恵比寿の由来と柏紋

恵比寿神社に行ってきました。

恵比寿神社は、JR恵比寿駅西口近くの吉野家の先の道を右に折れると正面にあります。

こじんまりとしていて感じのいいスポットになっています。

神社内の由緒書によると、元々は、大六天を奉る天津神社という神社だったのが、戦後の区画整理でこの場所に移された時に、恵比寿様(写真一番上)も合祀して名前も恵比寿神社になったといいいます。
ちなみに、この大六天という神様は「他化自在天」ともよばれますが、他人の幸せを奪う法力を持つという一種のタタリ神。一方、恵比寿様は「ヱビス顔」でも知られる幸せの神様。正反対の神様を一緒にしてしまう強引さが面白いですよね。

でも、この恵比寿様は、イザナキとイザナミの神が2番目に生んだ子(ヒルコ)だったんですが足が萎えていた為、捨てられてしまいます。後の人々がそれを哀れんで神として奉ったそうですが、あのヱビス顔の影に結構、残酷な物語が潜んでいるんですね。そう言えば、この恵比寿神社の勧進元の西宮神社は、正月に神社内を徒競走する「福男選び」(写真二番目)で有名ですが、御足の悪い恵比寿様にこの神事を捧げるっていうのも、残酷っていえなくもないですよね。

さて、話を戻しますが、恵比寿様が合祀されたのは、ここの地名が恵比寿と名づけられた事に由来しています。

元々、この恵比寿という地名は、ヱビスビールからつけられたといいます。
明治20年、日本麦酒醸造会社が設立され、この地に工場を建設。3年後にヱビスビールを発売。
明治34年に恵比寿ビール専用出荷駅「恵比寿停車所(現在のJR山手線)」が開設され、後に周辺の地名も「恵比寿」となったそうです。

ちなみに、私の母方の祖父は、この日本麦酒醸造会社でサラリーマンをしていましたが、私自身は下戸です。

さて、この恵比寿様を象徴する神紋が神社の本堂の正面戸にも飾ってあったあった「柏」の葉です。(写真三番目)

この柏の葉は、神様に食物を捧げる際の皿かわりとして神聖なものとされていました。そこから、伊勢神宮の久志本家、熱田神宮の千秋家、宗像大社の宗像家、吉田神道の卜部家等、古来、神道を守ってきた家の紋所となっています。

勿論、柏は、ヱビスビールのラベルの恵比寿様(写真一番上)の胸にも付いています。こちらは、3枚の柏の葉の間にツルが描かれていて、一般に「蔓柏」といわれています。

この他、柏紋はいろんなバリエーションがあります。例えば、落語家の桂三枝師匠の紋所は「結び柏」(写真四番目 三枝師匠手拭い)、NHKの大河「功名が辻」で有名になった山内家は葉が細い「土佐柏」(写真五番目 山内家宝物資料館HPより)、真珠王で御木本幸吉は「三つ追い柏」(写真六番目、青山墓地にて撮影)。こんなところが柏紋の有名所でしょうか。

まさむね

鶴丸の悲しい歴史

JALの飛行機から鶴丸のマークが消えるという。

今月で最後とのこと。
もともとこのマークは、家紋を下敷きにしたデザインなんだよね。

じゃあ、この鶴丸の家紋をつけた有名人を見てみよう。

まずは、足利将軍家に正妻を出し続けた、日野家。足利義政の夫人、日野富子が有名だ。
政治には全く興味のなかったオタク将軍の義政。ある時はケツを叩き、ある時は任せていられないとばかりに政務を取り仕切る。一般に、金儲け主義、悪女の典型とされる。
NHK大河「花の乱」(1994年放映)では三田佳子が演じていました。

また、戦国時代では、織田信長の小姓・森蘭丸で有名な森家の家紋もこの鶴丸。美男子だったという伝説と、本能寺の変で、かない最期を遂げたせいで、なんとなく有名。

そして近年では、コンプレックス文学の最高峰・太宰治(実家の津島家)も鶴丸紋。確認はしていないが、太宰治全集には、この鶴丸の箔押しがついているとか。太宰の最期も玉川上水への入水自殺だった。

いずれにしても、悲しい運命の人が多いよね。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(2)

前回、豊臣秀吉の紋所が桐紋との話をしたが、秀吉の象徴として瓢箪を思い浮かべる人も多いだろう。

これは、家紋というよりも戦場での馬印に使われたようだ。戦に勝つたびにその瓢箪が増えていったとの伝説(千成瓢箪伝説)もあるが真偽はわからない。しかし、当時、秀吉といえば、瓢箪というイメージは一般に共有されていた。

一方、家康は当時の武家にはめずらしく教養のある人で、幼少の頃から様々な古典文学に慣れ親しんでいたという。

それを考慮に入れると家康が東国の王として桐紋を拒否し続け、葵紋にこだわった理由が見えてくる。秀吉の生前、主に西日本は秀吉の勢力下だったが、その象徴の瓢箪(=その花は夕顔)に対抗する理由から、家康は、葵にこだわったのではないか。

