「スキャンダル」最終回を残して推理してみました

最終回一回を残して、「スキャンダル」は佳境に入ってきた。
 
しかし、それにも関わらず、いまだ全体像が見えてこない。
 
今回の最後の推理だが、我ながらかなり苦しいと思われるが、精一杯考えてみたので、宜しければ一読お願いします。

 
キャスト

高柳 貴子 – 鈴木京香
高柳 秀典 – 沢村一樹

河合 ひとみ – 長谷川京子
河合 雄一 – 光石研

鮫島 真由子 – 吹石一恵
鮫島 賢治 – 遠藤憲一

新藤 たまき – 桃井かおり
新藤 哲夫 – 石原良純

白石 理佐子 – 戸田菜穂
久木田 慶介 – 加藤虎ノ介

川島 礼二 – 植田浩望
水谷 隼人 – 細田よしひこ
勝沼 龍太郎 – 小日向文世
  ◆
まず、8年前のクラブでの久木田による金沢傷害事件の真相だ。
おそらく、この事件は、雄一の画策により、久木田が金沢に対して傷害事件を起こさせるように仕向けた事件だった。
まず、金沢と雄一が、クラブで、暴言を吐き、久木田を怒らせる。
その流れの中で、久木田が傷害事件を起す。
そして、示談交渉になる。
理佐子は、かつての上司・新藤たまきから、夫の弁護士・哲夫を紹介されるが、哲夫の能力がなかったため、示談金=1000万円を支払うことになる。

理佐子は、その後、秀典、賢治とのお付き合いを継続し、示談金の一部を彼らに借金する。
必死に返済する理佐子だが、金沢は、さらに金をゆすろうとする。さらに、理佐子の体を要求する金沢。
そして、さらに雄一は、金沢と理佐子の仲介役をさせられる。
しかし、その間、理佐子と雄一にも関係が出来る。
罪悪感はあれど、どうしようも出来なかった。これで、雄一は理佐子の言いなり状態となる。
  ◆
さて、結婚式間近になり、理佐子は金沢と手を切るための手切れ金として、秀典、賢治に借金を申し込むが二人に断られる。
おそらく、この時、「お互いの浮気関係を貴子と真由子にばらすぞ」などと、理佐子から逆に脅されていたのではないか。
その後、二人は理佐子の言いなりに近い状態に立たされる。

そして、結婚式当日。妻4人は結婚式に出席しているので夫の行動が確認できない状況で、理佐子の計画が実行に移された。

まず、雄一は、理佐子から金沢を六本木に呼び出すように指示される。
また、秀典と賢治は、殺人現場に近くに待機させられる。
理佐子に「金沢と手切れ交渉するが、もしも、自分が危なくなったら助けて欲しいので近くにいて欲しい」などといわれていた可能性がある。
さらに、理佐子は、哲夫に対しては、たまきを出迎えるために、六本木まで出て来させる。殺人直後のタイミングで、現場から理佐子をピックアップさせるようにしたのだ。

そして、理佐子は、金沢をラブホテルに連れ込み、そこで、金沢を殺害しようとする。
しかし、理佐子の殺害計画は失敗する。ナイフで金沢の足をさすが、致命傷には至らせることはできなかった。

そして、その状態で理佐子がその場から突然、失踪する。
  ◆
実は、理佐子は、久木田との結婚はあきらめていた可能性がある。
この殺人を犯す事によって、理佐子は、金沢との関係を清算する。
そして、それと同時に、理佐子は、過去に汚れた自分との縁も切ってもらい、久木田には国際ピアニストとして新たな人生を送ってほしいと願っているのではないだろうか。
  ◆
現場に残された雄一、秀典も呆然とするが、すぐにその場から逃げる。
そして、理佐子は哲夫に発見されて、新藤家へ。亡くなった駿介の部屋に入るのだ。

これはあくまでも、理佐子個人の計画だが、逮捕されたとしても、彼女の証言によっては、雄一、秀典、賢治、哲夫の4人は怪しい立場に立たされるのだ。
共犯ということにならなくても、少なくとも理佐子との関係がそれぞれの妻にばれてしまうのだ。

これで、4人の平和な結婚生活が壊れることになる。
これが、理佐子が初回の結婚式の時に、「私は勝ったわ」と言った理由ではないのか。

上記の計画が実行されれば、理佐子にとっては、自分は純愛を全うし、他の4人は偽りの結婚生活をしていたという事実をつきつけることが出来るからだ。
  ◆
次回の予告によると、理佐子は殺人計画の容疑で拘留。
そして、4人の妻は、理佐子逃亡の幇助の容疑で別に拘留となるようだ。
  ◆
しかし、すぐに4人は釈放されるだろう。そして、それぞれの結婚生活にどう、決着をつけるのだろうか。
4組とも、離婚、4人の妻は新たな生活に向かって、お互い励ましあいながら、前向きに生きようと決心する。という終わりがスッキリするように思えるが、果たしてどうなるであろうか。

まさむね

来年の紅白歌合戦にモーニング娘。が出場するにはどうすればいいのか

モーニング娘。の11年連続、紅白歌合戦出場の夢が途絶えた。
と同時に、ハロー!プロジェクトとしての紅白出場者は一人もいない状況になってしまった。
(唯一、里田まいが羞恥心 with Paboのメンバーとして出場)

ファンにとっては痛恨の痛みだ。
しかし、来年はきっと出場するに違い。今回は、モーニング娘。の歴史を振り返りながら、来年の紅白出場に向けての新たな提言をしてみたいと思う。

そもそも、モーニング娘。がデビューしたのは、今から10年前の1998年。
ASAYANオーディションの落ち組の5人(中澤裕子、石黒彩、飯田圭織、安倍なつみ、福田明日香)がメジャーデビューを目指して、大阪・心斎橋のHMVやナゴヤ球場でのCD手売りからのし上がったのである。
すなわち試練とハングリー精神から始まったのである。

