井桁紋 -地から湧き出る命の水の不思議な力の象徴- 乃木希典、井上靖、井深大...


人間のとって最も大事なものは生命の源・水である。
古来、人々は、その水が地中から湧き出る泉、そして井戸をどれだけありがたがったことであろうか。
この井桁紋、井筒紋は、そんな日本人の地から湧き出る水の神秘さと感謝を紋所にしたものである。

また、井戸は冥土との通り道との俗信もあった。小野篁が井戸から地獄の閻魔大王の元に通っていたという伝説や、能楽の「井筒」の物語もそんな中の一挿話である。

井桁紋と井筒紋は類似しているが、通常、井桁紋は菱形、井筒紋は正方形のものを指す。

全国で27位の分布。特に鹿児島県(15位)、和歌山県(18位)、群馬県(19位)で多く見られる。

使用している有名人は以下。


住友政友 。1585年12月31日 – 1652年、 商人。
越前国丸岡出身。住友政行の次男。住友財閥の祖。平家の末裔といわれている。京都では富士屋嘉休と名乗り薬舗・書林の店「富士屋」を開いた。商人の心得を説いた『文殊院旨意書』を残し、その教えは今も住友精神の基礎となっている。


三井高利 。1622年 – 1694年5月29日、 商人。
伊勢国松坂出身。六角氏の旧臣・三井高安の長男・高俊が武士を捨て質屋と造り酒屋を開業。姓は藤原。三井家の基礎を築き江戸本町に呉服店を開業。屋号を越後屋(後の三越)とし、後に両替商も開業。家紋は井筒に三の字。四つ目結紋も使用。


小林平八郎 。? – 1703年1月31日、 武士。
元は米沢藩上杉家の家臣だったという伝承がある。吉良義央に遺恨のある大石良雄ら元赤穂藩の浪人(赤穂浪士)による吉良邸討ち入りに巻き込まれ討ち死にした。家紋は六つ追い重ね井筒紋。豊島区巣鴨の慈眼寺の墓所にて確認。


北村季吟 。1625年1月19日 – 1705年8月4日、 俳人、和学者。
近江国野洲郡北村出身。父の宗円を継いで医学を修めた。俳諧は貞門派に属し山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出。『土佐日記抄』『伊勢物語拾穂抄』『源氏物語湖月抄』などの注釈書も著す。家紋の丸に平井筒紋は正慶寺にて撮影。


安井息軒 。1799年2月5日 – 1876年9月23日、 儒学者。
日向国宮崎郡清武郷出身。飫肥藩士安井滄洲の次男。読みは、やすいそっけん。その業績は江戸期儒学の集大成と評価される。門下からは谷干城陸奥宗光など延べ2000名に上る逸材が輩出された。家紋は三つ盛鞠挟みに井桁紋。


江川英龍 。1801年6月23日 – 1855年3月4日、 幕臣。
伊豆国韮山出身。伊豆韮山代官・江川英毅の次男。通称は江川太郎左衛門。読みは、えがわひでたつ。洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。家紋は井桁に十六葉菊紋。


三輪田米山 。1821年2月12日 – 1908年11月3日、 書家。
伊予国久米郡出身。日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男。弟・三輪田元綱は足利三代木像梟首事件の犯人。義理の妹・三輪田眞佐子は三輪田女学校(現三輪田学園中学校・高等学校)の創立者。家紋は井桁に木瓜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


並木胤繁 。1825年 – 1871年、 剣豪。
武州田無村出身。千葉周作の北辰一刀流で免許皆伝する。一般的に、多摩地域は天然理心流の地盤といわれているが田無村は北辰一刀流の流れが根付いていたという。画像は門下生が建てた田無芝久保墓地の墓所にて撮影。家紋は井桁に花菱紋。


井上源三郎 。1829年4月4日 – 1868年1月29日、 新選組の隊士。
武蔵国日野宿北原出身。八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男。土方歳三近藤勇の兄弟弟子。新選組の六番隊組長を務める。鳥羽・伏見の戦いで敵の銃弾を腹部に受けて戦死。家紋は丸に井の字紋と丸に平井筒紋。家紋画像は日野市の宝泉寺にて撮影。


新井忠雄 。1835年3月5日 – 1891年2月15日、 新選組隊士。
陸奥国磐城平藩出身。母方の新井家を継ぐ。伊東甲子太郎らと共に新選組を離脱して御陵衛士を結成。油小路事件で御陵衛士が崩壊すると、薩摩藩邸に逃げ込んで、戊辰戦争では新政府軍に所属した。家紋は丸に井桁紋。画像は谷中霊園にて撮影。


真木長義 。1836年6月28日 – 1917年3月3日、 海軍軍人。
肥前国出身。佐賀藩士・藩医200石、真木長澄の長男。長崎海軍伝習所で学び、「電流」艦長として戊辰戦争に従軍。海軍中将、海軍機関学校長、宮中顧問官、伏見宮別当、貴族院議員を務めた。家紋は井桁に蔦紋。青山霊園の墓所にて撮影。


中島登 。1838年2月25日 – 1887年4月2日、 新選組隊士。
武州多摩郡小田野出身。農家の長男。土方歳三ら数名の新選組隊士らと共に、大鳥圭介、仙台で更に榎本武揚らと合流して蝦夷地へ渡る。箱館戦争では弁天台場第2分隊嚮導役となった。家紋の丸に組み井桁紋はブログ「一筆啓上」様の墓所家紋画像より。


今井信郎 。1841年11月14日 – 1919年6月25日、 武士。
江戸本郷出身。幕府講武所の柔術師範・窪田鎮勝からは扱心流体術を、榊原鍵吉からは直心影流剣術を習い、講武所の剣術師範代を勤めた。京都見廻組に参加し、近江屋事件で暗躍。坂本龍馬暗殺の犯人は自分であると証言。家紋の丸に平井筒紋は寂円寺にて撮影。


井上勝 。1843年8月25日 – 1910年8月2日、 官僚。
長州藩士・井上勝行の3男として萩城下に生まれる。脱藩後に英国に密航し、ロンドンに留学。帰国後は鉄道庁長官として鉄道事業の発展に尽力。日本の鉄道の父と呼ばれる。家紋は丸に隅立て井桁紋。画像は品川東海寺大山墓地。


乃木希典 。1849年12月25日 – 1912年9月13日、 陸軍軍人。
江戸出身。長府藩の藩士、乃木希次の長男として上屋敷に出生。東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ聖将と呼ばれた。最終階級は陸軍大将。明治天皇の後を追って殉死。家紋は四つ持ち合い井桁、五瓜、市松四つ目結。青山霊園の墓所にて撮影。


矢田部良吉 。1851年10月13日 – 1899年8月8日、 植物学者、詩人。
伊豆国田方郡韮山出身。読みは、やたべりょうきち。外山正一井上哲次郎とともに『新体詩抄』を上梓した。 東京大学初代植物学教授。東京植物学会を設立、ローマ字論者でもあった。家紋の井桁に横木瓜紋は谷中霊園の墓所にて撮影。


松旭斎天一 。1853年 – 1912年6月14日、 奇術師。
越前国出身。福井藩陪臣・牧野海平の長男。本名は牧野八之助。後に服部松旭。読みは、しょうきょくさいてんいち。大仕掛けな舞台奇術を志し浅草の文楽座で成功し大道芸の手品を近代的な舞台奇術に発展させた。家紋は井桁紋。画像は霊巌寺にて。


藤本太郎 。1854年10月 – 1940年9月7日、 陸軍軍人。
高知県高知市春野町西分出身。家は士族。読みは、ふじもとたろう。西南戦争、日清戦争、日露戦争に出征。凱旋後 戦功により勲二等功三級に叙せらる。最終階級は陸軍中将。家紋丸に井桁紋は雑司が谷霊園の墓所にて撮影。


