沢瀉紋 -武人の心に芽生えた一時の優しさを表す紋- 福島正則、高橋是清、黒柳徹子...


沢瀉は、全国の池や沼に自生する水草。
かの清少納言は「枕草子」の中でこの沢瀉=面高を、「おもだかは名のをかしきなり、心あがりしたらんと思ふに」(面高とは、面白い名前だこと。気位が高いのかしら)と評している。

戦国時代の武士。それこそ、地を這いずり回りながら戦いに明け暮れていた。
そんな時に、ふと水辺の水草・沢瀉に目をやる。一時のやすらぎの時間だ。

あの毛利元就も、若い頃、出陣の際に沢瀉に蜻蛉が止まったのを見て「勝ち草に勝ち虫、勝利は疑いなし」と全軍を鼓舞し、それを記念して、この植物を紋として採用したという。確かにその葉の形が盾に似ているところから勝ち草と言われた、というのも頷けるところだ。
いずれにしても、猛々しい武人の心に芽生えた一瞬の優しさ、そんなロマンチックな想像をさせてくれるのが、この沢瀉紋である。

全国的には、17位。長野県で5位、山梨県で7位。群馬県で8位。栃木県、愛知県、岐阜県で10位。
日本の中央部分の山間部に多いようである。


毛利元就 。1497年4月16日 – 1571年7月6日、 戦国大名。
毛利氏は大江広元の四男・毛利季光を祖とする。本姓は大江氏。安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置く。戦国時代最高の名将の一人と評される。家紋は毛利沢潟と一文字三星紋。画像は別の毛利家(青山霊園にて撮影)の毛利沢瀉紋。


羽柴秀吉 。1537年3月17日 – 1598年9月18日、 武将・戦国大名。
尾張国出身。木下氏から羽柴氏に改める。織田信長に仕え、数々の戦いで功を挙げ、出世を重ねる。信長死後、日本全土を制圧。刀狩検地を行う。桐紋を朝廷から下賜される以前は沢瀉紋を使用していた。画像は木下家(日出藩主の家柄)の抱き沢瀉紋。


福島正則 。1561年 – 1624年8月26日、 武将・大名。
愛知県海部郡出身。福島正信の長男。読みは、ふくしままさのり。幼少より秀吉に仕え賤ヶ岳の戦いの時は一番槍として大功を立てた。九州征伐の後、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。家紋画像は関が原合戦図屏風に描かれた福島沢潟紋。


林羅山 。1584年 – 1657年3月7日、 儒学者。
京都四条新町出身。父は加賀国の郷士。徳川秀忠の侍講として『寛永諸家系図伝』などの伝記・歴史を編纂、「武家諸法度」などの撰定、朝鮮通信使の応接を行う。定紋は五瓜に剣香い桔梗紋、裏紋は抱き柊紋。女紋としては変り三つ割り沢瀉紋が継承されている。


水野忠邦 。1794年6月23日 – 1851年2月10日、 大名・老中。
唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として出生。大坂城代となる後、老中首座に抜擢され天保の改革を断行しようとするが失敗。強制隠居・謹慎が命じられた上、出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。家紋は水野沢瀉紋。画像は烏山妙高寺にて撮影。


男谷信友 。1798年2月4日 – 1864年8月17日、 剣術家。
男谷新次郎信連の子。読みは、おたにのぶとも。直心影流男谷派を名乗り、門下から島田虎之助、榊原鍵吉などの名剣士を輩出した。その実力の高さから幕末の剣聖といわれる。勝海舟は従兄弟。家紋は八重沢瀉紋。画像は深川・増林寺にて撮影。


吉川重吉 。1829年9月30日 – 1867年4月24日、 外務官僚。
旧岩国藩主吉川家の一族。読みは、きっかわちょうきち。兄は最後の岩国藩主吉川経健。娘達は原田熊雄、和田小六、獅子文六に嫁いでいる。岩倉使節団に同行してアメリカへ留学。家紋は変り三つ追い沢瀉紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


早矢仕有的 。1837年9月8日 – 1901年2月18日、 実業家、教育者。
美濃国武儀郡出身。医師山田柳長の子。名主・早矢仕才兵衛の養子となる。読みは、はやしゆうてき。丸善の創業者。明治生命保険会社設立に関与。ハヤシライスの考案者とも言われる。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


