大麻ってそんなに悪いの?

大相撲の大麻問題が連日報道されている。
僕は、この種の事件が起きるたびに、大麻を絶対的な悪として無批判に報道するマスコミの姿勢に、いつも違和感を感じさせられる。

60年代には、厚生省に大麻の取材をしに行った平凡パンチの記者が、担当役人から「これですよ。吸ってみますか?」とハシシタバコを勧められたという伝説が残っている。
また、70年代には、例えば、吉本隆明あたりは「宝島」誌上で、「ジャーナリストたる者、大麻を自分で吸ってみる程度の好奇心が無くてはいかん。」みたいな事を、堂々と書いていたよね。
最近のマスコミ連中は、そのあたりの事、どう考えているんだろうか?

言うまでも無い事なんだけど、大麻が悪っていう観念自体、歴史的に形成されてきたということ。
そもそも、大麻取締法は、戦後、GHQがいつの間にか導入した法律である。戦前は大麻吸引は、法律的には全く問題なかったんだ。明治天皇の御墨付がある植物の研究書に、大麻の活用例として、その吸引方法も紹介されていたっていう話もあるよね。
実際、大麻には常習性は無いし、悪酔いも無い。酒やタバコに比べればよっぽど体にいいっていう医学の報告もされているのは常識だ。

しかし、不思議な事に、日本人は、歴史的に大麻吸引を生活に関わらせてこなかったんだよね。
例えば、インドネシア等で祭りの時に大麻吸引が公に行われていたような形で、日本には大麻吸引の記憶、または記録は無いんだ。
ただ、山に柴を刈りに行った男達がラリって帰ってくる現象を「樵酔い」っていう隠語で伝えている地方もあるそうだ。知る人ぞ知るという秘め事だったんだろうね。

一方、神道では、大麻は神聖は植物として扱われる事もしばしばだ。天岩戸伝説でも、榊と大麻というのは、岩戸の前に飾られる。伊勢神宮への奉納品にも大麻は入っている。
また、大相撲でも初日の前日に行われる「神迎え」の儀式(土俵祭)にも大麻は使われているんだよね。

大麻検査で陽性が出ただけで、見せしめ的に協会から解雇された露鵬、白露山は、その不当さを提訴するんだろうか?
最終的な判決はどう出るんだろうか。
今後、興味深く見守っていきたい。

まさむね

ロシアン力士が持っていた可能性

これは僕の持論なのだが、大相撲は約10年毎にそのスタイルを微妙に進化させる。

70年代、輪島が相撲の稽古にランニングを取り入れ、近代相撲が始まる。
80年代、千代の富士によって、筋肉相撲が全盛となる。
90年代、大型のハワイ系関取の登場で、体格相撲、全盛となる。
00年代、モンゴル相撲の多彩な投げ技、足技、スピードが、朝青龍達によって導入される。

そして、次の時代の可能性だが、僕はロシアン力士のユニークな相撲スタイルに密かに期待を寄せていたのだ。

ロシアン力士達のユニークさは、”叩きこみ率”が異常に高い事である。
大相撲協会の公式サイトの決まり手ランキングによると、若ノ鵬は27%、露鵬は24%、そして白露山に至っては31%の”叩きこみ率”を誇っている。
恐らく、それは、彼らがレスリングという相撲とは全く別の格闘技のベースを持っているという技術的特質と、手足が長く懐が深いという肉体的特質によっているのではないか。

彼らの技術がさらに磨かれていけば、その先に相撲の新しい可能性があったかもしれないと、僕は考えていたのだ。
しかし、残念なことに、今回の大麻事件で、その可能性の萌芽が摘まれてしまった。

ここからは、妄想。

大相撲は、昔から”寄り切り”や”押し出し”等、前に出て勝つ相撲こそが正しい相撲であるというイデオロギー(美学)が圧倒的に強い。
それゆえ”叩きこみ”は嫌悪されてきた。
しかし、ロシアン力士達は、その美学をどうしても受け入れられない。相撲をスポーツとしてしか捉えられない彼らには、”叩きこみ”が何故、問題なのかが理解できない。
スポーツなんだから、ルールの範囲内で、勝つのは当然ではないかと彼らは考える。ある意味、当然の事だ。

