亀甲紋 -北方を守護する玄武の力にあやかった紋- 浅井長政、手塚治虫、羽生善治...

亀甲紋は、北方を守護する玄武(亀)を表象する紋である。

出雲神社、香取神宮の神紋として知られている。
おそらく、元々、出雲大社は大陸(半島)、香取神宮は蝦夷(東北地方)に対する守りという意味があったのであろう。

ただ、この形状自体が美しいデザインのため、企業のマークとしても使用されている。
例えば、醤油でお馴染みのキッコーマンのマーク。
昭和のはじめに創業者の茂木佐平次が、香取神宮の氏子だったことから亀甲紋をマークに、採用したとのことである。

また、商標、後には会社名としても採用した。

また、ビデオレンタルのゲオ。
こちらのマーク、隅立ての3つの正方形のように見えるが、実は、創業者の遠藤結城氏の家紋であった三つ盛り亀甲のイメージをそのマークに込めたとのことである。

全国では20位。特に多い地域は、秋田県(15位)、徳島県(16位)、北海道(17位)、青森県(17位)、愛知県(17位)、佐賀県(17位)、山形県(18位)、島根県(18位)、香川県(18位)、千葉県(19位)といったところか。

さて、この紋を持つ有名人は以下の通り。


浅井長政。1545年 – 1573年9月26日、戦国大名。
浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江観音寺城下に出生。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させる。織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが後に信長と決裂。姉川合戦に敗れ追い詰められ自害し滅亡。家紋は三盛亀甲花菱。


直江兼続。1560年 – 1620年1月23日、戦国時代武将。
戦国から安土桃山時代にかけて上杉家の生存を賭けた戦いと外交に尽力。大河ドラマ「天地人」の主人公。三つ盛り亀甲の中の文様は細い葉説と剣花菱説がある。2009年節分の成田山での豆まきの際、兼続役の妻夫木聡も三つ盛り亀甲の紋付だった。


安松金右衛門。1611年 – 1686年10月24日、武蔵川越藩士、郡代。
本国は河内国、生国は播磨国。安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し,名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。玉川上水・野火止用水の開削を行う。「算術の達人」と称された。家紋は一重亀甲に左三つ巴紋。平林寺の墓所にて撮影。


竹本義太夫。1651年 – 1714年10月18日、浄瑠璃太夫。
摂津国の農家の出身。読みは、たけもとぎだいゆう。大坂道頓堀に竹本座を開設し近松門左衛門・作の『世継曽我』を上演。近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。浄瑠璃の義太夫節の創始者。家紋は竹亀甲に九枚笹。画像は回向院にて撮影。


川路聖謨。1801年6月6日 – 1868年4月7日、旗本、勘定奉行。
豊後国日田出身。読みは、かわじとしあきら。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ小普請組の川路家の養子となる。海防掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺にて撮影。


周布政之助。1823年5月3日 – 1864年10月26日、武士・長州藩士。
長州藩士(大組219石)・周布吉左衛門の五男として生まれる。財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力。禁門の変第一次長州征伐に際して事態の収拾に奔走。家紋は亀甲に久の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。


税所篤。1827年12月22日- 1910年6月21日、武士、官僚。
薩摩藩士・税所篤倫の二男。読みは、さいしょあつし。勘定所郡方に任じられ戊辰戦争では新政府軍の軍事費工面などの財政処理を行う。維新後は、関西の各県令・知事、霧島神社宮司を歴任。家紋は丸に亀甲に唐花紋。画像は青山霊園にて撮影。


米倉一平。1831年 – 1904年6月1日、実業家。
豊後国出身。読みは、よねくらいっぺい。鳥羽・伏見の戦いで功をたてる。第五国立銀行取締役となり米穀市場を開き蠣殻町米商会所をおこし頭取となる。後に米穀取引所理事長などをつとめた。家紋は亀甲に唐花紋。画像は谷中霊園にて撮影。


岡内重俊。1842年5月11日 – 1915年9月20日、司法官。
土佐国土佐郡に藩士岡内清胤の長男として出生。読みは、おかうちしげとし。海援隊に入り秘書役として活躍。維新後、岩倉具視、伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。家紋は丸に亀甲に武田菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


千家尊福。1845年9月7日 – 1918年1月3日、宗教家、政治家。
出雲大社宮司である出雲国造家に生まれ教派神道出雲大社教を創始。貴族院議員、埼玉・静岡県知事、東京府知事、司法大臣を歴任。「年の始めの 例(ためし)とてで」始まる「一月一日」の作詞者。家紋は亀甲に剣花菱紋。青山霊園にて撮影。


原口兼済。1847年4月2日 – 1919年6月18日、陸軍軍人。
森藩士・林寛吾の四男として生まれ同藩士・原口等の養子となる。西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行し樺太全土を占領。貴族院議員も務める。最終階級は陸軍中将。家紋は亀甲に木瓜紋。画像は青山霊園。


寺内正毅。1852年2月24日 – 1919年11月3日、陸軍軍人、政治家。
周防国山口出身。長州藩士宇多田正輔の三男。母方の寺内勘右衛門の養嗣子となる。陸軍大臣、外務大臣、韓国統監、朝鮮総督、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は亀甲に三つ柏紋。


下瀬雅允。1859年7月11日 – 1911年9月6日、発明家、工学博士。
広島市鉄砲町出身。広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男。読みは、しもせまさちか。日露戦争における大戦果の一因とされた下瀬火薬を発明。実験事故で指を失ってもなお研究を続けたという。家紋は一重亀甲に右二つ巴紋。画像は染井霊園にて撮影。


宮武外骨。1867年2月22日 – 1955年7月28日、ジャーナリスト。
讃岐国阿野郡小野村の庄屋宮武家の四男。読みは、みやたけがいこつ。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行い、たびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


山田美妙。1868年8月25日 – 1910年10月24日、小説家・評論家。
神田柳町出身。旧南部藩士・山田吉雄の長男。本名は山田武太郎。読みは、やまだびみょう。言文一致体および新体詩運動の先駆者。尾崎紅葉らとともに硯友社を結成。雑誌『我楽多文庫』を刊行。家紋は丸に三つ割亀甲に花菱紋。画像は染井霊園にて。


岩元禎。1869年6月12日 – 1941年7月14日、哲学者。
鹿児島県出身。士族の長男。読みは、いわもとてい。夏目漱石の『三四郎』の広田先生のモデル。極めて採点が厳しい名物教授として知られた。また、志賀直哉にドイツ語を教えた。主著は『哲学概論』。家紋は亀甲に花菱。画像は総持寺にて撮影。


馬場孤蝶。1869年12月10日 – 1940年6月22日、作家、翻訳家。
高知市出身。本名は勝弥。読みは、ばばこちょう。島崎藤村や北村透谷、上田敏らと雑誌「文学界」を創刊。本邦初訳のトルストイ『戦争と平和』を刊行。代表作は 『明治の東京』 『社会的近代文芸』 等。家紋は違い一重反り亀甲。画像は谷中霊園にて撮影。


畑英太郎。1872年8月28日 – 1930年5月31日、陸軍軍人。
福島県出身。会津藩士・警察官、畑能賢の長男として生れる。軍事課長、航空局次長、軍務局長、陸軍次官、兼軍事調査委員長、第1師団長を歴任。最終階級は陸軍大将。家紋は亀甲に根笹紋。画像は多磨霊園にて撮影。


蒲原有明。1875年3月15日 – 1952年2月3日、詩人。
東京麹町隼町に蒲原忠蔵の息子として出生。本名、隼雄。象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され北原白秋、三木露風らに影響を与えた。家紋は亀甲に梅鉢紋。画像は麻布・賢崇寺にて撮影。


平福百穂。1877年12月28日 – 1933年10月30日、日本画家。
秋田県角館出身。本名は貞蔵。読みは、ひらふくひゃくすい。日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指し自然主義と古典が融合した作品を生み出す。家紋は陰亀甲に隅立て陰四つ目結紋。画像は多磨霊園にて撮影。


冠松次郎。1883年2月4日 – 1970年7月28日、登山家。
東京出身。読みは、かんむりまつじろう。日本アルプスや奥秩父の渓谷の多くを遡行し、優れた記録や紀行文を残した。登山の中に沢登りという日本独自の分野を開く。黒部の父とも呼ばれる。代表作は『黒部渓谷』『剣岳』等。家紋は三つ盛亀甲紋。


山本宣治。1889年5月28日 – 1929年3月5日、政治家。
京都府宇治に料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松の長男。日本共産党系の労農党の京都府連合会委員長。衆議院議員として治安維持法改正などに反対するが、「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。家紋は一重亀甲に右寄り三階松紋。


丸山敏雄。1892年5月5日 – 1951年12月14日、宗教家、教育家。
福岡県豊前市合河町出身。倫理研究所の前身・新世文化研究所を設立し、社会教育、研究、文化、出版等の事業を行なう。後に、日本全国に50,000社を擁する倫理研究所として発展させる。家紋は一重亀甲に左寄り三階松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


中川一政。1893年2月14日 – 1991年2月5日、洋画家、美術家。
東京本郷に生まれ、岸田劉生に見出されて画家を志す。多彩な作品を制作し、全てが独学であり自ら「在野派」と称した。妻は千田是也の姉の暢子。次男・は映画監督中川晴之助。孫に女優の中川安奈。家紋は亀甲に花菱紋。雑司が谷霊園にて撮影。


甲賀三郎。1893年10月5日 – 1945年2月14日、推理作家。
滋賀県蒲生郡日野町出身。生家は、甲賀郡水口藩の藩士であった井崎家。本名は春田能為。読みは、こうがさぶろう。江戸川乱歩と並び本格派の探偵小説に取り組んだ。代表作は「琥珀のパイプ」「支倉事件」など。家紋は一重亀甲に立ち沢瀉紋。


玉川勝太郎(2代)。1896年5月1日 – 1969年8月13日、浪曲師。
東京牛込区の生まれ。本名は石渡金久。17歳で初代に入門。師匠譲りの関東節任侠物を磨き上げ、『清水次郎長伝』『国定忠治』などを十八番にした。弟子には玉川良一、玉川ゆたか等がいる。家紋は三つ盛亀甲紋。画像は寛永寺第二霊園にて撮影。


小林多喜二。1903年10月13日 – 1933年2月20日、作家・小説家。
秋田県北秋田郡下川沿村生まれ。4歳の時に北海道・小樽に移住。伯父からの学資を受け小樽高等商業学校へ進学。『蟹工船』を発表し一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集める。非合法の日本共産党に入党。治安維持法違反容疑で逮捕され獄死。


塚本憲甫。1904年9月16日 – 1974年6月7日、医学者。
東京府生まれ。ノンフィクションライターの塚本哲也は長女ルリ子の夫。放射線医学総合研究所の二代目所長、国立がんセンター病院長を歴任するが、自身が癌に罹り在職のまま死去した。家紋は一重亀甲に違い笏紋。画像は多磨霊園にて撮影。


立原道造。1914年7月30日 – 1939年3月29日、詩人、建築家。
日本橋区橘町出身。家系は桓武平氏の一家系 常陸平氏 大掾氏の一門 鹿島氏の庶流 立原氏。代表詩集『ゆふすげびとの歌』『萱草に寄す』『曉と夕の詩』。家紋は三つ盛り亀甲紋。上の紋は花菱、下の二つは角字(平と東)。画像は多宝院の墓所にて撮影。


手塚治虫。1928年11月3日 – 1989年2月9日、漫画家。
大阪府に出生、5歳から兵庫県宝塚市に育つ。代表作は、『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『ブッダ』『マグマ大使』『どろろ』『ブラック・ジャック』等、多数。ストーリー漫画の父と言われている。家紋は三つ盛亀甲紋。画像は巣鴨・摠禅寺にて撮影。


有吉佐和子。1931年1月20日 – 1984年8月30日、小説家。
曽祖父は長州藩士の有吉熊次郎。カトリック教徒で洗礼名はマリア=マグダレナ。『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビュー。代表作は『紀ノ川』『華岡青洲の妻』。家紋は亀甲に並び矢。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