大関増裕 。1838年1月4日 – 1868年1月3日、 黒羽藩藩主。
遠江横須賀藩主・西尾忠善の嗣子である西尾忠宝の三男として出生。大関増徳の養嗣子となり跡を継いだ。西洋式砲術の導入するなど藩政改革に取り組む。藩校作新館を創設。家紋は大関沢瀉紋。大関家は他に朧月紋、二つ輪鼓紋も使用。


佐和正 。1844年3月6日 – 1918年11月6日、 内務官僚。
陸奥国仙台出身。仙台藩士の二男として生まれる。読みは、さわただし。川路利良大警視に随行してヨーロッパ各国の警察を視察。その後、内務書記官に就任。第1次山縣内閣により青森県知事に登用された。家紋の三つ追い沢瀉紋は谷中霊園の墓所にて撮影。


国沢新九郎 。1848年1月27日 – 1877年3月12日、 西洋画家。
土佐藩士・国沢好古の子として土佐国小高坂村に生まれる。米英に留学。イギリスの正統的な画風を受け継いだ肖像画を多く残す。私塾「彰技堂」で本格的な洋画を教授した。代表作は『西洋婦人』。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は青山霊園にて撮影。


広岡浅子 。1849年10月18日 – 1919年1月14日、 実業家。
山城国京都出身。小石川三井家六代当主・三井高益の四女。大坂の豪商・加島屋の第8代の次男・広岡信五郎と結婚。大同生命を創業。2016年朝ドラ「あさが来た」の主人公。広岡家の男紋は二重輪に太陰光琳蔦紋。女紋は三つ追い沢瀉紋。画像は大同生命HPより。


木下周一 。1851年10月15日- 1907年6月4日、 官僚。
肥前国出身。佐賀藩支藩の家臣の子。読みは、きのしたしゅういち。兼陸軍省御用掛、法制局参事官、兼内閣恩給局審査官、山形県知事、鳳山県知事、台中県知事、埼玉県知事、大分県知事などを歴任。家紋の抱き沢瀉紋は青山霊園にて撮影。


高橋是清 。1854年9月19日 – 1936年2月26日、 政治家。
江戸芝中門前町出身。幕府御用絵師・川村庄右衛門の子。犬養毅内閣の大蔵大臣の際に世界恐慌デフレから日本経済を世界最速で脱出させた。第20代内閣総理大臣二・二六事件で暗殺された。家紋は三つ追い沢瀉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


富岡定恭 。1854年12月24日 – 1917年7月1日、 海軍軍人。
長野県出身。松代藩海防隊隊長・富岡宗三郎定知の長男。読みは、とみおかさだやす。日清戦争では「厳島」副長として参戦。日露戦争においては秋山真之らとともに早期開戦を求める。最終階級は海軍中将。家紋は抱き沢瀉紋。画像は青山霊園にて撮影。


神尾光臣 。1855年2月27日 – 1927年2月6日、 陸軍軍人。
信濃国出身。諏訪藩士・神尾平三郎の次男。次女の安子は有島武郎に嫁ぐ。西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍。最終階級は陸軍大将。戦功により勲一等功一級男爵を受ける。家紋は抱き沢瀉に大の字紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


前田慧雲 。1855年3月2日 – 1930年4月29日、 学僧、教育者。
伊勢国桑名出身。読みは、まえだえうん。尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となる。東洋大学、龍谷大学の学長を歴任。主著は『大日本続蔵経』『大乗仏教史論』『仏教思想講話』など。家紋は立ち沢瀉紋。画像は和田掘廟所の墓所にて撮影。


末松謙澄 。1855年9月30日 – 1920年10月5日、 政治家・歴史家。
豊前国前田村出身。大庄屋・末松七右衛門の四男。読みは、すえまつけんちょう。伊藤博文は岳父。逓信大臣、内務大臣などを歴任。義経=ジンギスカン説を唱え、大ブームを巻き起こす。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は品川の清光院にて撮影。


大谷喜久蔵 。1856年2月4日 – 1923年11月26日、 陸軍軍人。
小浜藩士で藩校「順造館」教授の漢学者、大谷正徳の七男として生まれる。教育総監・浦塩派遣軍司令官・軍事参議官・青島守備軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将、男爵に至る。家紋は三つ追い沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


瓜生外吉 。1857年1月27日 – 1937年11月11日、 海軍軍人。
加賀藩支藩の大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男。海軍少将・軍令部第1局長、常備艦隊司令官、将官会議議員、横須賀鎮守府長官等を経て、最終階級は海軍大将益田孝は義兄。森恪は女婿。家紋は立ち沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


