瑛太が演じる草食系男子(タケルと帯刀)に注目

結婚しない、あるいは出来ない男性が増えてるという話を昨日したが、その前段には、恋愛が苦手な男子が増えてるっていう要因もある。

流行の言葉で言えば、草食系男子増殖っていうことか...
この草食系男子というは女の子に対して、恋愛関係にはなりたくない(なれない)、けど、マッたりと一緒の時間を過ごすのは大得意っていうタイプの男の子の事だ(詳細は、「草食系男子の恋愛学」(森岡正博著)参照の事)。

恐らく、若い男っていうものは、好きな女の子と二人っきりになると、いかにヤるかっていう欲望+戦略+妄想で頭が一杯になるっていうのは、昔の話。
最近は、こういうタイプが目立ってきているらしいのだ。

それは、別の言い方をするならば、そういうタイプの男の子に対して、「それもいいんだよ」って、やっと言えるような時代になってきたっていう事かもしれない。

具体的なイメージで言うならば、今、フジテレビで再放送している「ラスト・フレンズ」で、瑛太が演じているタケルっていうのがまさしくこのタイプなんだよね。
タケルは、子供の頃に実姉から受けた性的暴行をトラウマにしていて、SEX恐怖症になっているっていう背景はあるんだけど、シェアハウスにいる他の女の子達に対する扱いが完璧に上手い。
気が弱いんだけど、気が利くし、気が回るし、優しいし、聞き上手なのだ。
だから、「タケルは、他人を幸せにする才能があるよね」って言われたりする。
しかし、”恋愛”は、いつも上手くいかないのだ。
エリ(水川あさみ)からのSEXの誘いには応じられないし、ルカ(上野樹里)への告白は空振りに終わる(これにはルカがレズだという理由があるんだけど)し、ミチル(長澤まさみ)からの告白は受け入れられない。
それでも、そんないろんな事がありながらも、彼女達から絶大に好かれている。上手くやっていけるのだ。凄い才能だ。

一般論で言うならば、恋愛下手な草食系男子が増える事に関して、少子化の視点から眉をしかめる向きもあるのかもしれないけど、周りの人々、社会にとっては、むしろ歓迎すべきことだと思う。
消費しない若者と同時に、周りにストレスを与えない若者像っていうのも、新時代の生き方として、肯定したいところだ。

さて、瑛太が出演しているもう一つのドラマ「篤姫」だが、ここでの彼の役どころは、薩摩藩家老・小松帯刀である。
明治維新の立役者として歴史上では大活躍する彼だが、女性に対してはタケルと同じような、いつも上手くいかなく、情けないスタンスなのが面白い。
篤姫(宮崎あおい)に対しては、結局、愛を伝えることは出来ず、姉さん女房のお近(ともさかりえ)とは、(小松家の養子となる事によって)半ば強制的に結婚させられる。また、京都の屋敷には、芸者のお琴(原田夏希)に上がりこまれるのだ。

次の放送では、このお近に、お琴との同居生活がバレるらしい。
幕末の草食系男子・小松帯刀のアタフタした姿が楽しみだ。

まさむね

少子化を踏まえて日本はどうなっていくべきか

現在、30代前半の男性の半数、女性の3割が未婚であるという。
しかし、彼らは決して結婚したくないわけではない。9割の人に、結婚願望があるのである。
では、どうして結婚が進まないのであろうか。

それは、現状、男女の結婚観に大きな隔たりがあるからである。
簡単に言ってしまうと、女性の方は、高収入のイイ男と結婚して、結婚後は専業主婦になりたいと思っている。
一般的に年収二倍の法則(白河桃子さんの説より)といって、独身時代の自分の年収の最低2倍の年収の相手を求めているという。独身時代の生活レベルはキープしたいのだ。
しかも、結婚しても現在の仕事を続けたいと思っている女性は、それなりに社会的地位の高い職業の人々だけで、一般的には、多くの女性は、「結婚したらこんな仕事を早く辞めたい」と思っているらしい。

