ルミ子の離婚等

やはり触れなければならないのがルミ子と賢也の離婚の件であろう。
圧倒的に世論の同情を集める賢也側が支払う金額が1億2千万円とも言われているが、それはルミ子が被った心労の対価だとすると、確かにあまりにも法外だ。
ノック辞任の時も結局はお尻を触ったか触らないかわからない状況で、1千万円以上+失職という対価を彼は払わざるを得なかった。
いいか悪いかという二分法で言えば悪いに決まっているのだが、しかし相手の「嫌」というのはそんなに価値のあるものだろうかと考えさせられる。
人と人とが暮らせば別に嫌な人でなくても、あるいは親友相手でも当然、「嫌」なことはある。それは人間として宿命的な事だと思うのだが、これから男VS女に限らずあらゆるところで、他人の「嫌」を気にしなければならないような不自由な社会になるかと思うとそれこそ「嫌」である。
一方で、21世紀をひかえて、政府が夢のような構想をぶちまけた。それによると、義務教育が週3回になるかもしれないという。詰め込み教育に対する反省という事なのだろうけど、これで、自由で、のびのび育った個性的な人を増やそうとしているのだろうか。
でも、大体、社会が必要とする「個性的な人の必要率」というのがあると思うんだけど、そうなると、「個性的になりたかったけどなれなくて誰のせいにも出来ない不幸な人」が確実に増えるだろう。
今まで、学校というガチガチの制度の「せい」にすることによって己の不甲斐なさから目をそらす事の出来た面々にとっては、大変な事態とならざるを得ない。
また、その頃には週4日は適当に遊んでいた多くの人と、その時間を使って勉強させられる金持ちとのその後の人生も大きく変わっていくだろう。ようするにアメリカみたいに、建前は機会の平等があるけど、実際は、WASPしか出世できないシステムに近づくはずである。
さらに、それまで週3回しか学校に行っていなかった学生を引き受ける会社はまた新たなストレスを生むに違いない。ようするに「嫌」なことをしないですんでいた人々がいきなり「嫌」な事に直面しまくるのだ。
一方で、「嫌」を犯す事の罰が重くなるのに、もう一方で他人の「嫌」を想像して、STOPするだけの教育は十分に出来ないのではないだろうか。
まぁ、実際にそうなるという事はないと祈るが、文部省もヒールとしての己を放棄したとき、存在意義を失うという事を考え直して欲しいものだ。

まさむね。

ルミコ&個性的&立花隆

ルミコに関しては、究極の選択みたいで
ちょっと笑っちゃいました。
二人が結婚して干された時期、再登場のきっかけになったのが、視聴者から寄せられたレシピで料理する後ろで、二人、料理のイメージにあわせて踊るという番組が合ったのだけど、それは、二人には愛があるって感じで、よかったのだけど、こうなっちゃうとは、思いもよらずって感じですね。10年後にルミコがあなたのため思ってといってお金をケンヤに返したら恩讐のかなたにって感じで、菩薩の深い慈愛を感じると思うけど、そんな長い伏線は今の芸能界じゃありえませんね
所ホザいるのもいるけど、単純に集団適合できなかっただけじゃねーの感じだけだけど、そのうち、「個性的」な集団がふえていったらそんな戯けた奴ばかりになって、そっちのほうが多数派になったら、今の平凡な無個性が希少価値が高まるかもしれないですね

それから、さっきNHKのニュース解説番組でロボット特集してたけど、解説が立花隆でした。
で、立花隆なんだけど、こいつ、ホンとこいつナニモノって感じです。角栄本はよく知らないけど、その後の「宇宙からの帰還」はトムウルフのライトスタッフのエピゴーネンだし、臨死体験だってキュポラロスの一連の著作のアトオイでしょう。知の巨人とか言われているらしいけど、そりゃ南方熊楠とは比べ物にならないでしょうって感じです。たしかに。何語らせてもそつなく答えるけど。そりゃ、専門の研究者や学者の話すことを聞きかじって代弁している詮、男は商品化された存在なのかもしれません

