蝶紋 -優美さと物悲しさ漂わせる紋所- 大谷吉継、芹沢鴨、小村寿太郎、船越英一郎...


家紋の中で一番、優美なのがこの蝶紋である。

一般的には、平家の代表紋と言われている。
確かに、公家で平家流の平松家、西洞院家などはこの紋を使用しているが、実際、武家の桓武平氏では、この紋はそれほど普及しているわけではない。

ただし、織田信長のように、後から平氏を自称した諸家では、この紋を定紋としたようである。

ところで、よく見ると、揚羽蝶紋で描かれている蝶の目はどこか物悲しい。
壇ノ浦で滅んだ平家を哀れんでいるかのようでもある。

全国分布だが、県別家紋数では、まんべんなく20位~30位くらいの位置をキープしている。
敢えて言えば、三重県(18位)、鹿児島県(18位)、岐阜県(19位)、群馬県(20位)、石川県(20位)などが20位以内に入っている。
逆に宮崎県、徳島県ではベスト30にも入っていない。

さて、この紋を使用している有名人だが以下が確認できている。


大道寺政繁 。1533年 – 1590年8月18日、 戦国武将。
父は大道寺重興。大道寺氏は「平朝臣」を名乗り、後北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれる家柄で、代々後北条氏の宿老的役割を務め、主に河越城を支配していた。豊臣秀吉による小田原征伐時、上野松井田城を守っていたが、開城降伏した。家紋は揚羽蝶紋。


織田信長 。1534年5月12日 – 1582年6月2日、 戦国武将。
古渡城主・織田信秀の次男または三男として出生。日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて世に多大な影響を残した武将、大名(戦国大名)。重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い自刃に追い込まれた。画像は信長の陣羽織より。


長谷川等伯 。1539年 – 1610年3月19日、 絵師。
能登国七尾出身。当時の主流・狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち独自の画風を確立。晩年、利き腕である右手の自由を失う。代表作『旧祥雲寺障壁画』『松林図屏風』『花鳥図屏風』。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は京都・本法寺にて撮影。


佐野房綱 。1558年 – 1601年7月31日、 武将。
佐野宗綱の弟。佐野氏は秀郷流の系統。藤姓足利氏の庶流。豊臣秀吉に仕え、小田原征伐のとき、功績により、佐野氏の領地である唐沢山城と3万9000石の所領を安堵される。戦国時代においては、剣術の達人の一人であったと言われている。


大谷吉継 。1559年 – 1600年10月21日、 武将・大名。
近江国出身。秀吉の小姓となり、出世。九州征伐で功を上げ、5万石を与えられ、敦賀城主となる。賤ヶ岳の戦いの際には長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させる。関が原の戦いでは西軍に与し、破れる。家紋は向かい蝶紋。


池田輝政 。1565年1月31日 – 1613年3月16日、 武将・大名。
織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれた。家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。関ヶ原の戦いでは徳川方に与する。また、姫路城を形に改築。家紋は蝶(左画像は姫路城の瓦の蝶紋)、備前蝶。


松平信綱 。1596年12月19日 – 1662年5月4日、 老中。
武蔵国出身。別名・松平伊豆守信綱、知恵伊豆徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として生まれ、松平正綱の養子となる。家光の信を受け武蔵忍藩主、武蔵川越藩主となる。家紋は高崎扇と伊豆蝶紋。画像は菩提寺・平林寺の大河内家墓所にて撮影。


荷田春満 。1669年2月3日 – 1736年8月8日、 国学者・歌人。
京都の神官の子。賀茂真淵本居宣長平田篤胤と共に国学の四大人の一人。賀茂真淵は弟子。主著は『春葉集』『創学校啓』『伊勢物語童子問』。赤穂義士に吉良義央在宅確実の茶会の日を教えたという。画像は養子・在満の墓所にて撮影。


伊勢貞丈 。1718年1月29日 – 1784年7月15日、 有職故実研究家。
伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄。伊勢平氏・平維衡の後裔と言われる名門で江戸時代には徳川氏に仕え中世以来の武家を中心とした制度・礼式を伝える家として残る。「貞丈雑記」「安斎雑考」「軍用記」等を残す。家紋は向かい蝶紋。


大塩平八郎 。1793年3月4日 – 1837年5月1日、 町奉行所与力。
大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。大塩家は代々与力として禄を受けていた。天保の大飢饉の際、人民救済のために大塩平八郎の乱を起す。その乱の際、元々の大塩家の家紋の蝶の丸ではなく桐紋を旗印にした。


芳村伊三郎 。1800年 – 1847年7月27日、 長唄の師匠。
上総出身。芳村伊千五郎が4代目伊三郎を襲名。歌舞伎の世話物の名作「与話情浮名横櫛」(別名お富与三郎)のモデル。春日八郎のヒット曲『お富さん』はこの演目からセリフを取り入れている。家紋は三つ盛り揚羽蝶。画像は品川・天妙国寺にて撮影。


池田孤邨 。1803年 – 1868年3月6日、 絵師。
越後国水原近辺出身。本名は、池田三信。『光琳新撰百図』『抱一上人真蹟鏡』上下を出版した。この絵本は、ジャポニズムの機運にのって西洋に渡り、装飾美術の隆盛に寄与した。家紋の丸に備前蝶紋は、江戸川区西瑞江の大雲寺にて撮影。


