で外務大臣となる。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


柴田家門。1863年2月6日 – 1919年8月25日、政治家。
萩城下平安古に柴田英佐の長男として出生。第2次山縣内閣の内務省地方局長を務める。後に勅撰の貴族院議員となり、第3次桂内閣の文部大臣に就任。退任後も貴族院議員を務め臨時教育会議の委員を務める。家紋は丸に三つ寄せ蔦紋。画像は青山霊園にて。


田中義一。1864年7月25日 – 1929年9月29日、政治家。
萩藩士・田中信祐の三男として萩に出生。第26代内閣総理大臣在任中に張作霖爆殺事件が起き、それがもとで昭和天皇にも「お前の最初に言つたことと違ふぢやないか」と強く叱責されたため内閣総辞職した。家紋は鬼蔦。画像は多磨霊園にて撮影。


石塚英蔵。1866年10月31日 – 1942年7月28日、官僚、政治家。
福島県出身。会津藩士・石塚和三郎の長男として生まれる。台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官を歴任。台湾総督時代に霧社事件(最大規模の抗日暴動事件)が起こり、辞職している。家紋は丸に二つ中陰蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


幸田露伴。1867年8月22日 – 1947年7月30日、小説家。
江戸下谷三枚橋横町に生まれる。『五重塔』『運命』などの作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。第1回文化勲章受章。娘の文も随筆家、後に小説も書いた。家紋は蔦紋。画像は池上本門寺の墓所にて撮影。


山路一善。1869年4月24日 – 1963年3月13日、海軍軍人。
愛媛県松山市に松山藩士山路一審の三男として生まれる。明治から大正の大日本帝国海軍の海軍中将。日本海軍での航空兵力の導入、整備に尽力し、海軍航空の生みの親と呼ばれる。家紋は丸に大割り蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


尾上柴舟。1876年8月20日 – 1957年1月13日、詩人、歌人。
岡山県苫田郡津山町出身。本名は尾上八郎。読みは、おのえしばふね。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ同藩士・尾上動の養子となる。「叙景詩」を刊行し浪漫主義に対抗して叙景詩運動を推し進めた。家紋は三つ蔦紋。画像は多磨霊園にて。


植原悦二郎。1877年5月15日 – 1962年12月2日、政治家。
長野県南安曇郡明盛村出身。国民主権論を大胆に主張するなど急進的な大正デモクラットとして言論活動を展開した。戦後、日本自由党の結成に参画し第1次吉田内閣の国務大臣として入閣する。改造後は内務大臣。家紋は蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


佐藤義亮。1878年2月18日 – 1951年8月18日、実業家。
秋田県仙北郡角館町に佐藤為吉の四男として出生。読みは、さとうよしすけ。耐乏生活の末、1896年に新声社(後の新潮社)を立上げて雑誌『新声』を創刊。その後、雑誌『新潮』を創刊した。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


松岡映丘。1881年7月9日 – 1938年3月2日、日本画家。
兵庫県神崎郡の旧家・松岡家に産まれ。本名は輝夫。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がいた。家紋は大割蔦紋。父親の羽織より。


早川徳次。1881年10月15日 – 1942年11月29日、実業家。
山梨県東八代郡御代咲村に生まれる。東京地下鉄道(後、帝都高速度交通営団→東京地下鉄)の創業者。日本に地下鉄を紹介・導入し、「地下鉄の父」と呼ばれる。『帝都物語』にも登場する。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


土肥原賢二。1883年8月8日 – 1948年12月23日、陸軍軍人。
岡山県岡山市出身。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で活躍。「満州のローレンス」と呼ばれていた。終戦後、特に中国からの主張によりA級戦犯として絞首刑となる。最終階級は陸軍大将。家紋は鬼蔦紋。画像は護国寺にて撮影。


長谷川伸。1884年3月15日 – 1963年6月11日、小説家、劇作家。
神奈川県横浜市の土木業の家に生れる。「講談倶楽部」や「都新聞」に山野芋作のペンネームで小説を発表。文学学校「新鷹会」を主宰。門下生に山岡荘八、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎達がいる。代表作「関の弥太っぺ」「股旅草鞋」等。


小松原道太郎。1886年7月20日 – 1940年10月6日、陸軍軍人。
神奈川県出身。海軍工廠技師・小松原五良の長男として生れる。歩兵第57連隊長、関東軍司令部付を歴任。ノモンハン事件のきっかけを作る打電をする。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に蔦紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。


谷崎潤一郎。1886年7月24日 – 1965年7月30日、小説家。
耽美主義とされる作風で、『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し文豪と称された。『文章読本』でみずから主張するような「含蓄」のある文体で日本的な美、性や官能を耽美的に描いた。家紋は丸に蔦紋。画像は巣鴨・慈眼寺の墓所にて撮影。


福留繁。1891年2月1日 – 1971年2月6日、海軍軍人。
鳥取県西伯郡所子村の農家に生まれた。読みは、ふくとめしげる。太平洋戦争中に軍令部第一部長、連合艦隊参謀長などの要職を務め、太平洋戦争中に、日本海軍の作戦の中枢にあった。最終階級は海軍中将。家紋は菱に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


野田高梧。1893年11月19日 – 1968年9月23日、脚本家。
北海道函館市出身。長崎県、愛知県で育つ。小津安二郎とは公私共に良きパートナー。共作という形で『晩春』から『秋刀魚の味』までの全作品を手がける。日本脚本家協会の初代会長を務めた。家紋は八曜に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


松下幸之助。1894年11月27日 – 1989年4月27日、実業家。
和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。松下電気器具製作所を創業。世界的企業・パナソニックに育て上げる。経営の神様と称される。晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。家紋は丸に蔦紋。


大塚敬節。1900年2月25日- 1980年10月15日、医師。
高知県高知市に生まれる。読みは、おおつかよしのり。大塚家は産婦人科・大塚修琴堂医院。昭和期の漢方復権に尽力。東洋医学の発展に貢献した業績により日本医師会より最高優功賞を受賞。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


戸坂潤。1900年9月27日 – 1945年8月9日、哲学者。
東京市出身。京都帝国大学のマルクス主義研究者。西田左派に属し唯物論研究会を創始。治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ栄養失調により、敗戦の直前に長野刑務所で獄死。家紋は丸に知り合わせ三つ蔦。画像は多磨霊園にて撮影。


下山定則。1901年7月23日 – 1949年7月6日、鉄道官僚。
兵庫県出身。日本国有鉄道が発足して初代総裁に就任した。総裁として職員約10万人の解雇を決定し第一次整理の3万700人を通告したが直後、消息を絶ち轢死体となって発見された(下山事件)。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