そんな兆候に対して、大相撲の美学の崩壊を懸念した協会は、彼らをひっかける。それが、大麻事件だ。

どうでしょう...有り得ないか。

まさむね

北京五輪を覆う座り心地の悪さ

チベット問題や、国内の人権問題等が事前から報道されていたせいもあって、北京五輪は、もろ手を上げて楽しめるという状況ではなかったにもかかわらず、大会が始まってしまうと、日本選手の活躍のに心を奪われてしまった。
でも、僕の心の中では、北京五輪そのものに対する嫌悪と日本人選手の活躍に引き裂かれた座り心地の悪さを常に感じていたんだよね。
でも、一方で、開会式で、花火がCGだったって事や、独唱した少女が口パクだった事、少数民族の衣装を着ていた子供達のほとんどが漢民族だった事をテレビは偽装五輪の象徴と言わんばかりの報道をしていたけど、そんなに過剰につっこむところか?とも感じた。
実際、シドニーやトリノでもオーケストラとかが手パクだったって事は明らかになっているけど、その時は、五輪自体が偽装だという事にはならなかったでしょ。
それにしても、テレビの報道はひどかった。
選手の活躍を、各局、例外無く、ほとんどが、家族間の人情話にからめてたよね。
姉妹関係(伊調、谷本)、家族関係(上野、太田)、息子との関係(内柴)、夫婦関係(朝原)、父親との関係(石井、浜口)…
でも情けない事に、僕自身もその一つ一つに感動してしまった。冒頭の件とは別の意味で、座り心地の悪さを感じさせられ続けたよね。
一方で、今回の五輪で圧倒的に強かった北島康介、吉田沙保里、上野由岐子の3人に関しては、本人との戦いがメインテーマだったような気がする。
アスリートとしての圧倒的な凄みは、陳腐な人情話を寄せ付けないという事なのだろうか。

まさむね

内柴正人が見せた武士道精神

今回の五輪の柔道は、前回に比べるとメダルが取れなかった。
その理由として、国際化した柔道が、一本を取る柔道から、ポイントを稼ぐJUDOに変ったからという説明がなされていた。
今後、日本柔道界は、心中覚悟で美学を貫くのか、時代の流れに対応して勝利を目指すのか。興味深いところだ。

さて、今回の五輪で最も印象的だったのが、66kg級で金メダルを奪取した内柴選手が決勝戦で、縦四方固めでフランスのダルベレ選手を破った瞬間だ。

彼は、喜びを表現する前に、相手の怪我を気遣い、そして相手の心情を忖度して、畳上ではガッツポーズをしなかった。
テレビの報道では、畳から降りた後のガッツポーズと、その後の「ひかる ひかる」という息子への叫びが何度も流されたが、僕的には、この畳上での立ち振る舞いの方が印象に残っている。

これは、まさに、「惻隠の情」という武士道精神が、国際舞台で表現された瞬間だったのではないか。

新渡戸稲造は「武士道」の中で「惻隠の情」というものを最高の美徳としているが、惻隠の情とは、簡単に言えば敗者への思いやりのことだ。
大相撲でも勝った後に土俵上では喜びを表さないが、それも同じ思想から来ている。

恐らく、起源は、敗者からの怨念を受けないための所作なのであろう。
日本人の心の中に潜む宗教観がこんなところにも現れているのだ。

まさむね

星野監督のドラマ体質と残酷な五輪

北京五輪の野球の結果は誠に残念だった。

敗因はいろんな解説者が出し尽くした感があるので、ここで素人の僕が付け加えることは特に無い。

ただ、気になったのは星野監督の、己のドラマに対するこだわりだ。

決勝戦、3位決定戦での采配ミスに関して、彼は、テレビインタビュー(ZERO 8.25)でこう述べている。

質問「選手起用ついてお伺いしたいんですが、調子が良くない、あるいはミスした選手、実名を挙げますとGG佐藤選手ですとかピッチャーで言うと岩瀬投手、準決勝であまりよくないパフォーマンスの中で3位決定戦でも使い続けました...」
星野「はい、言われますね。これが私のやり方なんです。挽回させてやろう。もう一回チャンスを与えてやろうという。一度や二度、失敗したからと言って、という...(後略)」

このやりとりを聞くにつけ、星野監督は、勝負にこだわる以上に「部下思いのいい上司でありたい」という自分と、期待を意気に感じて大活躍する選手との感動的なドラマに、取り付かれれて生きるタイプの人間と思わざるを得ない。

その直後、キャスター氏は当然のごとく以下の質問を続ける。

質問「それは、僕は長期決戦だったらわかる気もするんです。ただ短期決戦の場合には、そうも言ってられないじゃないかなと私なんかは思ってしまうんですが。」
星野「そうなんですけれども、代わる選手がいないんですよ。正直言って。体調面を考えるとか、台所事情が。その苦しさはありましたね。え~。」