関鉄之介 。1824年12月7日 – 1862年6月8日、 勤王志士。
水戸上町出身。水戸藩士・関新兵衛昌克の子。読みは、せきてつのすけ。水戸学の影響を受けて尊王攘夷運動に乗り出した。桜田門外の変で実行隊長として襲撃を指揮し、井伊直弼を暗殺した。桜田十八士の一人。家紋は揚羽蝶紋。


芹沢鴨 。1827年 - 1863年10月28日、 幕末の水戸藩浪士。
中世に興起した常陸国芹沢村の豪族、芹沢氏から発祥した水戸藩上席郷士、芹沢家の当主貞幹の三男として生まれた。江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加。新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長。暗殺される。


川崎八右衛門 。1834年12月 – 1907年1月13日、 実業家。
茨城県東茨城郡茨城町出身。川崎家は水戸藩第二藩主徳川光圀の時代にとりたてられる。幕末に水戸藩の鋳銭事業に着手、家業である廻船事業をはじめ事業を拡大し東京川崎財閥の前身・川崎組、川崎銀行の創始者となる。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


谷万太郎 。1835年 – 1886年6月30日、 新選組隊士。
備中国出身。松山藩士・谷三治郎供行の二男。兄は谷三十郎、弟は谷周平。三兄弟とも新選組隊士。池田屋事件では土方歳三隊に属し活躍。兄・三十郎の死後には新選組を離脱した。維新後は、大坂で町道場を経営した。家紋は上下向い蝶紋。


山城屋和助 。1836年 – 1872年12月29日、 陸軍省御用商人。
周防国玖珂郡出身。医師・野村信高右の四男。本名は野村三千三。読みは、やましろやわすけ。奇兵隊に入隊し山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦。長州人脈を活かして兵部省御用商人となるが汚職が発覚し自殺。野村家の家紋は浮線蝶紋。


池田章政 。1836年6月16日 – 1903年6月5日、 藩主。
肥後国人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し藩内における信望もあった。明治維新後は侯爵に叙任、従一位・勲一等・麝香間祗候。家紋は池田向い蝶紋。画像は谷中霊園の長男・池田政保の墓で撮影。


川崎正蔵 。1836年8月10日 – 1912年12月2日、 実業家、政治家。
薩摩国出身。17歳の時長崎に出て貿易に従事、藩命によって金・米を扱った。神戸川崎財閥の創業者。川崎造船所(川崎重工の前身)、神戸川崎銀行を設立。後継者として、松方正義の三男・松方幸次郎を選ぶ。家紋の浮線蝶紋は、肖像写真より判断。


チャリヘス 。1838年 – 1897年、 料理人。
スイスのチューリッヒに生まれ、フランスのパリでコックの修業を積み、上海を経て1869年頃に来日。築地精養軒の料理顧問となる。日本におけるフランスパンの開祖として今に語り伝えられる。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園内の外人墓地にて撮影。


池田謙斎 。1841年12月22日 – 1918年4月30日、 医者。
越後国出身。入沢健蔵の次男として生まれ、当時幕府付の医員であった池田多仲の養子となり、適塾へ入学。医学校と東京開成学校の統合により設立された東京大学の初代医学部綜理に就任。家紋は備前蝶紋。画像は谷中霊園にて撮影。


武井守正 。1842年5月5日 – 1926年12月4日、 政治家、実業家。
姫路藩出身。父は士・武井領八。幕末には勤王派として国事に奔走し捕らえらるが維新後出獄し新政府に出仕。鳥取県知事、石川県知事、貴族院勅選議員を歴任。実業界に転じ帝国海上保険などを創立。家紋は花形蝶紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


吉田清成 。1845年3月21日 – 1891年8月3日、 武士、官僚。
薩摩藩出身。藩の留学生として英米に留学。帰国後、大蔵省に出仕して租税権頭・大蔵少輔を歴任。外務大輔に任命され、井上馨外務卿の元で条約改正にあたる。「吉田清成文書」は有名。家紋は丸に浮線蝶紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


並河靖之 。1845年10月1日 – 1927年5月24日、 七宝家。
京都柳馬場御池北入町で生まれる。川越藩近江領5000石余の代官、高岡家の3男。明治期の日本を代表する七宝家の一人で、京都を中心に活躍。七宝のデザインには、自家の家紋の蝶(形状は不明)がよく使われたという。画像は七宝に描かれた蝶。


外松孫太郎 。1847年9月10日 – 1926年7月13日、 陸軍軍人。
紀州藩出身。同藩士・外松孫左衛門の養子となる。読みは、とまつまごたろう。陸軍省・経理局長兼会計監督長、主計監を歴任。日露戦争には大本営野戦経理長官として出征。予備役後、男爵に叙される。家紋の丸に揚羽蝶紋は、「華族家系大成」による。


小松済治 。1847年11月 – 1909年2月17日、 官僚。
江戸に出生。読みは、こまつせいじ。旧名馬島済治。幕末期に、会津藩によってドイツ留学をする。明治維新後は紀州藩藩士を経て岩倉使節団随員、司法省民事局長、参事官、横浜地方裁判所長等を歴任した。家紋は浮線蝶紋。谷中霊園の墓所にて撮影。