湯本武比古 。1856年1月8日 – 1925年9月27日、 教育学者。
信濃国下高井郡科野村出身。文部省にて「読書入門」を編集。東宮御用掛、学習院・東京高師(東京教育大)教授などを務める。「教育時論」を主幹。著書・訳書などによってヘルバルト教育学普及の一翼を担う。家紋は丸に井桁紋。画像は多磨霊園にて撮影。


伊地知季珍 。1857年4月20日 – 1935年4月7日、 海軍軍人。
薩摩藩出身。父は伊地徳四郎。読みは、いじちすえたか。「扶桑」砲術長として日清戦争に出征。「出雲」艦長に着任し日露戦争に出征。海軍中将、艦政本部長、海軍将官会議議員等を歴任。家紋は丸に隅立て組み井筒紋。青山霊園の墓所にて撮影。


弘田長 。1859年7月14日 – 1928年11月27日、 医師
土佐国幡多郡中村町出身。読みは、ひろたつかさ。土佐藩の貢進生に選ばれて上京。東京帝国大学医科大学教授。東京大学小児学教室の初代教授。幼少時の昭和天皇、秩父宮雍仁親王の侍医を務めた。家紋は五瓜に井桁紋。画像は雑司が谷霊園にて撮影。


伊地知彦次郎 。1860年1月6日 – 1912年1月4日、 海軍軍人。
薩摩藩出身。薩摩藩士・伊地知季太の二男として生まれる。日露戦争では、連合艦隊旗艦「三笠」艦長として従軍。NHKドラマ「坂の上の雲」では、ダンカンが演じた。最終階級は海軍中将。家紋は丸に組み井筒紋。青山霊園の墓所にて撮影。


金井延 。1865年2月26日 – 1933年8月13日、 法学者。
静岡県出身。読みは、かないのぶる。国家による労働者の保護および金銀複本位制度などの提唱を行う。富井政章寺尾亨等と、日露戦争開戦に際し、強硬に主戦論を主張したことで知られる「東大七博士」のひとり。家紋の井桁に鬼蔦紋は青山霊園にて撮影。


石井菊次郎 。1866年4月24日 – 1945年5月25日、 外交官。
上総国長柄郡出身。旧姓は大和久。石井家の養子となる。第2次大隈内閣で外務大臣として、日露協約の締結に尽力。アメリカ合衆国特派大使として石井・ランシング協定を結ぶ。家紋は丸に平井筒紋。画像は青山霊園の石井家墓所にて。


床次竹二郎 。1867年1月6日 – 1935年9月8日、 政治家。
薩摩国出身。読みは、とこなみたけじろう。藩士の家柄。内務大臣、鉄道大臣、逓信大臣、政友本党総裁を歴任。万年首相候補と呼ばれたが、政権獲得の夢を遂に果たせなかった。家紋は切り竹井桁紋。画像は多磨霊園にて撮影。


米山梅吉 。1868年2月26日 – 1946年4月28日、 銀行家。
江戸出身。読みは、よねやまうめきち。井上馨の紹介で三井銀行に入社。1920年に日本初のロータリークラブである「東京ロータリークラブ」を設立し、初代会長に就任。紺綬褒章受章、勲四等瑞宝章受章。家紋の丸に井桁紋は、米山梅吉記念館に教えて頂きました。


伊井蓉峰 。1871年9月30日 – 1932年8月15日、 俳優。
東京市日本橋区出身。家業は写真家。本名・伊井申三郎。読みは、いいようほう。川上音二郎一座参加した後男女合同改良演劇済美館を興した。新派劇の黎明期を支え新派の大統領と呼ばれた。家紋は丸に三つ井桁紋。画像は鶴見・総持寺にて。


酒井勝軍 。1874年3月15日 – 1940年7月6日、 オカルティスト。
山形県上山町出身。読みは、さかいかつとき。幼名は山下勇吉。後に酒井姓を継ぐ。日ユ同祖論を唱え、竹内文書の存在を主張する一方で、飛騨高山でピラミッド上野平を発見し『太古日本のピラミッド』を出版。丸に平井筒紋。画像は多磨霊園にて撮影。


中村吉蔵 。1877年5月15日 – 1941年12月24日、 劇作家。
島根県出身。イプセンの影響を受け春雨と号して新社会劇団を主宰の後、藝術座の島村抱月に招かれて戯曲「剃刀」などを書く。1920年に「井伊大老の死」を歌舞伎座で上演。歴史劇を書くようになる。家紋は七宝に井桁紋。画像は豪徳寺にて撮影。


井上範 。1877年8月18日 – 1932年6月24日、 土木工学者。
東京市出身。本名読みは、いのうえはん。40年に大蔵省に入り、大蔵技師、内務技師を経て東京帝大の教授となる。その後、福岡県・若松港、兵庫県・神戸港、神奈川県・横浜港などの築港、改修を手がけた。家紋は井桁紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


實川延若(2代) 。1877年12月11日 – 1951年2月22日、 歌舞伎役者。
大阪府出身。本名は天星庄右衛門。読みは、じつかわえんじゃく。1950年に東京劇場で演じた『山門』の石川五右衛門は歌舞伎史上に残る名舞台と言われた。家紋は重ね井桁紋。替え紋は五つ雁金。画像は地下鉄・田原町駅のレリーフ(花形井筒紋)。


伊藤祐民 。1878年5月26日 – 1940年1月25日、 実業家。
愛知県名古屋市出身。伊藤次郎左衞門家14代当主・伊藤次郎左衞門祐昌の四男。読みは、いとうすけたみ。全店舗の商号を松坂屋に統一。松坂屋を株式会社化し、初代社長に就任。家紋は丸に井桁に藤の字紋。画像は、元浅草・最尊寺にて撮影。


白井喬二 。1889年9月1日 – 1980年11月9日、 時代小説作家。
神奈川県横浜市出身。旧鳥取藩士で警察官吏の父・孝道の長男。本名は井上義道。「怪建築家十二段返し」でデビュー。『神変呉越草紙』『新選組』で大衆文学の草分け的存在となる。『富士に立つ影』はベストセラー。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


井上成美 。1889年12月9日 – 1975年12月15日、 海軍軍人。
宮城県仙台市出身。読みは、いのうえしげよし。いわゆる条約派に属し、米内光政山本五十六らと共に日独伊三国軍事同盟、日米開戦に強硬に反対した。最後の海軍大将として知られている。家紋は井桁紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


花村四郎 。1891年8月30日 – 1963年7月1日、 政治家。
長野県東筑摩郡川手村出身。弁護士。「万朝報(よろずちょうほう)」主筆をつとめた後、政治家に転身。鳩山派で、日本自由党の結成に参加。衆議院法務委員長、第1・第2次鳩山内閣の法相となる。家紋は井桁に桔梗紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


永野重雄 。1900年7月15日 – 1984年5月4日、 実業家。
島根県松江市出身。読みは、ながのしげお。新日本製鐵会長などを歴任し、日本財界の雄として活躍した。戦後日本を代表する経済人の一人。経済同友会代表幹事、経団連・日経連各顧問を務めた。家紋は井桁に花菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


矢田津世子 。1907年6月19日 – 1944年3月14日、 小説家。
秋田県南秋田郡五城目町出身。本名は矢田ツセ。はじめモダン派であったが純文学に転進し女流作家として人気を集めた。坂口安吾の恋人とされる。代表作は『神楽坂』『茶粥の記』。家紋は丸に組み井桁紋。画像は東本願寺田無墓地にて撮影。


