梅紋 -菅原道真の怨霊を封じ込めた紋- 前田利家、岡本太郎、菅直人...

梅紋は菅原道真の象徴である。

平安時代、右大臣にまで上り詰めた道真は、藤原時平の讒言のせいで大宰府に左遷され、そこで亡くなった。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

かの地で詠んだ有名なこの歌の力で、梅が京都から飛んできたという。
しかし、道真の死後、都では落雷や相次ぐ不幸が重なり、それが道真の怨霊による祟りということになった。
そこで、道真は北野天満宮に「天神様」として奉られ、商売繁盛の神様、学問の神様として現在まで篤い信仰の対象となっている。

したがって、梅紋あるいは、梅鉢紋は、天神信仰と関係があるか、菅原氏の流れを汲む氏族が後に家紋として採用した。
有名なのは加賀の前田の梅鉢紋。元々は利仁流藤原氏の一族とされていたが、後に菅原氏の子孫と自称。
天神信仰が盛んだった加賀地方を治めるために、梅鉢紋を利用したとの見方もある。

優雅なデザインの底に怨霊の魂が眠っている奥深い紋である。

全国では7位。多い地域では、山口県と鹿児島県が3位。広島県、佐賀県、熊本県が4位。
逆に、江戸時代に前田氏が統治した石川県、富山県では少ない。庶民が藩主の紋をはばかったためとのこと。

芸術家が多いのが目立つ。武将としてもどちらかと言えば文化の香りが高い人々が名を連ねている。これは菅原道真とのつながりを意識した振る舞いがあるのか??

梅紋・梅鉢紋の有名人は以下。


金森長近。1524年 – 1608年9月20日、武将。
美濃源氏土岐氏の支流。近江国野洲郡金森に居住。豊臣秀吉に仕え飛騨一国を与えられた。関が原では東軍に値し初代高山藩主となる。茶の湯の才にも秀でており秀吉から利休の嫡男である千道安を匿った。家紋は裏梅紋。


前田利家。1539年1月15日 – 1599年4月27日、武将、大名。
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれる。小姓として織田信長に仕え「槍の又左」の異名をもって怖れられた。信長の死後、秀吉に臣従。豊臣政権の五大老の一人となる。家紋は梅鉢。画像は、文京区吉祥寺の前田家の墓所にて撮影。


筒井順慶。1549年3月31日 – 1584年9月15日、戦国時代の大名。
大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。松永久秀によって居城・筒井城を追われるが、三好三人衆と手を結んで筒井城を奪還。大和国で松永久秀と抗争の上、平定。茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であった。家紋は梅鉢。


紀伊国屋文左衛門。1669年 – 1734年5月26日、商人。
紀州湯浅の出身。みかん、材木などの商いで財を成す。幕府から十文銭の鋳造を請け負ったが、質が悪く1年で通用が停止されてしまったという。画像は深川・成等院墓所の親族の墓を撮影。家紋は丸に梅紋。ただし、本人の墓は保存が悪く家紋は未確認。


平賀源内。1728年- 1780年1月24日、蘭学者、発明家、画家。
讃岐国寒川郡志度浦に生まれる。父は白石茂左衛門。天才、異才と称される。鎖国を行っていた当時の日本で蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。エレキテルを復元したり日本最初の宣伝コピー「本日土用丑の日」を考えた。


中山みき。1798年6月2日 – 1887年2月18日、宗教家。
大和国山辺郡三昧田村の前川半七の家に生まれる。中山善兵衞に嫁ぐ。親神・天理王命が乗移り天理教を開く。天理教教会本部では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称させている。家紋は丸に梅鉢。現在の天理教のマークとなっている。


伊沢蘭軒。1777年12月10日 – 1829年4月20日、医師、教育者。
備後福山藩医の子として生まれる。頼山陽、大田南畝等とも親交を持ったという。清川玄道、森立之、岡西玄亭、山田椿庭、渋江抽斎等、多くの弟子を育てた。その生涯は森鴎外の史伝『伊沢蘭軒』に詳しい。家紋は梅鉢。画像は麻布長谷寺の墓所にて撮影。


