五瓜紋 -五角形の木瓜紋の外輪紋- 織田信長、吉田松陰、木村拓哉...


木瓜紋の中で特に、円を5つで割った外輪を持つ紋を五瓜、またその中に唐花がある紋を五瓜紋と称する。

この紋の意味は、基本的には木瓜紋と同じだが、輪の中にバランスがよく、別の紋が入れやすいので広まった。

全国では、19位の普及。
地域別では、福島県が7位、長崎県で8位というのが多いところ。
逆に、宮崎県ではベスト30以下。長野県で27位、高知県と鹿児島県では26位だ。

使用している有名人は以下。


大村純忠 。1533年 – 1587年6月23日、 大名。
実父は有馬晴純。肥前の大村純前の養嗣子となり家督を継ぐ。大村氏の先祖は藤原純友。キリスト教の宣教師から洗礼を受け日本最初のキリシタン大名となった。家紋の大村瓜は池上本門寺にある旧大村藩主大村純煕の婿養子・大村純雄の墓所にて撮影。


織田信長 。1534年5月12日 – 1582年6月2日、 戦国武将。
尾張国出身。古渡城主・織田信秀の次男または三男。戦国時代から安土桃山時代にかけて、日本史に最大の影響を残した武将であり、戦国大名。重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い、自刃に追い込まれた。画像は陣羽織に描かれた織田瓜紋。


有馬晴信 。1567年 – 1612年6月5日、 大名。
肥前有馬氏当主。有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られ大友宗麟大村純忠と共に天正遣欧使節を派遣。関ヶ原の合戦では東軍に寝返り小西行長の居城・宇土城を攻撃。家紋は左三巴と五瓜に剣花菱紋。画像は谷中霊園の有馬道純の墓所にて。


林羅山 。1584年 – 1657年3月7日、 儒学者。
京都四条新町出身。父は加賀国の郷士。徳川秀忠の侍講として『寛永諸家系図伝』などの伝記・歴史を編纂、「武家諸法度」などの撰定、朝鮮通信使の応接を行う。定紋は五瓜に剣香い桔梗紋、裏紋は抱き柊紋。女紋としては変り三つ割り沢瀉紋が継承されている。


蒲生君平 。1768年 – 1813年7月31日、 儒学者、尊王論者。
下野国宇都宮新石町出身。祖先は会津藩主蒲生氏郷という家伝あり。林子平高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる。代表作『山陵志』。宇都宮市の蒲生神社に祭神として祀られている。家紋は五瓜紋。画像は、谷中・臨江寺にて撮影。


大田垣蓮月 。1791年2月10日 – 1875年12月10日、 歌人・陶芸家。
京都の生まれ。読みは、おおたがきれんげつ。父は伊賀国上野の城代家老・藤堂良聖。自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りで施した作品は蓮月焼と呼ばれる。代表的歌集は『海人の刈藻』。家紋は陰五瓜に陰蔦。蔦は父方・藤堂家の流れを伝える。


吉田松陰 。1830年8月4日 – 1859年10月27日、 思想家、教育者。
萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。私塾松下村塾にて、久坂玄瑞高杉晋作を初め伊藤博文品川弥二郎山縣有朋吉田稔麿前原一誠等維新の指導者となる人材を育てる。安政の大獄により斬首刑に処される。享年30歳。


山田信道 。1833年12月13日 – 1900年3月11日、 官僚、政治家。
肥後熊本藩出身。尊皇攘夷思想に惹かれて鹿児島に下る。明治維新後に新政府に入り、江刺県権知事、島根県令、福島県令、大阪府知事、京都府知事、農商務大臣(松方内閣)などを歴任した。家紋は五瓜に唐花紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


井関盛良 。1835年 – 1890年2月13日、 官僚。
伊予国出身。読みは、いぜきもりよし。神奈川県知事、外務大丞、名古屋県権令、島根県令を務める。神奈川県知事時代に、民間人に呼びかけて横浜毎日新聞を創刊させた。家紋は抱き鬼柏紋に五瓜に唐花紋。画像は五瓜に唐花紋部分。谷中霊園の墓所にて撮影。


松尾儀助 。1836年 – 1902年1月15日、 実業家。
肥前国出身。読みは、まつおぎすけ。ウィーン万国博覧会に茶商として参加。日本パビリオン内に日本庭園を造り、日本のアピールを行う。佐野常民の指名で貿易会社起立工商会社を立ち上げる。家紋の五瓜に剣片喰紋は賢崇寺の松尾家墓所にて撮影。


近藤長次郎 。1838年4月1日 – 1866年2月28日、 志士。
土佐国出身。高知城下の饅頭商人の息子。後に近藤長次郎、上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人等と名乗る。坂本龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立。長州藩に小銃を売り渡している。花菱紋、五瓜に剣片喰紋、卍紋が墓所に掘られている。


坂田警軒 。1839年6月15日 – 1899年8月15日、 漢学者、政治家。
備中国川上郡九名村出身。肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅竹添進一郎と共に木門の三才と称される。岡山藩家老池田氏の賓師から第2代興譲館(岡山藩藩校)館長に就任。家紋は五瓜に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


松本楓湖 。1840年10月9日 – 1923年6月22日、 日本画家。
常陸国河内郡出身。本名は敬忠。欽定教科書『幼学綱要』全7巻において61図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。日本美術院の創設に参加。歴史画に長じ「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」を発表。家紋は五瓜に丸に二引両。画像は谷中・全生庵にて撮影。


名村泰蔵 。1840年11月24日 – 1907年9月6日、 司法官。
長崎市出身。島村家に生まれたが後に幕臣で蘭語通詞・名村八右衛門の養子となり泰蔵と改名。欧州視察の際に各国の法律を調査しフランスの法学者ボアソナードを顧問として招聘。フランス法導入に尽力。家紋は五瓜に唐花紋。画像は青山霊園にて撮影。


有地品之允 。1843年4月14日 – 1919年1月17日、 海軍軍人。
長州藩出身。藩士で武術指南役・有地藤馬の長男。読みは、ありちしなのじょう。海軍中将、貴族院議員、男爵。弟は海軍中将の梨羽時起。除隊後は、枢密顧問官、帝国海事協会初代理事長も歴任。家紋は五瓜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


奥保鞏 。1847年1月5日 – 1930年7月19日、 陸軍軍人。
豊前国小倉出身。読みは、おくやすかた。小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男。佐賀の乱、西南戦争、日清戦争、日露戦争等に参戦。薩長・皇族以外の出身者としてはじめて元帥陸軍大将となる。家紋は中陰五瓜に唐花紋。画像は青山霊園にて撮影。


乃木希典 。1849年12月25日 – 1912年9月13日、 陸軍軍人。
江戸出身。長府藩の藩士、乃木希次の長男として上屋敷に出生。東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ聖将と呼ばれた。最終階級は陸軍大将。明治天皇の後を追って殉死。家紋は四つ持ち合い井桁、五瓜、市松四つ目結。青山霊園にて撮影。


角田秀松 。1850年3月25日 – 1905年12月13日、 海軍軍人。
会津藩出身。藩医、角田良智の二男。戊辰戦争で朝敵とされた父の蝦夷地赴任に同行。会津藩出身者として初めて海軍将官となった。日露戦争時には竹敷要港部司令官を務める。最終階級は海軍中将。家紋は五瓜に右三つ巴紋。青山霊園にて撮影。


山本信行 。1852年 – 1904年9月24日、 陸軍軍人。
長州国出身。読みは、やまもとのぶつら。日露戦争では、鴨緑江会戦から参戦。歩兵第1旅団長となり第3軍隷下として旅順攻囲戦に参加したが、総攻撃の前哨戦で戦死した。最終階級は陸軍少将。家紋の五瓜に花菱紋は、「華族家系大成」による。


有坂成章 。1852年4月5日 – 1915年1月12日、 陸軍軍人。
周防国岩国出身。長州藩・士木部左門の二男。読みは、ありさかなりあきら。三十年式歩兵銃の開発に成功。最終階級は陸軍中将。家紋は五瓜に唐花紋。NHKドラマ「坂の上の雲」では、矢島健一が演じた。墓画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


津田三蔵 。1855年2月15日 – 1891年9月29日、 警察官。
武蔵国豊島郡下谷出身。伊賀国上野の津藩藩士の子。1891年5月11日、来日中のロシア帝国皇太子ニコライの通る沿道警備の現場で、ニコライをサーベルで斬りつけて負傷させた、いわゆる大津事件を起こす。墓域内隣の墓の家紋が、五瓜に唐花紋。


