桐紋 -日本を象徴する紋- 豊臣秀吉、板垣退助、芥川龍之介...

鎌倉時代後期より、皇室の紋所として使用される。五三の桐、五七の桐がある。
その後、皇室から功のあった臣下に下賜され、さらに、家来に下賜されることによって広まる。

有名なところでは、後醍醐天皇から足利尊氏へ、足利義輝から織田信長へ、正親町天皇から豊臣秀吉へ下賜されている。

一般に織田信長と言えば、織田木瓜、揚羽蝶が有名であるが、長興寺にある一番有名な肖像画には五三桐の紋付を着ている信長が描かれている。
ちなみに、木瓜紋は、織田氏同様、越前の守護・斯波氏の家臣であった朝倉氏も使用しているが、両氏の関係は不明だ。
元々、織田氏は藤原氏からの流れと言われていたが、信長が天下を意識し始めた頃から、その出自を平氏と創作。
その際に、平氏の代表紋である揚羽蝶も使用したのではないだろうか。

信長はリアリストであったので、出自や家紋など、出世のために使えるものは何でも使おうとしたのであろう。
一方、秀吉は、己の出自にコンプレックスを持っていたため、桐紋を下賜されると、それを最大限に活用した。
寺社などの建物、大判・小判など、人目に触れるところにも桐紋を入れさせ、価値を高めようとしたのである。

特に、太閤紋というオリジナルデザイン紋を作らせ、日用品や調度品にも入れさせたという。

その後、徳川家康は朝廷からの桐紋下賜を断り、葵紋にこだわった。この紋に、既に秀吉のイメージが染み付いていたからであろう。
江戸時代は、葵紋以外の家紋に関する規制がなかったため、庶民の間にもこの紋は広まる。

明治時代になると、日本国政府の慣例的な紋章となり、例えば、パスポートのデザインや、総理大臣、外務大臣の演台に取り付けられるプレートに使われている。
昨年、放送された木村拓也主演の総理大臣ドラマ「CHANGE」のオープニングにも桐紋旗がはためいていたので覚えていらっしゃる方もいるのではないか。
最近は、形がオーソドックスで人気があるため、貸衣装屋の紋付では一番品揃えがあるらしい。
全国の分布では、西日本に多い。広島県では一番多い家紋である。

また、有名人でこの紋を使用する人も多い。


豊臣秀吉。1537年3月17日 – 1598年9月18日、武将・戦国大名。
家系は尾張国の百姓の生まれ。はじめ木下氏を名字とし・羽柴氏に改める。織田信長に仕え、数々の戦いで功を挙げ、出世を重ねる。信長死後、日本全土を制圧。刀狩検地、朝鮮出兵を行う。桐紋を信長、朝廷から下賜される。太閤桐はオリジナル。


本居宣長。1730年6月21日 – 1801年11月5日、国学者、医師。
伊勢国松坂の木綿商である小津家の次男として生まれた。(小津安二郎は一族の末裔)。少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。主著は、『古事記伝』『源氏物語年紀考』『玉勝間』等。画像は谷中霊園の本居家の墓所にて撮影の中蔭五三桐紋。


円山応挙。1733年6月12日 – 1795年8月31日、絵師。
丹波国桑田郡穴太村に農家の次男として出生。読みは、まるやまおうきょ。近世の日本の画家のなかでも際立って写生を重視した人物として知られている。代表作は『大乗寺障壁画』『写生図鑑』『雪松図屏風』等。画像は大乗寺の彫像の五七の桐紋。


鹿津部真顔。1753年 – 1829年7月6日、狂歌師・戯作者。
通称は北川嘉兵衛。読みは、しかつべのまがお。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋。狂歌の四天王の一人で狂歌師を職業化し狂歌という名称を俳諧歌と改めた。代表作は狂歌撰集「類題俳諧歌集」等。家紋は五三桐紋。墓所は小石川の光円寺。


式亭三馬。1776年 – 1822年2月27日、戯作者、浮世絵師。
本名は菊地久徳。父の茂兵衛は八丈島出身。読みは、しきていさんば。平賀源内に憧れ当時の人気戯作者・山東京伝に多大な影響を受けた。戯作のモデルとした人足とのトラブルで手鎖の処分を受けた。代表作は「浮世風呂」「浮世床」など。家紋は五三桐。


