「久米宏のテレビってヤツは!?」を見た

この番組、インターネット時代を踏まえ、テレビが、テレビというシステム自身に対する自意識を打ち出しているスタイルは、今後の展開では期待できそうだ。
ようするに、「テレビってここまでしか出来ませんよ。」というテレビの限界を提示しつつ、「インターネットに対して、テレビはどんな役割が出来るのだろう。」的な問題意識をどれだけ、表現出来るのかにかかっている。
テレビやマスコミが、本当に隠したいところを隠すために、見せてもいいけど、今までは隠していたところをチラっと見せるだけでは意味がないと思う。

例えば、昨日の放送では、堀江貴文さんがゲストだったんだけど、久米宏が、堀江さんが今、どれくらいの資産が残っているのかを執拗に聞いていた。
でも、僕が見たいのは、お金の話をするんだったら、そのスタジオに居る局社員のプロデューサ、カメラマン、製作会社のディレクター、その下請けの大道具さん、ゲスト、ゲストのマネージャー、代理店の担当者、そして久米さん自身の、それぞれの1時間のギャラを比較して、それら全員で討論して、テレビ業界というものがいかに格差社会なのか、を考えるというくらいの自意識なのである。
その他、メディアのクロスオーナーシップ問題、記者クラブや電波権等のテレビ局の特権、地デジの利権等に関しても掘り下げてほしいものだ。

さて、昨日、ブログの話に及んでいたけど、福岡政行さんは、ブログには不確かの情報が沢山あって信用できないというような事を言っていたが、恐らく、この人、ブログにあんまり興味ないのだろう。
僕自身のブログはそうでもないけど、ブログ論壇といわれるような人々のブログでは、情報のソースの提示は勿論の事、それを踏まえて、事実と思考、感想をわかりやすく積み上げていくという文体のものが多い。

逆に、「永田町の右の方からの風で、云々」「小沢氏周辺によると、云々」みたいな曖昧な言い方をするマスコミの方が、胡散臭く感じられているって事、わかっているのだろうか。
来週は上杉隆さんが出るらしい。楽しみだ。

まさむね

 

米大統領選挙、オバマ氏当選

米大統領選で民主党候補のオバマ上院議員が勝利した。
歓喜する人々を見るとこちらも感動してしまった。アメリカ大統領選っていいなぁ。

報道によると公約は以下のようなものだという。

 

銀行への公的資金投入。
住宅ローン債務者救済。
公共事業に、約2兆5000億円を投入。
中間層の労働者への減税。
16カ月以内の米軍戦闘部隊のイラクからの撤退。
アフガンやパキスタンでのアルカイダ掃討作戦の強化。

CHANGEというスローガンの割には、普通で目新しい感じがしないのは僕だけだろうか。
行政システムや政治システムの変革といった根本的なCHANGEではないのは、アメリカは、そのあたりのシステムが既に出来上がっているからなのであろうか。

恐らく、黒人初の大統領誕生といった、大きな意味でのアメリカの歴史のCHANGEなのだろう。
ただ、オバマ氏自身はこの点はあまり強調されていないように思われる。
まだまだいろいろと事情があるんだろうな。

ところで、僕が気になっているのは、今回の選挙でネイティブアメリカン達の投票行動だ。黒人の95%、スパニッシュの65%がオバマ氏支持だったらしいけど、彼らはどうだったのだろう。
アメリカやカナダの田舎町に行くと場末のバー兼ストリップショー権カジノみたいなところで彼らって、たむろしているでしょ。
彼らの暗い目から見たら、オバマ氏ってどのように映るのだろうか。

小浜市とか小浜温泉の人々なんてどうでもいいから、そういうところを報道してもらいたい。

まさむね

漫才には何故、ボケとツッコミがあるのか

漫才には何故、ボケとツッコミがあるのだろうか。
今日はちょっと考えてみた。

元々、日本では、芸能というものは、神様に対して奉納するためのものだった。神楽も祭りも相撲もそうだが、それらの芸能は、神の声や力を人間の世界に降ろすための儀式なのである。
例えば、愛媛の大山祇神社では毎年、春と秋に一人相撲という神事があるが、これは、人間が「稲の精霊」と相撲をとる(ハタから見ると、一人で相撲をとっているように見える)儀式である。