秋元興朝 。1857年5月26日 – 1917年4月23日、 華族。
戸田忠至(宇都宮藩家老)の息子。旧館林藩主秋元礼朝の養子となる。読みは、あきもとおきとも。外務省書記生としてフランスの在パリ公使館勤務となる。後に伊藤博文の立憲政友会に加わる。家紋画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


野崎広太 。1859年6月19日 – 1941年12月2日、 茶人。
備中国賀陽郡庭瀬村出身。松永安左エ門益田孝とともに近代小田原三茶人の1人に数えられる。実業家としては、中外商業新報社取締役社長、三越社長、鐘淵紡績監査役を勤める。家紋は丸に五瓜に花菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて確認。


弘田長 。1859年7月14日 – 1928年11月27日、 医師。
土佐国幡多郡中村町出身。読みは、ひろたつかさ。土佐藩の貢進生に選ばれて上京。東京帝国大学医科大学教授。東京大学小児学教室の初代教授。幼少時の昭和天皇、秩父宮雍仁親王の侍医を務めた。家紋は五瓜に井桁紋。画像は雑司が谷霊園にて撮影。


河本重次郎 。1859年9月12日 – 1938年4月4日、 眼科医学者。
但馬国豊岡出身。読みは、こうもとじゅうじろう。東京大学医学部を首席で卒業。ベルリン大学に留学。医学博士の学位を始めて眼科医として受ける。日本の眼科を先進国の水準に近づけ、さらに発展させた。家紋は五瓜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


坪井正五郎 。1863年2月22日 – 1913年5月26日、 自然人類学者。
江戸出身。蘭学者・坪井信道の孫。読みは、つぼいしょうごろう。岩石学者・坪井誠太郎は長男。第5回内国勧業博覧会では学術人類館を発案。日本石器時代人=コロポックル説を主張したことで知られている。家紋は五瓜に唐花紋。画像は染井霊園にて撮影。


山下源太郎 。1863年8月26日 – 1931年2月18日、 海軍軍人。
山形県米沢市出身。米沢藩士山下新右衛門の次男。連合艦隊司令長官・海軍大将・正二位・勲一等・功三級・男爵。日露戦争時には対露作戦立案の中心的役割を負い、日本海海戦の完勝に貢献した。家紋は五瓜紋。青山霊園の墓所にて撮影。


津田梅子 。1864年12月31日 – 1929年8月16日、 教育者。
江戸牛込・南御徒町生まれ。津田仙(旧幕臣・東京府士族)・初子夫妻の次女。満6歳の時、最年少で岩倉使節団に随行して渡米。後に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立した。家紋は五瓜紋。青山霊園の父・津田仙の墓所にて撮影。


山本条太郎 。1867年11月6日 – 1936年3月25日、 実業家。
福井県武生市の生まれ。立憲政友会から衆議院議員当選5回。幹事長等歴任。後に南満洲鉄道株式会社総裁に就任。大胆な改革を行い満鉄中興の祖とも言われた。茶人としても知られる。家紋は五瓜に唐花紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


武藤信義 。1868年9月1日 – 1933年7月27日、 陸軍軍人。
佐賀藩出身。藩士・武藤信直の次男。教育総監・軍事参議官等を歴任。満洲における軍事・行政・外交を掌握して「これほど権力を掴んだ者は明治維新以来いない」と評された。最終階級は元帥陸軍大将。画像は護国寺の墓所にて撮影。


村岡長太郎 。1871年12月12日 – 1930年8月19日、 陸軍軍人。
佐賀県出身。日露戦争では第二師団参謀として出征。第1次バルカン戦争ではトルコ軍に従軍した。張作霖爆殺事件の首謀者とされ、同事件の責任をとり予備役に編入された。最終階級は陸軍中将。家紋は五瓜に唐花紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


津田左右吉 。1873年10月3日 – 1961年12月4日、 日本史学者。
岐阜県美濃加茂市下米田町出身。読みはつだそうきち。皇国史観を否定する津田史観は第二次世界大戦後の日本史学会の政治的主流となった。家紋の五瓜に唐花紋は美濃加茂市民ミュージアム所蔵の父・津田藤馬の陣笠の写真より判断。


川合玉堂 。1873年11月24日 – 1957年6月30日、 日本画家。
愛知県葉栗郡出身。本名は川合芳三郎。文展設立の際に審査委員に任命される。以後、国民的画家としての地位をゆるぎないものとした。代表作は「渓村春麗」「彩雨」「山水観月」「鵜飼い」など。家紋は、五瓜に剣花菱。画像は多磨霊園にて撮影。


福田徳三 。1874年12月2日 – 1930年5月8日、 経済学者。
東京神田生まれ。日本の経済学を開拓した経済学者。社会政策学派、新歴史学派として経済理論、経済史などを導入した。東京商科大学教授、慶應義塾大学教授、フランス学士院文科部外国会員等を歴任。家紋の五瓜に唐花紋は多磨霊園にて撮影。


建川美次 。1880年10月3日 – 1945年9月9日、 陸軍軍人。
新潟県新潟市で地方官吏・野崎美孝の三男として生まれ、同地方官吏・建川周平の養嗣子となる。読みは、たてかわよしつぐ。大政翼賛会総務、大日本翼賛壮年団長を務める。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に五瓜に唐花紋。画像は多磨霊園にて撮影。


西尾寿造 。1881年10月31日 – 1960年10月26日、 陸軍軍人。
鳥取県出身。鳥取県士族・西尾重威の四男。読みは、にしおとしぞう。教育総監、支那派遣軍総司令官。戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、1948年12月まで拘留された。最終階級は陸軍大将。家紋は五瓜に四つ目結紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


永田鉄山 。1884年1月14日 – 1935年8月12日、 陸軍軍人。
長野県諏訪郡上諏訪町出身。陸軍士官学校を首席で卒業。統制派の中心人物であったが派閥抗争に絡んで暗殺される。「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」と言われた。最終階級は陸軍中将。家紋は五瓜紋。画像は青山霊園にて撮影。


吉田善吾 。1885年2月14日 – 1966年11月14日、 海軍軍人。
佐賀県出身。農業、峰与八の四男。米屋、吉田祐次郎の養子となる。読みは、よしだぜんご。阿部内閣の海軍大臣に就任。米内内閣、第2次近衛文麿内閣でも留任した。最終階級は海軍大将。家紋は五瓜に唐花紋。画像は多磨霊園にて撮影。


古賀峯一 。1885年9月25日 – 1944年3月31日、 海軍軍人。
佐賀県西松浦郡出身。読みは、こがみねいち。第28代連合艦隊司令長官であったが太平洋戦争において殉職した。殉職後は特旨により元帥号を授与される。最終階級は海軍大将。家紋は五瓜に剣唐花紋。画像は多磨霊園の名誉霊域の墓所にて撮影。


木村篤太郎 。1886年2月7日 – 1982年8月8日、 政治家、剣道家。
奈良県五條町に生まれる。読みは、きむらとくたろう。幣原内閣の検事総長、吉田茂内閣で司法大臣、法務大臣、保安庁長官、防衛庁長官を務める。全日本剣道連盟初代会長。家紋は五瓜に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて撮影。


大塚博紀 。1892年6月1日 – 1982年1月29日、 空手家。
茨城県下館市出身。読みは、おおつかひろのり。昭和期を代表する空手家の一人であり近代空手の基礎を築いた。和道流空手道の開祖。自身が修行した柔術に空手を加味して和道流柔術拳法も開いた。家紋は五瓜に左三つ巴紋。画像は多磨霊園にて撮影。


市川忍 。1897年1月9日 – 1973年11月2日、 実業家。
茨城県出身。伊藤忠商事に入社後、大同貿易を経て、丸紅商店に移る。丸紅の初代社長に就任。「正・新・和」の精神で「丸紅」発展の基礎を築く。大阪商工会議所会頭となる。家紋は五瓜に右巴紋。画像は多磨霊園の墓所。


佐分眞 。1898年10月8日 – 1936年4月23日、 洋画家。
名古屋市出身。読みは、さぶりまこと。『貧しきキャフェの一隅』が帝展で特選を受賞。その年から3年連続特選を受ける。光風会を退会した1935年の翌年、東京のアトリエで自殺。没後に佐分賞が設定される。家紋は五瓜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


村山知義 。1901年1月18日 – 1977年3月22日、 小説家、画家。
東京市神田区末広町出身。父は海軍軍医。前衛美術団体マヴォ結成。今東光らと『文党』創刊。全日本無産者芸術連盟、日本民主主義文学同盟の結成に参加。小説「新選組」。絵本「おなかのかわ」。家紋は五瓜に平角紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