幾島。1808年7月11日 – 1870年5月26日、女中。
父は薩摩藩御側用人の朝倉孫十郎景矩。読みは、いくしま。江戸幕府13代将軍徳川家定の正室篤姫(天璋院)付きの御年寄となり江戸城と薩摩藩との情報連絡役として活動。NHKの大河ドラマ「篤姫」で松坂慶子(画像)が演じて有名になる。


海江田信義。1832年3月13 – 1906年10月27日、武士、政治家。
薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の長男。生麦事件を起こす。戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として活動するが長州藩の大村益次郎と事あるごとに対立したという。維新後は元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官等を務める。画像は青山霊園にて撮影。


板垣退助。1837年5月21日 – 1919年7月16日、土佐藩士、政治家。
高知城下中島町出身。土佐藩上士・乾栄六正成の長男。戊辰戦争では土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として幕府軍を撃破。自由民権運動の主導者として知られる。戦後、100円札に肖像が用いられた。家紋は土佐桐紋。画像は品川神社にて撮影。


香川敬三。1841年12月27日 – 1915年3月18日、勤皇志士。
水戸藩郷士蓮田重右衛門孝定・袖の3男として出生。攘夷の志士と交わり中岡慎太郎率いる陸援隊の副隊長格となる。戊辰戦争で官軍として活躍。維新後は枢密顧問官、皇太后宮大夫など宮内官僚として要職を歴任。家紋は五七桐紋。青山霊園の墓所にて撮影。


小沢武雄。1844年12月19日 – 1926年1月29日、陸軍軍人。
小倉藩士・小沢義房の長男。第二次長州征伐において軍議役兼陣場奉行を勤める。西南戦争に征討総督本営参謀として出征。最終階級は陸軍中将。貴族院議員に在任し日本赤十字社副社長も勤めた。家紋は五七鬼桐紋。画像は青山霊園にて撮影。


橋本左内。1845年7月24日 – 1909年2月18日、医師、尊王家。
越前国出身。河内源氏の名門・足利氏の連枝・桃井氏(もものいし)の後胤。一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。井伊直弼が発令した安政の大獄のために、小塚原刑場にて斬首された。画像は、青山の長谷寺にある弟・橋本綱常の墓にて撮影。


頭山満。1855年5月27日 – 1944年10月5日、国家主義者。
福岡県出身。読みは、とうやまみつる。玄洋社の総帥として孫文、蒋介石、ラス・ビハリ・ボースら日本に亡命した革命運動家に援助を行う。アジア主義の立場で活動し日韓併合の際、奔走するが植民地化の状態には幻滅したという。画像は青山霊園にて。


波多野伝三郎。1856年9月20日 – 1907年2月13日、政治家。
越後国長岡藩出身。東京横浜毎日新聞に入社。立憲改進党結成とともに入党。衆院議員選挙に当選し第2次松方内閣時代に福井県知事就任したが、当時自由党が大勢を占めた県議会に不信任案を可決される。家紋は丸に五三紋。画像は青山霊園にて撮影。


福本日南。1857年6月14日 – 1921年9月2日、ジャーナリスト。
福岡出身。福岡藩士福本泰風の長男。本名は福本誠。読みは、ふくもとにちなん。陸羯南・古島一雄らと新聞『日本』を創刊した。また、主著の『元禄快挙録』で現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立する。家紋は五三桐紋。画像は青山霊園にて撮影。


村上鬼城。1865年6月10日 – 1938年9月17日、俳人。
鳥取藩士・小原平之進の長男として江戸に出生。母方の村上家の養子となる。本名は村上荘太郎。読みは、むらかみきじょう。司法書士の傍ら『ホトトギス』の同人として活躍。心耳の詠み人と呼ばれる。家紋は五三桐紋。画像は高崎市・龍広寺にて撮影。


望月圭介。1867年4月1日 – 1941年1月1日、政治家。
広島県大崎上島東野村。生家は廻船問屋。衆議院議員に13回連続当選。初当選時には自由党、後に立憲政友会に所属し、原敬内閣時に幹事長に就任。逓信大臣、内務大臣を歴任。門下より池田隼人宮澤喜一という二人の総理大臣を輩出。画像は多磨霊園。


