扇紋 -佐竹家を800年以上も守った魔除け紋- 佐竹義宣、福田康夫、タモリ...


昔の貴人は、いつも扇で顔を隠していた。
そして、骨の隙間から外を見ていた。

扇というのは、魔除け用グッズだったのである。
ちなみに、とげ抜き地蔵で有名な巣鴨・高岩寺の寺紋は檜扇紋である。
同時に巣鴨通り商店街の提灯にも檜扇が描かれている。
そのデザインは”おばあちゃんの原宿”を演出しているのだ。
左写真は、高岩寺内で撮影。

一方、鎌倉時代の最初から、大政奉還まで生き延びた大名の佐竹家の家紋は代々扇に月丸紋であった。
「吾妻鏡」には、佐竹四郎が、源頼朝からこの紋を賜ったとの記述がある。
佐竹家を守ってきたのは、その扇の魔力だったのかもしれない。

扇紋は全国では、23位だ。特に突出して多い地域は無いが比較的西日本に多い。京都府、山口県、熊本県で18位が最高、和歌山県(19位)、高知県(20位)といったところが目立つ。佐竹藩のお膝元の秋田県は27位と少ないが、元お膝元の茨城県は21位と比較的多い。

扇紋を使用した有名人は以下。


長野業政 。1491年 – 1561年12月28日、 戦国時代の武将。
長野憲業の子として出生。本姓は在原氏で、祖先は在原業平と称する。官位は伊予守。長野氏は上野西部の豪族で、周囲の国人の取りまとめ役のような立場であった。勢力としては関東管領・山内上杉家に属していた。上野国・箕輪城主。家紋は檜扇。


古田織部 。1544年 – 1615年7月6日、 戦国時代の武将。
茶人の古田重定の子。信長秀吉の家臣だが一般的には茶人として有名。利休七哲の一人。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、茶器製作・建築・造園などにわたって織部好みと呼ばれる一大流行をもたらした。家紋は三つ引両紋と丸に地紙紋。


角倉了以 。1554年 – 1614年8月17日、 豪商。
近江国犬上郡吉田村出身。本姓は吉田氏。佐々木氏の分家。朱印船貿易の開始とともに安南国などとの貿易を行う。幕命により大堰川、富士川、高瀬川、天竜川等の開削を行った。家紋は扇地紙に片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園の別の角倉家墓所にて撮影。


佐治一成 。1569年 – 1634年11月16日、 武将、大名。
尾張佐治氏は、知多半島の大野を中心とする西海岸地域を領する一族。浅井長政の娘・江を妻に迎える。本能寺の変で、織田信長横死後、次男・織田信雄に仕える。家紋は日の丸扇紋。顔画像は大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で一成を演じた平岳大。


佐竹義宣 。1570年8月17日 – 1633年3月5日、 武将、大名。
父・義重の隠居により家督を相続し、佐竹氏十九代当主となる。豊臣秀吉の小田原征伐の際に参陣し所領を安堵された。関ヶ原の戦い時に西軍の立場に立つが、父が東軍についたため出羽・久保田21万石へ減転封されるものの家名存続は許された。


秋田実季 。1576年 – 1660年1月11日、 武将、大名。
安東愛季の長男。読みは、あきたさねすえ。豊臣秀吉より出羽・秋田5万2千石の安堵を認められたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康に常陸・宍戸に転封される。嫡男の俊季の代に陸奥・三春に移され、幕末まで存続した。家紋は檜扇に違い鷲の羽紋。


松平信綱 。1596年12月19日 – 1662年5月4日、 老中。
武蔵国出身。別名・松平伊豆守信綱、知恵伊豆徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として生まれ、松平正綱の養子となる。家光の信を受け武蔵忍藩主、武蔵川越藩主となる。家紋は高崎扇と伊豆蝶紋。画像は菩提寺・平林寺の大河内家墓所にて撮影。