秋元不死男 。1901年11月3日 – 1977年7月25日、 俳人。
神奈川県横浜市出身。本名は秋元不二雄。西東三鬼らと「天香」を創刊。山口誓子の「天狼」創刊に参加。「氷海」創刊。妹は劇作家の秋元松代。息子の秋元近史は『しゃぼん玉ホリデー』を手がけたテレビプロデューサー。家紋は五瓜紋。


五所平之助 。1902年1月24日 – 1981年5月1日、 映画監督。
東京神田に生まれる。本名は五所平右衛門。島津保次郎の口利きで松竹に入社。日本最初の国産トーキー映画『マダムと女房』の監督をつとめる。代表作は『新雪』『挽歌』『伊豆の踊子』等。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章等を受章。家紋は五瓜紋。


大村主計 。1904年11月19日 – 1980年10月17日、 童謡詩人。
山梨県出身。読みは、おおむらかずえ。童謡「花かげ」を発表。童謡集「ばあやのお里」「麦笛」を刊行。また新聞社経営者としても手腕を発揮し東京タイムズ編集局長、スポーツタイムズ社長を務めた。家紋は五瓜紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


朝永振一郎 。1906年3月31日 – 1979年7月8日、 物理学者。
東京市小石川区小日向三軒町に朝永三十郎(長崎県出身)の子として生まれる。くりこみ理論の手法を発明して量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞。東京教育大学長、日本学術会議会長を務めた。家紋は五瓜に上り藤。


石塚友二 。1906年9月20日 – 1986年2月8日、 俳人、編集者。
新潟県北蒲原郡笹岡村出身。沙羅書店を設立し、編集者として、横光利一の『日輪』『覚書』、水原秋桜子の『葛飾』復刻版、石田波郷の『石田波郷句集』などを刊行する。また、石田波郷を主宰として「鶴」を創刊した。家紋の五瓜に唐花紋は鎌倉霊園にて撮影。


石田波郷 。1913年3月18日 – 1969年11月21日、 俳人。
愛媛県温泉郡垣生村出身。本名は石田哲大(てつお)。秋桜子主宰の『馬酔木』に投句を始める。代表句集『鶴の眼』。韻文精神に立脚した人間諷詠の道を辿り中村草田男加藤楸邨とともに人間探求派と呼ばれた。家紋は五瓜に抱き茗荷紋。


織田作之助 。1913年10月26日 – 1947年1月10日、 小説家。
大阪市南区生玉前町にて、仕出屋「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれる。出世作となった「俗臭」「夫婦善哉」をはじめ、「競馬」「世相」など短編を得意とした。作品には大阪の庶民(特に放浪者)の暮らしが描かれていることが特徴。


春風亭柳昇 。1920年10月18日 – 2003年6月16日、 落語家。
東京都武蔵野市出身。本名は秋本安雄。次男はアニメ監督・アニメーターの知吹愛弓。社団法人落語芸術協会副会長(後に理事長)を務める。自身の体験を生かした創作落語・「与太郎戦記」は、後に映画化もされる。家紋は五瓜紋。


谷啓 。1932年2月22日 – 2010年9月11日、 俳優、コメディアン。
東京府荏原郡出身。本名は、渡部泰雄。ハナ肇クレージーキャッツのトロンボーン担当(日本トロンボーン協会名誉会員)。渡辺プロ所属。コメディアンとしても「ガチョン」などのギャグで人気を博した。家紋は五瓜に桔梗紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


篠沢秀夫 。1933年6月6日 -、 仏文学者。
東京府出身。学習院大学名誉教授。モーリス・ブランショの翻訳者、研究者としても知られる。人気番組『クイズダービー』では、11年に亘り、4代目1枠レギュラーの解答者として活躍し人気者となる。家紋の五瓜に上り藤紋は総持寺の妻の墓所にて撮影。


勝野洋 。1949年7月27日 – 、 俳優。
熊本県阿蘇郡小国町出身。妻はキャシー中島。テレビドラマ『太陽にほえろ!』において”テキサス刑事”役に抜擢され一躍人気者となる。代表出演作は『俺たちの朝』『姿三四郎』『ザ・商社』。家紋は五瓜に三階菱紋。林泉寺の勝野家の墓所にて撮影。


石丸謙二郎 。1953年11月1日 – 、 俳優。
大分県出身。つかこうへいの事務所にスカウトされて俳優デビュー。『世界の車窓から』のナレーションを務める。また、日本で初めてストリーキングを敢行したと自称している。家紋は織田瓜であることを『ぶらり途中下車の旅』にて告白した。


原辰徳 。1958年7月22日 – 、 プロ野球選手、監督。
神奈川県相模原市出身。東海大相模高校、東海大学で活躍した後、ドラフト一位で読売巨人軍に入団。新人王、MVP、打点王、最多勝利打点などのタイトルを獲得する。監督としてはリーグ優勝4回、日本一2回。家紋は五瓜に隅立て四つ目結紋。


グレート義太夫 。1958年12月26日 – 、 お笑いタレント。
東京都板橋区出身。本名は鈴木正之。叔父に元小結國登國生がいる。オフィス北野所属。たけし軍団に所属し、その一環として北野武の映画『菊次郎の夏』にも出演している。家紋は五瓜に下り藤紋。自身のブログのお墓参りの時の写真により判断。


春風亭昇太 。1959年12月9日 – 、 落語家。
静岡県清水市(現静岡市清水区)出身。本名:田ノ下雄二。5代目春風亭柳昇の弟子。2005年には落語を題材にしたドラマ「タイガー&ドラゴン」に出演。2006年5月より日本テレビ系『笑点』の大喜利メンバーに加入。家紋は春風亭一門の五瓜紋。


木村拓哉 。1972年11月13日 – 、 俳優、SMAPのメンバー。
東京都出身、千葉県育ち。ジャニーズ事務所に所属。主演テレビドラマ多数。代表作は『ロングバケーション』『ラブジェネレーション』『CHANGE』『MR.BRAIN』『安堂ロイド』等。家紋は、織田信長と同じ五瓜紋であることを告白。


くわばたりえ 。1976年3月24日 -、 お笑い芸人。
大阪府大阪市淀川区出身。本名は、刈込理恵(旧姓・桑波田)。ホリプロ所属。小原正子とのコンビ「クワバタオハラ」を結成。刈込家の家紋は丸に井桁菱紋。自身のブログ記事にて確認。また、桑波田家の家紋は丸に五瓜に唐花紋。自身のブログ記事にて確認。


藤森慎吾 。1983年3月17日 – 、 コメディアン、司会者。
長野県諏訪市出身。愛称は「しんご」。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。中田敦彦と組んだオリエンタルラジオのツッコミ担当。『武勇伝』ネタで有名。「笑っていいとも!」にて家紋は五瓜に檜扇であることを告白。


湘南乃風 。2001年 – 、 音楽グループ。
RED RICE、若旦那、SHOCK EYE、HAN-KUNの4人をメンバーとする湘南を拠点に活動するレゲエ系グループ。代表曲「純恋歌」「カラス」「睡蓮花」等。「純恋歌」はカラオケ定番として歌い継がれている。グループのシンボルに五瓜に風の文字を採用。


武藤大三 。昭和 – 平成25年、 極道の組長。
園子温監督「地獄でなぜ悪い」の登場人物。配役は、國村隼人。ヤクザの組長であるが、出所してくる妻(友近)のために娘(二階堂ふみ)を主演にした映画を製作しようとする。武藤組の紋章である細輪に逆さ五瓜に剣花菱が事務所に飾ってある。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

矢紋 -幸福を射止める武具または神具- 世阿弥、曲亭馬琴、石原裕次郎...