同様の事は、日本の芸能の本流、能楽にも言える。
能の特徴は、超自然的な存在が主人公になっているという点であるが、多くの舞台では、シテ(主役)とワキ(脇役)が登場する。
シテは亡霊や鬼など、”あの世の存在”からの声を舞台に降ろすのに対し、生身の人間である脇役(ワキ)が彼らの話を聞き出し、怨念を消してあげ、”あの世”に帰っていただくという構造を持っているのである。

漫才の直接の源流である三河万歳、尾張漫才等の正月を寿ぐ民間芸能も、太夫という祝詞(神を崇める言葉)を上げる役と、才蔵という太夫の祝詞を繰り返す役の掛け合いの話芸である。
ようするに、これは、あの世の言葉を降ろす太夫=ボケ、それを繰り返す才蔵=ツッコミという漫才の形が見えてくるではないか。

だから、ボケは、いかに普通の人間の思いもつかない言葉(=あの世からの言葉)を吐く事が大事になる。
また、ツッコミはボケが出してくるメチャクチャな言葉によって混沌としてしまった空気を、いかに上手く日常の空気に引き戻すかが腕の見せ所となるのだ。

僕の知っている限り、欧米のコメディアンは基本的に一人芸で観客を笑わせる。日本で言うところの漫談である。
恐らく、その源流には、キリスト教の聖職者の説教のスタイルがあるのだと思う。(一方、日本の落語が正座で行われるのは、それが仏教説教の伝統を汲んでいるのかもしれない。)

もしも、日本のお笑いが、上記のように知らず知らずのうちに歴史的な制約の中にあるとするならば、日本とは別の歴史を歩んだ地域のお笑いを学ぶ事によって、それ以外の可能性が、もっともっと沢山見出せるかもしれない。
ケニアの、グルジアの、ウルグアイの、ベトナムのお笑いがどうなっているのか、僕たちはあまりにも知らない。

このあたり、もっと世界に目を向けてもいいのかもしれないよね。
世界のナベアツなんて口で言ってるだけじゃなくてさ。

まさむね

 

C 型肝炎治療の副作用 顔面痒みが辛い

C型肝炎の病状が進展しない。

4月と8月に人工透析治療をそれぞれ2週間づつ行い、週1回のインターフェロン注射と、朝晩のレベトール投薬を続けているが、ウィルスの数値は下げ止まってしまった。
すなわち、体内のC型肝炎ウィルスはまだ残存している状態なのだ。
1回目の人工透析治療は、かなり有効だったようだが、2回目はそれほどでもなかったという事なのだ。

今の問題は、顔面、頭皮、耳などが激しく痒い事。
薬と注射の副作用らしいけど、それが四六時中なのでちょっとまいる。

極端に言えば、「ブラッディマンディ」(TBS土曜ドラマ)の感染症患者のように、左右の頬っぺたと額の真ん中、右眉の上が赤く貼れちゃっているんだよね。

今、すぐに治療方法を変えるわけにもいかないし、ちょっと悩ましいところだ。

まさむね

「源氏物語」誕生 1000周年に寄せて

若紫.gif本日(2008年11月1日)は、「源氏物語」の事が「紫式部日記」に記載されてからちょうど1000年目にあたる。

その記載は以下のような文章だ。括弧内は私の意訳。

左衛門の督「あなかしこ。このわたりに若紫や候ふ」と窺ひ給ふ。源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上はまいてものし給はむと、聞きいたり。
(藤原公任が、「このあたりに、若紫はいらっしゃいますか。」と、冗談口調で、聞いてくる。「光源氏に似た人すらいないんだから、紫の上がいるわけないじゃん。」と内心思いながら、受け流した。)
※画像は光源氏が最初に若紫を見た場面。