梅田雲浜。1815年7月13日 – 1859年10月9日、儒学者。
小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれる。アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて幕政を激しく批判したが安政の大獄で摘発、逮捕される。拷問においても何一つ口を割らず、獄中で病死した。家紋は梅鉢。


前田案山子。1828年4月7日 – 1904年7月20日、政治家、文人。
細川藩に指南として仕えていたが明治維新に際し農民と共に生きる決意で案山子と改名。自由民権運動の闘士となり干拓農地の免訴運動などに奔走。次女の卓は夏目漱石の「草枕」の那美さんとして登場。家紋は梅鉢紋。画像は平林寺にて撮影。


篠原泰之進。1828年12月22日 – 1911年6月13日、志士。
筑後国生葉郡高見村の豪農・石工業者・篠原元助の長男として出生。新選組に加盟するが、御陵衛士結成に伴い、離脱。鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。維新後は秦林親と改名。家紋は丸に梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。


副島種臣。1828年10月17日 – 1905年1月31日、官僚、政治家。
父は佐賀藩の藩校・弘道館の教授、国学者・枝吉南濠。弘道館で学び尊王攘夷思想に目覚める。江藤新平や大木喬任と交わり大隈重信らと脱藩、奔走する。第1次松方内閣では内務大臣を務める。家紋は星梅鉢。画像は青山霊園にて撮影。


福羽美静。1831年8月24日 – 1907年8月14日、国学者、歌人。
津和野藩士・福羽美質の長男。読みは、ふくばびせい。幕末は尊皇攘夷の志士として御所に召され孝明天皇に近侍。八月十八日の政変に際しては七卿と共に西下。維新後は明治天皇の大学御用掛、宮内省歌道文学御用掛となる。家紋は外雪輪に梅紋。


榎本武揚。1836年10月5日 – 1908年10月26日、幕臣、政治家。
父・箱田良助(備後福山藩士)が榎本家の株を買い幕臣となる。新政府軍が江戸城を無血開城すると幕府軍艦を率いて蝦夷地に逃走。五稜郭に拠り蝦夷島政府を設立。維新後、新政府に登用され外務大輔、海軍卿等を歴任する。画像は文京区・吉祥寺にて撮影。


中牟田倉之助。1837年3月30日 – 1916年3月30日、海軍軍人。
金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。佐賀藩主・鍋島直正の推薦で長崎海軍伝習所へ入所。西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。海軍大学校長や枢密顧問官も務める。家紋は子持輪に梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。


清岡公張。1841年7月10日 – 1901年2月25日、政治家。
安芸郡田野浦出身の郷士。読みは、きよおかともはる。禁門の変では長州藩と共に参戦するが敗北。維新後は、福島県権知事、白河権知事、二本松県権令などを歴任。元老院議官、貴族院議員として活躍。家紋は梅鉢。画像は護国寺にて撮影。


清水郁太郎。1857年11月29日 - 1885年2月26日、医学者。
安芸国吉津村出身。藩校誠之館に入学。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。産婦人科にあって臨床診療中心のドイツ産婦人科学を導入。穿頭術、卵巣嚢腫に対する手術も敢行した。家紋は丸に梅鉢紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


杉浦重剛。1855年4月19日 – 1924年2月13日、教育者・思想家。
近江国膳所藩の儒者・杉浦重文の次男。読みは、すぎうらじゅうごう。若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に倫理を進講。後に人格高邁の国士と評され理学宗の世界観を確立。家紋は丸に剣片喰紋と向う梅紋。画像は伝通院にて撮影。


團琢磨。1858年9月7日 – 1932年3月5日、工学者、実業家。
筑前国福岡荒戸町出身。福岡藩士馬廻役神尾宅之丞の四男。幼名は駒吉。三井三池炭鉱の経営に成功し、戦前の三井財閥の総帥であったが、血盟団事件で狙撃、暗殺される。作曲家の團伊玖磨は孫(長男の息子)にあたる。画像は護国寺にて撮影。