前田山英五郎 。1914年5月4日 – 1971年8月17日、 大相撲の力士。
愛媛県西宇和郡出身。本名は萩森金松。大関・羽黒山、横綱・双葉山を相次いで張り手戦法で下し前田山の張り手旋風と呼ばれた。第39代横綱となるが横綱通算勝率は5割未満だった。引退後は横綱・朝潮(3代目)、大関・前の山を育てる。画像は総持寺にて。


井上靖 。1907年5月6日 – 1991年1月29日、 小説家、詩人。
北海道旭川町出身。軍医・井上隼雄の長男。井上家は静岡県伊豆湯ヶ島で代々続く医家。1950年 『闘牛』で芥川賞を受賞。1976年に文化勲章受章。代表作『天平の甍』『おろしや国酔夢譚』『風林火山』等。家紋は丸に隅立て井筒紋。


井深大 。1908年4月11日 – 1997年12月19日、 実業家。
栃木県日光町出身。飯盛山で自刃した白虎隊士・井深茂太郎と同じ一族。盛田昭夫と共にソニーの創業者の一人。戦後日本を代表する起業家として世界的にも有名。トランジスタラジオトリニトロンテレビを世に送り出す。家紋は丸に隅立て組み井筒紋。


田中克己 。1911年8月31日 – 1992年1月15日、 詩人。
大阪府出身。堀辰雄の推挙により詩誌『四季』(第2次)同人となる。『日本浪曼派』の文化圏にあって伊東静雄のライバルと目された。博識な語学と癇癪が持ち前であり、詩人とは別に東洋史学者としての顔をもつ。家紋の井桁紋は上川霊園の墓所写真にて確認。


宮内寒弥 。1912年2月18日 – 1983年3月5日、 小説家。
岡山県出身。本名は、池上子郎。読みは、みやうちかんや。1908年の七里ヶ浜遭難事件のことを描いた『七里ヶ浜』で平林たい子文学賞を受賞したことで一躍話題となった。家紋は井桁に五七桐紋。画像は大庭台霊園の墓所にて撮影。


山崎富栄 。1919年9月24日 – 1948年6月13日、 美容師。
東京府東京市本郷区出身。父・山崎晴弘は日本最初の美容学校(東京婦人美髪美容学校)の設立者。作家・太宰治の愛人の一人であり、最晩年の太宰の看護や執筆活動の介助を続け、共に入水自殺を遂げた。家紋は井桁に根笹紋。画像は永泉寺にて撮影。


楠本憲吉 。1921年12月19日 – 1988年12月17日、 俳人。
大阪府出身。慶應義塾大学法時代に「慶大俳句」を組織。のち草城の「青玄」無鑑査同人となる。俳誌「野の会」を主宰、俳句作家連盟会長、現代俳句協会顧問、東横学園女子短期大学客員教授を歴任。家紋は井桁紋。画像は祐天寺の墓所にて撮影。


ジミー竹内 。1930年6月29日 – 2009年12月29日、 ジャズ・ドラマー。
東京府出身。本名は竹内和三郎。渡辺晋とシックスジョーズなどを渡り歩き、ジョージ川口、白木秀雄とともに三大ドラマーを称された。また、「戦後の日本ジャズ界を代表するドラマー」とも評されている。家紋の平井桁に橘紋は、池上本門寺の墓所にて撮影。


井尻千男 。1938年8月2日 – 2015年6月3日、 評論家。
山梨県出身。読みは、いじりかずお。拓殖大学名誉教授、拓殖大学日本文化研究所顧問(前所長)。新しい歴史教科書をつくる会顧問。保守派の論客として幅広く活躍している。家紋の丸に井桁紋は2013年新春の対談番組(チャンネル桜)にて確認。


松任谷由実 。1954年1月19日 – 、 ミュージシャン。
東京都八王子市出身。老舗の呉服店の次女として誕生。夫はアレンジャー・松任谷正隆。ニューミュージックを代表する女性シンガーソングライター。代表作は「紙ヒコーキ」「卒業写真」など多数。家紋は平井筒にヨの字紋。荒井呉服店の看板より類推。


新井康弘 。1956年12月5日 -、 俳優。
東京都出身。アイドルグループ・ずうとるびの一員として人気を誇る。現在では、テレビの2時間ドラマや舞台を中心に、実力派脇役俳優として活躍している。家紋の丸に井桁紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


マディ上原 。1957年 – 2009年12月22日、 特殊漫画家。
東京都出身。1981年、谷岡ヤスジに師事。1982年、漫画家として独立。エロ漫画誌、『ガロ』等に不条理四コマなどを発表。漫画家・原律子は元妻。また、根本敬との漫画ユニット「お岩」でも作品を発表。家紋は井桁に木瓜紋。


くわばたりえ 。1976年3月24日 -、 お笑い芸人。
大阪府大阪市淀川区出身。本名は、刈込理恵(旧姓・桑波田)。ホリプロ所属。小原正子とのコンビ「クワバタオハラ」を結成。刈込家の家紋は丸に井桁菱紋。自身のブログ記事にて確認。また、桑波田家の家紋は丸に五瓜に唐花紋。自身のブログ記事にて確認。


勢翔太 。1986年10月11日 – 、 大相撲力士。
大阪府交野市出身。本名は、東口翔太。身長194cm、体重169kg。血液型はB型。18歳の時に伊勢ノ海部屋に入門。新入は2012年3月場所。最高位は東小結(2016年1月場所)。家紋の井桁に立ち沢瀉紋は、十両昇進時の化粧まわしから判断。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

松紋 -長寿への願いを込めた紋- 松本清張、高島忠夫、細野晴臣...


松は長寿の象徴である。

例えば、『高砂』は、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛でて、人世を言祝ぐ能である。
日本人は松の木の悠然としていて変らない緑に、長寿という普遍的な願望をこの松に託したのである。

香川県は、松の多い土地柄として有名だが、やはりこの松紋の所有者も多い。
その昔、讃岐の国司となってこの地に下った藤原氏がこの松紋を採用、土地に根付き一族を広げていった。
全国では22位だが、香川県でだけ10位に入っているのである。

松紋所有の有名人は以下。


神山郡廉 。1829年2月16日 – 1909年8月20日、 政治家。
土佐国出身。土佐藩士・神山久左衛の五男。読みは、こうやまくにきよ。大政奉還の建白書に連署し、王政復古後、参与に就任。維新後、刑法官副知事、和歌山県権令、貴族院男爵議員等を歴任。家紋は左寄せ三つ松紋。画像は青山霊園にて撮影。


近藤真琴 。1831年10月29日 – 1886年9月4日、 教育家、思想家。
江戸出身。鳥羽藩士・近藤儀智の二男。幕府軍艦操練所翻訳方に出仕。明治六大教育家の一人とされ攻玉社を創立。航海術、測量学、数学、国語学教育の先鞭を付けた。海軍軍人としては最終階級は海軍中佐。家紋は丸に左寄り三階松紋。


長松幹 。1834年1月1日 – 1903年6月14日、 武士、官僚。
長門国出身。名は文仲。通称は別に大蔵、文助。京都で久坂玄瑞らとともに公家と交わる。維新後、新政府の史官となり、修史館監事時代に「復古記」を編修。元老院議官、貴族院議員。家紋は右寄り三階松紋。画像は青山霊園にて撮影。


松岡康毅 。1846年8月14日 – 1923年9月1日、 政治家。
安房国出身。幼名・毅之進、のち康毅。読みは、まつおかやすこわ。法律取調委員、検事総長、農商務大臣、貴族院議員、枢密院顧問官、日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長を歴任。家紋は丸に三つ松紋。画像は青山霊園にて撮影。


