ジェロの海雪等 J-POPと日本の古典文学

どんな曲にも必ず、キラリと光る一節を持っている宇多田ヒカルの歌詞。
2001年のヒット曲「Traveling」には、平家物語の冒頭の一節(祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし)が引用されている。

風にまたぎ月へ登り
僕の席は君の隣
ふいに我に返りクラリ
春の夜の夢のごとし

金曜の夜の彼女とのデートで盛り上がる気持ちを歌った曲だが、その盛り上がりに水をさす自分の心の中のスキマを、平家物語の無常観をしのばせる事で刹那的に表現する彼女の文学的センスが光る。

また、その他古典文学を意識したフレーズとしては、ジェロの海雪に出てくる「出雲崎」。
ここは古来からの歌枕の一つで、芭蕉が「奥の細道」の中の名句「荒海や佐渡に横たふ天河」を詠んだと言われているが、おそらく、この海岸から佐渡を眺めた芭蕉は、世阿弥、日蓮、順徳院等、佐渡に流された先人の苦難を偲び、この句をしたためたのであろう。

勿論、秋元康もそれを踏まえての作詞だと思われ。

さてもう一つは、湘南乃風の「純恋歌」に出てくる以下のフレーズ

桜並木照らす おぼろ月
出会った二人の場所に帰りに一人寄り道

「桜」に「朧月」といえば、「源氏物語」の花宴の巻。光源氏とライバルの右大臣家の大事な娘(朧月夜)との危険な恋を暗示するシーンとしてあまりに有名だ。

地元土着型労働者階級の歌声を代表する若旦那(湘南乃風)の教養を感じさせる一節だ。

まさまね

純恋歌&愛唄 老後の手つなぎ願望

純恋歌(湘南乃風)は2006年の、愛唄(Greeeen)は2007年の大ヒット曲、両方とも実質、プロポーズの歌であるが、以下のような共通点がある。

1.君のために一生歌い続けるよ。(ただし歌はヘタ)
2.手も握り続けるよ。
3.お互い老人になってもそれは続けるよ。

これが「結婚」という言葉をつかわない現代風プロポーズなんだろうか。

この歌詞の共通点を見ると感じるのだが、現代の若者は、今の幸せな二人の状態が、働き盛りの年代の様々な問題を一気に飛ばして、そのまま老人にワープすることを理想としているのではないかと思えてくる。

それを裏付ける統計として例えば、最近の「生活に関する満足度調査結果によると、男女ともに、20歳代と70歳代の満足度が高くて、いわゆる働き盛りの30歳代~60歳代のそれは低い。
おそらく、20代の人も、そんな上世代の人々との現実的な接触の中で、あと数十年はつらい日々が続くということを薄々わかっているのではないか。

ロマンスの影に隠れた現実回避願望が透けて見える。と同時に、不安な世の中を背景としていわゆる現役時代は”面かぶりクロール”で泳ぎきり、早くゴールして隠居したいという本音が透けて見えると言い直すべきだろうか。


純恋歌(湘南乃風)より

今すぐ会いに行くよ手を繋いで歩こう
絶対離さない その手ヨボヨボになっても
白髪の数喧嘩してしわの分だけの幸せ
二人で感じて生きて行こうぜ

LOVESONGヘタクソな歌で愛をバカな男が愛を歌おう
一生隣で聴いててくれよ

愛唄(Greeeen)より

ヘタクソな唄を君に贈ろう
めちゃくちゃ好きだと神に誓おう!
これからも君の手を握っているよ

僕の声が続く限り
隣でずっと愛を唄うよ
歳をとって声が枯れてきたら
ずっと手を握るよ

まさむね

「二人」aiko、その視線のリアリティ

aikoが描く歌詞の世界には、少女だけが持っている、あるときは醒めた、そしてある時はシュールな、個性的な視線がある。
aikoの出世作「花火」では、いきなり宇宙から花火を上から見下ろすというインパクトの強い視線を披露した。次作「カブトムシ」での視線はすでに遠い未来。彼氏も既に死んで、自分もおばあさんになっている。
また、「桜の時」では自分の人生を距離を置いて見る冷静な視線がある。その姿は逆らいがたい運命に身をまかせた感じだ。
さらに、「花風」では、「桜の時」の時間軸をさらに進めて、その視線は転生後にまで届いている。

そして最新作「二人」では、彼氏との微妙な距離を感じさせる視線が、冷たくもかわいい。

 夏の星座にぶらさがって上から花火を見下ろして... 「花火」
 あなたが死んでしまって あたしもどんどん年老いて 想像つかないくらいよ... 「カブトムシ」
 ゆっくりゆっくり時間を超えてまた違う幸せなキスをするのがあなたであるように... 「桜の時」
 生まれ変わってもあなたを見つける 雨がやんで晴れる様に... 「花風」
 一緒に撮った写真の中に夢見る二人は写っていたのね 後ろに立ってる観覧車に本当は乗りたかった... 「二人」

