福田首相の最後っ屁

fukuda.gif福田首相の辞任会見で記者の質問に応えた「あなたとは違うんです。」というセリフは、早くも今年の流行語大賞になるのではと言われている。

最初、NHKの生中継で聞いた時、これは月9ドラマ「CHANGE」で、木村拓也が与党総裁に立候補した時の演説の最後の締めの言葉「僕の全ては、みなさんと同じです。」に対抗した福田さん一流の嫌味ではないかと思った。

しかし、この一言は、まるでイタチの最後っ屁のように、最後に強烈なインパクトの悪臭を残したてくれたよね。

そして、最新のぶら下がり会見でも、こんな見苦しいやりとりをしている。

記者:消費者庁を仮に作ったとしても、こういった事(汚染米問題)がまた起きるのではないでしょうか?
福田:じゃあどうしたらいいと思います?どうしたらいい?どうしたらいいかな?

記者:行政府を監督するのは内閣総理大臣だと思うんですが...
福田:末端まで?全部?大変だな。総理大臣も...

最後っ屁が飛び出したケツの穴が、小さいながら、まだダラダラと空いていて、体内の腐臭が無責任に漏れ続けているっていう感じだろうか。
最初から、福田さんというのは、顔は地味だが屁は臭そうな爺さんだなって思っていたんだけど、嫌な予感は的中してしまった。

もう、辞任直前だから、後はどうにでもなれってことなんだろうか。こんな人が日本の代表者だったのかと思うと、情けなくなるよね。

思い起こせば、福田さんは「国民目線」という事をよく口にしていた。
でも、こういった辞任会見を踏まえて、よく考えてみれば、この国民目線っていうのは、自分は国民とは違うって事を前提とした傲慢な言葉だったって事だよね。

まさむね

大麻ってそんなに悪いの?

大相撲の大麻問題が連日報道されている。
僕は、この種の事件が起きるたびに、大麻を絶対的な悪として無批判に報道するマスコミの姿勢に、いつも違和感を感じさせられる。

60年代には、厚生省に大麻の取材をしに行った平凡パンチの記者が、担当役人から「これですよ。吸ってみますか?」とハシシタバコを勧められたという伝説が残っている。
また、70年代には、例えば、吉本隆明あたりは「宝島」誌上で、「ジャーナリストたる者、大麻を自分で吸ってみる程度の好奇心が無くてはいかん。」みたいな事を、堂々と書いていたよね。
最近のマスコミ連中は、そのあたりの事、どう考えているんだろうか?

言うまでも無い事なんだけど、大麻が悪っていう観念自体、歴史的に形成されてきたということ。
そもそも、大麻取締法は、戦後、GHQがいつの間にか導入した法律である。戦前は大麻吸引は、法律的には全く問題なかったんだ。明治天皇の御墨付がある植物の研究書に、大麻の活用例として、その吸引方法も紹介されていたっていう話もあるよね。
実際、大麻には常習性は無いし、悪酔いも無い。酒やタバコに比べればよっぽど体にいいっていう医学の報告もされているのは常識だ。

しかし、不思議な事に、日本人は、歴史的に大麻吸引を生活に関わらせてこなかったんだよね。
例えば、インドネシア等で祭りの時に大麻吸引が公に行われていたような形で、日本には大麻吸引の記憶、または記録は無いんだ。
ただ、山に柴を刈りに行った男達がラリって帰ってくる現象を「樵酔い」っていう隠語で伝えている地方もあるそうだ。知る人ぞ知るという秘め事だったんだろうね。

一方、神道では、大麻は神聖は植物として扱われる事もしばしばだ。天岩戸伝説でも、榊と大麻というのは、岩戸の前に飾られる。伊勢神宮への奉納品にも大麻は入っている。
また、大相撲でも初日の前日に行われる「神迎え」の儀式(土俵祭)にも大麻は使われているんだよね。

大麻検査で陽性が出ただけで、見せしめ的に協会から解雇された露鵬、白露山は、その不当さを提訴するんだろうか?
最終的な判決はどう出るんだろうか。
今後、興味深く見守っていきたい。

まさむね

ロシアン力士が持っていた可能性

これは僕の持論なのだが、大相撲は約10年毎にそのスタイルを微妙に進化させる。

70年代、輪島が相撲の稽古にランニングを取り入れ、近代相撲が始まる。
80年代、千代の富士によって、筋肉相撲が全盛となる。
90年代、大型のハワイ系関取の登場で、体格相撲、全盛となる。
00年代、モンゴル相撲の多彩な投げ技、足技、スピードが、朝青龍達によって導入される。

