桜紋 -どこかに死の匂いを感じさせる花- 原敬、吉田茂、与謝野晶子...


元々、「桜」は、どこかに死の匂いを感じさせる花であった。

例えば...

古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であった。
源氏物語では桜は凶兆の花であった。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であった。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であった。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であった。

そのため、桜紋は、その人気とは裏腹に広まらなかった。
全国全ての地域において、ベスト30に入っていないのだ。

しかし、一方、桜は、江戸中期から出始めた国文学者によって、徐々に日本の象徴として祀り上げられる様になる。
例えば、本居宣長はこんな歌を詠んでいるのだ。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

そして、明治時代からは、上記の国学的イデオロギーを引き継いで、様々な国家主義的組織の紋章として採用されていくのである。
現代でもその紋が生きているのは、例えば、学習院(左上)、大相撲(右上)、軍(左下)、靖国神社(右下)などの組織だ。

これらの紋は、桜の中でも山桜を入れ込んだ紋である。

有名人で桜紋を使用しているのは以下。


細川忠興 。1563年11月28日 – 1646年1月18日、 武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔。家紋の細川九曜は星が離れているのが特徴。


花柳壽輔(初代) 。1821年2月19日 – 1903年1月28日、 日本舞踊家。
江戸の玩具商・三国屋清兵衛の長男。読みは、はなやぎじゅすけ。日本舞踊界において最大の流派である花柳流の創始者。江戸期から明治初期にかけて『勧進帳』『船弁慶』などの舞台の振付を行う。家紋は花柳桜。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


井上馨 。1836年1月16日 – 1915年9月1日、 政治家、実業家。
長州藩士・井上五郎三郎光享の次男。本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む安芸国人。外務卿、参議、農商務大臣、内務大臣を歴任。元々の家紋は割剣酢漿草菱だが、青山・長谷寺の墓所には桜菱紋(画像)が彫られている。


山縣有朋 。1838年6月14日 – 1922年2月1日、 政治家、陸軍軍人。
萩城下近郊の阿武郡出身。長州藩の中間・山縣有稔の長男。奇兵隊に入って頭角を現し新政府では日本陸軍の基礎を築き国軍の父と称される。内閣総理大臣(第3、9代)。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に大和桜紋と三つ鱗紋。画像は護国寺にて撮影。


甲賀源吾 。1839年2月16日 – 1869年5月6日、 幕臣。
江戸出身。遠江国掛川藩家臣、甲賀孫太夫秀孝の第4子。幕府の軍艦操練所で学び、軍艦頭並となる。江戸開城に際し、榎本武揚にしたがい箱館へ脱出。回天艦長として新政府の軍艦と交戦中に戦死。家紋の山桜紋は光源寺の墓所写真にて確認。


桜井勉 。1843年10月6日 – 1931年10月12日、 行政官。
出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石町伊木に出生。内務省地理局長時代には全国の気象測候所の創設を働きかけ、気象観測網の基礎を築いた。山梨県知事、台湾新竹知事、内務省神社局長を歴任。家紋は大和桜紋。画像は谷中霊園にて撮影。


原敬 。1856年3月15日 – 1921年11月4日、 政治家。
盛岡藩出身。盛岡藩士原直治の次男。分家として独立する際に平民となる。その際、家紋も三つ割桜とする。政界に進出し大正7年に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われた。画像は盛岡・大慈寺の墓所にて撮影。


櫻井錠二 。1858年9月24日 – 1939年1月28日、 化学者。
加賀国出身。読みは、さくらい じょうじ。東京化学会(日本化学会の前身)の運営、理化学研究所、日本学術振興会の設立を行う。応用化学よりも理論化学を重視した。死に際して勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。家紋の丸に桜紋は雑司が谷霊園にて撮影。


吉田茂 。1878年9月22日 – 1967年10月20日、 官僚、政治家。
東京神田駿河台出身。高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の五男。5度にわたって内閣総理大臣に任命された。サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約を締結するなど、戦後日本を創る。画像は青山霊園の墓所(現在は他所へ移転)にて撮影。


与謝野晶子 。1878年12月7日 – 1942年5月29日、 歌人、作家。
大阪府堺市甲斐町で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む鳳宗七の三女。日露戦争の時に歌った『君 死にたまふことなかれ』は有名。代表作品は、『みだれ髪』『全訳源氏物語』。夫は与謝野鉄幹。元財務相・与謝野馨は孫。画像は多磨霊園にて撮影。


滋野清武 。1882年10月6日 – 1924年10月13日、 飛行家。
愛知県出身。男爵・滋野清彦の三男。通称はバロン滋野。第一次世界大戦の開戦時にフランス陸軍航空隊に志願して陸軍飛行大尉に任命され、受勲する。学生時代、志賀直哉に殴られたという逸話がある。家紋は六つ細川桜紋。画像は谷中霊園にて撮影。


三輪寿壮 。1894年12月15日 – 1956年11月14日、 法律家、政治家。
福岡県糟屋郡古賀村に生まれる。読みは、みわじゅそう。戦前は、労働争議や小作争議で闘う。衆議院議員に初当選後、ゾルゲ事件で尾崎秀実の官選弁護人を務める。戦後は左右社会党の統一を成し遂げる。家紋は丸に剣桜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


宇都宮徳馬 。1906年9月24日 – 2000年7月1日、 政治家、実業家。
東京府出身。陸軍大将・宇都宮太郎の長男。読みは、うつのみやとくま。平和共存外交、日ソ国交回復や日中・日朝の国交回復を主張するなど自民党左派として活躍。家紋は左三つ巴紋と丸に雀口桜紋。画像は麻布・賢崇寺の父・宇都宮太郎の墓にて。


埴谷雄高 。1909年12月19日 – 1997年2月19日、 作家、評論家。
台湾の新竹に生まれる。本名は、般若豊。代表作は思弁的な大長篇小説『死靈(しれい)』。世界文学史上未曾有の形而上小説であったが未完に終わる。晩年は吉本隆明とコム・デ・ギャルソン論争で対決。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


吉永小百合 。1945年3月13日 – 、 女優。
東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身。本名は岡田小百合。浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。代表出演作『キューポラのある街』『愛と死をみつめて』『母べえ』等。家紋は雪輪に山桜紋という(伝説)。


水野誠一 。1946年7月8日 – 、 実業家、政治家。
東京都出身。読みは、みずのせいいち。妻は、木内みどり。父親は、フジテレビ社長の水野成夫。株式会社西武百貨店社長、参議院議員、新党さきがけ政策調査会長などを歴任。家紋は丸に三つ葉桜紋。画像は春秋苑の父・水野成夫の墓所にて撮影。


