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投稿者: masamune
鶴紋 -最も優美で華やかな紋- 森蘭丸、杉田玄白、太宰治...
多くの家紋の中で最もデザインが優れた家紋はおそらく、鶴の丸紋であろう。
その証拠にこの紋のデザインは様々に、変形され、社章などになって進化している。
一番有名なのが、日本航空の鶴のマークだ。
一時期、JASとの合併によって、この鶴の丸が機体についた飛行機は姿を消してしまったが、再度、復活した。それも、このマークが持つ伝統と美の力によるところか。
もともと、日航が社章を作るときに、フランスの高名なデザイナーに依頼したのだが、そのデザイナーから「日本の伝統にも素晴らしいものがある」と切り返され、鶴の丸をベーシックデザインとして採用したとの話が伝わっている。
また、清酒・白鶴のイメージも鶴の丸の影響を受けている。
鶴の首の方向、円の歪みなど、いくつかの点で異なっているが、鶴の丸をもとにしたデザインであることは確かなようだ。
白鶴酒造公式HPにはこのマークについて以下のような記載がある。
シンボルマークは、白鶴酒造が伝統的に使用してきた商標名「白鶴」を、現代的に感動あふれる形で表現したものです。
この躍動感あふれるフォルムは、力強い翼で鶴が天高く飛翔する姿を示しています。翼は鶴の頭部を保護するように楕円形になっており、日輪のような羽がダイナミックな感じを与えています。
このシンボルマークは昭和54年、業界に先駆けてCI(コーポレート・アイデンティティー)システムを導入した際に、スローガン「時をこえ 親しみの心をおくる」とともに設定されました。
現在では、このマークは多くの人々から認知され、親しまれており、日本のCIの代表例の一つとされています。
さらに、鶴の丸は、日蓮宗の寺紋としても知られている。
寺紋を見るには、門の脇の塀の端に瓦を見るのが一番わかりやすい。
写真は、「恐れ入りやの鬼子母神」で有名な真源寺の寺紋だ。
ちなみに、真源寺が所属する本門流には、あの信長が討たれた時に滞在していた本能寺も所属している。
さて、鶴紋の普及に関してであるが、全国で29位、決して多くは無い。ただ、青森県だけは12位と多いようだ。
確かに、津軽は、鶴紋を使用していた南部家から別れた津軽家の領地だったという事が一因かもしれないが、南部家の本家である岩手県ではそれほど多くない(29位)を考えると、別の理由があるのかもしれない。
その他、比較的に多い地域は、北海道(21位)、秋田県(21位)、宮城県(22位)、愛媛県(22位)、広島県(25位)、福井県(26位)、徳島県(26位)。
さて、鶴紋を使用している有名人だが、以下。


山城国に出生。公家・日野家の出身。室町幕府8代将軍足利義政の正室。関所、米相場、高利貸しからの賄賂等で得た財力によって室町幕府を運営。大河ドラマ「花の乱」の主役(三田佳子)。家紋は鶴の丸紋。画像は青山霊園の日野家の墓所にて。


蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。織田氏家臣から、豊臣家(羽柴家)家臣となる。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。またキリシタン大名で洗礼名はレオン。家紋は蒲生対い鶴と左三巴。


家系は清和源氏のひとつ河内源氏の棟梁 源義家の七男(六男?)源義隆を祖とする森氏。信長と衆道の関係にあったとされ、そのため稚児・児小姓として織田信長に優遇されたとの俗説が流布している。本能寺の変で主君・信長と共に討ち取られた。


南部信直の長男として三戸の田子城にて出生。南部家は河内源氏流。関ヶ原の戦い時に領内で一揆を鎮圧し、家康から所領を安堵され盛岡藩の藩祖となる。定紋は南部鶴だが、割り菱、鶴菱も使用。画像は護国寺の南部家墓所にて撮影。


上野国藤岡出身。関家の養子となる。本姓は内山氏。『発微算法』を著し筆算による代数の計算法を発明。和算が高等数学として発展するための基礎を作る。行列式や終結式の概念を世界一早い時期に提案。家紋は右向き舞鶴。画像は浄輪寺にて撮影。


江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれる。杉田氏は近江源氏・佐々木氏の支族である真野氏の家系。前野良沢らと『ターヘル・アナトミア』を和訳し『解体新書』として刊行。回想録として『蘭学事始』を執筆。画像は栄閑院にて撮影。


上野国新田郡細谷村の郷士高山良左衛門の二男として生まれる。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身とされている。勤王の志を持ち、各地を遊歴して勤王論を説く。家紋は京都三条大橋にある皇居望拝姿の台座の丸に十字紋と鶴の丸紋。


遠江国掛川宿の医師、戸塚隆珀の三男。読みは、とつかせいかい。将軍徳川家定の急病に際し薩摩藩医より幕府医師に登用。法眼に叙せらる。伊東玄朴・坪井信道とともに江戸の三大蘭方医と呼ばれた。家紋は向い鶴紋。画像は谷中霊園にて撮影。


播磨国赤穂郡赤松村の医師・小林直輔の子として生まれる。戊辰戦争では主戦論を唱え、伝習隊を率いて宇都宮や今市、会津を転戦。榎本武揚と合流するが、箱館五稜郭で降伏して投獄された。出獄後、新政府に出仕して殖産興業政策に貢献した。


生家は肝付家。後に小松家の養子となり帯刀と名乗る。大河ドラマ「篤姫」では瑛太が演じた。肝付家の家紋は尻合わせ四つ結び雁金と鶴の丸紋。また、小松家の養子入ってからの使用家紋は抱き鬼梶の葉紋。画像は青山霊園の肝付家の墓所にて撮影。


公卿・姉小路公遂の五男。公卿・澤為量の婿養子となる。八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ち(七卿落ち)。王政復古の後は外務卿等の要職を務める。家紋は、花菱紋と上下対い鶴菱紋。画像の上下対い鶴菱紋は雑司が谷霊園の澤男爵家の墓所にて撮影。


江戸・湯島天神下上手代町出身。父は幕府御家人。読みはあらいいくのすけ。海軍副総裁榎本武揚らと共に、箱館戦争に身を投じる。降伏後は開拓使の役人として新政府に出仕。初代中央気象台長に就任。家紋の鶴の丸紋は祥雲寺にある荒井家墓所にて撮影。


土佐国大野見村出身。土佐藩郷士・陽明学者の南部従吾の長男。読みは、なんぶみかお。土佐勤王党に加盟。文久の政変では三条実美に従って長州へ亡命し大宰府にも随行。維新後は法曹会の設立に尽力。家紋は丸に向かい鶴紋。青山霊園にて撮影。


福岡雁林町出身。黒田藩士鶴原道室の長男。立憲政友会創立委員、第2代大阪市長、韓国統監府の初代総務長官などを歴任。第三次日韓協約の締結を推進した。また、実業家としては、中央新聞社長等をつとめる。家紋の鶴の丸紋は、青山霊園にて撮影。


皇太后宮小上臈として出仕し、掌侍を経て権典侍となる。読みは、やなぎわらなるこ。伯爵・柳原前光の妹。「筑紫の女王」柳原白蓮は姪。大正天皇の母として明治天皇の没後は準皇族の扱いを受ける。家紋は鶴の丸紋。画像は目黒の祐天寺にて撮影。


尾張国名古屋出身。父・森春濤は漢詩人で尾張藩の儒者。読みは、もりかいなん。明治漢文学の中心的存在で随鴎詩社を主宰。官僚としては枢密院属、式部官を歴任。伊藤博文狙撃の際に同行し被弾。家紋は反り六角に鶴の丸紋。画像は多磨霊園にて撮影。


但馬国豊岡出身。古島家は旧豊岡藩士。雑誌「日本人」、日本新聞などの記者を務める。衆議院議員としては犬養毅の側近として行動を共にする。玄洋社の頭山満と結んで孫文を援助し辛亥革命を陰から助けた。家紋は鶴の丸紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


岩手県花巻市出身。読みは、みきたかし。日本製鐵・八幡製鐵(現・新日本製鐵)元社長。鉄鋼業界の大御所だった。経済復興会議副議長、日本経営者団体連盟会(日経連)第2代会長等も務める。家紋は鶴の丸紋。画像は多磨霊園にて撮影。


横浜市伊勢町にて代々津軽藩士の家系の長男。読みは、こんとうこう。新感覚派作家としてデビュー。『お吟さま』で直木賞を受賞。主著は『朱雀門』『悪名』等。生前、日航機の鶴丸のマークを見て「自分の家紋を使ってもらった」と言っていたという。