梅宮辰夫。1938年3月11日 – 、俳優。
満州・ハルビン市出身。茨城県水戸市で育つ。本名は梅宮辰雄。タレント・モデルの梅宮アンナは娘。代表出演作は『人生劇場 飛車角』『仁義なき戦い』。テレビドラマ、CMでも活躍。家紋は丸に三つ盛り亀甲紋。画像は小平霊園の梅宮家の墓所にて撮影。


落合博満。1953年12月9日 – 、プロ野球選手、監督。
秋田県南秋田郡若美町出身。現役時代はロッテ、中日、巨人、日本ハムなどで活躍。3度の三冠王に輝く。2004年から中日ドラゴンズ監督。3度のリーグ優勝に輝く。家紋は息子・福嗣の自伝「フクシ伝説」の表紙の紋付より亀甲と判断。中は梅鉢か。


夏目雅子。1957年12月17日 – 1985年9月11日、女優。
六本木の輸入雑貨商・亀甲屋の子として出生。旧姓は小幡。代表出演作はドラマ『西遊記』、映画『瀬戸内少年野球団』など。27歳の若さで突然亡くなり多くのファンからその死を惜しまれた。多磨霊園の小幡家の墓所(田中好子も埋葬)にて撮影。


青木達之。1966年8月15日 – 1999年5月2日、ドラマー、作曲家。
日本を代表するスカバンド、「東京スカパラダイスオーケストラ」の結成当時からのドラマーとして活躍。小泉今日子などにも曲を提供。列車事故により急逝。亀甲紋であることが確認できる。画像は多磨霊園の青木家の墓所にて撮影。


羽生善治。1970年9月27日 – 、将棋棋士。
埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持。通算タイトル獲得数は、大山康晴に次ぎ歴代2位。数々の実績から、将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。紋付姿の写真より、家紋は亀甲に梅紋と判断。


丹下左膳。江戸時代、剣士。
林不忘の新聞連載小説、およびその作品内の主人公。隻眼隻腕の異様な姿の剣士。手塚治虫も同名の作品を漫画化している。映画では団徳麿、嵐寛寿郎(当時は嵐長三郎)、大河内傳次郎、阪東妻三郎等が主役を演じている。家紋は一重亀甲に二引両紋。

まさむね



蝶紋 -優美さと物悲しさ漂わせる紋所- 大谷吉継、芹沢鴨、藤原紀香...

家紋の中で一番、優美なのがこの蝶紋である。

一般的には、平家の代表紋と言われている。
確かに、公家で平家流の平松家、西洞院家などはこの紋を使用しているが、実際、武家の桓武平氏では、この紋はそれほど普及しているわけではない。

ただし、織田信長のように、後から平氏を自称した諸家では、この紋を定紋としたようである。

ところで、よく見ると、揚羽蝶紋で描かれている蝶の目はどこか物悲しい。
壇ノ浦で滅んだ平家を哀れんでいるかのようでもある。

全国分布だが、県別家紋数では、まんべんなく20位~30位くらいの位置をキープしている。
敢えて言えば、三重県(18位)、鹿児島県(18位)、岐阜県(19位)、群馬県(20位)、石川県(20位)などが20位以内に入っている。
逆に宮崎県、徳島県ではベスト30にも入っていない。

さて、この紋を使用している有名人だが以下が確認できている。


織田信長。1534年5月12日 – 1582年6月2日、戦国武将。
古渡城主・織田信秀の次男または三男として出生。日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて世に多大な影響を残した武将、大名(戦国大名)。重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い自刃に追い込まれた。画像は織田蝶紋。


長谷川等伯。1539年 – 1610年3月19日、絵師。
能登国七尾出身。当時の主流・狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち独自の画風を確立。晩年には事故により利き腕である右手の自由を失うなど私生活は不幸であった。代表作『旧祥雲寺障壁画』『松林図屏風』『花鳥図屏風』。家紋は丸に揚羽蝶紋。


佐野房綱。1558年- 1601年7月31日、武将。
佐野宗綱の弟。佐野氏は秀郷流の系統。藤姓足利氏の庶流。豊臣秀吉に仕え、小田原征伐のとき、功績により、佐野氏の領地である唐沢山城と3万9000石の所領を安堵される。戦国時代においては、剣術の達人の一人であったと言われている。


大谷吉継。1559年 – 1600年10月21日、武将・大名。
近江国出身。秀吉の小姓となる。九州征伐で功を上げ、5万石を与えられ、敦賀城主となった。賤ヶ岳の戦いの際に長浜城主柴田勝豊を調略して内応させる。関が原の戦いでは西軍に与し、破れる。家紋は向かい蝶。


池田輝政。1565年1月31日 – 1613年3月16日、武将・大名。
織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれた。家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。関ヶ原の戦いでは徳川方に与する。また、姫路城を形に改築。家紋は揚羽蝶(左画像は姫路城の瓦の揚羽蝶)、備前蝶。


荷田春満。1669年2月3日- 1736年8月8日、国学者・歌人。
京都の神官の子。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人。賀茂真淵は弟子。主著は『春葉集』『創学校啓』『伊勢物語童子問』。赤穂義士に吉良上野介義央在宅確実の茶会の日を教えたという。画像は養子・在満の墓所にて撮影。


伊勢貞丈。1718年1月29日 – 1784年7月15日、有職故実研究家。
伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄。伊勢平氏・平維衡の後裔と言われる名門で江戸時代には徳川氏に仕え中世以来の武家を中心とした制度・礼式を伝える家として残る。「貞丈雑記」「安斎雑考」「軍用記」等を残す。家紋は向かい蝶紋。


大塩平八郎。1793年3月4日 – 1837年5月1日、大坂町奉行所与力。
大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。大塩家は代々与力として禄を受けていた。天保の大飢饉の際、人民救済のために大塩平八郎の乱を起す。その乱の際、元々の大塩家の家紋の蝶の丸ではなく桐紋を旗印にした。


芳村伊三郎。1800年 – 1847年7月27日、長唄の師匠。
上総出身。芳村伊千五郎が4代目伊三郎を襲名。歌舞伎の世話物の名作「与話情浮名横櫛」(別名お富与三郎)のモデル。春日八郎のヒット曲『お富さん』はこの演目からセリフを取り入れている。家紋は三つ盛り揚羽蝶。画像は品川・天妙国寺にて撮影。


芹沢鴨。1827年 - 1863年10月28日、幕末の水戸藩浪士。
中世に興起した常陸国芹沢村の豪族、芹沢氏から発祥した水戸藩上席郷士、芹沢家の当主貞幹の三男として生まれた。江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加。新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長。暗殺される。


川崎八右衛門。1834年12月 – 1907年1月13日、実業家。
茨城県東茨城郡茨城町出身。川崎家は水戸藩第二藩主光圀の時代にとりたてられる。幕末に水戸藩の鋳銭事業に着手、家業である廻船事業をはじめ事業を拡大し東京川崎財閥の前身・川崎組、川崎銀行の創始者となる。画像は谷中霊園にて撮影。


山城屋和助。1836年 – 1872年12月29日、陸軍省御用商人。
周防国玖珂郡出身。医師・野村信高右の四男。本名は野村三千三。読みは、やましろやわすけ。奇兵隊に入隊し山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦。長州人脈を活かして兵部省御用商人となるが汚職が発覚し自殺。野村家の家紋は浮線蝶紋。


池田章政。1836年6月16日 – 1903年6月5日、藩主。
肥後国人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し藩内における信望もあった。明治維新後は侯爵に叙任、従一位・勲一等・麝香間祗候。家紋は池田向い蝶紋。画像は谷中霊園の長男・池田政保の墓で撮影。


チャリヘス。1838年 – 1897年、料理人。
スイスのチューリッヒに生まれ、フランスのパリでコックの修業を積み、上海を経て1869年頃に来日。築地精養軒の料理顧問となる。日本におけるフランスパンの開祖として今に語り伝えられる。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園内の外人墓地にて撮影。


武井守正。1842年5月5日 – 1926年12月4日、政治家、実業家。
父は姫路藩士・武井領八。幕末には勤王派として国事に奔走し捕らえらるが維新後出獄し新政府に出仕。鳥取県知事、石川県知事、貴族院勅選議員を歴任。実業界に転じ帝国海上保険などを創立。家紋は花形蝶紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


吉田清成。1845年3月21日 – 1891年8月3日、武士、官僚。
薩摩藩の留学生として英米に留学。帰国後、大蔵省に出仕して租税権頭・大蔵少輔を歴任。外務大輔に任命され、井上馨外務卿の元で条約改正にあたる。元老院議官、枢密顧問官となる。「吉田清成文書」は有名。家紋は丸に浮線蝶紋。青山霊園にて撮影。


柳川一蝶斎(3代目)。1847年11月 – 1909年2月17日、手品師。
江戸神田の御用金物屋・青木常次郎の子。本名は青木治三郎。太神楽・曲芸の一座と共に欧州巡業に出る。獅子の曲、独楽の曲など日本手品を得意とし、とりわけ和紙の切れを扇であおいで蝶の飛ぶさまに見せる芸は見事であった。家紋は備前蝶紋。


平田東助。1849年3月26日- 1925年4月14日、官僚・政治家。
山形県米沢出身。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。大逆事件が発生した際は内相として犯人検挙を指揮。山縣有朋の側近として貴族院および宮中における山縣閥重鎮として元老に次ぐ影響力を保ち続ける。護国寺の墓所も山縣有朋の近くにある。


グラバー・ツル。1851年 – 1899年3月23日、女性。
旧士族・談川安兵衛の養女。幕末に長崎を拠点として活躍した英国商人トーマス・ブレーク・グラバーの妻。倉場富三郎の母親。プッチーニのオペラ、『蝶々夫人』の蝶々さんのモデルとされる。家紋は蝶紋と言われている。


小村寿太郎。1855年10月26日 – 1911年11月26日、外務大臣。
日向国飫肥藩に下級武士の子として生まれる。大学南校(東京大学の前身)入学。ハーバード大学へ留学。第1次桂内閣の外務大臣に就任。日英同盟を積極的に主張。日露戦争における戦時外交を担当し、ポーツマス条約の全権委任大使となる。


城泉太郎。1856年8月17日 – 1936年1月8日、教育者。
越後長岡藩士・河井資信の長男として生まれる。河井継之助は親戚筋。徳島慶應義塾の二代目校長となる。後に英学の教師をし、自由民権運動に携わる。『通俗進化論』、翻訳書『経世危言』を刊行。家紋は丸に揚羽蝶紋。墓所のある禅林寺にて撮影。


尾崎行雄。1858年12月24日 – 1954年10月6日、政治家。
相模国津久井県出身。議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」と呼ばれる。家紋は鬼蔦と五つ蝶紋。青山霊園の義父の尾崎三良の墓所にて撮影。


矢部辰三郎。1863年 – 1924年3月29日、海軍軍医。
岡山出身。軍医校監事、海軍大軍医、海大教官、海軍軍医少監、軍医校教官、軍医校教頭、海軍軍医総監、佐世保病院長、佐鎮軍医長、軍医校長、海軍軍医総監等を歴任。最終階級は海軍軍医中将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。


山路愛山。1865年1月23日 – 1917年3月15日、評論家、歴史家。
幕臣・山路一郎の子として江戸淺草の天文屋敷に出生。徳富蘇峰の知遇をえ國民新聞記者として政治および史論に筆をとる。日露戦争勃発と同時に『日露戦争實記』を発刊し「草木皆兵」を論じ愛国心を鼓舞した。家紋は揚羽蝶紋。青山霊園にて撮影。


神戸寅次郎。1865年1月24日 – 1939年5月17日、法学者。
静岡県出身。法学科第一期生として慶應に入学。慶應義塾大学新設にあたり法学部教授兼法学部長に就任し慶應義塾学事顧問を務めた。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。


平沼騏一郎。1867年10月25日 – 1952年8月22日、政治家。
岡山県津山市出身。日本の官僚で第35代内閣総理大臣。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、A級戦犯で訴追され終身刑の判決を受けた。立ち上がれ日本平沼赳夫は平沼騏一郎の兄・平沼淑郎の曾孫。画像は多磨霊園にて撮影。


岡本綺堂。1872年11月15日 – 1939年3月1日、小説家、劇作家。
東京高輪に生まれて麹町に育つ。英公使館に勤めていた元徳川家御家人、岡本敬之助の長男。本名は岡本敬二。24年間、東京日日新聞の記者として過ごす。代表作は岡っ引捕り物小説の『半七捕物帳』。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園にて撮影。