だったら、最初から正直に、現実を言えばいいではないか。しかし彼は、上記の判断を己の美学として語ろうとするのだ。

しかし、五輪という場は残酷だった。
戦いの最中には、星野的ドラマが入り込む余地は無かった。
そこに必要なのは、勝利を得るためのリアリズムのみであった。

そして、ドラマは勝った者のみが許される特権である。
例えば、フェンシングの太田選手や体操の内村選手、柔道の石井選手を見るまでも無く、彼らは勝利したがゆえに、ドラマを手に入れることが出来た。そして、マラソンの土佐選手や柔道の鈴木選手はドラマを作ってもらえなかった。

一方、星野監督は上記のように、ドラマを己で演出するようなタイプの人間である。すなわち、ドラマ体質の人なのだ。
勿論、それはプロとしても稀有な才能だ。だから彼は成績は超一流ではなかったが、男・星野の反骨精神というドラマを武器に、全日本の監督にまでのし上がることが出来たのだ。
しかし、彼は五輪の監督しては、あまりにもファンタジックではなかったのか。

あの準決勝と3位決定戦の惨敗を目の前にして、かつて、プロレスラー達がリアルファイトのリングでボコボコにやられ続けた。あの風景を思い出してしまった。

まさむね

五輪に見た漫画的超人

人は、あまりにも凄い現実を見せられると逆に虚構のように感じるものである。
今回のオリンピックで、そういう意味での「虚構」を見せてくれたのが、100M走りでの金メダリストのウサイン.ボルトとソフトボールのアメリカチームのスラッガー、クリストル.ブストスである。

ボルトの世界新記録の瞬間、「史上最速の欽ちゃん走り」と実況でアナウンサーが評していたが、誰が見ても、彼の存在は現実を超えていた。「勝負は時の運、勝った者が一番、速いのだ。」というような詭弁にも似た表現を横目に、「一番速い者が、当然勝つ」という当たり前の事を教えてくれた。

一方、ブストスの片手ホームランは、まるで「ドカベン」に出てくる雲竜のようだった。
決勝戦で彼女が打った打球は、一瞬、外野フライかと思われたが、そのままライトスタンドに飛び込んだ。
その瞬間、上野選手は里中に見えたのは私だけだろうか。

まさむね

グルジア紛争と大相撲

北京五輪開会式と同じ日、グルジアは国内の南オセチアに軍事行動を起した。
そして、それに対抗する形で、ロシアがグルジア国内に侵攻した。いわゆるグルジア紛争が勃発したである。

この戦争の本質的なところには、アメリカとロシアの間での覇権争い、エネルギー争奪戦があると言われている。
不謹慎のようだが、僕は、とっさに、秋場所でのロシアン力士(若ノ鵬、露鵬、白露山、阿覧)とグルジアン力士(栃ノ心、黒海)との対戦(代理戦争)が楽しみになったなぁとワクワクしてしまった。僕の中には、俗っぽいプロレス体質がまだ残っているのだ。

ところが、こともあろうに、その後、若ノ鵬、露鵬、白露山がいわゆる大麻問題で続々と解雇されてしまった。
僕の夢は、しばらくお預けになってしまったのだ。(阿覧はまだ新十両のため)誠に残念だ。

そして、ここからは、妄想。

しかし、この大麻事件、意外な事実が出てきた。
露鵬、白露山がロサンゼルス巡業の際にアメリカ人から大麻から勧められて、思わず手を出してしまったというのだ。

それは、軍事同盟国である日本のロシアに対する心証を悪化させることを画策したCIAが、ロシアン力士に大麻(体内に残存しやすく改良された品種の)を吸わせ、ロシアがグルジアに攻め込んだタイミングで、日本で大麻事件を起したのではないだろうか?

どうでしょう...有り得ないか。

まさむね

近所の共同墓地で宝物、発見!!

家の近所にあった何気ない共同墓地で、家紋の観察(採取)を行った。

その中で、宝物のような紋所を見つけた。
ムカデ紋だ。
しかも、その紋は、本橋家という墓に彫られていた。

「家紋辞典」(丹羽基次)によると、このムカデ紋は現在はその形状の不気味さから、多くが変更されてしまったが、まだ存在しているとすれば、それはれっきとした藤原秀郷流の本橋家とのことだ。
ご存知の通り、この秀郷は、平安時代の中期、関東の独立を企てた平将門を射殺したことで武名を上げた武将であるが、一方、三上山で大ムカデ退治をしたという伝説も残っている。