実は、この1998年は、J-POPにおいても、さらにそれを取り巻く、日本社会においても大きな断層のあった年なのである。

社会史的に言えば、この頃、この社会的変化を象徴する二つの事件が起きている。

一つが、山一證券の廃業だ。
これは、「学校に行って、いい企業に入って真面目にやっていれば一生安泰」という夢の崩壊の象徴である。
そしてもう一つが、和歌山の砒素入りカレー事件だ。
こちらも「日本中どこにでもある共同体。そこに普通に暮らしていれば安心」という夢の崩壊の象徴である。

社会学者の山田昌宏氏は、この年に起きた、大きな社会的変化を1998年問題としてまとめている。
以下に上げるものの数が、この年に激増しているというのだ。

自殺者数
青少年の凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦)の数
成人事件の強制わいせつ認知件数
セクハラ相談件数
児童虐待相談処理件数
離婚件数
できちゃった結婚の数
不登校児童の数
高校の中退率

このような現象は、それまで日本を支えていた社会システムの崩壊と言い表せると思う。
そして、このような社会の変動時期には、人々は、それまで活躍していたアーティストから、新しい時代のアーティストを求めるものなのである。
歌は世につれ、世は歌につれ と昔から言われるが、こういう事なのである。

これらの社会的変動という大きな流れの中でJ-POP界にも大きな流れが起きている。
この頃、90年代を席巻した小室ブームが終わりつつあったのだ。
彼の最後のミリオンセラーは、1997年、コギャルの卒業ソングと解釈された安室奈美恵の「Can you celebrate?」と”嘘”との決別を表現した華原朋美の「Hate tell a lie」であった事は、一つの時代の終わり(新しい時代の胎動)を示唆していて興味深い。
また、同様にギャルの応援歌を歌い続けたSPEEDも、1998年、ソロとしての活動が目立つようになり、翌年に解散する。

そして、同時に、この年(1998年)は、モーニング娘。の他、宇多田ヒカル、MISIA、椎名林檎、aiko、そして、浜崎あゆみ等、自分の個性を、自分の言葉とサウンドで表現できるミュージシャンの多くがデビューするのだ。
本格的なR&Bサウンドを日本化した宇多田ヒカルとMISIA、女の子の本音をロックで表現した椎名林檎、普通の人の普通の言葉で恋心を表現したaiko、アダルトチルドレンの内面を表現した浜崎あゆみ等の多彩な面々。

その中で、初期のモーニング娘。も、ターゲットユーザーを男子ではなく、どちらかといえば、女子に置いていた。
それはまだ90年代の小室系(ギャルの応援歌)の世界観を引きずっていたようにも思える。

ねえ はずかしいわ 
ねえ うれしいのよ
あなたの言葉
「モーニングコーヒー飲もうよ二人で」

門限どおりに 
うちに送ってくれる
私より弱虫ね 
時間が来るまで
ぐるぐると遠回り くちづけも出来ない人

これはメジャーデビュー曲「モーニングコーヒー」の冒頭の歌詞であるが、ストリート系少女の生活が如実に表現されている。

また、この時期のCDジャケットを見ると、2作目「サマーナイトタウン」「抱いてHOLD ON ME! 」「Memory 青春の光 」から、国民的大ヒット曲「LOVEマシーン」までの写真は、挑発的な視線をこちらに向けてたたずんでいる。
そんな彼女達には男性に対する媚は見られない。

しかし、モーニング娘。にも転機が訪れる。
「LOVEマシーン」のミリオンヒットによって、彼女達は一気に国民的アイドルとしての地位を得てしまうのだ。
こうなると、逆に挑発的な視線は邪魔なものになってくる。

そして、CD販売的にピークをむかえる2000年の「恋のダンスサイト」には、彼女達の笑顔は、全開になるのである。
また、この年の第4期オーディションでは、石川梨華・吉澤ひとみ・辻希美・加護亜依の個性的な4人のメンバーを迎え入れる。

もともとモーニング娘。は、その名前の起源からして、「モーニングセットのように、一つのメニューにいろんな物(コーヒー、サラダ、トースト、ゆで卵等)が載っているようなグループ」というコンセプトがあった。
そういう意味で小柄な辻、加護、大柄でボーイッシュな吉澤、超美形の石川をここでそろえたのは、正しい選択だったと思われる。
国民的アイドルとして、モーニング娘。を日本人のマジョリティに認知してもらうためには、一人一人のキャラ立ちが絶対に必要だったからである。

しかし、おそらく、つんくは、このような状況がいつまでも続くとは考えていなかったであろう。
それは常識というものだ。ピンクレディーだってSPEEDだって、全盛期は2年が限界だからである。
選択肢は2つあった。このまま国民的アイドルとして、拡大路線を取るか。そしてもう一つは、コアファン(当時およそ10万人の男性ファン)に特化した商品にしていくか。の2つである。

そして、その方針が明確に示されたのが、2001年に行われた第5期オーディションと、2002年に行われた第6期オーディション(発表は2003年)である。

高橋愛、紺野あさ美、小川麻琴、新垣里沙(第5期)、亀井絵里、道重さゆみ、田中れいな、藤本美貴(第6期)と大量に加わった新規メンバーは誰もが標準的にかわいい。
いわゆる男好きのする娘(女性から見て「この娘は、世間の男は好きそうだなぁ」とした漠然とした感じを持つような娘)を集めている。
それゆえに、第5期、第6期の娘達には、第4期メンバーのように凹凸が見られないのだ。