柳家三亀松。1901年9月1日 – 1968年1月20日、三味線漫談家。
東京の木場の材木職人の家に生まれる。本名は伊藤亀太郎。にお色気の音曲漫談では『アハァ~ん』や『イヤァ~ん』等の女性の鼻の掛かった名文句で売り出す。余りに過激すぎて寄席で禁止令が出る程だった。芸術祭奨励賞を受賞。家紋は中陰鬼蔦紋。


富田常雄。1904年1月1日 – 1967年10月16日、小説家。
柔道家富田常次郎の子として東京府に生まれる。『姿三四郎』で流行作家となる。戦後、『刺青』、『面』で直木賞を受賞。また、「弁慶」を原作としてNHKで連続ドラマ『武蔵坊弁慶』が放送された。家紋は陰丸輪に蔦紋。画像は谷中・信行寺にて撮影。


円地文子。1905年10月2日 – 1986年11月12日、小説家。
東京府東京市浅草出身。本名は富美ふみ。劇作家として小山内薫の薫陶を受ける。女性の心理を露にした新時代的小説と源氏物語の現代語訳に代表される古典文学の両輪により高く評価され文化勲章を受章するまでに至った。画像は谷中霊園にて撮影。


愛知揆一。1907年10月10日 – 1973年11月23日、政治家。
宮城県仙台市出身。祖父・信元は幕末期、徳川慶喜に小姓。法務大臣、文部大臣及び科学技術庁長官、内閣官房長官、外務大臣、大蔵大臣を歴任。環境庁長官、防衛庁長官の愛知和男は女婿で後継者。家紋は七宝に蔦紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


長谷川一夫。1908年2月27日 – 1984年4月6日、俳優。
京都伏見の芝居小屋の子として生まれる。戦前、戦後の長きに渡って日本を代表する二枚目役者として映画界に君臨。代表作は『雪之丞変化』『沓掛時次郎』『忠臣蔵』など。家紋は丸に鬼蔦紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


ライオン野口。1908年6月2日 – 1961年5月8日、プロボクサー。
東京市本郷区根津出身。日本ウェルター級チャンピオン。日本フライ級チャンピオンの野口恭は次男、キックボクシング創始者の野口修は長男。引退後は愛国社の同人となり、若槻禮次郎民政党総裁を襲撃。家紋は丸に鬼蔦紋。


佐分利信。1909年2月12日 – 1982年9月22日)、俳優。
北海道空知郡歌志内村の炭鉱夫の家に生まれる。上原謙、佐野周二と松竹三羽烏を結成し翌年の三人で主演した「婚約三羽烏」が大ヒット。代表出演作は「お茶漬けの味」「あゝ青春」「華麗なる一族」。家紋は丸に蔦紋。画像は小平霊園にて撮影。


麻生三郎。1913年3月23日 – 2000年4月5日、画家。
東京都中央区に生まれる。渡欧、独立美術協会入選後、新人画会を結成。戦後 自由美術協会に参加。武蔵野美術学校教授。日本国際美術展優秀賞、芸術選奨文部大臣賞、自由美術協会退会後無所属。家紋は丸に蔦紋。画像は、春秋苑の墓所にて撮影。


芝木好子。1914年5月7日 – 1991年8月25日、小説家。
東京・浅草出身。経済学者の大島清と結婚し本姓を芝木から大島へと変える。『青果の市』で第14回芥川賞受賞。戦後に書いた『湯葉』『隅田川』『丸の内八号館』の3作品は自伝三部作と言われ作風が確立される。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園にて。


串田孫一。1915年11月12日- 2005年7月8日、詩人、随筆家。
東京出身。東京帝国大学哲学科卒。文芸誌『アルプ』を創刊、終刊するまで責任編集者を務める。FMラジオ番組「音楽の絵本」でパーソナリティを務めた。主著は詩集『羊飼の時計』『山のパンセ』。家紋は丸に蔦紋。画像は谷中霊園にて撮影。


竹下登。1924年2月26日 – 2000年6月19日、政治家。
島根県飯石郡掛合村に竹下勇造・唯子の長男として生まれる。生家の竹下家は江戸時代には庄屋を務め幕末から現在まで代々造り酒屋を営む素封家。内閣総理大臣(第74代)、衆議院議員(14期)を務めた。ミュージシャンのDAIGOが孫にあたる。


吉行淳之介。1924年4月13日 – 1994年7月26日、小説家。
岡山県岡山市出身。父・吉行エイスケ(詩人)、母・あぐり(美容師)、妹・和子(女優)。『驟雨』で芥川賞を受賞し遠藤周作、安岡章太郎達と第三の新人と言われる。代表作は『驟雨』『原色の街』『暗室』等。本妻の他にも複数の愛人がいた。


谷村昌彦。1927年2月25日 – 2000年8月6日、俳優。
山形県山形市出身。本名は武田忠。浅草六区で俳優としての活動を始める。田舎訛りのキャラクターで活躍。日本喜劇人協会の理事も務めた。代表出演作は『どですかでん』『人生劇場』『必殺仕掛人』。家紋は蔦紋。画像は南池袋・玄静寺の墓所。


阿佐田哲也。1929年3月28日 – 1989年4月10日、小説家、雀士。
東京都新宿区出身。本名は色川武大。色川名義の作品も多かった。代表作は「怪しい来客簿」「離婚」(直木賞受賞作品)「狂人日記」「麻雀放浪記」「次郎長放浪記」。雀聖と呼ばれた。家紋は中陰対い蔦蝶。画像は谷中墓地にて撮影。


いかりや長介。1931年11月1日 – 2004年3月20日、コメディアン。
東京市本所区出身。本名は碇矢長一。父・碇矢一郎は築地の魚河岸で運搬の仕事に従事していた。『8時だョ!全員集合』『ドリフ大爆笑』で一世を風靡。『踊る大捜査線』の和久平八郎役で俳優としても認められる。画像は蓮昌寺にて撮影。


江藤淳。1932年12月25日 – 1999年7月21日、文芸評論家。
東京府豊多摩郡出身。20代より文芸時評をはじめ、特に日本の近代的自我に対する批判を描き出した『奴隷の思想を排す』は大きな影響を与えた。代表作は『夏目漱石』『自由と禁忌』。家紋は蔦紋。叔父・江頭豊氏の葬儀の祭壇の紋より判断。


池内淳子。1933年11月4日 – 2010年9月26日、女優。
東京市本所区東両国生まれ。久保菜穂子、三ツ矢歌子と共に「新東宝現代劇の女優三羽烏」として脚光を浴びる。1960年代から1980年代まで、テレビドラマの女王として君臨した。代表出演作は『新妻鏡』『日日の背信』『東芝 日曜劇場』等。家紋は蔦紋。