岸清一。1867年8月3日 – 1933年10月29日、IOC委員。
松江雑賀町に松江藩の下級武士岸伴平の次男として生まれる。法曹界の重鎮であり特に民事訴訟法の権威であった。国際オリンピック委員会委員に就任し死ぬまで務めた。東京都渋谷区の岸記念体育会館にその名を残す。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


麻田駒之助。1869年10月14日 – 1948年11月24日、編集者。
京都出身。中央公論社初代社長。西本願寺内局に勤務し『反省雑誌』の編集に携わり後に『中央公論』と改称。また築地本願寺の財政面に参与する『勘定』として尽力。旧邸は登録文化財となっている。家紋は五七桐紋。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。


平山周。1870年3月 – 1940年4月21日、アジア主義者。
筑前国夜須郡出身。宮崎滔天の同志としてアジアの反植民地民族運動を支援した。戊戌政変に際しては梁啓超に同行して彼の日本亡命を助ける。南京国民政府から陸海空軍総司令部顧問に迎えられる。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


下村観山。1873年4月10日 – 1930年5月10日、日本画家。
和歌山県和歌山市出身。狩野芳崖、橋本雅邦らに師事する。東京美術学校を第一期生として卒業後、同校で教授となる。岡倉天心が野に下った時に行動を共にし横山大観、菱田春草と共に日本美術院を創設。家紋は五七桐。画像は多磨霊園にて撮影。


岡麓。1877年3月3日 – 1951年9月7日、歌人、書家。
東京出身。本名は三郎。名前の読みは、おかふもと。正岡子規に入門。「馬酔木」編集同人、『アララギ』で歌を発表。代表歌集は『庭苔』『朝雲』『小笹生』。また書家としても多くの書を残す。家紋は五七の桐紋。画像は文京区高林寺にて撮影。


多門二郎。1878年9月10日 – 1934年2月15日、陸軍軍人。
静岡県出身。医師・多門信夫の二男として出生。読みは、たもんじろう。義兄は松川敏胤(陸軍大将)。第2師団長に親補され満州に駐屯、満州事変が勃発し諸作戦に従軍した。最終階級は陸軍中将。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


長谷川時雨。1879年10月1日 – 1941年8月22日、劇作家・小説家。
東京市日本橋区の弁護士の長女。本名は長谷川康子。読みは、はせがわしぐれ。坪内逍遥に弟子入りし『女人藝術』を創刊。宮本百合子・佐多稲子などの女性作家の発表場所を確保した。代表作は『旧聞日本橋』『日本美人伝』など。画像は総持寺にて。


安田善三郎。1880年10月10日 – 1930年1月9日、安田銀行総裁。
旧名は伊臣貞太郎。安田財閥の祖・安田善次郎の婿養子となる。元々、安田家の家紋は丸に木瓜であったが善次郎の代に釜敷梅鉢紋に変更。ただし、多磨霊園の善三郎の墓所にはこの桐紋が付けられている。前衛芸術家オノ・ヨーコの祖父。


五島慶太。1882年4月18日 – 1959年8月14日、日本の実業家。
長野県小県郡出身。東急電鉄の事実上の創業者。会社買収の強引さから強盗慶太の異名をとる。鉄道経営者として阪急の小林一三と並び西の小林・東の五島と賞された。美術品コレクターとして知られ、死後、五島美術館が創立された。画像は九品仏浄真寺。


高村光太郎。1883年3月13日 – 1956年4月2日、彫刻家、詩人。
東京都出身。読みは、たかむらこうたろう。妻・智恵子の実家が破産し、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病。 智恵子と死別した後、詩集『智恵子抄』を出版。家紋は変り片喰桐紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


山下奉文。1885年11月8日 – 1946年2月23日、陸軍軍人。
高知県長岡郡大杉村出身。読みは、やましたともゆき。太平洋戦争の劈頭において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮してシンガポールを占領。「マレーの虎」と呼ばれた。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に五七の桐紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


大川周明。1886年12月6日 – 1957年12月24日、思想家。
山形県酒田市出身。東亜経済調査局に勤務。その思想は近代日本の西洋化に対決し精神面では日本主義内政面では社会主義、外交面ではアジア主義を唱道。終戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴され東京裁判に出廷。画像は滝泉寺にて撮影。