また、2002年にはエース後藤真希を卒業させたことも、同じ流れの上にあると考えることが出来る。
歌の才能、その容姿において、絶対的な人気はあるが一方で、無愛想な彼女をコアファン向け商品には入れず、ソロとして別商品にしたのだ。
この頃の後藤のソロには、どちらかとえば、ヤンキー的な風味が強い。
それはアイドルというよりもアーティスト指向、モーニング娘。というよりも、どちらかといえば、浜崎あゆみにターゲットが近いような感じがしたものである。
それを考えると、その後、遠回はしたが、後藤がエイベックスの所属となった事はある種の宿命を感じさせる。

僕はこのつんくの路線は基本的に正しかったと思っている。
これによって、モーニング娘。ビジネスは、マスという海に向かって地引網を引くような戦略から、”固定ファンから厚くいただく”戦略に切り替えたのである。
新しいファンを獲得するのではなく、囲い込んだコアファンを満足させる方向に進んだのである。

別のエントリー(モーニング娘。の奇跡)において、詳細を書いたが、2004年~2008年までの間、彼女達のCDの初動は、ほとんど変化がない。
例えば、2004/05/12発売の「浪漫」は、36,531枚で4位だが、2008/04/16発売の「リゾナント ブルー」は48,086枚で3位なのだ。
ということはモーニング娘。をささえるファン層の厚みはそれほど変っていないことを示しているのだ。
そして、おそらく、これらのファン層に対して、CD、コンサート、ディナーショー、旅行、グッズ、携帯サイトなどのサービスを行うことでビジネスとしては十分に成功しているのである。

しかし、この路線に切り替えたという事は、ビジネス的に安定する一方で、長い目で見れば、いつかいわゆる世間の目から消えざるを得なくなってしまう事も意味していた。

おそらく、このことの象徴的な出来事として、2008年の紅白不出場を理解すべきなのである。
だから、もしも、2009年の目標が紅白再出場であるとするならば、今までの方向性を転換させる必要があると思われる。

どうすればいいのだろうか。

ここで、モーニング娘。の原点に戻ってみよう。
先ほども述べたが、あの頃(1998年頃)、社会の大きな変動があった。それに伴って、新しい表現を持ったアーティストが出現した。
モーニング娘。も最初のターゲットは同性の娘(女子中高生)だった。
おそらく、来年は今年以上に、不況の波が日本列島を覆うだろう。
その苦しい中で、女子中高生はきっと新しい価値観を生み出してくるに違いない。
モーニング娘。の表現が、そんな女子中高生の価値観を再度、汲み取れるかどうか、おそらく、そこが、紅白に出場できるかどうかの鍵を握ると思う。

そして、そのためには、世間に届くような形で、新たな競争原理、ハングリー精神を導入する事が大事だと思う。
現時点では、それが、新メンバー加入か、現メンバーの脱落か、新しい曲や詞の応募になるのか、解散+全員新規オーディションになるのか、わからないがいずれにしても2009年は勝負の年になると思う。

ただ、勿論、小さくともビジネスとして生き続ける限り、現状のモデルを継続するという判断もおおいにあるだろうが、それであれば、来年の紅白への道はますます遠くなることは覚悟しなければならないのではないだろうか。

参照:何故、ハロプロの中で里田だけが紅白に出演出来たのか

まさむね

内定を取り消された学生達は逆にチャンスではないか

内定を取り消された学生達は逆にチャンスではないだろうか。

これから社会人になろうというタイミングで、思わぬ挫折を負ってしまったと思われているかもしれないが、そんな会社に入らなくてよかったではないか。

早晩、つぶれるよ。
あるいは、一度、約束したことを守れないような矜持の無い会社ということだ。
入社してからもいろいろと苦労するに違いない。だったら、よかったではないか。

おそらく、これからの時代、2回や3回の転職なんて当たり前の時代になるわけだから、その一回目が他人より早く来たと思えばいい。
しかも、今後の人生におけるネタ話が出来たんだから、それはそれで面白い経験だよね。

もし、僕がそういう立場だったら、

1)自分のブログの中に「とりけされた内定日記」みたいなカテゴリーを作って、自分の行動と会社の対応を書きまくる。
2)取材に来たマスコミと顔見知りになり、その経過をどんどんリークし、あわよくば、有名人になる道を模索。
3)最終的な目標を決めて、例えば、社長と一対一面接に持ちこんで謝らせるとか、慰謝料500万円を払わせるとか、それに向かって、戦略を考え、実行。
4)一方で、新たな就職活動を始める。

みたいな事、するかも。そうすれば、社会の仕組みがわかるし、ユニークな経験はきっと、その後の人生に役立つと思う。

まさむね

既得権益文化人(瀬戸内寂聴や美輪明宏達)はいつまで跋扈するのか

先日、「久米宏のテレビってヤツは!?」に瀬戸内寂聴さんが出演していた。

80歳を過ぎてもパワーがあって饒舌で、おそらくこういう人を、”人間的”だとか、”人間力”がある人っていうんだろうな。
スタジオにいた森永卓郎、YOUの2人も、「チャーミングだ」と言って褒めていた。
おそらく、ひとは相手に関心いけど、しかし、嫌われたくも無い時に、とりあえず”褒める”んだろうって感じた。

そういえば、Vの中で瀬戸内さんは肉をおいしそうに食べていた。
久米宏がつっこんだら、「お釈迦さまは、そんな事(肉を食っちゃいけない)は言ってはいない。悪いのは、生き物を殺す人で、私は自分で殺したんじゃないから、食べていい」みたいな事を言っていた。
これって、相当まずい発言じゃないのか。
   ◆
しかし、言いたい放題の彼女だが、その意見で唯一、いい意味でハっとさせられたのは、番組の最後の方で「前世なんてありません」とビシっと言った事だった。
論語の一節『子不語怪力乱神』(先生は、決して人間の理性で説明のつかないような不思議な現象に関しては語らない)という言葉を思い出した。
   ◆
そういえば、前世等に関して公の場では語らないというような作法は、昔の人(例えば、昭和一桁生まれの世代)にとっては当たり前のことだった。

逆に言えば、多くの輩が、前世とか、霊とか、あの世とか、生れ変りとかを、公の場で普通に言い出したのは、ここ20年くらいのことかもしれない。
確かに、それまでもUFOが見える人とか、スプーンを曲げる人とかがテレビでブームになることはあったけど、それはあくまでもマイナーな存在だったと思う。
しかし、昨今、そういった考え方をする人の方がメジャーになってきたということなのだ。

ある大学生のアンケートではこんな結果が出ている。(「スピリッチュアルにハマる人、ハマらない人」香山リカ P23)

Q.魂や霊魂があると思うか?

