桜(3)源氏にとって凶兆の桜

日本文学に燦然と輝く金字塔「源氏物語」。
ここでも桜は美しく描かれているが、同時に不幸への伏線としても描かれている。

最初は「花宴」の巻。桜見の宴会で酔った源氏は、ライバルの右大臣家の箱入り娘・朧月夜との一夜を過ごしてしまう。そして、結局は、この不義が原因で、後の須磨、明石へ流される事となるのだ。

次は、「若葉上」の巻。桜満開の下で蹴鞠をしていた柏木(太政大臣の子)フトしたアクシデントで源氏の正妻・女三宮を見てしまう。そして、結局は、柏木は女三宮をはらませてしまう。このことが、その後に源氏に精神的ダメージを与える。

おそらく、この桜=凶兆という観念は当時の貴族達にも共有されていたんじゃないかな。

4へつづく

まさむね

桜(2)美と不安-紀貫之からコブクロまで

昨日、桜が国家主義的象徴だって話をしたけど、今回は日本の歴史における桜がどのようにイメージされてきたのかを追ってみよう。

まず、古事記。桜といえば、日本神話の中ではコノハナサクヤ姫に象徴される。ニニギのミコト(アマテラスの孫で、天皇の先祖)が、天孫降臨すると、まず、こ美しい姫に一目ぼれをして、結婚を申し込む。
姫の父はもう一人、姫の姉(石の精・石長姫)も一緒に嫁として嫁がせるが、ニニギはそれを拒否。
そのせいで、天皇の子孫は、美と引き換えに永遠の命を失ったという。
ここで、桜は、美の象徴であるとともに、死の象徴でもあるんだよね。

その後、平安時代に入ると、和歌で花と言えば、梅ではなく、桜を指すようになる。

久かたの光のどけき春の日にしず心無く花の散るらむ(紀友則)
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける(紀貫之)

風に舞い散る花こそ、最も日本らしい美意識、そして日本人の悲しい心情を現すというのはこの平安の頃に生まれたんだよね。実はそれが、最近のJ-POPにも引き継がれているんだ。そして、桜の歌を作ると日本人は咲くところじゃなくて散るところを歌にすると国文学者の池田弥三郎先生が言っていたがまさにそうだ。

さくら舞い散る中に忘れた記憶と君の声が戻ってくる... 「さくら」(ケツメイシ)
さくらの花びら散るたびに届かぬ思いがまた一つ...「桜」(コブクロ)
さくらさくらただ舞い落ちるいくつか生まれ変わる瞬間を信じ... 「さくら」(森山直太朗)

3へつづく

まさむね

鹿男あをによし 最終回で全ての謎はとけたのか

鹿男あをによし、最終回は何の謎も解決せず、謎を持った私がバカだったと思わせるような結末だった。

俺が持った期待はこうだ。

日本列島を周期的に襲う大地震を鎮めるための「鎮めの儀式」に重要な役割をはたす狐と鹿と鼠。
ご存知の通り、狐は京都の大神社・伏見稲荷のご眷属(神獣)で、鹿は奈良の春日大社の眷属(神獣)だ。そして鼠は、一般的には大黒様(大国主)の使いとの俗信がある。と言うことは、さらに出雲大社に絡んでくるのか。ワクワク...

また、先生(玉木宏)が東国からくるときに持ってきた鹿島神宮の勾玉、鎮めの儀式に使われて鏡(三角縁神獣鏡)、そう来れば、後は刀はどこでどう絡んでくるのか?
言うまでも無く、勾玉、鏡、刀は天皇が即位する際に前天皇から譲られる三種の神器だからね。

剣道の話もあったし、そのあたりから刀の秘密が解明されていくのか?三種の神器の秘密が明かされることによって、天皇制の正当性の話まで膨らんでいくのか...俺は期待して最終回を迎えた。

しかし、結局は登場人物達の恋の話で終わってしまった。
あの期待は何だったんだろうか。

ドラマの冒頭のナレで、で八百万(ヤオヨロズ)の神っていうのを、ハッピャクマンの神って言っていたので若干に不安を感じていた俺。悪い予感的中というところか。

まさむね

桜(1)その国家主義的象徴

武士道という観念は、武士が具体的な戦闘で死ぬ必然性が無くなった江戸時代に入ってからイデオロギー化した。
その武士道を精神運動として美学的にサポートしたのが本居宣長をはじめとする国学者であった。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 (本居宣長)

靖国神社の遊就館に入ると最初に飛び込んできたのがこの和歌である。この頃から、桜とナショナリズムが融合していったんだろうな。そして、武士道というイデオロギーもそれに近いところに存在していた。