中島力造 。1858年2月21日 – 1918年12月21日、 倫理学者。
丹波福知山出身。読みは、なかじまりきぞう。津田仙の要請により学農社の教師として上京。第一高等学校講師を経て帝国大学文科大学教授に就任。倫理学の拡充を図り倫理学の学としての独立性を確立。家紋は丸に立ち沢瀉紋。雑司が谷霊園にて撮影。


内田嘉吉 。1866年11月18日 – 1933年1月3日、 政治家。
東京出身。読みは、うちだかきち。逓信省に入省し、逓信書記官、、官房秘書課長、高等海員審判所所長、逓信次官などを歴任。台湾総督府民政長官となり台湾に赴任。貴族院勅選議員に勅任される。家紋の立ち沢瀉紋は鶴見総持寺にて撮影。


阪井久良伎 。1869年3月6日 -1945年4月3日、 川柳作家。
神奈川県久良岐郡野毛出身。読みは、さかいくらき。本名は、阪井弁。『獅子頭』『川柳文学』などの川柳雑誌を創刊した。江戸期の川柳・狂句が滑稽・風刺に偏ったことを改め、風俗詩としての川柳を主張した。家紋は抱き沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


木下尚江 。1869年10月12日 – 1937年11月5日、 社会主義運動家。
信濃国松本城下出身。父親は松本藩士・木下廉左衛門秀勝。旧横浜毎日新聞に入り、廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙期成運動などで論陣を張る。幸徳秋水片山潜堺利彦らと社会民主党を結成。家紋は抱き沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


綱島梁川 。1873年5月27日 – 1907年9月14日、 評論家。
岡山県上房郡出身。読みは、つなしまりょうせん。坪内逍遥の『早稲田文学』の編集に加わり文藝・美術評論を書く。後に宗教に傾倒し見神体験を語って反響を呼ぶ。代表作は『予が見神の実験』。家紋は抱き沢瀉紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


山本信次郎 。1877年12月22日 – 1942年2月28日、 海軍軍人。
神奈川県出身。イタリア大使館付武官を務めた後、皇太子(昭和天皇)の外遊に随行、のち宮内省御用掛。また少年時代に受洗し、カトリック民間使節として16ヵ国を歴訪した。最終階級は海軍少将。家紋は三つ追い沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


穴水熊雄 。1880年6月15日 – 1958年、 実業家。
山梨県出身。旧姓は興水。穴水家の養子となり実家を継ぐ。京王電気軌道株式会社(現・京王電鉄)社長として沿線の乗客誘致政策を積極化し、桜上水駅、聖蹟桜ヶ丘駅、高幡不動駅などの駅名変更を行う。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は多磨霊園にて撮影。


佐藤尚武 。1882年10月30日 – 1971年12月18日、 外交官・政治家。
大阪府出身。弘前藩士・田中坤六の二男。外交官・佐藤愛麿の養子となる。国際連盟帝国事務局長、外務大臣、駐ソビエト連邦大使等を勤める。国連総会退会時に松岡洋右とともに議場を退席。家紋は長門沢瀉紋。谷中霊園にて撮影。


高碕達之助 。1885年2月7日 – 1964年2月24日、 政治家・実業家。
大阪府高槻市で百姓兼紺屋に7人兄弟の3番目として出生。読みは、たかさきたつのすけ。電源開発総裁、満洲重工業開発総裁を務めた後に政治家に転身し、通商産業大臣、経済企画庁長官、科学技術庁長官などを歴任。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


宮崎郁雨 。1885年4月5日 – 1962年3月29日、 歌人。
新潟県北蒲原郡出身。本名は宮崎大四郎。石川啄木夫人の義弟。石川啄木の死後、函館図書館啄木文庫を設立。主著は『函館の砂-啄木の歌と私と-』。函館厚生院相談役を務める。家紋は丸に抱き沢瀉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


飯田蛇笏 。1885年4月26日 – 1962年10月3日、 俳人。
山梨県東八代郡出身。大地主で旧家の長男。本名は飯田武治。読みは、いいだだこつ。河東碧梧桐に師事。伝統的俳句の立場から自然風土に根ざした俳句を提唱し、俳誌『雲母』を主宰した。画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に立ち沢瀉紋。