矢は、武器であると同時に、儀礼や呪具でもある。
屋島合戦で、那須与一が平家の扇を射落としたのは有名な故事であるが、おそらく武士はこの紋に武運を託したのである。

また、時代が下ると、幸せを射止める神具としての矢という性格が強くなる。

三ツ矢サイダーの起源は、宮内省の御料工場であったが、後に三菱に払い下げられたという。三つ矢と三菱のマークをあわせて現在のマークが誕生した。
この「三ツ矢」の由来は、平安時代中期に摂津源氏の祖源満仲が住吉大社(大阪市住吉区)の神託に従い「三つ矢羽根の矢」を放ち、矢の落ちた多田(現在の兵庫県川西市市内)に居城を建てたという伝説による。
なお、炭酸水として使用された平野鉱泉は満仲が狩の際に発見したと伝えられている。

矢紋の全国分布であるが、滋賀県が最高の13位。兵庫県、岡山県で16位が高いところ。全国的には21位。

有名人は以下。


世阿弥 。1363年? – 1443年9月1日、 猿楽師。
幼名は鬼夜叉、二条良基より藤若の名を賜る。観阿弥と共に猿楽を大成し能楽を完成。観世流として現代に受け継がれている。代表作は『高砂』『井筒』『実盛』。元の家紋は十本矢車だが現在の観世流は十二本矢車(斎海寺にて撮影)。


片桐且元 。1556年 – 1615年6月24日、 武将・大名。
近江国浅井郡須賀谷の浅井氏配下の小領主・片桐直貞の子として生まれる。織田信長に仕えた後、石田三成らと共に長浜城時代の羽柴秀吉の家臣として仕えた。「賤ヶ岳の七本槍」の一人。家紋は片桐違矢。画像は青山霊園の片桐家の墓所にて撮影。


支倉常長 。1571年 – 1622年8月7日、 武将。
羽州置賜郡長井荘立石邑に生まれる。山口常成の子。伯父支倉時正の養子となる。伊達氏の家臣。文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。家紋は、違い矢に右卍紋。


服部半蔵 。戦国時代から江戸時代初期、 武士。
松平氏~徳川氏の麾下で活躍。半蔵門の由来となる。「伊賀の影丸」「あずみ」などのフィクションに登場。藤子不二雄の「忍者ハットリくん」は服部半蔵の子孫。家紋は源氏輪に並び切り竹矢筈。画像は護国寺の別の服部家の墓所にて撮影。


狩野探幽 。1602年3月7日 – 1674年11月4日、 絵師。
京都出身。狩野孝信の長男として生まれる。江戸城、二条城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作した。山水、人物、花鳥など作域は幅広い。家紋は丸に三つ並び矢。池上本門寺の狩野家墓所にて撮影。


荻生徂徠 。1666年3月21日 – 1728年2月28日、 儒学者・思想家。
江戸出身。本姓は物部氏。父は5代将軍徳川綱吉の侍医。徳川綱吉側近で幕府側用人の柳沢吉保に抜擢される。朱子学に立脚した古典解釈を批判し古文辞学を確立。主著は『弁道』『太平策』『政談』。家紋は丸に違い矢紋。画像は三田・長松寺にて撮影。


曲亭馬琴 。1767年7月4日 – 1848年12月1日、 読本作者。
江戸深川の旗本・松平鍋五郎の屋敷の用人、滝沢興義の三男として生まれる。本名は瀧澤興邦。24歳の時に山東京伝の弟子となり、読み本作家となる。代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』等。家紋は八つ矢車紋。画像は茗荷谷の深光寺にて撮影。


下岡蓮杖 。1823年3月24日 – 1914年3月3日、 写真家。
伊豆国下田中原町出身。読みは、しもおかれんじょう。通称は久之助。父は浦賀船改御番所の元、下田問屋六十三軒衆の一人だった。横浜を中心に活躍した上野彦馬らと並ぶ日本最初期の写真家。家紋の丸に三つ並び日の丸矢紋は肖像写真より判断。


安場保和 。1835年5月14日 – 1899年5月23日、 官僚・政治家。
肥後細川藩出身。読みは、やすばやすかず。先祖の安場一平は赤穂事件で大石内蔵助の切腹を介錯。岩倉使節団に加わり欧米を視察。帰国後、福島県令等を務める。次女・和子は後藤新平に嫁ぐ。家紋は中陰三つ寄り矢筈紋。画像は吉祥寺の墓所。


宝生九郎 。1837年7月10日 – 1917年3月9日、 能楽師。
能楽シテ方宝生流16世宗家。本名は知栄。維新後衰退した能楽界にあってその復興の中心を担い初世梅若実櫻間伴馬とともに「明治の三名人」と並び称される。多くの後進を育て宝生流のみならず能楽界全体の発展に力を尽くす。家紋は九本矢車紋。


日下部鳴鶴 。1838年10月6日 – 1922年1月27日、 書家。
彦根藩士・田中惣右衛門の次男。本名は東作。中林梧竹、巌谷一六と共に明治の三筆と呼ばれる近代書道の確立者の一人である。門下生は3000人を数えたと言われ「日本近代書道の父」と評される。家紋は六つ矢車紋。画像は豪徳寺の墓所にて撮影。


梶原平馬 。1842年 – 1889年3月23日、 会津藩家老。
会津藩出身。内藤家に生まれ、梶原景保の養子となる。梶原家の遠祖は梶原景時。藩主松平容保が京都守護職在任中は側近として仕え、会津戦争の際には会津若松城に籠城し、政務を総監した。また、西郷頼母を追放した。家紋は丸に違い矢紋。


品川弥二郎 。1843年11月20日 – 1900年2月26日、 政治家。
長州藩出身。足軽の家柄。松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受ける。尊王攘夷運動に奔走し薩長同盟の成立に尽力。「トコトンヤレ節」の作詞者。第1次松方内閣内務大臣時代に白根専一とともに選挙干渉を行なう。家紋は、丸に割り違い矢紋。


安岡金馬 。1844年4月4日 – 1894年2月21日、 海援隊士。
土佐郡福井村出身。安岡家は代々、庄屋の家柄。読みは、やすおかきんま。坂本龍馬の知遇を得て、長崎で海援隊に参加。維新後、土佐商会で順海丸の船将、大津裁判所の判事を務める。家紋の八つ矢車紋は、父・忠郷の墓所写真にて確認。


平野富二 。1846年10月4日 – 1892年12月3日、 実業家。
長崎出身。矢次豊三郎の子。平野家に養子に入る。長崎製鉄所兼小菅造船所長となり、後の三菱造船所の基礎を築く。日本最初の民間造船所である石川島平野造船所(石川島播磨重工の前身)を創業。家紋は車挟み六つ矢車。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


坂崎紫瀾 。1853年12月18日 – 1913年2月17日、 報道記者。
江戸出身。江戸鍛冶橋の土佐藩邸で生まれる。読みは、さかざきしらん。「土陽新聞」紙面上にて坂本龍馬を主人公にした伝記小説『汗血千里駒』を連載する。NHK大河ドラマ「龍馬伝」では浜田学が演じた。家紋の丸に割り違い矢紋は雑司が谷霊園にて撮影。


高峰譲吉 。1854年11月3日 – 1922年7月22日、 科学者。
越中国高岡出身。漢方医高峰精一の長男。世界で初めてアドレナリンの結晶抽出に成功。また、タカヂアスターゼを発明し、独占販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任する。家紋は八本矢車紋。肖像写真、NYの墓碑写真より判断。


寺尾寿 。1855年11月4日 – 1923年8月6日、 天文学者。
福岡藩士・寺尾喜平太の長男として、筑前国那珂郡春吉村に生まれる。文部省准奏任御用掛となり、日本において初めて子午環を用いた緯度測定を行う。日本天文学会を創立し、初代会長に就任。家紋は三つ重ね矢紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


武富時敏 。1856年1月16日 – 1938年12月22日、 政治家。
佐賀藩出身。藩士・武富良橘の長男。読みは、たけとみときとし。第1次大隈内閣書記官長、第2次大隈内閣逓信大臣及び大蔵大臣を務める。憲政会が結成されると総務に就任。後見人的存在でありつづけた。家紋は丸に弓矢紋。画像は青山霊園にて撮影。


芳村伊十郎(6代) 。1859年1月20日 – 1935年10月3日、 長唄師。
本名は鵜沢徳蔵。駿河国藤枝で5代目富士田千蔵の元で修行。16歳で上京し5代目芳村伊十郎の弟子となり芳村金五郎、続いて5代目芳村伊四郎を襲名。1890年に歌舞伎座で立唄に昇進し、後に6代目伊十郎を襲名。家紋は八つ矢車紋。画像は青山霊園にて撮影。


小倉常吉 。1865年9月 – 1934年1月1日、 実業家。
埼玉県深谷出身。旧姓は柴崎。先代常吉の養子となる。石油販売業をはじめ、第1次大戦後、原油の輸入と精製に取りくむ。小倉石油を設立し日本石油と合併。日本の石油王といわれた。一方で、向島百花園を買い取り都に寄付。画像は多磨霊園にて撮影。


稲田龍吉 。1874年3月18日 – 1950年2月27日、 細菌学者。
愛知県名古屋市出身。ワイル病の病原体スピロヘータを発見し、ノーベル生理学・医学賞の候補となる。九州や四国の風土病だった出血性黄疸の病原体もワイル病病原体と同じであることを立証。家紋は丸に一つ矢紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