まぁ、現代で言えば、部長のオヤジギャクを軽くスルーするOLの気持ちに通じる日常の一場面だけど、この歴史的な一行のおかげで「源氏物語」の作者が紫式部だって事が確定されたんだよね。
紫式部がこの1行を書いたのが、今からちょうど1000年前なのか。

これを機会に、「源氏物語」について書いてみたい。

「源氏物語」っていうのは一般的に、光源氏という貴公子と、その周りをとりまく女性達の恋物語だって言われているけど、それだけじゃない。いろんな見方が出来るんだよね。

■政治小説として

天皇の子とはいえ、母親の身分が低かったため、臣籍降下した光源氏が、当時、権勢を誇った右大臣家との権力闘争に勝ち、太上天皇(天皇の父)にまで上りつめる(その後もいろいろとあるんだけど)話という解釈も出来る。
その政争のために、いろんな女性との恋愛があるっていう見方だ。
例えば、右大臣家が次期天皇の正妻にと手塩にかけて育てた朧月夜に手をつける光源氏。ライバル家に大きなダメージを与える。しかし、自分も無傷ではない。それがバレて、自分は須磨・明石に流れていく事になるのだ。

■ドキュメンタリとして

政治ドラマはさらに、現実世界で起きた様々な事件のパロディになっている。つまり、「源氏物語」は半ドキュメンタリだったという見方も出来る。
例えば、在原業平、源融、源高明等、光源氏のモデルとされるような歴史上人物は沢山いる。当時、暇だった宮中の女官達は当然、それらの人々の噂事は熟知している。
彼女達は「源氏物語」を読みながら、光源氏とそれらの歴史上の人々を比べて、事の真相をさらに深く想像したことだろうね。

■仏教小説として

また、ある意味、不遇な生立ちの光源氏が政争に打ち勝って、一時は栄華を極めるも、最終的には寂しく死んでいくというドラマは、諸行無常の小説化という意味で仏教小説なのである。
さらに、「源氏物語」では、俗世では様々な悩みを抱える女性達(藤壺、六条御息所。女三宮等)が、出家する事によって精神的に自立していく(瀬戸内寂聴さんもこういう事言っています)が、女性と出家というテーマを扱っているという意味でも仏教小説と言いうるかも知れない。

■怪奇小説として

「源氏物語」が怪奇小説の側面を持っているというのもよく指摘される。
言うまでも無く、光源氏より年上で高貴な六条御息所は、彼に段々と相手にされなくなると、無意識的にではあるが、自らの嫉妬心を物の怪として飛ばし、夕顔や葵の上を死に至らしめる。
その力を恐れた光源氏は、その後も六条御息所の荒ぶる生霊を静めようと様々に気を使うが、上手くいかず、彼女は死後も紫の上や女三宮に取り付く。
ある意味、「源氏物語」は、光源氏VS六条御息所のサイキックバトル物語なのだ。

■怨霊鎮魂の書として

作家の井沢元彦さんは、「源氏物語」を、藤原道長が紫式部に、藤原家との政争に敗れた一族の鎮魂のために書かせたのではないかという説を提唱されている。
紫式部のパトロンであった道長が自分の氏・藤原が負けて、ライバル氏・源氏が栄華を極める物語を普通に書かせたのは、現実世界の敗者である源氏を物語の世界で勝者として表現させることによって、源氏(源融や源高明等)の怨霊を鎮魂させようとしたのではないかという事なのだ。
この説は学会とかでは無視されているらしいけど、今後、専門家の人の検証も交えて、深めて行ってもらいたい魅力的な説だと思う。

■教養小説として

さらに「源氏物語」は、歴史を経て、江戸時代頃には、上流階級の子女の教養小説という面も出てくる。
彼女達は、第23帖の「初音」から読み始めたという。
この帖は、正月のうららかな日の中で、紫上の元に預けられた明石の姫君の所に、実母の明石の御方から和歌が贈られるシーンから始まるが、”子を想う母の愛情”を子女に教える恰好の場面なのである。
でもこんな中途半端なところから読むっていうのも、ちょっと変だよね。