ちょっと前までは、結婚しても仕事を続けたいから結婚しないという女性がそれなりにいたように思うのだが、最近では、そういったキャリアウーマンタイプが減ってきているのか。
ドラマで言えば、「Around 40」で天海祐希扮する聡子や「四つの嘘」で高島礼子扮するネリ(両方とも女医)、「モンスターピアレンツ」で米倉涼子扮する高村樹季(弁護士)のような女性が羨ましく思えなくなってきている女性が増えているのかもしれない。

しかし、一方で、彼女達の結婚対象である男性の方の状況はどうだろうか。
彼らの状況は決して明るくはない。年収は減って来ており、しかも将来も不安定になってきているのだ。
(勿論、年収も将来も約束されたような階層の男性もいることはいるのだが、多くは20代で結婚してしまっている。)
だから男性は男性で、女性に対して結婚後も仕事を続けてもらいたい。でも、出産、育児に関しては女性に任せたいと思っている。
ようするに、女性に対して、そこそこの収入プラス家事・育児を期待しているのだ。

こうした、男女の結婚観のミスマッチが未婚化の根本原因となっているようだ。現代の多くの若者は結婚しないのではなく、結婚出来ないのである。

しかし、行政の少子化対策は、少子化の主因である未婚化の方は、とりあえず横に置いておいて、子育て支援(保育所整備、育児休業制度、児童手当)にのみに偏っている(山田昌弘・中央大学教授)という。
だから、90年代中盤から行ってきた少子化対策はほとんど成果を上げられていないのだ。

だからと言って、国家が国民の結婚に介入するというのは余計なお世話という感じがしないでもない。
それぞれの個人の生き方を尊重しましょうという価値観の大きな流れの中で、露骨な結婚奨励策は取るのもどうかと思われるのだ。
結局、現代においては、政策によってでは、人の生き方は、強制は出来ないということなのだろうか。
例えば、世の中には、いろんな人がいて、先日、京都である女性が「結婚が『おめでとう』の社会は、非婚の人が生きづらい」「婚姻制度には差別がいっぱい」と、「反婚」を掲げてデモをしたという。
こういう思想は、認めざるを得ないのだ。(でも、この思想を踏まえた上で、例えば、40歳の独身者をつかまえて、「独身、おめでとう!!」という勇気は僕にはまだないけどね。)

上記のような状況があって、非婚化=少子化が止められないとしたら、僕は、日本には2つの選択肢しかないように思える。
一つは、現在のあらゆる面での水準(生活、国力等)を落とさないように、高齢者も女性も働き続けたり、新しい技術革新したりして、ひたすら頑張っていく方向。大量の移民を受けるというのもこの方向に沿った政策だ。
そして、もう一つは、日本の国力や生活水準を徐々に落としつつ、それにあった新しい国民意識(価値観)を模索していく方向だ。

恐らく、現在の政治は、自民党にしても、民主党にしても、明らかに前者の方向を無自覚に志向しているように思える。

しかし、最近の20代の人々は、自動車の購入数、アルコールの消費量が段々減ってきている、貯金が増えてきている。明らかに自ら生活水準を落とし始めているのだ。
もしかしたら、新しい世代は無意識的に後者の新しい価値観を模索し始めているのかもしれない。

まさむね

人気少年アニメにおけるそれぞれの父親達

日曜日の19:30から、MXで「ムーミン」の再放送をやっていた。

実は僕が一番好きだったアニメはこの「ムーミン」だったのだ。
「巨人の星」とか「あしたのジョー」っていう梶原一騎物の手塚治虫の「どろろ」とか「ジャングル大帝」とかも勿論好きだったけど、どれか一つを選びなさいと言われたら、僕は「ムーミン」をあげる。

ムーミン谷では毎回、日常世界異物が入り込む事によって、ささやかな事件が起きる。
それは、時に、村人達の欲望に火をつけたり、お互いを疑心暗鬼にさせたりして、彼らの心をかき乱すんだけど、最終的には、その”謎の異物”が排除されると村人は、「あれは何だったんだろう」的な置かれて、元のボーッとした善良な人々に戻るのだ。