塩田広重。1873年10月14日 – 1965年5月11日、外科学者。
京都府生まれ。東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授および同学長を兼任した。胃腸手術の権威として知られる。狙撃された濱口雄幸の治療をしたことでも有名。また老人学の草分けでもある。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


曽我廼家五九郎。1876年4月12日 – 1940年7月7日、喜劇俳優。
徳島県麻植郡鴨島村出身。本名は武智故平。壮士芝居を経て、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名乗る映画『ノンキナトウサン』シリーズが大当たり。トウサン役は五九郎の当たり役となる。家紋は揚羽蝶紋。


今村均。1886年6月28日 – 1968年10月4日、陸軍軍人。
宮城県仙台区出身。父は裁判官の今村虎尾。最終階級は陸軍大将。占領地での軍政・指導能力は高く名将という評価を受ける。水木しげるは「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評した。家紋は浮線蝶紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。


光用穆。1887年3月10日 – 1943年10月12日、小説家、翻訳家。
新潟県高田市出身。読みは、みつもちきよし。早稲田大学文学部を出た後、中央新聞に入社し短編小説を数編、書く。葛西善蔵、相馬御風、広津和郎らとともに同人誌「奇蹟」に関わる。H・G・ウェルズの『宇宙戦争』を翻訳した。家紋は揚羽蝶紋。


南雲忠一。1887年3月25日 – 1944年7月8日、海軍軍人。
米沢市信夫町に旧米沢藩士南雲周蔵の次男。真珠湾にあるアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の母港を奇襲攻撃、開戦劈頭の勝利を飾るがミッドウェー海戦では大敗を喫する。最終階級は海軍大将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は鎌倉・円覚寺にて撮影。


一龍斎貞丈(4代目)。1889年 – 1931年12月23日、講釈師。
本名は、安原大二郎。亭号を昇龍斎として、昇龍斎貞丈と名乗った。5代目・一龍斎貞丈の師匠にあたる。講釈は、日本の伝統芸能のひとつで、高座におかれた釈台と呼ばれる小さな机の前に座り、軍記物や政談を読み上げる。家紋は丸に揚羽蝶紋。


池田義信。1892年3月10日 – 1973年9月1日、映画監督。
長野市宇木出身。本名は義臣。栗島すみ子の夫。松竹蒲田撮影所にはいり、11年の「生(な)さぬ仲」で初監督をする。代表作は「船頭小唄」「いろはにほへど」「不如帰」「真珠夫人」。家紋は丸に揚羽蝶。画像は池上本門寺にて撮影。


池田亀鑑。1896年12月9日 – 1956年12月19日、国文学者。
鳥取県日野郡福成村出身。「源氏物語」研究の権威で文献学の知見を日本古典文学研究に導入。「源氏物語大成」全8巻を刊行、異本を比較して古典の原型を明らかにする文献批判学研究を行う。紫式部学会の創設する。画像は多磨霊園にて撮影。


神谷正太郎。1898年7月9日 – 1980年12月25日、実業家。
愛知県知多郡横須賀町出身。トヨタ自動車系ディーラーの礎を一代で築き上げ、その豪腕から「販売の神様」と称される。「一にユーザー、二にディーラー、三にメーカーの利益を考えよ」との名言を残す。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。


安藤鶴夫。1908年11月16日 – 1969年9月9日、小説家、評論家。
東京市浅草区向柳原町に、義太夫の八代目竹本都太夫の長男として出生。古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒。芸人の好き嫌いが激しかった。『巷談本牧亭』で直木賞受賞。小林信彦、高田文夫等に影響を残す。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


トニー 谷。1917年10月14日 – 1987年7月16日、コメディアン。
東京市京橋区銀座に生まれ、小伝馬町に育つ。本名は大谷正太郎。戦後日本の特殊状況を鋭く批評するキャラクターを構築したゲテモノ芸人。リズムに乗りソロバンをかき鳴らす珍芸が売。妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。


宮尾登美子。1926年4月13日 – 、小説家。
高知県高知市生まれ。『連』で婦人公論女流新人賞を受賞。『櫂』が太宰治賞を受賞。作品のテーマは一貫して女性である。代表作は『櫂』『鬼龍院花子の生涯』『宮尾本 平家物語』『天璋院篤姫』『義経』など。家紋の揚羽蝶紋は宮尾家の家紋。


萬屋錦之介。1932年11月20日 – 1997年3月10日、俳優。
初名・中村錦之助。吉右衛門劇団立女形を父に持つ歌舞伎役者の御曹司。本名は小川錦一。昭和時代劇を代表する大スター。代表出演映画『宮本武蔵』『風雲児 織田信長』。代表出演テレビドラマは『子連れ狼』『破れ奉行』等。画像は鎌倉霊園にて撮影。


張本勲。1940年6月19日 – 、元プロ野球選手、野球解説者。
広島県広島市出身。プロ野球時代には、安打製造機の異名を取り、日本プロ野球で3000安打を記録している唯一の選手。引退後は、プロ野球解説者として活躍。画像は夫人の墓(張本家の墓)にて撮影。家紋の揚羽蝶は”張”の読みから使用か?


二代目・中村吉右衛門。1944年5月22日 -、歌舞伎役者、俳優。
藤間久信→波野久信→波野辰次郎と改名。歌舞伎では『勧進帳』『義経千本桜』の武蔵坊弁慶が当たり役。また、テレビドラマでは池波正太郎原作『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵役で有名。画像の揚羽蝶は青山霊園・初代の墓所にて撮影。


藤原紀香。1971年6月28日 – 、女優。
1992年神戸親和女子大学在学中に、第24回ミス日本グランプリを受賞。女優としては『スタアの恋』『ハッピーマニア』『金曜日の恋人たちへ』等が代表出演作。その他、国際活動や人道支援への協力でも知られている。家紋は揚羽蝶紋。


中村獅童(2代目)。1972年9月14日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「レッドクリフ」など。萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。

まさむね



引両紋 -無骨な武家紋の代表- 足利尊氏、近藤勇、オノ・ヨーコ...

引両紋は、源平時代からある古い紋である。
引両の両は霊(精霊)を表し一引両は「日」を、二引両は「月」を表すという説、両は「龍」を表すという説、あるいは「結界」を表すという説などがあり、いまだに議論が続いている。

ただ、少なくとも武家の紋が元々、戦場で自分を目立たせるためにつけたのが始まりであるため、引両のような簡単に描ける紋は実用的だったのではないかと考えられている。
建武の時代、新田軍(一引両)が足利軍(二引両)を追い落とした際に投降した兵士達が自持の笠符(かさじるし)の二引の間の白いところを黒く塗りつぶし、急ごしらえで一引両に直したため、翌日、五条の辻に以下のような落書が書かれたという。(「家紋散策」による)

二筋の中の白みを塗り隠し 新田新田(ニタニタ)しげな 笠符かな

室町時代が全盛で、足利氏族の吉良、斯波、一色、山名、今川、細川、畠山等の大名がこの紋を使用した。
種類としては、線の数で、一引両、二引両、三引両がある。

シンプルで、ある意味、無骨な紋のため、鍋蓋、あるいは釜蓋などと呼ばれ、女性からは人気がなかったようである。

全国分布では18位。特に多い地域は、山梨県(11位)、東京都(12位)、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、愛媛県などが13位、栃木県、長野県が14位、青森県、群馬県、千葉県、兵庫県、岡山県、広島県で15位といったところ。

有名人では以下の人々が使っている。元々武家紋であるため政治家が多い。


新田義貞。1301年 – 1338年8月17日、武将。
源義国の子・贈鎮守府将軍新田義重を祖とする上野国に土着した新田氏本宗家の8代目棟梁。読みは、にったよしさだ。足利尊氏の京都六波羅攻略に呼応して挙兵。北条方を撃破し、鎌倉幕府を滅亡させる。家紋は新田一つ引両紋(大中黒紋)。


足利尊氏。1305年8月18日 – 1358年6月7日、武将。
鎌倉幕府の御家人・足利貞氏の次男。読みは、あしかがたかうじ。後醍醐天皇挙兵に応じて六波羅探題を滅ぼすが建武の新政に失望し光明天皇を擁立、征夷大将軍に補任され室町幕府を開く。画像は足利市・法玄寺の北条時子墓の丸に二引両紋。


赤松満祐。1381年 – 1441年9月25日、守護大名。
播磨・美作・備前の守護大名・赤松義則の子。読みは、あかまつみつすけ。二度に渡って侍所頭人を務め幕府内の長老格として権勢を振るう。結城合戦の祝勝会として足利義教を自邸に招き暗殺(嘉吉の乱)するが派遣された幕府軍に敗北した。


山名宗全。1404年7月6日 – 1473年4月15日、守護大名。
家系は清和源氏、河内源氏の流れを汲む新田氏庶流の山名氏。読みは、やまなそうぜん。嘉吉の乱後、播磨国など8ヶ国の守護職を得て権勢を得た。大内氏や細川氏と縁戚関係を結ぶが足利義政と対立。応仁の乱では西軍を率い幕府管領の細川勝元と対抗した。


三浦義同。1451年 – 1516年8月19日、武将、小大名。
扇谷上杉家から、新井城(三崎城とも)主・三浦時高の養子に入る。出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることも多い。読みは、みうらよしあつ。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主。家紋は三つ引。


今川義元。1519年 – 1560年6月12日、守護大名・戦国大名。
駿河今川家第9代当主。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流吉良氏の分家にあたる。所領も駿河・遠江・三河、尾張の一部にまで拡大したが桶狭間の戦いで信長軍の奇襲により戦死。家紋は二引両と赤鳥(左)。


蘆名盛氏。1521年 – 1580年7月28日、陸奥の武将。
第15代当主・蘆名盛舜の子として生まれる。山内氏を討ち、会津から中通りにかけて勢力を拡大。一方で白河結城氏の白河義親の家督相続問題に介入したり、二階堂盛義を攻めて降伏させ二本松義国と同盟する等して軍事的・政治的に勢力を拡大した。


吉川元春。1530年 – 1586年12月25日、武将。
毛利元就の次男で毛利両川の一人。吉川氏は藤原南家流、安芸国を領有した鎌倉幕府御家人。毛利両川の一人として弟の小早川隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げた名将。生涯で76度の合戦に臨み64度の勝利を収める。家紋は丸に三つ引両。


里見義弘。1530年- 1578年6月25日、戦国時代の武将。
安房の戦国大名、里見義堯の長男。里見家の本姓は源氏。家系は源義重を祖とする新田氏の庶宗家。第二次国府台合戦で北条綱成と戦うなど、後北条氏と徹底して対立。安房、上総、下総にかけて一大領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を築き上げる。


古田織部。1544年 – 1615年7月6日、戦国時代の武将。
茶人の古田重定の子として生まれる。信長、秀吉の家臣だが一般的には茶人として有名。利休七哲の一人。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。


最上義光。1546年2月1日 – 1614年2月26日、武将・大名。
家系は清和源氏の流れを汲む足利一門・斯波氏の血筋。最上氏第11代当主。読みは、もがみよしみつ。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原合戦において東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させた。家紋は二引両。


細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。丹後宮津城主、豊前小倉藩初代、熊本藩細川家初代藩主。教養人・茶人としても有名。元首相の細川護熙は末裔。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。


伊達政宗。1567年9月5日 – 1636年6月27日、武将。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。出羽国と陸奥国の戦国大名。仙台藩の初代藩主。最も古い紋は縦三つ引き両。九曜紋は細川氏から使用を許可される。仙台笹、仙台牡丹も使用。画像は谷中霊園の伊達家墓所にて撮影。


間部詮房。1666年6月18日-1720年8月19日、側用人、藩主。
6代将軍徳川家宣の側用人として活躍。新井白石とともに、「正徳の治」を断行。猿楽師・喜多七太夫の弟子であったが、甲府藩主・徳川綱豊の用人として用いられ出世。のちに高崎藩5万石を得た。日本の歴史上において猿楽師が大名になった例は他にない。