甲賀三郎 。1893年10月5日 – 1945年2月14日、 推理作家。
滋賀県蒲生郡日野町出身。生家は、甲賀郡水口藩の藩士であった井崎家。本名は春田能為。読みは、こうがさぶろう。江戸川乱歩と並び本格派の探偵小説に取り組んだ。代表作は「琥珀のパイプ」「支倉事件」など。家紋は一重亀甲に立ち沢瀉紋。


中野重治 。1902年1月25日 – 1979年8月24日、 詩人、小説家。
福井県坂井市出身。読みは、なかのしげはる。堀辰雄らと「驢馬」を創刊。共産党に入党するが、転向。「村の家」は転向文学の代表的作品となる。その他の代表作は「歌のわかれ」「むらぎも」等。家紋の丸に立ち沢瀉紋は坂井市立丸岡図書館にて教えていただく。


市川小太夫(2代) 。1902年1月26日 – 1976年1月9日、 歌舞伎俳優。
東京浅草出身。読みは、いちかわこだゆう。本名は、喜熨斗光則。初名は、市川 蝙蝠。屋号は沢潟屋。2代目市川段四郎の5男。舞踊琴吹流を創始。著書に「吉原史話」がある。家紋は七宝沢瀉紋と蝙蝠に喜熨斗文字紋。画像は寛永寺霊園にて撮影。


古川緑波 。1903年8月13日 – 1961年1月16日、 コメディアン。
男爵・加藤照麿の六男として東京市麹町区に生まれ、満鉄役員の古川武太郎の養子となる。浅草で徳川夢声らと劇団「笑の王国」を旗揚げた。榎本健一とはしばしば比較され、「エノケンロッパ」と並び称せられる。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


片岡千恵蔵 。1903年3月30日 – 1983年3月31日、 俳優。
群馬県新田郡藪塚本町に生まれる。本名は植木正義。読みは、かたおかちえぞう。戦前、戦後を通して時代劇人気を支えた剣戟スター。代表作は『赤西蠣太』『宮本武蔵』『大菩薩峠』等。家紋は丸に立ち沢瀉紋。千恵蔵印麻雀牌の沢瀉牌より判断。


瀧口修造 。1903年12月7日 – 1979年7月1日、 美術評論家。
富山県婦負郡寒江村大塚出身。3人姉弟の長男。近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱。治安維持法違反容疑で特高に逮捕された。家紋は二つ雁に葉沢瀉紋。墓所の写真にて確認。


伊藤整 。1905年1月16日 – 1969年11月15日、 評論家、詩人。
北海道松前郡出身。読みは、いとうせい。息子の伊藤滋は都市計画家。20世紀日本文学の重要な文芸評論家の一人。私小説的文学の理論化を目指す。代表作は『鳴海仙吉』『若い詩人の肖像』など。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


水田三喜男 。1905年4月13日 – 1976年12月22日、 政治家。
千葉県曽呂村出身。水田家は400年ほど前に讃岐から移住。祖父・竹蔵、父・信太郎はいずれも村長。読みは、みずたみきお。大蔵大臣を数度に渡って務めた戦後日本の代表的な財政家。城西大学の創立者。家紋は沢瀉に水。画像は護国寺の墓所にて撮影。


赤尾好夫 。1907年3月31日 – 1985年9月11日、 出版人、放送人。
山梨県東八代郡英村出身。歐文社(現在の旺文社)を設立。文化放送や日本教育テレビ(現在はテレビ朝日)を創業。放送大学の設立にも関与。日本メディア界の発展に偉大な貢献をする。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


藤枝静男 。1907年12月20日 – 1993年4月16日、 作家。
静岡県藤枝出身。本名は勝見次郎。『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、『愛国者たち』で平林たい子文学賞、『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に立ち沢瀉紋。


菊田一夫 。1908年3月1日 – 1973年4月4日、 劇作家・作詞家。
神奈川県横浜市生まれ。本名は菊田数男。戦後、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルの音楽を手がけ多くのヒット作品を世に送り出した。代表作は「鐘の鳴る丘」「君の名は」。家紋は立ち沢瀉紋。画像は上川霊園にて撮影。


飯沢匡 。1909年7月23日 – 1994年10月9日、 演出家、小説家。
和歌山市出身。本名は伊沢紀。読みは、いいざわただす。父親は官僚政治家・伊沢多喜男。いわさきちひろ絵本美術館初代館長。代表作はNHKの子供番組「ブーフーウー」脚本等。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