貝賀友信 。1650年 – 1703年3月20日、 侍。
赤穂藩浅野家家臣吉田助兵衛の二男として誕生。本姓は藤原氏。貝賀新兵衛の養子となる。読みは、かいがとものぶ。穂藩では中小姓・蔵奉行。赤穂四十七士の一人。吉良義央邸討ち入りでは弥左衛門は表門隊に属し、門の警戒にあたった。家紋は重ね扇紋。


岡本黄石 。1811年 – 1898年4月12日、 家老。
彦根藩家老・宇津木久純の子。岡本業常の養子。読みは、おかもとこうせき。攘夷を促す建白を行い、藩主・井伊直弼に疎まれるが桜田門外の変の後は藩政を主導。戊辰戦争の際には藩論を新政府軍側にまとめた。家紋は檜扇紋。画像は豪徳寺にて撮影。


高橋多一郎 。1814年 – 1860年4月13日、 水戸藩士。
水戸藩士・高橋諸往の長男。藤田東湖らに学び、尊王攘夷論に傾倒。安政の大獄で水戸藩への弾圧を強める井伊大老を倒すために暗躍。薩摩藩士・有村雄助らと共に井伊大老暗殺を計画し、関鉄之介らと桜田門外の変を起こす。家紋は高崎扇紋。


富岡敬明 。1822年12月20日 – 1909年2月28日、 官僚。
肥前国出身。読みは、とみおかけいめい。山梨県権参事、熊本県知事、貴族院議員などを歴任。西南戦争では、谷干城少将、樺山資紀中佐、児玉源太郎中佐等と54日間の籠城戦を耐え抜いた。家紋の丸に檜扇紋は、「華族家系大成」による。


仁礼景範 。1831年4月6日 – 1900年11月22日、 海軍軍人。
薩摩藩士の子弟。読みは、にれかげのり。総理大臣斎藤実の義父。薩英戦争に参加。横須賀鎮守府長官、海軍大学校長などを歴任。第2次伊藤内閣の海軍大臣に就任し、海軍備の充実に力を注いだ。家紋は筋入り三本骨三つ扇紋。画像は青山霊園の墓所にて。


三遊亭圓朝(初代) 。1839年5月13日 – 1900年8月11日、 落語家。
江戸出身。父は橘屋円太郎。本名は出淵次郎吉。歴代の名人の中でも筆頭に巧いとされる。「芝浜」「文七元結」「牡丹燈籠」等を創作。言文一致体を一代で完成させ現代の日本語の祖といわれる。家紋は高崎扇。画像は全生庵の墓所にて撮影。


鈴木大亮 。1842年6月26日 – 1907年2月1日、 官僚、政治家。
陸奥国遠田郡出身。仙台藩士・鈴木雄三郎の長男。読みは、すずきだいすけ。黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。秋田県知事、石川県知事、逓信次官、鉄道局長、貴族院勅選議員を歴任。家紋の丸に日の丸扇紋は、「華族家系大成」による。


堀基 。1844年7月29日 – 1912年4月8日、 実業家。
薩摩国出身。読みは、ほりもとい。勝海舟の神戸海軍操練所で航海術を会得。北海道炭礦鉄道を設立し、後の北海道炭礦汽船の基礎を築いた。また、後に日本郵船会社理事なども務めた。家紋は三つ扇紋。画像は青山霊園の堀家の墓所にて撮影。


ジョルジュ・ブスケ 。1846年3月3日 – 1937年1月15日、 法学者。
フランス・パリ出身。日本で初めての御雇い外国人として、当初民法草案の策定に関わった。後に、司法省法学校で法学教育を行う。また、日本での見聞をまとめた『今日の日本』を出版した。家紋は梶の丸に地紙紋。画像は青山霊園の外国人墓地にて撮影。


別府晋介 。1847年 – 1877年9月24日、 薩摩藩士。
薩摩国鹿児島郡吉野村出身。桐野利秋は従兄。戊辰戦争では、川村純義指揮の元、勇戦した。外務大丞・花房義質の随員として朝鮮を視察。西南戦争では、篠原国幹・村田新八らとともに薩摩方につき、最後、西郷隆盛を介錯した。家紋は、丸に日の丸扇紋。