白鳥敏夫。1887年6月8日 – 1949年6月3日、外交官、政治家。
千葉県出身。東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。満州事変当時、国際的批判に対抗した。また、日独伊三国同盟の推進を図る。終戦後、極東国際軍事裁判にて終身禁固刑の判決を受ける。家紋は五三桐紋。家紋画像は雑司ヶ谷霊園の庫吉の墓所にて。


太田耕造。1889年12月15日 – 1981年11月26日、教育者。
福島県出身。読みは、おおたこうぞう。興亜専門学校(後の亜細亜大学)設立の中心人物の一人で後に学長。鈴木貫太郎内閣で文部大臣となる。終戦後、戦犯容疑に問われ巣鴨刑務所拘留後、不起訴となり出所。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


吉岡安直。1890年11月1日 – 1947年11月30日、陸軍軍人
大分県出身。農業・川内清作の五男としてに生れ貿易商・吉岡又吉の養子となる。読みは、よしおかやすなお。満州国で皇帝溥儀の御用掛を務め、溥儀を意のままに操ろうと企む黒幕的存在の一人と言われた。家紋は五三紋。画像は多磨霊園にて撮影。


芥川龍之介。1892年3月1日 – 1927年7月24日、小説家。
東京市京橋区出身。「羅生門」「鼻」「芋粥」「歯車」等代表作多数。友人にあてた遺書に「唯ぼんやりした不安」との理由を残し服毒自殺。死後、芥川の業績を記念して菊池寛が創設した芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞となる。画像は巣鴨・慈眼寺にて撮影。


左卜全。1894年2月20日 – 1971年5月26日、俳優。
埼玉県入間郡小手指村出身。小学校校長の次男。本名は三ヶ島一郎。三ヶ島家は代々、氷川神社の神官。読みは、ひだりぼくぜん。とぼけた脇役として活躍。代表出演作「七人の侍」「三匹の侍」等多数。「老人と子供のポルカ」が大ヒット。


宮城道雄。1894年4月7日 – 1956年6月25日、箏曲家。
兵庫県神戸市出身。クラシック音楽の影響を受けた作曲を行う。「春の海」が代表曲。作家の内田百閒とは親友同士。交友も深く、双方の随筆でたびたび言及。十七弦の発明者としても知られる。家紋は五三桐紋。画像は谷中霊園の墓所の門にて撮影。


秋葉安太郎。1895年 – 1969年、教育家、文学研究者。
千葉県出身。文学博士。日本大学名誉教授。大鏡の研究者として知られる。主著は『国語概説』『大鏡本文』『大鏡の研究』など。日本大学学長となり日本大学三島キャンパス開設に尽力。家紋は丸に五三桐。画像は家紋、肖像ともに多磨霊園にて撮影。


里見甫。1896年1月22日 – 1965年3月21日、実業家。
秋田県山本郡能代町出身。読みは、さとみはじめ。父親は元海軍軍医の里見乙三郎。中国の地下組織や関東軍との太い人脈を生かしアヘン取引組織を作り阿片王と呼ばれた。A級戦犯容疑者として逮捕されるが、後に釈放される。家紋は松葉菱に五三桐紋。


東郷青児。1897年4月28日 – 1978年4月25日、日本の洋画家。
鹿児島市出身。本名は東郷鉄春。独特な女性像で有名。東京・西新宿に東郷青児美術館がある。この桐紋は、桐の一部をデフォルメしたもので、おそらく東郷青児氏がオリジナルで作ったもの。「東郷桐」と言われている。画像は雑司ヶ谷霊園。


清水かつら。1898年7月1日 – 1951年7月4日、男性詩人。
東京深川生まれ。本名は桂。読みは、しみずかつら。中西屋書店で「小学画報」の編集をする傍ら童謡の作詞を行う。代表作は『靴が鳴る』『叱られて』『あした』『みどりのそよ風』など。家紋は五七の桐紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


二村定一。1900年6月13日 – 1948年9月12日、歌手・俳優。
山口県下関市の出身。本名・林貞一。読みは、ふたむらていいち。榎本健一と二人座長で立ち上げたピエル・ブリアントが浅草の人気を独占。「どんぐり頓兵衛」「ちゃっきり金太」等の映画がヒット。歌手としても「君恋し」「浪花小唄」等を残す。