それから、ゆとり教育とか個性化とかまったく幻想ですよね。みんな自分だけは特別とか個性的であると思いたいけど、実はそんなに大差あるわけじゃないと思うのです。
外人がただ喚くだけの番組のように、中身のない、個性的と思い込んだ自己主張の強いものだらけの集団になったら、ほんとヤだなあ。
よくミニコミ雑誌みたいなのに大企業辞めて田舎や東南アジアで自然とともに暮らして自分を見つけたとかに過ぎないんじゃないのって感じです。
実際には何にもしていないのに何であんなにありがたがるのって感じです。まあ、それは筑紫テツヤや久米ヒロシにもいえるけど彼らは専門分野じゃカッコつけようとしてすぐボロ出すからね。

ところざわ

朋ちゃん残念 続き。

僕も朋ちゃんの最近の何曲にはかなりいい印象を持っていました。最近は、あんまり歌詞をしっかり歌わなかったりわざとずらして意味を無化する歌い方が全盛だけど、彼女の歌は自信に満ち溢れていて好感が持てます。

もちろん、歌詞の露骨さはあるんだけど、プロデューサ的にはそれがウリなんだろうから、彼女の純粋さと制作側の柔らかい悪意が上手く手を結んだといったところでしょう。

ある情念なり、感情なり、ちょっと他人にはもてあまさざるを得ない物を商品化するのっていろんな方法があるんだろうな。ブリグリの不機嫌な顔と聞き取れない声っていうのも、川瀬智子の情念を商品化するには必要だったんだと思います。

あっ、なんだか今日は中途半端ですみません。

まさむね。

安室の暗さ

暗さという事で言うならば、ここで是非とも触れておきたい歌手がいる。

それは安室奈美恵だ。昨年のあの「事件」の影響を引き合いに出すまでもなく、彼女の素の暗さは、歌番組での背景に登場した時に十分窺い知れる。

例えば、昨年末の紅白歌合戦の開会式の時、よりによって、司会者の真後ろに位置取った彼女はほとんど、不機嫌な表情でうつむき、明るくあるべきその場所の雰囲気を一気にかき消していたという点で、逆に存在感を醸し出していた。その彼女が唯一笑顔を見せたのが、そのまた隣にいた問題大物歌手・石川さゆりに何事か話し掛けられた瞬間だったというのも、また妙なリアリティがあり、もしも、その配列、話し掛け、微笑、全てが演出だとすれば、NHKの奥の深さを感じざるを得なかった。

さらに、この安室の新曲のLove2000の踊りの演出が、なぜ、ここまで、うつむかせるのかと思わせる。踊りというのが本来、エロスを謳歌すべきものなのに対して、彼女の表情はこれまた逆に際立っており、お子様に悪い影響が出ないかものと老婆心までをもくすぐる作品になっている。

ちょっと関係ないが、僕がこの踊りを見たテレ朝のミュージックステーションという番組は、タモリの司会のやる気の無さはさておき、タモリが一人づつインタビューするの歌手の背景に映っている他の面々の「そんなことどうでもいいだろ。」という無関心の表情とそれに反比例するスタッフの過剰な笑い声がとても気になる番組だ。「夜のヒットスタジオ」のように出演者が過剰に同調する必要もないのだが、そんな雰囲気の中、タモリの後ろに稲垣吾郎を配置すれば、どういう事になるのか想像はつきそうなものだ。

もっとも、私はそれをこよなく楽しんでいるのであるが。

まさむね。

背負うもの

明菜にしても朋チャンにしても
いろいろ背負っちゃうと
見ているほうには辛いものがありますよね
歌の世界だけじゃないものも連想しちゃいますからね

アムロの暗さに関しては何なんでしょうね
幸せと不幸の振幅が激しかったら
歌の世界もあっちの世界にいっちゃったのかもしれませんね

ところざわ

朋ちゃん休業残念

でも、元々「見られる者」達というのは、日本の白拍子にしろ、ヨーロッパのジプシーにしろ、そういった負性を帯びているものですよね。歌舞伎役者だって、江戸時代は一般の人ではなかったわけです。それがいつのまにか特権階級になっていますが。