埼玉県南埼玉郡川柳村出身。作家の森村桂(代表作は『天国に一番近い島』)は長女。戦争の体験をまとめた『行軍』で文学報国会賞を受賞。戦後は『仮面天使』がベストセラーになる。日本文芸家協会書記局長。家紋は鶴の丸紋。小平霊園の墓所にて撮影。


青森県北津軽郡金木村出身。県下有数の大地主・津島源右衛門の6男。本名は津島修治。自身「私の生れた家には誇るべき系図も何も無い。」と述べている。代表作は「斜陽」「人間失格」「走れメロス」等。画像は禅林寺にて撮影。


山梨県東八代郡御坂町にて、江戸時代から続く地主の末男として誕生。中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし日本中世史研究に大きな影響を与えた。代表作品「異形の王権」「日本中世の非農業民と天皇」。


東京府(東京都杉並区)生まれ。旧姓は上野。太宰治の長女・園子と結婚、入婿。自由民主党所属の前衆議院議員。厚生大臣、党役職を歴任。平成研究会に加入し、旧橋本派の会長に就任し、同派閥を率いる。家紋は太宰治と同じ鶴紋。


鹿児島県徳之島町出身。医療法人徳洲会理事長。元自由連合代表、元衆議院議員、元沖縄開発政務次官。地方自治体や医師会と対立しながらも、全国各地に病院や診療所を開設し日本で最大規模の病院・医療事業グループ・徳洲会を築く。家紋は向い鶴紋。


東京都出身。本名は丸茂智惠子。『木曜ゴールデン』『火曜サスペンス』等の二時間ドラマや昼帯の連続ドラマの脚本を手がける。代表作は『ママは大ピンチ』。父は国学院大教授で文学博士の丸茂武重。家紋は舞い鶴。画像は多磨霊園にて撮影。


福岡県直方市出身。本名は古賀博之。友綱部屋所属。最高位は東大関。引退後は年寄・浅香山を襲名。通算勝星1047勝、幕内勝星879勝、大関勝星524勝は歴代1位を記録。通算成績は1047勝700敗158休。優勝5回。家紋は向かい鶴。


青森県弘前市出身。本名は古川忍。金星は2個(若乃花1個、朝青龍1個)。上位には強く、殊勲賞を4回獲得。家紋の鶴の丸紋は、鳴戸親方(隆の里)の葬儀時の紋付で確認。引退後は年寄・西岩として、田子ノ浦部屋で後進の指導にあたる。


島根県隠岐郡隠岐の島町出身。本名は、福岡歩。父親は、秋田県仙北郡西木村出身。八角部屋所属の現役大相撲力士。最高位は西関脇。長身に胴長短足、深い懐を活かした右四つ・寄りが持ち味。家紋画像の丸に鶴の丸紋は、化粧回しより。


東山紀之が演じる必殺仕事人2009の登場人物。普段は、事なかれ主義の情けない同心だが、仕事人としての腕は一流。渡辺という姓に対応する紋は一般的には三星に一の字の”渡辺星”であるがここではおしゃれな、六角光琳鶴を使用している。
有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね
































































桔梗紋 -反骨と悲劇の紋- 明智光秀、坂本龍馬、柳田国男...
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梅紋 -菅原道真の怨霊を封じ込めた紋- 前田利家、岡本太郎、菅直人...
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藤紋 -藤原氏に憧れた地方武士の紋- 大久保利通、渥美清、美空ひばり...
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菊紋 -後鳥羽上天皇の意地が生み出した優美な紋- 西郷隆盛、夏目漱石、野口雨情...
天皇家が菊紋を使用し始めたのは、後鳥羽上皇の頃からだといわれている。
後鳥羽天皇(後の上皇)は、平氏が持ち去ったため、三種の神器が無い状態で即位せざるを得なかった。
後に、神器のうち、勾玉と鏡は戻ったが、本物の剣は壇ノ浦に沈み、戻ることは無かったのである。
しかし、剣の無い天皇は、刀を打つ事を好み、自分専用の鍛冶場を庭に創らせたという。
さらに、力で幕府を倒そうと承久の変を起こしたが、失敗し、隠岐に流され、その地で崩御。
おそらく、天皇の刀へのこだわりは、剣無しで即位した自分の正当性に対するコンプレックスへの補償行為だったのではないだろうか。
そして、天皇は、自分の刀に優美な菊の紋章を入れた。
台頭する武家文化に対抗べく王朝文化の最後の維持をこの紋章に込めたのである。
その後、この菊紋は天皇を象徴する紋となる。
江戸の時代こそ、一般庶民にも広まったこの紋であるが、明治になると国家主義とも結びつき、権威を持った。
比較的多い地域は東京都(24位)、宮崎県(25位)、愛知県(27位)、北海道(28位)。茨城県、福井県、滋賀県、京都府、兵庫県、広島県、福岡県で29位。
さて、菊紋を用いた有名人であるが、以下の通りである。


河内国石川郡出身。伊予橘氏の橘遠保の末裔。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍するが湊川の戦で敗れ自害。明治以降大楠公と称される。後醍醐天皇から下賜された菊紋を菊水紋として使用。画像は楠木家の菩提寺・楠妣庵観音寺の菊水紋。


静岡県清水区由比町の紺屋の子として生まれるが、江戸へ奉公に出て楠木正成の子孫の軍学者・楠木正辰の婿養子となる。神田連雀町に軍学塾「張孔堂」を開いた。「慶安の変(由井正雪の乱)」を起こし駿府にて自害。菊水紋は養子先の楠木家の家紋。


伊豆国韮山出身。伊豆韮山代官・江川英毅の次男。通称は江川太郎左衛門。読みは、えがわひでたつ。洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱く。反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。家紋は井桁に十六葉菊紋。


遠江国掛川出身。藩士・立花四郎右衛門の次男。読みは、ますだこうさい。ロシアに密航を企てる。ロシア正教会に改宗後、ロシア外務省の役人、ペテルブルク大学の日本語の講師となった。家紋は十六菊に三つ引両紋。画像は高輪源昌寺にて撮影。


薩摩国鹿児島城下新屋敷出身。薩摩藩士・得能直助の長男。維新後、大久保利通の推挙によって大蔵大丞兼民部大丞に任じられる。その後、司法大丞、印刷局長、初代大蔵技監等を歴任。家紋は丸に三つ割菊に三の字紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


会津出身。藩士・堀藤左衛門の次男。外島家の養子となる。藩主・松平容保に従って上洛。鳥羽・伏見の戦いでは兵糧などの調達にあたる。家紋は菊水紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。顔画像は、テレビドラマ「白虎隊」で機兵衛を演じた大河内浩。


盛岡藩藩医江幡道俊の次男。読みは、なかみちたか。戊辰戦争後は奥羽越列藩同盟参加藩の幹部として責任を問われるが、維新後は大蔵省・文部省に出仕して「古事類苑」「小学読本」編纂に携わる。家紋は十六菊に一の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。


薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長子。薩長同盟の成立や王政復古に成功し戊辰戦争を巧みに主導した。大久保利通や長州藩の木戸孝允と並び維新の三傑と称される。家紋は天皇より下賜された抱き菊の葉に菊紋。元の家紋は鷹の羽とも言われる。


長門国萩呉服町萩藩医 和田昌景の長男として出生。桂家の末期養子となる。尊王攘夷派の中心人物。西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑として並び称せられる。桂小五郎時代は丸に三つ星紋。画像は多磨霊園にある類縁・木戸幸一の墓所にて撮影。


薩摩国出身。第4代、6代内閣総理大臣。大蔵卿時、緊縮財政を行い深刻なデフレ(松方デフレ)を招いた。私生活では26子を儲け、長與專齋、岩崎家、山本権兵衛、森村市左衛門等と婚姻関係を結ぶ。家紋は抱き菊の葉に抱き茗荷紋。画像は青山霊園。


薩摩国出身。藩士・永山盛広の四男。北海道庁長官となり、北海道の開拓と防衛に情熱を傾け、「屯田兵の父」と呼ばれた。軍人としての最終階級は陸軍中将。家紋は丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋。画像は青山霊園の弟・永山盛輝の墓所にて撮影。


薩摩藩鹿児島城下加治屋町出身。西郷隆盛の弟。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。妻、清子は得能良介の長女。四男は上村彦之丞、六男は小松家の嗣養子。最終階級は元帥海軍大将。家紋は三つ寄り菊葉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


薩摩国出身。藩士高島喜兵衛の四男。読みは、たかしまとものすけ。第1次松方内閣の陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。大阪偕行社附属小学校(現在の追手門学院小学校)を創設。陸軍大将野津道貫は義弟。家紋は抱き鬼柏に剣菊紋。画像は青山霊園にて撮影。


