西郷隆盛の銅像はなぜ上野の山にあるのか

正月に、たけしの”教科書に載らない”日本人の謎~篤姫はなぜ上野の山に眠るのか~を見た。

東京(江戸)の真北(北辰の位置)にある日光・東照宮、鬼門にある東叡山・寛永寺、裏鬼門の増上寺等が江戸を霊的に守っていることを比較的よく知られている。
また、平将門の体の各部位を奉る神社が、以下のようにそれぞれ五街道の出発点に存在させることによって、悪鬼が江戸に侵入するのを防ごうとしたという話は、「神社の系譜」(宮元健次著)に詳しい。

首塚(首) -大手門(奥州道)
鳥越神社(手)-浅草橋門(奥州道)
神田神社(胴)-神田橋門(日光道)
世継稲荷神社(首桶)-田安門(中山道)
筑土八幡神社(足)-牛込門(中山道)
兜神社(兜) -虎ノ門(東海道)
鎧神社(鎧) -四谷門(甲州道)

「神社の系譜」より

番組では、そういった江戸の霊的な守備陣営を紹介し、その一環として、寛永寺に13代将軍家定と篤姫が埋葬されていて、江戸を守っているという説明がされていた。
確かにその通りだろうし、興味深い話ではある。
しかし、僕としては、さらにもう一歩進めた推理を展開して欲しかったのも事実だ。

さて、上記の「神社の系譜」の最終章にはさらに面白い事実が指摘されている。
かの靖国神社(=東京招魂社)は、最初、彰義隊と官軍との戦い(上野戦争)で火の海と化した上野の寛永寺に営むことになっていたというのだ。
陸軍参与の木戸孝允がその決定をしたらしいのだが、おそらく彼は、寛永寺に換わる江戸の総鎮守として、官軍兵士を顕彰する神社を建てようとしたのだと思う。
しかし、その決定は上野戦争での功労者である大村益次郎の主張によって、現在の九段に再決定することになる。
「上野の山は、徳川軍の霊のさまよう『亡魂の地』だから」というのがその理由だったらしい。

しかし、僕は、当時の明治政府には、徳川の墓所をつぶして、その場所に自分達のための霊的施設を営むだけの自信がなかったのではないかと思う。
まだ、江戸には徳川親派が数多く潜伏している状況の中で、そのあたりに関して、センシティブにならざるを得なかったのであろう。
新政府は、上野の山には手を付けられなかったのである。
そして、その後の明治6年、この上野の山は公園として庶民に解放されることになる。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!とは、後の文学者・梶井基次郎の言葉であるが、彰義隊員の戦死の記憶は、江戸時代から有名だった上野の桜として記録されることになるのだ。

徳川の墓所は、こうして、上野に残存を許されたのである。
「篤姫はなぜ上野の山に眠るのか」と言うのならば、このあたりまで踏み込んでもらいたかった。

一方、九段には、靖国神社(=東京招魂社)が建てられるが、「神社の系譜」によると、その位置は浅草寺(寛永寺の前の江戸総鎮守)から見て、冬至の太陽が沈む方向に、そしてその参道は神田明神に続くような方角に延びているという。
すなわち、靖国神社は、浅草寺と神田明神という江戸の2大パワースポットから力をもらえるような位置、設計になっているというのである。
靖国神社は、徳川以前から存在していた江戸の地霊と真っ向対決するのではなく、協調する姿勢を見せているのだ。

ただし、その後(明治26年)、靖国神社境内に大村益次郎の銅像が建立される。
その視線は、上野の方角に向け、手には双眼鏡を持っている。
一方で地霊とは協調しながら、ここでは、逆にしっかりと徳川の霊に睨みを効かせているのが面白い。
徳川の復帰は認められないが、江戸の人々は味方に付けたかったという思惑が垣間見れるからだ。

さて、大村益次郎の銅像が建てられてから5年後、上野の山には、西郷隆盛の銅像が建てられる。
西郷と言えば、上野戦争で徳川軍を攻めた官軍の参謀であり、彰義隊を壊滅させた男である。
しかも、その後、西南戦争を起こして、新政府にとっても賊軍とされた男である。ちなみに靖国神社に彼の御霊は祭られていないのは有名な話である。
その西郷の銅像はなぜ、上野という地に建てられたのか。
一説によると西郷が上野の山によく散歩に出かけたからというが、どうも、その説には迫力が無い。