■文化の題材として

日本の文学史どころか、文化史に燦然と輝く「源氏物語」は、小説として楽しまれるだけではなく、和歌、能、工芸作品、浮世絵、香道等の日本文化のネタ本みたいな使われ方もされたんだ。
例えば、能の中では、世阿弥の傑作「葵上」を始めとして「野宮」「玉蔓」「夕顔」等の作品が残されている。
さて、日本人の心の中には、「ますらおぶり」=男らしさと「たおやめぶり」=女らしさという二つの概念があって、それがせめぎあう事で歴史が進んでいくという話がある。
「ますらおぶり」の概念が前面で出てくるとき、ようするに戦争の時なんだけど、逆に、人々は「たおやめぶり」を求めたりする。
そして、この「たおやめぶり」の象徴が「源氏物語」だったんだね(本居宣長)。
例えば、鎌倉時代に元が攻めてきた時、貴族達は争って「源氏物語」を読んだという記録もあるし、第二次世界大戦後、源氏ブームが起きているんだ。
また、これは、僕が好きなエピソードなんだけど、関が原の戦いの最中、東軍に細川幽斎という武将がいたんだけど、彼は古典文学に明るく、”古今伝授”を受け、さらに「源氏物語」の研究家でもあった。
その幽斎が西軍に城を包囲され、絶体絶命のピンチになってしまったんだ。
しかし、その時、時の後陽成天皇は勅使を派遣し、和議を結ばせて、幽斎の命を救ったという。
僕はその勅使が来た時に、城の包囲を解いた武将(前田茂勝)が偉いと思う。日本人は、生死を賭けた戦の時でも、いや逆に、そういう時にこそ、「たおやめぶり」に憧れる心がムクムク出てくるんだろうね。
勿論、その心がわかる徳川家康は、この前田茂勝の領地を安堵したというのは言うまでもない。

■アバンギャルドとして

また、「源氏物語」は20世紀芸術の大きな流れコンセプチュアルアートの先駆けという見方も出来る。
20世紀を代表する芸術家に、マルセル・デュシャンやジョン・ケージがいるけど、彼らは芸術が芸術として成り立つ、その制度自体を疑った人々なんだ。
例えば、ケージは、「4分33秒」というピアノ作品で、全く何も演奏しないというコンサートを行った。
ようするに、「ピアノコンサートでは、聴衆の前でピアノを弾く事によって何かを表現するものだ。」という”当たり前”の欺瞞性を暴くと同時に、鳥のさえずりとか人の息音とか、あらゆるものが聴者の心次第では素晴らしい音楽になるということを表現しようしたんだ。
これを文学に持ってくるならば、何も書かない事によって、書くという表現以上のものを表現しようとする態度という事になるよね。
「源氏物語」第41帖の「雲隠」は、光源氏が亡くなる所の帖であるが、それが巻名だけで中身が無い。
何故、その帖の中身が無いのかに関しては、いろんな説が歩けど、僕は、紫式部は書かなかったんだと思ってる。
紫式部は、源氏の死という最も悲劇的な場面を読者達の心にゆだねたんだね。
これって極めて現代芸術的だと思わない?

いずれにしても、1000年も前に、こんなこと考えた紫式部ってやっぱり天才だと思う。

まさむね

古舘伊知郎を大相撲の実況アナに

古舘伊知郎は「報道ステーション」で一体、誰に向けて語っているのだろうか。

強いメッセージというものは、語るべき相手が明確に見えていないと発する事が出来ないと思うのだが、現代の夜のニュース番組においては、その相手がそもそも存在しえないのではないだろうか。

確かに、20世紀の終わり頃、個性的なキャスターが個性的な語り口で画面のこちらに向かって語りかけるニューススタイルにリアリティを持てた時代があった事は誰しもが認めるところだろう。
ニュースステーションの久米宏、NHKニュース11の松平定知、NEWS23の筑紫哲也らの時代である。