児玉清。1933年12月26日 – 2011年5月16日、俳優、司会者。
東京市滝野川区(現・東京都北区)出身。本名・北川 清。『パネルクイズ アタック25』の司会者となり、30年以上にわたり司会を行っていた。俳優としては「ありがとう」「HERO」「龍馬伝」などに出演。家紋は葬儀時の祭壇より蔦紋と判断。


黒川紀章。1934年4月8日 – 2007年10月12日、建築家、思想家。
愛知県海部郡蟹江町生まれ。夫人は女優の若尾文子。弟は建築家の黒川雅之。代表作は『中銀カプセルタワービル』『広島市現代美術館』『福岡銀行本店』等。東京都知事選挙、参院選に出馬するも落選。家紋は丸に蔦紋。梅窓院の黒川家の墓所にて撮影。


野村秋介。1935年2月14日 – 1993年10月20日、右翼活動家。
東京出身。若い頃は出口辰夫の舎弟。五・一五事件の三上卓の影響により右翼となる。戦後新右翼の代表的な論客として憂国道志会を結成。河野一郎邸焼き討ち事件で12年、経団連会館襲撃事件で6年服役。朝日新聞東京本社の社長室にて拳銃自決。


林家木久扇。1937年10月19日 – 、落語家。
東京市日本橋区生まれ。東京大空襲で実家の雑貨問屋が全焼し、廃業。 1960年、落語界入り。「笑点」のレギュラーとなる。現在のメンバーで一番連続出演期間が長い。「全国ラーメン党」を結成し、「木久蔵ラーメン」を開店。家紋は「光琳の蔭蔦」。


石ノ森章太郎。1938年1月25日 – 1998年1月28日、漫画家。
宮城県登米郡石森町出身。代表作は『サイボーグ009』『HOTEL』『仮面ライダー』など。500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』は一人の著者による最も多い漫画出版の記録としてギネス認定された。画像は祥雲寺にて撮影。


ロッキー青木。1938年10月9日 – 2008年7月10日、実業家。
東京都中野区出身。父親はBENIHANA創業者の青木湯之助(画像家紋は湯之助氏の墓所)。青木家は江戸時代は紀州徳川直参の旗本の旧家。アメリカ合衆国で鉄板焼き一大レストランチェーン「BENIHANA」を成功させ、アメリカン・ドリームを実現。


琴櫻傑將。1940年11月26日 – 2007年8月14日、第53代横綱
鳥取県東伯郡倉吉町出身で佐渡ヶ嶽部屋所属。本名は鎌谷紀雄。のど輪で一気に攻める押し相撲を得意とし、「猛牛」との異名を取った。幕内成績:553勝345敗77休 勝率.616。幕内最高優勝:5回。2007年8月14日亡くなる。葬儀時の画像より蔦紋と判断。


輪島大士。1948年1月11日 – 、第54代横綱
石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、全日本プロレス所属の元プロレスラー。日大時代、学生横綱など14個のタイトルを獲得し幕下付出しで入門。初土俵から3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ史上初の学士・本名横綱となる。


笹野高史。1948年6月22日 – 、俳優。
兵庫県津名郡一宮町出身。造り酒屋に四男であった。山田監督の『武士の一分』で第30回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。代表出演作は『母べえ』『おくりびと』『天地人』等。2009年暮れのMacCafeのCMの紋付姿より鬼蔦紋と判断。


春風亭小朝。1955年3月6日 – 、落語家、俳優。
東京都北区出身。本名は花岡 宏行。初代・林家三平の次女泰葉の元夫。1980年に、真打昇進。36人抜きで話題となる。この記録は2008年現在未だ破られていない。篤姫(NHK大河ドラマ)では近衛忠煕役として出演。家紋は光琳の蔭蔦。


水島広子。1968年3月21日 – 、精神科医、政治家。。
東京都出身。読みは、みずしまひろこ。2000年の総選挙で、民主党所属として栃木1区から出馬し、当選。選択的夫婦別姓制度導入のための活動を行う。政界引退後、総務省顧問も務めた。家紋は丸に鬼蔦紋。画像は多磨霊園の水島家の墓所にて撮影。


谷佳知。1973年2月9日 – 、プロ野球選手。
大阪府東大阪市出身。2003年のオリックス時代にはパ・リーグ最多安打のタイトルを獲得。2007年により読売ジャイアンツに移籍。夫人は、元柔道選手・民主党参議院議員の谷亮子。家紋は丸に蔦紋。結婚式披露宴時の紋付より丸に蔦紋と判断。


一青窈。1976年9月20日 – 、歌手。
父は台湾人、母は日本人(石川県出身)。中国語の漢字名は顏窈(イエン・ヤオ)。「顏」は父親の姓。「一青」は母親の姓。2002年に「もらい泣き」でブレイク。代表作「もらい泣き」「ハナミズキ」「はじめて」等。母方(一青姓)の家紋は蔦紋。


琴欧洲勝紀。1983年2月19日 – 、大相撲力士。
ブルガリア出身で佐渡ヶ嶽部屋所属の現役大関力士。身長202cm、体重155kg、握力120kg。長身と、懐の深さ、抜群の格闘技センスで番付を駆け上がり、初土俵から所要11場所で入幕。家紋の「蔦」は先代の佐渡ケ獄親方の紋を継承。

まさむね



桐紋 -日本を象徴する紋- 豊臣秀吉、板垣退助、芥川龍之介...

鎌倉時代後期より、皇室の紋所として使用される。五三の桐、五七の桐がある。
その後、皇室から功のあった臣下に下賜され、さらに、家来に下賜されることによって広まる。

有名なところでは、後醍醐天皇から足利尊氏へ、足利義輝から織田信長へ、正親町天皇から豊臣秀吉へ下賜されている。

一般に織田信長と言えば、織田木瓜、揚羽蝶が有名であるが、長興寺にある一番有名な肖像画には五三桐の紋付を着ている信長が描かれている。
ちなみに、木瓜紋は、織田氏同様、越前の守護・斯波氏の家臣であった朝倉氏も使用しているが、両氏の関係は不明だ。
元々、織田氏は藤原氏からの流れと言われていたが、信長が天下を意識し始めた頃から、その出自を平氏と創作。
その際に、平氏の代表紋である揚羽蝶も使用したのではないだろうか。

信長はリアリストであったので、出自や家紋など、出世のために使えるものは何でも使おうとしたのであろう。
一方、秀吉は、己の出自にコンプレックスを持っていたため、桐紋を下賜されると、それを最大限に活用した。
寺社などの建物、大判・小判など、人目に触れるところにも桐紋を入れさせ、価値を高めようとしたのである。