柳川一蝶斎(3代) 。1847年11月 – 1909年2月17日、 手品師。
江戸神田の御用金物屋・青木常次郎の子。本名は青木治三郎。太神楽・曲芸の一座と共に欧州巡業に出る。獅子の曲、独楽の曲など日本手品を得意とし、とりわけ和紙の切れを扇であおいで蝶の飛ぶさまに見せる芸は見事であった。家紋は備前蝶紋。


平田東助 。1849年3月26日 – 1925年4月14日、 官僚・政治家。
山形県米沢出身。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。大逆事件が発生した際は内相として犯人検挙を指揮。山縣有朋の側近として貴族院および宮中における重鎮として元老に次ぐ影響力を保ち続ける。護国寺の墓所も山縣有朋の墓の近くにある。


グラバー・ツル 。1851年 – 1899年3月23日、 女性。
旧士族・談川安兵衛の養女。幕末に長崎を拠点として活躍した英国商人トーマス・ブレーク・グラバーの妻。倉場富三郎の母親。プッチーニのオペラ、『蝶々夫人』の蝶々さんのモデルとされる。家紋は蝶紋と言われている。


山中信義 。1851年2月15日 – 1926年4月18日、 陸軍軍人。
長州国出身。西南戦争には小松宮彰仁親王の新撰旅団の大隊長、日露戦争では、歩兵第10旅団長として出征し旅順攻囲戦や奉天会戦などを戦う。最終階級は陸軍中将。家紋の上下向い蝶紋は、「華族家系大成」による。


小村寿太郎 。1855年10月26日 – 1911年11月26日、 外務大臣。
日向国飫肥藩に下級武士の子として生まれる。大学南校(東京大学の前身)入学。ハーバード大学へ留学。第1次内閣の外務大臣に就任。日英同盟を積極的に主張。日露戦争における戦時外交を担当し、ポーツマス条約の全権委任大使となる。


城泉太郎 。1856年8月17日 – 1936年1月8日、 教育者。
越後長岡藩士・河井資信の長男として生まれる。河井継之助は親戚筋。徳島慶應義塾の二代目校長となる。後に英学の教師をし、自由民権運動に携わる。『通俗進化論』、翻訳書『経世危言』を刊行。家紋は丸に揚羽蝶紋。墓所のある禅林寺にて撮影。


尾崎行雄 。1858年12月24日 – 1954年10月6日、 政治家。
相模国津久井県出身。議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」と呼ばれる。家紋は鬼蔦と五つ蝶紋。青山霊園の義父の尾崎三良の墓所にて撮影。


片岡直温 。1859年10月13日- 1934年5月21日、 実業家、政治家。
土佐国出身。読みは、かたおかなおはる。加藤高明内閣にて、商工大臣として初入閣。若槻内閣で大蔵大臣を務めた際、その失言により、内閣が総辞職に追い込まれた。実業家としては日本生命社長を務めた。家紋は片岡兄弟顕彰碑写真より揚羽蝶紋と判断。


矢部辰三郎 。1863年 – 1924年3月29日、 海軍軍医。
岡山出身。海軍大軍医、軍医校教官、海軍軍医総監、海軍軍医総監等を歴任。フランスのパスツール研究所に日本人第一号として留学し「免疫」という訳語はじめて使用した。最終階級は海軍軍医中将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


千葉胤明 。1864年7月14日 – 1953年6月25日、 歌人。
肥前佐賀出身。最初、佐野常民に師事、竜地会事務職に就く。高崎正風に師事し、和歌を学ぶ。宮内省御歌所勤務。御歌所寄人を務める。明治天皇御製編纂に従事し、後に長く歌会始点者も務める。家紋は浮線蝶紋。画像は青山霊園にて撮影。


山路愛山 。1865年1月23日 – 1917年3月15日、 評論家、歴史家。
江戸淺草出身。幕臣・山路一郎の子。徳富蘇峰の知遇をえ國民新聞記者として政治および史論に筆をとる。日露戦争勃発と同時に『日露戦争實記』を発刊し草木皆兵を論じ愛国心を鼓舞した。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


神戸寅次郎 。1865年1月24日 – 1939年5月17日、 法学者。
静岡県出身。法学科第一期生として慶應に入学。慶應義塾大学新設にあたり法学部教授兼法学部長に就任し慶應義塾学事顧問を務めた。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


平沼騏一郎 。1867年10月25日 – 1952年8月22日、 政治家。
岡山県津山市出身。日本の官僚で第35代内閣総理大臣。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、A級戦犯で訴追され終身刑の判決を受けた。衆議院議員・平沼赳夫は平沼騏一郎の兄・平沼淑郎の曾孫。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


岡本綺堂 。1872年11月15日 – 1939年3月1日、 小説家、劇作家。
東京高輪に生まれて麹町に育つ。英公使館に勤めていた元徳川家御家人、岡本敬之助の長男。本名は岡本敬二。24年間、東京日日新聞の記者として過ごす。代表作は岡っ引捕り物小説の『半七捕物帳』。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


塩田広重 。1873年10月14日 – 1965年5月11日、 外科学者。
京都府生まれ。東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授および同学長を兼任した。胃腸手術の権威として知られる。狙撃された浜口雄幸の治療をしたことでも有名。また老人学の草分けでもある。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