しかし、インターネットが普及し、多くの人がネットから情報を収集し、そこで自分なりにその情報を批評し、発信できるような時代になるとアンカーと呼ばれる人々の、カメラに正対しての偉そうな意見の価値は激減してしまった。
それは同時に、マスメディアが対象とする、いわゆる「国民」とか「大衆」が霧散していく過程とも重なる。
1999年という年は将来、アンカー界の巨頭、久米宏と松平定知が降板し、2チャンネルが立ち上がった年として、記憶されていくに違いない。

それから、約10年。筑紫哲也が一線を退いた後、いわゆる個性的なキャスターは古舘伊知郎だけになってしまった。
NEWS23もNHKニュース10も、アンカーに、人畜無害な凡庸顔を置いている。

孤塁を任された古舘伊知郎が、気の毒に見えてしまうのは僕だけであろうか。

かつて、プロレス大好きだった僕にとって、古舘伊知郎は、最も尊敬すべきプロレスの語り部であった。
言うまでもないが、彼は、80年代、「ワールドプロレスリング」でのアナウンサーである。
「黒髪のロベスピエール」(前田日明)、「わがままな膝小僧」(高田伸彦)、「哀愁のオールバック」(寺西勇)等、彼が紡ぎだすレスラーに対する過剰なニックネームは秀逸であった。
彼はプロレスという虚実の皮膜の間に存在する見世物を、最大限にリアリティを持たせながら増幅させて伝える伝道師としては、最高の技術と情熱を持っていたのである。
極言するならば、アントニオ猪木の過激なプロレスは、古舘の過激なアナウンス無くしては成立しなかったのではないだろうか。

しかし、現在、しかめっ面をして、権力を批判する、あるいは嘆くという紋切り役を強いられる古舘伊知郎にかつての自由奔放な言葉の魔術師のイメージは無い。

恐らく、現在の彼を、本来の古舘伊知郎へと再生出来るとしたら、最近、スキャンダル続きの大相撲中継の実況アナウンサーへの大抜擢だけだろう。彼の古巣のプロレスは、彼がいない間にほぼ死滅しちゃったからね。

副音声でいいから...無理か。

まさむね

純愛一直線「イノセントラブ」は成功するか

先日(10月25日)、自ら結婚式を予約していたホテルに、その当日に放火した男が逮捕された。
容疑者の供述から、彼は、実は既婚者であり、それが判明するのを恐れての犯行であった事がわかった。

世の中、いろんな事件が起きるものだが、これまた、普通では考えられないとんでもない事件であった。

結婚式に招待されていた人の中に、男が既婚者だった事を知ってる人はいなかったのだろうか?
結婚当日、彼は何と言って現妻の家から出てきたのであろうか?
婚姻届はどうしようと思っていたんだろうか?
とりあえずその日には式が出来なかったとして、仕切り直しの式当日はどうしようと思っていたのだろうか?
この事件を知って、現妻とその親族、新妻とその親族、会社の同僚、友人達、ホテル関係者はどう思ったのだろうか?
いったい、彼はどんな性格だったのだろうか?

等々、疑問は尽きない。

しかし、実は僕は、彼の気持ちはわからなくはないのだ。
恐らく、彼の頭の中の願望の世界では、現妻とも新妻とも、それぞれに楽しく暮らす絵が描かれていたのだろう。
勿論、それは、現実生活としては不可能だ。有り得ない。
しかし、彼は願望と現実の間に挟まれ続けて、対応を遅らせ、問題を先送りし続けて、最後に、放火に至ってしまったのである。
そういう意味で、彼はあまりにも純情だったのかもしれない。

ところが、彼が持っているような、ある意味での内面の純情さ(ナイーブさ)は、ドラマの登場人物の行動のモティベーションとしてはアリなのだ。

そのいい例が、「イノセント・ラヴ」の主人公の佳音(堀北真希)のいわゆるイノセント(純情)な気持ちである。
例えば、前回も、一目惚れした殉也(北川 悠仁)のあとを付け回す佳音。
彼が落としたハンカチを届けに彼の家に行き、鍵が開いていたため、勝手に侵入してしまう。
しかも、以前に入ってはいけないと言われていた部屋にも忍び込もうとするのだ...