有村治子 。1970年9月21日 – 、 政治家。
石川県出身。読みは、ありむらはるこ。自民党所属の参議院議員。第2次安倍内閣で内閣府特命担当大臣に任命された。高祖父の有村國彦は幕末の志士・海江田信義有村次左衛門の末弟。家紋の雀口桜杏葉は青山霊園の有村家の墓所にて撮影。


里山浩作 。1981年5月31日 – 、 大相撲力士
鹿児島県大島郡笠利町(現在の奄美市)出身。本名は同じ。日本大学へ進学し相撲部に所属。尾上部屋(入門時は三保ヶ関部屋)所属。夫人も同様に相撲経験者であり日大相撲部出身者である上、アジア女子選手権優勝の実績も残している。家紋は丸に桜紋。


狩野英孝 。1982年2月22日 – 、 お笑いタレント。
宮城県栗原市栗駒出身。実家は約1500年続いているといわれる櫻田山神社。神紋は桜。「ホストネタ」をメインの芸とするがイジられキャラでもある。「ラーメン、ツケメン、ぼくイケメン」「スタッフゥ~」等のギャグを持っている。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

梶紋 -永遠の敗者として奉られた軍神の紋- 小松帯刀、加山雄三、安倍晋三...


梶紋は、諏訪大社の神紋と知られている。

ご存知の通り、諏訪大社は、建御名方神(たけみなかたのかみ)を奉ってる。
この建御名方神は天孫降臨の際に、大国主神(おおくにぬしのかみ) の子として、建御雷神(たけみかづちのかみ)と戦うが、敗れ、諏訪の地に逃れ、奉られたという。
実は、建御名方神が奉られてある諏訪大社は、ちょうど、ライバル、建御雷神が奉られてある鹿島神宮の真西にある。
建御雷神は、建御名方神に対する優位を永遠のものにしようとしたのだ。
東と西、大相撲でも東の方が西よりも格上とされる伝統はここから来ている。

しかし、不思議なのは、むしろ多くの武士にとって人気を博したのはこの敗れた神(建御名方神)だったということだ。
梶紋は、この建御名方神を軍神として崇めた武士たちの発展とともに広まったのである。

全体としては、30位に入っていないが、諏訪大社のお膝元の長野県(15位)、山梨県(8位)。群馬県、愛知県、東京都、岐阜県、徳島県、鹿児島県では30位に入っている。

梶紋を持つ有名人は以下。


諏訪頼重 。1516年 – 1542年8月31日、 信濃国の戦国大名。
諏訪頼満の嫡孫・諏訪頼隆の子。上原城城主。武田信玄によって上原城を攻められ降伏。弟の頼高と共に武田氏の本拠・甲府に連行され東光寺に幽閉された後に自刃。2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」では小日向文世(画像)が演じた。家紋は梶の葉紋。


安島帯刀 。1811年 – 1859年9月23日、 政治家。
三河譜代の名門、戸田氏の嫡流・戸田松平家の分家の出自。幕府内の海防掛に徳川斉昭、戸田忠太夫、藤田東湖らと共に参与。また水戸藩で日本発の軍艦 旭日丸の建造に参与するなどして日本の海防に功績を残す。回天神社祭神。家紋は丸に立ち梶の葉。


松浦武四郎 。1818年3月12日 – 1888年2月10日、 探検家。
伊勢国一志郡須川村の郷士松浦桂介の四男。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。1844年に蝦夷地探検に出発。その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。北海道という名前を考案した。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


手塚律蔵 。1822年7月25日 – 1878年11月29日、 蘭・英学者。
防州小周防村生まれ。父は医師の手塚治孝、母は瀬脇氏。墓所には後に改名した瀬脇寿人の名前が見える。英語の重要性を早くから認識。桂小五郎にも英語を教えた。門人から西周津田仙など優れた英学者を輩出。家紋は立ち梶の葉紋。青山霊園にて撮影。


小松帯刀 。1835年12月3日 – 1870年8月16日、 幕末の薩摩藩士。
薩摩国出身。島津久光に重用され西郷大久保などの下級藩士と藩主とを繋ぐ役として重要なポジションをこなした。帯刀の紋は一般的には抱き鬼菊の葉とも言われているが小松家は禰寝氏の流れのため梶紋の流れを汲む抱き鬼梶の葉とみなす。


鶴田皓 。1836年2月12日 – 1888年4月15日、 法制官僚。
佐賀藩多久邑出身。父は多久家家臣。読みは、つるたあきら。江木鰐水に学ぶ。江藤新平に命じられ司法省調査団として井上毅らと渡仏。陸軍刑法、海軍刑法、旧商法、他を起草。元老院議官。家紋は平戸梶紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


鮫島尚信 。1845年4月4日 – 1880年12月4日、 外交官。
薩摩国鹿児島城下山之口馬場町の薩摩藩藩医、鮫島淳愿の子として生まれる。薩摩藩の留学生としてロンドンで学ぶ。「外国交法案内」を著す。仏特命全権公使時代に、条約改正に尽力。家紋は丸に立ち梶の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


鮫島員規 。1845年6月14日 – 1910年10月14日、 海軍軍人。
薩摩国出身。藩士の長男。読みは、さめしまかずのり。日清戦争時には常備艦隊兼連合艦隊参謀長として黄海海戦に参加。最終階級は海軍大将。養嗣子鮫島具重は岩倉具視の孫。家紋の七つ葉梶紋は「華族家系大成」による。


ジョルジュ・ブスケ 。1846年3月3日 – 1937年1月15日、 法学者。
フランス・パリ出身。日本で初めての御雇い外国人として、当初民法草案の策定に関わった。後に、司法省法学校で法学教育を行う。また、日本での見聞をまとめた『今日の日本』を出版した。家紋は梶の丸に地紙紋。画像は青山霊園の外国人墓地にて撮影。


山本権兵衛 。1852年11月26日 – 1933年12月8日、 政治家。
薩摩国鹿児島郡出身。日本海軍のオーナーと言われた。また内閣総理大臣時代には軍部大臣現役武官制を廃止した。最終階級は海軍大将財部彪山路一善上村従義松方乙彦の岳父。家紋は抱き鬼梶の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


有賀長雄 。1860年11月13日 – 1921年5月17日、 社会学者。
大坂出身。家は国学者の家系。陸軍大学校、東京帝国大学、早稲田大学などで憲法、国際法を講じる。日清戦争、日露戦争には法律顧問として従軍。著書『社会学』は日本初の体系的な社会学的著作。家紋は鬼梶の葉に二本筆紋。青山霊園の墓所にて撮影。


横河民輔 。1864年10月28日 – 1945年6月25日、 実業家。
兵庫県明石市出身。医師の息子。建築家としては帝国劇場、三越日本橋本店等を設計。実業家としては計測・制御機器メーカーの電気計器研究所(現横河電機)を創業した。墓所の家紋の梶の葉は、葉が七枚の変わり紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