大江卓 。1847年11月2日 – 1921年9月21日、 政治家・実業家。
土佐国幡多郡柏島出身。妻は後藤象二郎・次女の小苗。読みは、おおえすぐる。土佐陸援隊に入り倒幕運動に参加。第1回衆議院選挙で当選。大幅な軍縮予算案を査定し、これを可決させた。家紋は三つ松紋。青山霊園の墓所にて撮影。


松村介石 。1859年11月9日 – 1939年11月29日、 宗教指導者。
播磨国出身。父は、明石藩士で漢学者。読みは、まつむらかいせき。日本のプロテスタント系新宗教の指導者として植村正久、内村鑑三、田村直臣と共に、キリスト教界の四村と呼ばれた。家紋は三つ松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


松永武吉 。1869年11月19日 – 1936年1月15日、 官僚。
鹿児島県出身。読みは、まつながたけきち。逓信省総務局文書課長、大阪通信管理局長、島根県知事、京畿道長官、京畿道知事、朝鮮総督府中枢院書記官長兼同事務官・総督官房外事課長などを歴任。家紋は三つ松紋。画像は染井霊園にて撮影。


葛生能世 。1874年7月25日 – 1958年2月3日、 右翼。
千葉県出身。読みは、くずうよしひさ。昭和右翼の重鎮。玄洋社の指導者・頭山満の片腕といわれ、内田良平と右翼団体「黒龍会」を設立。敗戦後A級戦犯に指定されたが不起訴となり釈放された。家紋は丸に右寄り三階松紋。多磨霊園にて撮影。


松木直亮 。1876年11月5日 – 1940年5月22日、 陸軍軍人。
山口県出身。読みは、まつきなおすけ。陸大教官、陸軍省整備局長等を歴任。二・二六事件発生に伴い、東京陸軍軍法会議判士を命ぜられ、磯村年陸軍大将らと共に公判を担った。最終階級は陸軍大将。家紋は三つ松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


大原孫三郎 。1880年7月28日 – 1943年1月18日、 実業家。
岡山県倉敷市出身。大地主・大原孝四郎の三男。倉敷紡績、中国合同銀行、中国水力電気会社の社長を務め、大原財閥を築き上げる。また、大原美術館を設立する等文化事業にも力を入れた。画像は、大原美術館内にある丸に向かい二つ松紋。


山本宣治 。1889年5月28日 – 1929年3月5日、 政治家。
京都府宇治出身。料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松の長男。日本共産党系の労農党の京都府連合会委員長。衆議院議員として治安維持法改正などに反対するが、「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。家紋は一重亀甲に右寄り三階松紋。


丸山敏雄 。1892年5月5日 – 1951年12月14日、 宗教家、教育家。
福岡県豊前市合河町出身。倫理研究所の前身・新世文化研究所を設立し、社会教育、研究、文化、出版等の事業を行なう。後に、日本全国に50,000社を擁する倫理研究所として発展させる。家紋は一重亀甲に左寄り三階松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


徳川夢声 。1894年4月13日 – 1971年8月1日、 弁士、漫談家。
島根県益田市出身。東京に育つ。本名は福原駿雄。読みは、とくがわむせい。元祖マルチタレントと言われる。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。日本放送芸能家協会初代理事長。家紋は丸に三つ松毬紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


水原茂 。1909年1月19日 – 1982年3月26日、 野球選手、監督。
香川県高松市出身。高校野球、大学野球で活躍後、読売巨人軍に入団。引退後は巨人、東映、中日で監督を務めた。巨人監督時代は在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝く。家紋は丸に右荒枝付き三階松に株竹紋。画像は鶴見・総持寺にて撮影。


松本清張 。1909年12月21日 – 1992年8月4日、 小説家。
福岡県企救郡板櫃村出身。「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。「砂の器」「点と線」「黒革の手帖」など犯罪の動機を重視する作風の推理小説で知られている。多数。家紋は三つ重ね松紋。画像は富士見台霊園の墓所にて撮影。


木下惠介 。1912年12月5日 – 1998年12月30日、 映画監督。
静岡県浜松市出身。食料品店を営む家の四男。『二十四の瞳』で、ゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞。『木下惠介劇場』『木下惠介アワー』など、多くのテレビドラマを制作。家紋は右寄り三ツ枝松。画像は鎌倉・円覚寺の墓所にて撮影。


石井隆匡 。1924年1月3日 – 1991年9月3日、 ヤクザ。
神奈川県横須賀市出身。本名は石井進。暴力団・稲川会二代目会長、横須賀一家五代目総長。企業経営志向を取り、経済進出する暴力団の先駆けとなる。山口組と一和会の抗争を休戦させる。家紋は丸に右荒枝付き三階松紋。画像は池上本門寺にて撮影。


辻邦生 。1925年9月24日 – 1999年7月29日、 仏文学者、小説家。
東京市本郷区駒込出身。本籍地は山梨県東八代郡春日居町。父はジャーナリスト。母は医家。読みは、つじくにお。立教大学助教授、学習院大学教授等を歴任。代表作は『廻廊にて』『安土往還記』『背教者ユリアヌス』など。家紋は三ツ枝松紋。


高島忠夫 。1930年7月27日 – 、 タレント・俳優・司会者。
兵庫県武庫郡出身。妻は女優の寿美花代、高嶋政宏・政伸は実子。代表出演作は『細うで繁盛記』。料理番組『ごちそうさま』やクイズ番組『クイズ・ドレミファドン!』など人気番組で司会も担当。家紋は三つ松。画像は春秋苑の生前墓にて撮影。


立川談志(7代) 。1936年1月2日 – 2011年11月21日、 落語家。
東京府東京市小石川区出身。本名は松岡克由。読みは、たてかわだんし。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうと、立川流を主宰。参議院選挙に全国区から無所属で当選し沖縄開発庁政務次官も務めた。丸に左三蓋松は立川流の定紋。


岡八朗 。1938年4月16日 – 2005年7月26日、 喜劇俳優。
兵庫県尼崎市出身。本名は市岡輝夫。読みは、おかはちろう。その風貌から奥目の八ちゃんと親しまれ「えげつなー」「隙があったらかかってこんかい!」等のギャグを持つ。墓所の家紋は写真では丸に右寄り三階松系の紋に見えるが現物は未確認。


細野晴臣 。1947年7月9日 – 、 ミュージシャン。
東京都港区出身。祖父は日本人でタイタニック号に乗船し事故から生還した細野正文。大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを坂本龍一、高橋幸宏とYMOを結成、成功を収める。家紋は丸に右寄り三階松。画像は多磨霊園の正文氏の墓所にて撮影。


北公次 。1949年1月20日 – 2012年2月22日、 歌手。
和歌山県田辺市出身。本名は、松下公次。愛称はコーちゃん。ジャニーズの付き人として芸能活動を活動を開始。「フォーリーブス」のリーダーとして活躍。ヒット曲は「踊り子」「ブルドック」等。家紋の丸に左寄り三階松紋は、墓所写真により確認。


hide 。1964年12月13日 – 1998年5月2日、 ミュージシャン。
神奈川県横須賀市出身。本名は松本秀人。元X JAPANのギタリスト。現在でも絶大な人気を誇る。ソロ活動では、ギター以外にも作詞、作曲、ボーカル、ベース、プロデューサーなどマルチプレイヤーとしての才能も発揮した。家紋は丸に右寄り三階松紋

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

桜紋 -どこかに死の匂いを感じさせる花- 原敬、吉田茂、与謝野晶子...


元々、「桜」は、どこかに死の匂いを感じさせる花であった。

例えば...