岡田和一郎。1864年2月10日 – 1938年5月30日、医師、医学者。
伊予国新居郡本町に生まれる。帝国大学耳鼻咽喉科学における初代の正教授。耳鼻咽喉学の祖と称えられる。主著は『耳科学纂録』『社会政策と地方衛生機関の大改革』『耳・鼻・咽喉 』。家紋は丸に星梅鉢紋。画像は染井霊園にて撮影。


水島銕也。1864年6月29日 – 1928年11月2日、教育者。
豊前国中津藩出身。読みは、みずしまてつや。神戸高等商業学校(神戸大学の前身)の創立者、初代校長。生誕地跡である大分県中津市金谷本町には「水島公園」と記念碑が建てられている。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


長岡半太郎。1865年8月15日 – 1950年12月11日、物理学者。
長崎県大村市で大村藩藩士長岡治三郎の一人息子。土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。初代大阪帝国大学総長や日本学士院院長などの要職も歴任。家紋は珍しい「隅切り角に四つ梅鉢」紋。画像は青山霊園にて撮影。


小橋一太。1870年10月25日 – 1939年10月2日、政治家。
熊本県出身。読みは、こばしいちた。立憲民政党の結成に関わる。浜口内閣の文部大臣であったが越後鉄道にまつわる汚職事件(越後鉄道疑獄)に連座し文相辞任した(裁判では無罪)。後に東京市市長となる。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


土井晩翠。1871年12月5日 – 1952年10月19日、詩人、英文学者。
仙台の北鍛治町に、質屋の土井林七の長男として生まれた。本名は林吉。男性的な漢詩調詩風、第一詩集『天地有情』で島崎藤村と併称された。代表作は『荒城の月』『星落秋風五丈原』等。日本心霊科学協会の設立に顧問として関わる。家紋は梅鉢紋。


井上幾太郎。1872年2月18日 – 1965年5月7日、陸軍軍人。
山口県出身。農業、井上清蔵の二男。読みは、いのうえいくたろう。日露戦争に第3軍参謀として出征。旅順攻囲戦において坑道掘りによる攻撃を献策。帝国在郷軍人会の最後の会長。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


幣原喜重郎。1872年9月13日 – 1951年3月10日、政治家。
大阪府門真一番村の豪農の家に出生。読みは、しではらきじゅうろう。加藤高明内閣を始め4回も外務大臣になる。自由主義体制における国際協調路線は幣原外交と称された。後に第44代内閣総理大臣となる。家紋は鞠挟みに梅鉢紋。画像は染井霊園にて撮影。


久保猪之吉。1874年12月26日 – 1939年11月12日、医師、俳人。
福島県本宮町生まれ。日本の耳鼻咽喉科学の先駆者で、1928年にはコペンハーゲンで開催された第1回万国耳鼻咽喉科学会に日本代表として出席。ホトトギス派の高浜虚子に師事し句集に「春潮集」がある。家紋は星梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。


蒲原有明。1875年3月15日 – 1952年2月3日、詩人。
東京麹町隼町に蒲原忠蔵の息子として出生。本名、隼雄。象徴派詩人として薄田泣菫と併称された。『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。北原白秋、三木露風らに影響を与えた。家紋は亀甲に梅鉢紋。画像は麻布・賢崇寺にて撮影。


下村宏。1875年5月11日 – 1957年12月9日、官僚、教育家。
和歌山県出身。息子に劇団東演を主宰した演出家下村正夫がいる。玉音放送の際の内閣情報局総裁でありポツダム宣言受諾の実現に尽力した。朝日新聞社副社長、日本放送協会会長、拓殖大学第6代学長を務める。家紋は梅鉢紋。青山霊園の墓所にて撮影。


谷寿夫。1882年12月23日 – 1947年4月26日、陸軍軍人。
岡山県の農民出身。読みは、たにひさお。南京攻略戦に参加。戦後、蒋介石による南京軍事法廷で、南京事件の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。最終階級は陸軍中将。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


鳴海要吉。1883年7月9日 – 1959年12月17日、歌人。
青森県南津軽郡黒石町に生れ。島崎藤村の影響で歌を始める。田山花袋が「早稲田文学」発表した短編『トコヨゴヨミ』のモデルとなっている。代表作は『乳涙集』『TUTI NI KAERE』『土にかへれ』家紋は丸に梅鉢紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