というのも、平安時代の宮中で、に七夕に行われた相撲会では、古来より、西からの力士は夕顔を、東からの力士は葵を髪かざりとして土俵に上がっていたという。(ちなみに、花道という言葉の由来はここから出ている。)

そんな故事が、葵紋にこだわった家康の頭をかすめていたというのが、俺の想像だよ。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(1)

徳川家の家紋はご存知、葵である。

NHKの大河ドラマ「篤姫」では薩摩の島津家の分家から将軍の御台所まで上り詰める話であるが、その島津家の本貫は宮崎だったとの説もある。その昔、源頼朝から地頭として派遣された惟宗忠久が、宮崎県都城市あたりの「島津荘」を領地としたのが島津家の始まりというのだ。(ちなみに、この忠久は頼朝のご落胤との噂もある)

だとすると、宮崎から出てきて、徳川家に入り葵紋をつけたという意味で、篤姫に、宮崎あおい(葵)が抜擢された深層が見えてこようというものだ。まぁいつもながら、かなり苦しい説だが...

さて、この徳川政権の基礎を築いた徳川家康は、朝廷からの懐柔策見え見えの桐紋下賜を、何度も断り続けたという。
織田信長、豊臣秀吉はそういうことはなかった。彼らはもらえるものはもらう、利用できるものは利用するのだ。
例えば、愛知県長興寺にある信長の肖像の紋は、織田木瓜でも、揚羽蝶でも無い。正親町天皇から下賜された五三の桐紋だ。

また、秀吉は晩年にすべての自分関連グッズ(身の回りの小物、着物等)にいわゆる太閤桐という独自紋をつけている。成り上がりはいつの世もブランドを志向するということだろうか。

しかし、その後、この桐紋は最も正統な紋所として、脈々と受け継がれ、特に西日本の家の多くが桐を家紋としている。
そして、現在は、日本政府の象徴にもなっている。

木村拓也主演の「CHANGE」の冒頭では、この桐紋(五七の桐)がCHANGEというロゴにモーフィングするシーンが放送されているが、それを見るたび、桐紋の歴史が脳裏をよぎるのであった。

つづく

まさむね

桜(4)中世における死霊の宿り木

ねがわくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ (西行)

自分が死ぬんだったら、満開の桜の木の下で死にたいってことでしょうか。これは同時に、桜の花になって生まれ変わりたいっていうのも深読み出来るんじゃないかな。桜の花を生まれ変わりの象徴として、あるい、桜の木を生まれ変わりの霊の宿り木として観念するのが、中世の特徴からね。

例えば、世阿弥の能「忠度」でも、死霊がよみがえるために満開の桜の木を必要としている。また、「西行桜」では、桜の木を宿り木として、老人の精をよみがえらせる。

桜の木は時として、死者を想起させる「幽玄」の場(この世と霊界との通り口)として現れるんだよ。

そういえば、隅田川沿岸にならぶ桜並木は明暦の大火の被災者を追悼するために、徳川吉宗が植えさせてたらしいし、上野の山は彰義隊で死んだ幕府側の勇士のために桜を植えたという。

近代に入ってからは、「桜の木の下に死体が埋まっている」と書いた梶井基次郎が有名だが、その観念は、ORANGE RANGEの「花」まで続いているのかもしれない。

生まれ変わってもあなたのそばで花になりたい...

※この話題に関して、「家紋の文化史―図像化された日本文化の粋」(大枝 史郎)を大いに参考にさせていただきました。

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桜(3)源氏にとって凶兆の桜

日本文学に燦然と輝く金字塔「源氏物語」。
ここでも桜は美しく描かれているが、同時に不幸への伏線としても描かれている。

最初は「花宴」の巻。桜見の宴会で酔った源氏は、ライバルの右大臣家の箱入り娘・朧月夜との一夜を過ごしてしまう。そして、結局は、この不義が原因で、後の須磨、明石へ流される事となるのだ。

次は、「若葉上」の巻。桜満開の下で蹴鞠をしていた柏木(太政大臣の子)フトしたアクシデントで源氏の正妻・女三宮を見てしまう。そして、結局は、柏木は女三宮をはらませてしまう。このことが、その後に源氏に精神的ダメージを与える。

おそらく、この桜=凶兆という観念は当時の貴族達にも共有されていたんじゃないかな。

4へつづく

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桜(2)美と不安-紀貫之からコブクロまで

昨日、桜が国家主義的象徴だって話をしたけど、今回は日本の歴史における桜がどのようにイメージされてきたのかを追ってみよう。

まず、古事記。桜といえば、日本神話の中ではコノハナサクヤ姫に象徴される。ニニギのミコト(アマテラスの孫で、天皇の先祖)が、天孫降臨すると、まず、こ美しい姫に一目ぼれをして、結婚を申し込む。
姫の父はもう一人、姫の姉(石の精・石長姫)も一緒に嫁として嫁がせるが、ニニギはそれを拒否。
そのせいで、天皇の子孫は、美と引き換えに永遠の命を失ったという。
ここで、桜は、美の象徴であるとともに、死の象徴でもあるんだよね。