これらの視線はそれぞれに、妙なリアリティがあるが、これこそ、そaikoのオリジナリティなんだと思う。

まさむね

ここにいるよ 待ちに待った下流ソング登場

どんな曲でもヒットする楽曲はその時代の現実(雰囲気)を反映しているところがなにがしかある。

そういった意味で、青山テルマ&SoulJAの「ここにいるよ」と(そのアンサーソング「そばにいるね」)は極めて同時代的な歌である。

~(前略)~
俺がもっと金持ちだったら
もっとまともな仕事をしてたら
だがPlease勘違いだけはすんな君に寂しい思いはさせたくねぇが...

~(後略)~
「ここにいるよ」(青山テルマ&SoulJA)

昨今の社会状況を考えたとき、ネカフェ難民の心情を織り込んだマジ歌が必ず出てくるに違いないと思っていたが、これは、まさに格差社会を反映した下流ソングじゃないの?

まさむね

「ゆず」について

「ゆず」の歌は、保守的な労働者階級の歌である。
その不自由さは、バンカラな私小説といった感じの「嗚呼青春の日々」という少々大時代的なフォーク演歌の叫びに凝縮されている。
この歌の特徴は、粗野で素朴な歌詞と、譜割の複雑さだが、そのゴツゴツとしたアンバランスさがちょうど、若者が自分を持て余している感覚のメタファになっていて、歌詞の中の若者像は、この30年間、何も変わっていないのではないかと思わせるほど古典的だ。
リーダーの北川はグローブのケイコとの噂があったけど、どうなったんだろう。なんだか「東神奈川」が「六本木」に恋しているみたいで座りが悪かったよね。
あと、関係ないけど、新曲の「飛べない鳥」の「ほらごら~んよ~」というところは「オラのラ~イオ~ン」って聞こえるのは僕だけだろうか。

まさむね

オタクとエイベックスと携帯と。

男子高校生の性体験が40%を越え、女子を抜き返したという東京都の発表が先日あったが、この事と、最近、オタクが激減している事とは、何らかの関係があるに違いない。そういえば、古典的オタクは、どこにいったのだろうか。茶髪にして、街にまぎれてしまったのだろうか。

一方、先日、昨年のMp3を連続して流していて気づいたんだけど、エイベックス系の音楽って行動へと、せき立てるような,勇ましい感じの曲が多いよね。それがなんだかとても古く感じる。その古い感じというのは、携帯電話の普及によって、女子高校生の消費傾向が通信費用に移行し、そんなに急いで街で闊歩するよりは、ダラダラ時間をやりすごす方が楽って思いだしたことと関係する。エイベックスの凋落と携帯の普及は符合している。

関係ないが、モー娘の保田の居心地の悪さは、彼女の無理した立ち振る舞い、歌うときの表情、頭の悪さが一人だけエイベックス系だからに違いないと思う。プッチモニの新人・吉沢のだらけ方をどなりつけたという保田の気持ちもわからなくもないが...

まさむね

Piecesの真意(ラルク論)

ラルクアンシエルの「Pieces」という曲の歌詞に以前、感心したことがあった。
「私のかけら(Pieces)が昔の恋人の元に飛んでいく」というアニミスティックで奥深い内容が、安倍晴明があやつったといわれる式神をも彷彿させ、タダ者ではないと思わせたのだ。
しかし、先日、カラオケで歌ってたら、これは子作りの歌ではないかということにフト気づいてしまい、(ラルクを歌う事自体がよっぽど恥ずかしいという議論はさておき)いきなり自分が恥ずかしくなった。
「ねぇ遠い日に恋をしたあの人もうららかなこの季節愛する人と今 感じてるかな?
あぁ私のかけらよ力強く 羽ばたいて行け振り返らないで広い海を越えてたくさんの光が
いつの日にもありますようにあなたがいるからこの命は永遠に続いてゆく 」
この部分は、ソーテックのCMにも使われた部分であるが、昔の彼女の事を考えながらセックスして、射精した男が、我に返り、目の前の女に『君のおかげで子孫を残せるよ。』と考えたところ。と言えなくも無いと思う。ちょうど、「感じてるかな?あぁ~」で盛り上がって音楽が止まるところが、射精の瞬間のメタファで、Pieces=私のかけら=精子、広い海=女性器とかさぁ。どうでしょう皆さん。

まさむね