遠山金四郎景元。1793年9月27日 – 1855年4月15日、旗本。
明知遠山氏の分家六代目にあたる人物。父親は長崎奉行を勤めた遠山左衛門尉景晋。正式な名のりは遠山左衛門尉景元。江戸北町奉行。時代劇『遠山の金さん』のモデルとして知られる。家紋は丸に二引き両。丸に九字直違も使用。


佐久間象山。1811年2月28日 – 1864年7月11日、兵学者・思想家。
信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。読みは、さくましょうざん。私塾・象山塾には長岡藩士以外にも勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などが名を連ねる。動乱の京都で開国佐幕派の策士として活動したが、尊皇攘夷派の刺客によって暗殺された。


吉田東洋。1816年 – 1862年5月6日、土佐藩士、政治家。
土佐国出身。父は藩馬廻役吉田光四郎正清。土佐藩主山内容堂から参政に起用され富国強兵論を主張し藩政改革を行う。また私塾では後藤象二郎、岩崎弥太郎などを育てる。家紋は半二つ引両紋。画像は息子・吉田正春の墓所(谷中霊園)にて撮影。


伊達宗城。1818年9月1日 – 1892年12月20日、大名・政治家。
旗本・山口直勝の次男として江戸に生まれるが宇和島藩主伊達宗紀の養子となる。読みは、だてむねなり。後に宇和島藩8代藩主となり賢公と称えられる。家紋は他に宇和島笹、九曜紋等。画像は小金井公園にある宇和島藩伊達家・門の丸に竪三つ引両紋。


三浦休太郎。1829年9月15日 – 1910年12月11日、政治家。
西条藩士・小川武貴の長男として生まれ紀州藩に出仕。いろは丸沈没事件で紀州藩代表として交渉。龍馬暗殺を疑われ天満屋事件海援隊士らに急襲される。新政府では元老院議官、東京府知事等を歴任。家紋は丸に出二つ引両紋。画像は妙行寺にて撮影。


若松竹軒。1831年 ‐ 1908年12月18日、漢学者。
上野沼田藩士。名は節。字(あざな)は甘吉。読みは、わかまつちくけん。川崎魯斎、佐藤一斎らに学ぶ。江戸麻布に漢学の塾を開き、のちに商工学校で教える。著作に「大学句解」がある。家紋は、丸に太二引両紋。護国寺の墓所にて撮影。


近藤勇。1834年11月9日 – 1868年5月17日、幕臣。
農民・宮川久次郎の三男として出生。幼名は勝五郎。新選組局長として京都警護のため奔走。池田屋襲撃、禁門の変で活躍。鳥羽・伏見の戦いに敗れ、斬首されて京都・三条河原に梟首された。家紋は丸の内に三つ引両。画像は三鷹市・龍源寺にて撮影。


高畠藍泉。1838年5月12日 – 1885年11月18日、ジャーナリスト。
江戸幕府御本丸奥勤のお茶坊主衆の家に生まれる。読みは、たかはたけらんせん。東京日日新聞、読売新聞等の記者を務める。小説家としては「怪化百物語」等の作品がある。三世・柳亭種彦と言われた。画像は浅草松葉町正定寺の墓所にて撮影。


宮島誠一郎。1838年8月25日 – 1911年3月15日、官僚・政治家。
米沢藩の中級武士・宮島吉利の子として生まれる。幕末に締結された奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たした。明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行なう。家紋は丸に二引両紋。青山霊園の墓所にて撮影。


松田道之。1839年6月22日 – 1882年7月6日、内務官僚、政治家。
鳥取藩家老・鵜殿氏の家臣久保居明の次子として生まれ、後に松田市太夫の嗣子となる。大津県令、滋賀県令、東京府知事を歴任。琉球処分において中心的な役割を果たした。家紋は外雪輪に変り三つ引両紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


原田左之助。1840年 – 1868年7月6日、新選組隊士。
伊予松山藩の中間だったが出奔。槍の名手。近藤勇の江戸道場、試衛館以来の生え抜き隊士で十番組長となる。池田屋事件、禁門の変、油小路事件等で活躍。彰義隊に加入し上野戦争の際に負傷した。家紋は丸に一引両紋。画像は薄桜鬼の原田左之助。


松本楓湖。1840年10月9日 – 1923年6月22日、日本画家。
常陸国河内郡出身。読みは、まつもとふうこ。欽定教科書『幼学綱要』全7巻において61図の挿絵を描き名を轟かせた。日本美術院の創設に参加。歴史画に長じ「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」を発表。家紋は五つ瓜に丸に二引両。画像は谷中・全生庵にて撮影。


吉田稔麿。1841年3月16日 – 1864年7月8日、長州藩の活動家。
萩藩松本村新道の足軽吉田清内の嫡子。読みは、よしだとしまろ。吉田松陰の松下村塾に入門し兵学を究める。高杉晋作、久坂玄瑞と並び松陰門下の三秀の一人と称される。高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。池田屋事件で憤死。家紋は丸に二つ引両。


高木兼寛。1849年10月30日 – 1920年4月13日、医学者。
薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷に出生。読みは、たかきかねひろ。戊辰戦争には薩摩藩兵の軍医として従軍。東京慈恵会医科大学を創設し脚気の撲滅に尽力しビタミンの父と呼ばれる。また海軍の食事にカレーを導入した。画像は青山霊園にて撮影。


新井有貫。1849年12月25日 – 1909年12月1日、海軍軍人。
東京青山生まれ。幕臣出身。読みは、あらいありつら。日清戦争に扶桑艦長として出征し黄海海戦で功をたてる。日露戦争時には仁川で沈没したロシア軍艦ワリアークの引き上げを成功させた。最終階級は海軍中将。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


荻野吟子。1851年4月4日 – 1913年6月23日、医師。
武蔵国幡羅郡俵瀬村に、代々苗字帯刀を許された名主の末娘として生まれる。近代日本における最初の女性の医師となり、本所区小梅町に医院を開業する。女性運動家としても知られ、廃娼運動に取り組む。家紋は丸に二引両。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


平山藤次郎。1851年8月 – 1910年5月11日、海軍軍人。徳島藩士。
西南戦争で功あり太政官より金五十円を下賜される。「天城」艦長、「葛城」艦長を経て日清戦争で「八重山」艦長などを務めるも船上の不祥事で予備役に入る。後に商船学校長となるが最終階級は海軍大佐。青山霊園の墓所にて撮影。


仁尾惟茂。1853年12月28日 – 1932年4月11日、官僚。
土佐国出身。読みは、におこれしげ。戊辰戦争や会津戦争に従軍。維新後、大蔵省の官僚として煙草専売局長、専売局長官などを歴任。韓国政府の財政顧問も勤める。中村市の日本たばこ構内に銅像が建つ。家紋は丸に二引両紋。画像は青山霊園にて。


高平小五郎。1854年1月29日 – 1926年11月28日、外交官。
岩手県一関市の生まれ。陸奥国一関藩の藩士田崎三徹の三男。外交官として日露講和会議に外務大臣小村寿太郎とともに全権委員として出席。駐米大使時代には高平・ルート協定を結んだ。家紋は丸に二引両紋。画像は多磨霊園にて撮影。


有馬良橘。1861年12月16日 – 1944年5月1日、海軍軍人。
紀伊和歌山に紀州藩士・有馬元函の長男として出生。読みは、ありまりょうきつ。養子に海軍中将・有馬寛がいる。日露戦争・旅順港閉塞作戦の立案者。最終階級は海軍大将。晩年は明治神宮宮司を務めた。家紋は丸に二引両紋。画像は青山霊園にて撮影。


浅田栄次。1865年5月22日 – 1914年11月10日、英語学者。
徳山藩出身。東京帝国大学(現:東京大学)にて数学を学んだ後、渡米して神学と言語学を学ぶ。帰国後、東京外国語学校(現:東京外国語大学)などにおいて英語教育に尽力した。家紋は隅切り鉄砲角に二引両紋。画像は多磨霊園にて撮影。


福田雅太郎。1866年7月7日 – 1932年6月1日、陸軍軍人。
大村藩藩士・福田市兵衛の二男。読みは、ふくだまさたろう。日露戦争では秋山真之らとともに対露早期開戦を主張。関東大震災時は関東戒厳司令官。最終階級は陸軍大将。大日本相撲協会会長にも着任。家紋は丸に竪二引両紋。青山霊園にて撮影。


神保小虎。1867年6月19日 – 1924年1月18日、地質・鉱物学者。
江戸の生まれ。北海道,樺太あるいはウラジオストック地方などの地質調査を行い東京地質学会会長、東京地学協会会長を務める。著作には『北海道地質報文』『日本鉱物略記』などがある。家紋は丸の内に縦二引き両紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


浜口雄幸。1870年5月1日 – 1931年8月26日、政治家。
高知県長岡郡出身。大蔵大臣、内務大臣歴任後、第27代内閣総理大臣となる。在任中に金解禁や緊縮政策を断行し、ロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。その風貌からライオン宰相と呼ばれた。家紋は丸に上付き二つ引両紋。画像は青山霊園にて撮影。


島崎藤村。1872年3月25日 – 1943年8月22日、詩人、小説家。
信州木曾の馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。本名、春樹。『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。家紋は丸に三引両紋。画像は馬籠宿の永昌寺の島崎家墓所より。


木暮理太郎。1873年12月7日 – 1944年5月7日、登山家。
群馬県生まれ。山岳展望や登山史の研究、地名の考証にも大きな熱意を示す。著書『山の憶い出』は日本の山岳書中でも内容の濃い傑作される。職業は、雑誌『ハガキ文学』や東京市の史料の編纂。家紋は丸に三つ引両紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


静間知次。1876年5月5日 – 1926年12月7日、陸軍軍人。
山口県出身。読みは、しずまともじ。日露戦争に野戦鉄道提理部員として従軍。戦後、陸軍砲工学校教官、伊大使館付武官など勤め国際連盟空軍代表、砲工学校長となる。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に二引両紋。画像は青山霊園にて撮影。


西義一。1878年1月1日 – 1941年4月15日、陸軍軍人。
福島県出身。旧会津藩士・西忠義の長男として生れる。日露戦争では第2師団後備野砲中隊長として出征。後に、第8師団長となり満州で活動した。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に二引両紋。画像は多磨霊園にて撮影。


上田良武。1878年5月6日 – 1957年2月21日、海軍軍人。
鹿児島県出身。読みは、うえだよしたけ。正四位勲三等功四級。1924年に海軍少将となる。最終階級は海軍中将。義勇財団海防義会の理事長となる。終戦後に第一次A級戦犯として指名を受ける。家紋は丸に一引両紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


三船久蔵。1883年4月21日 – 1965年1月27日、柔道家。
岩手県久慈町に生まれる。読みは、みふねきゅうぞう。身長159cm、体重55kgの小柄な体型ながら「空気投げ」などの新技をあみ出し最高位の十段を授けられ「名人」の称を受ける。「柔道の神様」とあがめられた。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。


中勘助。1885年5月22日 – 1965年5月3日、作家・詩人。
東京神田生まれ。漱石の推薦で自伝的小説『銀の匙』を東京朝日新聞に連載。嫌味のない美しい文章は、今なお評価が高い。文壇政治から距離を置き特定の派閥にとらわれない孤高の文人だった。野上弥生子の初恋の人。画像は青山霊園にて撮影。


石原莞爾。1889年1月18日 – 1949年8月15日、陸軍軍人。
山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、石原啓介の息子。陸軍大学校を次席で卒業。満州事変を実行。23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で満州を占領した。スローガンは「王道楽土」「五族協和」。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に三つ引両紋。


三神吾朗。1889年11月6日 – 1958年6月24日、プロ野球選手。
山梨県中巨摩郡出身。甲府電灯会社の創業者・三神有長の五男。日本にまだプロ野球が無い時代にアメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」でプレーしジャップ・ミカドという日本人選手として後世に伝説を残す。青山霊園の墓所にて撮影。


甘粕正彦。1891年1月26日 – 1945年8月20日、陸軍軍人。
宮城県出身。甘粕事件で軍法会議で懲役10年の刑を受けたが出獄。フランスに渡った後、満州事変の陰謀に加わり黒幕となる。満州国民政部警務司長に就任するが敗戦時に新京で服毒自殺した。最終階級は陸軍大尉。画像は多磨霊園にて撮影。