特に、太閤紋というオリジナルデザイン紋を作らせ、日用品や調度品にも入れさせたという。

その後、徳川家康は朝廷からの桐紋下賜を断り、葵紋にこだわった。この紋に、既に秀吉のイメージが染み付いていたからであろう。
江戸時代は、葵紋以外の家紋に関する規制がなかったため、庶民の間にもこの紋は広まる。

明治時代になると、日本国政府の慣例的な紋章となり、例えば、パスポートのデザインや、総理大臣、外務大臣の演台に取り付けられるプレートに使われている。
昨年、放送された木村拓也主演の総理大臣ドラマ「CHANGE」のオープニングにも桐紋旗がはためいていたので覚えていらっしゃる方もいるのではないか。
最近は、形がオーソドックスで人気があるため、貸衣装屋の紋付では一番品揃えがあるらしい。
全国の分布では、西日本に多い。広島県では一番多い家紋である。

また、有名人でこの紋を使用する人も多い。


豊臣秀吉。1537年3月17日 – 1598年9月18日、武将・戦国大名。
家系は尾張国の百姓の生まれ。はじめ木下氏を名字とし・羽柴氏に改める。織田信長に仕え、数々の戦いで功を挙げ、出世を重ねる。信長死後、日本全土を制圧。刀狩検地、朝鮮出兵を行う。桐紋を信長、朝廷から下賜される。太閤桐はオリジナル。


本居宣長。1730年6月21日 – 1801年11月5日、国学者、医師。
伊勢国松坂の木綿商である小津家の次男として生まれた。(小津安二郎は一族の末裔)。少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。主著は、『古事記伝』『源氏物語年紀考』『玉勝間』等。画像は谷中霊園の本居家の墓所にて撮影の中蔭五三桐紋。


円山応挙。1733年6月12日 – 1795年8月31日、絵師。
丹波国桑田郡穴太村に農家の次男として出生。読みは、まるやまおうきょ。近世の日本の画家のなかでも際立って写生を重視した人物として知られている。代表作は『大乗寺障壁画』『写生図鑑』『雪松図屏風』等。画像は大乗寺の彫像の五七の桐紋。


鹿津部真顔。1753年 – 1829年7月6日、狂歌師・戯作者。
通称は北川嘉兵衛。読みは、しかつべのまがお。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋。狂歌の四天王の一人で狂歌師を職業化し狂歌という名称を俳諧歌と改めた。代表作は狂歌撰集「類題俳諧歌集」等。家紋は五三桐紋。墓所は小石川の光円寺。


式亭三馬。1776年 – 1822年2月27日、戯作者、浮世絵師。
本名は菊地久徳。父の茂兵衛は八丈島出身。読みは、しきていさんば。平賀源内に憧れ当時の人気戯作者・山東京伝に多大な影響を受けた。戯作のモデルとした人足とのトラブルで手鎖の処分を受けた。代表作は「浮世風呂」「浮世床」など。家紋は五三桐。


幾島。1808年7月11日 – 1870年5月26日、女中。
父は薩摩藩御側用人の朝倉孫十郎景矩。読みは、いくしま。江戸幕府13代将軍徳川家定の正室篤姫(天璋院)付きの御年寄となり江戸城と薩摩藩との情報連絡役として活動。NHKの大河ドラマ「篤姫」で松坂慶子(画像)が演じて有名になる。


海江田信義。1832年3月13 – 1906年10月27日、武士、政治家。
薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の長男。生麦事件を起こす。戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として活動するが長州藩の大村益次郎と事あるごとに対立したという。維新後は元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官等を務める。画像は青山霊園にて撮影。


板垣退助。1837年5月21日 – 1919年7月16日、土佐藩士、政治家。
高知城下中島町出身。土佐藩上士・乾栄六正成の長男。戊辰戦争では土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として幕府軍を撃破。自由民権運動の主導者として知られる。戦後、100円札に肖像が用いられた。家紋は土佐桐紋。画像は品川神社にて撮影。


香川敬三。1841年12月27日 – 1915年3月18日、勤皇志士。
水戸藩郷士蓮田重右衛門孝定・袖の3男として出生。攘夷の志士と交わり中岡慎太郎率いる陸援隊の副隊長格となる。戊辰戦争で官軍として活躍。維新後は枢密顧問官、皇太后宮大夫など宮内官僚として要職を歴任。家紋は五七桐紋。青山霊園の墓所にて撮影。


小沢武雄。1844年12月19日 – 1926年1月29日、陸軍軍人。
小倉藩士・小沢義房の長男。第二次長州征伐において軍議役兼陣場奉行を勤める。西南戦争に征討総督本営参謀として出征。最終階級は陸軍中将。貴族院議員に在任し日本赤十字社副社長も勤めた。家紋は五七鬼桐紋。画像は青山霊園にて撮影。


橋本左内。1845年7月24日 – 1909年2月18日、医師、尊王家。
越前国出身。河内源氏の名門・足利氏の連枝・桃井氏(もものいし)の後胤。一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。井伊直弼が発令した安政の大獄のために、小塚原刑場にて斬首された。画像は、青山の長谷寺にある弟・橋本綱常の墓にて撮影。


頭山満。1855年5月27日 – 1944年10月5日、国家主義者。
福岡県出身。読みは、とうやまみつる。玄洋社の総帥として孫文、蒋介石、ラス・ビハリ・ボースら日本に亡命した革命運動家に援助を行う。アジア主義の立場で活動し日韓併合の際、奔走するが植民地化の状態には幻滅したという。画像は青山霊園にて。


波多野伝三郎。1856年9月20日 – 1907年2月13日、政治家。
越後国長岡藩出身。東京横浜毎日新聞に入社。立憲改進党結成とともに入党。衆院議員選挙に当選し第2次松方内閣時代に福井県知事就任したが、当時自由党が大勢を占めた県議会に不信任案を可決される。家紋は丸に五三紋。画像は青山霊園にて撮影。


福本日南。1857年6月14日 – 1921年9月2日、ジャーナリスト。
福岡出身。福岡藩士福本泰風の長男。本名は福本誠。読みは、ふくもとにちなん。陸羯南・古島一雄らと新聞『日本』を創刊した。また、主著の『元禄快挙録』で現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立する。家紋は五三桐紋。画像は青山霊園にて撮影。


村上鬼城。1865年6月10日 – 1938年9月17日、俳人。
鳥取藩士・小原平之進の長男として江戸に出生。母方の村上家の養子となる。本名は村上荘太郎。読みは、むらかみきじょう。司法書士の傍ら『ホトトギス』の同人として活躍。心耳の詠み人と呼ばれる。家紋は五三桐紋。画像は高崎市・龍広寺にて撮影。