前田夕暮。1883年7月27日 – 1951年4月20日、歌人。
神奈川県大住郡南矢名村の豪農の家に出生。『詩歌』復刊。口語自由律短歌を提唱したが定型歌に復帰。代表作『収穫』『陰影』『生くる日に』。代表歌「向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ」家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


前田多門。1884年5月11日 – 1962年6月4日、政治家、実業家。
大阪府出身。読みは、まえだたもん。東久邇内閣の文相に就任、教育改革を推進した。東京通信工業(後のソニー)社長に就任。日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長等を歴任。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


前田青邨。1885年1月27日 – 1977年10月27日、日本画家。
岐阜県中津川市出身。歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。代表作の「洞窟の頼朝」は重要文化財に指定される。出身地の中津川には青邨記念館がある。家紋は梅鉢紋。画像は総持寺にて撮影。


牟田口廉也。1888年10月7日 – 1966年8月2日、陸軍軍人。
佐賀県出身。盧溝橋事件を独断で裁断したり、インパール作戦の指揮に失敗したりしたため、大日本帝国陸軍将校の中でも評価は低い。最終階級は陸軍中将。戦後は東京都調布市で余生を送る。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


水野仙子。1888年12月3日 – 1919年5月31日、小説家。
福島県岩瀬郡須賀川町に出生。本名は服部テイ。田山花袋家に寄寓して内弟子となる。後に川波道三と結婚。『青鞜』の社員となる。代表作は『娘』『徒労』『嘘をつく日』。家紋は丸に梅鉢紋。画像は雑司ヶ谷霊園の川浪家の墓所にて撮影。


栗田健男。1889年4月28日 – 1977年12月19日、海軍軍人。
茨城県水戸市出身。遥かな祖先は清和源氏に連なるという水戸藩士の家に出生。読みは、くりたたけお。レイテ沖海戦では機動部隊の指揮を取り「謎の反転」をしたことで知られる。最終階級は海軍中将。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


高塚竹堂。1889年5月23日 – 1968年3月30日、書道家。
静岡県清水市出身。本名は錠二。戍申書道会・泰東書道院・東方書道会の創立に尽力し役員・審査員を経る。国定教科書・台湾教科書を揮毫。松本芳翠と共に書道同文会を創設。書道連盟監事を勤めた。家紋は丸に梅鉢紋。画像は小平霊園にて撮影。


古今亭志ん生(5代)。1890年6月28日 – 1973年9月21日、落語家。
東京・神田亀住町の生まれ。本名は美濃部孝蔵。出自は高位の士族。生家は徳川直参旗本の美濃部家で菅原道真の末裔を称する。長男は10代目金原亭馬生、次男は3代目古今亭志ん朝。20世紀を代表する名人に数えられる。画像は文京区・還国寺にて撮影。


仁科芳雄。1890年12月6日 – 1951年1月10日、物理学者。
岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くした。湯川秀樹、朝永振一郎らの後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも呼ばれている。死後、仁科記念財団が設立された。画像は多磨霊園にて撮影。


倉田百三。1891年2月23日 – 1943年2月12日、劇作家。
広島県庄原市出身。西田天香の一灯園で深い信仰生活を送る。代表作『出家とその弟子』 は鎌倉時代に浄土真宗を創始した親鸞とその弟子唯円との物語を描いた戯曲。発表とともに当時の青年たちに熱狂的に支持される。画像は多磨霊園にて撮影。


栃木山守也。1892年2月5日 – 1959年10月3日、第27代横綱
栃木県下都賀郡赤麻村出身。本名:横田守也。体重103kgで史上最軽量の横綱と形容される。引退後、年寄・春日野を襲名。春日野部屋を創立。春日野部屋の力士(栃ノ心、栃乃洋、栃煌山等)の「栃」の字は栃木山が由来。画像は谷中霊園にて撮影。


浜田広介。1893年5月25日 – 1973年11月17日、童話作家。
山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれる。作品は“ひろすけ童話”と呼ばれ、小学校低学年向けの平易な語り口と純朴で心を打つ内容により、絵本などで親しまれている。代表作は「泣いた赤鬼」「椋鳥の夢」「竜の目の涙」など。画像は春秋苑墓地にて撮影。


