人は様々なモノを作るが、思うようには作れないという話

サッカー観戦が中高年の娯楽になりつつあるという。

Jリーグは28日、昨季リーグ戦のスタジアム観戦者について行った調査の結果を発表した。
観戦者の4割以上が40代以上と、中高年が観戦に熱心であることを示す結果が出た。(時事通信)

ということだ。
そのうち相撲のようになってしまうのだろうか。
おそらく、その原因は、サッカー観戦の独特の内輪感にあるのではないだろうか。
一見さんが、観戦に行っても疎外感を感じてしまうのである。
    ◆
しかし、これはどんなジャンルにも言えるのかもしれない。
プロレスだって、アイドルだって、オンラインゲームだって、SNSだってそうだ。

最初、担当者はどうやって人を集めようかと考える。
さらに、人を集め続けようかと考える。
そして、コアユーザーを作ればいいという話になる。
会員制やポイント制とかファンサービースを駆使して、それに成功する。
そうすると連帯感とか、独自の作法とか、常連とかが生れる。
ただ、そうなるとニューカマーにとって敷居が高くなる。
そして、そのジャンルが停滞する。

というサイクルはある程度普遍的なように思えるのだ。
だから、長期的戦略を立てるならば逆にコアユーザーを作らないというのが正しいという事も言える。
    ◆
実は、それに成功したのが2ちゃんねるなのである。
言うまでもなく、2ちゃんねるのアーキテクチャ上の特性は、最大1000レスでスレッドが終わること、最も最近書き込みがあったスレッドが板の一番上に表示されること、名前を記入しなくていいこと等である。
すなわち、常に、新しい状態であるように、常連が居つけなくなるように、設計されているという事なのである。
しかし、おそらく、西村ひろゆき氏は、最初、常連排除目的のためにこのような設計にしたわけではない。
特に、1000レスのdat落ちに関しては、運営経費上の処置だったと思う。

僕は、一度、2ちゃんねるが出来てから、2年目位の時に、ひろゆき氏に会う機会があった。その時、2ちゃんねるが他のサイトとは違って成功した理由を訊いたことがあるが、彼は言った。

「雪の玉ってありますよね。雪の坂に小さな石を投げると、転がりながら、その石にどんどん雪がついていって、段々大きくなる、あの雪玉です。
僕は、ただ、最初に石を投げただけで、それと同じように2ちゃんねるは、勝手に大きくなって行ったんですよ。」

ようするに、自分の意図とは別に出来上がっていったというのだ。
そのとき、僕には彼が何らかの秘密を隠しているようには思えなかった。
2ちゃんねるはひろゆき氏の狙い(予想)をはるかに超えて大きな存在になっていったのである。
おそらく、その時点でひろゆき氏にとって、2ちゃんねるの成功(肥大化)というものは、偶然と運以外の何物でもなかったのだと思う。

それは、一人一人が個人が責任を持って発言出来ないという日本の風土に生れた声にならない声を、匿名性+流動性を保証するようなアーキテクチャが、偶然にも拾い上げたと言う事なのだろう。
2ちゃんねるは、20世紀から21世紀初頭の日本という特別な舞台だからこそ大きくなったのだ。
マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメールの18日』で「人々は歴史を作る。だが、思うようには作れない」という言葉を思い出した。
インターネットの世界でも、時として「人は、アーキテクチャを作るが、それが思った以上の化け物になることがある」のである。

しかし、一方で良識の世界ではそんな2ちゃんねるに対して、不快に思う人々も出てくる。それはある意味、当然だ。
その結果、2ちゃんねるを運営するひろゆき氏に対して、名誉毀損的書き込みがあったとして多くの訴訟が起こされた。
書いた本人は匿名だからわからない、だから訴訟の先は、その書き込みを放置したということで、ひろゆき氏に向いてしまったのだ。

しかし、彼はそれらの訴訟のほとんどを無視している。
それゆえに、まだ決着はついていない。
おそらく、普通の運営者だったら、ましてや会社で運営していれば、訴訟を終結させ、今後の訴訟を回避するために、アーキテクチャを変え、健全化を目指すであろうが、彼はそれをしない。
良くも悪くも、彼のその不良性によって、このサイトは生きつづけているのだ。
    ◆
さて、今年に入って2ちゃんねるで一番活発な板の一つ「ニュース速報+」で、一番スレが続いたのは以下の記事だった。

【マスコミ】毎日新聞の熊本支局次長、深夜に24歳女性の部屋に侵入し下着ドロ★

おそらく、テレビや新聞だけ見ている良識的な人には、ほとんど目に触れなかったであろうこの記事に対して、数日間で、延べにしても2万7000件(27スレ)もの罵倒が浴びせられたのである。
ちなみに昨年は、【訃報】 筑紫哲也さん、肺ガンのため死去 73歳 「NEWS23」元キャスター★という記事が57スレまで延びた。
テレビでは、良識的な面々が口々に追悼の言葉を述べている間に、ここでは、5万7000ものメシウマ~という「慶び」の声が寄せられていたのだ。

これを、ネットの落書、取るに足りない、不謹慎、と良識的な人は、一蹴するのだろう。
しかし、今までだったら、個人的、散発的にバラバラに生じていた人々の生の声や不満が集合する場所が出来たという現実はもう戻らない。
インターネットの普及に加えて、昨年来の不況は、マスコミを直撃し、彼等は今までのような特権的な場所には居られなくなってきたようだ。
今後、どうなっていくのであろうか。
    ◆
サッカーは中高年向けの娯楽だという話から、いつの間にか、関係ない話になってしまった。
すみません。

まさむね

風太郎の野望は新しい時代の価値観となりうるか

銭ゲバの第2話を見た。

三國造船という大きな造船会社で派遣労働者として働く、主人公の蒲郡風太郎(松山ケンイチ)。
長女の緑(ミムラ)の運転する自動車にわざと当たり、キッカケをつくって、次女の茜(木南晴夏)の話し相手として、社長の家に寄宿することになる。
そして、三國造船を乗っ取ろうという野望を抱くのであった。

社会学者の山田昌弘氏は、現代における最も根本的な格差は、経済格差や教育格差ではなく、希望格差だと言っている。
生まれた環境によって、一人一人の心の中に生じる希望がすでに格差づけられているということだが、それは逆に言えば、ハングリー精神という物語が死滅したという事なのだろうか。
だとしたら、風太郎が持つ価値観(野望=夢)そのものが現代人にとって死滅しかかっているという事なのだろうか。

しかし、そんな時代だからこそ、風太郎の生き方はインパクトを与えるとも言えないだろうか。

前回のエントリーにおいて、風太郎の母親が語る「生きることは苦しくても、頑張っていれば、いつか幸せになれる」という価値観(人生観)に対して、現代的な価値観を提示できるかどうかというのが、このドラマの見所であるというような話をしたが、答えは早くも見えてきた。
それは、悪を引き受けてでも、死に物狂いでのし上がろうという風太郎の野望エネルギー(=ハングリー精神)である。

昨年来、「貧しくても一生懸命に正直に生きよう」という価値観は、「貧乏太郎」や「イノセントラブ」など、多くのドラマでも見られたが、それらの登場人物はあくまで無欲だった。

しかし、風太郎は違う。

「貧しいからこそ欲望を持とう」というメッセージは、70年代初頭から一回りして、今、新鮮だ。
このドラマが今後、どんどん視聴率を上げて行き、世の中にインパクトを残すまでになってほしい。

そういえば、派遣切り企業(昨年末600人)のスズキは、今後も、派遣労働者が主役のこのドラマを提供し続けるのだろうか。
しかも、前回には、交通事故(わざと当たる)という自動車メーカーとしてはかなり微妙なシーンも許容していた。
この太っ腹(あるいは無頓着)はどこまで続くのか。それもまた興味深い。

まさむね

撫子紋 -可愛い日本女性のシンボル紋- 斎藤義竜、東條英機、宇多田ヒカル...


秋の七草、撫子。
戦いに明け暮れた武士達のやすらぎのひと時を感じさせる優しい花だ。
また、この撫子紋は、大和撫子というように、日本女性を象徴する紋である。
この紋で有名なのは、美濃の斉藤一族。
全国分布では、石川県で27位に入る。
撫子紋を持つ有名人は以下。


斎藤義龍 。1527年7月8日 – 1561年6月23日、 戦国大名。
初代当主・斎藤道三の嫡男。美濃の戦国大名斎藤氏の第2代当主。実父は土岐頼芸という説もある。尾張の織田信長の軍勢と戦い戦況を有利に進めた。長良川の戦いで斉藤道三を討ち果たす。足利義輝によって幕府相伴衆に列せられた。家紋は撫子紋。


秋月種実 。1548年 – 1596年11月16日、 戦国大名。
筑前国出身。秋月文種の次男。読みは、あきづきたねざね。秋月氏の第16代当主。島津氏と大友氏の争いの中で大友領を侵食し、36万石にも及ぶ広大な所領を有した。豊臣秀吉の九州征伐では、豊臣勢と戦ったが敗北した。家紋は三つ盛撫子紋。


山県大弐 。1725年 – 1767年9月14日、 儒学者、思想家。
甲斐国篠原村出身。野沢氏の出自。名は昌貞。甲斐国山梨郡山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説く。明和事件において処刑された。主著は『柳子新論』。家紋は桔梗紋であるが、新宿・全勝寺の墓所(画像)には奥方斎藤家の撫子紋がある。


斎藤利行 。1822年2月2日 – 1881年5月26日、 土佐藩家老。
若くして藩主山内豊煕の御側物頭として仕える。長崎で起きた土佐藩士による英水兵殺害事件では後藤象二郎とともに補償問題を解決。坂本龍馬と結んで武器調達に活躍。明治政府では刑部大輔・参議・元老院議官を務めた。画像は青山霊園にて撮影。