みんなが同じ観念に取り付かれて暴走していく事の危険性を、裏返して言えば、たった一人でも正しいと思ったことは主張すべきだって事を言っていたんだろうなって、今更になってみると思うよ。

そんなムーミンにはいろんな登場人物が出てくるが、僕がいつも気になっていたのがムーミンパパだ。
ムーミンパパの職業は小説家だ。しかも、いつまでも最初の1行が書けないでいる小説家だ。
(先日見た、現在、再放送されている新バージョン(1990年版)では、自分の過去の伝記を書いていたが。以前のバージョンでは、そうだったはずだ)
ムーミンにとってパパはいつも、どこかにはかり知れない未知の存在だ。
ムーミンがパパの事を質問するとパパは、「それは大人になると分かることだよ」とニコニコ顔ではぐらかす。
そういえばアニメにおける父と息子の関係ってそれぞれ見てみると面白いよ。

例えば、「巨人の星」では、飛雄馬にとっての一徹は、権威そのものだった。
「オバケのQ太郎」の正ちゃんにとってパパさんは、頼りない存在。
「天才バカボン」におけるバカボンとパパの関係は、友達関係。
そして、「ゲゲゲの鬼太郎」では、鬼太郎にとって、目玉オヤジは何でも教えてくれる知恵袋だ。

男の子にとって、父親とは何か?未知の存在?権威そのもの?頼りない存在?友達?知恵袋?

これらのアニメが放映されていた60年代後半~70年代最初にかけてだけど、戦後、標準的な親子関係のイメージは、どんどん分裂して、本当にバラバラになっちゃったんだね。
これらの有名な少年アニメにおける父親像のバラバラさは、その事を表わしているのかもね。

まさむね

聖子とヨーコ

seiko.gifいまの私がいちばん好き
もっと自分を好きになる

最近、松田聖子が出演するDiosa(ヘアカラー)のCMのコピーである。
いまだに輝き続ける彼女に相応しいキャッチだ。

「自分らしく生きる」という誰でも出来そうで誰にも出来ないスタイルを貫く松田聖子。
彼女には、支持するファンが存在すると同時に、彼女に対して、嫌悪感を隠さない人々もいる。その人生は、その嫌悪感に対する闘いの歴史でもあった。
しかし、彼女が立派なのは、どんなに逆風が吹いても彼女は逃げなかった事だ。
ある芸能記者によると、「どんな状況でも松田聖子は取材に応じる」そうである。
そして、彼女はいつも”松田聖子”であり続けるそうだ。

闘い続けた女性だけが表現できる迫力、今回のCMにはそんなものを感じる。
来週22日(水)に発売予定のニューシングル「あの輝いた季節」は、またヒットチャートを賑わしてくれる事だろう。


世界中のすべての時計を二秒ずつ早めなさい。
誰にも気づかれないように。

これは、松田聖子がデビューする30年程前に、アメリカに渡り、前衛芸術家として活躍、後にビートルズのリーダー、ジョン=レノンと結婚、ビートルズ解散の元凶と言われ、世界中からバッシングを受けたオノ・ヨーコが、60年代初頭に著したインストラクションアート(命令文による詩集)「グレープフルーツジュース」の中の
一節だ。
彼女は一般的にはジョンの妻としてのみ有名であるが、ジョンと出会う前から芸術家として素晴らしかったのだ。
この2行を読んでもらえば、分かる人にはわかるよね。

ちなみに、彼女は今でも毎年、日本のアーティストを集めて武道館でチャリティコンサートを行っている。
今年も12月8日にあるらしい。奥田民生、斉藤和義、ボニピン達に加えて、今年は、Salyu、絢香や宮崎あおい達も出るらしい。
ヨーコもまた闘い続けた女のみが出せるオーラをいまだに持っている。今年のステージも今から楽しみだ。

さて、松田聖子とオノ・ヨーコは実はある共通点があるのだ。
知る人ぞ知る事実なのだが、二人とも九州の柳川・立花藩の家老の家の末裔なのだ。
ちなみに、松田聖子の蒲池家の家紋は左三つ巴(一番上)、オノヨーコの小野家の家紋(一番下)は一つ引両だ。
世が世なら、この二人の家老の姫達がそれぞれの立場で顔を合わせていたかと想像するのも一興か。
そんな城内ってもしかしたら、まわりは大変だったかも…