朋ちゃんが今年の4月から年末まで休業というのはあまりにも残念です。彼女こそ、天然の「見られる者」としての素質が有り余っているのに。来年、グレードアップした彼女を見るのが逆に楽しみですが、野次馬の一人としては、テレビのブラウン管に収まる程度のグレードでとどめてほしいものです。見られなくなったらもともこもないですからね。

まさむね。

朋チャン休業残念-2

私も同感です。
彼女も小さいころは特殊学級で学んだと聞きます
でも、彼女の歌とその資質はその負性を負かすものがあると思います。
大江健三郎の息子とはその点が大きく違うと思います。

同じピュアさを売りものにしていますが
かたや映画のパブリシティ程度の一発屋だったのに比べて
彼女のちょっと前の恨み節のような曲でさえ
凛とした雰囲気をかもし出しそこそこヒットしていたのはやはり、資質や才能の有無は正当に評価されているのでしょう

どんな形であれ歌っていてほしいものです
まあ、大先生と近かったので
周りの人も無下にはできないと思いますが・・・
いらぬことさえ口にさえしなければ・・・

ところざわ

ブリグリとダーティリアリズム

ブリグリの歌詞についての僕の評価は、それがベトナム戦争以降のアメリカ現代文学の一つの流れ、「ダーティリアリズム」的センスと通底している事かもしれないと思った。
「ダーティリアリズム」とは私の浅い知識によると、村上春樹の翻訳で知られるレイモンドカーヴァとかのアメリカ人白人労働者階級の生の生活を描いた作品群の事で、アメリカが構造的にかかえる人種差別とか階級といった難問をそのままに描いている(といわれている)。
その彼らの一つの倫理的仕草が「黙り込む」という事で、その黙り込みかたがブリグリの歌詞と似ていると思った。

今朝、久しぶりに、本当に久しぶりに身動きの取れないような満員電車で田無から西武新宿まで電車に揺られてきたのだが、近くのおそらく30代位の男性は、マルクスの「共産党宣言」の文庫を呼んでいた。隣の女性は、おそらくヨーロッパに住んでいる友達からの手紙を読んでいた。車両のどこかで、ウォークマンから漏れている椎名林檎の「本能」が聞こえた。そして、今や携帯のベル音は雑音とも呼べないくらい当たり前の音になってしまっているのに気づいた。
そして、僕を含め全員が当たり前だが、黙り込んでいた。

そして、西武新宿からおよそ20分間歩いて、オフィスまでやってきた。そろそろ仕事開始しなきゃ。

まさむね

ブリグリいいですね

意識して聴いたことはなかったけど
こうして歌詞を読んでみるといいですね。
たしかに、歌うときに
「なんて楽しくなさそうに歌うのだろう」とは
思っていたのですけど、
タナトスまでモチーフになって商品化されてるなんて
凄いですね。
たしかに才能あれば、文学なんかで数千人数万人に読まれるよりCDで何十万何百万人相手のほうを選びますよね

いまは社会全体が黙り込んでいますよね
声を荒げて喋るのって、
聞くほうみんな引いちゃいますよね
ノックの件にしても声高々に追及している人たちのほうが
たとえ正論だとしても品がないような気がします

ところざわ

朝のたわ言

SPEED達のコメントは大体想像がつくような気がします。おそらく、「本当」の自分が出てきたとしても、それはそれで、面白くもなさそうな、自分探し宣言とか、同世代の若者への単純な応援(エール)のようなものでしょう。
かと言って、さらに抑制を失った宴会後の深夜のダベリのようなたわ言(パフィの得意技)が聞きたいわけではないのですが....
彼女たちに我々の想像を平気で裏切るようなダンディズムを求めるのも酷なのでしょうね。

まさむね