八木義徳 。1911年10月21日 – 1999年11月9日、 作家。
北海道胆振国室蘭郡室蘭町出身。有島武郎とドストエフスキーに心酔し、横光利一に師事。「劉広福(リュウカンフー)」で第19回芥川賞受賞。代表作は『母子鎮魂』、『私のソーニャ』、『摩周湖』、『風祭』等。家紋の立ち沢瀉紋は中野区・松源寺にて撮影。


玉ノ海梅吉 。1912年11月30日 – 1988年10月23日、 大相撲力士。
長崎県東彼杵郡出身。本名は、蔭平梅吉。二所ノ関部屋所属。最高位は東関脇。廃業後は、解説者として様々な批評と名台詞で人気を博した。また、第33回NHK紅白歌合戦では審査員を務めた。家紋の丸に立ち沢瀉紋は墓所写真にて判断。


横井庄一 。1915年3月31日 – 1997年9月22日、 元日本兵。
愛知県海部郡富田村出身。大東亜戦争のため再召集され、満洲を経て、グアム島の歩兵第38連隊に伍長として配属。太平洋戦争終結から28年目、グアム島で地元の猟師に発見された。家紋の丸に立ち沢瀉紋。画像は、名古屋の行雲寺の墓所にて撮影。


三遊亭歌笑(3代) 。1917年9月22日 – 1950年5月30日、 落語家。
東京都西多摩郡五日市町出身。本名は、高水治男。 読みは、さんゆうていかしょう。自作の新作落語で活躍。終戦後、「爆笑王」「笑いの水爆」と呼ばれ一世を風靡した。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は武蔵五日市の玉林寺の墓所にて撮影。


内田るり子 。1920年8月8日 – 1992年5月1日、 声楽家。
東京出身。本名は内田留里子。父は応用化学者の内田壮。童謡歌手として『待ちぼうけ』『雨降りお月』等を歌う。国立音楽大学教授、日本歌謡学会理事、東洋音楽会監事も務める。家紋は沢瀉に水。この略歴では歴史が眠る多磨霊園を参照いたしました。


鶴見俊輔 。1922年6月25日 – 2015年7月20日、 評論家、哲学者。
東京市麻布区出身。旗本水谷氏備中布賀知行所代官鶴見家の子孫。父は政治家・鶴見祐輔。終戦後、丸山真男達と共に『思想の科学』を創刊。ベ平連九条の会結成にも参加するなど戦後左翼言論人として活躍。画像は多磨霊園の鶴見家墓所にて撮影。


川本喜八郎 。1925年1月11日 – 2010年8月23日、 人形作家。
東京府出身。日本アニメーション協会名誉会長。NHK人形劇『三国志』、NHK『人形歴史スペクタクル 平家物語』、『死者の書』などの人形美術、監督を担当。家紋の丸に立ち沢瀉紋は、長野県飯田市にある「川本喜八郎人形美術館」にて確認。


天知茂 。1931年3月4日 – 1985年7月27日、 俳優。
愛知県名古屋市出身。本名、臼井登。ニヒルの代表格で死後20年以上経っても「ニヒルといえば天知茂」といわれている。代表出演作は『ザ・ガードマン』『非情のライセンス』等。家紋は丸に抱き沢瀉だが、これは旗本・水野十郎左衛門の子孫だからか。


黒柳徹子 。1933年8月9日 – 、 女優、司会者。
東京市赤坂区乃木坂出身。テレビ放送開始以来50年以上にわたり第一線で活躍してきた日本テレビ史を代表するタレント。30年以上続く日本初のトーク番組『徹子の部屋』の司会。代表著作『窓ぎわのトットちゃん』。家紋は三つ追い沢瀉紋。


大橋巨泉 。1934年3月22日 – 2016年7月12日、 タレント、評論家。
東京府東京市本所区両国出身。祖父は江戸切子の名人。本名は、大橋克巳。放送作家、エッセイスト、馬主、元政治家(参議院議員)、実業家でもある。代表出演番組は『クイズダービー』『11PM』『世界まるごとHOWマッチ』等。家紋は丸に立ち沢瀉紋


若林正俊 。1934年7月4日 – 、 政治家。
長野県長野市出身。安倍内閣で環境大臣、農林水産大臣。不祥事を起こした農林水産大臣の後のリリーフ役としてのイメージが定着。2009年9月16日に行われた内閣総理大臣指名選挙で自民党の首班候補となる。家紋は丸に抱き沢瀉紋。紋付姿にて確認。