土佐国高知城下帯屋町出身。父は土佐藩(馬廻役・580石)山田清粛(八蔵)。戊辰戦争に従軍し軍功を上げる。征韓論に敗れて高知に帰り、板垣退助や植木枝盛らと立志社の設立に参加。第2代社長となり自由民権運動を主導した。家紋は菊水紋。


薩摩国出身。薩摩藩士・宮内清之進の次男。日高籐左衛門の養子となり家督を相続。NHKドラマ「坂の上の雲」では中尾彬が演じた。最終階級は海軍大将。幾多の軍功によって男爵位を受勲。家紋は割り杏葉菊に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。


佐渡国出身。明治維新後、世界初の総合商社・三井物産の設立に関わる。草創期の日本経済を動かし三井財閥を支えた。更に日本経済新聞の前身・中外物価新報を創刊。実妹の繁子は瓜生外吉に嫁ぐ。家紋は三つ割り菊紋。画像は総持寺にて撮影。


薩摩国出身。薩摩藩漢学師範・上村藤一郎の長男として生まれる。最終階級は海軍大将。渾名は船乗り将軍。日露戦争の日本海海戦では判断よくバルチック艦隊の進路を塞いだ。家紋は丸に橘紋と抱き菊の葉紋。画像は青山霊園にて撮影。


筑前国出身。槍術師範・栗野小右衛門の長男。陸奥外務大臣から駐米公使兼駐メキシコ公使に任命され、日米改正新通商条約の調印を成し遂げる。また、パリ万国博覧会では、同郷の川上音二郎の公演を支援した。家紋の鬼菊菱紋は、鶴見総持寺にて撮影。


越前国出身。父は福井藩士・東郷晴霞。日清戦争時は「鳥海」艦長、「西京丸」艦長を、日露戦争では第6戦隊司令官として出征し、黄海海戦、日本海海戦に参戦し、後に海軍中将となった。家紋は抱き菊の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


陸奥国岩手郡出身。穂積陳重、江木衷、高橋健三、元田肇等と英吉利法律学校を創設し、中央大学初代学長に就任した。他に、司法省民事局長、東京弁護士会会長、貴族院勅選議員等も務めた。家紋は菊水紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


第6代藩主・青山幸哉の長男として生まれる。版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、廃藩置県で免職された。その後は実業家、貴族院議員となって活躍した。市川米庵に書を学び、多くの名筆を残した。家紋は青山紋。菩提寺である梅窓院の墓所にて撮影。


江戸に苗木藩藩士・青山景通の三男として生まれる。読みは、あおやまたねみち。東京帝国大医科大学校長、伝染病研究所所長を歴任。明治大帝の侍医、宮内庁御用掛を勤める。原田直次郎の治療や、樋口一葉の診察も行ったという。家紋は抱き菊の葉に菊紋。


越後国長岡出身。博文館創業者大橋佐平の三男。父没後、博文館館主となり、博文館印刷所(現在の共同印刷)、日本書籍株式会社を設立。衆議院議員・貴族院議員もつとめる。家紋は杏葉菊菱紋。画像は護国寺の墓所にて撮影。


薩摩国出身。藩士・山之内時習の長男。読みは、やまのうちかずじ。青森県知事、逓信省鉄道局長、第1次山本内閣内閣書記官長、貴族院勅撰議員、第2次山本内閣鉄道大臣などを歴任。家紋は丸に十六剣菊紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


江戸牛込馬場下出身。数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子。千円札の図柄としても著名。代表作は『坊ちゃん』『我輩は猫である』『こころ』など。家紋は井桁に菊紋とも言われるが雑司が谷霊園には菊菱紋(画像)がある。


下総国南相馬郡我孫子驛出身。加藤家に生まれるが、18歳の時に血脇家に入る。東京歯科大学の創立者の一人。日本の近代歯科医療制度の確立に尽力。また、野口英世のパトロンとして知られる。家紋の菊水紋は八柱霊園の墓所写真より。


尾張国名古屋出身。父は尾上朝次郎本名は寺島榮之助。屋号は音羽屋。昭和初期を代表する名女形役者。十五代目市村羽左衛門の名相方とうたわれ墓も隣にある。役者としての家紋は重ね扇に抱き柏だが、雑司が谷墓地の墓所の家紋は杏葉菊紋。


伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加。艦長や艦隊司令長官を務めるなど皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富。家紋は伏見宮裏菊紋。画像は息子・博英の墓所にて撮影。


東京市小石川出身。旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の長男。作家の里見とんは弟。長男は俳優の森雅之。同人「白樺」に参加。代表作は『カインの末裔』『迷路』。家紋は丸に雪持ち笹だが、多磨霊園の墓所には抱き菊の葉に雪持ち笹紋も見える。


茨城県出身。生家は廻船問屋を営む名家。野口家は、楠木正成の弟、正季が先祖と伝えられているという。代表作は、『シャボン玉』『こがね虫』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など多数。家紋は菊水紋。画像は小平霊園所に撮影。


京都府出身。読みは、ひがしくにのみやなるひこおう。陸軍軍人としての最高階級は、陸軍大将。第二次世界大戦終結後、鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣、陸軍大臣に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。家紋は東久邇菊紋。


東京府出身。北白川宮家。長兄・恒久王は特に竹田宮家を創設し自身は臣籍降下し小松侯爵家を創設。終戦間際まで帝国海軍の軍務に服し、最終階級は海軍中将。戦後は平安神宮宮司を務める。家紋は三つ割菊紋。画像は護国寺にて撮影。


東京府出身。宮内省式部職・恩地轍の四男。読みは、おんちこうしろう。前衛的表現方法を用いた芸術家としてあらゆるジャンルで活躍。代表作は自身の詩や版画との組み合わせた写真集『飛行官能』『博物誌』。家紋は楠木氏家臣からの流れの菊水紋。


京都出身。甲斐庄氏は楠木正成末裔を称した旗本の一族。読みは、かいのしょうただおと。大正末期の暗い風潮を象徴したデカダンス画家の代表。代表作『青衣の女』『横櫛』等。家紋は菊水紋。画像は文京区・吉祥寺にて撮影。


大阪府三島郡豊川村の造り酒屋の長男。衆議院議員、財団法人日本船舶振興会会長、福岡工業大学理事長を務めた。戦後は政財界の黒幕として「日本の首領(ドン)」と呼ばれた。家紋は半菊に一の字紋。顔画像は高見山の引退興行での紋付姿。


山形県上山市出身。実践剣術・戸山流抜刀術を修練し中村流抜刀道を創始。国際居合抜刀道連盟(国際抜刀道連盟の前身)を組織。国際武道院より抜刀道十段を授与される。橋本龍太郎に山岡鉄舟愛刀「左文字」の写しを献上した。家紋は丸に菊水紋。


東京都出身。父(養父)は劇団新派の俳優・伊志井寛。TBSのプロデューサーとして「肝っ玉かあさん」「ありがとう」「女と味噌汁」「おんなの家」「渡る世間は鬼ばかり」等を手がける。家紋は菊杏葉紋。谷中・瑞輪寺の伊志井寛の墓にて撮影。


富山県南砺市出身。父・南佐民は兵庫県淡路島の出身で楠木正成の系譜だが、井波八幡宮の宮司を務める綿貫家の婿養子に入る。自民党の重鎮であったが郵政民営化を巡る党内抗争の結果、離党し国民新党を結成。菊水紋は南家の家紋。


東京市出身。堀川弘通監督の助監督を経て、27歳の若さで監督になる。『若い狼』で監督デビュー。代表映画監督作は『女体』『伊豆の踊子』『四万十川』など多数。一方テレビドラマでは『傷だらけの天使』の監督を手がけた。家紋は菊水紋。


東京府出身。1947年10月14日に皇籍離脱し、以後は北白川道久となる。伊勢神宮の大宮司に就任。紀宮清子内親王(現・黒田清子)の結婚式において、斎主を務めた。現在は、神社本庁統理。家紋は北白川菊紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。


静岡県浜松市出身。本名は、祐乗坊英昭。2012年日本文藝家協会理事。独特の文体でのエッセイを多数の雑誌に発表。椎名誠らとともに「昭和軽薄体」と呼ばれた。家紋は三つ割菊紋。画像は高尾霊園にある祐乗坊家の墓所にて撮影。


東京都出身。家系は伏見宮家より分かれた北白川宮家の分家にあたる竹田宮家。明治天皇の女系の玄孫に当たり、皇太子徳仁親王の三いとこにあたる。竹田恒和は父。家紋の横見菊は、「たかじんのそのまで言って委員会」出演時の紋付より。