枝吉神陽 。1822年7月12日 – 1862年9月8日、 思想家。
肥前国出身。読みは、えだよししんよう。佐賀藩の藩校・弘道館の教諭。佐賀の尊皇派の精神的支柱。「義祭同盟」を結成し、実弟の副島種臣のほか、大隈重信江藤新平大木喬任ら明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出した。家紋は撫子紋。


中野梧一 。1842年2月17日 – 1883年9月19日、 政治家。
江戸出身。斎藤嘉兵衛の子。旧名は斎藤辰吉。戊辰戦争では、江戸開城後に旧幕府軍に身を投じ、仙台、函館に転戦するが五稜郭にて降伏。維新後は、井上馨に推挙され、初代・山口県県令となる。家紋は撫子紋。画像は四谷・西迎寺にて撮影。


明石元二郎 。1864年9月1日 – 1919年10月26日、 陸軍軍人。
黒田藩士・明石助九郎の次男として福岡の大名町に生まれる。関ヶ原の戦い、大坂の役で戦ったキリシタン武将、明石全登の末裔といわれている。日露戦争では諜報活動で活躍。陸軍大将・勲一等・功三級・男爵。第7代台湾総督。家紋は丸に撫子紋。


斎藤緑雨 。1868年1月24日 – 1904年4月13日、 小説家、評論家。
三重県・神戸出身。本名は賢。『小説八宗』『初学小説心得』『小説評注問答』などのパロディ精神に溢れた評論を書く。『油地獄』『かくれんぼ』などの作品で小説家としても認められる。家紋は丸に撫子紋。画像は向丘・大円寺にて撮影。


片山正夫 。1877年9月11日 – 1961年6月11日、 化学者。
岡山県出身。東北大学教授、東大教授。液体の表面張力と温度との関係式(片山式)で知られる。物理化学の先駆的な研究を行なう。主著「化学本論」は日本における初期の本格的な物理化学教科書。家紋は撫子紋。画像は南麻布・円沢寺にて撮影。


東條英機 。1884年7月30日 – 1948年12月23日、 陸軍人、政治家。
東京市麹町区に東條英教陸軍歩兵中尉の三男として出生。本籍地は岩手県。東條家は能楽師として盛岡藩に仕えた家系。統制派として陸軍を主導。開戦時の内閣総理大臣。A級戦犯として処刑された。撫子紋は雑司が谷霊園、和田堀廟所の墓所とも共通意匠。


豊田貞次郎 。1885年8月7日 – 1961年11月21日、 海軍軍人。
和歌山県出身。紀伊田辺藩士・豊田信太郎の次男。最終階級は海軍大将。予備役編入後は政治家に転身し、商工大臣、拓務大臣、外務大臣、軍需大臣、内閣顧問、運輸通信大臣などを歴任する。家紋は撫子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


斎藤勇 。1887年2月3日 – 1982年7月4日、 英文学者。
福島県伊達郡富野村出身。読みは、さいとうたけし。農家の長男。文学博士。文化功労者、日本学士院会員。日本英文学会第3代会長。東京女子大学学長。東京帝国大学名誉教授。国際基督教大学名誉教授。家紋の丸に撫子紋は多磨霊園の墓所にて撮影。


西東三鬼 。1900年5月15日 – 1962年4月1日、 俳人。
岡山県苫田郡津山町出身。本名は斎藤敬直。戦争批判の作句により特高に検挙されたという。その後、現代俳句協会の設立、俳句誌「断崖」創刊、俳句総合誌「俳句」編集長もつとめる。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は撫子紋。


宇井純 。1932年6月25日 – 2006年11月11日、 環境学者。
東京都新宿区出身。読みは、ういじゅん。「純」の名前は6月生まれに由来するという。水俣病の問題を社会に知らしめる発端を作り、公害問題に関する住民運動などに強い影響を与えた。家紋は撫子紋。墓所の写真より判断。


河原崎長一郎 。1939年1月11日 – 2003年9月19日、 俳優。
東京府出身。四代目河原崎長十郎の長男。本名は河原崎統一。日本の優しい父親像を演じ、40代から50代にかけてホームドラマ全盛期にとってかけがえのない存在であった。家紋は組違い角に右二つ巴紋と丸に撫子紋。画像は葛飾区妙源寺にて撮影。


宇多田ヒカル 。1983年1月19日 – 、 シンガーソングライター。
米国ニューヨーク州出身。先祖は但馬の清原氏族。日本の代表的女性ソロシンガー。1stアルバム『First Love』は860万枚以上、国内アルバム売り上げ史上歴代1位の超メガヒットとなる。代表作『Automatic』『First Love』『Flavor Of Life』。


世之介 。元禄年間 、 井原西鶴作「好色一代男」の主人公。
わずか7歳で腰元に恋をして性を知り、一生のうちに交わった人数は、女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人という。最後、海の彼方にあるという女だらけの「女護が島」をめざして船出し、それきり消息が絶えた。家紋は撫子紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

竜胆紋 -源氏といえばこの紋- 石川数正、石川啄木、生島ヒロシ...


源氏を代表する紋と言われているが、実際は、村上源氏、宇多源氏の代表紋で、清和源氏の子孫では使用する家は多くない。

おそらく、歌舞伎の「勧進帳」で義経がつけたことから、いつの間にか、源氏の代表紋とされるようになったのであろう。例えば、現在でも鎌倉市の市章として、この笹竜胆が採用されている。ご存知の通り、鎌倉は、源頼朝が幕府を開いた場所である。
しかし、だからと言って、「頼朝が笹竜胆を家紋としていた」というような勘違いは避けたいものである。
左上は、鎌倉市のマンホールに掘られた笹竜胆である。
また、曹洞宗の開祖、道元が村上源氏出身のため、この紋は、曹洞宗の寺紋とされている。
例えば、坂本九や、榎本健一が眠る青山・長谷寺の寺紋は、竜胆車紋(左)である。
全国では25位。岩手で19位、秋田、神奈川、山梨、長野で20位といったところがやや多いが、全国にまんべんなく分布している。


千種忠顕 。生年不詳 – 1336年7月13日、 南北朝時代の公家。
権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。後醍醐天皇の近臣。建武の新政では楠木正成名和長年らと共に三木一草と称された。家紋の竜胆車紋は伝通院にある千種家の家紋。顔画像は大河ドラマ「太平記」で忠顕を演じた本木雅弘。


北畠親房 。1293年3月8日 – 1354年6月1日、 南北朝時代の公家。
村上源氏庶流の北畠師重の子。『神皇正統記』の作者。後醍醐の皇子世良親王の養育をする。吉田定房万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。後に、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた南朝に従う。家紋は割菱と笹竜胆。


石川数正 。1533年 – 1593年、 武将・大名。
先祖は河内源氏の義家流・石川源氏・石川氏。徳川家康の片腕として活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉に臣従した。徳川家康が関東に移ると、秀吉より信濃松本10万石に加増移封される。丸に石川竜胆。


木曽義昌 。1540年 – 1595年4月26日、 戦国武将。
信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。木曾義康の長子。正室は武田信玄の娘真理姫。は小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗するが、侵攻を受けて武田家に降伏した。家康の関東移封に伴い、木曽谷を退く。家紋は笹竜胆紋。


石川雅望 。1754年1月7日 – 1830年5月16日、 狂歌師、戯作者。
浮世絵師石川豊信の五男として江戸に生まれる。読みは、いしかわまさもち。狂名は宿屋飯盛。狂歌四天王の一人として版元である蔦屋重三郎から多くの狂歌絵本を出版。家紋は笹竜胆。但し、蔵前の正覚寺の墓所には創作紋(丼?)がある。


大原重徳 。1801年11月21日 – 1879年4月1日、 公家。
京都生まれ。光格天皇の侍童となる。宮中に昇り、孝明天皇に重用される。幕府に朝廷の攘夷の意向を反映させた文久の改革の際に活躍。維新以降は、参与・議定など新政府の役職を務める。家紋は変形の笹竜胆紋。画像は谷中霊園の大原家の墓所で撮影。


弾直樹 。1823年 – 1889年7月9日、 穢多頭。
摂津国菟原郡出身。幕長戦争に協力した功で手下65人と共に平民への身分引き上げが幕府から認められ、弾内記と改名。後に弾直樹へ改名。皮革産業を近代工業に育て上げる事を目指した。家紋は竜胆車と丸に一の字に蔦紋。画像は浅草・本龍寺にて撮影。


庭田嗣子 。1825年 – 1883年7月20日、 典侍。
京都出身。読みは、にわたつぐこ。庭田家は宇多源氏の流れを引く堂上家。皇女和宮の将軍徳川家茂への降嫁と共に江戸へ下り和宮側近として活躍。天璋院や大奥老女らと対立した。家紋は笹竜胆紋。顔画像は『篤姫』の時に嗣子を演じた中村メイ子。


岩倉具視 。1825年10月26日 – 1883年7月20日、 公家、政治家。
京都出身。公卿・堀河康親の次男。源通親の子孫。岩倉家は村上源氏久我家の分家、下級の公家。大久保利通らと王政復古のクーデターを画策。新政府において、参与、議定、大納言、右大臣等をつとめる。家紋は笹竜胆。画像は遺髪塚にて。


東久世通禧 。1834年1月1日 – 1912年1月4日、 公家、政治家。
京都出身。羽林家格の村上源氏の公家・東久世通徳の子。読みは、ひがしくぜみちとみ。七卿落ちの一人。王政復古によって復権を果たし、その後は枢密顧問官、貴族院副議長、枢密院副議長を歴任。家紋は竜胆車。画像は中目黒・長泉院にて撮影。