望月圭介。1867年4月1日 – 1941年1月1日、政治家。
広島県大崎上島東野村。生家は廻船問屋。衆議院議員に13回連続当選。初当選時には自由党、後に立憲政友会に所属し、原敬内閣時に幹事長に就任。逓信大臣、内務大臣を歴任。門下より池田隼人宮澤喜一という二人の総理大臣を輩出。画像は多磨霊園。


岸清一。1867年8月3日 – 1933年10月29日、IOC委員。
松江雑賀町に松江藩の下級武士岸伴平の次男として生まれる。法曹界の重鎮であり特に民事訴訟法の権威であった。国際オリンピック委員会委員に就任し死ぬまで務めた。東京都渋谷区の岸記念体育会館にその名を残す。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


麻田駒之助。1869年10月14日 – 1948年11月24日、編集者。
京都出身。中央公論社初代社長。西本願寺内局に勤務し『反省雑誌』の編集に携わり後に『中央公論』と改称。また築地本願寺の財政面に参与する『勘定』として尽力。旧邸は登録文化財となっている。家紋は五七桐紋。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。


平山周。1870年3月 – 1940年4月21日、アジア主義者。
筑前国夜須郡出身。宮崎滔天の同志としてアジアの反植民地民族運動を支援した。戊戌政変に際しては梁啓超に同行して彼の日本亡命を助ける。南京国民政府から陸海空軍総司令部顧問に迎えられる。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


下村観山。1873年4月10日 – 1930年5月10日、日本画家。
和歌山県和歌山市出身。狩野芳崖、橋本雅邦らに師事する。東京美術学校を第一期生として卒業後、同校で教授となる。岡倉天心が野に下った時に行動を共にし横山大観、菱田春草と共に日本美術院を創設。家紋は五七桐。画像は多磨霊園にて撮影。


岡麓。1877年3月3日 – 1951年9月7日、歌人、書家。
東京出身。本名は三郎。名前の読みは、おかふもと。正岡子規に入門。「馬酔木」編集同人、『アララギ』で歌を発表。代表歌集は『庭苔』『朝雲』『小笹生』。また書家としても多くの書を残す。家紋は五七の桐紋。画像は文京区高林寺にて撮影。


多門二郎。1878年9月10日 – 1934年2月15日、陸軍軍人。
静岡県出身。医師・多門信夫の二男として出生。読みは、たもんじろう。義兄は松川敏胤(陸軍大将)。第2師団長に親補され満州に駐屯、満州事変が勃発し諸作戦に従軍した。最終階級は陸軍中将。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


長谷川時雨。1879年10月1日 – 1941年8月22日、劇作家・小説家。
東京市日本橋区の弁護士の長女。本名は長谷川康子。読みは、はせがわしぐれ。坪内逍遥に弟子入りし『女人藝術』を創刊。宮本百合子・佐多稲子などの女性作家の発表場所を確保した。代表作は『旧聞日本橋』『日本美人伝』など。画像は総持寺にて。


安田善三郎。1880年10月10日 – 1930年1月9日、安田銀行総裁。
旧名は伊臣貞太郎。安田財閥の祖・安田善次郎の婿養子となる。元々、安田家の家紋は丸に木瓜であったが善次郎の代に釜敷梅鉢紋に変更。ただし、多磨霊園の善三郎の墓所にはこの桐紋が付けられている。前衛芸術家オノ・ヨーコの祖父。


五島慶太。1882年4月18日 – 1959年8月14日、日本の実業家。
長野県小県郡出身。東急電鉄の事実上の創業者。会社買収の強引さから強盗慶太の異名をとる。鉄道経営者として阪急の小林一三と並び西の小林・東の五島と賞された。美術品コレクターとして知られ、死後、五島美術館が創立された。画像は九品仏浄真寺。


高村光太郎。1883年3月13日 – 1956年4月2日、彫刻家、詩人。
東京都出身。読みは、たかむらこうたろう。妻・智恵子の実家が破産し、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病。 智恵子と死別した後、詩集『智恵子抄』を出版。家紋は変り片喰桐紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


山下奉文。1885年11月8日 – 1946年2月23日、陸軍軍人。
高知県長岡郡大杉村出身。読みは、やましたともゆき。太平洋戦争の劈頭において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮してシンガポールを占領。「マレーの虎」と呼ばれた。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に五七の桐紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


大川周明。1886年12月6日 – 1957年12月24日、思想家。
山形県酒田市出身。東亜経済調査局に勤務。その思想は近代日本の西洋化に対決し精神面では日本主義内政面では社会主義、外交面ではアジア主義を唱道。終戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴され東京裁判に出廷。画像は滝泉寺にて撮影。


白鳥敏夫。1887年6月8日 – 1949年6月3日、外交官、政治家。
千葉県出身。東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。満州事変当時、国際的批判に対抗した。また、日独伊三国同盟の推進を図る。終戦後、極東国際軍事裁判にて終身禁固刑の判決を受ける。家紋は五三桐紋。家紋画像は雑司ヶ谷霊園の庫吉の墓所にて。


太田耕造。1889年12月15日 – 1981年11月26日、教育者。
福島県出身。読みは、おおたこうぞう。興亜専門学校(後の亜細亜大学)設立の中心人物の一人で後に学長。鈴木貫太郎内閣で文部大臣となる。終戦後、戦犯容疑に問われ巣鴨刑務所拘留後、不起訴となり出所。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


吉岡安直。1890年11月1日 – 1947年11月30日、陸軍軍人
大分県出身。農業・川内清作の五男としてに生れ貿易商・吉岡又吉の養子となる。読みは、よしおかやすなお。満州国で皇帝溥儀の御用掛を務め、溥儀を意のままに操ろうと企む黒幕的存在の一人と言われた。家紋は五三紋。画像は多磨霊園にて撮影。


芥川龍之介。1892年3月1日 – 1927年7月24日、小説家。
東京市京橋区出身。「羅生門」「鼻」「芋粥」「歯車」等代表作多数。友人にあてた遺書に「唯ぼんやりした不安」との理由を残し服毒自殺。死後、芥川の業績を記念して菊池寛が創設した芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞となる。画像は巣鴨・慈眼寺にて撮影。


左卜全。1894年2月20日 – 1971年5月26日、俳優。
埼玉県入間郡小手指村出身。小学校校長の次男。本名は三ヶ島一郎。三ヶ島家は代々、氷川神社の神官。読みは、ひだりぼくぜん。とぼけた脇役として活躍。代表出演作「七人の侍」「三匹の侍」等多数。「老人と子供のポルカ」が大ヒット。


宮城道雄。1894年4月7日 – 1956年6月25日、箏曲家。
兵庫県神戸市出身。クラシック音楽の影響を受けた作曲を行う。「春の海」が代表曲。作家の内田百閒とは親友同士。交友も深く、双方の随筆でたびたび言及。十七弦の発明者としても知られる。家紋は五三桐紋。画像は谷中霊園の墓所の門にて撮影。