渡辺洪基 。1848年1月28日 – 1901年5月24日、 政治家、教育者。
越前国出身。医者の長男。読みは、わたなべひろもと。岩倉具視欧米使節団に随行。東京府知事、東京帝国大学初代総長などを務める。工手学校(工学院大学の前身)を築地に設立。家紋は三つ日の丸雁木扇紋。画像は青山・長谷寺の墓所にて撮影。


浅野総一郎 。1848年4月13日 – 1930年11月9日、 実業家。
越中国氷見郡出身。医師淺野泰順の長男。妻は板垣退助の四女。長女、マツは穂積八束妻。浅野セメントを核として、浅野財閥を一代で創設する。川崎市にある扇町は、家紋の扇紋にちなむ。家紋は半開きの扇紋ということから浅野扇紋と判断。


矢野龍渓 。1851年1月2日 – 1931年6月18日、 官吏、著作家。
豊後・佐伯藩の中級武士の家系。本名は矢野文雄。読みは、やのりゅうけい。大蔵省に入るが、明治十四年の政変で政界を追われる。東京専門学校設立に携わり役員に就任。主著は『経国美談』。家紋は三つ追い雁木扇紋。画像は多磨霊園にて撮影。


北里柴三郎 。1853年1月29日 – 1931年6月13日、 細菌学者。
熊本県阿蘇郡出身。評論家・蔵原惟人は甥。破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。「細菌学の父」として知られる。北里研究所、慶應大学医学部を創設。家紋は檜扇に左三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて。


金子堅太郎 。1853年3月13日 – 1942年5月16日、 官僚・政治家。
福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男。岩倉具視欧米使節団に同行して米国留学。伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に参画。専修大学創立に携わる。日本大学初代校長、二松學舍大学舎長も務める。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


小藤文次郎 。1856年4月8日 – 1935年3月8日、 地球科学者。
石見国津和野出身。読みは、ことうぶんじろう。地質学、鉱物学、火山学、地震学など、幅広く学び、濃尾地震の際に、発生から約2週間後に現地入りして調査を行い、後にその結果から断層地震説を発表。家紋は地紙に文字紋。画像は多磨霊園にて撮影。


橘家圓喬 。1865年12月26日 – 1912年11月22日、 落語家。
東京出身。本名は柴田清五郎。7歳の若さで三遊亭圓朝(初代)門下に入門。「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」を得意とした。後世に大きな影響を与えた名人。「魚売人」「二人癖」など20種類ほどのSPレコードを遺している。家紋は三遊亭と同じ高崎扇紋。


徳富蘆花 。1868年12月8日 – 1927年9月18日、 小説家。
肥後国出身。父は横井小楠門下・徳富一敬。本名は徳富健次郎。読みは、とくとみろか。徳富蘇峰は実兄。小説『不如帰』はベストセラーになった。実家の家紋は隅切り三方に左一つ巴紋だが、蘆花記念館で確認したところ、蘆花の家紋は丸に扇紋。


久原房之助 。1869年7月12日 – 1965年1月29日、 政治家。
山口県萩市出身。鮎川義介は義兄。日立、日産創立の基盤となった日立銅山や久原財閥の総帥として鉱山王の異名を取る。政治家としても逓信大臣、立憲政友会総裁を歴任。二・二六事件にも深く関与したという。家紋は五つ雁木扇紋。肖像画像にて確認。


吉住小三郎(4代) 。1876年12月15日 – 1972年2月27日、 唄方。
東京生まれ。吉住勘四郎の子。長唄の唄方。東京音楽学校長唄選科教授、日本芸術院会員、人間国宝、文化勲章受章、文化功労者。代表作曲「鳥羽の恋塚」「醍醐の花見」「新平家物語」等。家紋は三本並び扇紋。画像は南麻布・西福寺にて撮影。


中野正剛 。1886年2月12日 – 1943年10月27日、 政治家。
福岡県出身。父は旧福岡藩士中野泰次郎。読みは、なかのせいごう。東京日日新聞、朝日新聞で政治評論を行う。政治家になってからは東條首相の独裁に反対。倒閣工作を謀った容疑で憲兵に拘束され自殺。家紋は丸に中陰地紙に橘紋。画像は多磨霊園。