そのムカデが1000年以上の時を超え、この本橋家の家紋としてここに、ひっそり残っていることに感動したのだった。

まさむね

日本の霊思想考

以前、書いた「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」という思想に関して考えた。

日本人は古来、悪事というものは、悪霊がその人に憑いて行わせると考えていた。
しかし、と同時に、悪霊は同時に強い力を持っているとも考えていた。

だから、逆に力の強い人に敢えて「悪」という形容詞をつけた。
例えば、保元の乱を起した藤原頼長は左大臣であったが、大変な切れ者で、別名、悪左府と呼ばれていた。
また、源義朝の長男で平清盛を暗殺しようとした源義平は悪源太と呼ばれていたのだ。

強い力を持った人の霊は、時に悪霊(=怨霊)にもなるが、手厚く敬えば、善霊になる。
こうして日本人は、怨みを持って死んだ強力な人、例えば、菅原道真や平将門を奉り続けてきた。

そして、同様の事は、生きている人の念(強い感情)にもあてはまると考えた。
強い怨念は、その人の意志を離れて回りに不幸をもたらすと考えられていたのだ。
例えば、「源氏物語」に登場する六条御息所の生霊(物の怪)は夕顔や葵上を死にいたらしめる(写真一番上:能の「葵上」での六条御息所の怨霊)。
光源氏は後にそんな御息所を見舞って機嫌をとり、生霊を鎮めようとする。

日本人の伝統的メンタリティでは、悪い人(悪霊)に対しては、おだてて、ほめて、いい人(和霊)に変わってもらおうとする事こそ、信仰の本質となる。
また、逆に、いい人(和霊)も、扱い次第では悪い人(悪霊)になってしまうことを恐れる。
例えば、靖国賛成派は、心ならずも戦死した英霊を粗末に扱うことによって、それが悪霊となってしまう事を懸念しているのだ(写真中:靖国神社)。

恐らく「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」という思想は、信仰にも近い。

それを考えると、最近、「犯罪者に対して厳し刑を課せ」という論調がかまびすしいが、それは日本の伝統にあっているのだろうかと思わざるを得ない。
悪いことをした人は死刑にしろという人が同時に霊を粗末に扱うなというのがなんとなくしっくり来ないのだ。
靖国賛成派が死刑存置論者である事に違和感を感じるのはそのせいである。

ちなみに、アイヌの宗教では死者の魂を天に送るときに「こいつは悪いことをしたけど、本当はええ奴だから、神の国へ行ったら、ちゃんと心を改めて直るだろう。だから神様、受け取ってやってくれ」というような内容の葬送儀式をするという(梅原猛先生談)。これは上記の日本人の思想と通底しているのではないか。
アイヌ文化(写真一番下:アイヌの民)は、日本文化のルーツであるという魅力的な説は今後、より深く掘り下げて行くべきだと思う。

まさむね

安室奈美恵は孤高の戦士だ

安室奈美恵の最近のベストアルバム「BEST FICTION」が久々にミリオンセラーを記録した。

90年代の後半にストリート系女子のリーダーとして、少女達に音楽は勿論、ファッション、その生き方にまで多大な影響を与えた安室奈美恵。
彼女の音楽は、そんな時代の共感者への応援歌であり、その存在は、時代のカリスマとでも呼ぶべき光を放っていた。
その後、結婚、出産、母の死、離婚、育児等の様々な人生経験を重ねる一方で、小室哲哉から離れて独自の音楽世界を追求していくが、一時期、ヒットチャートから見放された時期もあった。しかし、一昨年頃から、再び復活してきたのである。

時代が彼女に追いついたという事であろうか。
あるいは、時代と彼女が再び邂逅したという事なのであろうか。彼女の音楽の一途さ(HIP
HOPへのこだわり)が、かつてのアムラー世代だけでなく、現在の高校生も含んだ幅広い層の女の子達の共感を呼び起こし、その生き方のカッコ良さ、すなわち、リアルな安室に対する憧れがそのまま、今回の大ヒットにつながったということなのかも知れない。

しかし、ファンが彼女の姿に憧れれば憧れる程、「みんなが見ている私のキャラクタはリアルじゃないのよ。ウソなのよ。誰も私の事なんてわかってないわ。」とでも言わんばかりに世間に対して屹立しつづける安室奈美恵。
自分で名付けたという「BEST FICTION」(最高の虚構)というアルバム名はそのことを明確に表現している。

彼女は、何物にも媚びず、逆に突き放すことによって、常に、上の次元をキープし続けるのだ。その孤独な強さこそが、安室奈美恵のカッコ良さの本質なのではないだろうか。

僕には、彼女が踊りながら歌う姿は、我々のあずかり知らない別次元の何物かと一人闘い続ける孤高の戦士にも見える。
そして、その姿は10年の時を超え、再び、時代への応援メッセージとして現代の女の子達に届いているのである。

まさむね