テレビ朝日系で放送された「八丁堀の七人」という時代劇の主人公の一人(もう一人の主人公は片岡鶴太郎演じる仏田八兵衛)。村上弘明が演じた。青山という姓より、徳川譜代の青山氏の庶流を想定していると推定される。家紋は丸に立ち葉菊紋。
有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね
































































雁金紋 -群れ飛ぶ雁に希望を仮託した紋- 柴田勝家、犬養毅、鳩山由紀夫...
鳥に対する人間の願望が家紋として表出したのだと思う。
現代人の発想だと、鳥は自由の象徴ということになるのだが、昔はそうではなかった。
彼岸にいるであろう先祖との使者としての雁、仲良く群れをなす絆の強さの象徴としての雁。
そんなことを考えて家紋として採用したのであろう。
雁金紋で有名なのは、戦国武将の柴田勝家の「二つ雁金」だ。
この家紋の図案は、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した武将・勝家の悲劇を物語っているようにも見えるから不思議だ。
現在の県別分布では、雁金紋の発祥地・長野県と、何故か鹿児島県で比較的多い。
そういえば、梶紋も元々は長野県発祥の紋であるが、鹿児島県にも多い。
長野と鹿児島の間には何か独特の繋がりがあるのであろうか。
さて、雁金紋を持つ有名人は以下だ。


出生地不明。義朝の郎党金王丸と同一人物とする説あり。源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加。源義経を襲撃する(堀川夜討)が、敗れて六条河原で梟首された。「源平盛衰記」によれば、頼朝より二文字に結び雁金を賜ったという。


尾張国愛知郡上社村で土豪階層の家に生まれる。織田信長の家臣として近江、摂津など各地を転戦。長篠の戦いにも参加。信長死後、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ越前北ノ庄にてお市と共に自害。家紋は二つ雁金。画像は勝家の孫・柴田勝重の墓所にて撮影。


三河国額田郡坂崎村で生まれる。家康の小姓として仕える。小田原征伐に戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。関ヶ原の戦い後甲府6万3,000石を、その後、犬山藩主として12万3,000石を領した。家紋は丸に結び雁金。


筑後国御原郡古飯村出身。庄屋の次男。幕臣古屋家の養子となる。高松凌雲は弟。神奈川奉行支配定役をへて歩兵差図役。衝鋒隊を組織して各地で新政府軍と戦う。箱館五稜郭で戦死。家紋は丸に捻り雁金紋。画像は谷中霊園の墓所写真にて撮影。


生家は肝付家。後の小松帯刀。大河ドラマ「篤姫」では瑛太が演じる。この尻合わせ四つ結び雁金紋が家紋。また、別に鶴の丸紋も使用。ちなみに、小松家の養子入ってからの使用家紋は、抱き鬼梶の葉(抱き鬼菊の葉とも)紋。


岡山藩士で実業家、政治家・花房端連の長男。壬午事変では暴徒に包囲された公使館を脱出して命からがら帰国。事件の損害補償とともに漢城への日本軍駐留を認めさせる。宮内次官、日本赤十字社社長等を歴任。画像は池上本門寺にて撮影。


備中国賀陽郡庭瀬村で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男。若槻礼次郎・民政党内閣が崩壊したため反対党(政友会)の総裁として第29代内閣総理大臣に就任。五一五事件で凶弾に倒れる。家紋は嘴合わせ三つ雁金。画像は青山霊園にて撮影。


筑後国久留米出身。父は藩士・安太郎。日比家の養嗣子となる。読みは、ひびおうすけ。三井銀行に入社。株式会社三越呉服店が設立され、専務取締役に就任。このときに「デパートメントストア宣言」を行った。家紋の丸に結び雁金紋は祥雲寺にて撮影。


上野国出身。名主・藤井安治の二男。西条藩士・都筑侗忠の養子となる。読みは、つづきけいろく。妻・光子は井上馨の娘。井上馨外相、山縣有朋首相の秘書官を務め、立憲政友会の創立に参加した。家紋の尻合せ三つ雁金紋は、「華族家系大成」による。


東京生まれ。川上音二郎一座の「日清戦争」で李鴻章に扮したのが出世役。大阪で成美団を結成。評論「自然主義新演劇を唱ふ」を発表、関西新派の中心俳優として活躍し「新演劇の団十郎」と呼ばれた。家紋は丸に結び雁金紋。画像は金嶺院にて撮影。


静岡県賀茂郡出身。漁師の9人兄弟の長男。『自由新聞』に入社し、幸徳秋水らと親交を持つ。立憲政友会に所属し、田中義一総裁実現に尽力。政界の策士と異名を取る。若き日の林房雄を、共産党運動から転向させたという。家紋は丸に捻り雁金紋。


高知県出身。土佐藩士族・寺田利正の息子。安岡章太郎、別役実とは親戚。夏目漱石の『吾輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデル。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉。家紋は二つ雁金紋。寺田寅彦記念館にて確認。


芦田家は京都府福知山市の豪農。読みは、あしだひとし。敗戦直後の日本政治の中心の1人。社会党・片山哲内閣を引き継ぎ、第47代内閣総理大臣となるが昭和電工事件により総辞職、逮捕される。家紋は桜輪に結び雁金。画像は総持寺にて撮影。


香川県仲多度郡多度津町生まれ。本名は敏太郎。「大阪毎日新聞」記者をへて新国劇に入り文芸部長を務める。のち小説家として多くを書いた。代表作は「薔薇夫人」「母は強し」。家紋は亀甲に頭合わせ三つ雁金紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


富山県婦負郡寒江村大塚出身。3人姉弟の長男。近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱。治安維持法違反容疑で特高に逮捕された。家紋は二つ雁に沢瀉紋。墓所の写真にて確認。


東京都小石川出身。父・鳩山一夫は初代自民党総裁、第52・53・54代内閣総理大臣。弟・邦夫は元総務相、文相。自身は民主党代表(第2・7代)、内閣総理大臣(第93代)を歴任。家紋は尻合わせ三つ結び雁金紋。画像は谷中霊園の鳩山家の墓所にて撮影。


大阪府出身。ピーターという芸名も使う。上方舞吉村流四世家元・吉村雄輝 の長男。両親離婚後、母方の池畑姓を名乗る。画像の結び雁金は「父親から譲り受けて、ピーの芸紋にした」と記したブログ記事より。元々は父の養父・高田実(新劇俳優)の家紋。


東京都武蔵野市出身。読みは、やくまるひろひで。『2年B組仙八先生』でデビューし、アイドルグループ「シブがき隊」のメンバーとして活躍。『はなまるマーケット』の司会を長年務めた。家紋の頭合わせ三つ雁金紋は、自身のブログにて公開された手桶より判断。


戦国時代から続く陣内家の16代目当主。元教師で、教え子には政治家、官僚、地方の実力者なども多く、政財界に幅広い人脈を持つ。一族はもとより、国を動かせるだけの影響力をもっている。吹き替えは富司純子。家紋は右向き結び雁金紋と変り六文銭紋。
有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね
































































亀甲紋 -北方を守護する玄武の力にあやかった紋- 浅井長政、手塚治虫、羽生善治...
出雲神社、香取神宮の神紋として知られている。
おそらく、元々、出雲大社は大陸(半島)、香取神宮は蝦夷(東北地方)に対する守りという意味があったのであろう。
ただ、この形状自体が美しいデザインのため、企業のマークとしても使用されている。
例えば、醤油でお馴染みのキッコーマンのマーク。
昭和のはじめに創業者の茂木佐平次が、香取神宮の氏子だったことから亀甲紋をマークに、採用したとのことである。
また、商標、後には会社名としても採用した。
また、ビデオレンタルのゲオ。
こちらのマーク、隅立ての3つの正方形のように見えるが、実は、創業者の遠藤結城氏の家紋であった三つ盛り亀甲のイメージをそのマークに込めたとのことである。
全国では20位。特に多い地域は、秋田県(15位)、徳島県(16位)、北海道(17位)、青森県(17位)、愛知県(17位)、佐賀県(17位)、山形県(18位)、島根県(18位)、香川県(18位)、千葉県(19位)といったところか。
さて、この紋を持つ有名人は以下の通り。


近江国出身。浅井久政の嫡男として南近江観音寺城下に出生。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させる。織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが後に信長と決裂。姉川合戦に敗れ追い詰められ自害し滅亡。家紋は三盛亀甲花菱。


越後国出身。戦国から安土桃山時代にかけて上杉家の生存を賭けた戦いと外交に尽力。2009年の大河ドラマ「天地人」では、妻夫木聡が演じた。三つ盛り亀甲の中の文様は細い葉説と剣花菱説がある。画像は墓所で撮影した三盛亀甲紋。


