中山康樹はターザン山本だ ~『ビートルズの謎』書評~


つまり『ホワイト・アルバム』の限定番号は”限定”でも”通し”でもなく、たんなる”数字”あるいは”番号”にすぎなかった。したがって同じ番号が何枚もしくは何十枚と存在する。
そしてそのことは、質問されれば真相を知っている人間は答えたかもしれないが、誰もそのようなことを質問しなかった。誰もがその番号を「自分だけの番号」と信じて疑わなかった。(中略)
より正確にいえば「自分が持っている『ホワイト・アルバム』は自分だけの番号と思い込んでいた。その意味ではビートルもファンも同じ立場だった。

-「ビートルズの謎」(講談社現代新書)中山康樹 P164-

この本を読むまで、僕も『ホワイト・アルバム』のシリアル番号がユニークだと思い込んでいた。
ちなみに、僕が所有しているLP(70年代中盤に購入)のシリアル番号は、A190657だったが、この番号をパスワードに使ったこともあった。
CD発売時に、シリアル番号がついていないというだけで、これは本当の『ホワイト・アルバム』ではないと、勝手に維持を張って買い控えた。

そんな僕達の気持ちは一体、何だったのだろうか。

おそらく、目から鱗が落ちるというのはこういうことを言うのだろう。
ちょっと考えれば分かることだが、全世界に無数に有るプレス工場のシリアル番号を、長年に渡って管理し続けるなんてこと出来るわけがないではないか。

その通りだ。しかし、魔法とはこのような事をいうのかもしれない。
それは解けて初めて嘘だとわかる普通の事実のことなのである。また一つ、ビートルズに教わった。

しかし、さらに面白いのはその魔法にビートルズ自身がかかっていた(あるいはまだかかっている)という皮肉だ。

前著の「これがビートルズだ」において中山康樹氏はこのように述べる。

ビートルズに関する歴史や数々のエピソードもまた、その音楽に匹敵するくらいおもしろい。「事実は小説より奇なり」というが、ビートルズの物語は事前に誰かが書いたかのようにうまくできている。フィクションを超えたノンフィクションがあるとしたら、ビートルズの物語がそれだ。
(中略)
しかもビートルズの物語はミステリー仕立てときている。あらゆる場面に”謎”が用意されている。


-「これがビートルズだ」(講談社現代新書)中山康樹 P9-

 
確かにその通りだ。だから、ビートルズは奇跡なのだ。

この秋『真実のビートルズ・サウンド』(川瀬泰雄)と、この『ビートルズの謎』と立て続けに読みやすいビートルズ新書が発売された。
川瀬氏の著作がビートルズのサウンドを顕微鏡で見るがごとき労作であるとしたら、この『ビートルズの謎』はビートルズを、その背景までをも視野に入れて遠目で眺めた風景画のようなものだ。
それゆえに、この本を読んでも、ビートルズの音楽を聴くための助けにはならない。

しかし、当代、ビートルズの語り部としての中山康樹氏の存在は、いい悪いは別にして、一つのスタンダードだと思う。
かつてのプロレス界におけるターザン山本氏と同じで、一方で強烈な信者を生み出すが、一方で、多くのアンチを生み出してしまうのが中山氏の文章である。
僕も、彼の慧眼に何度もうなずかされたが、一方で、その独善的な価値観に腹も立てさせられた。
しかし、今は、中山氏のような才能によって、結果的により多くの人がビートルズに触れる機会が増えればいいと思うようになった。
だから、ビートルズを知らない世代の人々にも本書を読んでもらいたい。

この本にはビートルズという稀代のスーパースターとそれを許容した混沌とした60年代の空気の一端が読み取れる。
冒頭のエピソードに戻ると、販売されたアルバムに全てユニークな番号を付けようなどという途方もない企画(夢)を、平気な顔をしてやろうとした4人の”馬鹿”がいたという事だけでも、この閉塞感の強い平成の若者達に知ってもらいたいのだ。

まさむね

吉田えり出現の前には、西武優勝なんて小事だ

来年の4月に開幕する関西独立リーグで女性初のプロ野球選手が誕生する。
その名は吉田えり。まだ16歳だ。

これは、プロ野球にとって久々のビックニュースである。
極論かもしれないが、今年、巨人が奇跡のセ・リーグ制覇したこと、西武が日本シリーズに優勝したこと等は、彼女のデビューの前では全く小さいことだ。
西武が優勝したとしても、西武ファンとバーゲン目当てのオバサンが喜ぶに過ぎないことだが、彼女の出現はプロ野球全体を変える可能性すら秘めているのだ。