奥むめお。1895年10月24日 – 1997年7月7日、婦人運動家。
福井県福井市に和田甚三郎の長女として出生。本名・奥梅尾。日本初の婦人団体である新婦人協会で平塚雷鳥、市川房枝と共に理事に就任。主婦連合会を結成し会長に就任。主婦会館設立、初代館長となる。家紋は匂い梅。画像は春秋苑の墓所にて撮影。


池田勇人。1899年12月3日 – 1965年8月13日、政治家。
広島県吉名村に造り酒屋を営む池田吾一郎の子として出生。内閣総理大臣時に所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展に大きな役割を果たした。「私はウソは申しません」などの発言を残している。画像は青山霊園にて撮影。


梶井基次郎。1901年2月17日 – 1932年3月24日、小説家。
志賀直哉の影響を受け、簡潔な描写と詩情豊かな小品を残す。死後次第に評価は高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。代表作は「檸檬」「櫻の樹の下には」。1932年3月24日、肺結核のため死去。家紋は丸に梅鉢紋。


柳家金語楼。1901年2月28日 – 1972年10月22日、俳優、落語家。
東京の芝の葉茶屋「山下園」を営んでいた三遊亭金勝の子。本名は山下敬太郎。吉本興業に所属。NHKテレビ『ジェスチャー』などで大衆的人気を博す。6代目春風亭柳橋等と日本芸術協会を結成。エノケン・ロッパと並ぶ昭和の三大喜劇人。家紋は裏梅紋。


曽我廼家五郎八。1902年2月25日 – 1998年1月20日、お笑い芸人。
大阪府大阪市道頓堀の出身。本名は西岡幸一。曾我廼家五郎一座に入り曾我廼家五郎八を襲名。松竹新喜劇で活躍。味のある脇役として一世を風靡。娘は西岡慶子(女優)。タレントの弟子に吉本新喜劇の井上竜夫、菊池大助がいる。家紋は雪輪に梅鉢紋。


美濃部亮吉。1904年2月5日 – 1984年12月24日、政治家。
東京府出身。憲法学者で天皇機関説事件により貴族院議員を辞職した美濃部達吉の子。日本社会党を支持基盤とする革新都知事。1971年の都知事選で獲得した361万5299票は日本の選挙史上最多得票記録。後に参議院議員に転進。家紋は星梅鉢。


永田雅一。1906年1月21日 – 1985年10月24日、実業家。
京都市の染料と友禅の問屋で生れる。『羅生門』でヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞。五社協定締結を主導。大毎オリオンズオーナー。パ・リーグの父と呼ばれた。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」と呼ばれた。画像は池上本門寺にて撮影。


伊藤静雄。1906年12月10日 – 1953年3月12日、詩人。
長崎県諫早市出身。処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』を発表し一気に名声を高めた。日本浪曼派の代表的な詩人として同時代に多大な影響を与えた。代表詩集は『夏花』『春のいそぎ』等。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は折敷に梅鉢紋。


植草甚一。1908年8月8日 – 1979年12月2日、評論家。
東京市日本橋区小網町出身。木綿問屋の一人息子。雑誌『ワンダーランド』(のちの「宝島」)の創刊編集者。代表作『ぼくは散歩と雑学が好き』は大きな影響力を持つ。彼の死後そのレコードコレクションはタモリが買い取った。画像は回向院にて撮影。


入江たか子。1909年2月7日 – 1995年1月12日、女優。
東京市四谷区に出生。子爵東坊城家の出身で父の東坊城徳長は子爵。本名は東坊城英子。ノーブルな美貌と近代的なプロポーションによって大スターとなり、原節子・山田五十鈴とともに日本映画史上の三大美人とも言われた。家紋は梅鉢紋。


神田山陽(2代目)。1909年8月31日 – 2000年10月30日、講釈師。
東京都出身。書店・出版社の「大阪屋号書店」の社長の息子として生まれる。本名は浜井弘。1955年に2代目神田山陽を襲名。講談協会会長。弟子には、神田改メ日向ひまわりを始め、女性を多くとり現在でも活躍している。家紋は丸に梅鉢紋。


益田喜頓。1909年9月11日 – 1993年12月1日、コメディアン。
北海道庁函館区青柳町に、会津藩の武家上がりの土木請負業の家に生れる。本名は木村一。昭和期を代表するコメディアン。川田義雄、芝利英、坊屋三郎と「あきれたぼういず」を結成。その後、映画、ミュージカルを中心に活躍。家紋は丸に梅鉢紋。


岡本太郎。1911年2月26日 – 1996年1月7日、芸術家。
神奈川県橘樹郡高津村で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として出生。「芸術は爆発だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した。画像は多磨霊園、太郎と同じ敷地にある岡本かの子の墓にある梅鉢紋。


双葉山定次。1912年2月9日 – 1968年12月16日、第35代横綱
大分県宇佐郡天津村布津部出身。本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」の言葉通りの不世出の大横綱であり、名実共に史上最強の横綱とする評は多い。画像は善性寺の墓所にて撮影。


安藝ノ海節男。1914年5月30日 – 1979年3月25日、第37代横綱
広島県広島市に食料品商の家に出生。本名は永田節男。双葉山の70連勝を阻止、69連勝で止めた一番は世紀の名勝負といわれた。その後、双葉山には9連敗し二度と勝てなかった。幕内最高優勝:1回。金星は双葉山に勝った一番だけ。画像は正覚寺にて撮影。


佐賀ノ花勝巳。1917年12月5日 – 1975年3月28日、大相撲の力士。
佐賀県佐賀市出身。最高位は大関。本名は北村勝巳。1944年1月場所では13勝2敗の幕内最高優勝を遂げる。八代目・二所ノ関を襲名。親方として初代・若乃花、玉乃海、大鵬、大麒麟を育てた。家紋は丸に梅鉢紋。画像は谷中の宗善寺にて撮影。


山下清。1922年3月10日 – 1971年7月12日、画家。
東京府東京市浅草区出身。本名は大橋清治。3歳の頃に重い消化不良になり一命は取りとめたものの後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。戦後は「日本のゴッホ」「裸の大将」と呼ばれ日本中を放浪する。家紋は丸に梅鉢。画像は正覚院にて。


町井久之。1923年 – 2002年9月18日、ヤクザ、実業家。
東京生まれ。本名は鄭建永。東声会会長。東亜相互企業株式会社社長。釜関フェリー株式会社会長。在日本大韓民国民団中央本部顧問。若い頃は、「銀座の虎」、「雄牛」と呼ばれた。家紋は丸に梅鉢紋。画像は池上本門寺にて撮影。


栃錦清隆。1925年2月20日 – 1990年1月10日、第44代横綱
東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)出身。本名、大塚清。相撲界に戦後屈指の黄金時代「栃・若時代」を築いた。幕内最高優勝 10回。幕内通算成績 513勝203敗1分32休 勝率.716。引退後は年寄・春日野として日本相撲協会理事長もつとめる。


フランキー堺。1929年2月13日 – 1996年6月10日、喜劇役者。
鹿児島の士族の家系。本名は堺正俊。曽我廼家五九郎は親戚。「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」を結成しドラマーとしても活躍。代表出演作『私は貝になりたい』『幕末太陽傳』。『写楽』の企画総指揮。葬儀時写真より丸に梅鉢紋と判断。


中村八大。1931年1月20日 – 1992年6月10日、作曲家。
中国青島出身。漫画家の寺田ヒロオは義弟。ジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバー。『黒い花びら』『こんにちは赤ちゃん』で2回、日本レコード大賞を受賞。代表作は『上を向いて歩こう』『明日があるさ』等多数。画像は本門寺にて撮影。


漣健児。1931年2月4日 – 2005年6月6日、作詞家、実業家。
東京市牛込区出身。本名は草野昌一。読みは、ささざみけんじ。「ミュージックライフ」の初代編集長。作詞者としての代表作は「可愛いベイビー」(中尾ミエ)、「赤鼻のトナカイ」(新田宣夫名義)など。また日本の音楽出版ビジネスの先駆者でもある。