河内国出身、生国は播磨国。安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し、名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。玉川上水・野火止用水の開削を行う。「算術の達人」と称された。家紋は一重亀甲に左三つ巴紋。平林寺の墓所にて撮影。


摂津国出身。両親は農家。読みは、たけもとぎだいゆう。大坂道頓堀に竹本座を開設し、『世継曽我』など、近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を上演した。浄瑠璃の義太夫節の創始者。家紋は竹亀甲に九枚笹。画像は回向院にて撮影。


豊後国日田出身。読みは、かわじとしあきら。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ小普請組の川路家の養子となる。海防掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺にて撮影。


長門国出身。藩士・周布吉左衛門の五男。周布氏は代々長州藩毛利家に仕えた家柄。財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力。禁門の変や第一次長州征伐に際して事態の収拾に奔走。家紋は亀甲に久の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。


薩摩国出身。藩士・税所篤倫の二男。読みは、さいしょあつし。戊辰戦争では新政府軍の軍事費工面などの財政処理を行う。維新後は、関西の各県令、知事、霧島神社宮司等を歴任。家紋は丸に亀甲に唐花紋、亀甲花崩し紋。画像は青山霊園にて撮影。


豊後国出身。読みは、よねくらいっぺい。鳥羽・伏見の戦いで功をたてる。第五国立銀行取締役となり米穀市場を開き蠣殻町米商会所をおこし頭取となる。後に米穀取引所理事長などをつとめた。家紋は亀甲に唐花紋。画像は谷中霊園にて撮影。


上野国原之郷出身。読みは、ふなつでんじべい。篤農家として評価された「明治の三老農」の一人。経験を重んじる在来の日本農業に西洋の近代農法を積極的に採り入れた「混同農事」に力を入れた。家紋の丸に三つ盛亀甲紋は、船津家墓所写真にて確認。


土佐国土佐郡に藩士岡内清胤の長男として出生。読みは、おかうちしげとし。海援隊に入り秘書役として活躍。維新後、岩倉具視、伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。家紋は丸に亀甲に武田菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


出雲国出身。出雲大社宮司の家に生まれ教派神道出雲大社教を創始。貴族院議員、埼玉・静岡県知事、東京府知事、司法大臣を歴任。「年の始めの 例(ためし)とてで」始まる「一月一日」の作詞者。家紋は亀甲に剣花菱紋。青山霊園にて撮影。


豊後国出身。森藩士・林寛吾の四男。同藩士・原口等の養子となる。西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行し樺太全土を占領。貴族院議員も務める。最終階級は陸軍中将。家紋は亀甲に木瓜紋。画像は青山霊園。


周防国出身。長州藩士宇多田正輔の三男。読みは、てらうちまさたけ。母方の寺内勘右衛門の養嗣子となる。陸軍大臣、外務大臣、韓国統監、朝鮮総督、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は亀甲に三つ柏紋。


長州国出身。藩士・山根修平の二男。読みは、やまねたけすけ。日清戦争に第2軍兵站参謀長として出征。日露戦争では臨時軍用鉄道監として出征し、仁川で任務を遂行した。最終階級は陸軍中将。家紋の亀甲に山の字紋は、「華族家系大成」による。


磐城平藩出身。12歳で新選組に入隊し、局長近藤勇や土方歳三附属の小姓として所属した。旧幕府軍が仙台で榎本武揚艦隊と合流すると、共に蝦夷地へ渡り、土方歳三に所属する榎本総裁附きの小姓となる。家紋は丸に亀甲に左三つ巴紋。


美作国津山出身。父は津山藩士。読みは、いそのはかる。弁護士から郵便汽船三菱会社社員を経て、横浜で明治屋を創業し、麦酒販売などを行なう。。家紋の子持ち亀甲に三つ鱗紋は青山霊園にて撮影。現在でも明治屋のロゴに三つ鱗が残っている。


安芸国出身。広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男。読みは、しもせまさちか。日露戦争における大戦果の一因とされた下瀬火薬を発明。実験事故で指を失ってもなお研究を続けたという。家紋は一重亀甲に右二つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


越後村松藩の第12代で最後の藩主。読みは、ほりなおひろ。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟軍に参加せず、新政府軍に帰順したため、明治元年、村松藩主堀家12代をゆるされた。家紋の亀甲に花菱紋は、谷中霊園内寛永寺墓地にて撮影。


陸奥国三戸郡五戸村出身。南部藩士・木村忠治の子。母方の鳥谷部氏を嗣ぐ。本名は鳥谷部銑太郎。読みは、とやべしゅんてい。雑誌『精神』『太陽』『報知新聞社』等の記者となり人物評を連載する。家紋は亀甲に唐花紋。画像は吉祥寺の墓所にて撮影。


讃岐国出身。庄屋宮武家の四男。読みは、みやたけがいこつ。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行い、たびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。家紋は亀甲に七曜紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


武蔵国江戸神田出身。旧南部藩士・山田吉雄の長男。本名は山田武太郎。読みは、やまだびみょう。言文一致体、新体詩運動の先駆者。尾崎紅葉らとともに硯友社を結成。雑誌『我楽多文庫』を刊行。家紋は丸に三つ割亀甲に花菱紋。画像は染井霊園にて。


鹿児島県出身。士族の長男。読みは、いわもとてい。夏目漱石の『三四郎』の広田先生のモデル。極めて採点が厳しい名物教授として知られた。また、志賀直哉にドイツ語を教えた。主著は『哲学概論』。家紋は亀甲に花菱。画像は総持寺にて撮影。


高知県出身。本名は勝弥。読みは、ばばこちょう。島崎藤村や北村透谷、上田敏らと雑誌「文学界」を創刊。本邦初訳のトルストイ『戦争と平和』を刊行。代表作は 『明治の東京』 『社会的近代文芸』 等。家紋は違い一重反り亀甲。画像は谷中霊園にて撮影。


福島県出身。会津藩士・警察官、畑能賢の長男。陸軍大臣、陸軍大将・畑俊六は弟。軍事課長、航空局次長、軍務局長、陸軍次官、兼軍事調査委員長、第1師団長を歴任。最終階級は陸軍大将。家紋は亀甲に根笹紋。画像は多磨霊園にて撮影。


東京市麹町隼町に蒲原忠蔵の息子として出生。本名、隼雄。象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され北原白秋、三木露風らに影響を与えた。家紋は亀甲に梅鉢紋。画像は麻布・賢崇寺の墓所にて撮影。


秋田県角館出身。本名は貞蔵。読みは、ひらふくひゃくすい。自然主義的写生画を目指し自然主義と古典が融合した作品を生み出す。また、伊藤左千夫と親しく歌人としても活動した。家紋は陰亀甲に隅立て陰四つ目結紋。画像は多磨霊園にて撮影。


東京府出身。読みは、かんむりまつじろう。日本アルプスや奥秩父の渓谷の多くを遡行し、優れた記録や紀行文を残した。登山の中に沢登りという日本独自の分野を開く。黒部の父とも呼ばれる。代表作は『黒部渓谷』『剣岳』等。家紋は三つ盛亀甲紋。


東京府出身。父親は紀州藩士で明治政府の高級官吏・平塚定二郎。関ヶ原の合戦で戦死した西軍の武将平塚為広の末裔。女性解放運動・婦人運動の指導者。日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を創刊。家紋は一重亀甲の内梅鉢紋。


東京出身。谷崎潤一郎とともに耽美的作風を併称され、幹彦潤一郎と呼ばれた。『祇園情話』などの「祇園もの」でも人気を博した。戦後は、阿部定と組み阿部定事件を演じる劇団を旗揚げしたこともある。家紋は三つ盛一重亀甲紋。寛永寺第三墓地にて撮影。


京都府宇治に料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松の長男。日本共産党系の労農党の京都府連合会委員長。衆議院議員として治安維持法改正などに反対するが、「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。家紋は一重亀甲に右寄り三階松紋。


福岡県福岡市出身。読みは、はしもとすけゆき。本所警察署、向島警察署、日比谷警察署、四谷警察署の署長を歴任。衆議院議員総選挙に出馬し当選。頼母木桂吉東京市長のもとで第二助役をつとめた。家紋の丸に亀甲に花菱紋は多磨霊園の墓所にて撮影。


福岡県豊前市合河町出身。倫理研究所の前身・新世文化研究所を設立し、社会教育、研究、文化、出版等の事業を行なう。後に、日本全国に50,000社を擁する倫理研究所として発展させる。家紋は一重亀甲に左寄り三階松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


