この本は格差論の本である。 ~『ブログ論壇の誕生』書評~

日本社会も同じように、多数のホーボー(放浪生活者)を生産し始めている。
しかし、日本の即物的な風景の中では、地元から疎外されてホーボー化した若者たちには、悲しいほどに何のロマンもない。
ただひたすら即物的に、無機質な光景の中を工場から工場へと移転し続けているだけだ。
-「ブログ論壇の誕生 (文春新書 (657))」佐々木俊尚 P171-

現代社会には、明らかに新しい格差を生まれている。
それはマスコミが喧伝する、大雑把な地域格差ではない。
地方においても、地元に根付いた層(いわゆる「隣の晩御飯」が来てくれる層)、学生時代の仲間と地元で群れる層(いわゆる「木更津キャッツアイ」層)、そして、ここで言われているようなホーボー層がある。
そして、新しい格差とは、このホーボー層格差なのである。
しかし、問題なのは、これらの人々に対して政治やマスコミの言葉が全く届いていないことだ。
極端に言えば、代表的な存在として秋葉原連続通り魔事件の加藤智大や、秋田連続児童殺害事件の畠山鈴香が上げられるのだが、彼らの内面の言葉をマスコミは発信したのだろうか。

そして、さらに、現代社会には、別の格差があることを著者は指摘する。

一方で、団塊の世代の人たちは、インターネットのことをほとんど知らないし、掲示板やブログでどのような言論が展開されているのかも把握していない。
マスメディアが体現する団塊世代の言論空間と、ネットで勃興しているロストジェネレーションの言論空間の間には、深くて暗い河が流れているのだ。
-「ブログ論壇の誕生 (文春新書 (657))」佐々木俊尚 P171-

この深くて暗い河に関しては、団塊世代(その代表であるマスメディア)は決して、報道しようとしない。報道したとしても、例えば、みのもんたや、やしきたかじんのように若者への苦言レベルで話をまとめようとするのがいいところだ。
先週の「水曜ノンフィクション」でもそうだったが、マスコミのネットに対するイメージといえば、”闇”の世界なのだ。
いまだに、マスメディアはネットを敵対視している。自分達の既得権益を脅かす存在だからだ。

今後、このネットとマスメディアとの対立はどのように解消、あるいは発展していくのかはわからないが、現在の構造が続く限り、ネットの住人にとって、「ブログ論壇」は意味を持ち続けることであろう。
それは、ブロガーは、少なくとも、”関係者”とか”情報通”とか”周辺からの声”とかの曖昧な存在の言う事によって、その論を組み立てるような事はしないからだし、ソースをきっちりと提示し、わからないことはそれとして正直に表明し、間違ったら謝るといった基本的な倫理を守っているからだ。

この著作における、毎日変態新聞事件等の最新のネット上の”事件”も網羅しながら、「ブログ論壇」の意義を明らかにしようとする著者の勇気ある姿勢は素晴らしい。
起こったばかりの事件、新しく現れてくる現象を新しい言葉で扱うっていうのはいろんなリスクがあるからね。

まさむね