実際は、江戸時代の後期には、武士階級はほとんどが事務員と化していた。また、仕事の無い旗本なんかは隅田川に船を浮かべて、桜を見ながら粋だとかなんとか言っていたんだろう。
だから、彼らに実際の戦闘行為が出来たかというとはなはだ怪しい。例えば、現代の公務員にいきなり刀や槍を持たせて戦えというのと同じように、当時の武士階級に、無理やり、先祖伝来の具足を付けさせて戦場に駆り出したのが、長州征伐や鳥羽伏見の戦いだったんだろうね。
そしてそこでは、多くの直参、旗本達は愚痴を言いながら、アリバイ作りのためにとりあえず、戦場に赴いたんだと思う。

逆に、幕末の戦闘において、奇兵隊とか新撰組とかの非武士階級の方が武勇をとどろかせたのは、むしろ彼らのほうがより、意識的に「武士とは何か」「戦うとは何か」「そして何のために死ぬのか」を考えるポジションにあったからだ。

ところが、その答え、一体誰のために死ぬのかという思想が、この幕末から明治維新にかけて大きくかわったんだよね。江戸時代にあった家のために死ぬ、藩のためにしんで名誉を残すというロジックが、この時期、国家のために死ぬというイデオロギーにスリ替わったんだよね。

その、国のためにパッと散ってこそ、大和心という思想の象徴として、山桜紋が国家主義的戦略組織の印として散見されるようになる。

陸軍、海軍、学習院、靖国神社、そして大相撲、今でもこれらの組織の紋所には山桜が使われているんだ。
戦国時代より以前には、桜紋はほとんど広まらず、逆に「桜」は死霊を呼び寄せる、あるいは不吉な予兆として意識されていたのに、そういった日本の伝統は幕末>明治に強引に変わったんだよね。

2へつづく

まさむね

「二人」aiko、その視線のリアリティ

aikoが描く歌詞の世界には、少女だけが持っている、あるときは醒めた、そしてある時はシュールな、個性的な視線がある。
aikoの出世作「花火」では、いきなり宇宙から花火を上から見下ろすというインパクトの強い視線を披露した。次作「カブトムシ」での視線はすでに遠い未来。彼氏も既に死んで、自分もおばあさんになっている。
また、「桜の時」では自分の人生を距離を置いて見る冷静な視線がある。その姿は逆らいがたい運命に身をまかせた感じだ。
さらに、「花風」では、「桜の時」の時間軸をさらに進めて、その視線は転生後にまで届いている。

そして最新作「二人」では、彼氏との微妙な距離を感じさせる視線が、冷たくもかわいい。

 夏の星座にぶらさがって上から花火を見下ろして... 「花火」
 あなたが死んでしまって あたしもどんどん年老いて 想像つかないくらいよ... 「カブトムシ」
 ゆっくりゆっくり時間を超えてまた違う幸せなキスをするのがあなたであるように... 「桜の時」
 生まれ変わってもあなたを見つける 雨がやんで晴れる様に... 「花風」
 一緒に撮った写真の中に夢見る二人は写っていたのね 後ろに立ってる観覧車に本当は乗りたかった... 「二人」

これらの視線はそれぞれに、妙なリアリティがあるが、これこそ、そaikoのオリジナリティなんだと思う。

まさむね

ここにいるよ 待ちに待った下流ソング登場

どんな曲でもヒットする楽曲はその時代の現実(雰囲気)を反映しているところがなにがしかある。

そういった意味で、青山テルマ&SoulJAの「ここにいるよ」と(そのアンサーソング「そばにいるね」)は極めて同時代的な歌である。

~(前略)~
俺がもっと金持ちだったら
もっとまともな仕事をしてたら
だがPlease勘違いだけはすんな君に寂しい思いはさせたくねぇが...

~(後略)~
「ここにいるよ」(青山テルマ&SoulJA)

昨今の社会状況を考えたとき、ネカフェ難民の心情を織り込んだマジ歌が必ず出てくるに違いないと思っていたが、これは、まさに格差社会を反映した下流ソングじゃないの?

