いろんな事件

いろんな事件が起きるようになって久しいけど、そのたびに、ドラマのような事件って言っていたのが、すでに、ドラマにもならないような事件の域に突入していますよね。
ある男(39)が自分の彼女(17)を自分の家族の目の前でメッタ刺ししたという事件とか、自分の彼氏(19)が同居していた子供(13)(自分の友人から捨てられた子供)に指示して、自分の幼子を熱湯につけさせて重体を負わせたという事件とかを、我々はテレビを見ていてただ唖然とするしかない。
精神異常だとか、家庭環境だとか、社会とか学校とかでは、もう説明がつかないよね。テレビというメディアはそういった事件をなんとか一般大衆の想像出来る範疇に丸め込む(凡庸化)のが仕事なんだけど、もうそれも、出来ないですね。
これじゃあ、基本的に同情(シンパシー)で成り立っているテレビドラマが置いていかれるしかない。高度資本主義社会は、すべてのものが商品化される社会だととりあえず定義できるけど、いろんな事件は、そんな社会に対する暗部からの抵抗という感じもしますね。
私の「自転車事件」にしても、社会全体に漂う不思議な雰囲気と同調した不気味さがありますよね。本当は、偶然の重なりなんだけどね。
ところざわさんのご指摘通り、「まさむね。」はモー娘の影響でした。

まさむね。

事件と時代性

たしかに、昨今猟奇的な事件が話題になっていて筑紫テツヤ的には現代の閉塞感とか言い出しそうだけど、昔は家族やコミュニティがあって各々に居場所があって現代はそれがないのが原因見たくね、でも、考えてみればいつの時代でも事件は起きているんだよね。閉塞間で言えば戦前の事件で八墓村のモデルになった津山三十人殺しとか起こった際には田舎の因習に対する閉塞感みたいなものが一員だろうしね。まだ報道されるだけ現代のほうが風穴開いているとも言えるしね、以前の江戸時代の農民は米食ったことがないという神話にも通じるけど安直な想像や単純な潔癖感で真相が単純化されちゃいますよね。

最終的に想像力って、イッチャッタ人の想像力には、常識的な作家には追いつけないものがありますもんね。彼らの想像力は観客に対するケレンみはなくて、欲望に忠実だから選択肢も多いしね。

ところざわ

新潟とモーニング娘の保田圭

新潟の誘拐監禁事件は、その9年間、少女がずっと何を考えていたのかが気になる。人は9年間もの間、脅えつづけてだけ生きていけるものだろうか。
彼女の頭の中には、どのようなイメージ、願望、物語がうごめいていたのだろうか。人間って何にも考えない事って難しいものだ。
さて、話は変わって、モーニング娘。である。この中で将来性があるのは誰かと聞かれれば、私は間違いなく、安倍、中澤、市井の3人と答えるだろう。その理由は簡単。安倍と市井には聡明さと野望があり、中澤には芸としたたかさがあるからだ。
しかし、わからないのは後藤と矢口。そして、将来性があまり見えないのが、飯田と保田である。
ただ、私はだからこそ、飯田と保田に注目してしまう。逆に今だからしか2人を楽しめないような気がするからだ。飯田の不気味さは前回話したので今回は、保田について。
彼女を見ていると今、現在が最高の時間であるっていう事を余すところ無く表現している。別な言い方をすれば、10年後の保田は想像もしたくないと思わせるものがある。「LOVEマシーン」のミュージッククリップでは逆に「未来は♪」っていうところだけが、彼女のアップであるところが、逆に皮肉である。
ベテラン歌手にも、バラドルにも俳優にも成れないであろう彼女の今を見る事は、せつない桜を見るようなものだ。福田や石黒のようにスパってやめることが彼女にできるかどうか。彼女にはそれほどの聡明さはないだろうが。

まさむね。

新潟の監禁事件と文学

新潟の少女誘拐監禁事件を知ってまず、思い出したのが柳田国男の「遠野物語」の以下の一節でした。
「遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり」
ていうことは、人さらいって昔は結構あったんでしょうね。それに貰い子とか捨て子とかも結構あって、漱石や龍之介も確かそうですよね。同じ「遠野物語」の河童の項のところに、子供を産んだ母親が、それが赤い河童みたいな子だったので、気持ち悪くなって村の境界まで捨てるんだけど、帰り道に、「もしかしたら、見世物として売れば、高く売れるかもしれない」と思いついて、境界まで戻ってみるとすでに赤子はいなくっていて、がっかりしたっていうのもあったけど、これなんか、倫理観のかけらも感じられない。サバサバしてるよね。
柄谷行人によれば、柳田国男の友人の田山花袋はこういった柳田が語る民俗学的な話を、唐突すぎて文学にならないというようなことを言ったらしいけど、坂口安吾が文学の「ふるさと」と評価したのは、こういった唐突な残酷さだったんですね。
今回、この事件でポイントとなるのは、犯人の母親だと思うんですが、こういった人は事件の余韻が冷めた後、どのように暮らしていくんだろう。そういった物悲さは文学ですよね。

まさむね。

吉野川の住民投票

事の是非はともかく、テレビに出まくっていた建設省の大臣、強烈でしたね。抗議の電話も来てたらしいけど、一方的に喋りまくって、まあ、普通の人なら誰でも反感を覚えるような態度でした。
なんで、短絡的な人が当選しちゃうのかな?普通ならテレビにも写っているし、好感をもたれようとするだろうにね。逆効果なのわからないのかな??
以前、深夜の討論番組で原子力推進派の学者?が出演していたのですが、紳士的で、穏やかで、好感度良い感じで意見を述べていたのですが、反対派の意見の急所をドンドン突いてきて、悪魔がこの世に存在するなら、この人だと思いました。

そいうえば、立花隆のHPって全然更新していないんです
よね。インターネット、利用するなら少しは更新して還元しろよって感じですね。
でも、そのページで以前相撲の八百長を訴えた元大鳴戸親方と後援者が同じ病院、同じ死因で同じ日に死んでいて疑問を述べていたけど、遺伝子や宇宙なんて他のライターでも調べられるんだから、タチバナ、おまえ、それだけいうなら自分で八百長相撲調べろよって感じですよね。
遺伝子や宇宙じゃ刺客はこないけど、相撲はヤバそうですからね。角栄本で命賭けたから、その後はヒヨっちゃったのかなあ

ところざわ

想像力の谷間

ノックの事件はノック的常識な事件で、別に何の驚きもなく、もうどうでもいいやって感じです

桶川の事件も音羽のお受験が殺人になるなら、桶川の風俗も殺人位あってもなんら不思議はないわけです。

雑誌や新聞はそれはそれでスキにはなれないけど
どうにもテレビのあの小市民的正義を振りかざすのはうんざりって感じです
でも、その閉塞間が音羽にも桶川にもあって事件の舞台になったのかもしれないですね。

事件は憎まなきゃいけないのかもしれないですけど
その舞台にあった当事者間には、人間的な輝きがあったのかもしれないですね。

ところざわ