それにしても、柳川って僕も一度行った事があるんだけど、大林宣彦監督の「廃市」の舞台になった、美しい運河(写真中)の街だ。
この映画のタイトルでもイメージ出来るように、ある意味、消えゆく日本美の象徴みたいな街なんだよね。

ちなみに、この「廃市」には先ごろ亡くなられた峰岸徹さんも出演されておりました。合掌。

まさむね

虚実の狭間に生息していた三浦和義の死

ロス疑惑銃撃事件、共謀罪の容疑でロサンゼルスに移送された後、拘留中に三浦和義が自殺した。

しかし、この人、ロス銃撃事件(1981年)から、この自殺まで何が本当で何が嘘かという曖昧なエリア、すなわち虚実の狭間に居続けた存在だった。

彼は、TV取材に対して、積極的に顔を出し、子供の頃の石原裕次郎との浅からぬ因縁を自慢げに語ったり、不良で、少年院に7年間、お世話になった伝説をもったいぶって披露する。
また、日本での無罪が確定した後、くだらない万引きを繰り返す。
こういった三浦氏の、疑惑をさらに膨らますその胡散臭い振る舞いには、注目される事を運命付けられた者のみが持つ独特のセンスが感じられたものだ。

ちなみに、虚構と現実が最も華やかに交錯したあの80年代、テレビのワイドショー登場回数で群を抜いたのは、男性では三浦和義だったが、女性では圧倒的に松田聖子だった。
恐らく、三浦和義が虚実の狭間に存在した事によって、視聴者の興味を引き続けたのと同様に、松田聖子も似たようなポジションに存在したのだ。
あの泣きは本当だったのかどうかとか、涙が流れたかどうかみたいな(ブリッ子)論議があったり、結婚だの、出産(ママドル)だの、浮気だの、不倫だの、離婚だの、再婚(ビビビ婚)だの、そしてバッシングだの、ワイドショー視聴者は十分に彼女自身の生き方を消費したのである。

大雑把な言い方だが、90年代まで、僕たちも、芸能界的虚実の世界を余裕を持って楽しむセンスを持っていたような気がする。

実はこの虚実を股をかけたエンタテイメントって日本芸能の伝統なんだよね。
例えば、「源氏物語」だって、紫式部によって書かれた当初は登場人物が、実際にあった貴族社会の噂話が上手くアレンジして散りばめられていたそうだ。この書物がそれまでの物語とは一線を画す名作として評価されたのは、この虚実の扱いの絶妙さがあったんだよね。
また、近代の小説だって、例えば、三島由紀夫の「仮面の告白」なんて、どこまで本当?みたいなスキャンダラスな視線が、この作品をベストセラーに押し上げている。

しかし、最近、こういった虚実の世界を楽しむという”粋”な作法が、だんだん衰退してきているのではないか。
一方、虚と実を判然と分けないといけないみたいな倫理観が跋扈しているのだ。
大相撲の八百長論議等を聞いていても、協会側の余裕の無さ、視聴者側の野暮な振る舞いが、僕には気になる。

そんな中で、突然、三浦氏の自殺が報道された。

ロマンチックな言い方をするならば、虚実の狭間で生息し続けた三浦という生き物が、そんな時代風潮の中、白黒はっきりさせられる直前に自らの命を絶った。

泥沼でしか生きられないウナギ犬が陸にあげられて死んじゃった、みたいな哀れさを感じる。

まさむね

不安時代の旅人、ミスチル

日本の90年代、「失われた10年」と言われた。
この時代を境にして、様々な点において、日本人が今まで行ってきた行動パターンの安定性(安全性)が根底から揺らいだ。
これらの不安は、経済面だけでなく、安全保障面、治安面、社会制度面等、あらゆる場面で見られているのだ。
そして、そこから来る不安は、小泉改革を経た現在まで続いている。
いや、現代の不安はさらに大きくなっていると言うべきかも知れない。
それまでは、普通の人が普通に生活していけば、一生、安泰に暮らせたのがそうでない時代が来てしまったということだ。