ある・・・・61%
ない・・・・10%
わからない・28%

Q.前世や生れ変りを信じるか?

信じる・・・56%
信じない・・14%
わからない・30%

こういう状況だから、僕は逆に、瀬戸内さんの言葉を新鮮に感じてしまったのだ。
だから、最近のスピリッチュアルブームに対して、瀬戸内さんには、ビシっと糾弾してほしいのだが、難しいか。
   ◆
そんな瀬戸内さんも、実は美輪明宏さんと親しかったりするからだ。少なくとも公の場で、この2人が世界観の違いをもとに、討論するというような場は現時点では想定しにくいのだ。

「ボクらの時代」で、平野啓一郎さんも含めて鼎談した時も、そんな二人の仲の良さが垣間見られた。

当たり障りの無い話をして、お互いにホメあうベタベタの三人。
それに加えて、「昔はよかった」「権力は悪い」「日本人は劣化した」っていう話が続く。かつて若い頃にはとんがっていた人も、結局は、こういう凡庸な言説に取り込まれてしまうものなのだ。しかも、彼らにはおそらく、そういった凡庸化の自覚も薄いように感じられる。
日本はいつまで、こういった既得権益文化人が跋扈する国なのだろうかと、暗澹たる気分にならざるを得ない。

平野クンって、茶坊主?少しは頑張れ。

まさむね

顔面湿疹のためインターフェロン一時中止

顔面のアレルギーが強すぎるため、一時、インターフェロンを中止。
ネオファーゲンに変えた。
処方目的は、湿疹、皮膚炎、慢性肝炎患における肝機能異常の改善とある。

まぁ、あまりにも顔面湿疹が強いからしかたない。
注射は一週間に2回。
注射は大きいんだけど、血液注射だからそんなに痛くないのが嬉しい。
また、飲み薬はウルソ。

とりあえず、一時、湿疹を治してから、肝炎の治療ということらしい。

また、新たにインターフェロン始めるときに熱とか出るのは嫌だけどしかたないな。

まさむね

何故、ハロプロの中で里田だけが紅白に出演出来たのか

今年の暮の紅白歌合戦。誠に残念な事ながら、ハロー!プロジェクト(モーニング娘。、Berryz工房、℃ute等の総称)からの出場予定は、里田まいだけになってしまった。
モーニング娘。が出場できなかった件に関しては、後日、まとめて書いてみようと思うが、とりあえず今日の話題は、里田まいである。

里田まいは、北海道出身。2001年に、カントリー娘。の追加オーディションに合格。2002年1月から正式メンバーとなる。

里田がデビューした時代(2002年当時)は、いわゆるハロプロは、タレントとしての全盛時代にあたっている。
例えば、モーニング娘。はこの時期、人気芸能人の証といわれる24時間テレビ「愛は地球を救う」のメインパーソナリティを2年連続(2001年と2002年)して務めている。

そんな羽振りいいの時代に、ある種のベンチャービジネスとして誕生したのがカントリー娘。だったのだ。
彼女達は、半農半芸というコンセプトの元、田中義剛の花畑牧場で酪農業をしながらの芸能活動を行う。
しかし、それは、本格デビューにはほど遠い、実質的には”二軍扱い”であった。
そのため、カントリー娘。は、里田加入以後、何枚かシングルをリリースしているが、カントリー娘。だけでのリリースはなく、石川梨華や藤本美貴、紺野あさ美というモーニング娘。からの”出向”を借りてのリリースであった。

もし、この時期(2002年頃)に、6年後の2008年の紅白歌合戦に、ハロプロから、誰が出場しているか?という質問をして「里田まいだけ」と答えた人がいたとしたら、それは未来から来た人だと断言していい。
それほど、彼女一人の出世(とハロプロの低迷)は、当時としては、考えられないことだったのである。
  ◆
さて、御存じの通り、里田まいブレイクのきっかけを作ったのは「クイズ!ヘキサゴンⅡ」である。
初出場は、2006年の7月12日。この時の珍回答連発がおおいにウけて、これ以降、準レギュラーを獲得。(レギュラー化は2008年5月~)
いわゆるおバカ6人組の中では、初出場こそ、つるの剛士(2005年7月)の方が早いが、準レギュラー化したのは、里田が一番早いのだ。

そういう意味で、ただの無知が、アレンジによってはおバカ芸として、ビジネスになる事を最初に紳助に気付かせたのは里田だと言っていいと思う。

その後、2007年から2008年にかけて、つるの剛士、上地雄輔、野久保直樹、スザンヌ、木下優樹菜がレギュラー化し、おバカ6人組が確定し、羞恥心、Paboという男女のユニット、あわせてアラジンというユニットが結成される。
しかし、この6人をよく見てみるとそのおバカ芸には、個々に微妙な差(個性)があることに気付く。
例えば、女性の3人であるが、木下は、いわゆる不良としてのおバカ。「勉強なんてやってられねぇんだよ」的なキャラなのに対して、スザンヌは、ボーッとしたお嬢様キャラである。
「女の子は可愛ければ、勉強なんてしなくていいのよ」的な雰囲気が漂っている。
それに対して、里田は基本的には、真面目な普通の女の子なのである。
学生の時にクラスにいたでしょ。いつも何か、勉強していてノートもちゃんと取ってるんだけど、テストになるとうっかりミス連発で成績が悪い娘って。そんな感じなのだ。
例えば、以前、あるバラエティ番組で、里田がイカの塩辛が好きで、北海道に帰った際に買い求めるというシーンがあったのだが、その時、塩辛屋で彼女は自分のノートにいろんな塩辛のメモを一生懸命に取っていた。