僕が思うに、日本には昔から「夷をもって夷を制す」という発想があるが、明治政府は、西郷という傑出した荒魂の力で、彰義隊の魂を未来永劫封じ込めようとしたのではないだろうか。
あるいは、敢えて、犬を連れた着流し姿という隙の多い銅像にすることによって、彰義隊にとって、いつでも殺れるようにと、西郷を差し出したのかもしれない。ようするに、徳川の霊の機嫌をとりたかったのかもしれない。そういえば、位置関係でも、南を向いている西郷像のすぐ背後に彰義隊の墓があるではないか。
申し訳ないが、僕には、ここで、真偽を語るほどの知見はない。

次回は、西郷隆盛の銅像はなぜ、上野の山にあるのか。という番組を、是非やってもらいたいと思うだけである。

まさむね

大河ドラマ「篤姫」の視聴率がよかった11の理由

NHK大河ドラマ「篤姫」が高視聴率で全50話終了した。
平均視聴率は、24.5%で、ここ最近10年の大河では最高を記録したという。それによって、某視聴率稼タレントKさんが再来年の出演を尻込み、辞退し、結局、福山雅治に決定したとの噂話にもリアリティがある。
また、2008年のヒット商品番付では、関脇に選出された。
全体的にNHKの番組が支持されたこの1年であったが、その代表選手がこの「篤姫」だったのだ。
それは何故なのだろうか。

ヒットの理由を僕なりに考えてみた。

1)主演・宮崎あおいの魅力
宮崎あおいは、天璋院・篤姫の生涯のうち、12歳~49歳までを演じた。
彼女は、子役としてデビュー後、映画「NANA」等で好演し、評価を徐々に上げ、史上最年少で大河の主役に抜擢される。
史上最年少(22歳1ヶ月)の主役として、放映開始前から話題になった。
実際、スタジオで台本を持っているところはほとんど見られなかったというほど、完璧な役作りで、彼女自身が本当の篤姫になったかのごとく、を見事演じきった。
実際、江戸城開城を前にして、一千人の女中に大奥明け渡しを伝えるシーン撮影の前夜はソワソワしてしまったという。それほど、役にのめり込んでいたという事だ。

2)幕末という大変革の時代と現代とがシンクロ
現代は100年に一度の大変革の時代と言われている。多くの日本人はそんな激流の中、将来への不安を心に抱いている。
そんな現代という時代状況が、篤姫が生きた幕末と酷似していると言われている。
特に、徳川幕府の大奥という、あの時期、衰退を余儀なくされた既得権益集団をどう、終わらせていくかという、一見地味だけど、物凄く困難な状況を乗り切った篤姫の人間性、判断力、説得力が、これから退潮を余儀なくされるであろう現代社会を生きる、多くの日本人の共感を呼ぶところだったのではないか。
現代に蔓延する閉塞感を切り開くためにはどうしたらいいのか。視聴者一人一人が、こういった疑問の答えを模索する中で、篤姫に惹かれたのではないかと思う。

3)周りの男性が草食系
篤姫が子供の頃から男勝りで積極的な少女として成長したが、彼女を取り巻く男達は、それに比べて情けない性格で、最近よく言われる草食系男子として描かれていた。
積極的に女性を求め、ギラギラした人物はあまり、出てこないのだ。
草食系男優の代表格・瑛太が小松帯刀を、ひょうひょうとした性格俳優の堺雅人が徳川家定を演じた。
瑛太は、尚五郎の情けない青年時代から、時代を動かすほどの傑物・帯刀への成長を上手く演じた。
篤姫と再会すると、以前の尚五郎に戻って伏し目がちになるところ等、出色だ。
また、他の人々の前では”うつけ”のフリをしているのだが、篤姫との寝室だけ、本来の聡明さを見せる家定は魅力的だ。
第48回放送時に、幻影として復活した家定が再び”あの世”に帰ろうとする時に、一瞬、篤姫がついて行こうとするシーンは、大河史上でも名場面として今後も語り継がれるだろう。
さらに、松田翔太も、若いながら気品と思いやりのある名君・次代将軍の家茂をよく演じていた。