曽我廼家五九郎 。1876年4月12日 – 1940年7月7日、 喜劇俳優。
徳島県麻植郡鴨島村出身。本名は武智故平。壮士芝居を経て、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名乗る映画『ノンキナトウサン』シリーズが大当たり。トウサン役は五九郎の当たり役となる。家紋は揚羽蝶紋。


小松従志 。1883年1月16日 – 1943年8月5日、 伯爵。
東京府出身。読みは、こまつじゅうし。西郷従道の六男。明治維新の功労者・小松帯刀の子・重春の養子として継爵し伯爵となる。小松家の嫡流の家紋は抱き梶の葉紋であるが、従志の家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


今村均 。1886年6月28日 – 1968年10月4日、 陸軍軍人。
宮城県仙台区出身。父は裁判官の今村虎尾。最終階級は陸軍大将。占領地での軍政統治能力は名将との評価を受ける。水木しげるは「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評した。家紋は浮線蝶紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。


光用穆 。1887年3月10日 – 1943年10月12日、 小説家、翻訳家。
新潟県高田市出身。読みは、みつもちきよし。早稲田大学文学部を出た後、中央新聞に入社し短編小説を数編、書く。葛西善蔵、相馬御風、広津和郎らとともに同人誌「奇蹟」に関わる。H・G・ウェルズの『宇宙戦争』を翻訳した。家紋は揚羽蝶紋。


南雲忠一 。1887年3月25日 – 1944年7月8日、 海軍軍人。
山形県米沢市出身。旧米沢藩士南雲周蔵の次男。真珠湾にあるアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の母港を奇襲攻撃、開戦劈頭の勝利を飾るがミッドウェー海戦では大敗を喫する。最終階級は海軍大将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は鎌倉・円覚寺にて撮影。


一龍斎貞丈(4代) 。1889年 – 1931年12月23日、 講釈師。
本名は、安原大二郎。亭号を昇龍斎として、昇龍斎貞丈と名乗った。5代目・一龍斎貞丈の師匠にあたる。講釈は、日本の伝統芸能のひとつで、高座におかれた釈台と呼ばれる小さな机の前に座り、軍記物や政談を読み上げる。家紋は丸に揚羽蝶紋。


池田義信 。1892年3月10日 – 1973年9月1日、 映画監督。
長野市宇木出身。本名は義臣。栗島すみ子の夫。松竹蒲田撮影所にはいり、11年の「生(な)さぬ仲」で初監督をする。代表作は「船頭小唄」「いろはにほへど」「不如帰」「真珠夫人」。家紋は丸に揚羽蝶。画像は池上本門寺にて撮影。


池田亀鑑 。1896年12月9日 – 1956年12月19日、 国文学者。
鳥取県日野郡福成村出身。「源氏物語」研究の権威で文献学の知見を日本古典文学研究に導入。「源氏物語大成」全8巻を刊行、異本を比較して古典の原型を明らかにする文献批判学研究を行う。紫式部学会の創設する。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


神谷正太郎 。1898年7月9日 – 1980年12月25日、 実業家。
愛知県知多郡横須賀町出身。トヨタ自動車系ディーラーの礎を一代で築き上げ、その豪腕から「販売の神様」と称される。「一にユーザー、二にディーラー、三にメーカーの利益を考えよ」との名言を残す。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。


鳥取春陽 。1900年12月16日 – 1932年1月16日、 街頭演歌師。
岩手県新里村出身。本名は、鳥取貫一。読みは、とっとりしゅんよう。関東大震災後、活動拠点を大阪に移し、歌手兼作曲家として活躍した。代表曲は『籠の鳥』『船頭小唄』。家紋の丸に揚羽蝶紋は、宮古市新里生涯学習センター「玄翁館」にて教えていただく。


薩摩治郎八 。1901年4月13日 – 1976年2月22日、 実業家。
東京・日本橋出身。一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫。フランス・パリで豪奢な住居を構え、社交界にその名を轟かす。画家の藤田嗣治等の日本人芸術家のパトロンとなる。家紋の丸に揚羽蝶紋は徳島市・敬台院の墓所写真より推測。


安藤鶴夫 。1908年11月16日 – 1969年9月9日、 小説家、評論家。
東京市浅草区向柳原町に、義太夫の八代目竹本都太夫の長男として出生。古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒。芸人の好き嫌いが激しかった。『巷談本牧亭』で直木賞受賞。小林信彦、高田文夫等に影響を残す。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


井上節子 。1915年2月4日 – 1984年12月7日、 社会事業家。
広島県出身。幼少時から病弱であったが、不動産管理業などで成功。私財5億円を基金に昭和59年東京に井上科学振興財団を設立。没後、財団は遺産約30億円の寄贈をうけ、自然科学の基礎的研究を助成。家紋は揚羽蝶紋。井上科学振興財団のHPにて確認。


トニー谷 。1917年10月14日 – 1987年7月16日、 コメディアン。
東京市京橋区銀座に生まれ、小伝馬町に育つ。本名は大谷正太郎。戦後日本の特殊状況を鋭く批評するキャラクターを構築したゲテモノ芸人。リズムに乗りソロバンをかき鳴らす珍芸が売。妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。