成田きん。1892年8月1日 – 2000年1月23日、タレント。
愛知郡鳴海村で矢野家の長女。長寿で話題となった双子姉妹の一人。愛称はきんさん。(妹はぎんさん)。血液型O。満107歳没。100歳を過ぎても元気な姿は「理想の老後像」と言われ国民的アイドルとして慕われた。家紋は成田家の丸に二引両紋。


新田純興。1897年1月14日 – 1984年8月1日、サッカー指導者。
裁判官の父・純孝の任地・函館にて出生。新田家は新田義貞の流れを組む。読みは、にったすみおき。大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)創設に尽力。後にJFA常務理事に就任。日本サッカー殿堂入り。家紋は新田一つ引き紋。画像は谷中霊園にて撮影。


佐伯祐三。1898年4月28日 – 1928年8月16日、洋画家。。
大阪市出身。藤島武二に師事し東京美術学校に学ぶ。満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。代表作は『郵便配達夫』『パリの裏街』『ガス灯と広告』など。家紋は丸の内に二引両紋。


小国英雄。1904年7月9日 – 1996年2月5日、脚本家。
青森県八戸市出身。読みは、おぐにひでお。黒澤作品の脚本家として活躍。代表脚本は『生きる』『天国と地獄』。映画監督としては『ロッパ歌の都へ行く』『金語楼の親爺三重奏』を残す。家紋は丸の内の三引両紋。画像は多磨霊園にて撮影。


ディック・ミネ。1908年10月5日 – 1991年6月10日、歌手。
徳島市出身。本名は、三根徳一。東京帝国大学卒の厳格な教育者・三根円次郎(土佐中学校・高等学校・初代校長)を父に持ち、日光東照宮の宮司の娘を母に持つ。代表曲は『波止場がらす』『二人は若い』。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


古関裕而。1909年8月11日 – 1989年8月18日、作曲家。
福島県福島市の呉服店「喜多三」に出生。本名は古關勇治。読みは、こせきゆうじ。早大応援歌「紺碧の空」、高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神の「六甲おろし」など多くの応援歌の作曲を手がける。家紋は丸に二引き。画像は春秋苑にて撮影。


山形勲。1915年7月25日 – 1996年6月28日、俳優。
英国・ロンドン生まれ。本名は塙勲。時代劇の名悪役として名高い。『水戸黄門』の柳沢吉保役ははまり役。米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ・ベルリン・ヴェネツィア)の全てで受賞。家紋は丸に二引両紋。画像は南池袋・玄静寺の墓所。


丘灯至夫。1917年2月8日 – 2009年11月24日、作詞家。
福島県田村郡小野新町出身。本名・西山安吉。読みは、おかとしお。代表作は『高原列車は行く』『高校三年生』等の歌謡曲や『ハクション大魔王』『みなしごハッチ』『ガッチャマンファイター』などのアニメ主題歌。家紋は丸の内に二引両紋。


村田英雄。1929年1月17日 – 2002年6月13日、演歌歌手、俳優。
佐賀県東松浦郡相知町出身。出生は福岡県浮羽郡吉井町。本名は梶山勇。「王将」のミリオンヒットにより第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。「人生劇場 飛車角」「兄弟仁義」等の任侠映画に出演。家紋は丸に二引両紋。記念館のHPのアイコンもこの紋。


三橋美智也。1930年11月10日 – 1996年1月8日、演歌歌手。
北海道函館市近郊の上磯町出身。本名は北沢美智也。春日八郎、村田英雄らとともに戦後日本を代表する流行歌手。代表曲は「古城」「哀愁列車」など多数。三橋美智也の家紋は丸に三つ引両紋だが、小平霊園の北沢美智也の墓には丸に橘紋がある。


三浦哲郎。1931年3月16日 – 2010年8月29日、作家。
青森県八戸市三日町の呉服屋「丸三」の三男として出生。読みは、みうらてつお。『忍ぶ川』で芥川賞を受賞。NHK朝の連続テレビ小説『繭子ひとり』の原作を書く。1984年から2003年まで芥川賞選考委員を務めた。家紋は丸に三つ引両紋。


オノ・ヨーコ。1933年2月18日 – 、前衛芸術家。平和運動家。
東京府出身。明治・大正期の銀行家、日本興業銀行の第4代総裁・小野英二郎の孫。ジョン=レノンと結婚。レノン死後も「愛と平和」のメッセージを世界に向けて発信し続ける。家紋は丸の内に一引両紋。画像は多磨霊園の小野家墓所にて撮影。


若尾文子。1933年11月8日 – 、女優。
東京市豊島区出身。本名は黒川文子。亡夫は建築家の黒川紀章。甲州財閥・若尾逸郎の一族。大映から映画界入り。代表出演作は『赤線地帯』『女は二度生れる』『新・平家物語』など。家紋は丸に三つ引両紋。画像は多磨霊園の若尾徳平の墓所にて撮影。


高橋悦史。1935年8月2日 – 1996年5月19日、俳優で、声優。
大阪府岸和田市に大工の息子。日活映画『私、違っているかしら』に出演し映画デビュー。岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』の青年将校役に抜擢され注目を浴びる。出演作『戦争と人間』『皇帝のいない八月』等。画像は春秋苑にて撮影。


片岡仁左衛門 (15代目)。1944年3月14日 – 、歌舞伎役者、俳優。
大阪府に生まれる。十三代目片岡仁左衛門の三男。芸術祭賞、毎日芸術賞、紫綬褒章等を受賞。テレビドラマ「太閤記」「太平記」「元禄太平記」等に出演。家紋は丸に二引両。また池上本門寺の片岡氏墓所には一つ銀杏巴の紋がある。


ピーコ。1945年1月18日 – 、タレント、評論家。
神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。本名:杉浦克昭。映画評論家のおすぎは一卵性双生児の弟。古舘伊知郎のスタイリストを担当。『とくダネ!』『笑っていいとも!』のレギュラー。『笑っていいとも!』出演時に家紋は丸に三つ引であることを告白。


有元利夫。1946年9月23日 – 1985年2月24日、画家。
岡山県津山市(疎開先)に出生。妻は日本画家の有元容子。独自の宗教的な画風で知られる。『花降る日』で安井賞特別賞、『室内楽』で安井賞を受賞。代表作は「厳格なカノン」「望郷」「出現」等。家紋は丸に二引両紋。画像は谷中・長久院にて撮影。


大原麗子。1946年11月13日 – 2009年8月3日、俳優。
東京都文京区出身。実家は老舗の和菓子屋。数多くの映画、テレビドラマに出演。サントリーCMの「すこし愛して、なが~く愛して」のキャッチコピーはよく知られた。代表出演作『おはん』『春日局』等。家紋は丸に三つ引き両紋。墓は烏山の妙寿寺。


三浦友和。1952年1月28日 – 、俳優。
山梨県塩山市出身。本名は三浦稔。山口百恵(妻)と共演した主演映画・ドラマが次々とヒットし百恵友和コンビ=ゴールデンコンビと呼ばれた。代表出演作は『赤いシリーズ』『独眼竜政宗』等。結婚式披露宴の紋付と姓名より三つ引両と判断。


河野太郎。1963年1月10日 – 、政治家。
出身地は神奈川県平塚市。父は、元衆議院議長の河野洋平。祖父は元衆議院議員河野一郎。総務大臣政務官、法務副大臣を歴任。谷垣総裁の下で幹事長代理に正式に就任。家紋は丸に三つ引両紋。画像は小田原・成願寺の河野家墓所にて撮影。


栃東大裕。1976年11月9日 – 、元大相撲力士。
東京都足立区出身。元関脇・栃東知頼の次男。玉ノ井部屋に所属。序の口から幕の内まで各段優勝を果たす。最高位は大関。現在は年寄・14代玉ノ井。幕内最高優勝:3回。通算成績:560勝317敗169休(75場所)。家紋は丸に三つ引両。


琴奨菊和弘。1984年1月30日 – 、大相撲力士。
福岡県柳川市に建設会社の三男として生まれる。本名は菊次一弘。佐渡ヶ嶽部屋所属。得意技は左四つ、がぶり寄り、突き、押し。2011月9月場所で12勝を上げ、念願の大関昇進を果たす。時津風部屋の豊ノ島とは良きライバル。家紋は丸に二つ引両。

まさむね



蔦紋 -遊女が好んだ優美な紋- 藤堂高虎、谷崎潤一郎、いかりや長介...

蔦紋は、江戸時代におおいに広まった。
大名では、藤堂、松平、六郷などの諸氏が使用している。一方で、遊郭でも大流行。形が優美で、しかも、纏わりついて繁栄するという蔦の姿が、遊女達の心情を表現していたからであろうか。

石川県(1位)、新潟県(2位)、富山県(4位)、島根県(5位)など、日本海側の各県で使用者が多い。
逆に高知県では24位と断然少ない。また、佐賀県で16位、山梨県、長崎県で15位、青森県、岐阜県、和歌山県で14位と少ない。

使用している有名人は以下である。
何故か、政治家よりも文化人が多いのが目立つ。


松永久秀。1510年 – 1577年11月19日、戦国時代の武将。
出身については阿波国・山城国西岡・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を殺害し畿内を支配。第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者。北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とされる。


藤堂高虎。1556年2月16日 – 1630年11月9日、武将・大名。
近江犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。築城の名手としても知られている。家紋は藤堂蔦。画像は染井墓地の藤堂家の墓所にて撮影。


成富茂安。1560年 – 1634年、龍造寺氏次いで鍋島氏の家臣。
佐賀県佐賀市鍋島町増田に生まれ、龍造寺隆信、龍造寺政家、鍋島直茂などに仕える。熊本城などの築城、筑後川の堤防工事、潅漑事業に手腕を振るう。明治天皇に業績を賞賛され従四位を追贈される。家紋は丸に蔦紋。画像は佐賀市本行寺の墓所にて撮影。


出雲阿国。1572年 – 没年不詳、女性芸能者。
伝説によれば出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘とされる。1603年春に北野天満宮に舞台をかけて興行を行ない大変な人気を集めた。江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえた。歌舞伎の創始者。画像は出雲大社近くの阿国のものとされる墓。


徳川吉宗。1684年11月17日 – 1751年7月12日、将軍。
徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。江戸幕府の第8代将軍に就任し、新田開発、定免法や上米令、目安箱の設置、公事方御定書の制定、江戸町火消しを設置等、いわゆる享保の改革を行う。定紋の三つ葉葵紋の他、蔦紋も使用。


蔦屋重三郎。1750年2月13日 – 1797年5月31日、版元(出版人)。
父(丸山氏)は江戸の吉原で遊廓の勤め人。喜多川氏の養子になる。蔦屋は喜多川氏の屋号、吉原の茶屋。山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿東洲斎写楽の浮世絵の出版をした。家紋は山形に蔦。画像は「蔦屋重三郎展」のポスターより。


山田検校。1757年6月14日 – 1817年5月25日、箏曲家。
尾張藩・宝生流能楽師の三田了任の子で山田は母方の姓。本名は斗養一。浄瑠璃の叙事的な要素を導入して語り物的な箏曲の分野を確立した。代表作は「小督の曲」「長恨歌の曲」「葵上」。没年には当道最高位の惣録検校に昇進した。家紋は鬼蔦紋。


瀧山。1805年 – 1876年1月14日、大奥御年寄。
御鉄砲百人組・大岡義方の長女。江戸幕府12代将軍徳川家慶・13代家定・14代家茂時代の御年寄を務め江戸開城に伴い大奥の最後の幕引きをした。家紋は丸に大割り蔦紋。家紋画像は川口・錫杖寺にて撮影。顔画像は『篤姫』の稲盛いずみ。


古河市兵衛。1832年4月16日 – 1903年4月5日、実業家。
幼名は木村巳之助。木村家は京都岡崎で代々庄屋を務める家柄。渋沢栄一から援助を受け、事業を発展させる。足尾銅山を買収。古河財閥の創業者。事業は後の古河電気工業へと発展していく。家紋は鬼蔦紋。画像は南麻布・光林寺にて撮影。


頼山陽。1780年1月21日 – 1832年10月16日、歴史家、文人。
広島藩の城下の袋町に育つ。幼名は久太郎。主著『日本外史』が幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。画像は、帆足杏雨筆の頼山陽像。紋付の家紋は丸に蔦紋。定紋は四つ又抱き鹿角。