小坂梅吉 。1873年11月8日 – 1944年12月2日、 実業家、政治家。
信州・伊那出身。上京し上野輪王寺の御用商人となる。銀座に小松食堂を開業。 日比谷公園の内の松本楼を入手。孫文の支援者で日活の創業者・梅屋庄吉とは姻戚関係。衆議院議員、貴族院議員を務める。家紋は丸に梶の葉紋。画像は谷中霊園にて撮影。


杉浦非水 。1876年5月15日 – 1965年8月18日、 意匠家。
愛媛県松山市出身。読みは、すぎうらひすい。本名は、杉浦朝武。アール・ヌーボー的な雑誌の表紙を発表し話題を集める。代表的デザインは『みつこしタイムス』の表紙、タバコ『響』のパッケージデザイン等。家紋の丸に三つ割り梶の葉紋は松秀寺にて撮影。


安倍能成 。1883年12月23日 – 1966年6月7日、 教育者。
愛媛県出身。読みは、あべよししげ。松山城下の小唐人町に生まれる。妻は藤村操の妹。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、学習院院長を歴任。家紋の丸に立ち梶紋は安倍家(晋太郎、晋三)と同じという。


有賀幸作 。1897年8月21日 – 1945年4月7日、 海軍軍人。
長野県上伊那郡朝日村出身。読みは、あるがこうさく。戦艦大和最後の艦長として有名。坊ノ岬沖海戦にて米海軍空母艦載機386機の攻撃を受け、「大和」は沈没。有賀も沈没した大和と運命を共にした。戦死後、海軍中将に昇格。家紋は梶の葉紋。


白井勇 。1898年6月19日 – 1984年4月12日、 政治家。
山形県鶴岡市出身。東京帝大出身。農林省に入省後、米穀局で食程政策を担当。終戦とともに食糧庁の検査課長として食糧行政機構と農産物検査制度の確立に尽力。後に参議院議員を4期務め大蔵政務次官、逓信委員長等を歴任。画像は多磨霊園にて撮影。


杉狂児 。1903年7月8日 – 1975年9月1日、 俳優。
福岡県福岡市地行東町出身。本名は、杉禎輔。戦前はマキノ・プロダクション、河合映画、日活などに出演し、歌手として「うちの女房にゃ髭がある」など映画の主題歌も歌っている。家紋は立ち梶の葉紋。家紋画像は、世田谷区北烏山・妙寿寺にて撮影。


新田潤 。1904年9月18日 – 1978年5月14日、 小説家。
長野県上田市出身。本名は半田祐一。高見順らと『人民文庫』を創刊、プロレタリア作家として活動。戦後は風俗小説も書いた。代表作は『片意地な街』『太陽のある附近』『禁断の果実』『色事師と女』等。家紋は梶紋。画像は谷中・瑞松院にて撮影。


諏訪望 。1912年7月20日 – 1999年10月6日、 精神科医。
信濃国の医家の家系。読みは、すわのぞむ。キリスト者として深い信仰に生きた。著書は『急がずに休まずに ―精神医学とキリスト教 』 『最新精神医学』『精神科臨床の基本』『精神医学とともに60年』。家紋は丸に梶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


瀬戸内寂聴 。1922年5月15日 -、 小説家。
徳島県徳島市塀裏町出身。仏壇店を営む三谷家に出生。読みは、せとうちじゃくちょう。代表作は『夏の終り』『花に問え』『場所』等多数。谷崎潤一郎賞、芸術選奨文部大臣賞等多数の文学賞を受賞。瀬戸内家の家紋は丸に鬼梶の葉紋。徳島県立文学書道館からの情報。


神彰 。1922年6月27日 – 1998年5月28日、 興行師。
北海道函館市出身。後復興期にドン・コサック合唱団、ボリショイ・バレエ団、ボリショイサーカなどを招聘した。1962年に作家有吉佐和子と電撃結婚するも、2年後の1964年に離婚。家紋は丸に立ち梶の葉紋。墓所は函館・立待岬にある。


瀬川昌治 。1925年10月26日 -、 映画監督、脚本家。
東京市神田区神保町の官吏の家に出生。『ぽんこつ』で監督デビュー。1960年代に数多くの喜劇シリーズを監督。代表監督作は『図々しい奴』『乾杯!ごきげん野郎』等。また、テレビドラマ『赤いシリーズ』『スチュワーデス物語』等の脚本も手がける。


里見浩太朗 。1936年11月28日 – 、 俳優、歌手。
静岡県富士宮市出身。本名は佐野邦俊。芸歴が半世紀を越える時代劇俳優。代表出演作は『大江戸捜査網』『闇を斬る!大江戸犯科帳』『松平右近事件帳』『水戸黄門』等。また、演歌歌手としても多数リリースしている。家紋は立ち梶の葉紋。


加山雄三 。1937年4月11日 – 、 俳優、歌手。
神奈川県横浜市出身。祖父は鹿児島出身の陸軍大佐。父親は俳優の上原謙。母は女優の小桜葉子(岩倉具視のひ孫)。代表出演作は『若大将シリーズ』。『君といつまでも』『サライ』の作曲者としても有名。画像は多磨霊園にある父親・上原謙の墓所より。


米長邦雄 。1943年6月10日 – 2012年12月18日、 将棋棋士。
山梨県南巨摩郡増穂町出身。タイトル獲得数19期は歴代5位。永世棋聖の称号を保持。紫綬褒章受章。3人の兄達は頭が悪いから東大へ行き、自分は頭が良いから将棋指しになったという言葉は有名。家紋の丸に立ち梶の葉紋は蓮華寺にて撮影。


ねじめ正一 。1948年6月16日 – 、 詩人、小説家。
東京都杉並区出身。本名は、禰寝正一。父は俳人のねじめ正也(高円寺北口商店街の乾物屋)。代表作は、『高円寺純情商店街』『荒地の恋』など。熱狂的な長嶋茂雄、巨人ファンとしても有名。家紋は薩摩国禰寝氏の末裔ということで、梶紋と判断。


中沢新一 。1950年5月28日 – 、 宗教学者、文化人類学者。
山梨県山梨市出身、歴史学者の網野善彦は叔父。東京大学大学院人文科学研究科へ入学後、ネパールでチベット仏教の修行を行い帰国後現代思想研究の成果を駆使して著作活動を開始。代表作は『チベットのモーツァルト』『悪党的思考』『哲学の東北』。


安倍晋三 。1954年9月21日 – 、 政治家。
東京都出身。安倍家は山口県長門市の豪家。父親の晋太郎も有力政治家であったが志半ばで亡くなる。第90代、第96代内閣総理大臣。「戦後レジュームからの脱却」を旗印に本格的保守政権を目指す。画像は冨士霊園・安倍家の墓所にて撮影。


下条みつ 。1955年12月29日 – 、 政治家。
長野県松本市出身。祖父・下条康麿は文部大臣、父・下条進一郎は厚生大臣を務めた。また母方の祖父は、経団連初代会長・石川一郎。衆議院議員(3期)。羽田グループに所属。家紋は松皮菱に梶紋。画像は染井霊園の下条康麿の墓所にて撮影。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

鱗紋 -北条家とモンゴル、その因縁の紋- 正岡子規、川端康成、白鵬...