宮尾登美子 。1926年4月13日 – 2014年12月30日、 小説家。
高知県高知市生まれ。『連』で婦人公論女流新人賞を受賞。『櫂』が太宰治賞を受賞。作品のテーマは一貫して女性である。代表作は『櫂』『鬼龍院花子の生涯』『宮尾本 平家物語』『天璋院篤姫』『義経』など。家紋の揚羽蝶紋は宮尾家の家紋。


阿佐田哲也 。1929年3月28日 – 1989年4月10日、 小説家、雀士。
東京都新宿区出身。本名は色川武大。色川名義の作品も多かった。代表作は「怪しい来客簿」「離婚」(直木賞受賞作品)「狂人日記」「麻雀放浪記」「次郎長放浪記」。雀聖と呼ばれた。家紋は中陰対い蔦蝶。画像は谷中墓地にて撮影。


萬屋錦之介 。1932年11月20日 – 1997年3月10日、 俳優。
東京府出身。初名・中村錦之助。父は吉右衛門。本名は小川錦一。昭和時代劇を代表する大スター。代表出演作は『宮本武蔵』『風雲児 織田信長』『子連れ狼』『破れ奉行』等。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。小川家の家紋は五三桐紋


小山明子 。1935年1月27日 – 、 女優。
千葉県出身。本名は大島明子。旧姓・臼井。夫は映画監督の大島渚。代表出演作は『絞死刑』『世なおし奉行』など。1969年には『少年』で毎日映画コンクールの助演女優賞を受賞した。家紋の揚羽蝶紋は大島渚の葬儀時の紋付にて判断。


張本勲 。1940年6月19日 – 、 元プロ野球選手、野球解説者。
広島県広島市出身。プロ野球時代には、安打製造機の異名を取り、日本プロ野球で3000安打を記録している唯一の選手。引退後は、プロ野球解説者として活躍。画像は夫人の墓(張本家の墓)にて撮影。家紋の揚羽蝶は”張”の読みから使用か?


中村吉右衛門(2代) 。1944年5月22日 -、 歌舞伎役者、俳優。
藤間久信→波野久信→波野辰次郎と改名。歌舞伎では『勧進帳』『義経千本桜』の武蔵坊弁慶が当たり役。また、テレビドラマでは池波正太郎原作『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵役で有名。画像の揚羽蝶は青山霊園・初代の墓所にて撮影。


大場久美子 。1960年1月6日 -、 女優、歌手。
埼玉県川口市出身。『あこがれ』で歌手デビュー。一億人の妹というキャッチフレーズで、多くのヒット曲を生み出した。代表出演作は『コメットさん』。家紋の丸に揚羽蝶紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


船越英一郎 。1960年7月21日 – 、 俳優。
神奈川県足柄下郡湯河原町出身。本名は船越栄一郎。父は俳優の船越英二、母は長谷川裕見子。大叔父は長谷川一夫。2時間ドラマへの出演が顕著で、「2時間ドラマの帝王」等の異名を持つ。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は父・船越英二の墓所にて撮影。


新田純一 。1963年5月8日 -、 歌手、俳優。
東京都出身。本名は筒井 純一。フジテレビのオーディション番組『君こそスターだ!』で合格。出演テレビドラマに『あばれ八州御用旅』『暴れん坊将軍VI』『長七郎江戸日記』『闇を斬る!大江戸犯科帳』などがある。家紋の丸に揚羽蝶紋は、自身のブログにて告白。


中村獅童(2代) 。1972年9月14日 -、 歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「レッドクリフ」など。萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。 小川家の家紋は五三桐紋

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

何故、福男選びは足が不自由な恵比寿様の前で行われるのか

昨日、恒例の開門神事福男選びがあった。

西宮神社は”えべっさん”(恵比寿様)を奉る神社である。
ご存知の通り、恵比寿様は、イザナギ命とイザナミ命との間に生まれた最初の子である。
ところが、不具であったため葦の舟に入れて流され、この西宮に漂着し、海を司る神として祀られたという。

そのために、恵比寿像は座っている、あるいは膝立ちしている。
(写真はJR恵比寿駅前にある恵比寿像)
すなわち、恵比寿様は足が不自由な神様なのである。

さて、開門神事福男選びであるが、元々、1月9日の夜は、”えべっさん”が市中を廻られるということで、氏子は家に篭る風習があったという。
おそらく、その篭りには、”えべっさん”の不恰好な徘徊を見ては失礼だという氏子達の配慮という面もあったのではないかと、僕は思う。

そして、その忌篭りが解かれたと同時に、氏子達は、一斉に神社まで駆ける。
その風習が、現在の開門神事福男選びの起源ということなのだ。
     ◆
しかし、よく考えてみれば、足が不自由な”えべっさん”を前にして、氏子が足を競うというのはどこかおかしくないか。
普通の感覚ならば、逆にえ”べっさん”は嫉妬すると思うのだが。
例えば、弁財天をカップルでお参りすると、そのカップルは別れるという伝説があるみたいに。
しかし、逆に言えば、開門神事の賑わいは、そんな人間の無作法な行事を許してくれるほど”えべっさん”は太っ腹な神様、という事の証明なのではないだろうか。
それだけ太っ腹だからこそ、どんな人に対しても大漁安全、商売繁盛を約束してくれるのだ。
     ◆
あるいは、”えべっさん”は自らの御足を、ある種、スケープゴードにすることによって、氏子に健脚を保障したのかもしれない。
雛人形の川流しが元々、それらを生贄にすることによって、子供達の健康を守るように。
あるいは、縄文時代の土偶は必ず体の一部が壊されて、埋められたという話を聞いたことがある。
それは次に生れてくる子が、五体満足に生れてくるようにとの願いが込められていたというのだ。
     ◆
本当の事はわからない。