橋本雅邦 。1835年8月21日 – 1908年1月13日、 日本画家。
父は川越藩の御用絵師・橋本養邦。狩野芳崖とともに新しい表現技法を模索。東京美術学校設立に尽力。下村観山横山大観菱田春草川合玉堂らを指導。また、日本美術院の創立にも参加。家紋は竜胆車。画像は深川・玉泉院の墓所にて撮影。


石川小五郎 。1840年3月12日 – 1919年9月29日、 武士、官僚。
周防国吉敷郡佐山に長州藩士の子弟として出生。後に河瀬真孝と称した。禁門の変では遊撃隊の指揮を執り後に遊撃隊総督となる。第二次長州征伐では芸州口を攻撃するなど活躍。維新後は枢密顧問官となる。家紋は笹竜胆紋。画像は青山霊園にて撮影。


赤松則良 。1841年12月13日 – 1920年9月23日、 海軍軍人。
江戸深川出身。幕臣・吉沢家に生まれ、祖父の赤松姓を継ぐ。妻は、林洞海の二女。長女・登志子は作家森鴎外の妻。海軍造船会議議長を務め、日本造船の父と呼ばれる。最終階級は海軍中将。家紋は竜胆車紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


高井敬義 。1844年 – 1917年12月1日、 陸軍軍人。
阿波国出身。読みは、たかいたかよし。西南戦争に従軍。歩兵第十連隊長、歩兵第十五旅団長をつとめる。日清戦争では南部兵站監、日露戦争では留守第三師団長として参戦。最終階級は陸軍中将。家紋の笹竜胆紋は、青山霊園の墓所にて撮影。


三宮義胤 。1844年2月12日 – 1905年8月14日、 尊攘派志士。
近江国志賀郡真野浜村出身。読みは、さんのみやよしたね。真宗正源寺住職の長男。尊王攘夷派志士として国事に奔走。岩倉具視らと交流を持ち王政復古運動に参加。維新後は、外務省、宮内省などで要職を歴任。家紋。の笹竜胆紋は護国寺にて撮影


山田顕義 。1844年11月18日 – 1892年11月11日、 政治家。
長門国阿武郡椿郷東分にて萩藩士の長男。松下村塾に入門。攘夷の血判書に名を連ねる。維新後は参議兼内務卿、司法卿兼参議、司法大臣を歴任。日本大学、國學院大學の学祖。家紋は頭合わせ三つ根付き笹竜胆。画像は護国寺の墓所にて撮影。


福島安正 。1852年10月27日 – 1919年2月19日、 陸軍軍人。
信濃国松本城下に松本藩士・福島安広の長男として出生。イルクーツクから東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し実地調査(「シベリア単騎横断」)を行う。日露戦争にも参戦。家紋は笹竜胆紋。青山霊園の墓所にて撮影。


下田歌子 。1854年9月30日 – 1936年10月8日、 教育家・歌人。
岐阜県恵那郡岩村町出身。岩村藩の藩士の家に出生。本名:平尾鉐。容姿と才能に恵まれ明治の紫式部とも称される。生涯を女子教育の振興に捧げる。実践女子学園順心女子学園設立の基礎を築く。家紋は頭合わせ三つ笹竜胆紋。画像は護国寺にて撮影。


長谷川謹介 。1855年9月20日 – 1921年8月27日、 官僚。
長門(山口県)出身。井上勝にみとめられて鉄道寮に入り、鉄道技師として天竜川橋梁、台湾縦貫鉄道などを完成。鉄道院創設後は東部、西部、中部の鉄道管理局長、技監、副総裁などをつとめた。家紋は三つ葉竜胆紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


井上哲次郎 。1856年2月1日 – 1944年12月7日、 哲学者。
筑前国太宰府の出身。帝国大学で日本人で初めて哲学の教授となる。新体詩運動の先駆者。国家主義の立場から宗教に対する国家の優越を主張。内村鑑三の不敬事件の際にはキリスト教を激しく非難。哲学用語「形而上」の訳者。雑司ヶ谷霊園にて撮影。


小崎弘道 。1856年5月17日 – 1938年2月26日、 牧師。
肥後国託麻郡本山村出身。読みは、こざきひろみち。熊本藩士小崎次郎左衛門の5人兄弟の次男。霊南坂教会を創設し、同志社第2代社長(現総長)、日本組合基督教会会長、日本基督教連盟会長などを務めた。家紋は三つ笹竜胆紋。画像は青山霊園にて撮影。


曲木如長 。1858年3月 – 1913年10月16日、 法律家。
江戸神田橋生まれ。父は幕臣。読みは、まがきゆきなが。参事院御用掛兼太政官御用掛、司法官、検事、弁護士、東京市市会議員などを歴任。明治法律学校や日本法律学校で教鞭をとる。訳書に『巴威里憲法』『日本刑法論』などがある。家紋は笹竜胆。


石川倉次 。1859年2月28日 – 1944年12月23日、 教諭。
静岡県浜松市中区鹿谷町出身。読みは、いしかわくらじ。ルイ・ブライユが考案した6点式点字で日本語を表記する事に成功。「点字器」「点字ライター」も開発し、日本点字の父といわれている。家紋は丸に石川竜胆紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


郡司成忠 。1860年12月28日 – 1924年8月15日、 探検家。
江戸下谷三枚橋横町出身。幕臣幸田成延の次男。幸田露伴の兄。親戚の郡司家の養子となる。報効義会をつくり、占守 (シュムシュ) 島を探検して移住し、農業、漁業の開発にあたった。家紋は笹竜胆紋。画像は池上本門寺の墓所にて撮影。


武内桂舟 。1861年11月13日 – 1942年1月3日、 挿絵画家。
紀州藩江戸藩邸に生まれる。父・武内半介は、留守居役の紀州藩士で勝海舟と親しかったという。一時、月岡芳年の元で学ぶ。尾崎紅葉山田美妙、巌谷小波らの文学結社「硯友社」に参加し挿絵を描いた。家紋の笹竜胆紋は、上高田・正見寺にて撮影。


日高真実 。1864年9月17日 – 1894年8月20日、 教育学者。
高鍋藩出身。読みは、ひだかまさね。最初の東京帝国大学教育学教授。教育哲学・教育史・比較教育の知識を元に日本の現実を見据えたうえでの教育学を形成しようとした日本の教育学の祖。家紋は笹竜胆紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


各務鎌吉 。1869年2月3日 – 1939年5月27日、 実業家。
美濃国方県郡出身。読みは、かがみけんきち。父・省三は大蔵官僚。姉は森槐南の妻。東京海上火災保険の社長を始め三菱財閥の要職を務めた。日本人実業家として初めて『TIME』誌誌の表紙を飾る。家紋は丸に笹竜胆紋。画像は多磨霊園にて撮影。


和合英太郎 。1869年8月15日 – 1939年6月11日、 実業家。
安芸国土手町出身。広島藩士・和合義男の長男。機械製氷株式会社を設立。その後、各地の製氷会社を吸収合併し日本製氷社長就任、現在のニチレイの基礎を築く。また日本冷凍協会会長となり日本の製氷・冷凍業界の発展に貢献。画像は多磨霊園にて撮影。


喜多村緑郎 。1871年9月7日 – 1961年5月16日、 女形俳優。
東京市日本橋区橘町の薬種問屋に生まれた。本名は六郎。伊井蓉峰河合武雄とともに、「新派の三頭目」と呼ばれた。ほとんどが女役ばかりを演じた。人間国宝に認定され、文化功労者に選ばれた。家紋は笹竜胆紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


泉鏡花 。1873年11月4日 – 1939年9月7日、 小説家。
石川県金沢市下新町出身。父・清次は象眼細工・彫金等の錺職人。尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志す。代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」。家の家紋は笹竜胆であったが、源氏香紋の中の紅葉賀を常用していたという。


湯浅倉平 。1874年2月1日 – 1940年12月24日、 政治家。
山口県豊浦郡出身。初名は石川倉之丞。実父が福島県士族湯浅家の養子となったため、自身も同家に入り「湯浅倉平」と改称。内大臣として、第1次近衛内閣、平沼内閣、阿部内閣の生みの親となる。家紋の笹竜胆は「石川」姓の名残を示すか。


横瀬夜雨 。1878年1月1日 – 1934年2月14日、 詩人、歌人。
茨城県真壁郡横根村出身。本名は虎寿(とらじゅ)。『文庫』に民謡調の詩を発表し、詩集『花守』を刊行して浪漫的な色彩で人気を博した。筑波嶺詩人と呼ばれた。代表作は『お才』。家紋の情報は、文学者掃苔録図書館より。家紋笹竜胆紋。


比嘉春潮 。1883年1月9日 – 1977年11月1日、 社会運動家。
沖縄県西原町出身。読みは、ひがしゅんちょう。柳田國男の下で民俗学を研究、それを元に自らの沖縄学研究を深めていった。また、沖縄学の振興と沖縄返還の実現のための活動に努めた。家紋は丸に笹竜胆紋。画像は多磨霊園にて撮影。


有馬頼寧 。1884年12月17日 – 1957年1月9日、 政治家。
東京府出身。久留米藩主の有馬頼万の長男。母は岩倉具視五女恒子。読みは、ありまよりやす。第1次近衛内閣の農林大臣。競馬の発展や大衆化に尽力。中央競馬の有馬記念に名前を残す。家紋は、有馬巴と竜胆車紋。画像は祥雲寺の墓所にて撮影。


石川啄木 。1886年2月20日 – 1912年4月13日、 詩人。
岩手県南岩手郡に寺の住職・石川一禎の長男として出生。本名は、石川一。「東海の小島の磯の白砂に われ泣き濡れて蟹と戯むる」など有名詩を残す。代表作は小説『我等の一団と彼』、詩集『一握の砂』。家紋は丸に笹竜胆紋。石川啄木記念館にて確認。