服部伸 。1880年6月2日 – 1974年12月4日、 講談師。
東京浅草出身。父は俥屋を営んでいた。本名は、服部辰次郎。初めは浪曲師として啖呵で人気を博し、一心亭辰雄と改名。啖呵の辰雄、声のいいのが雲右衛門と称された。勲五等双光旭日章を受章。家紋の矢尻付き三本違い矢紋は台東区潮江院にて撮影。


堀悌吉 。1883年8月16日 – 1959年5月12日、 海軍軍人。
大分県杵築市出身。矢野家に生まれるが士族・堀正治の養子となる。ロンドン海軍軍縮会議において、山梨勝之進を補佐した(条約派)が、艦隊派が主動したいわゆる大角人事により予備役に編入された。家紋は丸に並び矢紋。画像は豪徳寺にて撮影。


宇垣纏 。1890年2月15日 – 1945年8月15日、 海軍軍人。
岡山県赤磐郡出身。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将とは遠戚。読みは、うがきまとめ。太平洋戦争開戦時の連合艦隊参謀長。ポツダム宣言受諾直後、航空特攻にて死亡。最終階級は海軍中将。家紋は丸に違い矢紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


高野源進 。1895年3月15日 – 1969年1月4日、 内務官僚。
福島県北会津郡北会津村出身。読みは、たかのげんしん。官僚としては主として警察畑を歩き山梨県知事・警視総監などを歴任したが、特に原爆被災時の(官選)広島県知事を務めたことで知られる。家紋の丸に並び矢紋は多磨霊園の墓所にて撮影。


森信三 。1896年9月23日 – 1992年11月21日、 哲学者。
愛知県知多郡武豊町出身。端山家に生まれるが後に、森家の養子となる。「人生二度なし」の真理を根本信条とする実践哲学を確立した。主著は『修身教授録』『哲学叙説』『恩の形而上学』など。家紋の丸に違い矢紋は、墓所写真にて確認。


徳永直 。1899年1月20日 – 1958年2月15日、 小説家。
熊本県飽託郡花園村に貧しい小作人の長男として生まれる。読みは、とくながすなお。労働者出身のプロレタリア作家として活躍。主著に『太陽のない街』『光をかかぐる人々』『はたらく一家』等。家紋は丸に違い矢紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


村野四郎 。1901年10月7日 – 1975年3月2日、 詩人。
東京府出身。スポーツを題材にした詩にベルリン・オリンピックの写真を組み合わせた斬新さと新鮮な感覚が注目を浴びる。代表作は『罠』『亡羊記』。村野四郎記念館が府中市郷土の森博物館内にある。家紋は丸に八つ矢車紋。画像は多磨霊園にて撮影。


栗原貞子 。1913年3月4日 – 2005年3月6日、 詩人。
広島市出身。1945年8月6日に爆心地の4キロ北の自宅で被爆。反戦・平和を訴え続ける。『生ましめんかな』は代表作。戦後は夫の栗原唯一とともに執筆活動を行い、反戦・平和を訴え続けていた。1990年第3回谷本清平和賞受賞。家紋は丸に違い矢紋


有吉佐和子 。1931年1月20日 – 1984年8月30日、 小説家。
和歌山県和歌山市出身。曽祖父は長州藩士の有吉熊次郎。カトリック教徒。『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり文壇デビュー。代表作は『紀ノ川』『恍惚の人』。家紋は一重亀甲に並び矢。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


石原裕次郎 。1934年12月28日 – 1987年7月17日、 俳優・歌手。
兵庫県出身。山下汽船に勤める父・石原潔 母・光子の次男。石原プロモーション創始者。元東京都知事の石原慎太郎は実兄。代表出演作『嵐を呼ぶ男』『太陽の季節 』『黒部の太陽』等。永遠の大スター。家紋は七つ矢車。画像は総持寺にて撮影。


西川きよし 。1946年7月2日 – 、 お笑い芸人。
高知県高知市出身。大阪市育ち。本名は、西川潔。横山やすしとの漫才コンビ「やすしきよし」で活躍し、漫才ブームの火付け役となる。吉本興業では、桂文枝笑福亭仁鶴と共にトップに君臨。1986年から三期18年に渡って参議院議員も務めた。


山崎博昭 。1948年11月12日 – 1967年10月8日、 学生活動家。
高知県出身。京都大学の学生。第1次羽田事件において、弁天橋における機動隊との衝突の際、死亡した。死後、日比谷野外音楽堂において、虐殺抗議・山崎博昭君追悼中央葬が開催された。家紋の輪違いに違い矢紋は平和台霊園にて撮影。


森昌子 。1958年10月13日 -、 歌手、女優。
栃木県宇都宮市出身。本名は、森田昌子。前夫は森進一。『せんせい』で歌手デビュー。山口百恵桜田淳子と共に花の中三トリオと呼ばれる。家紋の違い矢紋は、生家・森田家の家紋で、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


小森みち子 。1960年3月6日 -、 元女優、歌手。
福島県いわき市出身。本名は、森光子。アイドルグループ、トライアングル(7枚のシングルを発売)のメンバーの一人。後にポルノ女優に転身して話題となる。家紋の丸に違い矢紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


田原俊彦 。1961年2月28日 -、 歌手、俳優、タレント。
山梨県甲府市出身(生まれは神奈川県横須賀市)。『3年B組金八先生』で共演した近藤真彦野村義男の三人で「たのきんトリオ」の愛称で人気を博す。家紋の丸に違い矢紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


世耕弘成 。1962年11月9日 – 、 政治家。
大阪府大阪市天王寺区生まれ。父は近畿大学第3代理事長世耕弘昭(弘成自身は第4代理事長)。祖父は政治家・世耕弘一。第3次安倍第2次改造内閣で経産相に就任。家紋は丸に矢尻付き三本重ね矢。画像は多磨霊園の世耕家の墓所にて撮影。


高岡早紀 。1972年12月3日 -、 女優。
神奈川県藤沢市出身。本名は高岡佐紀子。元夫は俳優の保阪尚希。映画 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』に出演し、ヌードを披露。日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞などを受賞。家紋は違い矢紋。画像は、実妹の高岡由美子のオフィシャルブログにて確認。


豊ノ島大樹 。1983年6月26日 -、 大相撲力士。
高知県宿毛市出身。本名は、梶原大樹。時津風部屋所属。家紋は丸に並び矢紋。現在、現役では最も背の低い関取であるが、最高位は関脇。琴奨菊とは学生時代からの良きライバル。画像は自身のブログより。多度神社(神紋は桐紋)豆まきの時のもの。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

沢瀉紋 -武人の心に芽生えた一時の優しさを表す紋- 福島正則、高橋是清、黒柳徹子...


沢瀉は、全国の池や沼に自生する水草。
かの清少納言は「枕草子」の中でこの沢瀉=面高を、「おもだかは名のをかしきなり、心あがりしたらんと思ふに」(面高とは、面白い名前だこと。気位が高いのかしら)と評している。

戦国時代の武士。それこそ、地を這いずり回りながら戦いに明け暮れていた。
そんな時に、ふと水辺の水草・沢瀉に目をやる。一時のやすらぎの時間だ。

あの毛利元就も、若い頃、出陣の際に沢瀉に蜻蛉が止まったのを見て「勝ち草に勝ち虫、勝利は疑いなし」と全軍を鼓舞し、それを記念して、この植物を紋として採用したという。確かにその葉の形が盾に似ているところから勝ち草と言われた、というのも頷けるところだ。
いずれにしても、猛々しい武人の心に芽生えた一瞬の優しさ、そんなロマンチックな想像をさせてくれるのが、この沢瀉紋である。

全国的には、17位。長野県で5位、山梨県で7位。群馬県で8位。栃木県、愛知県、岐阜県で10位。
日本の中央部分の山間部に多いようである。


毛利元就 。1497年4月16日 – 1571年7月6日、 戦国大名。
毛利氏は大江広元の四男・毛利季光を祖とする。本姓は大江氏。安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置く。戦国時代最高の名将の一人と評される。家紋は毛利沢潟と一文字三星紋。画像は別の毛利家(青山霊園にて撮影)の毛利沢瀉紋。


羽柴秀吉 。1537年3月17日 – 1598年9月18日、 武将・戦国大名。
尾張国出身。木下氏から羽柴氏に改める。織田信長に仕え、数々の戦いで功を挙げ、出世を重ねる。信長死後、日本全土を制圧。刀狩検地を行う。桐紋を朝廷から下賜される以前は沢瀉紋を使用していた。画像は木下家(日出藩主の家柄)の抱き沢瀉紋。