もしかしたら、何も考えないで、いつの間にか、なんとかく、そういう儀式になったのかもしれない。
おそらく、その確率が高い。
しかし、そうだとしても、それはそれで、日本的なおおらかさがあって、僕は好きである。

まさむね

西郷隆盛の銅像はなぜ上野の山にあるのか

正月に、たけしの”教科書に載らない”日本人の謎~篤姫はなぜ上野の山に眠るのか~を見た。

東京(江戸)の真北(北辰の位置)にある日光・東照宮、鬼門にある東叡山・寛永寺、裏鬼門の増上寺等が江戸を霊的に守っていることを比較的よく知られている。
また、平将門の体の各部位を奉る神社が、以下のようにそれぞれ五街道の出発点に存在させることによって、悪鬼が江戸に侵入するのを防ごうとしたという話は、「神社の系譜」(宮元健次著)に詳しい。

首塚(首) -大手門(奥州道)
鳥越神社(手)-浅草橋門(奥州道)
神田神社(胴)-神田橋門(日光道)
世継稲荷神社(首桶)-田安門(中山道)
筑土八幡神社(足)-牛込門(中山道)
兜神社(兜) -虎ノ門(東海道)
鎧神社(鎧) -四谷門(甲州道)

「神社の系譜」より

番組では、そういった江戸の霊的な守備陣営を紹介し、その一環として、寛永寺に13代将軍家定と篤姫が埋葬されていて、江戸を守っているという説明がされていた。
確かにその通りだろうし、興味深い話ではある。
しかし、僕としては、さらにもう一歩進めた推理を展開して欲しかったのも事実だ。

さて、上記の「神社の系譜」の最終章にはさらに面白い事実が指摘されている。
かの靖国神社(=東京招魂社)は、最初、彰義隊と官軍との戦い(上野戦争)で火の海と化した上野の寛永寺に営むことになっていたというのだ。
陸軍参与の木戸孝允がその決定をしたらしいのだが、おそらく彼は、寛永寺に換わる江戸の総鎮守として、官軍兵士を顕彰する神社を建てようとしたのだと思う。
しかし、その決定は上野戦争での功労者である大村益次郎の主張によって、現在の九段に再決定することになる。
「上野の山は、徳川軍の霊のさまよう『亡魂の地』だから」というのがその理由だったらしい。

しかし、僕は、当時の明治政府には、徳川の墓所をつぶして、その場所に自分達のための霊的施設を営むだけの自信がなかったのではないかと思う。
まだ、江戸には徳川親派が数多く潜伏している状況の中で、そのあたりに関して、センシティブにならざるを得なかったのであろう。
新政府は、上野の山には手を付けられなかったのである。
そして、その後の明治6年、この上野の山は公園として庶民に解放されることになる。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!とは、後の文学者・梶井基次郎の言葉であるが、彰義隊員の戦死の記憶は、江戸時代から有名だった上野の桜として記録されることになるのだ。

徳川の墓所は、こうして、上野に残存を許されたのである。
「篤姫はなぜ上野の山に眠るのか」と言うのならば、このあたりまで踏み込んでもらいたかった。

一方、九段には、靖国神社(=東京招魂社)が建てられるが、「神社の系譜」によると、その位置は浅草寺(寛永寺の前の江戸総鎮守)から見て、冬至の太陽が沈む方向に、そしてその参道は神田明神に続くような方角に延びているという。
すなわち、靖国神社は、浅草寺と神田明神という江戸の2大パワースポットから力をもらえるような位置、設計になっているというのである。
靖国神社は、徳川以前から存在していた江戸の地霊と真っ向対決するのではなく、協調する姿勢を見せているのだ。

ただし、その後(明治26年)、靖国神社境内に大村益次郎の銅像が建立される。
その視線は、上野の方角に向け、手には双眼鏡を持っている。
一方で地霊とは協調しながら、ここでは、逆にしっかりと徳川の霊に睨みを効かせているのが面白い。
徳川の復帰は認められないが、江戸の人々は味方に付けたかったという思惑が垣間見れるからだ。

さて、大村益次郎の銅像が建てられてから5年後、上野の山には、西郷隆盛の銅像が建てられる。
西郷と言えば、上野戦争で徳川軍を攻めた官軍の参謀であり、彰義隊を壊滅させた男である。
しかも、その後、西南戦争を起こして、新政府にとっても賊軍とされた男である。ちなみに靖国神社に彼の御霊は祭られていないのは有名な話である。
その西郷の銅像はなぜ、上野という地に建てられたのか。
一説によると西郷が上野の山によく散歩に出かけたからというが、どうも、その説には迫力が無い。