古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であった。
源氏物語では桜は凶兆の花であった。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であった。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であった。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であった。

そのため、桜紋は、その人気とは裏腹に広まらなかった。
全国全ての地域において、ベスト30に入っていないのだ。

しかし、一方、桜は、江戸中期から出始めた国文学者によって、徐々に日本の象徴として祀り上げられる様になる。
例えば、本居宣長はこんな歌を詠んでいるのだ。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

そして、明治時代からは、上記の国学的イデオロギーを引き継いで、様々な国家主義的組織の紋章として採用されていくのである。
現代でもその紋が生きているのは、例えば、学習院(左上)、大相撲(右上)、軍(左下)、靖国神社(右下)などの組織だ。

これらの紋は、桜の中でも山桜を入れ込んだ紋である。

有名人で桜紋を使用しているのは以下。


細川忠興 。1563年11月28日 – 1646年1月18日、 武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔。家紋の細川九曜は星が離れているのが特徴。


花柳壽輔(初代) 。1821年2月19日 – 1903年1月28日、 日本舞踊家。
江戸の玩具商・三国屋清兵衛の長男。読みは、はなやぎじゅすけ。日本舞踊界において最大の流派である花柳流の創始者。江戸期から明治初期にかけて『勧進帳』『船弁慶』などの舞台の振付を行う。家紋は花柳桜。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


井上馨 。1836年1月16日 – 1915年9月1日、 政治家、実業家。
長州藩士・井上五郎三郎光享の次男。本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む安芸国人。外務卿、参議、農商務大臣、内務大臣を歴任。元々の家紋は割剣酢漿草菱だが、青山・長谷寺の墓所には桜菱紋(画像)が彫られている。


山縣有朋 。1838年6月14日 – 1922年2月1日、 政治家、陸軍軍人。
萩城下近郊の阿武郡出身。長州藩の中間・山縣有稔の長男。奇兵隊に入って頭角を現し新政府では日本陸軍の基礎を築き国軍の父と称される。内閣総理大臣(第3、9代)。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に大和桜紋と三つ鱗紋。画像は護国寺にて撮影。


甲賀源吾 。1839年2月16日 – 1869年5月6日、 幕臣。
江戸出身。遠江国掛川藩家臣、甲賀孫太夫秀孝の第4子。幕府の軍艦操練所で学び、軍艦頭並となる。江戸開城に際し、榎本武揚にしたがい箱館へ脱出。回天艦長として新政府の軍艦と交戦中に戦死。家紋の山桜紋は光源寺の墓所写真にて確認。


桜井勉 。1843年10月6日 – 1931年10月12日、 行政官。
出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石町伊木に出生。内務省地理局長時代には全国の気象測候所の創設を働きかけ、気象観測網の基礎を築いた。山梨県知事、台湾新竹知事、内務省神社局長を歴任。家紋は大和桜紋。画像は谷中霊園にて撮影。


原敬 。1856年3月15日 – 1921年11月4日、 政治家。
盛岡藩出身。盛岡藩士原直治の次男。分家として独立する際に平民となる。その際、家紋も三つ割桜とする。政界に進出し大正7年に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われた。画像は盛岡・大慈寺の墓所にて撮影。


櫻井錠二 。1858年9月24日 – 1939年1月28日、 化学者。
加賀国出身。読みは、さくらい じょうじ。東京化学会(日本化学会の前身)の運営、理化学研究所、日本学術振興会の設立を行う。応用化学よりも理論化学を重視した。死に際して勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。家紋の丸に桜紋は雑司が谷霊園にて撮影。


吉田茂 。1878年9月22日 – 1967年10月20日、 官僚、政治家。
東京神田駿河台出身。高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の五男。5度にわたって内閣総理大臣に任命された。サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約を締結するなど、戦後日本を創る。画像は青山霊園の墓所(現在は他所へ移転)にて撮影。


与謝野晶子 。1878年12月7日 – 1942年5月29日、 歌人、作家。
大阪府堺市甲斐町で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む鳳宗七の三女。日露戦争の時に歌った『君 死にたまふことなかれ』は有名。代表作品は、『みだれ髪』『全訳源氏物語』。夫は与謝野鉄幹。元財務相・与謝野馨は孫。画像は多磨霊園にて撮影。


滋野清武 。1882年10月6日 – 1924年10月13日、 飛行家。
愛知県出身。男爵・滋野清彦の三男。通称はバロン滋野。第一次世界大戦の開戦時にフランス陸軍航空隊に志願して陸軍飛行大尉に任命され、受勲する。学生時代、志賀直哉に殴られたという逸話がある。家紋は六つ細川桜紋。画像は谷中霊園にて撮影。


三輪寿壮 。1894年12月15日 – 1956年11月14日、 法律家、政治家。
福岡県糟屋郡古賀村に生まれる。読みは、みわじゅそう。戦前は、労働争議や小作争議で闘う。衆議院議員に初当選後、ゾルゲ事件で尾崎秀実の官選弁護人を務める。戦後は左右社会党の統一を成し遂げる。家紋は丸に剣桜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


宇都宮徳馬 。1906年9月24日 – 2000年7月1日、 政治家、実業家。
東京府出身。陸軍大将・宇都宮太郎の長男。読みは、うつのみやとくま。平和共存外交、日ソ国交回復や日中・日朝の国交回復を主張するなど自民党左派として活躍。家紋は左三つ巴紋と丸に雀口桜紋。画像は麻布・賢崇寺の父・宇都宮太郎の墓にて。


埴谷雄高 。1909年12月19日 – 1997年2月19日、 作家、評論家。
台湾の新竹に生まれる。本名は、般若豊。代表作は思弁的な大長篇小説『死靈(しれい)』。世界文学史上未曾有の形而上小説であったが未完に終わる。晩年は吉本隆明とコム・デ・ギャルソン論争で対決。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


吉永小百合 。1945年3月13日 – 、 女優。
東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身。本名は岡田小百合。浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。代表出演作『キューポラのある街』『愛と死をみつめて』『母べえ』等。家紋は雪輪に山桜紋という(伝説)。


水野誠一 。1946年7月8日 – 、 実業家、政治家。
東京都出身。読みは、みずのせいいち。妻は、木内みどり。父親は、フジテレビ社長の水野成夫。株式会社西武百貨店社長、参議院議員、新党さきがけ政策調査会長などを歴任。家紋は丸に三つ葉桜紋。画像は春秋苑の父・水野成夫の墓所にて撮影。


有村治子 。1970年9月21日 – 、 政治家。
石川県出身。読みは、ありむらはるこ。自民党所属の参議院議員。第2次安倍内閣で内閣府特命担当大臣に任命された。高祖父の有村國彦は幕末の志士・海江田信義有村次左衛門の末弟。家紋の雀口桜杏葉は青山霊園の有村家の墓所にて撮影。


里山浩作 。1981年5月31日 – 、 大相撲力士
鹿児島県大島郡笠利町(現在の奄美市)出身。本名は同じ。日本大学へ進学し相撲部に所属。尾上部屋(入門時は三保ヶ関部屋)所属。夫人も同様に相撲経験者であり日大相撲部出身者である上、アジア女子選手権優勝の実績も残している。家紋は丸に桜紋。


狩野英孝 。1982年2月22日 – 、 お笑いタレント。
宮城県栗原市栗駒出身。実家は約1500年続いているといわれる櫻田山神社。神紋は桜。「ホストネタ」をメインの芸とするがイジられキャラでもある。「ラーメン、ツケメン、ぼくイケメン」「スタッフゥ~」等のギャグを持っている。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

梶紋 -永遠の敗者として奉られた軍神の紋- 小松帯刀、加山雄三、安倍晋三...