福島正則 。1561年 – 1624年8月26日、 武将・大名。
愛知県海部郡出身。福島正信の長男。読みは、ふくしままさのり。幼少より秀吉に仕え賤ヶ岳の戦いの時は一番槍として大功を立てた。九州征伐の後、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。家紋画像は関が原合戦図屏風に描かれた福島沢潟紋。


林羅山 。1584年 – 1657年3月7日、 儒学者。
京都四条新町出身。父は加賀国の郷士。徳川秀忠の侍講として『寛永諸家系図伝』などの伝記・歴史を編纂、「武家諸法度」などの撰定、朝鮮通信使の応接を行う。定紋は五瓜に剣香い桔梗紋、裏紋は抱き柊紋。女紋としては変り三つ割り沢瀉紋が継承されている。


水野忠邦 。1794年6月23日 – 1851年2月10日、 大名・老中。
唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として出生。大坂城代となる後、老中首座に抜擢され天保の改革を断行しようとするが失敗。強制隠居・謹慎が命じられた上、出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。家紋は水野沢瀉紋。画像は烏山妙高寺にて撮影。


男谷信友 。1798年2月4日 – 1864年8月17日、 剣術家。
男谷新次郎信連の子。読みは、おたにのぶとも。直心影流男谷派を名乗り、門下から島田虎之助、榊原鍵吉などの名剣士を輩出した。その実力の高さから幕末の剣聖といわれる。勝海舟は従兄弟。家紋は八重沢瀉紋。画像は深川・増林寺にて撮影。


吉川重吉 。1829年9月30日 – 1867年4月24日、 外務官僚。
旧岩国藩主吉川家の一族。読みは、きっかわちょうきち。兄は最後の岩国藩主吉川経健。娘達は原田熊雄、和田小六、獅子文六に嫁いでいる。岩倉使節団に同行してアメリカへ留学。家紋は変り三つ追い沢瀉紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


早矢仕有的 。1837年9月8日 – 1901年2月18日、 実業家、教育者。
美濃国武儀郡出身。医師山田柳長の子。名主・早矢仕才兵衛の養子となる。読みは、はやしゆうてき。丸善の創業者。明治生命保険会社設立に関与。ハヤシライスの考案者とも言われる。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


大関増裕 。1838年1月4日 – 1868年1月3日、 黒羽藩藩主。
遠江横須賀藩主・西尾忠善の嗣子である西尾忠宝の三男として出生。大関増徳の養嗣子となり跡を継いだ。西洋式砲術の導入するなど藩政改革に取り組む。藩校作新館を創設。家紋は大関沢瀉紋。大関家は他に朧月紋、二つ輪鼓紋も使用。


佐和正 。1844年3月6日 – 1918年11月6日、 内務官僚。
陸奥国仙台出身。仙台藩士の二男として生まれる。読みは、さわただし。川路利良大警視に随行してヨーロッパ各国の警察を視察。その後、内務書記官に就任。第1次山縣内閣により青森県知事に登用された。家紋の三つ追い沢瀉紋は谷中霊園の墓所にて撮影。


国沢新九郎 。1848年1月27日 – 1877年3月12日、 西洋画家。
土佐藩士・国沢好古の子として土佐国小高坂村に生まれる。米英に留学。イギリスの正統的な画風を受け継いだ肖像画を多く残す。私塾「彰技堂」で本格的な洋画を教授した。代表作は『西洋婦人』。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は青山霊園にて撮影。


広岡浅子 。1849年10月18日 – 1919年1月14日、 実業家。
山城国京都出身。小石川三井家六代当主・三井高益の四女。大坂の豪商・加島屋の第8代の次男・広岡信五郎と結婚。大同生命を創業。2016年朝ドラ「あさが来た」の主人公。広岡家の男紋は二重輪に太陰光琳蔦紋。女紋は三つ追い沢瀉紋。画像は大同生命HPより。


木下周一 。1851年10月15日- 1907年6月4日、 官僚。
肥前国出身。佐賀藩支藩の家臣の子。読みは、きのしたしゅういち。兼陸軍省御用掛、法制局参事官、兼内閣恩給局審査官、山形県知事、鳳山県知事、台中県知事、埼玉県知事、大分県知事などを歴任。家紋の抱き沢瀉紋は青山霊園にて撮影。


高橋是清 。1854年9月19日 – 1936年2月26日、 政治家。
江戸芝中門前町出身。幕府御用絵師・川村庄右衛門の子。犬養毅内閣の大蔵大臣の際に世界恐慌デフレから日本経済を世界最速で脱出させた。第20代内閣総理大臣二・二六事件で暗殺された。家紋は三つ追い沢瀉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


富岡定恭 。1854年12月24日 – 1917年7月1日、 海軍軍人。
長野県出身。松代藩海防隊隊長・富岡宗三郎定知の長男。読みは、とみおかさだやす。日清戦争では「厳島」副長として参戦。日露戦争においては秋山真之らとともに早期開戦を求める。最終階級は海軍中将。家紋は抱き沢瀉紋。画像は青山霊園にて撮影。


神尾光臣 。1855年2月27日 – 1927年2月6日、 陸軍軍人。
信濃国出身。諏訪藩士・神尾平三郎の次男。次女の安子は有島武郎に嫁ぐ。西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍。最終階級は陸軍大将。戦功により勲一等功一級男爵を受ける。家紋は抱き沢瀉に大の字紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


前田慧雲 。1855年3月2日 – 1930年4月29日、 学僧、教育者。
伊勢国桑名出身。読みは、まえだえうん。尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となる。東洋大学、龍谷大学の学長を歴任。主著は『大日本続蔵経』『大乗仏教史論』『仏教思想講話』など。家紋は立ち沢瀉紋。画像は和田掘廟所の墓所にて撮影。


末松謙澄 。1855年9月30日 – 1920年10月5日、 政治家・歴史家。
豊前国前田村出身。大庄屋・末松七右衛門の四男。読みは、すえまつけんちょう。伊藤博文は岳父。逓信大臣、内務大臣などを歴任。義経=ジンギスカン説を唱え、大ブームを巻き起こす。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は品川の清光院にて撮影。


大谷喜久蔵 。1856年2月4日 – 1923年11月26日、 陸軍軍人。
小浜藩士で藩校「順造館」教授の漢学者、大谷正徳の七男として生まれる。教育総監・浦塩派遣軍司令官・軍事参議官・青島守備軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将、男爵に至る。家紋は三つ追い沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


瓜生外吉 。1857年1月27日 – 1937年11月11日、 海軍軍人。
加賀藩支藩の大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男。海軍少将・軍令部第1局長、常備艦隊司令官、将官会議議員、横須賀鎮守府長官等を経て、最終階級は海軍大将益田孝は義兄。森恪は女婿。家紋は立ち沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


中島力造 。1858年2月21日 – 1918年12月21日、 倫理学者。
丹波福知山出身。読みは、なかじまりきぞう。津田仙の要請により学農社の教師として上京。第一高等学校講師を経て帝国大学文科大学教授に就任。倫理学の拡充を図り倫理学の学としての独立性を確立。家紋は丸に立ち沢瀉紋。雑司が谷霊園にて撮影。


内田嘉吉 。1866年11月18日 – 1933年1月3日、 政治家。
東京出身。読みは、うちだかきち。逓信省に入省し、逓信書記官、、官房秘書課長、高等海員審判所所長、逓信次官などを歴任。台湾総督府民政長官となり台湾に赴任。貴族院勅選議員に勅任される。家紋の立ち沢瀉紋は鶴見総持寺にて撮影。


阪井久良伎 。1869年3月6日 -1945年4月3日、 川柳作家。
神奈川県久良岐郡野毛出身。読みは、さかいくらき。本名は、阪井弁。『獅子頭』『川柳文学』などの川柳雑誌を創刊した。江戸期の川柳・狂句が滑稽・風刺に偏ったことを改め、風俗詩としての川柳を主張した。家紋は抱き沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


木下尚江 。1869年10月12日 – 1937年11月5日、 社会主義運動家。
信濃国松本城下出身。父親は松本藩士・木下廉左衛門秀勝。旧横浜毎日新聞に入り、廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙期成運動などで論陣を張る。幸徳秋水片山潜堺利彦らと社会民主党を結成。家紋は抱き沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


綱島梁川 。1873年5月27日 – 1907年9月14日、 評論家。
岡山県上房郡出身。読みは、つなしまりょうせん。坪内逍遥の『早稲田文学』の編集に加わり文藝・美術評論を書く。後に宗教に傾倒し見神体験を語って反響を呼ぶ。代表作は『予が見神の実験』。家紋は抱き沢瀉紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