恐らく、彼女の心情とシンクロしてドラマを楽しんでいる人にとっては、彼女の行動は、違和感は無く見れるのだろう。
多くのドラマファンにとっては、そこに描かれている現実のリアリティよりも、心情のリアリティの方が重要だからだ。

しかし、この心情最優先主義という思想自体が、最近、徐々に、揺らいで来ているように思える。
いろんなニュースを見ていても、同情を惹こうとする振る舞いに対して、以前ほど、多くの人々の感情が揺り動かされなくなってきているように思われる。
例えば、ちょっと前に、高速道路を作るために、幼稚園のイモ掘りが中止されるというニュースがあったが、昔だったら、泣き叫ぶ子供の前では、行政への非難が集中しそうな場面も、逆に幼稚園側の不可解さの疑問の声の方が大きかったようだ。

このような、心情最優先主義の後退が、最近のドラマの視聴率の低迷の背景にあるのではないかと、僕には思われる。

この夏、「恋空」がTBSでドラマ化されたが、昨年、映画や小説で大ヒットした割りに思ったような数字を稼げなかった。
恐らく、「恋空」というコンテンツがテレビというマスメディアで流されて、国民的に共感を得られる程の”広い心情のリアリティ”が無いのだ。
それは、あくまで携帯サイト、映画館レベルの人々が共感出来るリアリティにすぎなかったのではないか。(恐らく、多くの大人達にとっては、「恋空」の登場人物の行動・心情は理解不能だったのではないか。)

さて、そんな状況を受けて、月9というメジャーステージで、心情最優先主義ドラマ「イノセント・ラヴ」がどれほど、世間に受け入れられていくか。
数字の動きが楽しみだ。

まさむね

民主党は小沢待受など配っている場合か

ozawa.gif民主党は、小沢さんの携帯着せ替えツールとか配っている場合じゃないと思う。

僕はこの待受け画像を見て、最近、体調が思わしくない小沢さんに不幸があったのかと思ってしまった。

一方、麻生首相が定額減税、地方への緊急給付金、住宅ローン減税、金融機能強化法修正等を含む追加経済対策を今月末に発表するそうだ。
それに伴い、解散/総選挙に関しては、年内という線は無くなった(マスコミの報道なのでいつも通りアテにならかいかもしれないけど。)。
麻生首相の、「政局より政策」「景気対策第一」という錦の御旗の前では、与党も野党も、マスコミも説得力のある反論が出来ないでいるのが現状である。

これは、どんどん、麻生首相の思うがままの状況になってきているのではないだろうか。
しかし、彼は運がいい。
世界同時金融不況、日本では異常な円高、株安といういわゆる”麻生さんのせいではない”大津波が来てくれたのだ。
これを機に、元々、バラマキ大好き体質だった麻生さんの経済政策がほとんど批判される事が無く、支持される状況になってきている。
誰も先の事なんてわからないのだから、出来る限りの対応をしようって話になりやすいく、だから、畢竟、バラマキに対して文句が言いにくくなってしまうのだ。

しかも、その財源は、元々民主党が自身の政策の財源として主張していた埋蔵金だという。
政府・自民党はずっと否定してきた埋蔵金だが、いつの間にか、その存在を前提にして話が進んでいるのだ。
また、民主党からの要求で一般財源化したガソリン税も使うという。道路の話はどうなったのか?