90年代のプロレスの衰退を目の当りにした僕は、あるエンターテイメントジャンルがいつの間にか、人々の目に触れなくなり、関心がないものとされ、マニアの慰み物になっていく過程には人一倍敏感にならざるを得ない。
それを防ぐには、まず世間に届く事件、あるいはスターの存在が絶対不可欠なのである。

そういう意味で、大相撲界における朝青龍という存在、プロゴルフ界における石川遼という存在、そして今後、格闘技界における石井慧という存在は、各業界にとって至宝なのだ。
ここしばらく、そういったスーパースター的魅力に満ち溢れた人材に事欠いていたプロ野球界にとって、吉田えりの存在は久々に大ヒットの可能性を秘めているに違いない。

勿論、彼女の実力はまだ未知数だし、このまま何の実績も残せないまま、「あの人は今」要員になってしまうかもしれない。
だが、彼女が切り開こうとしている新大陸は無限に広いのだと言っておきたい。

第一、彼女は見栄えからしてキュートだ。
しかも、16歳でこの世界に入ろうという思いっ切りのよさがある。今、多くの野球選手が大卒になってしまったこの時代、自分の人生をこのタイミングで決めてしまうその決断力は並大抵のものではない。

そして、何よりも彼女の武器がナックルというのがいい。
彼女は己の肉体の限界を知り、そして最も効率よく、自分の力が通用する方法を探し当てたのに違いない。
この聡明さには脱帽だ。
誰も考えなかった事をやるという、まさしくパイオニアとしての感性があるのだ。

どんなスポーツジャンルも、その競技を変えてしまう位の新しい個性が出てこそ、進歩というものがある。
かつて、瀬古利彦は、ラスト100mのピッチ走法で、マラソンという競技を変えた。
千代の富士は、筋肉とスピードで大相撲を変えた。

そして、この吉田えりは、ルックスとナックルでプロ野球というジャンルを変えることが出来るか。いや出来るに違いない。

その位、彼女の出現は大きなことだと思う。

まさむね

朝青龍ついに始動。その豪放磊落さ健在か。

久々に朝青龍が地方巡業に顔を出した。

テレビの報道でしか知る良しもないのだが、なかなか元気そうだ。
成績によっては、来月の初場所で引退を迫られる立場とは思えない、彼独特の解放的な雰囲気がたまらなく魅力的だ。
朝青龍を見ていると、元々、品格などという矮小な概念を押し付けてきた我々が間違っていたのではないかとも思わせる。

僕は横綱は神的な存在でなくてはいけないと常々思っているが、神だっていろいろといるのだ。
アマテラスのように、嫌な事があると岩戸に隠れちゃうのもいれば、スサノウのように悪戯が過ぎて、天から地に追放される神もいる。
さらに言えば、アマノウズメのようにストリップをする神も、オオクニヌシのように心優しい神もいる。

ようするに神と言っても、いろいろなのだ。
だから、横綱にだっていろんなのがいていいのではないか。
輪島や双羽黒のようなトンパチな横綱もいれば、貴乃花のような求道的な横綱も、大乃国のようにおおらかな横綱がいてもいい。
僕はそれこそ、日本的だと思っている。

折口信夫のマレビトの思想によれば、日本人にとって神は常に「外」からやってくる(いわゆる来訪紳)だったという。
だから、最近の、ハワイ勢、モンゴル勢が横綱になるっていう傾向は、逆に本来の神々の格闘の場としての大相撲になりつつあるとすら言えるのではないか。

さて、それはともかく朝青龍だ。
キャラクタの印象で言うならば、朝青龍の豪放磊落さは、内向的な白鵬との対比において、見事に好一対を示している。
また、相撲スタイルという面からも、スピードのある立会いから攻め続ける朝青龍のスタイルは、逆になるべくリスクを排除しようとする王道の横綱・白鵬のスタイルと好一対を示している。
東西の横綱が揃うと必ず、こういった好対照に見えるのが相撲の面白いところだ。

求道的な貴乃花と、豪快な武蔵丸。
スピードの千代の富士と、おっとりした大乃国。
無骨な北の湖と、スマートな輪島。
あぶなっかしい柏戸と安定感のある大鵬。

先ほども少し述べたが、こんな追い詰められた状況にありながら、それでも明るさを失わない朝青龍の肝玉は、僕はやはり一流だと思う。

一方、朝青龍を迎え撃つ側にも目配りしておこう。

白鵬だって、朝青龍が出てきたからといってむざむざ優勝杯を明け渡すわけにはいかないだろう。
安馬改め日馬富士も、今まで公私共に面倒を見てもらった朝青龍にそれこそ、相撲用語での恩返しがしたいところだ。
そういえば、魁皇も大関カド番だった。必死で来るだろう。
琴欧洲も、毎場所8勝で満足しているわけがない。初場所は優勝を狙ってくるに違いない。
琴光喜だって、優勝する力は十分に持っている。
さらに把瑠都がパワーアップしてくるだろうし、稀勢の里、豊ノ島、琴奨菊もいつまでも日馬富士の後塵を排しているわけにはいかない。

というわけで、早くも初場所が楽しみだ。

無知なマスコミに釣られて、若ノ鵬、露鵬、白露山なんかを相手にしている場合ではないのだ。
個人的にはこの3人への未練を捨てきれないんだけどね...