三つ鱗紋は北条家の紋として知られている。

その昔、北条時宗が家運興隆を祈念して、江ノ島弁才天に参った際に、女房が現れた。
その女房が北条家の家運上昇を予言した後、大蛇になって海中に姿を消した。
そして、その後に残った鱗三枚を持ち帰って北条家の家紋としたというのである。

この三つ鱗は、北条氏が滅びた後も、戦国時代の後北条家も含め家紋として採用した。
今でも、弁財天では波と組み合わせて三つ鱗紋を定紋としている。
写真は、吉祥寺の弁財天の提灯。

さて、この三つ鱗だが、モンゴル出身の横綱・白鵬の紋である。
今から700年前の元寇を迎え撃った北条時宗と同紋というのは、これいかに。

横綱になったことで、日本を制圧したことの印として元寇の復讐を果し、念願の相手の大将の家紋を奪い取ったということなのだろうか。
あるいは、この三つ鱗を身に付けることによって、日本の味方になり、もう一人の横綱・朝青龍を迎え撃つ覚悟の印として三つ鱗を採用したということなのか。

いずれにしても、興味深い。

また、19世紀初末のウィーン分離派の巨匠・クリムトの「幸福への憧れ」にも三つ鱗と同様の文様が見られる。
実際、日本の家紋台帳はヨーロッパに輸出され、アール・デコの芸術家のネタ本になっていたという。
もしかしたら、この絵画に描かれている三つ鱗は、クリムトが、日本美術に影響を受ていたということの証なのかもしれない。

さて、鱗紋の全国分布だが、福岡、大分、大阪、和歌山、三重、神奈川で30位に入っている。
ちょうど、瀬戸内海を通って、太平洋に出て関東までのルートにこの紋が散見されるというのも、面白い。
元々、海上民のシンボルだったのかもしれない。

鱗紋を持つ有名人は以下だ。


北条高時 。1303年 – 1333年7月4日、 武士。
第9代執権北条貞時の三男。鎌倉幕府第14代執権在任中に奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱、正中の変、元弘の変が起きる。新田義貞の鎌倉へ侵攻の際、菩提寺の鎌倉・東勝寺にて自刃。画像はその東慶寺にて撮影した北条鱗紋。


北条早雲 。1432年 – 1519年9月8日、 武将、戦国大名。
室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自。関東一円を支配する戦国大名に成長する北条氏の基礎を築いた。早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。後北条家の家紋は北条鱗(ただし早雲の使用は未確認)。


種子島時堯 。1528年 – 1579年10月21日、 種子島の領主。
種子島氏の第十四代領主。島津氏に属した。種子島に漂着したポルトガル商人から鉄砲を購入。鉄砲を分解させて調べさせ鉄砲製造に成功。種子島銃は、戦国時代に大きな影響を及ぼす。画像は青山霊園の種子島家分家の墓所にて撮影。


平野長泰 。1559年 – 1628年6月8日、 武将。
尾張津島の出身で、若年にて秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」と称えられた。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。徳川秀忠旗下で旗本として仕え、子孫は九代続いて明治まで生き残る。


横井小楠 。1809年9月22日 – 1869年2月15日、 儒学者。
肥後国出身。横井家は桓武平氏北条氏嫡流に発する。松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、幕政改革をする。また、私塾四時軒を開き坂本龍馬井上毅らにも影響を与える。家紋の丸に三つ鱗紋は甥・横井左平太の谷中霊園墓所にて撮影。


島田魁 。1828年2月29日 – 1900年3月20日、 新選組隊長。
美濃国方県郡出身。庄屋近藤伊右衛門の次男。名古屋城内の御前試合で優勝し大垣藩の嶋田才に見初められ養子となり嶋田家を継ぐ。江戸に出て心形刀流を修得。箱館まで戊辰戦争を戦い抜く。西本願寺の夜間警備員として一生を終える。


児島惟謙 。1837年3月7日 – 1908年7月1日、 司法官。
宇和島藩出身。宇和島藩士・金子惟彬の二男。津田三蔵によるロシア皇太子暗殺未遂事件(大津事件)の際には大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き護法の神と評価された。家紋は三つ鱗紋。画像は品川・海晏寺にて撮影。


山縣有朋 。1838年6月14日 – 1922年2月1日、 政治家。
萩城下近郊の阿武郡出身。長州藩の中間・山縣有稔の長男。奇兵隊に入って頭角を現し新政府では日本陸軍の基礎を築き国軍の父と称される。内閣総理大臣(第3、9代)。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に大和桜紋と三つ鱗紋。画像は護国寺にて撮影。


南貞助 。1847年 – 1915年、 英語学者、実業家。
長州藩出身。高杉晋作の義弟。(高杉の父親・小忠太の妹の子で、養子となる。)イギリスに留学。日本で始めて国際結婚(相手は英国人ライザ・ピットマン)をしたことで知られている。家紋は丸に一つ鱗紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


磯野計 。1858年9月 – 1897年12月14日、 実業家。
美作国津山出身。父は津山藩士。読みは、いそのはかる。弁護士から郵便汽船三菱会社社員を経て、横浜で明治屋を創業し、麦酒販売などを行なう。。家紋の子持ち亀甲に三つ鱗紋は青山霊園にて撮影。現在でも明治屋のロゴに三つ鱗が残っている。


横井時敬 。1860年1月29日 – 1927年11月1日、 農学者。
肥後熊本藩士横井久右衛門時教の四男。種籾の塩水選種法を考案。東京農業大学学長として日本最初の私立農学校を大学に昇格させる。「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」という名言を残す。家紋は丸に三つ鱗紋。画像は多磨霊園にて撮影。


入沢達吉 。1865年1月31日 – 1938年11月8日、 医師。
越後国出身。父恭平は藩医。宮内省侍医局勤務後、入沢内科を創始・主宰。日本内科学の確立に貢献。十二指腸虫の感染経路追究などの寄生虫症、レントゲン診断学応用、血色素測定法などの研究をする。家紋は北条鱗紋。画像は谷中霊園にて撮影。


正岡子規 。1867年10月14日 – 1902年9月19日、 俳人・歌人。
伊予国温泉郡出身。松山藩士・正岡常尚の長男。本名は常規。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い日本の近代文学に多大な影響を及ぼす。家紋は丸に鷹の羽紋と丸に三つ鱗紋。画像は子規系図の三つ鱗紋。