野沢那智 。1938年1月13日 – 2010年10月30日 、 声優、俳優。
東京府出身。本名、野沢那智。読みは、のざわなち。姪にタレントの野沢直子がいる。アラン・ドロンをはじめとして、アル・パチーノ、ダスティン・ホフマン、ロバート・レッドフォードなど数多くの吹替えを担当した。家紋は丸に抱き沢瀉紋。


市川猿之助(3代) 。1939年12月9日 – 、 歌舞伎役者。
東京府出身。三代目市川段四郎の長男。本名は喜熨斗政彦。2代目・市川猿翁。香川照之は、最初の妻(浜木綿子)との間の息子。スーパー歌舞伎という新境地を切り開く。定紋は澤瀉(画像は八重花沢瀉)、替紋は三ツ猿。画像は寛永寺墓地にて撮影。


石立鉄男 。1942年7月31日 – 2007年6月1日、 俳優。
神奈川県横須賀市出身。家業は養鶏業。1970年代を中心に人気を博し『水もれ甲介』『気まぐれ天使』などユニオン映画制作のドラマに多数主演。代表出演作『パパと呼ばないで』『おくさまは18歳』『噂の刑事トミーとマツ』等。家紋は丸に立ち沢瀉紋。


羽田健太郎 。1949年1月12日 – 2007年6月2日、 作曲家。
東京都出身。通称、ハネケン。東京音楽大学客員教授。岩崎宏美の『1mmの幸せ』などを作曲。また、『サライ』の編曲も手がける。音楽番組『題名のない音楽会21』の司会としても有名。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は、麻布善福寺の墓所にて撮影。


都一中 (12代目) 。1952年12月23日 – 、 江戸常磐津一中節家元。
東京都出身。本名は、藤堂誠一郎。読みは、みやこいっちゅう。6歳より父・常磐津子之助に指導を受ける。2代目常磐津文字蔵を襲名。1991年に、12代目都一中を襲名し家元となる。画像は護国寺の都一中累代の墓所の上り藤に沢瀉鶴紋の沢瀉鶴部分。


郷ひろみ 。1955年10月18日 -、 歌手。
福岡県出身。本名は、原武裕美。「男の子女の子」でデビュー。代表曲は、「哀愁のカサブランカ」「よろしく哀愁」「GOLDFINGER ’99」等多数。1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」によれば家紋の丸に立ち沢瀉紋だが原武家墓所には丸に五三桐がある。


渋谷哲平 。1961年5月5日 -、 俳優・元アイドル歌手。
神奈川県横浜市出身。本名は、澁谷惠紀。「朝日に向かって」で歌手デビュー。第20回日本レコード大賞新人賞受賞。その後、俳優に転身し多数のドラマ、映画に出演。家紋の抱き沢瀉紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


水野由加里 。1979年11月22日 – 、 タレント、リポーター。
大阪府出身。読みは、みずのゆかり。かつて、大阪パフォーマンスドールの第1次追加メンバーであった。現在は、グリーンチャンネル(競馬チャンネル)のレポーターとして活躍。家紋は立ち沢瀉紋。家紋画像は自身のブログに掲載した紋付の家紋。


三好絵梨香 。1984年11月8日 – 、 アイドル。
北海道札幌市手稲区出身。読みは、みよしえりか。2004年に、石川梨華、岡田唯と共に美勇伝を結成。その後、映画、舞台、テレビなどで活躍。フットサルチーム『サッポロチェルビーズ』の一員でもある。家紋の丸に立ち沢瀉紋は自身のブログ記事より判断。


勢翔太 。1986年10月11日 – 、 大相撲力士。
大阪府交野市出身。本名は、東口翔太。身長194cm、体重169kg。血液型はB型。18歳の時に伊勢ノ海部屋に入門。新入は2012年3月場所。最高位は東小結(2016年1月場所)。家紋の井桁に立ち沢瀉紋は、十両昇進時の化粧まわしから判断。


三沢伊兵衛 。亨保時代 、 侍。
山本周五郎の短編小説『雨あがる』の主人公。同小説は、2000年に寺尾聡(画像)主演で映画化された。元・越後長岡藩の剣術指南役。役柄は、武芸の達人でありながら、人の好さが災いして仕官がかなわない武士。家紋は丸に立ち沢瀉紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

「沢瀉紋 -武人の心に芽生えた一時の優しさを表す紋- 福島正則、高橋是清、黒柳徹子...」への2件のフィードバック

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