まさむね

家紋溢れる街 人形町を散策

日本橋人形町は家紋に溢れた街である。

先日、ちょっと時間があったので、この街に行って来た。
元々、このあたりに芝居小屋や浄瑠璃小屋があったため、多くの人形遣いが住んでいたからこの町名がついたという。

日山は、老舗(創業・昭和2年)の精肉店。この人形町で、すき焼き割烹も営んでいる。
ここの家紋は笹(九枚笹)。笹は昔から、縁起物として重宝がられたから家紋として使う家も多い。
もしかしたら、昔、肉を包むために使われた笹からこの家紋を採用したのかも。
この家紋使用者で有名なのは、戦国武将の竹中半兵衛。現代では自民党の谷垣禎一氏。

これは、源氏車という紋。元々、平安時代からの文様らしいんだけど、源氏物語の装丁に、よく使われていたらしい。
源氏物語で車って言えば、六条御息所と葵上の車争いが有名。能の葵上でも語られるよね。おそらく、その事件がこの源氏車の起源だと思われる。
現在は、佐藤家の家紋として有名。佐藤さんという方が、このブログをご覧になっていたら、是非確かめてみてください。佐藤栄作元首相もこの紋。また、何故か、元NHKアナウンサーの宮田輝さんもこの紋である。

この家紋は、勾玉一つ巴。黄金芋で有名な寿堂という京和菓子屋さん。
一つ巴といえば、ちょっと前までボーダフォンの会社ロゴが近かったんだけど、この勾玉一つ巴というのは珍しい。
僕も初めて見ました。
でも、巴紋は日本を代表する家紋。二つ巴は、大石内蔵助、三つ巴は、八幡様を初めとして、神紋として広まる。神田大明神の紋も同類。柳川藩家老職の蒲池家のお嬢様・松田聖子はこの紋のはず。

これは、茶の実紋。
橘紋と近いけど、実の両側に後ろの葉が見えていないので茶の実紋と判別できる。
この紋は共和園というお茶屋さんの暖簾にあった、ひとつ茶の実紋を撮影したもの。人形町交差点から、茅場町方面にしばらく歩いた右側にありました。
 
 
 
 
さて、人形町と言えば、水天宮。水天宮の紋はご存知、椿紋だ。
一般的に椿紋というのは、縁起が悪いと言われている。
花ごとポロリと落ちる姿が、武士にとって馘首に通じるイメージが嫌われたんだろうね。ちなみに、映画・椿三十郎の家紋は、剣かたばみでした。
ただ、このポロリと落ちるっていうのは、安産の神とされる水天宮には好印象。だから、この神紋を使っているのだと思われる。
 
 
狛犬が遊んでいる玉にも、細かく椿紋が刻まれているのには、感心。
逆にちょっと意地悪な見方をすると、水天宮って儲かってるんだなぁという事。
この日も夕方だったんだけど、何人かの女性が参拝をしておりました。やっぱり、この業界も、専門店が強いということでしょうか。
 
 
 
 
ただ、この境内の灯篭には、竜胆紋と碇紋も刻まれていた。
おそらく、椿紋が神紋になるのとは全然別に、この2つは何らかのかかわり(贈与など)があった事が推測される。
この形の竜胆紋は、道元の曹洞宗もそうだから、なんらかな宗教的つながりがあったのかも。
また、碇紋は、水天宮というのが、元々海の神だったことの名残だと思われる。
 
 
さらに境内には、別社として弁財天があり、波に三つ鱗紋の提灯を見つけた。
江ノ島の弁財天と同じ紋だ。江ノ島は元々鎌倉幕府のお膝元だから、北条の三つ鱗が弁財天に受け継がれているんだと思う。
ちなみに、横綱・白鵬が何故か三つ鱗紋。元寇の因縁を考えるとモンゴル人横綱がこの紋を使用するっていうのも面白い因縁だ。
 
 
 