さて、こんな時代の人々の心情を最も表現しえてスーパースターの座に上り詰めたのがMr.Childrenである。
ソングライターの桜井和寿は、多くの楽曲で、こんな不安な時代の生き方を”旅”に例える。

誰もが胸の奥に秘めた迷いの中で
手にしたぬくもりをそれぞれに抱きしめて
新たなる道を行く
(「CROSS ROAD」 1993)

僕は僕のままでゆずれぬ夢を抱えて
どこまでも歩き続けていくよ いいだろう?Mr.myself
(innocent world 1994)

心のまま僕はゆくのさ 誰も知ることのない明日へ
(Tomorrow never knows 1994)

長いレールの上を歩む旅路だ
風に吹かれてバランスとりながら
“答え”なんてどこにも見当たらないけど
それでいいさ 流れるまま進もう
([es]~Theme of es~ 1995)

いいことばかりでは無いさ でも次の扉をノックしたい
もっと大きなはずの自分を探す 終わりなき旅
(終わりなき旅 1998)

どちらに転んだとしても それはやはり僕だろう
このスニーカーのヒモを結んだなら さぁ行こう
(優しい歌 2001)

旅立ちの唄
さぁどこへ行こう?またどこかで出会えるね
(旅立ちの唄 2007)

しかし、これらの”旅”は、僕には孤独で薄ら寒いもののように思える。
それは、先の見えない、しかも、終わりがあるかどうかもわからない旅なのだ。
不安を抱えながら、社会という化物によって、旅立たざるを得ない状況に追い込まれている現代の僕たち。
頼れるのは、自分しかいない。
しかし、その自分も、不安に満ちた、頼りない子供のようだ。

彼らが自分達のバンド名に選んだMr.Children。
彼らが意識しているかどうかは知らないけど、社会から、無理矢理に大人としての(Mr.)を冠された子供たち(Children)という名前は、彼らの作品の基本テーマそのものである。

まさむね

「篤姫」高視聴率は許婚システムへの憧れか 

「篤姫」の視聴率が相変わらず好調らしい。

篤姫と和宮の、己の運命を受け止めて、その中で前向きに生きていく、生き方が逆に現代の若い人々にとって新鮮に映っているのかもしれない。

特に、和宮の表情が心を打つ。
元々、和宮は、他に結婚相手が決まっていたのだが、幕府と朝廷との政略的意図により、心ならずも徳川家茂に嫁ぐ。
しかし、家茂の人柄に段々心を惹かれていく。
長州征伐に向かう家茂、ただ、黙って見送るしかない和宮。
和宮の家茂への想いの深さが伝わって来て、まさしく切なさの極致だった。

さて、最近の二十代の女性は、酒井順子の『負け犬の遠吠え』以降、「絶対に負け犬になりたくない」と早くから結婚を意識しているという。(「婚活時代」山田昌弘、白河桃子共著 より)
そんな彼女達にとって、結婚活動(婚活)でバタバタ動き、時に恥をかき、時に傷つくよりも、周りの人が勝手に段取りし、否応なしに運命の御相手と結ばれる、いわゆる「許婚(いいなずけ)」システムが一周して憧れとして感じられても不思議がないような気がする。

「篤姫」の高視聴率は、そういった憧れに支えられているのかもしれない。

まさむね

70 年代ユーミンの役割

桑田佳祐の楽曲は、彼の内面的な妄想をモティーフにしているのに対して、もう一人のスーパースターのユーミンは、あくまで自分の外部の風景と物を楽曲に、歌い込みながら、リスナーに対して新しい価値観とライフスタイルを啓蒙していく。

例えば、ユーミンの初期の楽曲でバンバンに提供した「『いちご白書』をもう一度」は1975年に大ヒットするのだが、この曲のテーマは、学生闘争時代(60年代後半~70年)へのノスタルジーであるとともに、過去への絶縁歌である。
無精ヒゲを伸ばして、学生運動に参加した「僕」は、髪を切って就職して、その時代を捨てる。
当時の時代を映した「いちご白書」のリバイバルポスターに懐かしさを感じる。あくまで過去の遺物として。