多田北烏 。1889年4月3日 – 1948年1月1日、 挿絵画家。
長野県松本市出身。本名は嘉寿計。読みは、ただほくう。長年にわたって、キリンビールのポスターを手がける。日本のデザインスタジオの草分け的な存在である「サン・スタジオ」を設立。家紋は中陰笹竜胆紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


宇野浩二 。1891年7月26日 – 1961年9月21日、 小説家・作家。
福岡県福岡市南湊町に出生。本名は宇野格次郎。『苦の世界』を発表し新進作家として文壇で認められる。「文学の鬼」と呼ばれた。代表作は『苦の世界』『子を貸し屋』『枯木のある風景』。家紋は竜胆車。画像は台東区の広大寺にて撮影。


山崎保代 。1891年10月17日 – 1943年5月29日、 陸軍軍人。
山梨県南都留郡禾生村出身。僧侶・山崎玄洞の二男として生れる。読みは、やまざきやすよ。大東亜戦争中に、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後、戦死した。最終階級は陸軍中将。家紋は笹竜胆紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


長谷川潔 。1891年12月9日 – 1980年12月13日、 版画家。
神奈川県横浜市出身。読みは、はせがわきよし。黒田清輝岡田三郎助から洋画を学ぶ。渡仏し、様々な銅版画の技法を習熟。メゾチントと呼ばれる古い版画技法を復活させ独自の様式として確立させた。家紋は笹竜胆紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


石川欣一 。1895年3月17日 – 1959年8月4日、 ジャーナリスト。
東京出身。父は動物学者の石川千代松。母・貞は法学者・箕作麟祥の娘。妻・江は東山千栄子の妹。大阪毎日新聞社、東京日日新聞社などで記者をする傍らで、文筆業を行う。著作には『旅から旅へ』『たばこ談義』がある。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


アダチ龍光 。1896年7月20日 – 1982年10月13日、 奇術師。
越後の禅寺の息子に生まれる。本名は中川一。落語協会に所属し、上品な語り口でマジックを披露して人気を博した。日本奇術協会会長を務める。昭和天皇の古希のお祝いに皇居で奇術を披露している。家紋は笹竜胆紋。画像は浅草は萬隆寺にて撮影。


龍胆寺雄 。1901年4月27日 – 1992年6月3日、 作家。
千葉県佐倉市出身。本名は橋詰雄。読みは、りゅうたんじゆう。「改造」発表の「アパアトの女たちと僕と」で作家としての評価を確立。サボテン研究家としても有名で「シャボテン幻想」を著す。家紋は笹竜胆紋(川本三郎の「今日はお墓参り」より)。


石川達三 。1905年7月2日 – 1985年1月31日、 小説家。
秋田県平鹿郡横手町出身。『蒼氓』で第1回芥川龍之介賞を受賞。日本ペンクラブ第7代会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、A・A作家会議東京大会会長を歴任。家紋の笹竜胆紋はほくとライブラリー明徳館にて教えて頂きました。


中井英夫 。1922年9月17日 – 1993年12月10日、 小説家、詩人。
東京市滝野川区出身。読みは、なかいひでお。代表作の長編小説『虚無への供物』は夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』と共に日本推理小説の三大奇書に数えられる。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は笹竜胆紋。


立原正秋 。1926年1月6日 – 1980年8月12日、 小説家・随筆家。
朝鮮慶尚北道安東郡生れ。本名は金胤奎、キム・ユンキュ。「薪能」「剣ヶ崎」が芥川賞、「漆の花」が直木賞候補となる。代表作は『冬の旅』『秘すれば花』『日本の庭』など。家紋は尻合わせ三つ笹竜胆紋。画像は鎌倉・瑞泉寺の墓所にて撮影。


石川力夫 。1926年 – 1956年2月2日、 ヤクザ。
茨城県出身。親分の家に殴り込み日本刀で斬りつけた。ヤクザの憲法である「仁義」に背いた反逆者として斯界の伝説となる。刑務所の屋上から飛び降り自殺。死後に「仁義の墓場」というタイトルで映画化された。家紋は笹竜胆。石川姓の代表紋である。


久我美子 。1931年1月21日 – 、 女優。
東京都出身。村上源氏の流れを汲む華族の家柄で、清華家の家格を有した公家家系。父・久我通顕は侯爵。代表出演作『醉いどれ天使』『彼岸花』『太陽とバラ』『3時のあなた』の司会者を務める。家紋は五つ竜胆車紋。画像は「古事類苑」の竜胆タスキ。


長門勇 。1932年1月1日 – 2013年6月4日、 俳優。
岡山県倉敷市出身。本名は平賀湧。のほほんとした親しみやすいキャラクターが印象的な名優。金田一耕助シリーズに多数出演。代表作『てなもんや三度笠』『三匹の侍』『スチャラカ社員』等。家紋は丸に剣片喰と笹竜胆。画像は春秋苑にて撮影。


由紀さおり 。1948年11月13日 – 、 歌手、俳優。
群馬県桐生市出身。本名は、安田章子。代表ヒット曲は「夜明けのスキャット」「故郷」「手紙」など。「恋文」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞、映画『家族ゲーム』では日本アカデミー賞助演女優賞を受賞。家紋の竜胆紋は墓所写真にて確認。


生島ヒロシ 。1950年12月24日 – 、 アナウンサー、タレント。
出身は宮城県気仙沼市。TBSにアナウンサーとして入社。『生島ヒロシのおはよう一直線』等の番組を持つ。福祉への造詣も深く義母の介護体験から『おばあちゃま、壊れちゃったの?』を出版。家紋は笹竜胆紋。画像は青山・梅窓院の生島家墓所にて撮影。


いしかわじゅん 。1951年2月15日 – 、 漫画家。
愛知県豊田市出身。本名は石川潤。ギャグ漫画をはじめ、漫画およびプロレス評論、エッセイ、小説など、手広く発表する。代表作は『フロムK』『漫画の時間』『だってサルなんだもん』など。家紋は笹竜胆紋であるとツイッター上で告白した。


見沢知廉 。1959年8月23日 – 2005年9月7日、 活動家、作家。
東京都文京区生まれ。本名は高橋哲夫。旧姓、平井。三島事件に感銘を受けた事を機に日本学生同盟に加入。日本IBM、英国大使館等への火炎ゲリラ活動等の事件を起こし逮捕。代表作は獄中で執筆した『天皇ごっこ』『囚人狂時代』等。


雅山哲士 。1977年7月28日 – 、 大相撲力士。
茨城県水戸市出身。本名は竹内雅人。武双山の父に指導を受け強くなった。藤島部屋(入門時は武蔵川部屋)所属。初土俵から4場所連続優勝という記録を作る。最高位は西大関。現在は現役を引退し、二子山を名乗る。家紋は笹竜胆。


鹿賀りん 。2005年8月10日 – 、 「うさぎドロップ」登場人物。
鹿賀宋一と吉井正子の娘、河地大吉の血縁関係上の叔母。苗字は祖父と同じ鹿賀。名前の「りん」は宋一が好きだった竜胆から取られた。宋一の葬式の後に大吉と一緒に暮らすようになる。家紋は丸に笹竜胆。宋一の葬儀のときの提灯より判断。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

杏葉紋 -九州武将あこがれ、異国の馬具を模した紋- 大友宗麟、五代友厚、徳田秋声...


杏葉とは馬具の装飾品。
法然上人の生家の漆間家がこの杏葉紋のため、浄土宗系の寺院の寺紋となっている場合がある。
例えば、伊能忠敬が眠る上野の源空寺、喜多川歌麿が眠る北烏山の専光寺など。画像は、専光寺の杏葉紋。

この紋は、室町時代、九州の大友氏と有力家臣が使用していた。1570年、竜造寺隆信が大友宗麟を戦で破り、その紋を奪った。
さらに、その竜造寺家から、重臣の鍋島家がこの紋を奪った。
それほど、九州地方では憧れの紋だったのである。

したがって、この紋を持つ人は現在でも九州地方の多い。
佐賀県の19位が最高。福岡県、大分県で21位、長崎県で23位、熊本県で25位。九州以外では、広島県で28位。

杏葉紋を使用している有名人は以下。


立花道雪 。1513年4月22日 – 1585年11月2日、 武将。
豊後の戦国大名である大友氏の家臣。耳川の戦いで大友氏が衰退した後も大友氏を支え続けたが、高齢を押して出陣したために病に倒れ死去した。半身不随にも関わらず、勝利し続けたため「鬼道雪」「雷神」と称された。 家紋は花杏葉。


龍造寺隆信 。1529年3月24日 – 1584年5月4日、 大名。
龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男。本姓は藤原氏。「肥前の熊」ともいわれた。大友氏を破り島津氏と並ぶ勢力を築き上げたが島津有馬氏の連合軍との戦いで敗死した。家紋は日足(左)、剣花菱(中央)、杏葉(右)。


大友宗麟 。1530年1月31日 – 1587年6月11日、 戦国大名。
大友氏は鎌倉~南北朝にかけて九州で権勢を振るう。宗麟時代に大内氏や毛利氏の勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定した。当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。家紋の花杏葉は「見聞諸家紋」より。


恋川春町 。1744年 – 1789年8月27日、 戯作者。
紀州徳川家附家老の安藤次由の家臣・桑島勝義の次男として誕生。父方伯父の倉橋勝正の養子となる。本名は倉橋格。『金々先生栄花夢』で当世風俗を描き、黄表紙というジャンルを開拓。家紋は三つ並び杏葉紋か?画像は成覚寺にて撮影。


江木鰐水 。1810年12月22日 – 1881年10月8日、 儒学者。
安芸国出身。庄屋福原与曽八の三男。読みは、えぎがくすい。頼山陽に師事。福山藩主阿部正弘に抜擢され、藩儒官となる。ペリーの2度目来航時に応接係に随行。箱館戦争にも参加した。家紋は花杏葉菱紋。画像は谷中霊園にて。