僕が思うに、日本には昔から「夷をもって夷を制す」という発想があるが、明治政府は、西郷という傑出した荒魂の力で、彰義隊の魂を未来永劫封じ込めようとしたのではないだろうか。
あるいは、敢えて、犬を連れた着流し姿という隙の多い銅像にすることによって、彰義隊にとって、いつでも殺れるようにと、西郷を差し出したのかもしれない。ようするに、徳川の霊の機嫌をとりたかったのかもしれない。そういえば、位置関係でも、南を向いている西郷像のすぐ背後に彰義隊の墓があるではないか。
申し訳ないが、僕には、ここで、真偽を語るほどの知見はない。

次回は、西郷隆盛の銅像はなぜ、上野の山にあるのか。という番組を、是非やってもらいたいと思うだけである。

まさむね

花田家の家紋がいつの間にか替わった件に関して

先日、Yahooの特集に「【大相撲豪傑列伝】(13)力道山の肉を食いちぎった『土俵の鬼』初代若乃花幹士」という記事が掲載されていた。

記事の内容は、「二所ノ関部屋の兄弟子である力道山のシゴキを受けて強くなったが、けいこの途中で力道山の脛にかみつき、肉を食いちぎったことがある。力道山がプロレス転向後に黒いロングタイツをはいたのは、その傷を隠すためだったともいわれる。」とあるような武勇伝であるが、僕が気になったのは、その記事と一緒に掲載されていた写真だ。
おそらく、若乃花が優勝したときのパーティの写真(写真一番上の段)だろうが、若乃花の紋付の家紋が「丸に三つ柏」なのである。

花田家の家紋と言えば、思い出す事がある。
二子山親方(元大関貴ノ花)が亡くなった時の葬儀で、離婚した憲子さんが花田家の家紋のついた帯をしてきて、貴乃花親方(元横綱貴乃花)が激怒したあの件である。
この時、葬儀の壇上に大きく飾られた紋所は、「隅立ての四つ目結い」であった。
そして、憲子さんの帯にも「丸に隅立ての四つ目結い」が入っていたのだ。

勿論、その後、貴乃花親方、兄の三代目若乃花の正装の紋付にはこの紋が入っている。

さて、それでは何故、先代若乃花の家紋と二子山親方、あるいは貴乃花親方の家紋が違うのだろうか。
勿論、僕はここで、巷に流布している花田家に関するくだらない噂(真実の親子関係など)を云々しようとしているわけではない。
家紋というものが得てして、このように替わってしまうものだという事を確認したかっただけである。

花田家の家紋がいつの間に「丸に三つ柏」から「丸に隅立ての四つ目結い」になったのか。
そんなコロコロ替わってしまうものに対して何故、貴乃花はあれほどこだわったのか。
謎と言えば謎ではある。
しかし、それでもいいのである。
誰も真実をもって貴乃花に詰め寄るようなことはしない。
日本人というのは、おおらかなものなのである。
    ◆
本人が、これがウチの家紋だと言い張れば、それはそのウチの家紋になる。
これが、ウチの伝統だと思えば、それがウチの伝統になる。
正確な経緯とか、歴史の真実などどうでもいいのである。
例えば、井の頭公園弁財天の神紋にしても境内各所にある対い波に三つ鱗の紋の波の形が少しづつ違うではないか。
本当はどの形が正しいのかなどは野暮な疑問なのである。
これは推測であるが、二子山親方(元大関貴ノ花)が、「四つ目結い」は家族の絆の象徴だからと誰か(霊友会関係者?)に言われて、花田家の家紋として、採用しただけかもしれない。
ちなみに、和泉元彌の和泉家も「雪輪に隅立て四つ目結い」を家紋としている。
花田家、和泉家、ともに現代日本を代表する伝統芸の一家であるが、家紋の意味とは裏腹に、家族内のゴタゴタが事あるごとに漏れ伝わってきてしまうのは皮肉である。
    ◆
さて、歴史の真実と言えば、戦後、日本では戦前の日本がどうであったのかという論争がずっと続いている。
最近も、自衛隊の田母神氏の論文が問題になった。
おそらく、彼の論文に対して、真実はどうかという歴史考証のレベルで話をしてもそれほど実りがあるとは思えない。
重要なのは、田母神氏が信念を持って論文を発表したということだ。
おそらく、田母神氏が日本は決して悪くなかったと信じている。それは貴乃花が四つ目結いを伝統的に花田家の家紋であると信じているのと同じことだ。

それゆえに、もし、彼がいずれかの討論会などで完全に論破されたとしても、その後で一言つぶやくだろう。
「それでも、日本は悪くない」と。
    ◆
人が信じていることを替えさせるというのは、本当に難しいことだと思う。

まさむね

井の頭弁財天の恋人破局伝説とテレビドラマの結末

先日、吉祥寺の井の頭公園に行ってきた。
都会の中のオアシスという言葉があるが、まさに、そんな感じだ。

さて、井の頭公園と言えば、弁財天である。

ここの弁財天は歴史がある。
天慶年間(938-946)に清和源氏の祖・源経基が最澄作弁財天を奉納して建立したのが元だという。
その後、源頼朝が宮社を建立、新田義貞が戦勝祈願したとも伝えられている。(神社公式HPより)
さて、弁財天の神紋は、「対い波に三つ鱗の紋」。人形町の水天宮の弁財天の神紋もそうでした。
境内には、提灯、賽銭箱、手水場等、様々な所にこの紋が見られるが、それぞれ微妙に違う。