今回は、表通りだけをざっと歩いた人形町散歩だったけど、細かい路地に入っていくともっと、家紋、しかも庶民のレア紋なんかもありそうな、家紋マニアには奥深い街だ。

まさむね

「イノセントラブ」では結局、誰が死ぬのだろうか

「イノセントラブ」が急展開を見せている。

植物人間だった聖花(内田有紀)が奇跡的に起き上がったのだ。
しかも、彼女が好きだったは婚約者で、彼女が植物人間だった間、献身的に看病していた殉也(北川悠仁)ではなく、殉也の親友・昴(成宮寛貴)だったことが、殉也にも明らかになってしまう。

それによって、殉也は、二人が結婚する直前に聖花が自殺(その後遺症で植物人間になる)した意味も知ってしまうのだ。
殉也は泣き崩れる。
我々凡人には、自分がこんなにも聖花を愛して、尽くしてきたのに、彼女の心が殉也になかったことから来る悔し涙と思ってしまうのだが、そこは、イノセントラブ(無垢な愛)というだけあって、彼女が自殺までして好きでもない自分と結婚しようとしたことへの申し訳なさから来る涙、あるいは、その結果として植物人間になってしまった彼女への不幸を想う涙だったのである。

この涙のリアリティに関しては、もうそれほど純情ではなくなってしまった僕には推し量りがたいところがあるが、他の視聴者はどのように思ってみているのだろうか。
第一、元々、殉也が聖花を好きになったのは、いわゆる一目惚れである。
それがここまでの純愛として一途に進行するというのは、ドラマというよりは、おとぎ話として見るべきなのだろうか。

僕には、殉也の性格があまりにも紋切り型に過ぎるように思えてならないのだ。ようするに、殉也は、”純粋に聖花を愛する人”っていうキャラそのものであるため、悪く言えば、ロボットのように見えてしまうのだ。

さらに、殉也の佳音(堀北真希)への態度もロボット的なところがある。
聖花が起き上がり、殉也が喜び、その狭間で自分の居場所を無くしつつあると感じて、家を出た佳音を殉也が「君が必要なんだ」と引き止めるのだが、その際、佳音の気持ちは全く配慮されていない。
若干の悪意を込めて言うならば、殉也の佳音への行動は、「都合のいい住み込みのお手伝いさんが居なくなっては困る」から引き止めたという風に取られてもしかたがないのではないか。しかし、そんな殉也の”優しさ”をあっさりと受け入れる佳音。それはそれで別のロボットか?

さて、この純愛ドラマの顛末予想であるが、恐らく、恋の巴関係・殉也>聖花>昴、(昴は男として殉也に好意を抱いている)そして佳音、そして兄の耀司(福士誠治)の誰かが、純愛相手のために命を落とすという展開が最もオーソドックスのような気がする。

まずは、一番可能性がありそうなのは、耀司が佳音をかばって(のために)死して禁断の兄弟愛を貫くという事。これもひとつのイノセントラブである。別の視点からすると、彼が死んでも、その他の人間関係は壊れないため、制作的に「殺しやすい」立場ではある。
あるいは、浅野妙子が脚本を手がけた前作「ラストフレンズ」とのアナロジーで言えば、聖花が殉也(あるいは昴)の子供を残しながら、何らかの犠牲になって死に、残った子供を殉也と佳音、昴が育てるっていうのが収まりがいいかもしれない。
また、犠牲死ということがキーになって来るとするならば、ひとつ気になるのが、殉也という名前。”殉”というのは、まさしくその事を意味しているから、もしかしたら彼が...

でも、この結末予想は現時点ではストーリーの流れを無視した全く根拠のない想像なんだけどね。

まさむね

「29歳のクリスマス」と「ラストフレンズ」の埋め難い時代差

「29歳のクリスマス」(以下「29X」と略す)の再放送を見ていると、今年の春に放映された「ラストフレンズ」(以下「LF」と略す)とどうしても比較してしまう。

男女(3人以上)が一つ屋根の下に暮らす青春群像ドラマである点、木曜日22:00~といういわゆる大人のドラマ枠での放送という共通点はあるものの、2つのドラマには、どうしようもない時間の隔たりがあるような気がする。
その隔たりは14年間。
その間、平成の大不況、金融ビックバン、構造改革等いろいろな事があった。
多くの人の生活実感として、時代は閉塞感を増している。あらゆる意味で、将来に対する希望がなくなってきているのだ。

おそらく、それらの社会状況の変化がこの2つのドラマの間に横たわっているのではないか。

2つのドラマを比べてみると、登場人物の元気さがまるで違う。
「29X」における典子(山口智子)、彩(松下由樹)、賢(柳葉敏郎)はお互い同士、思いやるが、それは、互いに世話を焼きあうという積極的な振る舞いで表現する。
だから、すぐに喧嘩になる。自分の価値観を相手に押し付けようとして、そして反省して、の繰り返しなのだ。