梶紋は、諏訪大社の神紋と知られている。

ご存知の通り、諏訪大社は、建御名方神(たけみなかたのかみ)を奉ってる。
この建御名方神は天孫降臨の際に、大国主神(おおくにぬしのかみ) の子として、建御雷神(たけみかづちのかみ)と戦うが、敗れ、諏訪の地に逃れ、奉られたという。
実は、建御名方神が奉られてある諏訪大社は、ちょうど、ライバル、建御雷神が奉られてある鹿島神宮の真西にある。
建御雷神は、建御名方神に対する優位を永遠のものにしようとしたのだ。
東と西、大相撲でも東の方が西よりも格上とされる伝統はここから来ている。

しかし、不思議なのは、むしろ多くの武士にとって人気を博したのはこの敗れた神(建御名方神)だったということだ。
梶紋は、この建御名方神を軍神として崇めた武士たちの発展とともに広まったのである。

全体としては、30位に入っていないが、諏訪大社のお膝元の長野県(15位)、山梨県(8位)。群馬県、愛知県、東京都、岐阜県、徳島県、鹿児島県では30位に入っている。

梶紋を持つ有名人は以下。


諏訪頼重 。1516年 – 1542年8月31日、 信濃国の戦国大名。
諏訪頼満の嫡孫・諏訪頼隆の子。上原城城主。武田信玄によって上原城を攻められ降伏。弟の頼高と共に武田氏の本拠・甲府に連行され東光寺に幽閉された後に自刃。2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」では小日向文世(画像)が演じた。家紋は梶の葉紋。


安島帯刀 。1811年 – 1859年9月23日、 政治家。
三河譜代の名門、戸田氏の嫡流・戸田松平家の分家の出自。幕府内の海防掛に徳川斉昭、戸田忠太夫、藤田東湖らと共に参与。また水戸藩で日本発の軍艦 旭日丸の建造に参与するなどして日本の海防に功績を残す。回天神社祭神。家紋は丸に立ち梶の葉。


松浦武四郎 。1818年3月12日 – 1888年2月10日、 探検家。
伊勢国一志郡須川村の郷士松浦桂介の四男。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。1844年に蝦夷地探検に出発。その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。北海道という名前を考案した。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


手塚律蔵 。1822年7月25日 – 1878年11月29日、 蘭・英学者。
防州小周防村生まれ。父は医師の手塚治孝、母は瀬脇氏。墓所には後に改名した瀬脇寿人の名前が見える。英語の重要性を早くから認識。桂小五郎にも英語を教えた。門人から西周津田仙など優れた英学者を輩出。家紋は立ち梶の葉紋。青山霊園にて撮影。


小松帯刀 。1835年12月3日 – 1870年8月16日、 幕末の薩摩藩士。
薩摩国出身。島津久光に重用され西郷大久保などの下級藩士と藩主とを繋ぐ役として重要なポジションをこなした。帯刀の紋は一般的には抱き鬼菊の葉とも言われているが小松家は禰寝氏の流れのため梶紋の流れを汲む抱き鬼梶の葉とみなす。


鶴田皓 。1836年2月12日 – 1888年4月15日、 法制官僚。
佐賀藩多久邑出身。父は多久家家臣。読みは、つるたあきら。江木鰐水に学ぶ。江藤新平に命じられ司法省調査団として井上毅らと渡仏。陸軍刑法、海軍刑法、旧商法、他を起草。元老院議官。家紋は平戸梶紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


鮫島尚信 。1845年4月4日 – 1880年12月4日、 外交官。
薩摩国鹿児島城下山之口馬場町の薩摩藩藩医、鮫島淳愿の子として生まれる。薩摩藩の留学生としてロンドンで学ぶ。「外国交法案内」を著す。仏特命全権公使時代に、条約改正に尽力。家紋は丸に立ち梶の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


鮫島員規 。1845年6月14日 – 1910年10月14日、 海軍軍人。
薩摩国出身。藩士の長男。読みは、さめしまかずのり。日清戦争時には常備艦隊兼連合艦隊参謀長として黄海海戦に参加。最終階級は海軍大将。養嗣子鮫島具重は岩倉具視の孫。家紋の七つ葉梶紋は「華族家系大成」による。


ジョルジュ・ブスケ 。1846年3月3日 – 1937年1月15日、 法学者。
フランス・パリ出身。日本で初めての御雇い外国人として、当初民法草案の策定に関わった。後に、司法省法学校で法学教育を行う。また、日本での見聞をまとめた『今日の日本』を出版した。家紋は梶の丸に地紙紋。画像は青山霊園の外国人墓地にて撮影。


山本権兵衛 。1852年11月26日 – 1933年12月8日、 政治家。
薩摩国鹿児島郡出身。日本海軍のオーナーと言われた。また内閣総理大臣時代には軍部大臣現役武官制を廃止した。最終階級は海軍大将財部彪山路一善上村従義松方乙彦の岳父。家紋は抱き鬼梶の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


有賀長雄 。1860年11月13日 – 1921年5月17日、 社会学者。
大坂出身。家は国学者の家系。陸軍大学校、東京帝国大学、早稲田大学などで憲法、国際法を講じる。日清戦争、日露戦争には法律顧問として従軍。著書『社会学』は日本初の体系的な社会学的著作。家紋は鬼梶の葉に二本筆紋。青山霊園の墓所にて撮影。


横河民輔 。1864年10月28日 – 1945年6月25日、 実業家。
兵庫県明石市出身。医師の息子。建築家としては帝国劇場、三越日本橋本店等を設計。実業家としては計測・制御機器メーカーの電気計器研究所(現横河電機)を創業した。墓所の家紋の梶の葉は、葉が七枚の変わり紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


小坂梅吉 。1873年11月8日 – 1944年12月2日、 実業家、政治家。
信州・伊那出身。上京し上野輪王寺の御用商人となる。銀座に小松食堂を開業。 日比谷公園の内の松本楼を入手。孫文の支援者で日活の創業者・梅屋庄吉とは姻戚関係。衆議院議員、貴族院議員を務める。家紋は丸に梶の葉紋。画像は谷中霊園にて撮影。


杉浦非水 。1876年5月15日 – 1965年8月18日、 意匠家。
愛媛県松山市出身。読みは、すぎうらひすい。本名は、杉浦朝武。アール・ヌーボー的な雑誌の表紙を発表し話題を集める。代表的デザインは『みつこしタイムス』の表紙、タバコ『響』のパッケージデザイン等。家紋の丸に三つ割り梶の葉紋は松秀寺にて撮影。


安倍能成 。1883年12月23日 – 1966年6月7日、 教育者。
愛媛県出身。読みは、あべよししげ。松山城下の小唐人町に生まれる。妻は藤村操の妹。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、学習院院長を歴任。家紋の丸に立ち梶紋は安倍家(晋太郎、晋三)と同じという。


有賀幸作 。1897年8月21日 – 1945年4月7日、 海軍軍人。
長野県上伊那郡朝日村出身。読みは、あるがこうさく。戦艦大和最後の艦長として有名。坊ノ岬沖海戦にて米海軍空母艦載機386機の攻撃を受け、「大和」は沈没。有賀も沈没した大和と運命を共にした。戦死後、海軍中将に昇格。家紋は梶の葉紋。


白井勇 。1898年6月19日 – 1984年4月12日、 政治家。
山形県鶴岡市出身。東京帝大出身。農林省に入省後、米穀局で食程政策を担当。終戦とともに食糧庁の検査課長として食糧行政機構と農産物検査制度の確立に尽力。後に参議院議員を4期務め大蔵政務次官、逓信委員長等を歴任。画像は多磨霊園にて撮影。