秋葉安太郎。1895年 – 1969年、教育家、文学研究者。
千葉県出身。文学博士。日本大学名誉教授。大鏡の研究者として知られる。主著は『国語概説』『大鏡本文』『大鏡の研究』など。日本大学学長となり日本大学三島キャンパス開設に尽力。家紋は丸に五三桐。画像は家紋、肖像ともに多磨霊園にて撮影。


里見甫。1896年1月22日 – 1965年3月21日、実業家。
秋田県山本郡能代町出身。読みは、さとみはじめ。父親は元海軍軍医の里見乙三郎。中国の地下組織や関東軍との太い人脈を生かしアヘン取引組織を作り阿片王と呼ばれた。A級戦犯容疑者として逮捕されるが、後に釈放される。家紋は松葉菱に五三桐紋。


東郷青児。1897年4月28日 – 1978年4月25日、日本の洋画家。
鹿児島市出身。本名は東郷鉄春。独特な女性像で有名。東京・西新宿に東郷青児美術館がある。この桐紋は、桐の一部をデフォルメしたもので、おそらく東郷青児氏がオリジナルで作ったもの。「東郷桐」と言われている。画像は雑司ヶ谷霊園。


清水かつら。1898年7月1日 – 1951年7月4日、男性詩人。
東京深川生まれ。本名は桂。読みは、しみずかつら。中西屋書店で「小学画報」の編集をする傍ら童謡の作詞を行う。代表作は『靴が鳴る』『叱られて』『あした』『みどりのそよ風』など。家紋は五七の桐紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


二村定一。1900年6月13日 – 1948年9月12日、歌手・俳優。
山口県下関市の出身。本名・林貞一。読みは、ふたむらていいち。榎本健一と二人座長で立ち上げたピエル・ブリアントが浅草の人気を独占。「どんぐり頓兵衛」「ちゃっきり金太」等の映画がヒット。歌手としても「君恋し」「浪花小唄」等を残す。


北村小松。1901年1月4日 – 1964年4月27日、小説家、脚本家。
青森県三戸郡八戸町出身。松竹キネマ蒲田研究所に入社し『マダムと女房』など多くの映画シナリオを執筆。戦後はユーモア小説作家に転じ「人物のゐる街の風景」「燃ゆる大空」などを著す。小松左京が、SF作家を志すきっかけになった小説家。


岡田時彦。1903年2月18日 – 1934年1月16日、俳優。
東京神田区宮本町出身。本名は高橋英一。大正・昭和初期の俳優。無声映画時代を代表する二枚目俳優。溝口健二監督の『紙人形春の囁き』や小津安二郎監督の『東京の合唱』などに出演している。娘は女優の岡田茉莉子。家紋は丸に五三桐紋。


玉錦三右エ門。1903年12月15日 – 1938年12月4日、第32代横綱
高知県高知市出身。農家の長男。本名は西ノ内彌寿喜。昭和初期に一時代を築く。308勝92敗3痛分17休。優勝回数は9回。引退後、二所ノ関部屋を師匠として大部屋へのしあげた。家紋は五三紋。画像は吾妻橋・清龍寺の西ノ内家墓所にて撮影。


林芙美子。1903年12月31日 – 1951年6月28日、小説家。
行商を営んでいた宮田麻太郎と林キクの間に婚外子として生れる。本名はフミ子。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の句は有名。代表作は『放浪記』 『うず潮』『めし』 など。家紋は丸に五三桐。画像は中野区・万昌院功運寺にて撮影。


関屋敏子。1904年3月12日 – 1941年11月23日、声楽家、作曲家。
東京市小石川区出身。父・関屋祐之介(実業家)、母・愛子の娘。読みは、せきやとしこ。父方の家系は二本松藩の御殿医。オペラ「お夏狂乱」、歌曲「野いばら」「浜唄」などを作曲した。後年、ゾルゲ事件関与の容疑をかけられた。家紋は五七桐紋。


新田新作。1904年4月1日 – 1956年6月25日、実業家。
福井県出身。読みは、にったしんさく。終戦直後、土木作業請負でのし上がる。国粋会系「新田組」組長。新田建設社長。明治座の社長。力道山の後援者として日本プロレスリング協会を設立し理事長となる。家紋は五三桐紋。画像は寛永寺霊園にて撮影。


高村象平。1905年8月2日 – 1989年5月11日、経済史学者。
東京市本所区生まれ。読みは、たかむらしょうへい。ハンザの研究でドイツ留学。経済人類学研究者、ハンザ史研究者として著名。慶應義塾塾長、中央教育審議会会長、日本学士院会員、交詢社理事長等を歴任。家紋は五七桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


清水幾太郎。1907年7月9日 – 1988年8月10日、社会学者。
東京市日本橋区の竹屋の息子。戦後の平和運動において大きな役割を果たした。主著に『社會學批判序説』『社会学入門』『倫理学ノート』等。学習院大学教授時代に在学していた皇太子時代の明仁親王に単位を与えなかったという。家紋は五三桐紋。


東野英治郎。1907年9月17日 – 1994年9月8日、俳優。
滋賀県蒲生郡東桜谷村鳥居平出身。実家は日野商人の家系。読みは、とうのえいじろう。長寿番組『水戸黄門』で黄門を14年間、全381回にわたって演じた。代表出演作は『東京物語』『七人の侍』等。俳優の東野英心は息子。画像は多磨霊園にて。


鈴木俊一。1910年11月6日 – 2010年5月14日、政治家、官僚。
山形県出身。読みは、すずきしゅんいち。内閣官房副長官(第2次岸内閣)、東京都副知事、東京都知事(第9・10・11・12代)等を歴任。石原慎太郎からも「地方自治の巨星」と高く評価された。家紋は丸に五三桐紋。画像は西立川・寶積寺にて撮影。


今井正。1912年1月8日 – 1991年11月22日、映画監督。
東京都渋谷に寺の住職の子として出生。読みは、いまいただし。社会派映画を手掛け、戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠として活躍。代表作は『青い山脈』『武士道残酷物語』『ひめゆりの塔』など。家紋は丸に五三桐紋。


大宮敏充。1913年4月13日 – 1976年12月23日、コメディアン。
東京都浅草出身。本名は恒川登志夫。自身が演じたキャラクター「デン助」は戦後浅草喜劇界やテレビで一世を風靡。北海道の当麻町の名物「でんすけすいか」は彼の名前からとられた。家紋は変り五三桐。画像は新宿区・月桂寺の墓所にて撮影。