川崎卓吉 。1871年3月8日 – 1936年3月27日、 官僚、政治家。
広島県賀茂郡広村に医師の二男として出生。福島県知事、台湾総督府内務局長、殖産局長を歴任。第1回選抜中等学校野球大会の始球式を務めた。政治家としては民政党幹事長、文部大臣、商工大臣を務める。家紋は丸に三つ鱗紋。青山霊園にて撮影。


河東碧梧桐 。1873年2月26日 – 1937年2月1日、 俳人・随筆家。
愛媛県温泉郡千船町にて河東坤の五男として出生。正岡子規に野球を教わる。同級生の高浜虚子を誘い子規より俳句を学ぶ。子規が没すると新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。家紋は丸に三つ鱗紋、副紋は笹竜胆紋。


南俊二 。1882年9月28日 – 1961年12月29日、 実業家。
大阪府出身。製鉄業、砂金鉱業、セメント業に携わった後に、大阪造船所設立。戦後は南氷洋漁業権を確保。億万長者の一人に数えられた。合理的節倹主義の経営方針をつらぬく。日本造船工業常任理事。瓜輪に三つ鱗紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


御船千鶴子 。1886年7月17日 – 1911年1月19日、 超能力者。
熊本県宇土郡松合村にて、漢方医・御船秀益の二女として生まれる。三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見して謝礼2万円を得る。東京帝国大学の福来友吉助教授が「透視」の研究に彼女を使う。家紋は六つ鱗紋。


川端康成 。1899年6月14日 – 1972年4月16日、 小説家。
大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に医師の子として生れる。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『古都』など日本の美を表現した作品を発表。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞。家紋は北条鱗、画像は鎌倉霊園にて撮影。


西竹一 。1902年7月12日 – 1945年3月22日、 陸軍軍人。
東京市麻布区麻布笄町出身。男爵西徳二郎の三男。通称:バロン西。ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。第二次世界大戦に従軍、硫黄島の戦いで戦死。家紋は三つ鱗紋。鱗の背景の草は月桂樹か。画像は青山霊園にて撮影。


横井英樹 。1913年7月1日 – 1998年11月30日、 実業家。
愛知県中島郡の貧しい農家に生まれ東京日本橋の繊維問屋に丁稚奉公。進駐軍出入りの商人となり一財産を築く。白木屋の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出を行う。ホテルニュージャパンの買収で脚光を浴びた。画像は多磨霊園にて撮影。


緒形拳 。1937年7月20日 – 2008年10月5日、 俳優。
東京府東京市牛込区出身。1965年、大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢される。『楢山節考』『火宅の人』で日本アカデミー賞最優秀男優賞受賞。代表出演作品は『鬼畜』『復讐するは我にあり』など多数。家紋の丸に三つ鱗紋は獅子吼霊園にて撮影。


ジャガー横田 。1961年7月25日 – 、 女子プロレスラー。
東京都荒川区出身。本名は、木下利美。初代全日本シングル王者、WWWA世界シングル王座など数々のタイトルを獲得。現在はタレントとしても活躍。愛息・大維志君の七五三時の黒紋付の家紋より、三つ組み合わせ鱗紋と判断。


白鵬翔 。1985年3月11日 – 、 大相撲力士。
モンゴル・ウランバートル市出身。父ジグジドゥ・ムンフバトはモンゴル相撲で6度の優勝。メキシコ五輪のレスリング重量級でも銀メダリストの国民的英雄。第69代横綱。歴代の不知火型・横綱では史上最多の優勝回数を誇る。家紋は丸に三つ鱗紋。


黒川圭介 。1890年頃 – ?、 「風立ちぬ」の登場人物。
宮崎駿の漫画「風立ちぬ」の登場人物。主人公・堀越二郎の上司。仕事に対して厳しい反面、二郎の天才性を高く評価しドイツ留学を推薦した。また、二郎と菜穂子との結婚の仲人を務める。その結婚式の時に使用した提灯、妻の紋付より三つ鱗紋と断定。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

扇紋 -佐竹家を800年以上も守った魔除け紋- 佐竹義宣、福田康夫、タモリ...


昔の貴人は、いつも扇で顔を隠していた。
そして、骨の隙間から外を見ていた。

扇というのは、魔除け用グッズだったのである。
ちなみに、とげ抜き地蔵で有名な巣鴨・高岩寺の寺紋は檜扇紋である。
同時に巣鴨通り商店街の提灯にも檜扇が描かれている。
そのデザインは”おばあちゃんの原宿”を演出しているのだ。
左写真は、高岩寺内で撮影。

一方、鎌倉時代の最初から、大政奉還まで生き延びた大名の佐竹家の家紋は代々扇に月丸紋であった。
「吾妻鏡」には、佐竹四郎が、源頼朝からこの紋を賜ったとの記述がある。
佐竹家を守ってきたのは、その扇の魔力だったのかもしれない。

扇紋は全国では、23位だ。特に突出して多い地域は無いが比較的西日本に多い。京都府、山口県、熊本県で18位が最高、和歌山県(19位)、高知県(20位)といったところが目立つ。佐竹藩のお膝元の秋田県は27位と少ないが、元お膝元の茨城県は21位と比較的多い。

扇紋を使用した有名人は以下。


長野業政 。1491年 – 1561年12月28日、 戦国時代の武将。
長野憲業の子として出生。本姓は在原氏で、祖先は在原業平と称する。官位は伊予守。長野氏は上野西部の豪族で、周囲の国人の取りまとめ役のような立場であった。勢力としては関東管領・山内上杉家に属していた。上野国・箕輪城主。家紋は檜扇。


古田織部 。1544年 – 1615年7月6日、 戦国時代の武将。
茶人の古田重定の子。信長秀吉の家臣だが一般的には茶人として有名。利休七哲の一人。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、茶器製作・建築・造園などにわたって織部好みと呼ばれる一大流行をもたらした。家紋は三つ引両紋と丸に地紙紋。


角倉了以 。1554年 – 1614年8月17日、 豪商。
近江国犬上郡吉田村出身。本姓は吉田氏。佐々木氏の分家。朱印船貿易の開始とともに安南国などとの貿易を行う。幕命により大堰川、富士川、高瀬川、天竜川等の開削を行った。家紋は扇地紙に片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園の別の角倉家墓所にて撮影。


佐治一成 。1569年 – 1634年11月16日、 武将、大名。
尾張佐治氏は、知多半島の大野を中心とする西海岸地域を領する一族。浅井長政の娘・江を妻に迎える。本能寺の変で、織田信長横死後、次男・織田信雄に仕える。家紋は日の丸扇紋。顔画像は大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で一成を演じた平岳大。