一方、「LF」における岸本瑠可(上野樹里)、藍田美知留(長澤まさみ)、水島タケル(瑛太)がお互いを思う気持ちは「29X」には劣らない。
ただ、彼女らは極めて大人しいのだ。
ある意味、老成しているといっていいかもしれない。
そして、「LF」の3人は、お互いの領域に踏み込む事はしない。あくまでも、相手にとって、好ましいキャラになろうとする。
それが現代の優しさの倫理なのであろう。
最終的に、3人は、お互いのトラウマを癒しあう関係になるのだ。

これは、いわゆる時代の閉塞感という事と大いに関係があると思う。バブルと地続きの90年代前半、「29X」の時代、彼女達はまだ、努力すれば社会的に上昇出来るという価値観の中にいる。
しかし、一方、「LF」では、そういった社会に対する、あるいは、努力に対する信頼感が感じられない。だからこそ、彼女達は手に職をつけて生きていこうとするのだ。

また、「29X」の登場人物達はいつも、目の前の世界に対して戦いを挑んでいるのに対して、「LF」では、いつまでも過去のトラウマ、自分の宿命との戦いがメインとなっている。
例えば、「29X」では、典子は、仕事上の挫折や恋愛等の外の世界と戦うが、「LF」の瑠可は、性同一性障害に悩み抜く。
彼女の戦う相手は、自分の中にあるのだ。
ACとか性的虐待とか、性同一性障害などという極めて限定的だと思われていた症例が、社会の前面に出てきて、人々にリアリティのある言葉として認知されてきた現代、とそれ以前の時代。
大げさに言えば、「29X」と「LF」の間には、そういった時代の段差を感じさせるのである。

また、2つのドラマに横たわる幸福観の違いにも目を惹かれる。
「29X」では、幸福=結婚という価値が素朴にも信じられている。
典子が彩に叫ぶ。「どうして私だけ幸せになっちゃいけないの?!」
ここで言う幸せとは、恋愛=結婚のラインに乗る事なのだ。

ところが、「LF」では、結婚は全く大きなテーマではない。
シェアハウスでにおいて、脇役として存在していた滝川エリ(水川あさみ)と小倉友彦(山崎樹範)が結婚はするのだが、それはあくまでもサブの扱い。
そういう生き方もありますよ的な扱いにすぎないのだ。

こんなに異なった世界の2つのドラマではあるが、面白い事に、最後の結末が奇妙な一致を見せる。
両方とも、みんなで育児をすることによって、新しい関係を築こうとするのだ。
もちろん、「29X」ではそうなる過程で、さんざん罵倒、葛藤、喧嘩があるのに対して、「LF」では微笑み一つで物事が進んでいく。
確かにその違いはある。
ただ、2つのドラマの最後に提示される新しい生き方が近いという事に、もしかしたら、時代が変っているように見えるのは表面的なことで、実は女の情(子供に対する愛情)というものは根本的には変らないという事を見るべきなのかもしれない。

また、ちょうど本日、今年の流行語大賞を獲得した「アラフォー」というもう一つのドラマでも、最後に、森村奈央(大塚寧々)の子供を、 緒方聡子(天海祐希)と竹内瑞恵(松下由樹)が可愛がるというシーンが出てくるが、それも「29X」と「LF」と同様に、子供をみんなで育むことこそ時代の閉塞感を打破することに繋がるということなのであろうか。

まさむね

姜尚中の魅力は低音だけではない ~『悩む力』書評~

私は青春とは、無垢なまでにものごとの意味を問う事だと思います。
それが自分にとって役に立つものであろうとなかろうと、社会にとって益のあるものであろうとかなろうと、「知りたい」という、自分の内側から湧いてくる渇望のようなものに素直にしたがうことではないかと思うのです。
-「悩む力」(集英社新書)姜尚中 P87-

この本は、いわゆる力本(「老人力」とか、「鈍感力」とかの)の一つにカテゴライズされるかもしれないが、真正面からの、正々堂々とした青春論である。40万部を越えるベストセラーとなったのもうなずける。
とにかくわかりやすいのだ。そして、姜尚中の魅力は低音だけではないことを教えてくれる。

思えば、僕もいわゆる青春時代に、「おおいに悩め」「解決するよりも、問題を見つける事が大事だ」「考え抜けば何かが見つかる」と教授・先生達に言われたものだ。
悩む事が青春と特権だと言わんばかりの言動という意味では、その当時(70年代~80年代初頭)の教授・先生が学生にのたまわった言葉と、この「悩む力」とは全く同一地平にある。
ということは、もしかしたら、最近の教授・先生達はこういった言葉を学生に伝えなくなったのか。だから、逆にこの本が受け入れられたのだろうか。