そういえば、里田が「ヘキサゴン」でブレイクした後、何人もの元モーニング娘。のメンバー達(石川梨華や小川麻琴など)がおバカ芸に挑戦したが、彼女ほどのインパクトを残すことが出来なかった。
おそらく彼女達は、知識量で言えば、里田とそれほど変らないレベルであろう。
しかし、彼女達にはモーニング娘。だったという栄光の過去があるゆえに、無意識的にアイドルとしてのプライドを壊すことが出来なかったのだと思う。
自ら規定した自己イメージから出ることができなかったのだ。
相撲からプロレスに転向したレスラーでも、横綱経験者(東富士、輪島、双羽黒)は大成出来ないのと同じことなのである。

だから、回答が間違えたとしても普通の間違えしかできなかったのだ。
例えば、次のような質問があるとする。

問)アメリカの首都はどこか?

これに対して答えがわからない場合、普通のアイドルは黙るか、わかりませんという。
あるいは、少し勇気があってもこう答える。

答)ニューヨーク

ところが、これでは、普通の無知である。それに対して、以下のように答えられるのがおバカ芸なのだ。

答)クリントン

里田まいならば、何度も誤答を繰り返した末に、一生懸命に、こう間違えるであろう。
しかし、一方、元モーニング娘。のメンバーにはそれは出来ないのではないか。

おそらく、里田まいは、決して無回答という事をしない。一生懸命になんらかの回答をする。
そして、おそらく、その泥臭いほどの一生懸命さが、視聴者の共感を呼ぶのだ。

しかし、その姿が共感を呼ぶには、一生懸命さだけではない、彼女達の姿勢を受け入れるような、社会全体を覆う新しい価値観があるのではないだろうか。
そうでなくては、おバカキャラが社会現象にまでなることはないと思うからだ。
以下、考えてみる。
  ◆
通常、人前で間違うということは恥ずかしいことだ。少なくとも今まではそうだった。
そして、わからない場合は、わからないと言う。それが今までの倫理だった。

しかし、おバカ達は違う。間違いでもいいからとにかく何かを言ってみる。ダメだったらまた別の事を言ってみる。そういうトライ&エラーの前向きの姿勢があるのだ。

これは、長年、日本人が培ってきた伝統的生き方(毎年、暦と掟に従って、みんなで同じ作業をする農業共同体的な生活態度)とは明らかに違う。
伝統の技術を代々受け継ぐような、厳しい熟練の職人気質とも違う。
また(これは農業共同体の延長ではあるが)、周囲との協調性を重視し、コツコツと正しいことを継続することを善とするような従来の学校的、会社的共同体的な振る舞いとも違う。

それは、どちらかといえば、修正・テスト・デバッグを繰り返しながら、物を作っていくコンピュータプラグラミング的態度に似ているように思う。
また、ある銘柄にこだわらず、リスクを分散させながら、売りと買いを繰り返す株のトレーディング的態度にも似ている。
そして、これは、対象の情報が、正しいかどうかというよりも、いかに多くの人が使用したかによって、勝ち負けが決まるような検索エンジン的な価値とも通底している。

おそらく、先行き不安が広がる、未曾有の現代世界で生き残るには、信念を持って自分の信じた方向に進む強さよりも、たとえ、間違えたとしても、それに気付き、それをすぐに修正できるような柔軟性と勇気の方が重要である。

里田まいを始めとするおバカタレント達の活躍は、そんな現代的な価値観に、明らかに乗っている。
それは、無意識的な選択だとしても、決して普通の馬鹿にはできない。やっぱり、絶妙なおバカ芸なのである。

まさむね

最近、”くたびれ”が見える天才・明石家さんま

明石家さんまは、やはり天才だと思う。

小学校の時に、クラスで一番面白い人気者が、そのままずっと一番面白くて、プロになっても一番面白くて、つまり日本一になって、その日本一を30年位続けているという感じなのである。
例えるならば、サッカーのマラドーナや、陸上のボルトみたいに、負け知らずのブッチ斬りでトップになったような存在なのだ。

僕はさんまの存在をみていて凄いと思うのは、彼はあくまでも”表面的”なところである。
奥の深さが見えないところが凄いのだ。

奥深さというのものは、なにか持ち前の文化的背景(特別の知識、思想、世界観、修行経験等)があって、それを自分の中から引き出して、人を笑わせる芸風という意味であるが、ひとは年をとると自然と奥深さに頼ってしまうもなのである。
しかし、さんまは、そういった文化的背景が一切見えない(あるいは見せない)のだ。
そこが逆に凄いところだと僕は思うのだ。

さんまは、常に、その場で一番面白いだろう言葉を自分の中から、あるいは相手から引き出す。
アドリブ力が抜群といえばいいのだろうか、空気を読む力が卓越してるといえばいいのだろうか、とにかくその場限りの面白い事を言える天才なのである。