東京府本郷に生まれ、岸田劉生に見出されて画家を志す。多彩な作品を制作し、全てが独学であり自ら「在野派」と称した。妻は千田是也の姉の暢子。次男・は映画監督中川晴之助。孫に女優の中川安奈。家紋は亀甲に花菱紋。雑司が谷霊園にて撮影。


滋賀県蒲生郡日野町出身。生家は、甲賀郡水口藩の藩士であった井崎家。本名は春田能為。読みは、こうがさぶろう。江戸川乱歩と並び本格派の探偵小説に取り組んだ。代表作は「琥珀のパイプ」「支倉事件」など。家紋は一重亀甲に立ち沢瀉紋。


山形県鶴岡市出身。読みは、さがらもりお。東京大学名誉教授、文化勲章受章。木村謹治とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれた。また、日本独文学会の創設にも貢献した。家紋の亀甲に花菱紋は春秋苑にて撮影。


東京府牛込区の生まれ。本名は石渡金久。17歳で初代に入門。師匠譲りの関東節任侠物を磨き上げ、『清水次郎長伝』『国定忠治』などを十八番にした。弟子には玉川良一、玉川ゆたか等がいる。家紋は三つ盛亀甲紋。画像は寛永寺第二霊園にて撮影。


鳥取県鳥取市出身。大工棟梁・猪口鉄蔵の長男。読みは、いのぐちとしひら。弟・猪口力平(海軍大佐) 神風特別攻撃隊命名者。最終階級は海軍中将。戦艦「武蔵」最後の艦長として知られる。家紋の亀甲に剣片喰紋は墓所写真にて確認。


群馬県藤岡市出身。三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて革新的な設計を行う。零式艦上戦闘機の設計主任として知られる。また『風立ちぬ』(宮崎駿著)の主人公としても有名である。家紋の丸に三つ盛り亀甲は多磨霊園の墓所にて撮影。


秋田県北秋田郡下川沿村生まれ。4歳の時に北海道・小樽に移住。伯父からの学資を受け小樽高等商業学校へ進学。『蟹工船』を発表し一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集める。非合法の日本共産党に入党。治安維持法違反容疑で逮捕され獄死。


東京府出身。ノンフィクションライターの塚本哲也は長女ルリ子の夫。放射線医学総合研究所の二代目所長、国立がんセンター病院長を歴任するが、自身が癌に罹り在職のまま死去した。家紋は一重亀甲に違い笏紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


東京市日本橋区橘町出身。家系は桓武平氏の一家系 常陸平氏・大掾氏の一門 鹿島氏の庶流 立原氏。代表詩集『ゆふすげびとの歌』『萱草に寄す』『曉と夕の詩』。家紋は三つ盛り亀甲紋。上の紋は花菱、下の二つは角字(平と東)。画像は多宝院にて撮影。


静岡県浜名郡雄踏町出身。水泳界で次々と世界記録を打ち立ててフジヤマのトビウオの異名を取った。日本水泳連盟会長、JOC会長を歴任。家紋は亀甲に花菱紋。画像は「週刊現代」2012年7月21日28日合併号の「著名人のお墓巡り」の記事より。


大阪府出身。5歳から兵庫県宝塚市に育つ。代表作は、『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『ブッダ』『マグマ大使』『どろろ』『ブラック・ジャック』等、多数。ストーリー漫画の父と言われている。家紋は細輪に三つ盛亀甲紋。画像は巣鴨・摠禅寺にて撮影。


和歌山県和歌山市出身。曽祖父は長州藩士の有吉熊次郎。カトリック教徒。『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり文壇デビュー。代表作は『紀ノ川』『恍惚の人』。家紋は一重亀甲に並び矢。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


長崎県長崎市出身。衆議院議員(11期)、参議院議員(2期)、新自由クラブ幹事長、文部大臣(第111・112代)、自由民主党総務会長、新進党幹事長、参議院議長(第28代)などを歴任した。。家紋の亀甲に横木瓜紋は、地元長崎の精霊船の写真にて確認。


東京都目黒区出身。松永4兄弟で全日本女子プロレスを創業し、社長・会長を務めた。「女子プロレスの父」の異名を持つ。後に、フジテレビでの試合中継も実現させて女子プロブームを興した。北斗晶のブログの墓参り写真より、家紋は亀甲に花菱紋と判断。


満洲・ハルビン市出身。茨城県水戸市で育つ。本名は梅宮辰雄。タレント・モデルの梅宮アンナは娘。代表出演作は『人生劇場 飛車角』『仁義なき戦い』。テレビドラマ、CMでも活躍。家紋は丸に三つ盛り亀甲紋。画像は小平霊園の梅宮家の墓所にて撮影。


秋田県南秋田郡若美町出身。現役時代はロッテ、中日、巨人、日本ハムなどで活躍。3度の三冠王に輝く。2004年から中日ドラゴンズ監督。3度のリーグ優勝に輝く。家紋は息子・福嗣の自伝「フクシ伝説」の表紙の紋付より亀甲と判断。中は梅鉢か。


東京都足立区梅田出身。実家は田中屋釣具店。本名は、小達好子。アイドル歌手でキャンディーズのメンバー。主な出演映像作品は『おしん』『黒い雨』『家なき子』など多数。家紋は亀甲に小の文字紋。画像は、多磨霊園の小幡家の墓所にて撮影。


神奈川県横浜市出身。サザンオールスターズのメンバー。本名は、桑田由子。キーボード担当。ソロ作品も数年置きのペースでリリースしている。家紋の亀甲に花菱紋は、生家・原家の家紋。1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


東京都出身。日本を代表するスカバンド、「東京スカパラダイスオーケストラ」の結成当時からのドラマーとして活躍。小泉今日子などにも曲を提供。列車事故で急逝。画像は多磨霊園の青木家の墓所にて撮影。亀甲紋であることが確認できる。


埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持。通算タイトル獲得数、通算優勝回数等は歴代1位。数々の実績から将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。紋付姿の写真より家紋は亀甲に梅紋と判断。


三重県桑名市出身。読みは、ごとうひろおき。新日本プロレス所属。得意技はGTR、昇天・改。2007年に、IWGPヘビー級王座、2015年にIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦。家紋の亀甲に花菱紋は自身のオリジナルグッズのデザインにも使用している。


宮城県仙台市泉区出身。読みは、はにゅうゆずる。2014年ソチオリンピック男子シングル優勝。2014年世界選手権優勝。グランプリファイナル二連覇する。家紋の丸に三盛亀甲紋は、2015年12月発売の「家庭画報1月号」(世界文化社)の羽織袴姿にて確認。


作家・林不忘の新聞連載小説、およびその作品内の主人公。隻眼隻腕の異様な姿の剣士。手塚治虫も同名の作品を漫画化している。映画では団徳麿、嵐寛寿郎、大河内傳次郎、阪東妻三郎等が主役を演じている。家紋は一重亀甲に二引両紋。
有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね
































































蝶紋 -優美さと物悲しさ漂わせる紋所- 大谷吉継、芹沢鴨、小村寿太郎、船越英一郎...
一般的には、平家の代表紋と言われている。
確かに、公家で平家流の平松家、西洞院家などはこの紋を使用しているが、実際、武家の桓武平氏では、この紋はそれほど普及しているわけではない。
ただし、織田信長のように、後から平氏を自称した諸家では、この紋を定紋としたようである。
ところで、よく見ると、揚羽蝶紋で描かれている蝶の目はどこか物悲しい。
壇ノ浦で滅んだ平家を哀れんでいるかのようでもある。
全国分布だが、県別家紋数では、まんべんなく20位~30位くらいの位置をキープしている。
敢えて言えば、三重県(18位)、鹿児島県(18位)、岐阜県(19位)、群馬県(20位)、石川県(20位)などが20位以内に入っている。
逆に宮崎県、徳島県ではベスト30にも入っていない。
さて、この紋を使用している有名人だが以下が確認できている。


父は大道寺重興。大道寺氏は「平朝臣」を名乗り、後北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれる家柄で、代々後北条氏の宿老的役割を務め、主に河越城を支配していた。豊臣秀吉による小田原征伐時、上野松井田城を守っていたが、開城降伏した。家紋は揚羽蝶紋。


古渡城主・織田信秀の次男または三男として出生。日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて世に多大な影響を残した武将、大名(戦国大名)。重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い自刃に追い込まれた。画像は信長の陣羽織より。


能登国七尾出身。当時の主流・狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち独自の画風を確立。晩年、利き腕である右手の自由を失う。代表作『旧祥雲寺障壁画』『松林図屏風』『花鳥図屏風』。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は京都・本法寺にて撮影。