4)大奥バトルという見せ場
フジテレビのドラマ「大奥」等によって、江戸時代の大奥で繰り広げる女の戦いが、見せ場として認知されてたという背景がある。
今回の場合、大奥だけにとどまらず、篤姫の教育係の幾島(松坂慶子)との確執、島津斉彬の妻の英姫(余貴美子)との確執、家定の母・本寿院(高畑淳子)との確執、大奥総取締りの滝山(稲森いずみ)との確執、そして皇女和宮(堀北真希)との確執等、様々な闘いを持ち前の明るさで乗り切るシーンはそれぞれ見せ場を作った。しかも、それぞれのシーンは上品さ(例えば、和宮の堀北真希)、ユーモア(例えば、本寿院の高畑淳子)、適度な嫌味(例えば、庭田の中村メイ子)によって、陰湿な感じを抱かせなかったのがよかったと思う。
こうしたシーンは、普段、女同士の闘いに疲れている現代のOL達、主婦達に支持されたのではないか。

5)衣装美術等のアイテムが本物志向
他局での大奥物の衣装が、金柄の布で派手さをアピールしているのに対し、今回の大河ではあくまで史実に忠実であろうと、柄よりもむしろ生地に本物らしさを感じさせた。
また、手元の小道具や、駕籠などの大道具、大奥の庭、建物などもリアリティがあった。
惜しむらくは、西郷の家紋が蛤門の変の時点で抱き菊になっていた点、水戸家の家紋が徳川宗家と同じだった点など、家紋に関する考証はいまひとつだった。

6)篤姫のシンデレラ結婚、上流生活への憧れ
今年の流行語のひとつに婚活というのがあった。
最近の女性(男性も)は積極的に結婚のための活動をしなければならない時代になったという事だ。
そのように、ある意味厳しい時代を生きざるを得ない結婚願望のある女性達にとって、許婚制度、篤姫の玉の輿婚は憧れであろう。
また、(様々な苦労はあるのだろうが、)篤姫に登場する江戸城大奥での上流階級の生活も庶民にとっては、垣間見てみたい世界なのである。

7)幕末のキャラは一応おさえる
篤姫の時代は、歴史ファンの間にも人気のある時代だ。
特に坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟等は人気があるが、「篤姫」では彼らを上手に話の中に取り込んでいた。
しかも、幕府側からみた幕末、という今まであまりなかった視点は新鮮を感じさせ、歴史ファンを喜ばせてくれたのではないか。
また、西郷と大久保の二人の関係を、それぞれの不遇の時期、活躍の時期の表情を、原田泰造、小澤征悦の二人がよく表現していた。

8)ドラマ全体から伝わってくるメッセージが現代的
篤姫が様々な試練を前にして、決断を迫られる時、義父・島津斉彬(高橋英樹)、実母・お幸(樋口可南子)、家定(堺雅人)からのメッセージを思い出す。
それらは、最終的には「己の信じた道を進みなさい」という価値に集約される。
江戸時代の武家の女がこのような価値観を持っていたかどうかの歴史考証は置いておくとして、行動原理が自分の外のどこか(宗教、慣習、学問等)にあるのではなく、自分の中の素直な気持ちにあるという価値観は、いわゆる戦後民主主義の価値観と通底している。
現代人に自然に入っていったのではないか。
また、「最終的に家族を大事に」というメッセージもあったが、その大事にするものは、血のつながりではなく、財産でもなく、(徳川の)心なのである。
それではその心とはさらに具体的に言えば何なのかという点は深くは掘り下げられてはいないが、逆に具体的でないがゆえに多くの視聴者の心に響いたのではないか。

9)歴史上での篤姫の失敗を上手くカバー
実は、この作品が世に出るまで、天璋院は不幸な女性と言われていた。
政略結婚で大奥に入るが、夫の家定はすぐに亡くなってしまう。息子の家茂も夭逝してしまう。
そして、和宮との確執。大奥明け渡し、明治に入ってからは旧女中達の面倒を見るなど、苦労に苦労を重ねた人生のように言われていた。
特に明治時代以降は、時代背景もあって、和宮と対立した天璋院の評価は低かったのだ。
しかし、今回のドラマではそういったネガティブな天璋院像はなかった。
むしろ、前向きで明るい人生であるように表現されていた。この演出力は素晴らしい。
また、一橋派の策略(慶喜擁立)に失敗。徳川幕府存続にも失敗している。ただ、その失敗はドラマの中では、”大事なのは、権力の保持でも城に居座る事でもない。家の心を残すことだ”という価値観によって、見事に、自然に正当化されて表現されていた。あまり不自然には感じられなかったのである。