しかし、本当に悩む事はいいことなのであろうか。ていうか、あの教授・先生達は幸せになったのだろうか。
姜尚中氏はこう続ける。

誰の人生の中にもあるはずの「青春」というものを知らずに終わる。あるいは青春という大切なものを、毎日一枚ずつ脱ぎ捨てていく。それは不幸なことではないでしょうか。
そのようにして生きていって十年後に自分の人生を振り返ったら、そこには空漠としたものしか残っていないと思います。
-「悩む力」(集英社新書)姜尚中 P91-

悩むということは、自分の意志で行う行為ではない。
それは、著者が言うように、自分の内側から湧き出てくるものである。
だとしたら、悩まないで老成出来た人は、それはそういう星のもとに生れた幸福な人とも言えるのではないか。
また、「人は悩まなければ幸せにならない」という、実は根拠のない人間観は、他人を悩みの世界に突き落とす事によって、己の存在価値を高めようとする教授・先生達の無意識的なセールストークだったのでは、と疑う視線もあると思う。
というか、今の時代、そのような、意地悪な視線こそ、皮肉にも説得力を持ってしまうのではないだろうか。

一方で、この本のマーケッティングに関して、気になることがある。それは、この本は一体、どういった層に読まれているのかということだ。

上記の記述でも明らかなように、この本は一見、若年層に向けて書かれているのだが、もしかしたら、ターゲットユーザー(読者層)は中高年を狙ったものではなかったのではないだろうか。
そして、またお決まりの「今の若者は...云々」というセリフのための、新しいネタ本として、この本が読者の手に取られたのではないだろうか。

何故って、こんな事を言っている僕が中高年だからこそ、この本を思わず手にとってしまう気持ちがわからなくもないからだ。

まさむね

第7話 急展開の「スキャンダル」を読み解く

TBS日曜劇場「スキャンダル」が急展開している。

新藤たまき(桃井かおり)の夫の哲夫(石原良純)が、理佐子(戸田菜穂)をホテルで匿っていたのだ。
しかも、結婚式から3日の間は、新藤家に理佐子が居たという。

ということは、駿介はそこには居なかったということだ。
しかし、この事は、たまきのトラウマになっているらしく、勝沼刑事(小日向文世)が駿介の部屋に踏み込もうとすると、たまきは異常に拒む。

ここで、一つ引っかかるのは、前回放送時、たまきは勝沼に、息子の事を相談しようとしていた事だ。
勝沼には、奥さんに逃げられたという過去がある。だからこそ、たまきは勝沼に共感するものがあったということなのか。

という事は、たまきも同様にかつて、夫に逃げられている、しかも息子も道連れにして逃げられているのではないのだろうか。
しかし、夫はともかく、息子に去られたたまきはその事を心の中で整理しきれず、部屋から出てこない息子という虚構を自分の中で作り上げて、固執していたのではないか。

その後、たまきと結婚した哲夫は、結婚生活においても、たまきの精神状態をそのまま受け入れるしかなかったが、それは相当ストレスになっていた。
その哲夫のストレスが、今回の理佐子を匿うという行為とどのように結びつくのはは現時点では不明である。

もしも、理佐子と哲夫の二人の間に男女の関係があるとするならば、理佐子が結婚式でみんなに言った「私は勝ったわ」というセリフは、ほぼ、説得力を持つ。
貴子(鈴木京香)の夫の秀典(沢村一樹)、真由子(吹石一恵)の夫の賢治(遠藤憲一)とは理佐子は付き合っていた事が判明しているが、ひとみ(長谷川京子)の夫・雄一(光石研)に関しては、少なくとも上司の金沢が付き合っており、その金沢が雄一にこう言った「八年前の一件は元々君が画策したんだ。 いいか、私と君は同罪だ。忘れてはいけないよ」。
ようするに、なんらかの秘密を共有をさせられているのだ。(もしかしたら乱交パーティ的な性的行動もあったか?)

