人を唖然とさせてこそのダンディズム

今朝、コンビニでパンを買った時、前に並んでいた
30歳位の男性が、健康ドリンクの代金を100円札
で払っていた。板垣退助の絵柄のやつである。
ダンディズムとは人を唖然とさせる事。という
ボードレールの言葉を思い出した。

さて、最近、テレビを観ていてあんまり唖然とさせ
られる事はないような気がするが、その中で年末の
バラエティ番組で郷ひろみが、「嫌いな山の手線の
駅名は?」という多少、悪意のこもった質問に対して
あっさり「六本木」と答えていたのには唖然とさせ
られた。と同時に、彼のスーパースターを感じずには
おれなかった。人は、不必要な知識というのは、
持たないものだ

まさむね。

プロレスは今年もプロレス

プロレスラーがバラエティに出ない事、それ自体は
確かに淋しい事。でもなんかのついでに出てもらってもそれはそれで、他のジャンルと比べられているような感じがしてよろしくない。
いつか、筋肉番付に全日本の川田が出ていて、かなり期待していたのでに全くダメでした。大きな俵みたいなのを投げるヤツとか。
プロレスというジャンルがいかにイメージに依存しているのかがわかります。その昔、ジャイアント馬場が医者に「運動不足ですね。」と言われたという笑い話がありましたが、自分が癌なのも知らずに戦っていたというオチは、いろんな事を考えさせられます。
ところで、今年のお正月は松坂ばかり出ていましたね。
当たり前の事ですが、彼はユニフォームを脱げば普通の19才なわけですから、あまり期待しちゃいけないのですが、何のハプニングもなく、彼が何もしゃべれないという事のみを表現する結果となりました。平和です。
一方、1・4の東京ドームでの小川VS橋本のタッグ戦。
混沌のうちに橋本優勢の結末。4月の再戦の予告編のようなものでしたね。小川の元気の無さが気になりました。あれで観客は満足したのでしょうか。
まぁ、満足したかどうかが気になるという事自体が
反スポーツ的なのですが、スポーツじゃないんだからしかたないか。

お正月のテレビ

あんまりテレビ見なかったんだけど
一昔に比べてプロレスラーがお正月特番に
出ること少なくなったね
いくらマイクパフォーマンスが
主流になっても、プロレスの文脈が通じるリング以外じゃ
お笑いの人に比べれば喋れないもんなあ
体使う番組も跳び箱とか
技術的に本格的なの増えちゃうと
入り込めないもんね

深夜K-1みたけど、体大きいとみごたえあるね
編集してあるんでなんともいえないけど
短時間で一試合が終わるのもいいです

ところざわ

売れたら勝ちという論理-2

売れたら勝ちという論理が私が好きな理由は、数字と言う絶対値だからからもしれません

たとえば、私はデザイン系の学校出身だったりするのですが、そこのコンサバな芸術の論理だったりすると大衆に迎合したり、売れ線を狙ったりする行為はさげずまれたりします。

でも、実際は自己満足の芸術は何の価値や評価もえらないわけで、大衆的な芸術なら売れなきゃ行けないしいま、芸術的と言われるようなハイソなモノなら評論家やその路の大家に評価されるもので無ければ意味無いわけです。
その論理も、今や手が混んでいて例えば一部の人に受け入れるようにしたりしてブームが延命するように、いろいろ演出するわけです
昔は芸術家は王様に迎合していたわけで、今は大衆が王様なわけです。

マスコミやテレビに嫌悪感あるのは正義とか知る権利とか真実とか、言っておきながら
実は自分達は利権にまみれて扇動的に動いているからでしょう

いろいろな常識や倫理とか風習とか、社会には縛りがあるけど、いまは、社会も村とか小集団に依存してしか生きて行けないわけじゃ無いから
それを乗り越えてしまったら、ヤッタもん勝ちなのかもしれません。
造反有利ですね