また、翌年に発表した「中央フリーウェイ」、象徴的ではあるが、この楽曲も、新しい時代の価値観を表現している。

中央フリーウェイ
調布基地を追い越し
...
片手で持つハンドル 片手で肩を抱いて
愛しているって言っても聞こえない
風が強くて
...
中央フリーウェイ
右に見える競馬場 左はビール工場

調布基地(1974年に米軍から都と市に返還)、これは安保反対、60年代の政治闘争の象徴だった。
この調布基地をあっさりと追い越し、その先にあるのが、新しい価値観だ。
彼女に肩に手を回して高速を走る、これこそ新しい若者の憧れのスタイル。
同時に、ギャンブル=競馬場、酒=ビール工場を横目で見る。これらは、新らしい享楽主義の象徴だ。

こうして、70年代~80年にかけての若者は、ユーミンの楽曲を聴きながら、新しい価値観を自然に身に付け、新しい恋愛の作法を学んでいった。

例えば、「A HAPPY NEW YEAR」は、家族と雑煮を食いながら、テレビを見る位がせいぜいだった僕たちの正月に、街路樹のある街を走りながら恋人に会いに行くという正月というものもあるのだという事を教えてくれた。

「手のひらの東京タワー」では、金色の東京タワーの鉛筆削りを恋人にプレゼントするのだが、その時、彼女は彼氏につぶやく。

子供じみていると 捨ててしまわないで
つぎはあなたの夢 私に下さい

乾坤一擲の名セリフだよね。

ところで、この鉛筆削りには「根性」の刻印はあったのだろうか。

まさむね

桑田佳祐 普通のモテない男の妄想歌

加勢大周が覚醒剤、及び大麻の不法所持で逮捕された。

加勢大周といえば「稲村ジェーン」だ。
駄作だという人も多いようだが、僕は逆。桑田さんのいろんな想いが詰まった名作だと思う。
見れば見るほど、奥深いんだよね。

暑かったけど 短かったよなぁ…夏

この映画のキャッチコピーがこれだ。
期待に胸を躍らせながら迎えたのはいいけど、何もなかった夏。
誰しもが経験したホロ苦い青春の1ページ、「稲村ジェーン」のテーマの一つなんだけど、それは、桑田佳祐の音楽のモティベーションでもあると思う。

あるデータによると1955年~1964年生まれの70%位の男性の結婚前に付き合った女性の数は3人位までという。
結婚する平均年齢を30歳位とすると、15歳~30歳の15年で3人というのは、どう考えても多いとは言えない。
また、ちなみに結婚まで一人ともお付き合いしたことない男は15%いるらしい。
ようするとほとんどのこの年代の男は基本的にはモテてないのである。

桑田さんの音楽が多くの人の共感を呼ぶのは、この年代に属する彼の”モテなかった夏の記憶”が歌の歌心の根本にあるからだというのが僕の説だ。

C調言葉に御用心、経験Ⅱ、マンピーのG★SPOT、ゆうこのマンスリーディ、いなせなロコモーション、気分しだいで攻めないで…

桑田さんの曲って猥歌が多いでしょ。
70年代の学生って異性と知り合える機会が少なかったから、大多数のモテない男同士は、誰かの下宿とかで、ギター弾きながら、みんなで猥歌を歌って発散したんだよね。
桑田さんの音楽ってこういう発散の男文化の尻尾をひきづってる。(ところで、最近の若い人の間で猥歌文化ってまだ生き残っているのかな?)

