秩父の街 紋所散歩2

秩父散歩記-1からつづく。

秩父神社の境内に入る。
本殿の四方には、南面に虎、東面に龍、北面に梟、西面に猿の彫刻がある(写真一番上)。
日光東照宮と同様、江戸初期の彫刻様式だ。この時代の作品に対するある種のお決まりだが、左甚五郎作と伝えられている。

北面にある梟(写真二番目)は「北辰の梟」と呼ばれているが、梟が知恵を表すことから、最近では受験の守り神として学生達に人気が高い。っていうか神社側もそれを当て込んでPRしているようだ。
そういえばローマ神話でもミネルバの梟って知恵の象徴だ。梟=知恵みたいな観念って世界共通なのか。あるいは、西洋から東洋に伝播したものか。興味深いところだ。

さて、秩父神社のどこに紋所があるのか探す。

それらを勝手にピックアップして推理し、秩父神社、そして土地の歴史を妄想してみたい。

秩父神社は神仏習合時に、妙見宮も奉られていたという社伝もあって、平氏系の紋を探すが、残念ながら、慈眼寺で見られた九曜、七曜等の紋は見つからなかった。

しかし、消火用の天水桶の正面に、抱き銀杏紋(写真三番目)があった。
さて、この銀杏紋の起源は何か?

1:銀杏といえば、原産が中国大陸だ。銀杏紋は、古代にこの地を開発した大陸系の一族の名残か。ちなみに、彼らは古くからこの地で養蚕を営んだという。和同開珎用の自然銅もこのあたりで産出している。
2:いや、中世に、南関東を支配した大石氏の支配の痕跡か?
3:それとも、保水力のある大木・銀杏にあやかって、火除けの象徴としての銀杏を天水桶に彫っただけか?
4:また、銀杏と言えば、東京大学の学紋でも知られた通り、北辰の梟と同じく知恵の象徴でもある。秩父神社の主祭神の一人で学問の神様、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を表してるのかも。

僕としては4:だと思うんだけど...ちなみに、この地方の名門・秩父高校の校章(写真四番目)にも銀杏があしらわれているんだ。また、ゆっくりと考えよう。

さて、本殿に目を戻す。
おっと、正面の上の方に葵紋を発見。
社伝によると、この建物は徳川家によってされたというから、やっぱりスポンサーの紋は高く掲げるよな、って思っていたら、そのさらに上に菊の紋所があった。

この正面の葵紋、そしてその上の菊紋は、王政復古後に、明治政府がこの神社を、徳川から奪取、その支配下に置いたという事を物語る。
しかし、そこには一筋縄ではいかない事情があった。
実は、明治時代、この秩父では秩父事件という大きな政治事件(一揆)があり、かなり多くの人々が投獄されたのである。時はちょうど自由民権運動の頃の話だ。

政府は、だからこそ、この事件の後、この地方の鎮魂を重要に考えたのであろう。
皇族の一人に秩父宮という名前まで与える。この神社の境内には、その秩父宮が植樹したという木が、婦人のものも含めて3本もあった。
そして、恐らく多額の補助金をこの地方に落とした。
いわゆる、弾圧の後の懐柔である。
秩父神社から駅までの街路には昭和初期の贅沢な洋館が散見(写真五番目)されるが、これらも、当時の繁栄の残像、政府の懐柔の痕跡か。

一方、江戸時代の支配者の徳川家は、明治以降どうなったのか。境内に入ってすぐ右に小さく東照大権現の祠が置かれている。
扱い悪いけど、捨てはしないで、とりあえず、隅にこっそり置いておくっていう日本的対応がほほえましくもある。

まさむね

 

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