有村次左衛門。1839年2月11日 – 1860年3月24日、尊攘派志士。
薩摩藩士・有村兼善の四男として生まれる。兄に後の貴族院議員・海江田信義。大老井伊直弼暗殺を水戸藩士らと計画し、江戸城桜田門外で行列を襲撃した。のちに正五位が追贈される。家紋は浮線蔦。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


市川左団次(初代)。1842年11月30日 – 1904年8月7日、役者。
大坂道頓堀生まれ。父は歌舞伎役者の結髪師・中村清吉。本名は高橋榮三。明治座を新築し、座元(劇場所有者)として近代的な劇場経営を行う。定紋は三升に左の字、替紋は松川菱に鬼蔦。また、肖像写真から中陰鬼蔦も使用と判断。


藤堂平助。1844年 – 1867年12月13日、新選組隊士。
武蔵国江戸出身。新選組結成当時からの同志。新選組八番組組長。池田屋事件では、近藤勇・土方歳三に次ぐ褒賞金を幕府から下賜される。伊東甲子太郎に従って新選組を離脱し後に油小路事件で暗殺される。家紋は丸に蔦紋。画像は薄桜鬼の藤堂平助。


森有礼。1847年8月23日 – 1889年2月12日、薩摩藩士・政治家。
薩摩国鹿児島城下春日小路町で薩摩藩士森喜右衛門有恕の五男として生まれた。明治維新後に福澤諭吉、西周らと共に明六社を結成。初代の文部大臣。英語の国語化を提唱したことでも有名。家紋は頭合わせ三つ鬼蔦。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


東郷平八郎。1848年1月27日 – 1934年5月30日、海軍軍人。
薩摩国鹿児島城下出身。父親は薩摩藩士・東郷実友。日本海軍司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し日本の国際的地位を引き上げた。特に日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った。最終階級は元帥海軍大将。画像は多磨霊園にて撮影。


島村速雄。1858年10月26日 – 1923年1月8日、海軍軍人。
高知県出身。土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。第四艦隊司令官、海軍兵学校校長、海軍大学校校長、海軍教育本部長、海軍大将を歴任。「天性的に度量のある人物」といわれた。家紋は丸に変り三つ蔓蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


元良勇次郎。1858年12月5日 – 1912年12月13日、心理学者。
摂津国三田出身。旧姓は杉田。読みは、もとらゆうじろう。東京英和学校(青山学院の前身)や、正則予備校の設立に参画。帝国大学文科大学教授として日本における近代心理学の礎を築いた。家紋は鬼蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


高田早苗。1860年4月4日 – 1938年12月3日、政治家、教育家。
東京深川生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立に参加。第1回衆議院議員総選挙に全国最年少で当選。衆議院議員、貴族院議員、早稲田大学総長、文部大臣などを歴任した。家紋は大割り蔦紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


本野一郎。1862年3月23日 – 1918年9月17日、外交官、政治家。
肥前国佐賀生まれ。父は読売新聞創業者の本野盛亨。弟に化学者・早稲田大学教授の本野英吉郎がいる。外務省に入りフランス公使、ベルギー公使を歴任。寺内内閣で外務大臣となる。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


柴田家門。1863年2月6日 – 1919年8月25日、政治家。
萩城下平安古に柴田英佐の長男として出生。第2次山縣内閣の内務省地方局長を務める。後に勅撰の貴族院議員となり、第3次桂内閣の文部大臣に就任。退任後も貴族院議員を務め臨時教育会議の委員を務める。家紋は丸に三つ寄せ蔦紋。画像は青山霊園にて。


田中義一。1864年7月25日 – 1929年9月29日、政治家。
萩藩士・田中信祐の三男として萩に出生。第26代内閣総理大臣在任中に張作霖爆殺事件が起き、それがもとで昭和天皇にも「お前の最初に言つたことと違ふぢやないか」と強く叱責されたため内閣総辞職した。家紋は鬼蔦。画像は多磨霊園にて撮影。


石塚英蔵。1866年10月31日 – 1942年7月28日、官僚、政治家。
福島県出身。会津藩士・石塚和三郎の長男として生まれる。台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官を歴任。台湾総督時代に霧社事件(最大規模の抗日暴動事件)が起こり、辞職している。家紋は丸に二つ中陰蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


幸田露伴。1867年8月22日 – 1947年7月30日、小説家。
江戸下谷三枚橋横町に生まれる。『五重塔』『運命』などの作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。第1回文化勲章受章。娘の文も随筆家、後に小説も書いた。家紋は蔦紋。画像は池上本門寺の墓所にて撮影。


山路一善。1869年4月24日 – 1963年3月13日、海軍軍人。
愛媛県松山市に松山藩士山路一審の三男として生まれる。明治から大正の大日本帝国海軍の海軍中将。日本海軍での航空兵力の導入、整備に尽力し、海軍航空の生みの親と呼ばれる。家紋は丸に大割り蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


尾上柴舟。1876年8月20日 – 1957年1月13日、詩人、歌人。
岡山県苫田郡津山町出身。本名は尾上八郎。読みは、おのえしばふね。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ同藩士・尾上動の養子となる。「叙景詩」を刊行し浪漫主義に対抗して叙景詩運動を推し進めた。家紋は三つ蔦紋。画像は多磨霊園にて。


植原悦二郎。1877年5月15日 – 1962年12月2日、政治家。
長野県南安曇郡明盛村出身。国民主権論を大胆に主張するなど急進的な大正デモクラットとして言論活動を展開した。戦後、日本自由党の結成に参画し第1次吉田内閣の国務大臣として入閣する。改造後は内務大臣。家紋は蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


佐藤義亮。1878年2月18日 – 1951年8月18日、実業家。
秋田県仙北郡角館町に佐藤為吉の四男として出生。読みは、さとうよしすけ。耐乏生活の末、1896年に新声社(後の新潮社)を立上げて雑誌『新声』を創刊。その後、雑誌『新潮』を創刊した。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


松岡映丘。1881年7月9日 – 1938年3月2日、日本画家。
兵庫県神崎郡の旧家・松岡家に産まれ。本名は輝夫。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がいた。家紋は大割蔦紋。父親の羽織より。


早川徳次。1881年10月15日 – 1942年11月29日、実業家。
山梨県東八代郡御代咲村に生まれる。東京地下鉄道(後、帝都高速度交通営団→東京地下鉄)の創業者。日本に地下鉄を紹介・導入し、「地下鉄の父」と呼ばれる。『帝都物語』にも登場する。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


土肥原賢二。1883年8月8日 – 1948年12月23日、陸軍軍人。
岡山県岡山市出身。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で活躍。「満州のローレンス」と呼ばれていた。終戦後、特に中国からの主張によりA級戦犯として絞首刑となる。最終階級は陸軍大将。家紋は鬼蔦紋。画像は護国寺にて撮影。


長谷川伸。1884年3月15日 – 1963年6月11日、小説家、劇作家。
神奈川県横浜市の土木業の家に生れる。「講談倶楽部」や「都新聞」に山野芋作のペンネームで小説を発表。文学学校「新鷹会」を主宰。門下生に山岡荘八、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎達がいる。代表作「関の弥太っぺ」「股旅草鞋」等。


小松原道太郎。1886年7月20日 – 1940年10月6日、陸軍軍人。
神奈川県出身。海軍工廠技師・小松原五良の長男として生れる。歩兵第57連隊長、関東軍司令部付を歴任。ノモンハン事件のきっかけを作る打電をする。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に蔦紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。


谷崎潤一郎。1886年7月24日 – 1965年7月30日、小説家。
耽美主義とされる作風で、『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し文豪と称された。『文章読本』でみずから主張するような「含蓄」のある文体で日本的な美、性や官能を耽美的に描いた。家紋は丸に蔦紋。画像は巣鴨・慈眼寺の墓所にて撮影。


福留繁。1891年2月1日 – 1971年2月6日、海軍軍人。
鳥取県西伯郡所子村の農家に生まれた。読みは、ふくとめしげる。太平洋戦争中に軍令部第一部長、連合艦隊参謀長などの要職を務め、太平洋戦争中に、日本海軍の作戦の中枢にあった。最終階級は海軍中将。家紋は菱に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


野田高梧。1893年11月19日 – 1968年9月23日、脚本家。
北海道函館市出身。長崎県、愛知県で育つ。小津安二郎とは公私共に良きパートナー。共作という形で『晩春』から『秋刀魚の味』までの全作品を手がける。日本脚本家協会の初代会長を務めた。家紋は八曜に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


松下幸之助。1894年11月27日 – 1989年4月27日、実業家。
和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。松下電気器具製作所を創業。世界的企業・パナソニックに育て上げる。経営の神様と称される。晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。家紋は丸に蔦紋。


大塚敬節。1900年2月25日- 1980年10月15日、医師。
高知県高知市に生まれる。読みは、おおつかよしのり。大塚家は産婦人科・大塚修琴堂医院。昭和期の漢方復権に尽力。東洋医学の発展に貢献した業績により日本医師会より最高優功賞を受賞。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


戸坂潤。1900年9月27日 – 1945年8月9日、哲学者。
東京市出身。京都帝国大学のマルクス主義研究者。西田左派に属し唯物論研究会を創始。治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ栄養失調により、敗戦の直前に長野刑務所で獄死。家紋は丸に知り合わせ三つ蔦。画像は多磨霊園にて撮影。


下山定則。1901年7月23日 – 1949年7月6日、鉄道官僚。
兵庫県出身。日本国有鉄道が発足して初代総裁に就任した。総裁として職員約10万人の解雇を決定し第一次整理の3万700人を通告したが直後、消息を絶ち轢死体となって発見された(下山事件)。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


柳家三亀松。1901年9月1日 – 1968年1月20日、三味線漫談家。
東京の木場の材木職人の家に生まれる。本名は伊藤亀太郎。にお色気の音曲漫談では『アハァ~ん』や『イヤァ~ん』等の女性の鼻の掛かった名文句で売り出す。余りに過激すぎて寄席で禁止令が出る程だった。芸術祭奨励賞を受賞。家紋は中陰鬼蔦紋。


富田常雄。1904年1月1日 – 1967年10月16日、小説家。
柔道家富田常次郎の子として東京府に生まれる。『姿三四郎』で流行作家となる。戦後、『刺青』、『面』で直木賞を受賞。また、「弁慶」を原作としてNHKで連続ドラマ『武蔵坊弁慶』が放送された。家紋は陰丸輪に蔦紋。画像は谷中・信行寺にて撮影。


円地文子。1905年10月2日 – 1986年11月12日、小説家。
東京府東京市浅草出身。本名は富美ふみ。劇作家として小山内薫の薫陶を受ける。女性の心理を露にした新時代的小説と源氏物語の現代語訳に代表される古典文学の両輪により高く評価され文化勲章を受章するまでに至った。画像は谷中霊園にて撮影。


愛知揆一。1907年10月10日 – 1973年11月23日、政治家。
宮城県仙台市出身。祖父・信元は幕末期、徳川慶喜に小姓。法務大臣、文部大臣及び科学技術庁長官、内閣官房長官、外務大臣、大蔵大臣を歴任。環境庁長官、防衛庁長官の愛知和男は女婿で後継者。家紋は七宝に蔦紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


長谷川一夫。1908年2月27日 – 1984年4月6日、俳優。
京都伏見の芝居小屋の子として生まれる。戦前、戦後の長きに渡って日本を代表する二枚目役者として映画界に君臨。代表作は『雪之丞変化』『沓掛時次郎』『忠臣蔵』など。家紋は丸に鬼蔦紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


ライオン野口。1908年6月2日 – 1961年5月8日、プロボクサー。
東京市本郷区根津出身。日本ウェルター級チャンピオン。日本フライ級チャンピオンの野口恭は次男、キックボクシング創始者の野口修は長男。引退後は愛国社の同人となり、若槻禮次郎民政党総裁を襲撃。家紋は丸に鬼蔦紋。


佐分利信。1909年2月12日 – 1982年9月22日)、俳優。
北海道空知郡歌志内村の炭鉱夫の家に生まれる。上原謙、佐野周二と松竹三羽烏を結成し翌年の三人で主演した「婚約三羽烏」が大ヒット。代表出演作は「お茶漬けの味」「あゝ青春」「華麗なる一族」。家紋は丸に蔦紋。画像は小平霊園にて撮影。