そこで、一つ考えられるのは、久木田慶介(加藤虎ノ介)が起した8年前の傷害事件に関してだ。
この事件は、雄一が画策し、なんらかの挑発をして久木田に事件を起させたという事が考えられる。
そして、それをネタに、金沢&雄一が久木田から金を巻き上げようとしたのではないかという事も想像できる。(財務官僚は金が無いという雄一のたびかさなるつぶやきが気になる)
その時、哲夫が弁護士として、賢治が医者として、その事件にかかわっているのではないかというのはまだ未確認だがありえる話だ。
弁護士が示談をまとめ、示談を有利にすすめるために、医者が偽りの診断書を書いたというのが2人の役割だ。

そして、もう一つが、結婚式当日の夜にあのラブホで金沢と理佐子の間になにがあったのか、そして、その後始末に誰がどう動いているのかという点だ。
番組HPによるとたまきの家の駿介の部屋に理佐子の指紋と血痕のついたナイフが見つかるという。
という事はあの晩、ラブホで理佐子は金沢を刺し、その後始末を哲夫に依頼。哲夫は理佐子を自分の家に連れてきて、駿介の部屋に置くということではないだろうか。

では、何故、あの晩、ラブホで刃傷沙汰が起こったのか。
理佐子が金沢に別れを迫ったが、そのための手切金が用意できなくて、話が紛糾して、思わず刺して逃げてしまったのではないか。
おそらく、理佐子が賢治や秀典に借金を無心していたのは、そのための手切れ金の工面だったのではなかと思うのだ。

さて、ここでまだ判然としない伏線を整理してみよう。
★理佐子の携帯電話を久木田が持っていた事(これは、少なくとも結婚式の前の時点では理佐子と久木田はグルになって、金沢を陥れようとしていたが、ただ、あの晩の顛末によって、理佐子は久木田の前からも姿を消した?)。
★久木田が貴子にモーションを掛けつづける理由(これは、最終的には久木田が貴子から、金を引き出そうとしているとの推理が出来る。と同時に、久木田は、実は国際ピアニストではない。別人なのを偽っている可能性がある)。
★理佐子が久木田の前から逃げなければならない理由(理佐子は金沢と別れるという前提で久木田と結婚するが、その約束が果たせなくて失踪か?あるいは、逃げているように見せている狂言か?)
★結婚式の晩、金沢と一緒にラブホに入るときの理佐子が貴子を見る表情(敢えて、貴子にその姿を見せつけようとしているような表情にも見えなくはない)

まだまだ、未整理のスキャンダルではあるが、残り数回、ますます楽しみだ。

まさむね

誰か、小沢さんに「あれじゃダメですよ」と進言してほしい

麻生首相と小沢党首の党首論争は、最悪だった。
残念だった。
期待したこちらが悪かったのか。
僕は、不覚にも、今回の党首討論のお膳立てを整えた段階で、ついに小沢党首が本気を出すに違いないと微かな幻想をいだいてしまっていた。
でも、正直言って、僕の買いかぶりだったようだ。

はっきり言って、小沢党首は論争に全く向いていない。
とりあえず、党首討論をやったというアリバイ作りのために出てきたとしか思えなかった。

彼は、本当に麻生首相を追い込もうと思ってやってきたのだろうか。

小沢「経済対策優先と言いながら、何故、今国会で2次補正を出さないのか?」
麻生「それより、金融強化法を採決してくれ。それが先だ。」
小沢「2次補正を出さないのなら、解散しろ。」
麻生「政治的空白を作るから、解散しない。」
小沢「今までの経済優先という主張と矛盾するのではないか。」
麻生「矛盾しない。そちらこそ金融強化法を採決してくれ。」

簡単に言えば、こんなやりとりだった。凡庸だ。

実は、党首討論というのは、野党党首が首相を追い詰めるところではない。
その追い詰めてなくても、追い詰めたという印象を国民にわかりやすく「プレゼン」するところである。

小沢党首にはこの「見せる」という意識がまるで無い。
自分は言いたい事を主張したから、それでいいと思っているのではないか。
まるで知恵の無い話だ。

さらに問題なのは、、民主党は党として、戦略がなさすぎる事だ。
あるいは、あったとしても、誰も小沢党首に進言出来ない状態なんだろう。
これは不幸な事だ。

かつて小泉元首相は小沢党首の事を、あの人は、政略というものが分かっていないと言った。
どこを押せば、他人はどう動くのかというような人間というものの本性に対する洞察がないという事だ。
一般的に、小沢党首は、権謀術策の人と思われているが、他人の弱みに付込んでを追い込んでいくといった、本当の意味での政治的知恵の無い人なのだろう。