そして、次の時代の可能性だが、僕はロシアン力士のユニークな相撲スタイルに密かに期待を寄せていたのだ。

ロシアン力士達のユニークさは、”叩きこみ率”が異常に高い事である。
大相撲協会の公式サイトの決まり手ランキングによると、若ノ鵬は27%、露鵬は24%、そして白露山に至っては31%の”叩きこみ率”を誇っている。
恐らく、それは、彼らがレスリングという相撲とは全く別の格闘技のベースを持っているという技術的特質と、手足が長く懐が深いという肉体的特質によっているのではないか。

彼らの技術がさらに磨かれていけば、その先に相撲の新しい可能性があったかもしれないと、僕は考えていたのだ。
しかし、残念なことに、今回の大麻事件で、その可能性の萌芽が摘まれてしまった。

ここからは、妄想。

大相撲は、昔から”寄り切り”や”押し出し”等、前に出て勝つ相撲こそが正しい相撲であるというイデオロギー(美学)が圧倒的に強い。
それゆえ”叩きこみ”は嫌悪されてきた。
しかし、ロシアン力士達は、その美学をどうしても受け入れられない。相撲をスポーツとしてしか捉えられない彼らには、”叩きこみ”が何故、問題なのかが理解できない。
スポーツなんだから、ルールの範囲内で、勝つのは当然ではないかと彼らは考える。ある意味、当然の事だ。

そんな兆候に対して、大相撲の美学の崩壊を懸念した協会は、彼らをひっかける。それが、大麻事件だ。

どうでしょう...有り得ないか。

まさむね

北京五輪を覆う座り心地の悪さ

チベット問題や、国内の人権問題等が事前から報道されていたせいもあって、北京五輪は、もろ手を上げて楽しめるという状況ではなかったにもかかわらず、大会が始まってしまうと、日本選手の活躍のに心を奪われてしまった。
でも、僕の心の中では、北京五輪そのものに対する嫌悪と日本人選手の活躍に引き裂かれた座り心地の悪さを常に感じていたんだよね。
でも、一方で、開会式で、花火がCGだったって事や、独唱した少女が口パクだった事、少数民族の衣装を着ていた子供達のほとんどが漢民族だった事をテレビは偽装五輪の象徴と言わんばかりの報道をしていたけど、そんなに過剰につっこむところか?とも感じた。
実際、シドニーやトリノでもオーケストラとかが手パクだったって事は明らかになっているけど、その時は、五輪自体が偽装だという事にはならなかったでしょ。
それにしても、テレビの報道はひどかった。
選手の活躍を、各局、例外無く、ほとんどが、家族間の人情話にからめてたよね。
姉妹関係(伊調、谷本)、家族関係(上野、太田)、息子との関係(内柴)、夫婦関係(朝原)、父親との関係(石井、浜口)…
でも情けない事に、僕自身もその一つ一つに感動してしまった。冒頭の件とは別の意味で、座り心地の悪さを感じさせられ続けたよね。
一方で、今回の五輪で圧倒的に強かった北島康介、吉田沙保里、上野由岐子の3人に関しては、本人との戦いがメインテーマだったような気がする。
アスリートとしての圧倒的な凄みは、陳腐な人情話を寄せ付けないという事なのだろうか。

まさむね

内柴正人が見せた武士道精神

今回の五輪の柔道は、前回に比べるとメダルが取れなかった。
その理由として、国際化した柔道が、一本を取る柔道から、ポイントを稼ぐJUDOに変ったからという説明がなされていた。
今後、日本柔道界は、心中覚悟で美学を貫くのか、時代の流れに対応して勝利を目指すのか。興味深いところだ。

さて、今回の五輪で最も印象的だったのが、66kg級で金メダルを奪取した内柴選手が決勝戦で、縦四方固めでフランスのダルベレ選手を破った瞬間だ。

彼は、喜びを表現する前に、相手の怪我を気遣い、そして相手の心情を忖度して、畳上ではガッツポーズをしなかった。
テレビの報道では、畳から降りた後のガッツポーズと、その後の「ひかる ひかる」という息子への叫びが何度も流されたが、僕的には、この畳上での立ち振る舞いの方が印象に残っている。

これは、まさに、「惻隠の情」という武士道精神が、国際舞台で表現された瞬間だったのではないか。

新渡戸稲造は「武士道」の中で「惻隠の情」というものを最高の美徳としているが、惻隠の情とは、簡単に言えば敗者への思いやりのことだ。
大相撲でも勝った後に土俵上では喜びを表さないが、それも同じ思想から来ている。

恐らく、起源は、敗者からの怨念を受けないための所作なのであろう。
日本人の心の中に潜む宗教観がこんなところにも現れているのだ。

まさむね