佐野宗綱の弟。佐野氏は秀郷流の系統。藤姓足利氏の庶流。豊臣秀吉に仕え、小田原征伐のとき、功績により、佐野氏の領地である唐沢山城と3万9000石の所領を安堵される。戦国時代においては、剣術の達人の一人であったと言われている。


近江国出身。秀吉の小姓となり、出世。九州征伐で功を上げ、5万石を与えられ、敦賀城主となる。賤ヶ岳の戦いの際には長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させる。関が原の戦いでは西軍に与し、破れる。家紋は向かい蝶紋。


織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれた。家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。関ヶ原の戦いでは徳川方に与する。また、姫路城を形に改築。家紋は蝶(左画像は姫路城の瓦の蝶紋)、備前蝶。


武蔵国出身。別名・松平伊豆守信綱、知恵伊豆。徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として生まれ、松平正綱の養子となる。家光の信を受け武蔵忍藩主、武蔵川越藩主となる。家紋は高崎扇と伊豆蝶紋。画像は菩提寺・平林寺の大河内家墓所にて撮影。


京都の神官の子。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人。賀茂真淵は弟子。主著は『春葉集』『創学校啓』『伊勢物語童子問』。赤穂義士に吉良義央在宅確実の茶会の日を教えたという。画像は養子・在満の墓所にて撮影。


伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄。伊勢平氏・平維衡の後裔と言われる名門で江戸時代には徳川氏に仕え中世以来の武家を中心とした制度・礼式を伝える家として残る。「貞丈雑記」「安斎雑考」「軍用記」等を残す。家紋は向かい蝶紋。


大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。大塩家は代々与力として禄を受けていた。天保の大飢饉の際、人民救済のために大塩平八郎の乱を起す。その乱の際、元々の大塩家の家紋の蝶の丸ではなく桐紋を旗印にした。


上総出身。芳村伊千五郎が4代目伊三郎を襲名。歌舞伎の世話物の名作「与話情浮名横櫛」(別名お富与三郎)のモデル。春日八郎のヒット曲『お富さん』はこの演目からセリフを取り入れている。家紋は三つ盛り揚羽蝶。画像は品川・天妙国寺にて撮影。


越後国水原近辺出身。本名は、池田三信。『光琳新撰百図』『抱一上人真蹟鏡』上下を出版した。この絵本は、ジャポニズムの機運にのって西洋に渡り、装飾美術の隆盛に寄与した。家紋の丸に備前蝶紋は、江戸川区西瑞江の大雲寺にて撮影。


水戸上町出身。水戸藩士・関新兵衛昌克の子。読みは、せきてつのすけ。水戸学の影響を受けて尊王攘夷運動に乗り出した。桜田門外の変で実行隊長として襲撃を指揮し、井伊直弼を暗殺した。桜田十八士の一人。家紋は揚羽蝶紋。


中世に興起した常陸国芹沢村の豪族、芹沢氏から発祥した水戸藩上席郷士、芹沢家の当主貞幹の三男として生まれた。江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加。新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長。暗殺される。


茨城県東茨城郡茨城町出身。川崎家は水戸藩第二藩主徳川光圀の時代にとりたてられる。幕末に水戸藩の鋳銭事業に着手、家業である廻船事業をはじめ事業を拡大し東京川崎財閥の前身・川崎組、川崎銀行の創始者となる。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


備中国出身。松山藩士・谷三治郎供行の二男。兄は谷三十郎、弟は谷周平。三兄弟とも新選組隊士。池田屋事件では土方歳三隊に属し活躍。兄・三十郎の死後には新選組を離脱した。維新後は、大坂で町道場を経営した。家紋は上下向い蝶紋。


周防国玖珂郡出身。医師・野村信高右の四男。本名は野村三千三。読みは、やましろやわすけ。奇兵隊に入隊し山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦。長州人脈を活かして兵部省御用商人となるが汚職が発覚し自殺。野村家の家紋は浮線蝶紋。


肥後国人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し藩内における信望もあった。明治維新後は侯爵に叙任、従一位・勲一等・麝香間祗候。家紋は池田向い蝶紋。画像は谷中霊園の長男・池田政保の墓で撮影。


薩摩国出身。17歳の時長崎に出て貿易に従事、藩命によって金・米を扱った。神戸川崎財閥の創業者。川崎造船所(川崎重工の前身)、神戸川崎銀行を設立。後継者として、松方正義の三男・松方幸次郎を選ぶ。家紋の浮線蝶紋は、肖像写真より判断。


スイスのチューリッヒに生まれ、フランスのパリでコックの修業を積み、上海を経て1869年頃に来日。築地精養軒の料理顧問となる。日本におけるフランスパンの開祖として今に語り伝えられる。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園内の外人墓地にて撮影。


越後国出身。入沢健蔵の次男として生まれ、当時幕府付の医員であった池田多仲の養子となり、適塾へ入学。医学校と東京開成学校の統合により設立された東京大学の初代医学部綜理に就任。家紋は備前蝶紋。画像は谷中霊園にて撮影。


姫路藩出身。父は士・武井領八。幕末には勤王派として国事に奔走し捕らえらるが維新後出獄し新政府に出仕。鳥取県知事、石川県知事、貴族院勅選議員を歴任。実業界に転じ帝国海上保険などを創立。家紋は花形蝶紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


薩摩藩出身。藩の留学生として英米に留学。帰国後、大蔵省に出仕して租税権頭・大蔵少輔を歴任。外務大輔に任命され、井上馨外務卿の元で条約改正にあたる。「吉田清成文書」は有名。家紋は丸に浮線蝶紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


京都柳馬場御池北入町で生まれる。川越藩近江領5000石余の代官、高岡家の3男。明治期の日本を代表する七宝家の一人で、京都を中心に活躍。七宝のデザインには、自家の家紋の蝶(形状は不明)がよく使われたという。画像は七宝に描かれた蝶。


紀州藩出身。同藩士・外松孫左衛門の養子となる。読みは、とまつまごたろう。陸軍省・経理局長兼会計監督長、主計監を歴任。日露戦争には大本営野戦経理長官として出征。予備役後、男爵に叙される。家紋の丸に揚羽蝶紋は、「華族家系大成」による。


江戸に出生。読みは、こまつせいじ。旧名馬島済治。幕末期に、会津藩によってドイツ留学をする。明治維新後は紀州藩藩士を経て岩倉使節団随員、司法省民事局長、参事官、横浜地方裁判所長等を歴任した。家紋は浮線蝶紋。谷中霊園の墓所にて撮影。


江戸神田の御用金物屋・青木常次郎の子。本名は青木治三郎。太神楽・曲芸の一座と共に欧州巡業に出る。獅子の曲、独楽の曲など日本手品を得意とし、とりわけ和紙の切れを扇であおいで蝶の飛ぶさまに見せる芸は見事であった。家紋は備前蝶紋。


山形県米沢出身。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。大逆事件が発生した際は内相として犯人検挙を指揮。山縣有朋の側近として貴族院および宮中における重鎮として元老に次ぐ影響力を保ち続ける。護国寺の墓所も山縣有朋の墓の近くにある。


旧士族・談川安兵衛の養女。幕末に長崎を拠点として活躍した英国商人トーマス・ブレーク・グラバーの妻。倉場富三郎の母親。プッチーニのオペラ、『蝶々夫人』の蝶々さんのモデルとされる。家紋は蝶紋と言われている。


長州国出身。西南戦争には小松宮彰仁親王の新撰旅団の大隊長、日露戦争では、歩兵第10旅団長として出征し旅順攻囲戦や奉天会戦などを戦う。最終階級は陸軍中将。家紋の上下向い蝶紋は、「華族家系大成」による。


日向国飫肥藩に下級武士の子として生まれる。大学南校(東京大学の前身)入学。ハーバード大学へ留学。第1次桂内閣の外務大臣に就任。日英同盟を積極的に主張。日露戦争における戦時外交を担当し、ポーツマス条約の全権委任大使となる。


越後長岡藩士・河井資信の長男として生まれる。河井継之助は親戚筋。徳島慶應義塾の二代目校長となる。後に英学の教師をし、自由民権運動に携わる。『通俗進化論』、翻訳書『経世危言』を刊行。家紋は丸に揚羽蝶紋。墓所のある禅林寺にて撮影。


相模国津久井県出身。議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」と呼ばれる。家紋は鬼蔦と五つ蝶紋。青山霊園の義父の尾崎三良の墓所にて撮影。


土佐国出身。読みは、かたおかなおはる。加藤高明内閣にて、商工大臣として初入閣。若槻内閣で大蔵大臣を務めた際、その失言により、内閣が総辞職に追い込まれた。実業家としては日本生命社長を務めた。家紋は片岡兄弟顕彰碑写真より揚羽蝶紋と判断。