朴訥といってしまえば、悪く聞こえないが、ようするに場当たり的な人な人なのかもしれない。

僭越ながら言わせてもらえば、僕だったら、
「本来、党首討論というものは政治の大局を語るべきところという事は理解しておりますが、現在は、みぞゆうの、いや、失礼、未曾有の1度の危機ということなので、細かい話をさせていただきます」
と場の空気を変えてから、細かい点を次々に指摘し、麻生首相に謝らせまくる。
「首相は、老人医療に関して、病気の人の分を自分が払いたくないと言ったそうですが、その件に関してどう思われますか。」
「首相は、医者に対して、世間知らずの人が多いと言ったそうですが、その件に関してどう思われますか。」
「定額給付金に関して、配布を地方に任せると言われた事に関して、地方から批判があるが、それに関してどう思われますか。」
等など、他に、田母神氏の件、社保庁のデータ改ざんの件、さらに、中山元国交省の件、総裁選で名古屋だから大丈夫と言った件まで、ネチネチと、しかも、短くどんどんと持ち出して、その都度、謝罪させて、首相をイライラさせればよかったのだ。
僕だったら、とにかく蒸し返し作戦(だって、初めての党首討論なわけだから、それはそれで正当だろう)を採用して、スネイクになる。
そして、最後に民主党の経済対策案をプレゼンして、これと自民党案とで選挙をしようと言えばいいのだ。

恐らくテレビは、首相の謝罪シーンを編集して伝えるだろう。視聴者はそれを見て何を感じるのか?誰にでもわかるだろう。
そして何よりも、麻生首相に、党首討論をもうやりたくないと思わせる事ができる。
元々、小沢党首はやりたくないのだから、一石二鳥ではなかったのか。

少なくとも、小沢党首は、今回の討論が、大失敗だったという事を自覚し、民主党の他の面々はそのことを彼にわからせてほしい。
それからじゃないと何も変らない。麻生首相云々はそれからの話だ。

まさむね

田無における幕末動乱と住民のリアリズム

年末も近くなってきて「篤姫」も、江戸城無血入場のクライマックスが近づいてきた。

こういう歴史的な変動の時期は、当然、江戸だけじゃなくて、日本中それぞれの土地でも、様々な変動が起きているはずである。
江戸郊外であるが、当地・田無も無関係ではなかった。

江戸城無血入場後、慶喜は水戸へ退くが、腹の中が収まらない幕臣たちは、彰義隊を組織して上野に集結した事は知られている。(写真一番上、上野の彰義隊の墓)
しかし、内部で作戦方針が定まらず、一部(渋沢成一郎の一派)は彰義隊を離脱して、振武軍という部隊を結成した。
そして、この振武軍は、一隊ごと、田無にやってきたのである。

彼らは、田無の総持寺(写真二番目、三番目)に陣を張って、近隣の農民に、「徳川家再興のための軍資金集め」を要求した。
特に、地元の下田半兵衛(写真一番下は総持寺にある彼の墓)には、食事や夜具など様々な世話を命じたようである。

元々、この血は、江戸時代は、尾張徳川家の御鷹場(鷹狩りのための用地)であったため、比較的税制は優遇されていた。
だから、この辺りの農家の屋敷は、みんな大屋敷である。

後に、国木田独歩は「武蔵野」で、このあたりの土地の自然の豊かさを描写したが、それも、この土地が御鷹場であり、適度に自然を残す事が義務付けられていたという事情を背景としていたのだ。
しかし、一方で、そういった事情は同時に、いざという時には、幕府からの臨時徴収を覚悟しなければならなかったのである。

さて戦況は、どうなったのか。
まず、すぐに彰義隊が官軍に包囲されたという報告が入る。
振武軍は援軍として江戸に援軍として向かおうとしたが、途中で彰義隊壊滅の知らせが入り、再び田無に戻る。
すぐに官軍がこちらに向かっているという報が入り、急遽、臨戦態勢で陣を張る。
ところが、その陣にやってきたのは、官軍ではなく、傷ついた彰義隊だった。田無の村人は彼らの手当てを手伝ったという。
その後、振武軍は、田無から飯能へ後退。

そして、すぐに、振武軍を追ってやってきた官軍が田無へ大挙押し寄せる。そして田無で一泊した。
村では、官軍向けの炊き出しをしたという記録がある。

村人の意識としては、幕軍でも官軍でもどっちでもいいから、自分達の生活は乱さないでくれって思っていたんじゃないかな。そういう本音が垣間見れると、ちょっと微笑ましい。

戦局の方は、結局、振武軍が飯能で壊滅。
大将の渋沢成一郎は品川へのがれ、その後、榎本武揚達と一緒に、函館・五稜郭の戦いまで戦い抜く。
しかし、時勢が落ち着くと、渋沢は大蔵省に出仕、そして最終的には横浜で、生糸貿易を手がけ、成功して大富豪となったという。

なんかいろいろとあったけど、終わりよければ全て良しっていうのが渋沢の人生だった、ってことか?ちなみに、この渋沢成一郎は、日本・実業の父、渋沢栄一の従兄にあたる。

※多摩の歴史(武蔵野郷土史刊行会、有峰書店)参照
まさむね