杉狂児 。1903年7月8日 – 1975年9月1日、 俳優。
福岡県福岡市地行東町出身。本名は、杉禎輔。戦前はマキノ・プロダクション、河合映画、日活などに出演し、歌手として「うちの女房にゃ髭がある」など映画の主題歌も歌っている。家紋は立ち梶の葉紋。家紋画像は、世田谷区北烏山・妙寿寺にて撮影。


新田潤 。1904年9月18日 – 1978年5月14日、 小説家。
長野県上田市出身。本名は半田祐一。高見順らと『人民文庫』を創刊、プロレタリア作家として活動。戦後は風俗小説も書いた。代表作は『片意地な街』『太陽のある附近』『禁断の果実』『色事師と女』等。家紋は梶紋。画像は谷中・瑞松院にて撮影。


諏訪望 。1912年7月20日 – 1999年10月6日、 精神科医。
信濃国の医家の家系。読みは、すわのぞむ。キリスト者として深い信仰に生きた。著書は『急がずに休まずに ―精神医学とキリスト教 』 『最新精神医学』『精神科臨床の基本』『精神医学とともに60年』。家紋は丸に梶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


瀬戸内寂聴 。1922年5月15日 -、 小説家。
徳島県徳島市塀裏町出身。仏壇店を営む三谷家に出生。読みは、せとうちじゃくちょう。代表作は『夏の終り』『花に問え』『場所』等多数。谷崎潤一郎賞、芸術選奨文部大臣賞等多数の文学賞を受賞。瀬戸内家の家紋は丸に鬼梶の葉紋。徳島県立文学書道館からの情報。


神彰 。1922年6月27日 – 1998年5月28日、 興行師。
北海道函館市出身。後復興期にドン・コサック合唱団、ボリショイ・バレエ団、ボリショイサーカなどを招聘した。1962年に作家有吉佐和子と電撃結婚するも、2年後の1964年に離婚。家紋は丸に立ち梶の葉紋。墓所は函館・立待岬にある。


瀬川昌治 。1925年10月26日 -、 映画監督、脚本家。
東京市神田区神保町の官吏の家に出生。『ぽんこつ』で監督デビュー。1960年代に数多くの喜劇シリーズを監督。代表監督作は『図々しい奴』『乾杯!ごきげん野郎』等。また、テレビドラマ『赤いシリーズ』『スチュワーデス物語』等の脚本も手がける。


里見浩太朗 。1936年11月28日 – 、 俳優、歌手。
静岡県富士宮市出身。本名は佐野邦俊。芸歴が半世紀を越える時代劇俳優。代表出演作は『大江戸捜査網』『闇を斬る!大江戸犯科帳』『松平右近事件帳』『水戸黄門』等。また、演歌歌手としても多数リリースしている。家紋は立ち梶の葉紋。


加山雄三 。1937年4月11日 – 、 俳優、歌手。
神奈川県横浜市出身。祖父は鹿児島出身の陸軍大佐。父親は俳優の上原謙。母は女優の小桜葉子(岩倉具視のひ孫)。代表出演作は『若大将シリーズ』。『君といつまでも』『サライ』の作曲者としても有名。画像は多磨霊園にある父親・上原謙の墓所より。


米長邦雄 。1943年6月10日 – 2012年12月18日、 将棋棋士。
山梨県南巨摩郡増穂町出身。タイトル獲得数19期は歴代5位。永世棋聖の称号を保持。紫綬褒章受章。3人の兄達は頭が悪いから東大へ行き、自分は頭が良いから将棋指しになったという言葉は有名。家紋の丸に立ち梶の葉紋は蓮華寺にて撮影。


ねじめ正一 。1948年6月16日 – 、 詩人、小説家。
東京都杉並区出身。本名は、禰寝正一。父は俳人のねじめ正也(高円寺北口商店街の乾物屋)。代表作は、『高円寺純情商店街』『荒地の恋』など。熱狂的な長嶋茂雄、巨人ファンとしても有名。家紋は薩摩国禰寝氏の末裔ということで、梶紋と判断。


中沢新一 。1950年5月28日 – 、 宗教学者、文化人類学者。
山梨県山梨市出身、歴史学者の網野善彦は叔父。東京大学大学院人文科学研究科へ入学後、ネパールでチベット仏教の修行を行い帰国後現代思想研究の成果を駆使して著作活動を開始。代表作は『チベットのモーツァルト』『悪党的思考』『哲学の東北』。


安倍晋三 。1954年9月21日 – 、 政治家。
東京都出身。安倍家は山口県長門市の豪家。父親の晋太郎も有力政治家であったが志半ばで亡くなる。第90代、第96代内閣総理大臣。「戦後レジュームからの脱却」を旗印に本格的保守政権を目指す。画像は冨士霊園・安倍家の墓所にて撮影。


下条みつ 。1955年12月29日 – 、 政治家。
長野県松本市出身。祖父・下条康麿は文部大臣、父・下条進一郎は厚生大臣を務めた。また母方の祖父は、経団連初代会長・石川一郎。衆議院議員(3期)。羽田グループに所属。家紋は松皮菱に梶紋。画像は染井霊園の下条康麿の墓所にて撮影。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
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鱗紋 -北条家とモンゴル、その因縁の紋- 正岡子規、川端康成、白鵬...


三つ鱗紋は北条家の紋として知られている。

その昔、北条時宗が家運興隆を祈念して、江ノ島弁才天に参った際に、女房が現れた。
その女房が北条家の家運上昇を予言した後、大蛇になって海中に姿を消した。
そして、その後に残った鱗三枚を持ち帰って北条家の家紋としたというのである。

この三つ鱗は、北条氏が滅びた後も、戦国時代の後北条家も含め家紋として採用した。
今でも、弁財天では波と組み合わせて三つ鱗紋を定紋としている。
写真は、吉祥寺の弁財天の提灯。

さて、この三つ鱗だが、モンゴル出身の横綱・白鵬の紋である。
今から700年前の元寇を迎え撃った北条時宗と同紋というのは、これいかに。

横綱になったことで、日本を制圧したことの印として元寇の復讐を果し、念願の相手の大将の家紋を奪い取ったということなのだろうか。
あるいは、この三つ鱗を身に付けることによって、日本の味方になり、もう一人の横綱・朝青龍を迎え撃つ覚悟の印として三つ鱗を採用したということなのか。

いずれにしても、興味深い。

また、19世紀初末のウィーン分離派の巨匠・クリムトの「幸福への憧れ」にも三つ鱗と同様の文様が見られる。
実際、日本の家紋台帳はヨーロッパに輸出され、アール・デコの芸術家のネタ本になっていたという。
もしかしたら、この絵画に描かれている三つ鱗は、クリムトが、日本美術に影響を受ていたということの証なのかもしれない。

さて、鱗紋の全国分布だが、福岡、大分、大阪、和歌山、三重、神奈川で30位に入っている。
ちょうど、瀬戸内海を通って、太平洋に出て関東までのルートにこの紋が散見されるというのも、面白い。
元々、海上民のシンボルだったのかもしれない。

鱗紋を持つ有名人は以下だ。


北条高時 。1303年 – 1333年7月4日、 武士。
第9代執権北条貞時の三男。鎌倉幕府第14代執権在任中に奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱、正中の変、元弘の変が起きる。新田義貞の鎌倉へ侵攻の際、菩提寺の鎌倉・東勝寺にて自刃。画像はその東慶寺にて撮影した北条鱗紋。


北条早雲 。1432年 – 1519年9月8日、 武将、戦国大名。
室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自。関東一円を支配する戦国大名に成長する北条氏の基礎を築いた。早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。後北条家の家紋は北条鱗(ただし早雲の使用は未確認)。