さんまを語るとき、逆にその他の同格コメディアンと比較するのが一番いいかもしれない。

例えば、北野たけしは、世界の北野としての映画の名声の他、浅草修行時代の体験、元々数学者になりたかったという理系的な冷静さ等の引出しを持っている。
タモリは、新宿ゴールデン街の退廃文化、70年代のアングラ・ナンセンス文化の匂いを、隠しナイフとしていつも忍ばせている。
紳助は、元々、さんまと同じ天才肌だが、さんまと出会って、「こいつに負けた」と思ったらしい。それから、一生懸命に自分自身の”厚み”を構築しようと努力する。田原総一朗の「サンデープロジェクト」にずっと席を置いて政治・経済に対する知識を習得したり、「なんでも鑑定団」に出続ける事によって、本物と偽者に対する感性を磨いているように見える。
また、ダウンタウンの松本も、映画というバックボーンを作りつつある。
そして、世代は異なるが、太田光は、太宰治、宮沢賢治等の日本文学、カートボネガット・ジュニア等のSF(彼の事務所名であるタイタンはカートボネガット・ジュニアの小説「タイタンの妖女」から取っている)等の文学的素養を足がかりに、文学、思想、映画等、かなり幅の広い素養を身に付けている上、「爆笑問題のニッポンの教養」等の番組によって、当代の学者達から多くのものを吸収しつつある。
さらに言えば、それに続く、クリームシチューの上田、劇団ひとりなどはそれぞれまだ修行中である。今後は、間違ってもさんま的な、感性を研ぎ澄ます方向にはいかないだろう。

それに対して、さんまの場合、サッカーとか犬好きとかの個人的趣味はあるものの、いわゆる文化的背景(奥深さ)を一切感じさることはない。
そういう意味において、彼はずっーと”小学生のまま”なのである。

しかし、そんなさんまであるが、近頃、若干の”くたびれ”が見えてきたように思えるのは、僕の気のせいであろうか。
今年の9月で終わってしまった「明石家さんちゃんねる」では、現場の仕切りを次長課長の河本にまかせる場面も多く、特に自分が興味の無い話題(例えば、美少年ネタ)などの時の存在感の無さは、これがあのさんまかと思わせる程のものであった。

一昨日、「踊る!さんま御殿!!」を見ていた時も、若干ではあるがそういった”くたびれ”が見えた。
その”くたびれ”は、編集によって、かなり隠されていたのだとは思うが、ところどころに散見された。
例えば、松村邦洋が物まねを披露すると画面は一瞬、さんまのウけた顔に行くのだが、すぐに離れてしまう。つまり、一瞬、さんまが過剰に(しかし、これが天才的なのだが、自然に、しかも独特に)、ウける事によって場が盛り上がるのだが、その盛り上がり空気の”息の短さ”が、見ているコチラに想像出来てしまうのだ。

とにかく全体のテンポを重視するさんまにとって、編集による助太刀というのが、もしかしたら欠かせないものになってきているのだろうか。
ちょっと残酷な言い方かもしれないが、もう”生”では出来ないのかもしれない、という事すら一瞬感じさせてしまっていたのである。

しかし、さんまが50歳を越え、そのうち60歳、70歳になっても、同様の芸風と、それを披露する場所、人気を保ち続けることが出来れば、その”くたびれ”も一つの味として、孤高の存在になるに違いない。
そういう意味で、さんまには、まだまだ走り続けてもらいたいと僕は思う。

まさむね

2兆円の雇用対策って何?金使う前に頭使えば!

先頃、自民党から3年間で2兆円、140万人の雇用創出を盛り込んだ雇用対策案が、麻生総理に提出された。

これって、金額だけ見ると、本格的な雇用対策のようにも見えるだけど、おそらく企業経営側、そして、現在失業している人達、ようするに全ての人々にとって、多くの疑問が残るところだろう。
内容に関しては、雇用した企業に対して、一人当たり最高100万円の補助とか、職業支援センターの充実とか、雇用保険期間の延長とからしいが、どれもこれもパッとしない。
本当に大丈夫なのって内容なのだ。

まず、雇用時の100万円だけど、政府が労働者に持参金を付けて、あと、よろしくって事でしょ。
元々、仕事がなくて、派遣社員、期間工なんかが解雇されているんだから、そんなことしたって、意味ないよね。
企業にしてみれば、それよりも発注してよ、ってことだからね。

さらに、こういう制度を利用した悪質な詐欺なんかも出てきそう。
書類上で就職させて、月・数万円だけ給料上げて、3ヶ月後に、もう来なくていいよみたいな事を、狂言でやるとかさ。
勿論、そのあたり、政府は、そういう事が無いように十分考えているんだろうけどさ。
先日の定額給付金のドタバタを見てると、政治家がやるって先に言っちゃったもんだから、後で行政が取り繕おうとして無理が出て、みたいな流れも有り得なくないからね。

さらに職業支援センターだけどさ、これって職安を充実すればいいっていう話じゃないのでしょうか。
普通の国民感覚だと、また新しい天下り先が出来るわけね。って思うよ。

それにしても、僕も昔、何度か職安に行ったことあるけど、職員やる気ないよね。
そして、そこに足を運ぶ人たちは、ただ、手当てが欲しくて行ってるんだけど、あの30人くらい立たせてさ、一人づつ名前読んで書類渡すの辞めて欲しいよな。
全く繊細な配慮なし。
職業支援センターっていうなら、職安の人たちをにまず全員馘首にしてから、対人関係支援プログラム受けさせて、使いものになるんだったら再雇用したら。
あと、関係ないけど、あのハローワークって言い方いまだに納得できない。「こんにちわ仕事」っていうの?英語にもなってないんじゃないの?