佐竹義宣 。1570年8月17日 – 1633年3月5日、 武将、大名。
父・義重の隠居により家督を相続し、佐竹氏十九代当主となる。豊臣秀吉の小田原征伐の際に参陣し所領を安堵された。関ヶ原の戦い時に西軍の立場に立つが、父が東軍についたため出羽・久保田21万石へ減転封されるものの家名存続は許された。


秋田実季 。1576年 – 1660年1月11日、 武将、大名。
安東愛季の長男。読みは、あきたさねすえ。豊臣秀吉より出羽・秋田5万2千石の安堵を認められたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康に常陸・宍戸に転封される。嫡男の俊季の代に陸奥・三春に移され、幕末まで存続した。家紋は檜扇に違い鷲の羽紋。


松平信綱 。1596年12月19日 – 1662年5月4日、 老中。
武蔵国出身。別名・松平伊豆守信綱、知恵伊豆徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として生まれ、松平正綱の養子となる。家光の信を受け武蔵忍藩主、武蔵川越藩主となる。家紋は高崎扇と伊豆蝶紋。画像は菩提寺・平林寺の大河内家墓所にて撮影。


貝賀友信 。1650年 – 1703年3月20日、 侍。
赤穂藩浅野家家臣吉田助兵衛の二男として誕生。本姓は藤原氏。貝賀新兵衛の養子となる。読みは、かいがとものぶ。穂藩では中小姓・蔵奉行。赤穂四十七士の一人。吉良義央邸討ち入りでは弥左衛門は表門隊に属し、門の警戒にあたった。家紋は重ね扇紋。


岡本黄石 。1811年 – 1898年4月12日、 家老。
彦根藩家老・宇津木久純の子。岡本業常の養子。読みは、おかもとこうせき。攘夷を促す建白を行い、藩主・井伊直弼に疎まれるが桜田門外の変の後は藩政を主導。戊辰戦争の際には藩論を新政府軍側にまとめた。家紋は檜扇紋。画像は豪徳寺にて撮影。


高橋多一郎 。1814年 – 1860年4月13日、 水戸藩士。
水戸藩士・高橋諸往の長男。藤田東湖らに学び、尊王攘夷論に傾倒。安政の大獄で水戸藩への弾圧を強める井伊大老を倒すために暗躍。薩摩藩士・有村雄助らと共に井伊大老暗殺を計画し、関鉄之介らと桜田門外の変を起こす。家紋は高崎扇紋。


富岡敬明 。1822年12月20日 – 1909年2月28日、 官僚。
肥前国出身。読みは、とみおかけいめい。山梨県権参事、熊本県知事、貴族院議員などを歴任。西南戦争では、谷干城少将、樺山資紀中佐、児玉源太郎中佐等と54日間の籠城戦を耐え抜いた。家紋の丸に檜扇紋は、「華族家系大成」による。


仁礼景範 。1831年4月6日 – 1900年11月22日、 海軍軍人。
薩摩藩士の子弟。読みは、にれかげのり。総理大臣斎藤実の義父。薩英戦争に参加。横須賀鎮守府長官、海軍大学校長などを歴任。第2次伊藤内閣の海軍大臣に就任し、海軍備の充実に力を注いだ。家紋は筋入り三本骨三つ扇紋。画像は青山霊園の墓所にて。


三遊亭圓朝(初代) 。1839年5月13日 – 1900年8月11日、 落語家。
江戸出身。父は橘屋円太郎。本名は出淵次郎吉。歴代の名人の中でも筆頭に巧いとされる。「芝浜」「文七元結」「牡丹燈籠」等を創作。言文一致体を一代で完成させ現代の日本語の祖といわれる。家紋は高崎扇。画像は全生庵の墓所にて撮影。


鈴木大亮 。1842年6月26日 – 1907年2月1日、 官僚、政治家。
陸奥国遠田郡出身。仙台藩士・鈴木雄三郎の長男。読みは、すずきだいすけ。黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。秋田県知事、石川県知事、逓信次官、鉄道局長、貴族院勅選議員を歴任。家紋の丸に日の丸扇紋は、「華族家系大成」による。


堀基 。1844年7月29日 – 1912年4月8日、 実業家。
薩摩国出身。読みは、ほりもとい。勝海舟の神戸海軍操練所で航海術を会得。北海道炭礦鉄道を設立し、後の北海道炭礦汽船の基礎を築いた。また、後に日本郵船会社理事なども務めた。家紋は三つ扇紋。画像は青山霊園の堀家の墓所にて撮影。


ジョルジュ・ブスケ 。1846年3月3日 – 1937年1月15日、 法学者。
フランス・パリ出身。日本で初めての御雇い外国人として、当初民法草案の策定に関わった。後に、司法省法学校で法学教育を行う。また、日本での見聞をまとめた『今日の日本』を出版した。家紋は梶の丸に地紙紋。画像は青山霊園の外国人墓地にて撮影。


別府晋介 。1847年 – 1877年9月24日、 薩摩藩士。
薩摩国鹿児島郡吉野村出身。桐野利秋は従兄。戊辰戦争では、川村純義指揮の元、勇戦した。外務大丞・花房義質の随員として朝鮮を視察。西南戦争では、篠原国幹・村田新八らとともに薩摩方につき、最後、西郷隆盛を介錯した。家紋は、丸に日の丸扇紋。


渡辺洪基 。1848年1月28日 – 1901年5月24日、 政治家、教育者。
越前国出身。医者の長男。読みは、わたなべひろもと。岩倉具視欧米使節団に随行。東京府知事、東京帝国大学初代総長などを務める。工手学校(工学院大学の前身)を築地に設立。家紋は三つ日の丸雁木扇紋。画像は青山・長谷寺の墓所にて撮影。


浅野総一郎 。1848年4月13日 – 1930年11月9日、 実業家。
越中国氷見郡出身。医師淺野泰順の長男。妻は板垣退助の四女。長女、マツは穂積八束妻。浅野セメントを核として、浅野財閥を一代で創設する。川崎市にある扇町は、家紋の扇紋にちなむ。家紋は半開きの扇紋ということから浅野扇紋と判断。


矢野龍渓 。1851年1月2日 – 1931年6月18日、 官吏、著作家。
豊後・佐伯藩の中級武士の家系。本名は矢野文雄。読みは、やのりゅうけい。大蔵省に入るが、明治十四年の政変で政界を追われる。東京専門学校設立に携わり役員に就任。主著は『経国美談』。家紋は三つ追い雁木扇紋。画像は多磨霊園にて撮影。


北里柴三郎 。1853年1月29日 – 1931年6月13日、 細菌学者。
熊本県阿蘇郡出身。評論家・蔵原惟人は甥。破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。「細菌学の父」として知られる。北里研究所、慶應大学医学部を創設。家紋は檜扇に左三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて。