以前のログの整理もおねがいします

ところざわ

売れたもの勝ちという論理

売れたら勝ちという論理は、多数決が善という民主主義のルールと通底していて、「まだまし」なものなのでしょう。

僕も売れたら勝ちという論理と作品自体は私のため
にあるはずだという論理の間を行ったり来たりして
いるような気がします。あるいいは、もっとずるく、使い分けているような気がします。

先日、読売新聞で、最近の事件を例に引いて、報道が動機を探る事に偏るあまり、人々に受け入れられやすい動機探しに奔走していく事の無責任さを指摘する論説が出ていて、その通りだと思いつつ、そんな状況はしかたなく、でも嫌でしょうがない気もしました。

嫌と言えば、今年の僕のキーワードのような言葉でしたが、先日また、嫌について考えさせられるテレビ番組がありました。

フジテレビの「しらばか」という番組で、あるイラストレータが夫の名字が嫌で離婚したんだけど、離婚の理由はそれだけで、子供もいて、一緒に楽しく暮らしているという話が出て、それに対して、出演者は一斉に、それはおかしいと、責めるんですね。「子供はどうなるんだ」とか「やっぱり結婚と同棲
は心構えが違うんだ」とか「これが日本のルールだ」とかいろいろと言うんですが、結局は論破できず、その人がよければそれでいいという事になってしまったんですね。

僕もそのイラストレータを見ていて、もの凄く不快な感じがしてのですが、その不快の理由が全く解明出来なかった。
新しいものは常に保守的な人には不快なものとして感じられるんでしょうか。例えば、それはビートルズの登場みたいに。

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ところで、はやくも明日、引越になってしまいました。
なるべく早くマシンを使えるようになります。

まさむね

劇場性

どんな行為も結局、他の人に見てもらって
ナンボの世界ですもんね
いや、ナンボという言葉が違和感あるなら
ケレンミが大切というか
評価されなければ何の意味が無いのかもしれません

芸術性やストイックさを競っても
見てもらって楽しんでもらったり
心揺さぶってもらって、自分も嬉しいと言うのが
大切だともいます

ミュージシャンも自堕落や無頼を気取っていても
巨大なお金を産む音楽産業の自営の事業部長って
存在ですモンネ

もちろん、スポーツマンも
同じでしかルべきだと思います

人の見ていな所で新記録を打ち立てても
しかも、新記録を誰も興味示さなければ
彼等もモチベーションが無くなるでしょう

GAGAで強烈に意識したことは
やはり客商売は楽しんでもらって
お金落としてもらうことが大切だってことです

K1も、その意味では十分正しいのかもしれません

ラーメン屋が2軒しか無かった街が
暖簾別けして散って、屋台だらけになった街に
バーミヤンが登場したって感じかもしれません

ところざわ

石井館長の思い出

K1がはじまる前にたまたま石井館長と食事を
する機会があった。彼を含めて3人での会食
だったが、彼はその時、ラーメン屋でやたらに、
料理を注文し、10品位、テーブルに並べて
そして当然のように残した。

その豪快さ(非日常性)に触れたとき、
あぁ成功する人ってこういう人なんだろうな
と思った。彼はその時、格闘技もプロレス
のように見世物(ショー)として成立する
はずであり、そのためには最初の10分間
くらいはナァナァでやって、その後、10分経過
のアナウンスを合図に真剣勝負をすれば
いいのではないかと、語っていた。

今、K1を前にして僕はその言葉がずっと頭
から離れない。だから、K1を見るときのポイント
はその合図がどのタイミングなのか。いつ、戦い
のモードが変わったのかという事を見抜く事
になってしまった。

まぁと言ってもテレビでしか、しかも偶然で
しか見ないんだけどね。

突然の話だが、田無に引っ越す事になった。
今月の28日である。
GAGAへ行くため、やって来た恵比寿には、
6年位いたが、ここで一度、引きこもることに
なり、少しは残念であり、少しはほっとして
いる。本も大量に処分しようと思っている。
プロレス関連の本はすべてヴァリスに譲ろうと
思う。僕にとって、今年はプロレス最終年に
しようと思う。
さて、本棚を整理していて、思ったことは、
自分がいかに偏った本の趣味をしているかと
いうこと。そして一方、確実に流行に影響され
ているということだった。
主な著者はこんなところだった。