そうなってくると、これらの麻生首相の政策が実現した後、現在の民主党があてにしている財源が既に無くなっている可能性もある。
万が一、来年の総選挙で民主党が政権を取ったとしても、その政策が実現出来ないような状況を作ってしまおうという事なのか。
これは、民主党に使われてしまうなら、それより前に使っちゃおうという意地悪にも見える。
さすが筑豊の川筋者の血を引く麻生首相。喧嘩は上手だ。

それにしても、解散権というのは何と強い権利なのだろう。
それは、例えば、100M走において、特定のランナーにスターターの権利が与えられているようなものだ。
相手の緊張感が切れてきたりして、最も、スタートしてほしくなく、自分にとってはベストのタイミングで、ピストルが撃てるのだから、これは、与党にとって圧倒的に有利な権利なのだ。

マスメディアは、このピストルを撃つタイミングに関して、今まで外しまくってきた。10月26日、11月2日、11月9日、11月30日と。
恐らく、このマスコミの体たらくは、彼らが、過去の解散例のからの類推という永田町的常識という目でしか、状況を見られなくなってきている事の証拠であろう。
しかし、小泉さんの郵政解散以降、その常識は既に無くなっているのにだ。

また、一方、情けないのが民主党だ。
携帯着せ替えツールも情けないが、麻生首相のバー通いをいつまでも批判してみたり、インドの首相との会合をキャンセルしたり、党首討論から逃げたり、新テロ特措法の審議に関する方針を変えたり、創価学会問題を取り下げたり、マルチ問題をひきづったり...
なんともやっている事がヌルい。

もし、民主党にここで起死回生が打てるとしたら、(勿論、民主党も準備をしていると思うけど)誰しもが納得出来るような、しかも、自民党には出来ないような経済対策案を、即急に提示する事である。
しかも先に発表してしまったマニュフェストとの整合性も取らなくてはならない。

ここは、いかに解散に追い込むかという駆け引き力ではなく、政策力が試される局面だ。

まさむね

「スキャンダル」とdocomoの思惑

提供スポンサーの意向がドラマに残した痕跡を深読みするというのも、ドラマウォッチャーの楽しみの一つである。

今クールのドラマで言えば、TBSの日曜劇場「スキャンダル」はNTTdocomo提供番組だけあって、携帯電話が重要な場面で使われていて興味深い。

例えば、主人公の4人の女性が持っている携帯の使い方、色は、それぞれのキャラクタを具現化している。

バリバリのキャリアウーマンだが、一方で引き篭もりの子供を抱える悩み深い新藤たまき(桃井かおり)、携帯の色は闇を表す黒。家事をしながらストラップで首からさげた携帯をテブラモードにして仕事話をするシーンが、新しい女性のスタイルを示唆。
金銭に細かく世間体ばかり気にする財務官僚の夫からの支配にうんざりする河合ひとみ(長谷川京子)、携帯の色は夢を表すピンク。息の詰まる日常で唯一の楽しみは、“薔薇姫”の名前で妄想の生活を書き綴る携帯ブログのみ。
20歳年上の美容整形医の妻だが、夫の異常な嫉妬と束縛に耐えている鮫島真由子(吹石一恵)、携帯の色は派手さを表すデコ電。これはあくまで予想だが、夫が彼女の携帯を盗み見て騒動になる可能性大。
理想の主婦を演じながら、夫と娘からあまり相手にされない高柳貴子(鈴木京香)、携帯の色は貞操をあらわす白。2話の最後では夫の浮気場面という修羅場に遭遇するも、行方不明になった友人の白石理佐子(戸田菜穂)からの電話が...

来週からの新展開にも、重要な役割をはたしそうな携帯電話。今後も、目が離せない。

しかし、さらに深読みするならば、前回、貴子が行方不明になった理佐子(戸田菜穂)の旦那・久木田慶介(加藤虎ノ介)に貴子の旦那・高柳秀典(沢村一樹)が理佐子と付き合っていた事を知らされるのが、なんとKDDIが入っている泉ガーデンの目の前という設定に、ネガティブイメージポイントをライバル社の本社前に持ってく
るdocomoのスキャンダラスさなセンスを感じざるを得ない。