北村小松。1901年1月4日 – 1964年4月27日、小説家、脚本家。
青森県三戸郡八戸町出身。松竹キネマ蒲田研究所に入社し『マダムと女房』など多くの映画シナリオを執筆。戦後はユーモア小説作家に転じ「人物のゐる街の風景」「燃ゆる大空」などを著す。小松左京が、SF作家を志すきっかけになった小説家。


岡田時彦。1903年2月18日 – 1934年1月16日、俳優。
東京神田区宮本町出身。本名は高橋英一。大正・昭和初期の俳優。無声映画時代を代表する二枚目俳優。溝口健二監督の『紙人形春の囁き』や小津安二郎監督の『東京の合唱』などに出演している。娘は女優の岡田茉莉子。家紋は丸に五三桐紋。


玉錦三右エ門。1903年12月15日 – 1938年12月4日、第32代横綱
高知県高知市出身。農家の長男。本名は西ノ内彌寿喜。昭和初期に一時代を築く。308勝92敗3痛分17休。優勝回数は9回。引退後、二所ノ関部屋を師匠として大部屋へのしあげた。家紋は五三紋。画像は吾妻橋・清龍寺の西ノ内家墓所にて撮影。


林芙美子。1903年12月31日 – 1951年6月28日、小説家。
行商を営んでいた宮田麻太郎と林キクの間に婚外子として生れる。本名はフミ子。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の句は有名。代表作は『放浪記』 『うず潮』『めし』 など。家紋は丸に五三桐。画像は中野区・万昌院功運寺にて撮影。


関屋敏子。1904年3月12日 – 1941年11月23日、声楽家、作曲家。
東京市小石川区出身。父・関屋祐之介(実業家)、母・愛子の娘。読みは、せきやとしこ。父方の家系は二本松藩の御殿医。オペラ「お夏狂乱」、歌曲「野いばら」「浜唄」などを作曲した。後年、ゾルゲ事件関与の容疑をかけられた。家紋は五七桐紋。


新田新作。1904年4月1日 – 1956年6月25日、実業家。
福井県出身。読みは、にったしんさく。終戦直後、土木作業請負でのし上がる。国粋会系「新田組」組長。新田建設社長。明治座の社長。力道山の後援者として日本プロレスリング協会を設立し理事長となる。家紋は五三桐紋。画像は寛永寺霊園にて撮影。


高村象平。1905年8月2日 – 1989年5月11日、経済史学者。
東京市本所区生まれ。読みは、たかむらしょうへい。ハンザの研究でドイツ留学。経済人類学研究者、ハンザ史研究者として著名。慶應義塾塾長、中央教育審議会会長、日本学士院会員、交詢社理事長等を歴任。家紋は五七桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


清水幾太郎。1907年7月9日 – 1988年8月10日、社会学者。
東京市日本橋区の竹屋の息子。戦後の平和運動において大きな役割を果たした。主著に『社會學批判序説』『社会学入門』『倫理学ノート』等。学習院大学教授時代に在学していた皇太子時代の明仁親王に単位を与えなかったという。家紋は五三桐紋。


東野英治郎。1907年9月17日 – 1994年9月8日、俳優。
滋賀県蒲生郡東桜谷村鳥居平出身。実家は日野商人の家系。読みは、とうのえいじろう。長寿番組『水戸黄門』で黄門を14年間、全381回にわたって演じた。代表出演作は『東京物語』『七人の侍』等。俳優の東野英心は息子。画像は多磨霊園にて。


鈴木俊一。1910年11月6日 – 2010年5月14日、政治家、官僚。
山形県出身。読みは、すずきしゅんいち。内閣官房副長官(第2次岸内閣)、東京都副知事、東京都知事(第9・10・11・12代)等を歴任。石原慎太郎からも「地方自治の巨星」と高く評価された。家紋は丸に五三桐紋。画像は西立川・寶積寺にて撮影。


今井正。1912年1月8日 – 1991年11月22日、映画監督。
東京都渋谷に寺の住職の子として出生。読みは、いまいただし。社会派映画を手掛け、戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠として活躍。代表作は『青い山脈』『武士道残酷物語』『ひめゆりの塔』など。家紋は丸に五三桐紋。