柄谷行人、蓮実重彦、三浦雅士、井沢元彦
網野善彦、赤坂憲雄、司馬遼太郎、宮台真司
橋本治、岡田斗志夫

まさむね

K-1

プロレスは我々というか
子供時代や学生時代に黄金期でしたらね対立する二つの軸が存在するというのは盛り上がる為のセオリーなのかも知れませんね

K-1は盛り上がっているし認知度も高いけど寄りから門外漢まで認知しているわけじゃありませんからね。
ただ、2軸が存在しなくなって、はじけてからは各々の団体や軸よりはKー1の方がよりメジャーなのかもしれません。

式典や賞関係も、逆に世間の風向きを見て
流れにのっかることで、自分達もその威光を高めようとしますからね。
そい売った意味ではプロレスよりはK-1 なのかもしれませんね
ボクシングも最近はやっていませんもん

ところざわ

ノックは無用?

僕がノック事件に関して、残念に思ったのは、
彼を擁護する団体なり個人なりが全く表面に
出てこなかったことです。

僕のイメージでは大阪という土地は言いたいこと
を言うという。そんな中であの「核武装発言」の
西村議員なんかも当選してきたんだと、思ってた
んですが、それも幻想だったようです。

そういえば、昨日また珍妙な殺人事件が起きましたね。

特ダネの小倉氏は、「子供の頃からゲームに慣れ
親しんでいた世代の理解不能な犯行」という凡庸な
あまりにも凡庸な見解を示していました。

さて、このあたりで今年のプロレス界を振り返ってみたいのですが、どうでしょうか。
今年の事件は以下の4つに集約されますよね。
1:馬場の死去
2:前田が安生に襲われる。
3:桜庭がグレイシー一族に一矢。
4:天皇在位10年記念式典にK1は呼ばれるがプロレス界は呼ばれず。

1~3までに関しては、プロレス誌とかでも多分、ベスト10入りするはずなので、僕はここで4:について、一言述べたいと思います。

皇室とプロレスというテーマで長年研究(?)を続けてきた私は、今回、このK1が御用達になった事件を決して見逃すわけにはまいりませんでした。
私が知る限り、過去、皇室とプロレスとの関わりは以下の3点だけでした。

1:浩ノ宮の后雅子様がまだ、雅子さんと呼ばれていた時代に、あるインタビューで小学生当時の思い出として、自分はプロレスファンだった事を激白。それによると、当時ブラックペアの大ファンだった雅子様は、その名前をご利用あそばされて、デビル雅子として、ご学友とプロレスごっこをされていたという。

2:髭で有名な秋篠宮が子供の頃、新幹線のグリーン車で偶然にもマサ斎藤と会い、そこでサインをせがまれたという。

3:皇后陛下美智子様が子供達とプロ野球を観に行った時、当時、巨人のスター選手だった中畑清に対する下々の「キヨシコール」を耳にされ、「あのイノキコールはなんですか。」と御質問されたという。

これらの裏の取れた事実から、皇室は家族揃ってプロレスマニアであることは明らかである。それが、今回、K1だけを式典に呼ばれた事。高知東生を呼んだこと以上に、これは我々の記憶にとどめておかなければならない。

まさむね

想像力の谷間

ノックの事件はノック的常識な事件で、別に何の驚きもなく、もうどうでもいいやって感じです

桶川の事件も音羽のお受験が殺人になるなら、桶川の風俗も殺人位あってもなんら不思議はないわけです。

雑誌や新聞はそれはそれでスキにはなれないけど
どうにもテレビのあの小市民的正義を振りかざすのはうんざりって感じです
でも、その閉塞間が音羽にも桶川にもあって事件の舞台になったのかもしれないですね。

事件は憎まなきゃいけないのかもしれないですけど
その舞台にあった当事者間には、人間的な輝きがあったのかもしれないですね。

ところざわ