さらに、雇用保険期間の延長だけど、今、確か、雇用保険って月々かなり安いよね。
数百円だったような...僕はそれを3000円ぐらいにしてもいいから、セーフティーネットを充実させて欲しいと思うよ。
値下げするなんてのは、本当に目先の微々たる”媚売り”以外の何物でもない。
もっとも、私の仕事館なんか作られちゃうのも、それはそれとしていかがなものかと思うけどね。

それはともかく、そもそも、僕が思うに、雇用対策っていうのをそれだけで考えるんじゃなくて、今後、日本をどうして行きたいのか、という視点から考えるべきだと思うわけ。
政治家のビジョンが無いから、とにかく、現状の社会を、いかにごまかしながら継続させるかみたいな話になっちゃうんだよね。

例えば、給料が減ったとしても、社会として必要なNPOだとか、環境対策だとか、医療・介護だとか、教育だとか、農業だとか、どの分野を日本のドメインにするべきかっていう大きな方針を決めてもらって、それに従った、労働者移動を考えて欲しいよね。
麻生首相の場合、彼が、どういう日本にしたいのかってことが全く伝わってこないのが問題。
例えば、「とにかく、環境技術に関して、日本を世界のトップレベルにしたい。日本が世界と闘っていえる武器にしたい。そのために、人材をそちらにシフトすべく、雇用対策+補助をします。」みたいなさ。
そうすれば、それに対して、国民だっていい、悪い、賛成、反対の意思が表せるでしょ。

現状だと、麻生さんって、別に普通にやってくれればいいものの、一人でエラーを重ねて、自滅してって、知ったかぶりして、またすべって、転んで、しかも何をやりたいのかも見えない感じ。こっちも辛いよね。

しかし、この年の暮れに、解雇を言い渡された大工場の期間工、派遣社員の人たちは本当にかわいそうだよね。
おそらく、トヨタならトヨタ、キャノンならキャノンで何年も働いて「俺は世界のトヨタ(キャノン)をささえてるんだ」っていうプライドを持って、必死に頑張ってきたんだろうけど、「来月から来なくていい。ごくろうさん」ってのはお金の問題以上に、そういった労働者のプライドを大いに傷つけると思うんだ。
奥田さんとか、御手洗さんなんかの話を聞いていると、全く哲学とか無いよね。無関係な僕でも情けなくなるよ。
また、一方、それに対して、正社員の人たちはどう思ってるんだろう。いままで隣で働いていた人がどんどん首切られてさ。「俺じゃなくてよかった。」とか思ってるのかな?
テレビも是非ともそういう人たちの気持ちを聞かせて欲しい。
本当は、定年退職間近で、対して仕事してないくせに、年功序列で莫大な賃金取ってる人たちいるんじゃないのかな。
ワークシェアっていうのはちょっと胡散臭そうだけど、おそらく、原資の分配に関して、考えないといけない時期でしょ。期間工の首切るんじゃなくてさ。

っていうか、テレビ業界自体が一番そういう意味での格差があるところなんだっけ。だから、下請けのADが居なくなっても、しょうがない位の感性しかないんじゃないかって疑いたくもなる。
テレビのコメンテーター達は、今まで株主に配当していた金を賃金に回せばいいとか、言ってるけど、そういう問題なの?僕はよくわからないけどね。

さらに、僕が一番心配していることは、そういう風に首を切られて、しかも一人づつ放り出された人たちが、いわゆる金無し、人間関係無し、夢無しの状態になってしまい、生き甲斐(プライド)を失っちゃうって事。
僕には何も出来ないけど、本当に頑張って欲しいと思う。

まさむね

似すぎてないか「イノセント・ラヴ」と「ラスト・フレンズ」

「イノセント・ラヴ」の展開が、ますます「ラストフレンズ」に近づいてきているように思う。
勿論、両方とも、浅野妙子脚本、スタッフも同じというから、同じような色合いのドラマになるということは予想されていたことだが、登場人物達の苦悩の種類まで似ているのだ。

例えば、「ラストフレンズ」の瑠可(上野樹里)は、性同一障害を自分の中に抱え込み苦悩するが、「イノセント・ラヴ」の昴(成宮寛貴)は殉也への同性愛という感情を抱えている。
おそらく、次の展開としては、昴の、殉也(北川悠仁)への想いが、や殉也本人、あるいは聖花(内田有紀)にバレることによる新たな苦悩発生の可能性が高い。

また、「ラストフレンズ」のタケル(瑛太)は姉からの性的虐待を受け、そのトラウマにより、女性恐怖症に苦しむが、「イノセント・ラヴ」の佳音(堀北真希)も父親からの性的虐待を受けていた。
さらに、その虐待に対して、彼女はついにナイフを持ち出し、父親を刺殺するが、その現実を受け入れる事が出来ない彼女はその事実を無意識的に意識から排除、いわゆるPTSD状態なのである。
そして、彼女の兄・耀司(福士誠治)は、その事実を隠蔽するために自分が罪を背負い、家に火をつけるという過去を持ってる。しかも、耀司自身も妹の佳音に対して近親相姦的な恋愛感情を抱いているのである。

さらに「ラストフレンズ」の美知留(長澤まさみ)とその恋人の宗佑(錦戸亮)は、小さい頃からネグレクト状態で育てられるという生育環境のため、宗佑は美知留にたいしてDVを行ってしまう。
また、逆に美知留も宗佑からのDVに対して無意識的な依存関係に陥っている。

心の傷という意味では、本日の放映された「イノセント・ラヴ」の第8話でも、殉也が深い失恋状態から常軌を失う。
婚約者の聖花のために、献身的に尽くしてきた殉也だが、彼女の愛が殉也にはなかったという現実を思い知らされ、呆然としてしまうのだ。

ようするに2つのドラマとも、登場人物達は、それぞれの心と闘わなければならない状態なのだ。
それゆえに、彼ら、彼女らは、一様に暗い。
また、だからこそ、一様に優しく思いやりがある。
さらに、現実世界における、いわゆる欲望に関して希薄である。
それは勿論、性的関係においてもそうだ。「イノセント・ラヴ」では殉也は佳音との間にSEXを匂わすものは一切無いのだ。

浅野妙子ドラマが現代人に受けているとすれば、おそらく、内面的苦悩を抱えた若者、あるいはそれに共感出来る人々が確実に増えているという事ではないだろうか。
それは、同時に、心の闘いを乗り越えるために、他者からの絶対的承認、すなわち愛が必要なのだということを切実に感じている人々も増えているという事だと思われる。