木村政彦。1917年9月10日 – 1993年4月18日、柔道家。
熊本県飽託郡川尻町出身。全日本選手権13年連続保持、15年間不敗のまま引退した。史上最強の柔道家と称されることも多い。家紋は花鬼桐の丸紋。画像は熊本市・大慈禅寺の墓所の家紋。徒然なか話(とぜんなかはなし)様よりご提供頂きました。


加太こうじ。1918年1月11日 – 1998年3月13日、紙芝居作家。
東京都浅草生まれ。本名は加太一松。読みは、かたこうじ。『黄金バット』などの作・画、興行に従事した。日本福祉大学教授。思想の科学社社長も務める。神戸時代の水木しげるに紙芝居作家としての道をつける。画像は新宿原町・幸国寺にて撮影。


盛田昭夫。1921年1月26日 – 1999年10月3日、技術者、実業家。
愛知県知多郡小鈴谷村に代々続いた造り酒屋の子として生れる。井深大らとソニーの前身・東京通信工業を設立。トランジスタラジオ、ウォークマンを世界に売り込み、井深大とともにソニーを世界企業に育て上げる。画像は青山・長谷寺の墓所にて撮影。


東富士欽壹。1921年10月28日 – 1973年7月31日、第40代横綱
東京市下谷区出身。本名は、井上謹一。横綱土俵入りは迫力と貫禄に満ち、「鼻息が桟敷まで聞こえる」と言われた。幕内最高優勝:6回、幕内通算成績:261勝104敗1分1預54休 勝率.715。引退後、プロレスラーに転向したが力道山の陰で伸び悩んだ。


池波正太郎。1923年1月25日 – 1990年5月3日、歴史小説作家。
東京市浅草区聖天町出身。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭。母鈴は浅草の錺職今井教三の長女で正太郎は長男。美食家としても知られる。 代表作は『鬼平犯科帳』 『仕掛人・藤枝梅安』 『真田太平記』等。画像は西光寺にて。


田村隆一。1923年3月18日 – 1998年8月26日、詩人、随筆家。
東京府北豊島郡巣鴨村出身。生家は祖父の代から鳥料理店「鈴むら」を経営。鮎川信夫らと詩誌『荒地』を創刊し戦後詩に大きな影響を与えた。晩年は萩原朔太郎賞の選考委員を務めた。代表詩集は『奴隷の歓び』『ハミングバード』等。家紋は五三桐紋。


石本美由紀。1924年2月3日 – 2009年5月27日、作詞家。
広島県大竹市出身。本名は石本美幸。上原げんと、古賀政男、船村徹、市川昭介らの作曲家とコンビを組み、美空ひばり、島倉千代子、都はるみらの楽曲を手がける。代表詞は『港町十三番地』『悲しい酒』『憧れのハワイ航路』等。家紋は丸に五三桐紋。


力道山。1924年11月14日 – 1963年12月15日、プロレスラー。
北朝鮮出身。長崎県大村市の農家・百田家の養子となる。読みは、りきどうざん。力士となり関脇に昇進するが突然に廃業。日本プロレスを設立。インターナショナル・ヘビー級王者。日本プロレス界の父と呼ばれている。画像は池上本門寺にて撮影。


胡桃沢耕史。1925年4月26日 – 1994年3月22日、作家。
東京市向島区生まれ。本名は清水正二郎。海外を舞台にした冒険小説や、ユーモア推理小説で人気を博した。『黒パン俘虜記』で念願だった第89回直木賞受賞。代表作『旅人よ』『僕の小さな祖国』『黒パン俘虜記』『天山を越えて』等。


織井茂子。1926年1月10日 – 1996年1月23日、歌手。
東京都目黒区出身。本名は伊東茂子。読みは、おりいしげこ。大村能章歌謡学院の門下となり都能子の芸名歌手デビュー。芸名を織井茂子に戻して『安南夜船』で再デビュー。連続放送劇『君の名は』の主題歌を歌い大ヒットを記録。画像は小平霊園にて。


実相寺昭雄。1937年3月29日 – 2006年11月29日、演出家。
東京都出身。読みは、じっそうじあきお。『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の演出で名を上げる。日本テレビドラマ『波の盆』で文化庁芸術祭大賞を受賞。FIAPF公認の国際映画祭の最高賞を獲得。家紋は五三の桐紋。画像は染井霊園にて撮影。


植村直己。1941年2月12日 – 1984年2月13日、登山家・冒険家。
兵庫県城崎郡日高町出身。実家は農家。読みは、うえむらなおみ。世界初五大陸最高峰登頂成功、北極点単独行等を果たす。著書は、『北極点グリーンランド単独行』『冒険』『植村直己の冒険学校』など。国民栄誉賞を受賞。


小沢一郎。1942年5月24日 – 、政治家。
東京府東京市下谷区出身。本籍地は岩手県奥州市。自治大臣、国家公安委員長、自民党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表を歴任。家紋は桐。政治団体・桐松クラブは桐紋から名付けられた。


太地喜和子。1943年12月2日 – 1992年10月13日、女優。
和歌山県東牟婁郡太地町出身。三國連太郎、中村勘三郎、尾上菊五郎とのロマンスが取り沙汰される。文学座の大女優・杉村春子の後継者、実力派として活躍。代表出演作品は『火まつり』。家紋は五三の桐。画像は巣鴨・勝林寺にて撮影。


舟木一夫。1944年12月12日 – 、歌手。
愛知県一宮市出身。本名は上田成幸。読みは、ふなきかずお。橋幸夫、西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれる。中でも学園ソングとよばれるジャンルでは第一人者。学生服と八重歯がトレードマーク。代表曲は『高校三年生』。家紋は五三割り鬼桐紋。


大受久晃。1950年3月19日 – 、元大相撲力士。
北海道瀬棚郡瀬棚町出身。本名は堺谷利秋。生涯戦歴は462勝388敗31休。最高位は大関だが、大関在位は5場所に終わり短命記録を作ってしまう。現在は年寄・朝日山を襲名し朝日山部屋を継承。審判委員を務めている。家紋は丸に五三桐紋。


滝田栄。1950年12月5日 – 、俳優。
千葉県印西市出身。第24代横綱・鳳谷太郎は大叔父。文学座の養成所を経て劇団四季で活躍。NHK大河ドラマ『徳川家康』では主役を演じる。『料理バンザイ!』の司会。家紋は桐車。画像は谷中・延寿寺の鳳谷太郎(滝田明)の墓所にて撮影。


沖雅也。1952年6月12日 – 1983年6月28日、俳優。
大分県別府市出身。本名は日景城児。『おやじ、涅槃でまってる』という遺言を残して新宿京王プラザホテルの最上階より飛び降り自殺。代表出演作『金メダルへのターン!』『必殺仕置人』『太陽にほえろ!』等。画像は青山・長谷寺にて。