麻生三郎。1913年3月23日 – 2000年4月5日、画家。
東京都中央区に生まれる。渡欧、独立美術協会入選後、新人画会を結成。戦後 自由美術協会に参加。武蔵野美術学校教授。日本国際美術展優秀賞、芸術選奨文部大臣賞、自由美術協会退会後無所属。家紋は丸に蔦紋。画像は、春秋苑の墓所にて撮影。


芝木好子。1914年5月7日 – 1991年8月25日、小説家。
東京・浅草出身。経済学者の大島清と結婚し本姓を芝木から大島へと変える。『青果の市』で第14回芥川賞受賞。戦後に書いた『湯葉』『隅田川』『丸の内八号館』の3作品は自伝三部作と言われ作風が確立される。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園にて。


串田孫一。1915年11月12日- 2005年7月8日、詩人、随筆家。
東京出身。東京帝国大学哲学科卒。文芸誌『アルプ』を創刊、終刊するまで責任編集者を務める。FMラジオ番組「音楽の絵本」でパーソナリティを務めた。主著は詩集『羊飼の時計』『山のパンセ』。家紋は丸に蔦紋。画像は谷中霊園にて撮影。


竹下登。1924年2月26日 – 2000年6月19日、政治家。
島根県飯石郡掛合村に竹下勇造・唯子の長男として生まれる。生家の竹下家は江戸時代には庄屋を務め幕末から現在まで代々造り酒屋を営む素封家。内閣総理大臣(第74代)、衆議院議員(14期)を務めた。ミュージシャンのDAIGOが孫にあたる。


吉行淳之介。1924年4月13日 – 1994年7月26日、小説家。
岡山県岡山市出身。父・吉行エイスケ(詩人)、母・あぐり(美容師)、妹・和子(女優)。『驟雨』で芥川賞を受賞し遠藤周作、安岡章太郎達と第三の新人と言われる。代表作は『驟雨』『原色の街』『暗室』等。本妻の他にも複数の愛人がいた。


谷村昌彦。1927年2月25日 – 2000年8月6日、俳優。
山形県山形市出身。本名は武田忠。浅草六区で俳優としての活動を始める。田舎訛りのキャラクターで活躍。日本喜劇人協会の理事も務めた。代表出演作は『どですかでん』『人生劇場』『必殺仕掛人』。家紋は蔦紋。画像は南池袋・玄静寺の墓所。


阿佐田哲也。1929年3月28日 – 1989年4月10日、小説家、雀士。
東京都新宿区出身。本名は色川武大。色川名義の作品も多かった。代表作は「怪しい来客簿」「離婚」(直木賞受賞作品)「狂人日記」「麻雀放浪記」「次郎長放浪記」。雀聖と呼ばれた。家紋は中陰対い蔦蝶。画像は谷中墓地にて撮影。


いかりや長介。1931年11月1日 – 2004年3月20日、コメディアン。
東京市本所区出身。本名は碇矢長一。父・碇矢一郎は築地の魚河岸で運搬の仕事に従事していた。『8時だョ!全員集合』『ドリフ大爆笑』で一世を風靡。『踊る大捜査線』の和久平八郎役で俳優としても認められる。画像は蓮昌寺にて撮影。


江藤淳。1932年12月25日 – 1999年7月21日、文芸評論家。
東京府豊多摩郡出身。20代より文芸時評をはじめ、特に日本の近代的自我に対する批判を描き出した『奴隷の思想を排す』は大きな影響を与えた。代表作は『夏目漱石』『自由と禁忌』。家紋は蔦紋。叔父・江頭豊氏の葬儀の祭壇の紋より判断。


池内淳子。1933年11月4日 – 2010年9月26日、女優。
東京市本所区東両国生まれ。久保菜穂子、三ツ矢歌子と共に「新東宝現代劇の女優三羽烏」として脚光を浴びる。1960年代から1980年代まで、テレビドラマの女王として君臨した。代表出演作は『新妻鏡』『日日の背信』『東芝 日曜劇場』等。家紋は蔦紋。


児玉清。1933年12月26日 – 2011年5月16日、俳優、司会者。
東京市滝野川区(現・東京都北区)出身。本名・北川 清。『パネルクイズ アタック25』の司会者となり、30年以上にわたり司会を行っていた。俳優としては「ありがとう」「HERO」「龍馬伝」などに出演。家紋は葬儀時の祭壇より蔦紋と判断。


黒川紀章。1934年4月8日 – 2007年10月12日、建築家、思想家。
愛知県海部郡蟹江町生まれ。夫人は女優の若尾文子。弟は建築家の黒川雅之。代表作は『中銀カプセルタワービル』『広島市現代美術館』『福岡銀行本店』等。東京都知事選挙、参院選に出馬するも落選。家紋は丸に蔦紋。梅窓院の黒川家の墓所にて撮影。


野村秋介。1935年2月14日 – 1993年10月20日、右翼活動家。
東京出身。若い頃は出口辰夫の舎弟。五・一五事件の三上卓の影響により右翼となる。戦後新右翼の代表的な論客として憂国道志会を結成。河野一郎邸焼き討ち事件で12年、経団連会館襲撃事件で6年服役。朝日新聞東京本社の社長室にて拳銃自決。


林家木久扇。1937年10月19日 – 、落語家。
東京市日本橋区生まれ。東京大空襲で実家の雑貨問屋が全焼し、廃業。 1960年、落語界入り。「笑点」のレギュラーとなる。現在のメンバーで一番連続出演期間が長い。「全国ラーメン党」を結成し、「木久蔵ラーメン」を開店。家紋は「光琳の蔭蔦」。


石ノ森章太郎。1938年1月25日 – 1998年1月28日、漫画家。
宮城県登米郡石森町出身。代表作は『サイボーグ009』『HOTEL』『仮面ライダー』など。500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』は一人の著者による最も多い漫画出版の記録としてギネス認定された。画像は祥雲寺にて撮影。


ロッキー青木。1938年10月9日 – 2008年7月10日、実業家。
東京都中野区出身。父親はBENIHANA創業者の青木湯之助(画像家紋は湯之助氏の墓所)。青木家は江戸時代は紀州徳川直参の旗本の旧家。アメリカ合衆国で鉄板焼き一大レストランチェーン「BENIHANA」を成功させ、アメリカン・ドリームを実現。


琴櫻傑將。1940年11月26日 – 2007年8月14日、第53代横綱
鳥取県東伯郡倉吉町出身で佐渡ヶ嶽部屋所属。本名は鎌谷紀雄。のど輪で一気に攻める押し相撲を得意とし、「猛牛」との異名を取った。幕内成績:553勝345敗77休 勝率.616。幕内最高優勝:5回。2007年8月14日亡くなる。葬儀時の画像より蔦紋と判断。


輪島大士。1948年1月11日 – 、第54代横綱
石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、全日本プロレス所属の元プロレスラー。日大時代、学生横綱など14個のタイトルを獲得し幕下付出しで入門。初土俵から3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ史上初の学士・本名横綱となる。


笹野高史。1948年6月22日 – 、俳優。
兵庫県津名郡一宮町出身。造り酒屋に四男であった。山田監督の『武士の一分』で第30回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。代表出演作は『母べえ』『おくりびと』『天地人』等。2009年暮れのMacCafeのCMの紋付姿より鬼蔦紋と判断。


春風亭小朝。1955年3月6日 – 、落語家、俳優。
東京都北区出身。本名は花岡 宏行。初代・林家三平の次女泰葉の元夫。1980年に、真打昇進。36人抜きで話題となる。この記録は2008年現在未だ破られていない。篤姫(NHK大河ドラマ)では近衛忠煕役として出演。家紋は光琳の蔭蔦。


水島広子。1968年3月21日 – 、精神科医、政治家。。
東京都出身。読みは、みずしまひろこ。2000年の総選挙で、民主党所属として栃木1区から出馬し、当選。選択的夫婦別姓制度導入のための活動を行う。政界引退後、総務省顧問も務めた。家紋は丸に鬼蔦紋。画像は多磨霊園の水島家の墓所にて撮影。


谷佳知。1973年2月9日 – 、プロ野球選手。
大阪府東大阪市出身。2003年のオリックス時代にはパ・リーグ最多安打のタイトルを獲得。2007年により読売ジャイアンツに移籍。夫人は、元柔道選手・民主党参議院議員の谷亮子。家紋は丸に蔦紋。結婚式披露宴時の紋付より丸に蔦紋と判断。


一青窈。1976年9月20日 – 、歌手。
父は台湾人、母は日本人(石川県出身)。中国語の漢字名は顏窈(イエン・ヤオ)。「顏」は父親の姓。「一青」は母親の姓。2002年に「もらい泣き」でブレイク。代表作「もらい泣き」「ハナミズキ」「はじめて」等。母方(一青姓)の家紋は蔦紋。


琴欧洲勝紀。1983年2月19日 – 、大相撲力士。
ブルガリア出身で佐渡ヶ嶽部屋所属の現役大関力士。身長202cm、体重155kg、握力120kg。長身と、懐の深さ、抜群の格闘技センスで番付を駆け上がり、初土俵から所要11場所で入幕。家紋の「蔦」は先代の佐渡ケ獄親方の紋を継承。

まさむね



花田家の家紋がいつの間にか替わった件に関して

先日、Yahooの特集に「【大相撲豪傑列伝】(13)力道山の肉を食いちぎった『土俵の鬼』初代若乃花幹士」という記事が掲載されていた。

記事の内容は、「二所ノ関部屋の兄弟子である力道山のシゴキを受けて強くなったが、けいこの途中で力道山の脛にかみつき、肉を食いちぎったことがある。力道山がプロレス転向後に黒いロングタイツをはいたのは、その傷を隠すためだったともいわれる。」とあるような武勇伝であるが、僕が気になったのは、その記事と一緒に掲載されていた写真だ。
おそらく、若乃花が優勝したときのパーティの写真(写真一番上の段)だろうが、若乃花の紋付の家紋が「丸に三つ柏」なのである。

花田家の家紋と言えば、思い出す事がある。
二子山親方(元大関貴ノ花)が亡くなった時の葬儀で、離婚した憲子さんが花田家の家紋のついた帯をしてきて、貴乃花親方(元横綱貴乃花)が激怒したあの件である。
この時、葬儀の壇上に大きく飾られた紋所は、「隅立ての四つ目結い」であった。
そして、憲子さんの帯にも「丸に隅立ての四つ目結い」が入っていたのだ。

勿論、その後、貴乃花親方、兄の三代目若乃花の正装の紋付にはこの紋が入っている。

さて、それでは何故、先代若乃花の家紋と二子山親方、あるいは貴乃花親方の家紋が違うのだろうか。
勿論、僕はここで、巷に流布している花田家に関するくだらない噂(真実の親子関係など)を云々しようとしているわけではない。
家紋というものが得てして、このように替わってしまうものだという事を確認したかっただけである。

花田家の家紋がいつの間に「丸に三つ柏」から「丸に隅立ての四つ目結い」になったのか。
そんなコロコロ替わってしまうものに対して何故、貴乃花はあれほどこだわったのか。
謎と言えば謎ではある。
しかし、それでもいいのである。
誰も真実をもって貴乃花に詰め寄るようなことはしない。
日本人というのは、おおらかなものなのである。
    ◆
本人が、これがウチの家紋だと言い張れば、それはそのウチの家紋になる。
これが、ウチの伝統だと思えば、それがウチの伝統になる。
正確な経緯とか、歴史の真実などどうでもいいのである。
例えば、井の頭公園弁財天の神紋にしても境内各所にある対い波に三つ鱗の紋の波の形が少しづつ違うではないか。
本当はどの形が正しいのかなどは野暮な疑問なのである。
これは推測であるが、二子山親方(元大関貴ノ花)が、「四つ目結い」は家族の絆の象徴だからと誰か(霊友会関係者?)に言われて、花田家の家紋として、採用しただけかもしれない。
ちなみに、和泉元彌の和泉家も「雪輪に隅立て四つ目結い」を家紋としている。
花田家、和泉家、ともに現代日本を代表する伝統芸の一家であるが、家紋の意味とは裏腹に、家族内のゴタゴタが事あるごとに漏れ伝わってきてしまうのは皮肉である。
    ◆
さて、歴史の真実と言えば、戦後、日本では戦前の日本がどうであったのかという論争がずっと続いている。
最近も、自衛隊の田母神氏の論文が問題になった。
おそらく、彼の論文に対して、真実はどうかという歴史考証のレベルで話をしてもそれほど実りがあるとは思えない。
重要なのは、田母神氏が信念を持って論文を発表したということだ。
おそらく、田母神氏が日本は決して悪くなかったと信じている。それは貴乃花が四つ目結いを伝統的に花田家の家紋であると信じているのと同じことだ。