山本信次郎 。1877年12月22日 – 1942年2月28日、 海軍軍人。
神奈川県出身。イタリア大使館付武官を務めた後、皇太子(昭和天皇)の外遊に随行、のち宮内省御用掛。また少年時代に受洗し、カトリック民間使節として16ヵ国を歴訪した。最終階級は海軍少将。家紋は三つ追い沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


穴水熊雄 。1880年6月15日 – 1958年、 実業家。
山梨県出身。旧姓は興水。穴水家の養子となり実家を継ぐ。京王電気軌道株式会社(現・京王電鉄)社長として沿線の乗客誘致政策を積極化し、桜上水駅、聖蹟桜ヶ丘駅、高幡不動駅などの駅名変更を行う。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は多磨霊園にて撮影。


佐藤尚武 。1882年10月30日 – 1971年12月18日、 外交官・政治家。
大阪府出身。弘前藩士・田中坤六の二男。外交官・佐藤愛麿の養子となる。国際連盟帝国事務局長、外務大臣、駐ソビエト連邦大使等を勤める。国連総会退会時に松岡洋右とともに議場を退席。家紋は長門沢瀉紋。谷中霊園にて撮影。


高碕達之助 。1885年2月7日 – 1964年2月24日、 政治家・実業家。
大阪府高槻市で百姓兼紺屋に7人兄弟の3番目として出生。読みは、たかさきたつのすけ。電源開発総裁、満洲重工業開発総裁を務めた後に政治家に転身し、通商産業大臣、経済企画庁長官、科学技術庁長官などを歴任。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


宮崎郁雨 。1885年4月5日 – 1962年3月29日、 歌人。
新潟県北蒲原郡出身。本名は宮崎大四郎。石川啄木夫人の義弟。石川啄木の死後、函館図書館啄木文庫を設立。主著は『函館の砂-啄木の歌と私と-』。函館厚生院相談役を務める。家紋は丸に抱き沢瀉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


飯田蛇笏 。1885年4月26日 – 1962年10月3日、 俳人。
山梨県東八代郡出身。大地主で旧家の長男。本名は飯田武治。読みは、いいだだこつ。河東碧梧桐に師事。伝統的俳句の立場から自然風土に根ざした俳句を提唱し、俳誌『雲母』を主宰した。画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に立ち沢瀉紋。


甲賀三郎 。1893年10月5日 – 1945年2月14日、 推理作家。
滋賀県蒲生郡日野町出身。生家は、甲賀郡水口藩の藩士であった井崎家。本名は春田能為。読みは、こうがさぶろう。江戸川乱歩と並び本格派の探偵小説に取り組んだ。代表作は「琥珀のパイプ」「支倉事件」など。家紋は一重亀甲に立ち沢瀉紋。


中野重治 。1902年1月25日 – 1979年8月24日、 詩人、小説家。
福井県坂井市出身。読みは、なかのしげはる。堀辰雄らと「驢馬」を創刊。共産党に入党するが、転向。「村の家」は転向文学の代表的作品となる。その他の代表作は「歌のわかれ」「むらぎも」等。家紋の丸に立ち沢瀉紋は坂井市立丸岡図書館にて教えていただく。


市川小太夫(2代) 。1902年1月26日 – 1976年1月9日、 歌舞伎俳優。
東京浅草出身。読みは、いちかわこだゆう。本名は、喜熨斗光則。初名は、市川 蝙蝠。屋号は沢潟屋。2代目市川段四郎の5男。舞踊琴吹流を創始。著書に「吉原史話」がある。家紋は七宝沢瀉紋と蝙蝠に喜熨斗文字紋。画像は寛永寺霊園にて撮影。


古川緑波 。1903年8月13日 – 1961年1月16日、 コメディアン。
男爵・加藤照麿の六男として東京市麹町区に生まれ、満鉄役員の古川武太郎の養子となる。浅草で徳川夢声らと劇団「笑の王国」を旗揚げた。榎本健一とはしばしば比較され、「エノケンロッパ」と並び称せられる。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


片岡千恵蔵 。1903年3月30日 – 1983年3月31日、 俳優。
群馬県新田郡藪塚本町に生まれる。本名は植木正義。読みは、かたおかちえぞう。戦前、戦後を通して時代劇人気を支えた剣戟スター。代表作は『赤西蠣太』『宮本武蔵』『大菩薩峠』等。家紋は丸に立ち沢瀉紋。千恵蔵印麻雀牌の沢瀉牌より判断。


瀧口修造 。1903年12月7日 – 1979年7月1日、 美術評論家。
富山県婦負郡寒江村大塚出身。3人姉弟の長男。近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱。治安維持法違反容疑で特高に逮捕された。家紋は二つ雁に葉沢瀉紋。墓所の写真にて確認。


伊藤整 。1905年1月16日 – 1969年11月15日、 評論家、詩人。
北海道松前郡出身。読みは、いとうせい。息子の伊藤滋は都市計画家。20世紀日本文学の重要な文芸評論家の一人。私小説的文学の理論化を目指す。代表作は『鳴海仙吉』『若い詩人の肖像』など。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


水田三喜男 。1905年4月13日 – 1976年12月22日、 政治家。
千葉県曽呂村出身。水田家は400年ほど前に讃岐から移住。祖父・竹蔵、父・信太郎はいずれも村長。読みは、みずたみきお。大蔵大臣を数度に渡って務めた戦後日本の代表的な財政家。城西大学の創立者。家紋は沢瀉に水。画像は護国寺の墓所にて撮影。


赤尾好夫 。1907年3月31日 – 1985年9月11日、 出版人、放送人。
山梨県東八代郡英村出身。歐文社(現在の旺文社)を設立。文化放送や日本教育テレビ(現在はテレビ朝日)を創業。放送大学の設立にも関与。日本メディア界の発展に偉大な貢献をする。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


藤枝静男 。1907年12月20日 – 1993年4月16日、 作家。
静岡県藤枝出身。本名は勝見次郎。『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、『愛国者たち』で平林たい子文学賞、『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に立ち沢瀉紋。


菊田一夫 。1908年3月1日 – 1973年4月4日、 劇作家・作詞家。
神奈川県横浜市生まれ。本名は菊田数男。戦後、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルの音楽を手がけ多くのヒット作品を世に送り出した。代表作は「鐘の鳴る丘」「君の名は」。家紋は立ち沢瀉紋。画像は上川霊園にて撮影。


飯沢匡 。1909年7月23日 – 1994年10月9日、 演出家、小説家。
和歌山市出身。本名は伊沢紀。読みは、いいざわただす。父親は官僚政治家・伊沢多喜男。いわさきちひろ絵本美術館初代館長。代表作はNHKの子供番組「ブーフーウー」脚本等。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


八木義徳 。1911年10月21日 – 1999年11月9日、 作家。
北海道胆振国室蘭郡室蘭町出身。有島武郎とドストエフスキーに心酔し、横光利一に師事。「劉広福(リュウカンフー)」で第19回芥川賞受賞。代表作は『母子鎮魂』、『私のソーニャ』、『摩周湖』、『風祭』等。家紋の立ち沢瀉紋は中野区・松源寺にて撮影。


玉ノ海梅吉 。1912年11月30日 – 1988年10月23日、 大相撲力士。
長崎県東彼杵郡出身。本名は、蔭平梅吉。二所ノ関部屋所属。最高位は東関脇。廃業後は、解説者として様々な批評と名台詞で人気を博した。また、第33回NHK紅白歌合戦では審査員を務めた。家紋の丸に立ち沢瀉紋は墓所写真にて判断。


横井庄一 。1915年3月31日 – 1997年9月22日、 元日本兵。
愛知県海部郡富田村出身。大東亜戦争のため再召集され、満洲を経て、グアム島の歩兵第38連隊に伍長として配属。太平洋戦争終結から28年目、グアム島で地元の猟師に発見された。家紋の丸に立ち沢瀉紋。画像は、名古屋の行雲寺の墓所にて撮影。


三遊亭歌笑(3代) 。1917年9月22日 – 1950年5月30日、 落語家。
東京都西多摩郡五日市町出身。本名は、高水治男。 読みは、さんゆうていかしょう。自作の新作落語で活躍。終戦後、「爆笑王」「笑いの水爆」と呼ばれ一世を風靡した。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は武蔵五日市の玉林寺の墓所にて撮影。