また、狛犬の古さが、この弁財天の歴史を物語る。
台座には明和八年とある。1771年のことである。この頃の狛犬は、胴長でユーモラスな御顔の創りのものが多いが、この狛犬もそうだ。
ちなみに、写真は、口をあけているので正確には、「阿形の獅子」というべきか。
    ◆
ご存知の方も多いかと思うが、井の頭公園にカップルで来ると、ここの弁財天が嫉妬して、別れさせてしまうという伝説がある。この公園はドラマロケが多い公園としても有名であるが、この公園でデートした男女がドラマの中で、その後、どうなったのかを見てみよう。

1)「愛していると言ってくれ」
1995年にTBS系で放映。主演は紘子(常盤貴子)と晃次(豊川悦司)。
この公園で何度と無く過ごす二人だが、結局は別れてしまう。
しかし、最後の何年後かのシーンで偶然再会。将来へ若干の含みは持たせてあるが...

2)「ひとり暮らし」
1996年TBS系で放映。主演は美歩(常盤貴子)、他出演は、恭子(永作博美)と高弘(高橋克典)、千勝(高橋和也)。
一方的に美歩のことが好きだった千勝は美歩を誘って、井の頭公園でデートするが、結局実らず。

3)「仔犬のワルツ」
2004年にNTV系で放映。主演は葉音(安倍なつみ)と芯也(西島秀俊)。盲目の葉音と一緒に散歩するシーンがある。
二人は、愛し合っていたが、ドラマの最後では結ばれず。
ラストシーンでは、葉音が芯也を銃で撃つ?らしい銃声が...

4)「ラストフレンズ」
2008年にCX系で放映。主演は美知留(長澤まさみ)、瑠可(上野樹里)、タケル(瑛太)。
タケルがこの公園で瑠可を抱きしめて告白するも、瑠可は性同一障害のため、永遠に実らず。

偶然なのか、意図的なのか、4つのドラマとも、愛のすれ違い、あるいは愛を超えた運命によって、カップルは結ばれることは無かった。
    ◆
ところが、この日は、日曜日。
二人で楽しそうにしているカップルが多かったこと。

まさむね

田無における幕末動乱と住民のリアリズム

年末も近くなってきて「篤姫」も、江戸城無血入場のクライマックスが近づいてきた。

こういう歴史的な変動の時期は、当然、江戸だけじゃなくて、日本中それぞれの土地でも、様々な変動が起きているはずである。
江戸郊外であるが、当地・田無も無関係ではなかった。

江戸城無血入場後、慶喜は水戸へ退くが、腹の中が収まらない幕臣たちは、彰義隊を組織して上野に集結した事は知られている。(写真一番上、上野の彰義隊の墓)
しかし、内部で作戦方針が定まらず、一部(渋沢成一郎の一派)は彰義隊を離脱して、振武軍という部隊を結成した。
そして、この振武軍は、一隊ごと、田無にやってきたのである。

彼らは、田無の総持寺(写真二番目、三番目)に陣を張って、近隣の農民に、「徳川家再興のための軍資金集め」を要求した。
特に、地元の下田半兵衛(写真一番下は総持寺にある彼の墓)には、食事や夜具など様々な世話を命じたようである。

元々、この血は、江戸時代は、尾張徳川家の御鷹場(鷹狩りのための用地)であったため、比較的税制は優遇されていた。
だから、この辺りの農家の屋敷は、みんな大屋敷である。

後に、国木田独歩は「武蔵野」で、このあたりの土地の自然の豊かさを描写したが、それも、この土地が御鷹場であり、適度に自然を残す事が義務付けられていたという事情を背景としていたのだ。
しかし、一方で、そういった事情は同時に、いざという時には、幕府からの臨時徴収を覚悟しなければならなかったのである。

さて戦況は、どうなったのか。
まず、すぐに彰義隊が官軍に包囲されたという報告が入る。
振武軍は援軍として江戸に援軍として向かおうとしたが、途中で彰義隊壊滅の知らせが入り、再び田無に戻る。
すぐに官軍がこちらに向かっているという報が入り、急遽、臨戦態勢で陣を張る。
ところが、その陣にやってきたのは、官軍ではなく、傷ついた彰義隊だった。田無の村人は彼らの手当てを手伝ったという。
その後、振武軍は、田無から飯能へ後退。

そして、すぐに、振武軍を追ってやってきた官軍が田無へ大挙押し寄せる。そして田無で一泊した。
村では、官軍向けの炊き出しをしたという記録がある。

村人の意識としては、幕軍でも官軍でもどっちでもいいから、自分達の生活は乱さないでくれって思っていたんじゃないかな。そういう本音が垣間見れると、ちょっと微笑ましい。

戦局の方は、結局、振武軍が飯能で壊滅。
大将の渋沢成一郎は品川へのがれ、その後、榎本武揚達と一緒に、函館・五稜郭の戦いまで戦い抜く。
しかし、時勢が落ち着くと、渋沢は大蔵省に出仕、そして最終的には横浜で、生糸貿易を手がけ、成功して大富豪となったという。

なんかいろいろとあったけど、終わりよければ全て良しっていうのが渋沢の人生だった、ってことか?ちなみに、この渋沢成一郎は、日本・実業の父、渋沢栄一の従兄にあたる。

※多摩の歴史(武蔵野郷土史刊行会、有峰書店)参照
まさむね