それゆえに、もし、彼がいずれかの討論会などで完全に論破されたとしても、その後で一言つぶやくだろう。
「それでも、日本は悪くない」と。
    ◆
人が信じていることを替えさせるというのは、本当に難しいことだと思う。

まさむね

聖子とヨーコ

seiko.gifいまの私がいちばん好き
もっと自分を好きになる

最近、松田聖子が出演するDiosa(ヘアカラー)のCMのコピーである。
いまだに輝き続ける彼女に相応しいキャッチだ。

「自分らしく生きる」という誰でも出来そうで誰にも出来ないスタイルを貫く松田聖子。
彼女には、支持するファンが存在すると同時に、彼女に対して、嫌悪感を隠さない人々もいる。その人生は、その嫌悪感に対する闘いの歴史でもあった。
しかし、彼女が立派なのは、どんなに逆風が吹いても彼女は逃げなかった事だ。
ある芸能記者によると、「どんな状況でも松田聖子は取材に応じる」そうである。
そして、彼女はいつも”松田聖子”であり続けるそうだ。

闘い続けた女性だけが表現できる迫力、今回のCMにはそんなものを感じる。
来週22日(水)に発売予定のニューシングル「あの輝いた季節」は、またヒットチャートを賑わしてくれる事だろう。


世界中のすべての時計を二秒ずつ早めなさい。
誰にも気づかれないように。

これは、松田聖子がデビューする30年程前に、アメリカに渡り、前衛芸術家として活躍、後にビートルズのリーダー、ジョン=レノンと結婚、ビートルズ解散の元凶と言われ、世界中からバッシングを受けたオノ・ヨーコが、60年代初頭に著したインストラクションアート(命令文による詩集)「グレープフルーツジュース」の中の
一節だ。
彼女は一般的にはジョンの妻としてのみ有名であるが、ジョンと出会う前から芸術家として素晴らしかったのだ。
この2行を読んでもらえば、分かる人にはわかるよね。

ちなみに、彼女は今でも毎年、日本のアーティストを集めて武道館でチャリティコンサートを行っている。
今年も12月8日にあるらしい。奥田民生、斉藤和義、ボニピン達に加えて、今年は、Salyu、絢香や宮崎あおい達も出るらしい。
ヨーコもまた闘い続けた女のみが出せるオーラをいまだに持っている。今年のステージも今から楽しみだ。

さて、松田聖子とオノ・ヨーコは実はある共通点があるのだ。
知る人ぞ知る事実なのだが、二人とも九州の柳川・立花藩の家老の家の末裔なのだ。
ちなみに、松田聖子の蒲池家の家紋は左三つ巴(一番上)、オノヨーコの小野家の家紋(一番下)は一つ引両だ。
世が世なら、この二人の家老の姫達がそれぞれの立場で顔を合わせていたかと想像するのも一興か。
そんな城内ってもしかしたら、まわりは大変だったかも…

それにしても、柳川って僕も一度行った事があるんだけど、大林宣彦監督の「廃市」の舞台になった、美しい運河(写真中)の街だ。
この映画のタイトルでもイメージ出来るように、ある意味、消えゆく日本美の象徴みたいな街なんだよね。

ちなみに、この「廃市」には先ごろ亡くなられた峰岸徹さんも出演されておりました。合掌。

まさむね

「篤姫」の家紋に物申す

satumakamon.gif篤姫のような本格的な時代ドラマを見ていると、僕はどうしても(若干の悪意を含みながら)登場人物の家紋に目が言ってしまう。

いつも気になるのが、徳川家茂と一橋慶喜の家紋が同じに見える事。
ものの本によると、三つ葉葵でも、徳川宗家の家紋は3つの葉が中心がくっついているが、一橋家では離れていたらしい。
まぁウチはまだアナログテレビなので、微妙な差異は見分けられないんだけどね。

そして、今日の「篤姫」で気になった事。

本日の放映回では、西郷隆盛が島津久光に許されて薩摩の軍役に復帰するのだが、その際、紋付を羽織っていたのだが、その家紋が「抱き菊葉に菊」(写真真中)だった。
確かに、西郷さんといえば、この「抱き菊葉に菊」と言われているのだが、この家紋は明治天皇から下賜されたもののはずだ。
という事は、禁門の変(1864年)の時点で西郷隆盛がこの紋付を着ているのはおかしいのではないだろうか。

それでは、西郷の元々の家紋は何だったのであろうか。
多磨霊園にある、西郷隆盛の弟の西郷従道の墓の家紋は写真一番上だ。
これが、梶の葉なのか、菊の葉なのか、僕にはちょっとわからない。
しかし、ここからは推測だが、元々、菊の葉の家紋だった西郷家の隆盛に対して、明治天皇が「私をずっと守ってほしい」という意味を込めて、その菊の葉が囲む菊の花の紋を与えたのではないか。

さて、西郷と言えば、大久保だが、青山墓地にある大久保利通の墓にある家紋は写真一番下。僕には藤巴紋に見える。
ちなみに、この藤巴紋は、寅さんで有名な渥美清の本名、田所康雄の家紋でもある。

家紋を調べていくと、全然別のキャラクタの人々が同じ紋を持ってたりするから面白い。

まさむね

秩父の街 紋所散歩1

知らない街を歩いて、いろんなものを見て回る時、私はその街に点在する紋所(家紋)を意識的に見て回るようにしている。
街の歴史がイメージされるからだ。
勿論、私は歴史の専門家ではないので、それは実証というものからは遠い。あくまでもイメージ(想像)して楽しもうというのだ。
最近は、C型肝炎のおかげで、出かける事はめっきりと減ってしまったが、以前はたまに、そんな街散策を楽しんだ。

例えば、今年の冬に妻と出かけた秩父日帰り旅行。楽しかった。
街のメインストリート(西武秩父駅~秩父神社)は700メートルくらい。左手に慈眼寺(写真-1)という秩父札所十三番の寺がある。

本堂の後ろに墓地があり、覗いてみた。墓石の紋所には九曜(写真-2)、七曜等の曜(星)紋系が多い。恐らく、ここは、平氏の流れをくんだ(くんだと思い込んだ?)人々が根付いている土地なのであろう。ものの本にも、この土地は平氏良文流・支流の秩父一族が支配していたとある。そして、彼らは自分達のシンボルに曜(星)を選んだのだ。

元来、農耕民族であった日本人は星への信仰はそれほど強くない。関東~南東北にかけて、星宿信仰があったようだが、これは星系紋の集中地域でもある。
日々、星の位置、動きに敏感にならざるを得ない海洋民族、狩猟民族あるいは渡来人の流れをくむ者が、この地方に居住していたのかもしれない。彼らにとっては、真夜中の移動の際に自分が現在どこにいるのかというのが最も重要な情報であり、そのため、天の星は神に近い存在=命綱だったのだ。
ちなみに、星野さん、星川さん、星さんというように、名字に星がつく家は、星宿信仰者の末裔である可能性が高いという。

「巨人の星」の主人公の星一徹・飛雄馬を輩出した星家もそうかもしれない。
原作漫画では星家の長屋の部屋には、折口信夫全集があった(竹熊健太郎さん談)そうであるが、一徹は自分のアイデンティティを定住民としてではなく、マレビト(異人)に求めていた可能性がある。

一徹の周囲に迎合しない生き方は、”星”という名が持つ宿命なのかもしれないのである。

なんか、最後は秩父とは全くかけ離れてしまったね。

秩父の街 紋所散歩2へつづく

まさむね

恵比寿の由来と柏紋

恵比寿神社に行ってきました。

恵比寿神社は、JR恵比寿駅西口近くの吉野家の先の道を右に折れると正面にあります。

こじんまりとしていて感じのいいスポットになっています。

神社内の由緒書によると、元々は、大六天を奉る天津神社という神社だったのが、戦後の区画整理でこの場所に移された時に、恵比寿様(写真一番上)も合祀して名前も恵比寿神社になったといいいます。
ちなみに、この大六天という神様は「他化自在天」ともよばれますが、他人の幸せを奪う法力を持つという一種のタタリ神。一方、恵比寿様は「ヱビス顔」でも知られる幸せの神様。正反対の神様を一緒にしてしまう強引さが面白いですよね。

でも、この恵比寿様は、イザナキとイザナミの神が2番目に生んだ子(ヒルコ)だったんですが足が萎えていた為、捨てられてしまいます。後の人々がそれを哀れんで神として奉ったそうですが、あのヱビス顔の影に結構、残酷な物語が潜んでいるんですね。そう言えば、この恵比寿神社の勧進元の西宮神社は、正月に神社内を徒競走する「福男選び」(写真二番目)で有名ですが、御足の悪い恵比寿様にこの神事を捧げるっていうのも、残酷っていえなくもないですよね。

さて、話を戻しますが、恵比寿様が合祀されたのは、ここの地名が恵比寿と名づけられた事に由来しています。

元々、この恵比寿という地名は、ヱビスビールからつけられたといいます。
明治20年、日本麦酒醸造会社が設立され、この地に工場を建設。3年後にヱビスビールを発売。
明治34年に恵比寿ビール専用出荷駅「恵比寿停車所(現在のJR山手線)」が開設され、後に周辺の地名も「恵比寿」となったそうです。

ちなみに、私の母方の祖父は、この日本麦酒醸造会社でサラリーマンをしていましたが、私自身は下戸です。

さて、この恵比寿様を象徴する神紋が神社の本堂の正面戸にも飾ってあったあった「柏」の葉です。(写真三番目)

この柏の葉は、神様に食物を捧げる際の皿かわりとして神聖なものとされていました。そこから、伊勢神宮の久志本家、熱田神宮の千秋家、宗像大社の宗像家、吉田神道の卜部家等、古来、神道を守ってきた家の紋所となっています。

勿論、柏は、ヱビスビールのラベルの恵比寿様(写真一番上)の胸にも付いています。こちらは、3枚の柏の葉の間にツルが描かれていて、一般に「蔓柏」といわれています。

この他、柏紋はいろんなバリエーションがあります。例えば、落語家の桂三枝師匠の紋所は「結び柏」(写真四番目 三枝師匠手拭い)、NHKの大河「功名が辻」で有名になった山内家は葉が細い「土佐柏」(写真五番目 山内家宝物資料館HPより)、真珠王で御木本幸吉は「三つ追い柏」(写真六番目、青山墓地にて撮影)。こんなところが柏紋の有名所でしょうか。

まさむね

鶴丸の悲しい歴史

JALの飛行機から鶴丸のマークが消えるという。

今月で最後とのこと。
もともとこのマークは、家紋を下敷きにしたデザインなんだよね。

じゃあ、この鶴丸の家紋をつけた有名人を見てみよう。

まずは、足利将軍家に正妻を出し続けた、日野家。足利義政の夫人、日野富子が有名だ。
政治には全く興味のなかったオタク将軍の義政。ある時はケツを叩き、ある時は任せていられないとばかりに政務を取り仕切る。一般に、金儲け主義、悪女の典型とされる。
NHK大河「花の乱」(1994年放映)では三田佳子が演じていました。

また、戦国時代では、織田信長の小姓・森蘭丸で有名な森家の家紋もこの鶴丸。美男子だったという伝説と、本能寺の変で、かない最期を遂げたせいで、なんとなく有名。

そして近年では、コンプレックス文学の最高峰・太宰治(実家の津島家)も鶴丸紋。確認はしていないが、太宰治全集には、この鶴丸の箔押しがついているとか。太宰の最期も玉川上水への入水自殺だった。

いずれにしても、悲しい運命の人が多いよね。

まさむね