金子堅太郎 。1853年3月13日 – 1942年5月16日、 官僚・政治家。
福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男。岩倉具視欧米使節団に同行して米国留学。伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に参画。専修大学創立に携わる。日本大学初代校長、二松學舍大学舎長も務める。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


小藤文次郎 。1856年4月8日 – 1935年3月8日、 地球科学者。
石見国津和野出身。読みは、ことうぶんじろう。地質学、鉱物学、火山学、地震学など、幅広く学び、濃尾地震の際に、発生から約2週間後に現地入りして調査を行い、後にその結果から断層地震説を発表。家紋は地紙に文字紋。画像は多磨霊園にて撮影。


橘家圓喬 。1865年12月26日 – 1912年11月22日、 落語家。
東京出身。本名は柴田清五郎。7歳の若さで三遊亭圓朝(初代)門下に入門。「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」を得意とした。後世に大きな影響を与えた名人。「魚売人」「二人癖」など20種類ほどのSPレコードを遺している。家紋は三遊亭と同じ高崎扇紋。


徳富蘆花 。1868年12月8日 – 1927年9月18日、 小説家。
肥後国出身。父は横井小楠門下・徳富一敬。本名は徳富健次郎。読みは、とくとみろか。徳富蘇峰は実兄。小説『不如帰』はベストセラーになった。実家の家紋は隅切り三方に左一つ巴紋だが、蘆花記念館で確認したところ、蘆花の家紋は丸に扇紋。


久原房之助 。1869年7月12日 – 1965年1月29日、 政治家。
山口県萩市出身。鮎川義介は義兄。日立、日産創立の基盤となった日立銅山や久原財閥の総帥として鉱山王の異名を取る。政治家としても逓信大臣、立憲政友会総裁を歴任。二・二六事件にも深く関与したという。家紋は五つ雁木扇紋。肖像画像にて確認。


吉住小三郎(4代) 。1876年12月15日 – 1972年2月27日、 唄方。
東京生まれ。吉住勘四郎の子。長唄の唄方。東京音楽学校長唄選科教授、日本芸術院会員、人間国宝、文化勲章受章、文化功労者。代表作曲「鳥羽の恋塚」「醍醐の花見」「新平家物語」等。家紋は三本並び扇紋。画像は南麻布・西福寺にて撮影。


中野正剛 。1886年2月12日 – 1943年10月27日、 政治家。
福岡県出身。父は旧福岡藩士中野泰次郎。読みは、なかのせいごう。東京日日新聞、朝日新聞で政治評論を行う。政治家になってからは東條首相の独裁に反対。倒閣工作を謀った容疑で憲兵に拘束され自殺。家紋は丸に中陰地紙に橘紋。画像は多磨霊園。


赤塚正助 。1872年9月 – 1942年5月6日、 外交官。
鹿児島県姶良郡蒲生村出身。マニラ領事、外務省通商局第一課長、関東都督府参事官、朝鮮総督府事務官などを歴任。奉天総領事として張作霖との交渉を担当した。駐オーストリア公使に任命され、駐ハンガリー公使も兼ねた。家紋の丸に四つ扇は多磨霊園にて撮影。


富田幸次郎 。1872年11月1日 – 1938年3月23日、 新聞人、政治家。
高知県安芸郡川北村出身。高知新聞を興し、その主筆となる。第10回衆議院議員総選挙に当選。その後、憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党と変移。民政党の総務や幹事長、議院議長となる。家紋の地紙に橘紋は多磨霊園にて撮影。


満谷国四郎 。1874年11月10日 – 1936年7月12日、 洋画家。
備中国賀陽郡門田村出身。1900年に、水彩画「蓮池」をフランスで開かれた大博覧会へ出品して三位になり銅メダルを獲得した。代表作は「車夫の家族」「椅子による裸婦」など。家紋は丸に重ね五本扇紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


曾我廼家五郎 。1877年9月6日 – 1948年11月1日、 喜劇役者。
大阪府堺市か岸和田市出身の二説あり。本名は和田久一。日露戦争をネタにした「無筆の号外」が大当たりした。自らが選んだ脚本を、三十六歌仙にあやかり「36快笑」として天満天神に奉納する。家紋は扇を浮線蝶の擬態に使用した浮線扇紋。


岩井粂三郎(5代) 。1882年6月28日 – 1945年4月13日、 役者。
東京浅草の花川戸に出生。本名は岩井久次郎。父親は四代目岩井粂三郎。屋号は大和屋。当たり役は『伽羅先代萩』の政岡や『嫗山姥』の八重桐。告別式で大名跡・九代目・岩井半四郎が追贈された。谷中・本寿寺の岩井家の墓所の家紋は三つ追い雁木扇紋。


宮原晃一郎 。1882年9月2日 – 1945年6月10日、 文学者、翻訳家。
鹿児島県出身。本名は知久。読みは、みやはらこういちろう。「海の子」を作詞し文部省の懸賞に応募。尋常小学唱歌に登用される。新聞記者を経て翻訳家となる。代表作は「竜宮の犬」など。家紋は丸に三つ扇紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


賀屋興宣 。1889年1月30日 – 1977年4月28日、 政治家。
広島市出身。父は国学者の藤井稜意。母の伯父の賀屋姓を継ぐ。読みは、かやおきのり。戦前は大蔵大臣として軍事費中心の予算を組みA級戦犯に指名されたが、戦後は右派系自民党議員として活躍。家紋は丸に二つ日の丸扇地紙紋。画像は多磨霊園にて撮影。


桜井省三 。1889年6月27日 – 1985年7月7日、 陸軍軍人。
愛知県名古屋市出身。本籍は山口県萩市。太平洋戦争では、、ビルマ攻略戦に従軍。インパール作戦に連動して南ビルマで陽動作戦(第二次アキャブ作戦)を指揮する。最終階級は陸軍中将。家紋の三つ日の丸地紙は多磨霊園にて撮影。


山口多聞 。1892年8月17日 – 1942年6月6日、 海軍軍人。
東京市小石川区出身。旧松江藩士の山口宗義の子。読みは、やまぐちたもん。軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任。太平洋戦争では真珠湾攻撃に参加。ミッドウェー海戦で戦死。最終階級は海軍中将。家紋は檜扇紋。画像は青山霊園にて撮影。


堀内寿郎 。1901年9月17日 – 1979年6月27日、 理学博士。
北海道札幌市出身。読みは、ほりうちじゅろう。科学反応速度理論の研究では世界的な功績を残した触媒研究の世界的な権威。湯川秀樹らと共に第30回恩賜賞を受賞。北海道大学学長も務める。家紋は高崎扇紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


