宮本武蔵の弱さ

宮本武蔵は若い頃、決闘にあけくれ、晩年に「五輪書」を著した。

決闘の動機の多くは、死と向き合った武士道というよりも、何とか生き延びようとする生命への執着だったような気がする。

吉岡三兄弟との戦い、巌流島の決闘、それらにおいて奇策として伝えられる態度にこそ、人間らしい武蔵の姿があった。

逆に言えば、かなり卑怯なのだ。武蔵って奴は。

しかし、晩年に決闘を封印し、少なくとも殺されることがなくなってから、自分の戦いを美化する。

その美化作業にこそ、俺は武蔵の弱さを感じるのであった。

まさむね

東日本と西日本の名前

西日本と東日本では、日本人の名字の分布が大きく異なっている。

目安としては以下のことが言える。

1)西日本の方が字数が少ない名字が多い。
例えば、西日本では、山本、田中が多いが、東日本では斎藤、佐藤が多い。また同じ斎藤でも、西日本では斉藤という名字が多い。
2)東日本では藤がつく名前が多い。
佐藤、加藤、斉藤等の名前は藤原氏の流れを汲むと自称する武士・農民階級に爆発的に広まる。西日本では、藤は下ではなく、上につくケースが多い。例:藤田、藤井等
3)西日本では読み方に濁点がつかない場合が多い。
例えば、山崎。東ではヤマザキだが、西だとヤマサキが多い。また、同様に、中田は東ではナカダだが、西ではナカタが多くなっている。
例えば、サッカーの中田は山梨出身でナカダだが、日本ハムの新人中田は、ナカタだ。
また、その他の名前でも西日本では濁点読みしない例がおおいようだ。例えば、鹿児島出身の中島美嘉はナカシマミカだし、福岡出身の浜崎あゆみの本名はハマサキだ。

最も、上記はあくまで傾向なので、得意げに話をして失敗することもあるのでご注意。

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桜(4)中世における死霊の宿り木

ねがわくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ (西行)

自分が死ぬんだったら、満開の桜の木の下で死にたいってことでしょうか。これは同時に、桜の花になって生まれ変わりたいっていうのも深読み出来るんじゃないかな。桜の花を生まれ変わりの象徴として、あるい、桜の木を生まれ変わりの霊の宿り木として観念するのが、中世の特徴からね。

例えば、世阿弥の能「忠度」でも、死霊がよみがえるために満開の桜の木を必要としている。また、「西行桜」では、桜の木を宿り木として、老人の精をよみがえらせる。

桜の木は時として、死者を想起させる「幽玄」の場(この世と霊界との通り口)として現れるんだよ。

そういえば、隅田川沿岸にならぶ桜並木は明暦の大火の被災者を追悼するために、徳川吉宗が植えさせてたらしいし、上野の山は彰義隊で死んだ幕府側の勇士のために桜を植えたという。

近代に入ってからは、「桜の木の下に死体が埋まっている」と書いた梶井基次郎が有名だが、その観念は、ORANGE RANGEの「花」まで続いているのかもしれない。

生まれ変わってもあなたのそばで花になりたい...

※この話題に関して、「家紋の文化史―図像化された日本文化の粋」(大枝 史郎)を大いに参考にさせていただきました。

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桜(3)源氏にとって凶兆の桜

日本文学に燦然と輝く金字塔「源氏物語」。
ここでも桜は美しく描かれているが、同時に不幸への伏線としても描かれている。

最初は「花宴」の巻。桜見の宴会で酔った源氏は、ライバルの右大臣家の箱入り娘・朧月夜との一夜を過ごしてしまう。そして、結局は、この不義が原因で、後の須磨、明石へ流される事となるのだ。

次は、「若葉上」の巻。桜満開の下で蹴鞠をしていた柏木(太政大臣の子)フトしたアクシデントで源氏の正妻・女三宮を見てしまう。そして、結局は、柏木は女三宮をはらませてしまう。このことが、その後に源氏に精神的ダメージを与える。

おそらく、この桜=凶兆という観念は当時の貴族達にも共有されていたんじゃないかな。

4へつづく

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桜(2)美と不安-紀貫之からコブクロまで

昨日、桜が国家主義的象徴だって話をしたけど、今回は日本の歴史における桜がどのようにイメージされてきたのかを追ってみよう。

まず、古事記。桜といえば、日本神話の中ではコノハナサクヤ姫に象徴される。ニニギのミコト(アマテラスの孫で、天皇の先祖)が、天孫降臨すると、まず、こ美しい姫に一目ぼれをして、結婚を申し込む。
姫の父はもう一人、姫の姉(石の精・石長姫)も一緒に嫁として嫁がせるが、ニニギはそれを拒否。
そのせいで、天皇の子孫は、美と引き換えに永遠の命を失ったという。
ここで、桜は、美の象徴であるとともに、死の象徴でもあるんだよね。