大宮敏充。1913年4月13日 – 1976年12月23日、コメディアン。
東京都浅草出身。本名は恒川登志夫。自身が演じたキャラクター「デン助」は戦後浅草喜劇界やテレビで一世を風靡。北海道の当麻町の名物「でんすけすいか」は彼の名前からとられた。家紋は変り五三桐。画像は新宿区・月桂寺の墓所にて撮影。


木村政彦。1917年9月10日 – 1993年4月18日、柔道家。
熊本県飽託郡川尻町出身。全日本選手権13年連続保持、15年間不敗のまま引退した。史上最強の柔道家と称されることも多い。家紋は花鬼桐の丸紋。画像は熊本市・大慈禅寺の墓所の家紋。徒然なか話(とぜんなかはなし)様よりご提供頂きました。


加太こうじ。1918年1月11日 – 1998年3月13日、紙芝居作家。
東京都浅草生まれ。本名は加太一松。読みは、かたこうじ。『黄金バット』などの作・画、興行に従事した。日本福祉大学教授。思想の科学社社長も務める。神戸時代の水木しげるに紙芝居作家としての道をつける。画像は新宿原町・幸国寺にて撮影。


盛田昭夫。1921年1月26日 – 1999年10月3日、技術者、実業家。
愛知県知多郡小鈴谷村に代々続いた造り酒屋の子として生れる。井深大らとソニーの前身・東京通信工業を設立。トランジスタラジオ、ウォークマンを世界に売り込み、井深大とともにソニーを世界企業に育て上げる。画像は青山・長谷寺の墓所にて撮影。


東富士欽壹。1921年10月28日 – 1973年7月31日、第40代横綱
東京市下谷区出身。本名は、井上謹一。横綱土俵入りは迫力と貫禄に満ち、「鼻息が桟敷まで聞こえる」と言われた。幕内最高優勝:6回、幕内通算成績:261勝104敗1分1預54休 勝率.715。引退後、プロレスラーに転向したが力道山の陰で伸び悩んだ。


池波正太郎。1923年1月25日 – 1990年5月3日、歴史小説作家。
東京市浅草区聖天町出身。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭。母鈴は浅草の錺職今井教三の長女で正太郎は長男。美食家としても知られる。 代表作は『鬼平犯科帳』 『仕掛人・藤枝梅安』 『真田太平記』等。画像は西光寺にて。


田村隆一。1923年3月18日 – 1998年8月26日、詩人、随筆家。
東京府北豊島郡巣鴨村出身。生家は祖父の代から鳥料理店「鈴むら」を経営。鮎川信夫らと詩誌『荒地』を創刊し戦後詩に大きな影響を与えた。晩年は萩原朔太郎賞の選考委員を務めた。代表詩集は『奴隷の歓び』『ハミングバード』等。家紋は五三桐紋。


石本美由紀。1924年2月3日 – 2009年5月27日、作詞家。
広島県大竹市出身。本名は石本美幸。上原げんと、古賀政男、船村徹、市川昭介らの作曲家とコンビを組み、美空ひばり、島倉千代子、都はるみらの楽曲を手がける。代表詞は『港町十三番地』『悲しい酒』『憧れのハワイ航路』等。家紋は丸に五三桐紋。


力道山。1924年11月14日 – 1963年12月15日、プロレスラー。
北朝鮮出身。長崎県大村市の農家・百田家の養子となる。読みは、りきどうざん。力士となり関脇に昇進するが突然に廃業。日本プロレスを設立。インターナショナル・ヘビー級王者。日本プロレス界の父と呼ばれている。画像は池上本門寺にて撮影。


胡桃沢耕史。1925年4月26日 – 1994年3月22日、作家。
東京市向島区生まれ。本名は清水正二郎。海外を舞台にした冒険小説や、ユーモア推理小説で人気を博した。『黒パン俘虜記』で念願だった第89回直木賞受賞。代表作『旅人よ』『僕の小さな祖国』『黒パン俘虜記』『天山を越えて』等。


織井茂子。1926年1月10日 – 1996年1月23日、歌手。
東京都目黒区出身。本名は伊東茂子。読みは、おりいしげこ。大村能章歌謡学院の門下となり都能子の芸名歌手デビュー。芸名を織井茂子に戻して『安南夜船』で再デビュー。連続放送劇『君の名は』の主題歌を歌い大ヒットを記録。画像は小平霊園にて。