浪越徳治郎 。1905年11月15日 – 2000年9月25日、 指圧師。
香川県仲多度郡多度津町出身。東京市小石川区に指圧学校を設立。マリリン・モンローに素手で触って指圧した唯一の日本人。「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」は得意フレーズ。家紋は丸に五本扇紋。画像は小石川・伝通院の墓所にて撮影。


杉山寧 。1909年10月20日 – 1993年10月20日、 日本画家。
東京府東京市浅草区出身。読みは、すぎやまやすし。結城素明に師事。日本芸術院賞、文化功労者、文化勲章等を受章。長女・瑤子が三島由紀夫と結婚。代表作は、「野(の)」「穹(きゅう)」等。家紋は三つ雁木扇紋。画像は、寛永寺谷中墓地にて撮影。


武藏山武 。1909年12月5日 – 1969年3月15日、 大相撲力士。
神奈川県橘樹郡日吉村の農家に生まれる。本名は横山武。新十両・新入幕・新三役など全てで当時の最年少記録を樹立。最高位は第33代横綱。幕内戦歴は174勝69敗2分71休。幕内最高優勝1回。家紋は丸に雁木檜扇紋。画像は日吉・金蔵寺にて撮影。


新藤兼人 。1912年4月22日 – 2012年5月29日、 映画監督。
広島県佐伯郡出身。本名は新藤兼登、読みはしんどうかねと。妻は乙羽信子。社会派の映画監督の巨匠。代表作品は『裸の島』『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』『午後の遺言状』『一枚のハガキ』等。家紋は浅野扇紋。画像は鎌倉霊園にて撮影。


田中英光 。1913年1月10日 – 1949年11月3日、 作家。
東京市赤坂区出身。ただし両親は高知県の出身。息子は推理小説家、SF小説家の田中光二。太宰治に弟子入り。その自殺に大きな衝撃を受け後に禅林寺の太宰の墓前で自殺する。代表作『酔いどれ船』『愛と憎しみの傷に』。家紋は隅切り角に地紙。


高木彬光 。1920年9月25日 – 1995年9月9日、 推理小説作家。
青森県青森市出身。医者の家系。本名は高木誠一。『能面殺人事件』で第3回探偵作家クラブ賞を受賞。代表作は『人形はなぜ殺される』『成吉思汗の秘密』『白昼の死角』等。家紋は隅切り角に重ね地紙。地紙とは扇に貼る紙。画像は大吉寺にて撮影。


神山繁 。1929年1月16日 -、 俳優。
広島県呉市出身。本名同じ。妻は女優の文野朋子。山王ホテル勤務、進駐軍の通訳などを経て、文学座に演出部研究生として入座。代表出演作品は『八甲田山』『連合艦隊』『沈まぬ太陽』『葵 徳川三代』『落日燃ゆ』など多数。家紋は丸に三つ中陰地紙紋。


寺田ヒロオ 。1931年8月4日 – 1992年9月24日、 漫画家。
新潟県新発田市出身。本名は、寺田博雄。漫画「まんが道」、映画「トキワ荘の青春」などで、伝説的なトキワ荘のリーダーとして描かれている。代表作は『背番号0』『暗闇五段』等。家紋は五本骨日の丸扇紋。画像は茅ヶ崎・浄見寺の墓所にて撮影。


バーブ佐竹 。1935年2月7日 – 2003年12月5日、 歌手。
北海道釧路市出身。本名は佐武豊。『女心の唄』でレコードデビュー。250万枚を超える大ヒットとなり、翌年の第7回日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も『ネオン川』『カクテル小唄』がヒット。家紋は五本扇に月紋。墓所画像にて確認。


松尾和子 。1935年5月17日 – 1992年9月25日 歌手。
東京都大田区出身。「誰よりも君を愛す」(和田弘とマヒナスターズとの共唱)が大ヒットし、スターダムにのし上がり、後にムード歌謡の女王と称される。その後も「お座敷小唄」「再会の朝」等のヒットを飛ばす。家紋の丸に地紙紋は杉並の西照寺にて撮影。


福田康夫 。1936年7月16日 – 、 政治家。
東京府東京市世田谷区に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる。内閣総理大臣(第91代)。『低炭素社会』を目指す「福田ビジョン」を提唱した。 家紋は丸に五本骨扇紋。家紋画像は福田家の菩提寺・徳昌寺(群馬県高崎市)の墓所にて撮影。


尾上菊五郎(7代) 。1942年10月2日 – 、 俳優、歌舞伎役者。
東京都出身。本名は寺島秀幸。屋号は音羽屋。妻は、富司純子。長女は女優の寺島しのぶ、長男は歌舞伎俳優の五代目尾上菊之助。20代の菊之助時代に三之助の一人として人気を博す。家紋は重ね扇に抱き柏紋。画像は雑司が谷霊園の五代目尾上菊五郎の墓所にて撮影。


タモリ 。1945年8月22日 – 、 お笑いタレント、司会者。
福岡県福岡市南区出身。本名は森田一義。株式会社田辺エージェンシー所属。『笑っていいとも!』『ミュージックステーション』『タモリ倶楽部』等でMCを務める。『ブラタモリ』(2016年1月30日放送)にて登場した丸に地紙紋が自身の家紋と同じであることを告白。


三遊亭小遊三 。1947年3月2日 -、 落語家。
山梨県大月市出身。本名は天野幸夫。古典落語専門で、長屋ものを得意としている。1983年(昭和58年)3月 真打昇進・同年10月16日から『笑点』にレギュラー出演を続ける。東京オリンピックの聖火ランナーに抜擢されている。家紋は高崎扇紋。


井上純一 。1958年8月14日 -、 俳優。
東京都世田谷区松原出身。元妻は女優・声優の戸田恵子。『恋人ならば』でソロレコードデビュー。映画『はつ恋』にていきなりの主演も果たす。家紋の三つ扇紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


原田真二 。1958年12月5日 -、 シンガーソングライター。
広島県広島市榎町出身。1977年に吉田拓郎プロデュースにより「てぃーんず ぶるーす」でデビュー。「キャンディ」「シャドー・ボクサー」とヒットを飛ばす。家紋の丸に五本扇紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


長野智子 。1962年12月24日 – 、 アナウンサー。
アメリカ合衆国ニュージャージー州出身。武将・長野業政は先祖。テレビ朝日系『報道ステーション』『ザ・スクープ』『朝まで生テレビ!』等の報道番組、政治番組のキャスターを担当。家紋は丸に房付き五本骨檜扇紋。画像は青山霊園にて撮影。


藤森慎吾 。1983年3月17日 – 、 コメディアン、司会者。
長野県諏訪市出身。愛称は「しんご」。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。中田敦彦と組んだオリエンタルラジオのツッコミ担当。『武勇伝』ネタで有名。「笑っていいとも!」にて家紋は五瓜に檜扇であることを告白。

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