その後、平安時代に入ると、和歌で花と言えば、梅ではなく、桜を指すようになる。

久かたの光のどけき春の日にしず心無く花の散るらむ(紀友則)
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける(紀貫之)

風に舞い散る花こそ、最も日本らしい美意識、そして日本人の悲しい心情を現すというのはこの平安の頃に生まれたんだよね。実はそれが、最近のJ-POPにも引き継がれているんだ。そして、桜の歌を作ると日本人は咲くところじゃなくて散るところを歌にすると国文学者の池田弥三郎先生が言っていたがまさにそうだ。

さくら舞い散る中に忘れた記憶と君の声が戻ってくる... 「さくら」(ケツメイシ)
さくらの花びら散るたびに届かぬ思いがまた一つ...「桜」(コブクロ)
さくらさくらただ舞い落ちるいくつか生まれ変わる瞬間を信じ... 「さくら」(森山直太朗)

3へつづく

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桜(1)その国家主義的象徴

武士道という観念は、武士が具体的な戦闘で死ぬ必然性が無くなった江戸時代に入ってからイデオロギー化した。
その武士道を精神運動として美学的にサポートしたのが本居宣長をはじめとする国学者であった。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 (本居宣長)

靖国神社の遊就館に入ると最初に飛び込んできたのがこの和歌である。この頃から、桜とナショナリズムが融合していったんだろうな。そして、武士道というイデオロギーもそれに近いところに存在していた。

実際は、江戸時代の後期には、武士階級はほとんどが事務員と化していた。また、仕事の無い旗本なんかは隅田川に船を浮かべて、桜を見ながら粋だとかなんとか言っていたんだろう。
だから、彼らに実際の戦闘行為が出来たかというとはなはだ怪しい。例えば、現代の公務員にいきなり刀や槍を持たせて戦えというのと同じように、当時の武士階級に、無理やり、先祖伝来の具足を付けさせて戦場に駆り出したのが、長州征伐や鳥羽伏見の戦いだったんだろうね。
そしてそこでは、多くの直参、旗本達は愚痴を言いながら、アリバイ作りのためにとりあえず、戦場に赴いたんだと思う。

逆に、幕末の戦闘において、奇兵隊とか新撰組とかの非武士階級の方が武勇をとどろかせたのは、むしろ彼らのほうがより、意識的に「武士とは何か」「戦うとは何か」「そして何のために死ぬのか」を考えるポジションにあったからだ。

ところが、その答え、一体誰のために死ぬのかという思想が、この幕末から明治維新にかけて大きくかわったんだよね。江戸時代にあった家のために死ぬ、藩のためにしんで名誉を残すというロジックが、この時期、国家のために死ぬというイデオロギーにスリ替わったんだよね。

その、国のためにパッと散ってこそ、大和心という思想の象徴として、山桜紋が国家主義的戦略組織の印として散見されるようになる。

陸軍、海軍、学習院、靖国神社、そして大相撲、今でもこれらの組織の紋所には山桜が使われているんだ。
戦国時代より以前には、桜紋はほとんど広まらず、逆に「桜」は死霊を呼び寄せる、あるいは不吉な予兆として意識されていたのに、そういった日本の伝統は幕末>明治に強引に変わったんだよね。

2へつづく

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七曜は安産祈願

七曜紋は、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の七つの星を家紋にしたものとも、北斗七星を家紋にしたものとも言われている。後者は妙見信仰をもとにしている。

一般に星は、海の民や狩猟民の守りである。農耕民と違って、それらの民は星の運行、方角を性格に把握する事がが生死を分けるほど大事だと考えられていたからだ。志摩の九鬼氏は七曜を家紋としているが、戦国時代には日本一の水軍として織田信長に従った。また、東北地方南部の星宿信仰のある地域にもこの家紋を持つ者が多いが、それらの人々は元々狩猟民だったのかもしれない。

さて、この七曜は江戸時代以降は、七面大明神信仰と結びつき、何故か安産の守り神ともなる。田沼意次の父意行は子供に恵まれなかったが、出産・安産守りの七面大明神に祈誓をかけ、意次が生まれた。田沼家はここから七曜を家紋にしたと伝えられている。

ちなみに、映画「恋空」でも安産を願う彼氏(三浦春馬)が七曜が入った安産守りを彼女に買っていくシーンがある。

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桔梗紋は不吉

桔梗紋という紋所がある。
有名な武将では、太田道灌、明智光秀がいる。
また、幕末から明治にかけては、同紋の坂本龍馬や大隈重信が活躍した。

しかし、これらの歴史上の人物は、みんないいところまで行くんだけど、暗殺、敗死といった不幸な結末を迎えている。(ただし、大隈重信は、暗殺されるが命は取り留める)

最近では、NOVAの社章この紋所が使われていたので、なんかあったら大変だと思っていたが、突然の営業停止に追い込まれたというニュースが入ってきた。

取り越し苦労かと思うが、今年に入って、ある生命保険会社のポスターに氷川きよしがこの桔梗紋をつけて笑顔で写っていた。ちょっと気になる...