まさむね

七曜は安産祈願

七曜紋は、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の七つの星を家紋にしたものとも、北斗七星を家紋にしたものとも言われている。後者は妙見信仰をもとにしている。

一般に星は、海の民や狩猟民の守りである。農耕民と違って、それらの民は星の運行、方角を性格に把握する事がが生死を分けるほど大事だと考えられていたからだ。志摩の九鬼氏は七曜を家紋としているが、戦国時代には日本一の水軍として織田信長に従った。また、東北地方南部の星宿信仰のある地域にもこの家紋を持つ者が多いが、それらの人々は元々狩猟民だったのかもしれない。

さて、この七曜は江戸時代以降は、七面大明神信仰と結びつき、何故か安産の守り神ともなる。田沼意次の父意行は子供に恵まれなかったが、出産・安産守りの七面大明神に祈誓をかけ、意次が生まれた。田沼家はここから七曜を家紋にしたと伝えられている。

ちなみに、映画「恋空」でも安産を願う彼氏(三浦春馬)が七曜が入った安産守りを彼女に買っていくシーンがある。

まさむね

なかなかウィルスが減らない

C型肝炎のインターフェロンの注射とレベトール投薬がどうも限界に来てしまったようだ。
これ以上続けてもウィルス値が落ちない(治らない)ということで、ここでしばらく、ネオファーゲン投薬で、病状の進行を止める政策に切り替えた。ようするに、治らないけど、悪くもならないという現状維持療法ですね。

そして、人工透析療法が厚労省から認可が下りた段階で、入院>人工透析に切り替えることにする。

この注射は、血液注射だから、痛くはないけど、とっても太い。

また、インターフェロンは1回、3万円(実際は保険有効のため、1万円)なんだけど、ネオファーゲンは数百円と安い。

まさむね

桔梗紋は不吉

桔梗紋という紋所がある。
有名な武将では、太田道灌、明智光秀がいる。
また、幕末から明治にかけては、同紋の坂本龍馬や大隈重信が活躍した。

しかし、これらの歴史上の人物は、みんないいところまで行くんだけど、暗殺、敗死といった不幸な結末を迎えている。(ただし、大隈重信は、暗殺されるが命は取り留める)

最近では、NOVAの社章この紋所が使われていたので、なんかあったら大変だと思っていたが、突然の営業停止に追い込まれたというニュースが入ってきた。

取り越し苦労かと思うが、今年に入って、ある生命保険会社のポスターに氷川きよしがこの桔梗紋をつけて笑顔で写っていた。ちょっと気になる...

まさむね

ALWAYS続・3丁目の夕日 ノスタルジーの欺瞞

現代の理想を昭和の良き時代に投影した映画である。

貧乏な文学青年茶川竜之介(吉岡秀隆)。とりあえず下町の駄菓子屋の主人の傍ら芥川賞を目指している。
そこに転がり込んできた少年、淳之介(須賀健太)。
最初は、茶川に鬱陶しがられるが、段々愛情が芽生えていく。
そこに少年の本当の父親(小日向文世)が現れ、「私ならば、この子を幸せに出来る」と言って、少年の返却を迫る…

そして、茶川はその父親に、今度の芥川賞を受賞出来なかったら、少年を返すと約束してしまう。

しかし、結局、受賞は出来ず、少年は父親に返さなければならなくなった。しかし、少年の茶川と別れたくないという熱意、受賞祝いに集まった近所の面々が作り出す「空気」に気おされ、結局、父親は少年の意志を尊重し、そのまま帰ることとなり、めでたしめでたし。

さて、この映画に流れる価値観は極めて現代的である。ある調査によると「自分にとって一番大事なものは何?」というアンケートによると40年前と現代を比較して一番減ったのが「お金」そして一番、増えたのが「家族」であった。「昔」の日本人の方が、現代人よりも「家族」よりも「お金」を大事にしていたのだ。

かつての日本には、お金よりももっと大事にすべき価値観があったという俗信とは別に、リアリティのある回答ではないか。

しかし、この映画の中には、そんなリアリズムは無い。すなわち、そのお金には全く、価値が置かれていないのだ。
それどころか、お金持ちになりたいという素朴な欲求はむしろ敵とされている。

また、血のつながった親子が優先されるべきという儒教的論理も相手にされない。中国・韓国ではこの映画どういった見方がされるのだろうか。

結局、少年と茶川と近所の人々の”気持ち”とそれらが作り出す「空気」が状況を決定してしまうという、誠にもって現代にも少しも衰えていない日本的な価値観に支配された作品ではないのか。

さらに言えば、芥川賞を受賞できなければ、茶川は少年を父親に返すという一種の契約も簡単にホゴにされるという強引ぶり。契約社会と言われる西洋の方はこの映画をどのように見たのか、感想が気になるところだ。

ちなみに、昭和30年代の最初の頃を肌で知っている私にとって、当時は、ネズミやハエの鬱陶しさ、夏の暑さや冬の寒さに厳しさ、そういった低次元の苦痛にいつも悩まされていたような気がする。だからこそ、みんなクーラーや自動車やマンションを選んでいったんでしょ。

そういった気持ちの変遷を考えないと、こういった欺瞞的映画に単純にだまされちゃうんだろうね。

まさむね