高田と三沢

浮き沈みの激しい人生というのが、いいのか悪いのかわからないが、高田と三沢という今から15年ほど前の未来のエース2人(当時のプロレス豆本等を見ると2人の対比表等が出ていて興味深い)の人生を見ていると、人の運命って過酷だなぁと思わざるを得ない。
今、高田の事を口にするなら、誰だってその暴落の歴史を辿ってみたくなる。しかし彼が不思議なのはその人生に於ける負のイベント(落選、倒産、惨敗等)が彼の現在のファイトを観る側にドラマとして立ちあがってこない事だ。
例えば、猪木ならば逆にその失敗が彼のファイトを浮き上がらせるパワーとなって観るものを熱狂させたのに、高田の場合、こうやって指折り数えてようやく、そういえばいろいろあったなぁ位の過去との「取り結び方」しかしていないのだ。逆に言えば、そんなに悲惨な事が続いても自称さわやかというキャラクタが世間的には通用してしまっているという幸福が彼の持ち味なのである。(もっとも、それはかなり不幸であるという言い方も出来るが。)
それにしてもグレイシーに連敗した彼が許せないのは、自分は格闘家として立ち振る舞っているつもりでいるが、実はちゃっかりプロレスラーとしての遺産で食べている事だ。と同時に敗戦のツケをプロレスにも払わせて、それで何の落とし前もつけようとしないその態度だ。
プロレスから離れたフリをして、実は得たものだけは離そうとしない高田の欺瞞はそれ自体が醜悪な見世物である。
一方、馬場亡き後、全日本プロレスの社長になった三沢のレスリングには逆にプロレスラーであることの責任を体全体で背負い込んだものが見せるあまりにも、俗世間的な悩みがマット上に露骨に反映してしまっている。それは、高田とは全く違った意味で醜悪な見世物である。

まさむね

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