種子島時堯 。1528年 – 1579年10月21日、 種子島の領主。
種子島氏の第十四代領主。島津氏に属した。種子島に漂着したポルトガル商人から鉄砲を購入。鉄砲を分解させて調べさせ鉄砲製造に成功。種子島銃は、戦国時代に大きな影響を及ぼす。画像は青山霊園の種子島家分家の墓所にて撮影。


平野長泰 。1559年 – 1628年6月8日、 武将。
尾張津島の出身で、若年にて秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」と称えられた。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。徳川秀忠旗下で旗本として仕え、子孫は九代続いて明治まで生き残る。


横井小楠 。1809年9月22日 – 1869年2月15日、 儒学者。
肥後国出身。横井家は桓武平氏北条氏嫡流に発する。松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、幕政改革をする。また、私塾四時軒を開き坂本龍馬井上毅らにも影響を与える。家紋の丸に三つ鱗紋は甥・横井左平太の谷中霊園墓所にて撮影。


島田魁 。1828年2月29日 – 1900年3月20日、 新選組隊長。
美濃国方県郡出身。庄屋近藤伊右衛門の次男。名古屋城内の御前試合で優勝し大垣藩の嶋田才に見初められ養子となり嶋田家を継ぐ。江戸に出て心形刀流を修得。箱館まで戊辰戦争を戦い抜く。西本願寺の夜間警備員として一生を終える。


児島惟謙 。1837年3月7日 – 1908年7月1日、 司法官。
宇和島藩出身。宇和島藩士・金子惟彬の二男。津田三蔵によるロシア皇太子暗殺未遂事件(大津事件)の際には大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き護法の神と評価された。家紋は三つ鱗紋。画像は品川・海晏寺にて撮影。


山縣有朋 。1838年6月14日 – 1922年2月1日、 政治家。
萩城下近郊の阿武郡出身。長州藩の中間・山縣有稔の長男。奇兵隊に入って頭角を現し新政府では日本陸軍の基礎を築き国軍の父と称される。内閣総理大臣(第3、9代)。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に大和桜紋と三つ鱗紋。画像は護国寺にて撮影。


南貞助 。1847年 – 1915年、 英語学者、実業家。
長州藩出身。高杉晋作の義弟。(高杉の父親・小忠太の妹の子で、養子となる。)イギリスに留学。日本で始めて国際結婚(相手は英国人ライザ・ピットマン)をしたことで知られている。家紋は丸に一つ鱗紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


磯野計 。1858年9月 – 1897年12月14日、 実業家。
美作国津山出身。父は津山藩士。読みは、いそのはかる。弁護士から郵便汽船三菱会社社員を経て、横浜で明治屋を創業し、麦酒販売などを行なう。。家紋の子持ち亀甲に三つ鱗紋は青山霊園にて撮影。現在でも明治屋のロゴに三つ鱗が残っている。


横井時敬 。1860年1月29日 – 1927年11月1日、 農学者。
肥後熊本藩士横井久右衛門時教の四男。種籾の塩水選種法を考案。東京農業大学学長として日本最初の私立農学校を大学に昇格させる。「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」という名言を残す。家紋は丸に三つ鱗紋。画像は多磨霊園にて撮影。


入沢達吉 。1865年1月31日 – 1938年11月8日、 医師。
越後国出身。父恭平は藩医。宮内省侍医局勤務後、入沢内科を創始・主宰。日本内科学の確立に貢献。十二指腸虫の感染経路追究などの寄生虫症、レントゲン診断学応用、血色素測定法などの研究をする。家紋は北条鱗紋。画像は谷中霊園にて撮影。


正岡子規 。1867年10月14日 – 1902年9月19日、 俳人・歌人。
伊予国温泉郡出身。松山藩士・正岡常尚の長男。本名は常規。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い日本の近代文学に多大な影響を及ぼす。家紋は丸に鷹の羽紋と丸に三つ鱗紋。画像は子規系図の三つ鱗紋。


川崎卓吉 。1871年3月8日 – 1936年3月27日、 官僚、政治家。
広島県賀茂郡広村に医師の二男として出生。福島県知事、台湾総督府内務局長、殖産局長を歴任。第1回選抜中等学校野球大会の始球式を務めた。政治家としては民政党幹事長、文部大臣、商工大臣を務める。家紋は丸に三つ鱗紋。青山霊園にて撮影。


河東碧梧桐 。1873年2月26日 – 1937年2月1日、 俳人・随筆家。
愛媛県温泉郡千船町にて河東坤の五男として出生。正岡子規に野球を教わる。同級生の高浜虚子を誘い子規より俳句を学ぶ。子規が没すると新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。家紋は丸に三つ鱗紋、副紋は笹竜胆紋。


南俊二 。1882年9月28日 – 1961年12月29日、 実業家。
大阪府出身。製鉄業、砂金鉱業、セメント業に携わった後に、大阪造船所設立。戦後は南氷洋漁業権を確保。億万長者の一人に数えられた。合理的節倹主義の経営方針をつらぬく。日本造船工業常任理事。瓜輪に三つ鱗紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


御船千鶴子 。1886年7月17日 – 1911年1月19日、 超能力者。
熊本県宇土郡松合村にて、漢方医・御船秀益の二女として生まれる。三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見して謝礼2万円を得る。東京帝国大学の福来友吉助教授が「透視」の研究に彼女を使う。家紋は六つ鱗紋。


川端康成 。1899年6月14日 – 1972年4月16日、 小説家。
大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に医師の子として生れる。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『古都』など日本の美を表現した作品を発表。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞。家紋は北条鱗、画像は鎌倉霊園にて撮影。


西竹一 。1902年7月12日 – 1945年3月22日、 陸軍軍人。
東京市麻布区麻布笄町出身。男爵西徳二郎の三男。通称:バロン西。ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。第二次世界大戦に従軍、硫黄島の戦いで戦死。家紋は三つ鱗紋。鱗の背景の草は月桂樹か。画像は青山霊園にて撮影。


横井英樹 。1913年7月1日 – 1998年11月30日、 実業家。
愛知県中島郡の貧しい農家に生まれ東京日本橋の繊維問屋に丁稚奉公。進駐軍出入りの商人となり一財産を築く。白木屋の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出を行う。ホテルニュージャパンの買収で脚光を浴びた。画像は多磨霊園にて撮影。


緒形拳 。1937年7月20日 – 2008年10月5日、 俳優。
東京府東京市牛込区出身。1965年、大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢される。『楢山節考』『火宅の人』で日本アカデミー賞最優秀男優賞受賞。代表出演作品は『鬼畜』『復讐するは我にあり』など多数。家紋の丸に三つ鱗紋は獅子吼霊園にて撮影。


ジャガー横田 。1961年7月25日 – 、 女子プロレスラー。
東京都荒川区出身。本名は、木下利美。初代全日本シングル王者、WWWA世界シングル王座など数々のタイトルを獲得。現在はタレントとしても活躍。愛息・大維志君の七五三時の黒紋付の家紋より、三つ組み合わせ鱗紋と判断。


白鵬翔 。1985年3月11日 – 、 大相撲力士。
モンゴル・ウランバートル市出身。父ジグジドゥ・ムンフバトはモンゴル相撲で6度の優勝。メキシコ五輪のレスリング重量級でも銀メダリストの国民的英雄。第69代横綱。歴代の不知火型・横綱では史上最多の優勝回数を誇る。家紋は丸に三つ鱗紋。


黒川圭介 。1890年頃 – ?、 「風立ちぬ」の登場人物。
宮崎駿の漫画「風立ちぬ」の登場人物。主人公・堀越二郎の上司。仕事に対して厳しい反面、二郎の天才性を高く評価しドイツ留学を推薦した。また、二郎と菜穂子との結婚の仲人を務める。その結婚式の時に使用した提灯、妻の紋付より三つ鱗紋と断定。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね