「源氏物語」誕生 1000周年に寄せて

若紫.gif本日(2008年11月1日)は、「源氏物語」の事が「紫式部日記」に記載されてからちょうど1000年目にあたる。

その記載は以下のような文章だ。括弧内は私の意訳。

左衛門の督「あなかしこ。このわたりに若紫や候ふ」と窺ひ給ふ。源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上はまいてものし給はむと、聞きいたり。
(藤原公任が、「このあたりに、若紫はいらっしゃいますか。」と、冗談口調で、聞いてくる。「光源氏に似た人すらいないんだから、紫の上がいるわけないじゃん。」と内心思いながら、受け流した。)
※画像は光源氏が最初に若紫を見た場面。

まぁ、現代で言えば、部長のオヤジギャクを軽くスルーするOLの気持ちに通じる日常の一場面だけど、この歴史的な一行のおかげで「源氏物語」の作者が紫式部だって事が確定されたんだよね。
紫式部がこの1行を書いたのが、今からちょうど1000年前なのか。

これを機会に、「源氏物語」について書いてみたい。

「源氏物語」っていうのは一般的に、光源氏という貴公子と、その周りをとりまく女性達の恋物語だって言われているけど、それだけじゃない。いろんな見方が出来るんだよね。

■政治小説として

天皇の子とはいえ、母親の身分が低かったため、臣籍降下した光源氏が、当時、権勢を誇った右大臣家との権力闘争に勝ち、太上天皇(天皇の父)にまで上りつめる(その後もいろいろとあるんだけど)話という解釈も出来る。
その政争のために、いろんな女性との恋愛があるっていう見方だ。
例えば、右大臣家が次期天皇の正妻にと手塩にかけて育てた朧月夜に手をつける光源氏。ライバル家に大きなダメージを与える。しかし、自分も無傷ではない。それがバレて、自分は須磨・明石に流れていく事になるのだ。

■ドキュメンタリとして

政治ドラマはさらに、現実世界で起きた様々な事件のパロディになっている。つまり、「源氏物語」は半ドキュメンタリだったという見方も出来る。
例えば、在原業平、源融、源高明等、光源氏のモデルとされるような歴史上人物は沢山いる。当時、暇だった宮中の女官達は当然、それらの人々の噂事は熟知している。
彼女達は「源氏物語」を読みながら、光源氏とそれらの歴史上の人々を比べて、事の真相をさらに深く想像したことだろうね。

■仏教小説として

また、ある意味、不遇な生立ちの光源氏が政争に打ち勝って、一時は栄華を極めるも、最終的には寂しく死んでいくというドラマは、諸行無常の小説化という意味で仏教小説なのである。
さらに、「源氏物語」では、俗世では様々な悩みを抱える女性達(藤壺、六条御息所。女三宮等)が、出家する事によって精神的に自立していく(瀬戸内寂聴さんもこういう事言っています)が、女性と出家というテーマを扱っているという意味でも仏教小説と言いうるかも知れない。

■怪奇小説として

「源氏物語」が怪奇小説の側面を持っているというのもよく指摘される。
言うまでも無く、光源氏より年上で高貴な六条御息所は、彼に段々と相手にされなくなると、無意識的にではあるが、自らの嫉妬心を物の怪として飛ばし、夕顔や葵の上を死に至らしめる。
その力を恐れた光源氏は、その後も六条御息所の荒ぶる生霊を静めようと様々に気を使うが、上手くいかず、彼女は死後も紫の上や女三宮に取り付く。
ある意味、「源氏物語」は、光源氏VS六条御息所のサイキックバトル物語なのだ。

■怨霊鎮魂の書として

作家の井沢元彦さんは、「源氏物語」を、藤原道長が紫式部に、藤原家との政争に敗れた一族の鎮魂のために書かせたのではないかという説を提唱されている。
紫式部のパトロンであった道長が自分の氏・藤原が負けて、ライバル氏・源氏が栄華を極める物語を普通に書かせたのは、現実世界の敗者である源氏を物語の世界で勝者として表現させることによって、源氏(源融や源高明等)の怨霊を鎮魂させようとしたのではないかという事なのだ。
この説は学会とかでは無視されているらしいけど、今後、専門家の人の検証も交えて、深めて行ってもらいたい魅力的な説だと思う。