河内桃子。1932年3月7日 – 1998年11月5日、女優。
東京都台東区谷中出身。祖父は理研グループ総帥・大河内正敏。夫は今治松平家末裔でプロデューサーの久松定隆。『ゴジラ』の山根恵美子役に抜擢された後『ありがとう』『渡る世間は鬼ばかり』等に出演。家紋は星梅鉢紋。画像は谷中霊園にて撮影。


遠藤実。1932年7月6日 – 2008年12月6日、作曲家。
東京府東京市向島区生まれ。現在に至るまで世に送り出した楽曲は5000曲以上と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。代表作曲『高校三年生』『星影のワルツ』『せんせい』等。家紋は丸に剣梅鉢紋。画像は田無総持寺にて撮影。


筒井康隆。1934年9月24日 – 、小説家、劇作家、俳優。
大阪府大阪市住吉区粉浜に出生。日本を代表するSF作家で小松左京、星新一と並んで「SF御三家」とも称される。代表作は『七瀬ふたたび』『筒井順慶』『虚人たち』『時をかける少女』戦国大名筒井順慶の末裔と伝えられているため梅紋扱いとする。


中上健次。1946年8月2日 – 1992年8月12日、小説家。
和歌山県新宮市に父・鈴木留造と母・木下ちさとの間に出生。紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、ある血族を中心にした「紀州サーガ」とよばれる土着的な作品世界を作り上げた。代表作は、「枯木灘」「軽蔑」など。家紋は丸に梅鉢紋。


堺正章。1946年8月6日 – 、歌手、俳優、司会者。
東京都世田谷区出身。本名は栗原正章。父は喜劇俳優の堺駿二。子役で芸能界に入りザ・スパイダースのボーカル、『西遊記』の孫悟空役で人気を博す。『発掘!あるある大事典』『チューボーですよ』等の司会を務める。画像は父親・堺駿二の墓所にて撮影。


菅直人。1946年10月10日 – 、政治家。
山口県宇部市に出生(本籍地は岡山県御津郡)。菅原道真の子孫の一派、美作菅家党の流れを汲む。厚生大臣、新党さきがけ副代表、民主党代表、第94代内閣総理大臣等を歴任。野党時代は演説、国会質問における鋭さに特徴があった。


中井貴一。1961年9月18日 – 、俳優。
東京都世田谷区出身。父の佐田啓二も俳優。父の17回忌の法要の際にスカウトされる。『ふぞろいの林檎たち』で主役。NHK大河ドラマ『武田信玄』では主役の武田信玄を演じた。家紋は父親・佐田啓二の円覚寺の墓所(画像)より星梅紋と判断。


羽生善治。1970年9月27日 – 、将棋棋士。
埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持。通算タイトル獲得数は、大山康晴に次ぎ歴代2位。数々の実績から、将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。紋付姿の写真より、家紋は亀甲に梅紋と判断。


陣内智則。1974年2月22日 – 、お笑い芸人、司会者。
兵庫県加古川市出身。一人コント形式で舞台装置を用いエキストラに演じさせたりCGで制作した映像等の音声や映像に対してツッコミを入れるというスタイル。藤原紀香と結婚したが、離婚。家紋は丸に梅鉢紋であることが結婚式の際の紋付にて判明。


林屋亭どん兵衛。昭和 – 平成、落語家。
テレビドラマ「タイガー&ドラゴン」の中の登場人物(西田敏行演)。古典落語にこだわり続ける昔気質の落語家。寄席の客相手に渋い落語を聞かせる通好みの芸人。新しく弟子入りした虎児のことも可愛がる。林屋一門の家紋は丸に覗き梅鉢紋。


丸山陽子。1922年 – 、学校教師、主婦。
朝ドラ「おひさま」の登場人物(井上真央演)。東京都に生まれ。10歳の時に長野県安曇野に移住。1941年に国民学校の教師になる。丸山家に嫁ぐ。世界を明るく照らす「太陽の陽子」として笑顔で生きていく。家紋は嫁ぎ先の丸山家の丸に覗き梅紋。

まさむね



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