岡山出身。海軍大軍医、軍医校教官、海軍軍医総監、海軍軍医総監等を歴任。フランスのパスツール研究所に日本人第一号として留学し「免疫」という訳語はじめて使用した。最終階級は海軍軍医中将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


肥前佐賀出身。最初、佐野常民に師事、竜地会事務職に就く。高崎正風に師事し、和歌を学ぶ。宮内省御歌所勤務。御歌所寄人を務める。明治天皇御製編纂に従事し、後に長く歌会始点者も務める。家紋は浮線蝶紋。画像は青山霊園にて撮影。


江戸淺草出身。幕臣・山路一郎の子。徳富蘇峰の知遇をえ國民新聞記者として政治および史論に筆をとる。日露戦争勃発と同時に『日露戦争實記』を発刊し草木皆兵を論じ愛国心を鼓舞した。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


静岡県出身。法学科第一期生として慶應に入学。慶應義塾大学新設にあたり法学部教授兼法学部長に就任し慶應義塾学事顧問を務めた。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


岡山県津山市出身。日本の官僚で第35代内閣総理大臣。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、A級戦犯で訴追され終身刑の判決を受けた。衆議院議員・平沼赳夫は平沼騏一郎の兄・平沼淑郎の曾孫。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


東京高輪に生まれて麹町に育つ。英公使館に勤めていた元徳川家御家人、岡本敬之助の長男。本名は岡本敬二。24年間、東京日日新聞の記者として過ごす。代表作は岡っ引捕り物小説の『半七捕物帳』。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


京都府生まれ。東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授および同学長を兼任した。胃腸手術の権威として知られる。狙撃された浜口雄幸の治療をしたことでも有名。また老人学の草分けでもある。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


徳島県麻植郡鴨島村出身。本名は武智故平。壮士芝居を経て、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名乗る映画『ノンキナトウサン』シリーズが大当たり。トウサン役は五九郎の当たり役となる。家紋は揚羽蝶紋。


東京府出身。読みは、こまつじゅうし。西郷従道の六男。明治維新の功労者・小松帯刀の子・重春の養子として継爵し伯爵となる。小松家の嫡流の家紋は抱き梶の葉紋であるが、従志の家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


宮城県仙台区出身。父は裁判官の今村虎尾。最終階級は陸軍大将。占領地での軍政統治能力は名将との評価を受ける。水木しげるは「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評した。家紋は浮線蝶紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。


新潟県高田市出身。読みは、みつもちきよし。早稲田大学文学部を出た後、中央新聞に入社し短編小説を数編、書く。葛西善蔵、相馬御風、広津和郎らとともに同人誌「奇蹟」に関わる。H・G・ウェルズの『宇宙戦争』を翻訳した。家紋は揚羽蝶紋。


山形県米沢市出身。旧米沢藩士南雲周蔵の次男。真珠湾にあるアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の母港を奇襲攻撃、開戦劈頭の勝利を飾るがミッドウェー海戦では大敗を喫する。最終階級は海軍大将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は鎌倉・円覚寺にて撮影。


本名は、安原大二郎。亭号を昇龍斎として、昇龍斎貞丈と名乗った。5代目・一龍斎貞丈の師匠にあたる。講釈は、日本の伝統芸能のひとつで、高座におかれた釈台と呼ばれる小さな机の前に座り、軍記物や政談を読み上げる。家紋は丸に揚羽蝶紋。


長野市宇木出身。本名は義臣。栗島すみ子の夫。松竹蒲田撮影所にはいり、11年の「生(な)さぬ仲」で初監督をする。代表作は「船頭小唄」「いろはにほへど」「不如帰」「真珠夫人」。家紋は丸に揚羽蝶。画像は池上本門寺にて撮影。


鳥取県日野郡福成村出身。「源氏物語」研究の権威で文献学の知見を日本古典文学研究に導入。「源氏物語大成」全8巻を刊行、異本を比較して古典の原型を明らかにする文献批判学研究を行う。紫式部学会の創設する。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


愛知県知多郡横須賀町出身。トヨタ自動車系ディーラーの礎を一代で築き上げ、その豪腕から「販売の神様」と称される。「一にユーザー、二にディーラー、三にメーカーの利益を考えよ」との名言を残す。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。


岩手県新里村出身。本名は、鳥取貫一。読みは、とっとりしゅんよう。関東大震災後、活動拠点を大阪に移し、歌手兼作曲家として活躍した。代表曲は『籠の鳥』『船頭小唄』。家紋の丸に揚羽蝶紋は、宮古市新里生涯学習センター「玄翁館」にて教えていただく。


東京・日本橋出身。一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫。フランス・パリで豪奢な住居を構え、社交界にその名を轟かす。画家の藤田嗣治等の日本人芸術家のパトロンとなる。家紋の丸に揚羽蝶紋は徳島市・敬台院の墓所写真より推測。


東京市浅草区向柳原町に、義太夫の八代目竹本都太夫の長男として出生。古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒。芸人の好き嫌いが激しかった。『巷談本牧亭』で直木賞受賞。小林信彦、高田文夫等に影響を残す。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


広島県出身。幼少時から病弱であったが、不動産管理業などで成功。私財5億円を基金に昭和59年東京に井上科学振興財団を設立。没後、財団は遺産約30億円の寄贈をうけ、自然科学の基礎的研究を助成。家紋は揚羽蝶紋。井上科学振興財団のHPにて確認。


東京市京橋区銀座に生まれ、小伝馬町に育つ。本名は大谷正太郎。戦後日本の特殊状況を鋭く批評するキャラクターを構築したゲテモノ芸人。リズムに乗りソロバンをかき鳴らす珍芸が売。妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。


高知県高知市生まれ。『連』で婦人公論女流新人賞を受賞。『櫂』が太宰治賞を受賞。作品のテーマは一貫して女性である。代表作は『櫂』『鬼龍院花子の生涯』『宮尾本 平家物語』『天璋院篤姫』『義経』など。家紋の揚羽蝶紋は宮尾家の家紋。


東京都新宿区出身。本名は色川武大。色川名義の作品も多かった。代表作は「怪しい来客簿」「離婚」(直木賞受賞作品)「狂人日記」「麻雀放浪記」「次郎長放浪記」。雀聖と呼ばれた。家紋は中陰対い蔦蝶。画像は谷中墓地にて撮影。


東京府出身。初名・中村錦之助。父は吉右衛門。本名は小川錦一。昭和時代劇を代表する大スター。代表出演作は『宮本武蔵』『風雲児 織田信長』『子連れ狼』『破れ奉行』等。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。小川家の家紋は五三桐紋。


千葉県出身。本名は大島明子。旧姓・臼井。夫は映画監督の大島渚。代表出演作は『絞死刑』『世なおし奉行』など。1969年には『少年』で毎日映画コンクールの助演女優賞を受賞した。家紋の揚羽蝶紋は大島渚の葬儀時の紋付にて判断。


広島県広島市出身。プロ野球時代には、安打製造機の異名を取り、日本プロ野球で3000安打を記録している唯一の選手。引退後は、プロ野球解説者として活躍。画像は夫人の墓(張本家の墓)にて撮影。家紋の揚羽蝶は”張”の読みから使用か?


藤間久信→波野久信→波野辰次郎と改名。歌舞伎では『勧進帳』『義経千本桜』の武蔵坊弁慶が当たり役。また、テレビドラマでは池波正太郎原作『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵役で有名。画像の揚羽蝶は青山霊園・初代の墓所にて撮影。


埼玉県川口市出身。『あこがれ』で歌手デビュー。一億人の妹というキャッチフレーズで、多くのヒット曲を生み出した。代表出演作は『コメットさん』。家紋の丸に揚羽蝶紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


神奈川県足柄下郡湯河原町出身。本名は船越栄一郎。父は俳優の船越英二、母は長谷川裕見子。大叔父は長谷川一夫。2時間ドラマへの出演が顕著で、「2時間ドラマの帝王」等の異名を持つ。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は父・船越英二の墓所にて撮影。


東京都出身。本名は筒井 純一。フジテレビのオーディション番組『君こそスターだ!』で合格。出演テレビドラマに『あばれ八州御用旅』『暴れん坊将軍VI』『長七郎江戸日記』『闇を斬る!大江戸犯科帳』などがある。家紋の丸に揚羽蝶紋は、自身のブログにて告白。


歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「レッドクリフ」など。萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。 小川家の家紋は五三桐紋。
有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね
































































木瓜紋 -この紋はキュウリ?鳥の巣?女陰?- 沖田総司、樋口一葉、森喜朗...
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