鍋島直正 。1815年1月16日 – 1871年3月8日、 大名。
父の隠居の後を受け17歳で第10代藩主に襲封。藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革を行う。アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した。家紋は鍋島杏葉。青山墓地の鍋島氏の墓所にて撮影。


壬生基修 。1835年4月4日 – 1906年3月5日、 公卿、伯爵。
京都出身。庭田重基の三男として生まれ壬生道吉の養子となる。読みは、みぶもとおさ。尊王攘夷派の公家として長州藩に下向(七卿落ち)。維新後は東京府知事、元老院議官、平安神宮初代宮司を歴任。家紋は園杏葉紋。画像は多磨霊園にて撮影。


松濤権之丞 。1836年 – 1868年4月頃、 実業家。
江戸出身。中浜万次郎、林和一郎らと鳥島に上陸し、権之丞の筆による「日本属島鳥島」の標柱を立てた。遣仏使節の随員として仏留学を果たす。やがて勝海舟配下の軍事方の一人になり、幕府内部の恭順工作を担当。家紋は抱き杏葉紋。


五代友厚 。1836年2月12日 – 1885年9月25日、 実業家。
薩摩国出身。記録奉行の五代直左衛門秀尭の息子。大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、共同運輸会社、阪堺鉄道(現・南海電鉄)等の創設に関わる。家紋は丸に組み違い十字久留子紋と抱き杏葉紋。画像は青山霊園にて撮影。


高崎正風 。1836年9月8日 – 1912年2月28日、 志士、歌人。
薩摩国川上出身。薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭の長男。志士として活躍。八月十八日の政変薩会同盟の立役者となる。新政府に出仕。宮中の侍従番長、翌年から御歌掛などをつとめる。家紋は抱き花杏葉紋。青山霊園の墓所にて撮影。


四辻清子 。1840年 – 1902年1月10日、 女官。
京都出身。権大納言四辻公績の娘。読みは、よつつじきよこ。祐宮立太子にあたり高松と称し、明治天皇の典侍となる。権典侍、中納言典侍、紅梅典侍などと改称。46年間側近としてつかえた。家紋は抱き杏葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


安川敬一郎 。1849年5月9日 – 1934年11月30日、 実業家。
福岡藩足軽の家柄。玄洋社の社員となり、孫文を神戸から東京に迎え、5百円の生活費を提供していたという。実業家としては、安川電機、九州製鋼(のち八幡製鐵所が買収)、黒崎窯業を設立する。家紋の抱き花杏葉紋は、「華族家系大成」による。


小室信介 。1852年9月4日 – 1885年8月25日、 民権運動家。
丹後国出身。砲術家・小笠原忠四郎の第二子。豪商・小室信夫の養子となる。養父は民撰議院設立建白書に板垣退助ら4人の旧参議と共に署名した一人。自身も関西における自由民権運動の雄となる。家紋は抱き花杏葉紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


目賀田種太郎 。1853年8月25日 – 1926年9月10日、 法学者。
江戸本所太平町出身。大蔵省主税局長、枢密院顧問官などを歴任。相馬永胤田尻稲次郎駒井重格と共に、専修学校(現:専修大学)を創設した。東京音楽学校(現:東藝大)創設の基礎を築く。家紋の抱き杏葉紋は池上本門寺の墓所にて撮影。


立花小一郎 。1861年3月20日 – 1929年2月15日、 陸軍軍人。
三池藩家老・立花硯の長男として生れる。朝鮮駐剳軍参謀長、朝鮮総督府警務総長、関東軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将。その後は、福岡市長、貴族院議員を務めた。家紋は立花変り杏葉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


徳田秋声 。1872年2月1日 – 1943年11月18日、 小説家。
金沢市横山町に加賀藩の陪臣横山雲平の子として生まれる。本名は末雄。島崎藤村正宗白鳥らと共に日本ペンクラブの設立にも参加。代表作は『薮かうじ』 『感傷的の事』『光を追うて』など。家紋は抱き花杏葉紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


秦勉造 。1877年 – 1943年7月15日、 実業家、医学博士。
東京出身。東京帝国大学医科大学卒業。札幌病院外科医長となる。北海道帝国大学医学部創設とともに同大学医学部教授、初代医学部長となり北海道外科学の進歩に貢献。東京同愛記念病院の開設に尽力。画像は多磨霊園にて撮影。家紋は抱き杏葉紋。


朝倉文夫 。1883年3月1日 – 1964年4月18日、 彫刻家。
大分県大野郡上井田村出身。村長・渡辺要蔵の三男として生まれ、10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員)の養子に入る。高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮として活躍。「東洋のロダン」と呼ばれた。家紋の花杏葉紋は朝倉文夫記念館にて教えて頂きました。


国広富之 。1953年4月23日 -、 俳優。
京都府京都市左京区出身。本名は、國廣富之。ファッションモデル兼女優の谷内里早は、実娘。『赤い絆』、『噂の刑事トミーとマツ』など人気ドラマで活躍。家紋の抱き杏葉紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
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蛇の目紋 -神秘的なヘビ信仰を現代に伝える- 加藤清正、加藤友三郎、加藤楸邨...


蛇の目に似ているため、蛇の目紋と呼ばれる。
おそらく、古来、蛇の神秘的な姿や動きに聖なるものを感じた日本人がその神秘的な力にあやかろうと家紋にしたのであろう。シンプルなデザインに力強さを感じさせる。

また、この紋は元々は、弦巻紋とも呼ばれていた。これは弓の弦を巻く籐製の輪の形から来ている。

戦国、安土桃山時代の武将・加藤清正が替紋にこの「蛇の目紋」を使った。
彼の長烏帽子についていた蛇の目は有名。

蛇の目紋を使用している有名人は以下。


佐久間信盛 。1528年 – 1582年2月18日、 武将、織田信長の家臣。
尾張国に生まれ、織田信秀に仕える。六角氏との戦い、一向宗との戦い、比叡山焼き討ちで武功を上げる。織田信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、信盛は嫡男・佐久間信栄と共に高野山に追放された。家紋は蛇の目九曜、三つ引両紋。


加藤清正 。1562年 – 1611年、 武将、大名。
尾張国愛知郡中村に鍛冶屋の子として出生。豊臣秀吉の家臣として仕え各地を転戦し、秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くした。関が原戦いでは東軍につき活躍。戦後、肥後一国を与えられた。家紋は桔梗と蛇の目を使用。写真は供養塔(本門寺)で撮影。


司馬江漢 。1747年 – 1818年11月19日、 絵師。蘭学者。
江戸出身。本名は安藤峻。鈴木春重は同一人物。天文・動植物など西洋博物学に興味を持ち日本に紹介。『和蘭天説』『刻白爾(コッペル)天文図解』等を著す。浮世絵師から洋風画家に至る。家紋は蛇の目紋に見える。画像は巣鴨・慈眼寺にて撮影。


篠原国幹 。1837年1月11日 – 1877年3月4日、 武士、軍人。
薩摩国鹿児島城下平之馬場町で篠原善兵衛の子として生まれる。戊辰戦争のとき、薩摩藩の城下三番小隊の隊長となって鳥羽伏見の戦いに参戦。西郷隆盛が下野すると近衛長官の職をなげうって鹿児島へ帰り、西南戦争に参戦、戦死。家紋は丸に蛇の目紋。


平岡浩太郎 。1851年7月21日 – 1906年10月24日、 運動家。
福岡藩士平岡仁三郎の次男として福岡市地行に生まれる。幼名は銕太郎。戊辰戦争で官軍側として活躍。維新後、自由民権運動に参加。玄洋社の初代社長に就任。日本に亡命した孫文に活動費、生活費を援助する。家紋の蛇の目紋は福岡市の聖福寺にて撮影。


賀古鶴所 。1855年2月18日 – 1931年1月1日、 医師、歌人。
遠江国の出身。父は、浜松藩の藩医賀古公斎。読みはかこつると。日本陸軍軍医。歌人としても常盤会を開催した。森鴎外の『舞姫』に登場する相澤謙吉は賀古がモデルと言われている。家紋は五三鬼桐に蛇の目紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


佐々友房 。1854年2月20日 – 1906年9月28日、 政治家、教育者。
肥後国出身。藩士・佐々陸助の二男。戦国武将、佐々成政の子孫という。初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行は孫。西南戦争には薩軍として参戦。同心学舎(現在の熊本県立済々黌高等学校)を設立。家紋の蛇の目紋は小峰墓所にて撮影。


加藤友三郎 。1861年4月1日 – 1923年8月24日、 海軍人、政治家。
広島市大手町出身。広島藩士・加藤七郎兵衛の三男。最終階級は元帥海軍大将。ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。第21代内閣総理大臣時代にはシベリア撤兵・軍縮の実施などの重要な課題を遂行。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


生江孝之 。1867年12月7日 – 1957年7月31日、 宗教家。
陸奥国仙台出身。仙台藩士生江元善の子。東京キリスト教青年会理事、東京府社会事業協会理事などを務めた。同志社大学今出川図書館にその蔵書2700冊を寄贈した「生江文庫」がある。家紋は蛇の目紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


川島義之 。1878年5月25日 – 1945年9月8日、 陸軍軍人。
愛媛県出身。松山中学時代は夏目漱石の教え子だったという。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任。岡田内閣で陸軍大臣に就任したが二・二六事件の処理に失敗。最終階級は陸軍大将。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


砂田重政 。1884年9月15日 – 1957年12月27日、 政治家。
愛媛県出身。1920年に立憲国民党から衆議院議員に初当選。第2次鳩山内閣にて防衛庁長官として入閣。保守合同後は自由民主党で総務会長を務める。千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に熱心に取り組んだ。家紋は桔梗紋と蛇の目紋。画像は小平霊園にて撮影。


野上弥生子 。1885年5月6日 – 1985年3月30日、 小説家。
大分県臼杵市出身。フンドーキン醤油の創業家(小早川家)に生まれる。夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚。代表作は『真知子』『迷路』『森』『秀吉と利休』など。蛇の目紋は小早川家の家紋。「新潮日本文学アルバム 野上弥生子」にて確認。


加藤楸邨 。1905年5月26日 – 1993年7月3日、 俳人、国文学者。
東京市北千束に生まれる。父が鉄道官吏。俳誌『寒雷』を創刊し主宰。そこから金子兜太、森澄雄を輩出。句集『まぼろしの鹿』で第二回蛇笏賞を受賞。紫綬褒章、勲三等瑞宝章を叙勲。日本芸術院会員。家紋は陰蛇の目紋。画像は九品仏浄真寺にて撮影。


山川方夫 。1930年2月25日 – 1965年2月20日、 作家。
東京市下谷区上野桜木町に日本画家山川秀峰の長男として出生。本名は山川嘉巳。第3次『三田文学』を創刊。新人発掘に力を注ぎ曾野綾子、江藤淳などを発掘。代表作は『演技の果て』『海の告発』。家紋は蛇の目に桔梗紋。画像は妙覚寺にて撮影。


高見盛精彦 。1976年5月12日 -、 大相撲力士。
青森県北津軽郡板柳町出身。本名は、加藤精彦。読みは、たかみさかりせいけん。ニックネームは「角界のロボコップ」。最高位は、小結。金星は2個。現在は年寄・振分として東関部屋で後進の指導に当たっている。家紋は丸に下がり藤に蛇の目紋。

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久留子紋 -隠れキリシタンがつけた悲しい紋- 小西行長、伊庭八郎、大島渚...


キリシタン禁止後、信者は、この紋を使用して十字架をカモフラージュしたといわれている。
そこまでして信仰を守ろうとした人々の気持ちを考えると、その意志の強さと同時に悲しさも感じさせる。

使用する有名人は以下。


小西行長 。1555年 – 1600年11月6日、 武将、大名。
京都出身。堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男。12才から秀吉に仕え数々の手柄を上げ南肥後の20万石を与えられた。朝鮮出兵時、加藤清正と先陣を争ったことでも有名。関ヶ原の戦いで西軍の将として敗北。家紋は花久留子と中結祇園守


伊庭八郎 。1844年 – 1869年6月26日、 幕臣。
江戸出身。伊庭軍兵衛秀業の長男。読みは、いばはちろう。遊撃隊員として鳥羽・伏見の戦いに参戦。隻腕ながらも幕軍を率いて徹底抗戦を続けるが五稜郭開城の前夜に自決。家紋は丸に枷木久留子紋。画像は中野区・貞源寺の伊庭家墓所にて撮影。


伊集院五郎 。1852年9月27日 – 1921年1月13日、 海軍軍人。
薩摩国出身。藩士の息子。西南戦争に参軍。伊集院信管を開発。バルチック艦隊を撃破する大きな要因となり日本海海戦勝利の影の功労者と言われた。最終階級は、元帥海軍大将。家紋は丸に花角久留子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


中島敦 。1909年5月5日 – 1942年12月4日、 小説家。
日本橋新乗物町出身。中島家は代々、駕籠を製造販売する商家だったが祖父・中島撫山は漢学者となり、父・中島田人は旧制中学の漢文の教員となる。代表作は『山月記』『文字禍』『李陵』。家紋は花久留子菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


石井好子 。1922年8月4日 – 2010年7月17日、 シャンソン歌手。
東京都出身。日本シャンソン界の草分け。料理の鉄人にたびたび審査員として出演。父は政治家・石井光次郎久原房之助は祖父。大隈信幸五島昇は叔父。朝吹三吉は義兄。家紋は雪輪に丸に枷木久留子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


大島渚 。1932年3月31日 – 2013年1月15日、 映画監督。
岡山県玉野市出身。父方は長崎県対馬、先祖は対馬藩士。松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として、『青春残酷物語』『太陽の墓場』などを監督する。代表作品は、『戦場のメリークリスマス』。画像は丸に建長寺の墓所にある水桶に描かれた十字出久留子紋。


魁輝薫秀 。1952年6月12日 -、 元大相撲力士。
青森県上北郡七戸町出身。本名は、西野政章。所属は友綱部屋。最高位は関脇。引退後は、日本相撲協会理事を3期務め、年寄・友綱隆登として友綱部屋を経営し、大関・魁皇、関脇・魁聖などを育てた。家紋は中川久留子紋。


眠狂四郎 。江戸時代、 剣客。
柴田錬三郎の小説に登場する剣客。転びバテレンと日本人の混血という出自を持ち、平然と人を斬り捨てる残虐性を持ち、「円月殺法」という剣術を用いて活躍。映画では、鶴田浩二市川雷蔵松方弘樹等が演じている。家紋は角花久留子紋。

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丁子紋 -南洋に対する想いを表した紋- 高倉健...


丁子とは、モルッカ諸島原産の常緑樹。
その蕾を干したものは、香料、薬として珍重されたという。
一般的には、この薬を珍重した藤原系の家(押公路、前田、甲藤など)が使用したといわれているが、もしかしたら、南洋からの移民が先祖を忘れないために紋にしたのかもしれない。

だから、この紋の使用家は、九州全般、特に鹿児島県(16位)に多い。
また、その他では、富山県(19位)に多い。おそらく薬の名産地(富山の薬売り)と関係があるのではないだろうか。

使用する有名人は以下。


英一蝶 。1652年 – 1724年2月7日、 日本画家。
京都生まれ。本姓は藤原、多賀氏。読みは、はなぶさいっちょう。父・多賀伯庵は伊勢亀山藩の侍医。肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残すも、生類憐みの令違反で三宅島へ流罪となる。家紋は五つ丁子紋。画像は池上本門寺の英家墓所にて撮影。


三条西季知 。1811年3月20日 – 1880年8月24日、 公卿。
京都出身。権中納言となり重んじられる。三条実美らと長州へ下向、いわゆる七卿落ちの一人となる。明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主、明治天皇の歌道師範となった。家紋は八つ丁子車紋。画像は谷中霊園にて撮影。


村垣範正 。1813年10月17日 – 1880年3月15日、 外国奉行。
江戸築地出身。村垣家は代々庭番役を勤めていた。安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年には神奈川奉行を兼務する。家紋の丸に抱き丁子紋と地抜き隅立て角に左三つ巴紋は天王寺墓地にて撮影。


川路利良 。1834年6月17日 – 1879年10月13日、 警察官僚。
薩摩藩与力、川路利愛の長男として薩摩国鹿児島近在の比志島村に出生。禁門の変で戦功を挙げ西郷隆盛大久保利通から高く評価された。欧米の近代警察組織の骨格を初めて構築した日本警察の父。家紋は六つ丁子車紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


野津道貫 。1841年12月17日 – 1908年10月18日、 陸軍軍人。
鹿児島城下高麗町出身。下級藩士の二男。妻は高島鞆之助の妹。上原勇作は娘婿。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争に参戦。最終階級は元帥陸軍大将。兄の野津鎮雄も長じて陸軍中将となる。家紋は六つ追い丁子紋。青山霊園にて撮影。


曾我祐準 。1844年2月13日 – 1935年11月30日、 陸軍軍人。
筑後国出身。柳河藩士・曾我祐興の次男。読みは、そが すけのり、すけゆき。山縣有朋大山巌ら陸軍内の藩閥勢力に対し、三浦梧楼谷干城鳥尾小弥太と反主流派を形成した。家紋の右一つ丁子巴紋は、「華族家系大成」による。


園田安賢 。1850年10月6日 – 1924年8月7日、 警察官僚。
薩摩国出身。藩士・園田良右衛門の長男。読みは、そのだやすかた。西南戦争に抜刀隊巡査部隊の長として従軍し、戦傷を受けた。後に、石川県警部長、警視総監、貴族院男爵議員などを歴任。家紋の六つ丁子紋は、「華族家系大成」による。


浜田玄達 。1855年1月14日 – 1915年2月16日、 医学者。
肥後国(熊本県)大岳村出身。日本の産婦人科学のパイオニアとして日本婦人科学会を創立、会長を連続務めた。また、帝大医科大(東大)教授、医科大学長、宮内省御用掛もつとめた。家紋は丁子片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


竹内明太郎 。1860年3月20日 – 1928年3月23日、 実業家。
高知県宿毛市出身。竹内綱の長男で吉田茂の長兄。読みは、たけうちめいたろう。自由民権運動に関わり、自由党に入党。実業家としては小松製作所日産自動車の前身の快進社を設立。家紋は左三つ丁子巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


町田忠治 。1863年5月17日 – 1946年11月12日、 政治家。
出羽国秋田郡久保田城下に秋田藩士・町田伝次の四男として誕生。愛称はノンキナトウサン。国務大臣、大蔵大臣、商工大臣、農林大臣、立憲民政党・日本進歩党総裁などを歴任。一時期、報知新聞社社長も兼任した。家紋は右二つ丁子巴紋。


藤山雷太 。1863年9月13日 – 1938年12月19日、 実業家。
肥前国松浦郡大里村の庄屋・伊吹家の三男として出生。芝浦製作所(後の東芝)の支配人、王子製紙の専務取締役を歴任。歌舞伎座取締役として帝国劇場の創立にも関わる。慶應義塾大学構内に銅像がある。家紋は六つ丁子紋。画像は多磨霊園にて撮影。


野口寧斎 。1867年4月29日 – 1905年5月12日、 漢詩人。
長崎県諫早出身。漢詩人であり官吏だった野口松陽の長子。読みは、のぐちねいさい。明治期漢詩界の大家・森槐南の一番弟子。七言律詩によって評した「韻語陽秋」が人気を博した。家紋は二重丸に違い丁子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


清水澄 。1868年9月27日 – 1947年9月25日、 憲法、行政法学者。
石川県金沢市出身。宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したが日本国憲法が施行された後に自殺。家紋は折入り角に右一つ丁子紋。画像は青山霊園にて撮影。


山本昇雲 。1870年12月30日 – 1965年5月10日、 報道画家。
高知県長岡郡出身。旧土佐藩・山内家の下級武士で古物商を営む家の次男。本名は茂三郎。20年間にグラフ誌「風俗画報」の表紙、口絵、挿画など1300点を描く一方で日本画も残す。家紋の正確な名称は現在確認中。画像は青山霊園にて撮影。


小倉正恒 。1875年3月22日 -1961年11月20日、 実業家、政治家。
石川県金沢市出身。旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男。読みは、おぐらまさつね。住友財閥総帥として住友の企業経営を徹底して合理化する。この間、貴族院議員として国務大臣、大蔵大臣も務める。家紋は丁子三つ葵紋。画像は青山霊園にて撮影。


岡村寧次 。1884年5月15日 – 1966年9月2日、 陸軍軍人。
東京府出身。父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。読みは、おかむらやすじ。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将。戦後は中国国民党政権に協力した。家紋は丸に五つ丁子。画像は、岡村家菩提寺・長安寺にて撮影。


井上日召 。1886年4月12日 – 1967年3月4日、 テロリスト。
群馬県利根郡出身。医師の家に生まれる。読みは、いのうえにっしょう。本名は井上昭。日蓮主義自称の僧侶で戦前の右翼テロリスト集団血盟団、戦後の右翼団体護国団の指導者。近衛文麿のブレーンも務めた。家紋は六つ丁子紋。紋付姿の写真より判断。


藤村操 。1886年7月20日 – 1903年5月22日、 旧制一高の学生。
北海道出身。祖父の藤村政徳は盛岡藩士。日光の華厳滝で自殺。当時の社会に大きな影響を与えた。また、当時、藤村のクラスで英語担当だった夏目漱石の精神にも大きな打撃を与えた。家紋は六つ丁子に釘抜き紋。青山霊園の藤村家の墓所にて撮影。


宮川竹馬 。1887年4月18日 – 1964年8月27日、 実業家。
高知県幡多郡入野村早咲出身。戦後復興期の電力業界人として活躍。1951年電力九分割によって誕生した四国電力株式会社の初代社長となる。その際、電力九分割案を松永安左エ門と協力してつくった。家紋は、丸に三丁子紋。多磨霊園の墓所にて撮影。


大麻唯男 。1889年7月7日 – 1957年2月20日、 政治家。
熊本県玉名市出身。読みは、おおあさただお。東條内閣の国務大臣として初入閣を果たした。政党政治家として戦前から戦後にかけて政友本党、立憲民政党、改進党、日本民主党、自由民主党等を渡り歩く。家紋は六つ丁子車紋。青山霊園にて撮影。


海音寺潮五郎 。1901年11月5日 – 1977年12月1日、 小説家。
鹿児島県伊佐郡大口村出身。本名は末富東作。「天正女合戦」等で第3回直木賞受賞。史伝文学の復興に対する功績があった。代表作は『西郷隆盛』『天と地と』『海と風と虹と』『悪人列伝』等。家紋は六つ丁子。家紋画像は、和田堀廟所にて撮影。


郡司正勝 。1913年7月7日 – 1998年4月15日、 演劇評論家。
北海道札幌市出身。読みは、ぐんじまさかつ。『かぶき・様式と伝承』で、芸術選奨文部大臣賞を受賞。代表著作は、『かぶきの美学』『かぶきの発想』『おどりの美学』など。早稲田大学名誉教授。家紋の丸に左三つ丁子巴紋は墓所写真にて確認。


富永一朗 。1925年4月25日 – 、 漫画家。
京都府京都市生まれ。大分県佐伯市育ち。1976年より1994年まで放送された長寿番組『お笑いマンガ道場』に出演。代表作は『チンコロ姐ちゃん』『ポンコツおやじ』など。家紋は地抜き左二つ丁子巴。画像は、すがも平和霊園の墓所にて撮影。


高倉健 。1931年2月16日 – 2014年11月10日、 俳優。
福岡県中間市出身。父は旧海軍軍人で裕福な一家に生まれる。本名は小田剛一。東映に第2期ニューフェイスとして入社。代表出演作『網走番外地』『八甲田山』『南極物語』『鉄道員』等。家紋の丸に違い丁子は福岡県中間市・小松山正覚寺にて撮影。


増位山太志郎 。1948年9月16日 – 、 大相撲の力士。
大関増位山大志郎の長男として東京に生まれる。本名は澤田昇。最高位は大関。現年寄・三保ヶ関。歌手として「そんな女のひとりごと」「そんな夕子にほれました」等のヒット曲がある。家紋は三保ヶ関部屋の玄関にある隅切り角に違い丁子紋。


把瑠都凱斗 。1984年11月5日 – 、 元大相撲の力士。
エストニア共和国出身。スウェーデン系。エストニア柔道ジュニア王者を経て大相撲入り。入門前、バーの用心棒を務めていた。最高位は大関。得意技は左四つ、寄り、吊り。家紋は入門時所属の三保ヶ関部屋の隅立て角に違い丁子を受け継ぎ丸に違い丁子。

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葵紋 -徳川家の紋としてあまりにも有名- 徳川家康、山南敬助、北大路魯山人...


平安時代、7月7日に宮中で行われた相撲会の際、東方から登場する力士は葵の葉を、西方から登場する力士は夕顔の花を髪飾りにして入場した。
そこから「花道」という言葉が出来たという。

葵紋といえば、徳川家の家紋として有名。
しかし、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵)であるため、徳川家はもともと、賀茂一族の出ではないかと言われている。

また、善光寺の寺紋(立葵)でもある。

有名使用者は以下。


本多重次 。1529年 – 1596年8月9日、 戦国武将。徳川氏の家臣。
勇猛果敢で剛毅な性格に由来する「鬼作左」の通称で知られた。三河一向一揆鎮圧戦などで大いに活躍し戦功を挙げた。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一短い手紙の作者としても有名。家紋は丸に立ち葵。画像は向丘高林寺にて撮影。


本多正信 。1538年 – 1616年7月20日、 武将・大名。
三河出身。徳川家康の重臣で、江戸幕府の老中。家康が抱える鷹匠から身を興し、2代将軍秀忠の最側近として幕政の中枢にあり絶大な権勢を振るった。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。家紋の丸に立ち葵は一乗寺にある子・正純の墓所にて撮影。


徳川家康 。1543年1月31日 – 1616年6月1日、 武将・大名。
本姓は先に藤原氏、次いで源氏を称した。家系は三河国の国人土豪・松平氏。後に、徳川氏に改姓。江戸幕府の初代征夷大将軍。織田信長豊臣秀吉と並ぶ三英傑の一人。家紋は三つ葉葵紋。画像は、陣羽織に描かれた三つ葉葵紋。


本多忠勝 。1548年 – 1610年12月3日、 武将・大名。
徳川本家の最古参の安祥譜代の本多氏で本多忠高の長男。本姓は藤原氏。家康の家臣として数々の武功を上げる。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられた。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。家紋は立葵(左)と丸に本の字。


徳川忠長 。1606年 – 1634年1月5日、 駿府藩主、甲府藩主。
江戸幕府・二代将軍・秀忠の次男として江戸城にて出生。母は浅井長政の娘で正室の江。晩年は領地を没収され、逼塞先の高崎で自害。高崎市大信寺の忠長の墓所には裏葵(画像)が彫られている。顔画像は大河ドラマ「江」における幼少時の忠長(国松)。


賀茂真淵 。1697年4月24日 – 1769年11月27日、 国学者、歌人。
浜松の神官・岡部政信の三男。賀茂神社神官の末流。荷田春満本居宣長平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人とされる。万葉集などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究した。主著『歌意考』『万葉考』『国意考』。家紋は二葉葵。


松平不昧 。1751年3月11日 – 1818年5月28日、 松江藩藩主。
直政系越前松平家・宗家7代。茶人としての才能は超一流で収集した茶器の銘品・銘菓は不昧公御好みとして現在にも伝えられている一方で、家老・朝日茂保の藩政改革によって潤った藩財政を茶道具道楽で潰したとも言われている。画像は護国寺にて撮影。


山南敬助 。1833年 – 1865年3月20日、 新選組総長(副長)。
仙台藩出身。姓は藤原氏。小野派一刀流免許皆伝、後に北辰一刀流・千葉周作門人となる。後に浪士組に参加、副長に就任するが脱退、切腹。介錯は沖田総司が務めた。家紋は丸に右離れ三つ葉立ち葵。画像は大河ドラマ「新選組」の山南敬助(堺雅人)。


徳川慶喜 。1837年10月28日 – 1913年11月22日、 江戸幕府将軍。
江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として出生。大政奉還や新政府軍への江戸城無血開城を行なった江戸幕府最後(15代)の将軍。明治になってからは趣味に没頭した生活を送った。写真は谷中霊園の慶喜墓の門にある三つ葉葵紋。


本多庸一 。1849年1月7日 – 1912年3月26日、 教育者、宗教家。
青森県弘前市出身。読みは、ほんだよういつ。弘前藩士・本多八郎の長男。新島襄内村鑑三新渡戸稲造と並ぶ明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者。青山学院の第2代院長。家紋は丸に立ち葵紋。画像は六本木墓苑の飯山藩主本多家の紋。


林権助 。1860年3月23日 – 1939年6月27日、 外交官。
会津藩出身。会津藩大砲隊長として著名な林権助安定は祖父。会津戦争では幼いながらも若松城に籠城して官軍と戦う。維新後は外交官となり特に日韓併合の実現に尽力。退職後は宮内省御用掛となる。家紋は蔓四つ葵に花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。


本多静六 。1866年8月11日 – 1952年1月29日、 造園家、林学博士。
武蔵国埼玉郡河原井村出身。読みは、ほんだせいろく。神武天皇祭の4月3日の「植栽日」を提唱。現在の全国植樹祭となる。後藤新平内務大臣より依頼されて、関東大震災からの復興の原案を作成。家紋は丸に立ち葵紋。画像は青山霊園にて撮影。


浦風林右衛門(9代) 。1868年1日8日 – 1917年5月17日、 力士。
石川県小松出身。本名は本多与志松。読みは、うらかぜりんえもん。八角右衛門部屋に入門。小松山与志松を名乗る。最高位は前頭筆頭。全盛期には横綱小錦を破った。引退後、9代目浦風林右衛門を襲名。家紋は蔓三つ葵の丸紋。画像は谷中霊園にて撮影。


本多光太郎 。1870年3月24日 – 1954年2月12日、 金属工学者。
愛知県碧海郡出身。読みは、ほんだこうたろう。鉄鋼の世界的権威者。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られ、「鉄の神様」「鉄鋼の父」などとも呼ばれた。日本人初のノーベル物理学賞の候補に挙がる。家紋の丸に立ち葵紋は、春秋苑の墓所にて撮影。


今村明恒 。1870年6月14日 – 1948年1月1日、 地震学者。
鹿児島県鹿児島市出身。薩摩藩士・今村明清の三男。1905年に、地震学者として今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告した。また、今村式強震計を開発、「地震の神様」と称された。家紋は三つ葉葵紋。画像は多磨霊園にて撮影。


小倉正恒 。1875年3月22日 -1961年11月20日、 実業家、政治家。
石川県金沢市出身。旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男。読みは、おぐらまさつね。住友財閥総帥として住友の企業経営を徹底して合理化する。この間、貴族院議員として国務大臣、大蔵大臣も務める。家紋は丁子三つ葵紋。画像は青山霊園にて撮影。


北大路魯山人 。1883年3月23日 – 1959年12月21日、 芸術家。
京都府京都市上賀茂出身。本名は房次郎。上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれる。篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など多方面で活躍。家紋は丸に六つ葵紋。画像は京都・西方寺にて撮影。


本田宗一郎 。1906年11月17日 – 1991年8月5日、 実業家。
静岡県磐田郡光明村出身。鍛冶屋をしていた本田儀平の子として出生。浜松市に本田技研工業株式会社(ホンダ)を設立し、世界的な大企業に育て上げる。正三位勲一等旭日大綬章受勲。家紋は丸に立ち葵紋。画像は冨士霊園の墓所にて撮影。


松平勇雄 。1907年6月14日 – 2006年4月1日、 政治家。
福島県大沼郡会津高田町出身。伊佐須美神社宮司・松平健雄(松平容保の次男)の次男。参議院議員を4期23年間、福島県知事も3期12年務めた。文化施設を設置し文化の知事と呼ばれた。家紋は河骨紋似の会津三つ葵紋。画像は多磨霊園にて撮影。


本多猪四郎 。1911年5月7日 – 1993年2月28日、 映画監督。
山形県東田川郡朝日村出身。読みは、ほんだいしろう。東宝に入社し、特撮映画以外に一般映画も数多く手がけた。代表作は『ゴジラ』『宇宙大戦争』『モスラ』など。家紋は丸に立ち葵紋。画像は多磨霊園の本多家の墓所にて撮影。


松平康隆 。1930年1月22日 – 2011年12月31日、 バレー監督。
東京市荏原区出身。読みは、まつだいらやすたか。旧加賀藩士で家老職を務めた松平大弐家の血を引く家系という。全日本男子代表監督として、メキシコ五輪で銀メダル、ミュンヘン五輪で金メダルへと導く。家紋は三葉葵紋。画像は多磨霊園にて撮影。


木原光知子 。1948年4月5日 – 2007年10月18日、 元水泳選手。
兵庫県明石市出身。岡山県岡山市で育つ。東京オリンピックに出場し「ミミ」の愛称で一躍アイドル選手となり、テレビ等に多数出演。実業家としては「ミミスイミングクラブ」を創立、日本水泳連盟理事も務める。家紋は丸に三葉葵紋。墓所にて確認。


西城秀樹 。1955年4月13日 -、 歌手、俳優。
広島県広島市出身。本名は木本龍雄。「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入りとなり、郷ひろみ野口五郎と共に新御三家と呼ばれる。家紋の蔓三つ葵紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


志村けんのバカ殿様 。江戸時代、 バラエティ番組のキャラクタ。
ドリフターズの志村けんが扮する。モデルは江戸幕府第9代将軍家重。幼名は竹千代。志村城の城主、志村藩(親藩)12万石の領主。コントでは「丸に三つ葵」が城内に見られる。家老格の桑野信義は丸に橘紋、側用人のダチョウ倶楽部は巴紋を使用。

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洲浜紋 -水神を奉った浜辺の豪族の紋- 最上徳内、青木周蔵、坪内逍遥...


州浜は、神仙が住む蓬莱島のこと。
海の向こうにあると言われている究極の幸せの国への憧れがこの紋に現れている。

和歌山県(24位)、徳島県(25位)で多い。


小田氏治 。1534年 – 1602年1月6日、 戦国大名。
常陸の大名小田氏の15代当主。読みは、おだうじはる。上杉氏・佐竹氏・宇都宮氏らと抗争を繰り返す。秀吉の小田原征伐に際し、秀吉軍に参陣せず秀吉方の佐竹氏の小田城奪還の兵を起こしたことを理由に所領を没収される。家紋は洲浜紋。


奥田行高 。1678年 – 1703年3月20日、 赤穂浪士47士の1人。
赤穂藩浅野家家臣の近松小右衛門行生の五男。読みは、おくだゆきたか。赤穂藩ではまだ家督前の部屋住みだった。吉良義央邸討ち入りの際には裏門隊に属した。享年26。主君浅野内匠頭と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。家紋は丸に洲浜紋。


最上徳内 。1754年 – 1836年10月14日 、 探検家。
出羽国村山郡楯岡村の農家出身。読みは、もがみとくない。江戸へ出て天文や測量等を学び、後に千島、樺太を探検して、『蝦夷草紙』『蝦夷方言藻汐草』などを著す。農民から商家の婿、武士へと立身出世した。画像は蓮光寺の墓所にて撮影。


宍戸たまき 。1829年4月18日 – 1901年10月1日、 長州藩士。
長門国出身。藩士・安田直温の三男。藩儒・山県太華、後に宍戸家の養子となる。松下村塾に学び、国事に奔走。謹慎中の学者佐久間象山を長州藩へ招聘のために訪問。第二次長州征伐後の幕府との交渉にあたった。家紋の花洲浜紋は染井霊園にて撮影。


本田親雄 。1829年10月3日 – 1909年3月1日、 武士、官僚。
薩摩藩の藩士本田弥右衛門の長男として出生。読みは、ほんだちかお。寺田屋事件のときには負傷者を救護。維新前国事に尽力し、元老院大書記官、元老院議官、貴族院男爵議員を歴任。家紋は丸に頭合わせ三つ洲浜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


黒川真頼 。1829年12月7日 – 1906年8月29日、 国学者・歌人。
上野国桐生新町出身。読みは、くろかわまより。代々機業を営む金子家に生まれ、遺言により黒川家を継ぐ。歴史、文学、美術、工芸など幅広く研究を行い、それらに関係する著書は数多い。「天長節」の作詞もしている。家紋の丸に洲浜紋は谷中霊園にて撮影。


青木周蔵 。1844年3月3日 – 1914年2月16日、 外交官、政治家。
長門国出身。村医の家柄。養子の梅三郎は杉孫七郎の息子。第一次、第二次山縣内閣、第一次松方正義内閣で、外務大臣を務め、条約改正に尽力。外交政略としては強硬路線を進め、義和団の乱の時には、積極介入を試みた。家紋は三つ盛洲浜紋。


園田孝吉 。1848年2月23日 – 1923年9月1日、 官僚、実業家。
大隅国太良村出身。薩摩藩士・宮内健吉の長男。のち、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。松方正義の推薦により横浜正金銀行頭取となる。後に東京倶楽部理事や帝国運輸倉庫社長など数多の会社役員を務める。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


坪内逍遥 。1859年6月22日 – 1935年2月28日、 小説家、劇作家。
美濃国加茂郡出身。本名は坪内雄蔵。代表作『小説神髄』『当世書生気質』は近代文学の誕生に大きく貢献。また、島村抱月らと文芸協会を開設し新劇運動の先駆けとなる。家紋の丸に洲浜紋は兄・坪内義衛の墓所にて撮影。


池上秀畝 。1874年10月10日 – 1944年5月26日、 日本画家。
長野県上伊那郡高遠町出身。紙商兼小間物屋の次男。読みは、いけがみしゅうほ。荒木寛畝に文人画をまなび、文展で3年連続特選。帝展では無鑑査となる。山水・花鳥画を得意とした。代表作は『初冬』等。家紋は州浜紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


藤原紀香 。1971年6月28日 – 、 女優。
兵庫県西宮市出身。第24回ミス日本グランプリを受賞。女優として『スタアの恋』『ハッピーマニア』『金曜日の恋人たちへ』等が代表出演作。その他、人道支援への協力でも知られている。父方の家紋は洲浜紋、母方の家紋は木瓜紋と自身のfacebookにて告白。

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