10)ボーイッシュな女性が活躍する現代という時代背景
最近の芸能界で活躍している女性を見てみると、一様にボーイッシュな女の子が人気となっている。
以前(10年位前)、イエローキャブの女の子全員にインタビューするという機会があったが、その際、小池栄子、MEGUMI、佐藤江梨子、根本はるみ等、その後、活躍する女の子達はみんな子供の頃の遊び相手は男の子だったと言っていた。逆に見た目は魅力的だが、性格が女っぽい娘は、全員、その後大成しなかった。
また、最近、低調なハロプロだが、その中でもボーイッシュな里田まいと矢口真里が現在でもテレビ芸能界で活躍しているという現象も興味深い。
おそらく、現代は、男ウケする女性よりも、ボーイッシュな女性の方がテレビウケするような時代なのではないか。
篤姫が子供の頃から男の子と遊ぶのが好きだったというエピソードは篤姫人気の一つの隠し味だったような気もする。

11)オヤジ殺しとしての篤姫
高視聴率だったということは、中高年の人々にも広く受け入れられたという事である。
篤姫の、どんどん積極的にオジさんの胸に飛び込んでいく性格は、それらの中高年の人々にも好感を持たれたのではないか。
例えば、調所広郷(平幹二朗)、島津斉興(長門裕之)、徳川斉昭(江守徹)、井伊直弼(中村梅雀)、阿部正弘(草刈正雄)、勝海舟(北大路欣也)等、一癖も二癖もあるオヤジ連中に対して、ひるまず、正面から自分をさらけ出す事によって、最終的にコロッといかせているのだ。
オヤジあしらいの天才としての篤姫という側面も視聴率アップに貢献したのではないか。

以上、勝手に推測させていただいた。
みなさんもそれぞれ考えてみてください。

以下、関連エントリー
「篤姫」ヒットの一因に、普遍的な物語性があった
「イノラブ」「篤姫」「流星の絆」からの共通メッセージとは?
篤姫が私達にくれた6つのメッセージ

まさむね

「篤姫」の家紋に物申す

satumakamon.gif篤姫のような本格的な時代ドラマを見ていると、僕はどうしても(若干の悪意を含みながら)登場人物の家紋に目が言ってしまう。

いつも気になるのが、徳川家茂と一橋慶喜の家紋が同じに見える事。
ものの本によると、三つ葉葵でも、徳川宗家の家紋は3つの葉が中心がくっついているが、一橋家では離れていたらしい。
まぁウチはまだアナログテレビなので、微妙な差異は見分けられないんだけどね。

そして、今日の「篤姫」で気になった事。

本日の放映回では、西郷隆盛が島津久光に許されて薩摩の軍役に復帰するのだが、その際、紋付を羽織っていたのだが、その家紋が「抱き菊葉に菊」(写真真中)だった。
確かに、西郷さんといえば、この「抱き菊葉に菊」と言われているのだが、この家紋は明治天皇から下賜されたもののはずだ。
という事は、禁門の変(1864年)の時点で西郷隆盛がこの紋付を着ているのはおかしいのではないだろうか。

それでは、西郷の元々の家紋は何だったのであろうか。
多磨霊園にある、西郷隆盛の弟の西郷従道の墓の家紋は写真一番上だ。
これが、梶の葉なのか、菊の葉なのか、僕にはちょっとわからない。
しかし、ここからは推測だが、元々、菊の葉の家紋だった西郷家の隆盛に対して、明治天皇が「私をずっと守ってほしい」という意味を込めて、その菊の葉が囲む菊の花の紋を与えたのではないか。

さて、西郷と言えば、大久保だが、青山墓地にある大久保利通の墓にある家紋は写真一番下。僕には藤巴紋に見える。
ちなみに、この藤巴紋は、寅さんで有名な渥美清の本名、田所康雄の家紋でもある。

家紋を調べていくと、全然別のキャラクタの人々が同じ紋を持ってたりするから面白い。

まさむね