その後、平安時代に入ると、和歌で花と言えば、梅ではなく、桜を指すようになる。

久かたの光のどけき春の日にしず心無く花の散るらむ(紀友則)
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける(紀貫之)

風に舞い散る花こそ、最も日本らしい美意識、そして日本人の悲しい心情を現すというのはこの平安の頃に生まれたんだよね。実はそれが、最近のJ-POPにも引き継がれているんだ。そして、桜の歌を作ると日本人は咲くところじゃなくて散るところを歌にすると国文学者の池田弥三郎先生が言っていたがまさにそうだ。

さくら舞い散る中に忘れた記憶と君の声が戻ってくる... 「さくら」(ケツメイシ)
さくらの花びら散るたびに届かぬ思いがまた一つ...「桜」(コブクロ)
さくらさくらただ舞い落ちるいくつか生まれ変わる瞬間を信じ... 「さくら」(森山直太朗)

3へつづく

まさむね

桜(1)その国家主義的象徴

武士道という観念は、武士が具体的な戦闘で死ぬ必然性が無くなった江戸時代に入ってからイデオロギー化した。
その武士道を精神運動として美学的にサポートしたのが本居宣長をはじめとする国学者であった。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 (本居宣長)

靖国神社の遊就館に入ると最初に飛び込んできたのがこの和歌である。この頃から、桜とナショナリズムが融合していったんだろうな。そして、武士道というイデオロギーもそれに近いところに存在していた。

実際は、江戸時代の後期には、武士階級はほとんどが事務員と化していた。また、仕事の無い旗本なんかは隅田川に船を浮かべて、桜を見ながら粋だとかなんとか言っていたんだろう。
だから、彼らに実際の戦闘行為が出来たかというとはなはだ怪しい。例えば、現代の公務員にいきなり刀や槍を持たせて戦えというのと同じように、当時の武士階級に、無理やり、先祖伝来の具足を付けさせて戦場に駆り出したのが、長州征伐や鳥羽伏見の戦いだったんだろうね。
そしてそこでは、多くの直参、旗本達は愚痴を言いながら、アリバイ作りのためにとりあえず、戦場に赴いたんだと思う。

逆に、幕末の戦闘において、奇兵隊とか新撰組とかの非武士階級の方が武勇をとどろかせたのは、むしろ彼らのほうがより、意識的に「武士とは何か」「戦うとは何か」「そして何のために死ぬのか」を考えるポジションにあったからだ。

ところが、その答え、一体誰のために死ぬのかという思想が、この幕末から明治維新にかけて大きくかわったんだよね。江戸時代にあった家のために死ぬ、藩のためにしんで名誉を残すというロジックが、この時期、国家のために死ぬというイデオロギーにスリ替わったんだよね。

その、国のためにパッと散ってこそ、大和心という思想の象徴として、山桜紋が国家主義的戦略組織の印として散見されるようになる。

陸軍、海軍、学習院、靖国神社、そして大相撲、今でもこれらの組織の紋所には山桜が使われているんだ。
戦国時代より以前には、桜紋はほとんど広まらず、逆に「桜」は死霊を呼び寄せる、あるいは不吉な予兆として意識されていたのに、そういった日本の伝統は幕末>明治に強引に変わったんだよね。

2へつづく

まさむね

七曜は安産祈願

七曜紋は、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の七つの星を家紋にしたものとも、北斗七星を家紋にしたものとも言われている。後者は妙見信仰をもとにしている。

一般に星は、海の民や狩猟民の守りである。農耕民と違って、それらの民は星の運行、方角を性格に把握する事がが生死を分けるほど大事だと考えられていたからだ。志摩の九鬼氏は七曜を家紋としているが、戦国時代には日本一の水軍として織田信長に従った。また、東北地方南部の星宿信仰のある地域にもこの家紋を持つ者が多いが、それらの人々は元々狩猟民だったのかもしれない。

さて、この七曜は江戸時代以降は、七面大明神信仰と結びつき、何故か安産の守り神ともなる。田沼意次の父意行は子供に恵まれなかったが、出産・安産守りの七面大明神に祈誓をかけ、意次が生まれた。田沼家はここから七曜を家紋にしたと伝えられている。

ちなみに、映画「恋空」でも安産を願う彼氏(三浦春馬)が七曜が入った安産守りを彼女に買っていくシーンがある。

まさむね

桔梗紋は不吉

桔梗紋という紋所がある。
有名な武将では、太田道灌、明智光秀がいる。
また、幕末から明治にかけては、同紋の坂本龍馬や大隈重信が活躍した。

しかし、これらの歴史上の人物は、みんないいところまで行くんだけど、暗殺、敗死といった不幸な結末を迎えている。(ただし、大隈重信は、暗殺されるが命は取り留める)

最近では、NOVAの社章この紋所が使われていたので、なんかあったら大変だと思っていたが、突然の営業停止に追い込まれたというニュースが入ってきた。

取り越し苦労かと思うが、今年に入って、ある生命保険会社のポスターに氷川きよしがこの桔梗紋をつけて笑顔で写っていた。ちょっと気になる...

まさむね