さらに言えば、この泉ガーデンは、かつて、あの永井荷風の屋敷があったところだ。
言うまでも無いが永井荷風は、耽美文学の巨匠であるが、スキャンダラスな猥褻裁判として争われた「四畳半襖の下張」の原作者としても有名ある。
そしてさらに荷風の先祖をたどっていくと、一族には、あの藤原道長に「浮かれ女」と称されたスキャンダラスな女流歌人・和泉式部、「伊勢物語」の主人公で、性的に放縦だった言われるスキャンダラスな美男、在原業平の名前も見える。

そんなこの土地を、このドラマ「スキャンダル」の重要なロケ地に選ぶとは、奥の深さはなかなかのものだ。

それじゃあ、次はソフトバンクがある汐留で何か不吉な事を起すか?でも、あそこは、日テレのお膝元だからなぁ。

最後に、新藤たまきの夫・哲夫(石原良純)が部屋を片付ける時に、最後まで黄色いタウンページが置いてあった。docomoではないが、NTTさすがしぶとい。

まさむね

橋下と東国原の発言が一線を越えた

最近、政治家の発言が「ある一線を越えたな」と思わせるようねシーンを度々テレビで目撃する。

例えば、今月の23日、財政再建を進める橋下大阪知事と私学助成削減に反対する現役私立高校生との意見交換会があってその時の映像が広く報道された。
それぞれの窮状を涙を交えながら訴える高校生達。一人の女子高校生が言う。
「ちゃんと税金取っているなら、教育、医療、福祉に使うべきです。アメリカ軍とかに使ってる金の余裕があるのなら、ちゃんとこっち(教育)に金を回すべきです」
それに対して、橋下知事は「じゃあ、あなたが政治家になってそういう活動をやってください」とやり返した。

市民からの陳情に対して、「あなたが政治家になってやってください」と返した政治家の発言というのは今まであったのだろうか。

また、先日、「TVタックル」でこんな場面があった。
「800兆円もの借金を作ったのは一体、誰の責任なんだよ。」と叫ぶ大竹まこと。
それに対して、東国原宮崎県知事が応える。
「それは、そういう政策をする政治家を選んだ国民の責任です。だから800兆円の借金は国民のものです。」
こういう言い方をする評論家は今まで見た事はあった。しかし、政治家自らが、このような発言をしたのは始めて聞いた。

確かに、橋下さんも東国原さんも、特定の団体からではなく、圧倒的な選挙民からの支持を背景に知事になった2人だ。だから、思い切った事も言えるのだろう。
しかし、一昔前だったら「それを言っちゃあ お終いよ。」((C)渥美清)的な発言として相当反発を受けたに違いない。
しかし、問題発言とされるような気配はそれほど無いように思われる。

今までの政治家は常に弱者に対して、同情するという姿勢をとり続けてきた。
しかし、それに対して、僕たちは、どこか欺瞞の匂いを感じてきたことも確かだ。
だから、こういった正論を堂々と主張するという、新しい感覚の発言は歓迎すべきことなのかもしれない。
言いたい事を言い合える土壌っていうのが本来の民主主義の前提だからね。

でも、それは同時に、”同情への訴えかけ”という、今まで弱者(とされてきた人々)の武器をも無化させかねないって事に関してどうなんだろうか。
恐らく、江戸時代の昔から、庶民は”同情への訴えかけ”を一つの手段として権力側に対して、要求を突きつけてきた。
それは、時に、作法(手続き)としての陳情だったと思うけど、物事を決めていく一つのプロセスとして、とっても日本的に根付いていたんじゃないかな。
下の者がお上に何かを訴えるときは”涙流して”するっていう作法、それを見てお上は情状酌量して、温情を示して納得点を見つけるっていう作法ね。

ところが、この作法が段々崩れてきたんだと思う。恐らく、その一例が、橋下さんや東国原さんの発言の背景にあるじゃないかな。

これがいい事なのか、悪い事なのか、簡単には言えないが、政治家の発言は今後ますますこの流れに沿ったものとなっていく事だけは予想できる。

まさむね