実相寺昭雄。1937年3月29日 – 2006年11月29日、演出家。
東京都出身。読みは、じっそうじあきお。『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の演出で名を上げる。日本テレビドラマ『波の盆』で文化庁芸術祭大賞を受賞。FIAPF公認の国際映画祭の最高賞を獲得。家紋は五三の桐紋。画像は染井霊園にて撮影。


植村直己。1941年2月12日 – 1984年2月13日、登山家・冒険家。
兵庫県城崎郡日高町出身。実家は農家。読みは、うえむらなおみ。世界初五大陸最高峰登頂成功、北極点単独行等を果たす。著書は、『北極点グリーンランド単独行』『冒険』『植村直己の冒険学校』など。国民栄誉賞を受賞。


小沢一郎。1942年5月24日 – 、政治家。
東京府東京市下谷区出身。本籍地は岩手県奥州市。自治大臣、国家公安委員長、自民党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表を歴任。家紋は桐。政治団体・桐松クラブは桐紋から名付けられた。


太地喜和子。1943年12月2日 – 1992年10月13日、女優。
和歌山県東牟婁郡太地町出身。三國連太郎、中村勘三郎、尾上菊五郎とのロマンスが取り沙汰される。文学座の大女優・杉村春子の後継者、実力派として活躍。代表出演作品は『火まつり』。家紋は五三の桐。画像は巣鴨・勝林寺にて撮影。


舟木一夫。1944年12月12日 – 、歌手。
愛知県一宮市出身。本名は上田成幸。読みは、ふなきかずお。橋幸夫、西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれる。中でも学園ソングとよばれるジャンルでは第一人者。学生服と八重歯がトレードマーク。代表曲は『高校三年生』。家紋は五三割り鬼桐紋。


大受久晃。1950年3月19日 – 、元大相撲力士。
北海道瀬棚郡瀬棚町出身。本名は堺谷利秋。生涯戦歴は462勝388敗31休。最高位は大関だが、大関在位は5場所に終わり短命記録を作ってしまう。現在は年寄・朝日山を襲名し朝日山部屋を継承。審判委員を務めている。家紋は丸に五三桐紋。


滝田栄。1950年12月5日 – 、俳優。
千葉県印西市出身。第24代横綱・鳳谷太郎は大叔父。文学座の養成所を経て劇団四季で活躍。NHK大河ドラマ『徳川家康』では主役を演じる。『料理バンザイ!』の司会。家紋は桐車。画像は谷中・延寿寺の鳳谷太郎(滝田明)の墓所にて撮影。


沖雅也。1952年6月12日 – 1983年6月28日、俳優。
大分県別府市出身。本名は日景城児。『おやじ、涅槃でまってる』という遺言を残して新宿京王プラザホテルの最上階より飛び降り自殺。代表出演作『金メダルへのターン!』『必殺仕置人』『太陽にほえろ!』等。画像は青山・長谷寺にて。


曙太郎。1969年5月8日 – 、第64代横綱
アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身で東関部屋の元大相撲力士。1996年に日本に帰化。幕内優勝:11回。通算成績:654勝232敗181休 勝率.738 。引退後は、格闘家、プロレスラーとして活躍。現役横綱時代の化粧回しに桐がデザインされていた。


中村獅童(2代目)。1972年9月14日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「レッドクリフ」など。萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。


千代大海龍二。1976年4月29日 -、元大相撲力士。
大分県大分市出身。本名は須藤龍二。旧姓:廣嶋。中学校時代は大変な悪童として有名であったという。九重部屋所属。1999年1月場所で初優勝を果たし、大関に昇進。優勝3回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞3回。現在は、年寄・佐ノ山。


朝青龍明徳。1980年9月27日 – 、第68代横綱
モンゴル国出身。1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学。優勝23回。連勝:35連勝。連覇:7連覇などの記録を持つ。2009年初場所での優勝パレード、節分の豆まきで着用した紋付は桐だった。その他、桜(相撲協会の紋)などの紋付の場合もある。


後藤真希。1985年9月23日 – 、歌手、タレント。
東京都江戸川区出身。元モーニング娘。のメンバー。デビューの「LOVEマシーン」ではいきなりセンターを任される。「プッチモニ」としてもデビュー。現在はエイベックス・エンタテインメントに所属。家紋は葬儀のときの紋付より桐紋と判断。

まさむね



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