日本の恋愛史について特に詳しいわけではないが、多くの日本人にとって、恋愛というものは長らく、結婚のための通過点であった。
というよりも、おそらく恋愛経験をする以前に、人々は結婚したし、あるいは、性的な対象として相手を希求し、そしてそれが実現するに及び、結婚に至るという流れだったと思う。

しかし、「イノセント・ラヴ」も「ラストフレンズ」も、登場人物達の関係の先に結婚という道筋が強く見えてこない。
それが、現代的といえば、確かにそうかもしれない。
ここ数年、いわゆる”出来ちゃった結婚”が増加しているという事実もそれを裏付けている。
結婚というものが恋愛の結果ではなく、妊娠の結果としてしかないという事を意味しているからだ。

おそらく、このような若者のメンタリティが続くとするならば、少子化はますます進むであろう。
託児所を沢山作るということは、それはそれで大事なことではあるが、少子化対策の本質とはずれているようにも思える。
元、TVの番組ADだった小渕優子大臣。
お分かりかとも思うが、予算を使うことばかり考えないで、根本に立ち返り、これらの最近のドラマをご覧になられたらいかがだろうか。(余計なお世話か?)

さて最後に全く関係ないが、神父役の内藤剛のクレジットに特別出演とあるが、ほぼ毎回出演しているし、失礼だが、それほどの大物だろうか?
ちょっとした疑問でした。

まさむね

暴力的なジョンだからこそ、愛と平和を語ったのだ

今日はジョン・レノンの命日。今年もこの季節が来た。
僕はいまだに「ハッピークリスマス」を聴くと無条件に泣いてしまう。

さて、ジョンは一般的に「愛と平和の使者」と言われているが、彼がそこにたどり着く道筋は決して平坦ではなかったと思う。
彼自身、こう言っている。

「愛と平和を語る者というのは常にもっとも暴力的な人間だ。」

今から50年~60年前のイギリスは(現在も?)、いわゆる階級社会である。
貴族階級の子弟はみんな、寮制のプライベートスクールに行く。そこでは、紳士たることを教育される。
労働者階級の子供は、労働者になるべく訓練されるパブリックスクールに押し込まれる。
そこで、ビートルズの個性的な面々、特にジョンがそんな学校からはみ出ていくのは必然だった。

そう、ジョンは元々、極めてやんちゃな少年、反抗的で手の付けられない不良だったのである。
小学校のときの通信簿に「見込みが無し。」って書かれたのは有名な話だ。

勿論、修行時代のハンブルグでのやんちゃぶりも伝説として残っている。
道を通る尼僧(シスター)達に向かって、2階から「洗礼~」って叫びながら小便をしたとかね。

そして、大人になって、ビートルズとして成功した後でも、今度は徐々にビートルズという枠に対して不自由を感じるようになったジョン。
この頃は、妻のシンシアに対しての家庭内暴力が激しくなったという。
確かに、嫉妬深くて、暴力的なジョンの作る歌の歌詞にも影を落としている。

-You Can’t Do That 1964年-

I got something to say that might cause you pain,
If I catch you talking to that boy again,
I’m gonna let you down,
And leave you flat, Because I told you before, oh, You can’t do that.

ご機嫌をそこねるかもしれないが 言っときたいことがある
あいつとは二度と口きくんじゃない
今度見つけたらとっちめてやる
コテンパンにしてやるからな
前にもはっきりいったはずだ そんなことするなって

-Run For Your Life 1965年-

You better run for your life if you can, little girl
Hide your head in the sand little girl
Catch you with another man
That’s the end’a little girl

一目散に逃げ出すこった
できるもんならな リトルガール
浮気現場を抑えたらお前を生かしちゃおかないぜ

-Getting Better 1967年-

I used to be cruel to my women
I beat her and kept her apart from the things that she loved

以前は恋人にもひどいことをした
殴りつけたり 好きなことをやらせてあげなかったり

しかし、そんなジョンも1968年あたりから、その思想を愛と平和に傾斜させていく。
彼の内面に、どんな変化があったのか。
ベトナム反戦運動の激化、黒人民権運動、ウーマンリブの高まり等、様々な時代の激流がその時期に起きているのは事実だ。
勿論、ジョンの思想的目覚めに関しては、一般的にはヨーコとの出会いというのが大きなファクターと言われているが、それは、多分にジョンの死後に増幅されたイメージによるところも多いようにも、思える。
今後、客観的な研究成果が待たれるところだ。

そして、ビートルズ解散後、社会運動にのめりこんで行くジョンであるが、おそらく彼の心の中では、暴力的な部分と、愛と平和の使者としての部分の葛藤を持ち続けたのであろう。
彼は自分の半生を振り返り、暴力的だった自分、嫉妬深かった自分、横暴だった自分を反省し、本来の自分に回帰しようとする。
それが、「ジョンの魂」というアルバムで結実するのだ。
おそらく、それがジョンの正直なところだ。
表現者にとって、最も大事な資質は、個性、新しさ、そして、正直さの3つだと思われるが、ジョンはそのうちの3つ目、正直さが他に比べて抜きん出ている。
だからこそ、僕達は、先ほども書いた以下のような彼の言葉を信用出来るのだ。

「愛と平和を語る者というのは常にもっとも暴力的な人間だ。」

さて、最近、元航空幕僚長の田母神氏の論文などを読むにつけ、日本の戦前の侵略の歴史が、あたかも無かったかのように伝説化される傾向が見られる。
さらにそれと平行して集団的自衛権の容認、はては、核武装論等の論議が起きている。
それぞれ、一つ一つの議論に関して、僕は必ずしも100%反対ではないが、それでも、日本が過去に犯した侵略の歴史を自覚し、反省するところからしか、愛と平和を語る事は出来ないのではないかと思う。

よく、日本の軍事的暴走の歯止めとしての憲法9条というような言い方があるが、極論するならば、僕にとっての9条はまさしく、ジョン・レノンという存在である。

まさむね