内田るり子 。1920年8月8日 – 1992年5月1日、 声楽家。
東京出身。本名は内田留里子。父は応用化学者の内田壮。童謡歌手として『待ちぼうけ』『雨降りお月』等を歌う。国立音楽大学教授、日本歌謡学会理事、東洋音楽会監事も務める。家紋は沢瀉に水。この略歴では歴史が眠る多磨霊園を参照いたしました。


鶴見俊輔 。1922年6月25日 – 2015年7月20日、 評論家、哲学者。
東京市麻布区出身。旗本水谷氏備中布賀知行所代官鶴見家の子孫。父は政治家・鶴見祐輔。終戦後、丸山真男達と共に『思想の科学』を創刊。ベ平連九条の会結成にも参加するなど戦後左翼言論人として活躍。画像は多磨霊園の鶴見家墓所にて撮影。


川本喜八郎 。1925年1月11日 – 2010年8月23日、 人形作家。
東京府出身。日本アニメーション協会名誉会長。NHK人形劇『三国志』、NHK『人形歴史スペクタクル 平家物語』、『死者の書』などの人形美術、監督を担当。家紋の丸に立ち沢瀉紋は、長野県飯田市にある「川本喜八郎人形美術館」にて確認。


天知茂 。1931年3月4日 – 1985年7月27日、 俳優。
愛知県名古屋市出身。本名、臼井登。ニヒルの代表格で死後20年以上経っても「ニヒルといえば天知茂」といわれている。代表出演作は『ザ・ガードマン』『非情のライセンス』等。家紋は丸に抱き沢瀉だが、これは旗本・水野十郎左衛門の子孫だからか。


黒柳徹子 。1933年8月9日 – 、 女優、司会者。
東京市赤坂区乃木坂出身。テレビ放送開始以来50年以上にわたり第一線で活躍してきた日本テレビ史を代表するタレント。30年以上続く日本初のトーク番組『徹子の部屋』の司会。代表著作『窓ぎわのトットちゃん』。家紋は三つ追い沢瀉紋。


大橋巨泉 。1934年3月22日 – 2016年7月12日、 タレント、評論家。
東京府東京市本所区両国出身。祖父は江戸切子の名人。本名は、大橋克巳。放送作家、エッセイスト、馬主、元政治家(参議院議員)、実業家でもある。代表出演番組は『クイズダービー』『11PM』『世界まるごとHOWマッチ』等。家紋は丸に立ち沢瀉紋


若林正俊 。1934年7月4日 – 、 政治家。
長野県長野市出身。安倍内閣で環境大臣、農林水産大臣。不祥事を起こした農林水産大臣の後のリリーフ役としてのイメージが定着。2009年9月16日に行われた内閣総理大臣指名選挙で自民党の首班候補となる。家紋は丸に抱き沢瀉紋。紋付姿にて確認。


野沢那智 。1938年1月13日 – 2010年10月30日 、 声優、俳優。
東京府出身。本名、野沢那智。読みは、のざわなち。姪にタレントの野沢直子がいる。アラン・ドロンをはじめとして、アル・パチーノ、ダスティン・ホフマン、ロバート・レッドフォードなど数多くの吹替えを担当した。家紋は丸に抱き沢瀉紋。


市川猿之助(3代) 。1939年12月9日 – 、 歌舞伎役者。
東京府出身。三代目市川段四郎の長男。本名は喜熨斗政彦。2代目・市川猿翁。香川照之は、最初の妻(浜木綿子)との間の息子。スーパー歌舞伎という新境地を切り開く。定紋は澤瀉(画像は八重花沢瀉)、替紋は三ツ猿。画像は寛永寺墓地にて撮影。


石立鉄男 。1942年7月31日 – 2007年6月1日、 俳優。
神奈川県横須賀市出身。家業は養鶏業。1970年代を中心に人気を博し『水もれ甲介』『気まぐれ天使』などユニオン映画制作のドラマに多数主演。代表出演作『パパと呼ばないで』『おくさまは18歳』『噂の刑事トミーとマツ』等。家紋は丸に立ち沢瀉紋。


羽田健太郎 。1949年1月12日 – 2007年6月2日、 作曲家。
東京都出身。通称、ハネケン。東京音楽大学客員教授。岩崎宏美の『1mmの幸せ』などを作曲。また、『サライ』の編曲も手がける。音楽番組『題名のない音楽会21』の司会としても有名。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は、麻布善福寺の墓所にて撮影。


都一中 (12代目) 。1952年12月23日 – 、 江戸常磐津一中節家元。
東京都出身。本名は、藤堂誠一郎。読みは、みやこいっちゅう。6歳より父・常磐津子之助に指導を受ける。2代目常磐津文字蔵を襲名。1991年に、12代目都一中を襲名し家元となる。画像は護国寺の都一中累代の墓所の上り藤に沢瀉鶴紋の沢瀉鶴部分。


郷ひろみ 。1955年10月18日 -、 歌手。
福岡県出身。本名は、原武裕美。「男の子女の子」でデビュー。代表曲は、「哀愁のカサブランカ」「よろしく哀愁」「GOLDFINGER ’99」等多数。1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」によれば家紋の丸に立ち沢瀉紋だが原武家墓所には丸に五三桐がある。


渋谷哲平 。1961年5月5日 -、 俳優・元アイドル歌手。
神奈川県横浜市出身。本名は、澁谷惠紀。「朝日に向かって」で歌手デビュー。第20回日本レコード大賞新人賞受賞。その後、俳優に転身し多数のドラマ、映画に出演。家紋の抱き沢瀉紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


水野由加里 。1979年11月22日 – 、 タレント、リポーター。
大阪府出身。読みは、みずのゆかり。かつて、大阪パフォーマンスドールの第1次追加メンバーであった。現在は、グリーンチャンネル(競馬チャンネル)のレポーターとして活躍。家紋は立ち沢瀉紋。家紋画像は自身のブログに掲載した紋付の家紋。


三好絵梨香 。1984年11月8日 – 、 アイドル。
北海道札幌市手稲区出身。読みは、みよしえりか。2004年に、石川梨華、岡田唯と共に美勇伝を結成。その後、映画、舞台、テレビなどで活躍。フットサルチーム『サッポロチェルビーズ』の一員でもある。家紋の丸に立ち沢瀉紋は自身のブログ記事より判断。


勢翔太 。1986年10月11日 – 、 大相撲力士。
大阪府交野市出身。本名は、東口翔太。身長194cm、体重169kg。血液型はB型。18歳の時に伊勢ノ海部屋に入門。新入は2012年3月場所。最高位は東小結(2016年1月場所)。家紋の井桁に立ち沢瀉紋は、十両昇進時の化粧まわしから判断。


三沢伊兵衛 。亨保時代 、 侍。
山本周五郎の短編小説『雨あがる』の主人公。同小説は、2000年に寺尾聡(画像)主演で映画化された。元・越後長岡藩の剣術指南役。役柄は、武芸の達人でありながら、人の好さが災いして仕官がかなわない武士。家紋は丸に立ち沢瀉紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

紅葉紋 -敢えて散りゆく紅葉を選ぶ粋な美意識- 福沢諭吉、市川門之助、泉鏡花...

見渡せば花も紅葉もなかりけれ裏の蓬屋の秋の夕暮れ  藤原定家

日本の美意識を代表する紅葉は平安の昔から公家の好みだった。
藤原北家の閑院流の今出川家の代表紋である。
しかし、武士の世になるとこの紋は広まらなかった。
やはり、散りゆく紅葉は嫌われたに違いない。
しかし、それでも敢えて紅葉を選んだ粋な人々がいたことは記憶に留めておきたい。

だから、全国的にはどの地域でも30位に入っていない。

使用している有名人は以下。

福沢諭吉。1835年1月10日- 1901年2月3日、教育者、著述家。
豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。
東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。
代表作品は「学問のススメ」「西洋事情」「福翁自伝」など。
写真は息子の福沢百助の墓で撮影。


市川門之助。1862年 – 1914年8月20日、歌舞伎役者。
出雲国(現在の島根県)松江の出身。本名・荒川清太郎。
『大森彦七』で師の彦七に千早姫をつとめ生涯最大の当り役となる。
「酒屋」のお園、「鏡山」の尾上などの丸本物を得意とした。
家紋は、四つ紅葉。画像は雑司が谷霊園の墓所にて撮影。


いわゆる楓(紅葉)のデザインではないが、尾崎紅葉の弟子の泉鏡花は、師匠の恩義から、敢えて源氏香紋の「紅葉の賀」を家紋として使用した。ちなみに、尾崎紅葉自身は違い鷹の羽紋である。

泉鏡花。1873年11月4日 – 1939年9月7日、小説家。
石川県金沢市下新町に生れる。
父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」など。

まさむね