■教養小説として

さらに「源氏物語」は、歴史を経て、江戸時代頃には、上流階級の子女の教養小説という面も出てくる。
彼女達は、第23帖の「初音」から読み始めたという。
この帖は、正月のうららかな日の中で、紫上の元に預けられた明石の姫君の所に、実母の明石の御方から和歌が贈られるシーンから始まるが、”子を想う母の愛情”を子女に教える恰好の場面なのである。
でもこんな中途半端なところから読むっていうのも、ちょっと変だよね。

■文化の題材として

日本の文学史どころか、文化史に燦然と輝く「源氏物語」は、小説として楽しまれるだけではなく、和歌、能、工芸作品、浮世絵、香道等の日本文化のネタ本みたいな使われ方もされたんだ。
例えば、能の中では、世阿弥の傑作「葵上」を始めとして「野宮」「玉蔓」「夕顔」等の作品が残されている。
さて、日本人の心の中には、「ますらおぶり」=男らしさと「たおやめぶり」=女らしさという二つの概念があって、それがせめぎあう事で歴史が進んでいくという話がある。
「ますらおぶり」の概念が前面で出てくるとき、ようするに戦争の時なんだけど、逆に、人々は「たおやめぶり」を求めたりする。
そして、この「たおやめぶり」の象徴が「源氏物語」だったんだね(本居宣長)。
例えば、鎌倉時代に元が攻めてきた時、貴族達は争って「源氏物語」を読んだという記録もあるし、第二次世界大戦後、源氏ブームが起きているんだ。
また、これは、僕が好きなエピソードなんだけど、関が原の戦いの最中、東軍に細川幽斎という武将がいたんだけど、彼は古典文学に明るく、”古今伝授”を受け、さらに「源氏物語」の研究家でもあった。
その幽斎が西軍に城を包囲され、絶体絶命のピンチになってしまったんだ。
しかし、その時、時の後陽成天皇は勅使を派遣し、和議を結ばせて、幽斎の命を救ったという。
僕はその勅使が来た時に、城の包囲を解いた武将(前田茂勝)が偉いと思う。日本人は、生死を賭けた戦の時でも、いや逆に、そういう時にこそ、「たおやめぶり」に憧れる心がムクムク出てくるんだろうね。
勿論、その心がわかる徳川家康は、この前田茂勝の領地を安堵したというのは言うまでもない。

■アバンギャルドとして

また、「源氏物語」は20世紀芸術の大きな流れコンセプチュアルアートの先駆けという見方も出来る。
20世紀を代表する芸術家に、マルセル・デュシャンやジョン・ケージがいるけど、彼らは芸術が芸術として成り立つ、その制度自体を疑った人々なんだ。
例えば、ケージは、「4分33秒」というピアノ作品で、全く何も演奏しないというコンサートを行った。
ようするに、「ピアノコンサートでは、聴衆の前でピアノを弾く事によって何かを表現するものだ。」という”当たり前”の欺瞞性を暴くと同時に、鳥のさえずりとか人の息音とか、あらゆるものが聴者の心次第では素晴らしい音楽になるということを表現しようしたんだ。
これを文学に持ってくるならば、何も書かない事によって、書くという表現以上のものを表現しようとする態度という事になるよね。
「源氏物語」第41帖の「雲隠」は、光源氏が亡くなる所の帖であるが、それが巻名だけで中身が無い。
何故、その帖の中身が無いのかに関しては、いろんな説が歩けど、僕は、紫式部は書かなかったんだと思ってる。
紫式部は、源氏の死という最も悲劇的な場面を読者達の心にゆだねたんだね。
これって極めて現代芸術的だと思わない?

いずれにしても、1000年も前に、こんなこと考えた紫式部ってやっぱり天才だと思う。

まさむね

コメントは受け付けていません。