曙太郎。1969年5月8日 – 、第64代横綱
アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身で東関部屋の元大相撲力士。1996年に日本に帰化。幕内優勝:11回。通算成績:654勝232敗181休 勝率.738 。引退後は、格闘家、プロレスラーとして活躍。現役横綱時代の化粧回しに桐がデザインされていた。


中村獅童(2代目)。1972年9月14日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「レッドクリフ」など。萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。


千代大海龍二。1976年4月29日 -、元大相撲力士。
大分県大分市出身。本名は須藤龍二。旧姓:廣嶋。中学校時代は大変な悪童として有名であったという。九重部屋所属。1999年1月場所で初優勝を果たし、大関に昇進。優勝3回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞3回。現在は、年寄・佐ノ山。


朝青龍明徳。1980年9月27日 – 、第68代横綱
モンゴル国出身。1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学。優勝23回。連勝:35連勝。連覇:7連覇などの記録を持つ。2009年初場所での優勝パレード、節分の豆まきで着用した紋付は桐だった。その他、桜(相撲協会の紋)などの紋付の場合もある。


後藤真希。1985年9月23日 – 、歌手、タレント。
東京都江戸川区出身。元モーニング娘。のメンバー。デビューの「LOVEマシーン」ではいきなりセンターを任される。「プッチモニ」としてもデビュー。現在はエイベックス・エンタテインメントに所属。家紋は葬儀のときの紋付より桐紋と判断。

まさむね



西郷隆盛の銅像はなぜ上野の山にあるのか

正月に、たけしの”教科書に載らない”日本人の謎~篤姫はなぜ上野の山に眠るのか~を見た。

東京(江戸)の真北(北辰の位置)にある日光・東照宮、鬼門にある東叡山・寛永寺、裏鬼門の増上寺等が江戸を霊的に守っていることを比較的よく知られている。
また、平将門の体の各部位を奉る神社が、以下のようにそれぞれ五街道の出発点に存在させることによって、悪鬼が江戸に侵入するのを防ごうとしたという話は、「神社の系譜」(宮元健次著)に詳しい。

首塚(首) -大手門(奥州道)
鳥越神社(手)-浅草橋門(奥州道)
神田神社(胴)-神田橋門(日光道)
世継稲荷神社(首桶)-田安門(中山道)
筑土八幡神社(足)-牛込門(中山道)
兜神社(兜) -虎ノ門(東海道)
鎧神社(鎧) -四谷門(甲州道)

「神社の系譜」より

番組では、そういった江戸の霊的な守備陣営を紹介し、その一環として、寛永寺に13代将軍家定と篤姫が埋葬されていて、江戸を守っているという説明がされていた。
確かにその通りだろうし、興味深い話ではある。
しかし、僕としては、さらにもう一歩進めた推理を展開して欲しかったのも事実だ。

さて、上記の「神社の系譜」の最終章にはさらに面白い事実が指摘されている。
かの靖国神社(=東京招魂社)は、最初、彰義隊と官軍との戦い(上野戦争)で火の海と化した上野の寛永寺に営むことになっていたというのだ。
陸軍参与の木戸孝允がその決定をしたらしいのだが、おそらく彼は、寛永寺に換わる江戸の総鎮守として、官軍兵士を顕彰する神社を建てようとしたのだと思う。
しかし、その決定は上野戦争での功労者である大村益次郎の主張によって、現在の九段に再決定することになる。
「上野の山は、徳川軍の霊のさまよう『亡魂の地』だから」というのがその理由だったらしい。

しかし、僕は、当時の明治政府には、徳川の墓所をつぶして、その場所に自分達のための霊的施設を営むだけの自信がなかったのではないかと思う。
まだ、江戸には徳川親派が数多く潜伏している状況の中で、そのあたりに関して、センシティブにならざるを得なかったのであろう。
新政府は、上野の山には手を付けられなかったのである。
そして、その後の明治6年、この上野の山は公園として庶民に解放されることになる。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!とは、後の文学者・梶井基次郎の言葉であるが、彰義隊員の戦死の記憶は、江戸時代から有名だった上野の桜として記録されることになるのだ。

徳川の墓所は、こうして、上野に残存を許されたのである。
「篤姫はなぜ上野の山に眠るのか」と言うのならば、このあたりまで踏み込んでもらいたかった。

一方、九段には、靖国神社(=東京招魂社)が建てられるが、「神社の系譜」によると、その位置は浅草寺(寛永寺の前の江戸総鎮守)から見て、冬至の太陽が沈む方向に、そしてその参道は神田明神に続くような方角に延びているという。
すなわち、靖国神社は、浅草寺と神田明神という江戸の2大パワースポットから力をもらえるような位置、設計になっているというのである。
靖国神社は、徳川以前から存在していた江戸の地霊と真っ向対決するのではなく、協調する姿勢を見せているのだ。

ただし、その後(明治26年)、靖国神社境内に大村益次郎の銅像が建立される。
その視線は、上野の方角に向け、手には双眼鏡を持っている。
一方で地霊とは協調しながら、ここでは、逆にしっかりと徳川の霊に睨みを効かせているのが面白い。
徳川の復帰は認められないが、江戸の人々は味方に付けたかったという思惑が垣間見れるからだ。

さて、大村益次郎の銅像が建てられてから5年後、上野の山には、西郷隆盛の銅像が建てられる。
西郷と言えば、上野戦争で徳川軍を攻めた官軍の参謀であり、彰義隊を壊滅させた男である。
しかも、その後、西南戦争を起こして、新政府にとっても賊軍とされた男である。ちなみに靖国神社に彼の御霊は祭られていないのは有名な話である。
その西郷の銅像はなぜ、上野という地に建てられたのか。
一説によると西郷が上野の山によく散歩に出かけたからというが、どうも、その説には迫力が無い。

僕が思うに、日本には昔から「夷をもって夷を制す」という発想があるが、明治政府は、西郷という傑出した荒魂の力で、彰義隊の魂を未来永劫封じ込めようとしたのではないだろうか。
あるいは、敢えて、犬を連れた着流し姿という隙の多い銅像にすることによって、彰義隊にとって、いつでも殺れるようにと、西郷を差し出したのかもしれない。ようするに、徳川の霊の機嫌をとりたかったのかもしれない。そういえば、位置関係でも、南を向いている西郷像のすぐ背後に彰義隊の墓があるではないか。
申し訳ないが、僕には、ここで、真偽を語るほどの知見はない。

次回は、西郷隆盛の銅像はなぜ、上野の山にあるのか。という番組を、是非やってもらいたいと思うだけである。

まさむね