恐らく、桑田さんの青春も、上記データで見られるような普通の男達と変らなかったんじゃないかな。
最初、桑田さんが青学の軽音楽部に入った時、後に奥さんになる原由子は友達と「あの人、怖くて気持ち悪いから近寄るのやめようね」と話をしたという。
また、この2人が結婚する時、桑田さんは「俺は童貞だから」と言い張っていたけど、まんざらでもない感じがしたものだ。

モテなかった男の作品は、だから、現実には役立たない。

一般的にポップミュージックというのは、視聴者にとって、資本主義的啓蒙の側面がある。
例えば、ユーミンの歌詞に出てくるちょっとしたフレーズは、多くの視聴者にとって、憧れるべきニューライフのアイテムになっている。
これらのフレーズは、若者の消費行動の斜め上にあって、知らず知らずのうちに、ある方向に人々を導くものだ。

緑のクーペ(DESTINY)、窓辺に置いたイス(翳りゆく部屋)、裏通りの飲茶(昔の彼に会うのなら)…

しかし、一方、桑田さんの楽曲にはこういった憧れの消費財が出てきて、それが僕たちを巻き込んでくる事はあまり無い。
それは、彼が歌を作るときの視線が、現実のモノに向いてないからだ。彼の歌は、頭の中の妄想で成り立っているのだ。

しかし、この妄想のエネルギーはとっても強い。
桑田さんの曲が未だに、人々の心をつかんで離さないのは、彼のいろんな想いがつまったエネルギーの強さによるところが多いのではないか。

これは、映画「稲村ジェーン」の魅力にも通底しているのだ。
この映画、もう一度、じっくりと見たい。

まさむね

麻生さん運が強いかも

解散/総選挙の日程がわからなくなってきた。
一説によると、来年の1月以降になる可能性もあるという。

解散権を握る麻生さんは、今回の米金融危機を言い訳にして、補正予算を通した。
新テロ特別措置法も、衆議院での3分の2を使わなくても、衆参、民主党が賛成して通しそうな勢いだ。
さらに、景気対策の第2弾として、与党に追加緊急経済対策の指示を出したという。
どんどん実績を上げているのだ。

麻生さんは、先日の予算委員会でこう述べた。

「解散というものを国民が望んでいるかといえば、私はそれよりまずは景気対策だという気持ちの方が強いと思う」

これは一定の説得力を持つ。ここで解散となって、選挙活動している間に、のっぴきならない状態になったら、大変な事になるかもしれないからね。
勿論、大変な事になるかどうかなんて実は、誰もわからないんだけど、そうなった場合どうするの?って言われたら、誰も反論できないのが今の状況。

しかし、こうなったら麻生さん、強いよね。
上記したように、ねじれ国会をものともせず、どんどん自分のやりたい事が出来る。
民主党は、解散してもらいたいもんだから、言う事を聞かざるを得ない。
でも、この緊急事態に、審議を引き延ばしてるとか、下らん事で反対しているって国民に思われたら、それこそ、民主党は国民の事を考えていないって印象になっちゃうからね。
また、民主党の麻生さんを攻める武器が、公明党の政教分離問題とか、大臣の失言とか、社保庁の不始末とか、いかんせん、緊急性が無いって言うのが、弱いよね。
それに、こんな時、小沢さん風邪ひいてるし。

という事で、現在、民主党をはじめ公明党、自民党内でも早く選挙をやりたい連中を手玉にとってる麻生さんって、政治力あるよね。
アメリカの金融危機という要因があったにせよ、こういった立場を作っちゃったんだから、小泉さん並みに、運がいい人かも。尤も、今のところの結果論だけどね。

さて、この総選挙に関して、総裁選の頃から日程は10月26日だとか、11月2日だとか、決定事項みたいに言ってきた朝日新聞をはじめとしたマスコミは、一体何だったの?
狼少年なの?反省したの?

そんな中、フリーのジャーナリストの上杉隆さんは一貫して、「麻生さんは、自分で実績を作らないうちは、解散しないよ、だから、11月初めの選挙なんてありえない」って言い続けてきた。
ほとんど、彼一人、そういい続けてきた。
今回の件で、上杉氏の慧眼に敬服するとともに、記者クラブっていうところがいかに、”空気”の中でしか動いていないって事がわかったよね。

彼の新著「ジャーナリズム崩壊」は、その記者クラブの問題点を鋭く突いているらしいんで、是非、読んでみたい。

まさむね