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横綱・白鵬の紋所が三つ鱗なのをご存知だろうか。

横綱・白鵬の紋所が三つ鱗なのをご存知だろうか。

実はこの紋は、13世紀にモンゴル来襲を撃退した北条時宗を輩出した北条家の家紋として知られている。

ところが、その紋所をモンゴル出身の横綱が身に付けているということ、これは如何に。

俺なりに二つほど邪推してみた。

一つは横綱になったことで、日本を制圧したことの印として元寇の復讐を果し、念願の相手の大将の家紋を奪い取ったという説。(実際に戦国時代には、竜造寺氏が戦に勝った、大友氏の杏葉紋を奪ったという事例がある)
もう一つは、白鵬がこの三つ鱗を身に付けることによって、日本側に着き、もう一人の横綱・朝青龍を迎え撃つ覚悟の印としたという説だ。

本当の事知ってる人、教えて。

まさむね

有名寺社紋(東京近辺)

池上本門寺 ( 日蓮宗大本山。力道山、幸田露伴等の墓あり。 ) – 井桁に菊座橘紋 – 東京都大田区池上1-1-1池上本門寺


建長寺 ( 臨済宗建長寺派の大本山。鎌倉五山の第一位。 ) – 北条三つ鱗紋 – 神奈川県鎌倉市山ノ内8建長寺


鶴岡八幡宮 ( 武家源氏、鎌倉武士の守護神。 ) – 鶴の丸紋 – 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31鶴岡八幡宮


平間寺 ( 通称、川崎大師(かわさきだいし) ) – 丸に三つ柏紋 – 神奈川県川崎市川崎区大師町4-48川崎大師平間寺


熊野神社 ( 祭神は熊野大神。境内に秋葉神社、銭洗弁財天等がある。 ) – 烏紋 – 埼玉県川越市連雀町17-1


秩父神社 ( 秩父地方の総社。秩父夜祭で有名。 ) – 向い銀杏紋 – 埼玉県秩父市番場町1-3


大鳥神社 ( かつての目黒村の鎮守。主祭神は日本武尊 ) – 鳳凰紋 – 東京都目黒区下目黒3-1-2


東郷神社 ( ロシアバルチック艦隊を破った元帥海軍大将の東郷平八郎を主祭神にしている。 ) – 菊花に蔦紋 – 東京都渋谷区神宮前1-5-3


浅草神社 ( 通称に三社権現、三社様。 ) – 丸に三つ葵紋、丸に三つ干網紋 – 東京都台東区浅草2-3-1浅草神社


不忍池弁天堂 ( 琵琶湖に見立た忍池の中に竹生島を模した弁財天がある。 ) – 抱き波に三つ鱗紋 – 東京都台東区上野公園2-1不忍之池弁天堂


上野寛永寺 ( 徳川家の菩提寺 ) – 丸に三つ葉葵紋 – 東京都台東区上野桜木1-14-11


築地本願寺 ( 浄土真宗本願寺派。伊東忠太による建築。 ) – 九条藤紋 – 東京都中央区築地3-15-1


水天宮 ( 安産・子授け・七五三・初宮・芸能祈願・水難除けなどのご利益で知られる。 ) – 椿紋 – 東京都中央区日本橋浜町2-30-3


靖国神社 ( 日本の軍人、軍属等を主な祭神として祀る。 ) – 十六菊紋 – 東京都千代田区九段北3-1-1靖国神社


神田明神 ( 大己貴命、少彦名命、平将門命の3柱を祀る。 ) – 尾長巴紋 – 東京都千代田区外神田2-16-2


多田神社 ( 多田満仲を奉る ) – 笹竜胆紋 – 東京都中野区南台3-43-1


根津神社 ( 古くは「根津権現」とも称された。 ) – 念じ右卍紋 – 東京都文京区根津1-28-9根津神社


湯島天神 ( 境内の梅の花も有名。 ) – 加賀梅鉢紋 – 東京都文京区湯島3-30-1


乃木神社 ( 乃木希典将軍と乃木静子夫人を祀る。 ) – 市松四つ目結紋 – 東京都港区赤坂8-11-27乃木神社


長谷寺 ( 曹洞宗の永平寺東京別院 ) – 竜胆車紋 – 東京都港区西麻布2-21-34


成田山新勝寺 ( 真言宗智山派大本山。本尊は不動明王。 ) – 牡丹紋 – 千葉県成田市成田1