赤塚正助 。1872年9月 – 1942年5月6日、 外交官。
鹿児島県姶良郡蒲生村出身。マニラ領事、外務省通商局第一課長、関東都督府参事官、朝鮮総督府事務官などを歴任。奉天総領事として張作霖との交渉を担当した。駐オーストリア公使に任命され、駐ハンガリー公使も兼ねた。家紋の丸に四つ扇は多磨霊園にて撮影。


富田幸次郎 。1872年11月1日 – 1938年3月23日、 新聞人、政治家。
高知県安芸郡川北村出身。高知新聞を興し、その主筆となる。第10回衆議院議員総選挙に当選。その後、憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党と変移。民政党の総務や幹事長、議院議長となる。家紋の地紙に橘紋は多磨霊園にて撮影。


満谷国四郎 。1874年11月10日 – 1936年7月12日、 洋画家。
備中国賀陽郡門田村出身。1900年に、水彩画「蓮池」をフランスで開かれた大博覧会へ出品して三位になり銅メダルを獲得した。代表作は「車夫の家族」「椅子による裸婦」など。家紋は丸に重ね五本扇紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


曾我廼家五郎 。1877年9月6日 – 1948年11月1日、 喜劇役者。
大阪府堺市か岸和田市出身の二説あり。本名は和田久一。日露戦争をネタにした「無筆の号外」が大当たりした。自らが選んだ脚本を、三十六歌仙にあやかり「36快笑」として天満天神に奉納する。家紋は扇を浮線蝶の擬態に使用した浮線扇紋。


岩井粂三郎(5代) 。1882年6月28日 – 1945年4月13日、 役者。
東京浅草の花川戸に出生。本名は岩井久次郎。父親は四代目岩井粂三郎。屋号は大和屋。当たり役は『伽羅先代萩』の政岡や『嫗山姥』の八重桐。告別式で大名跡・九代目・岩井半四郎が追贈された。谷中・本寿寺の岩井家の墓所の家紋は三つ追い雁木扇紋。


宮原晃一郎 。1882年9月2日 – 1945年6月10日、 文学者、翻訳家。
鹿児島県出身。本名は知久。読みは、みやはらこういちろう。「海の子」を作詞し文部省の懸賞に応募。尋常小学唱歌に登用される。新聞記者を経て翻訳家となる。代表作は「竜宮の犬」など。家紋は丸に三つ扇紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


賀屋興宣 。1889年1月30日 – 1977年4月28日、 政治家。
広島市出身。父は国学者の藤井稜意。母の伯父の賀屋姓を継ぐ。読みは、かやおきのり。戦前は大蔵大臣として軍事費中心の予算を組みA級戦犯に指名されたが、戦後は右派系自民党議員として活躍。家紋は丸に二つ日の丸扇地紙紋。画像は多磨霊園にて撮影。


桜井省三 。1889年6月27日 – 1985年7月7日、 陸軍軍人。
愛知県名古屋市出身。本籍は山口県萩市。太平洋戦争では、、ビルマ攻略戦に従軍。インパール作戦に連動して南ビルマで陽動作戦(第二次アキャブ作戦)を指揮する。最終階級は陸軍中将。家紋の三つ日の丸地紙は多磨霊園にて撮影。


山口多聞 。1892年8月17日 – 1942年6月6日、 海軍軍人。
東京市小石川区出身。旧松江藩士の山口宗義の子。読みは、やまぐちたもん。軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任。太平洋戦争では真珠湾攻撃に参加。ミッドウェー海戦で戦死。最終階級は海軍中将。家紋は檜扇紋。画像は青山霊園にて撮影。


堀内寿郎 。1901年9月17日 – 1979年6月27日、 理学博士。
北海道札幌市出身。読みは、ほりうちじゅろう。科学反応速度理論の研究では世界的な功績を残した触媒研究の世界的な権威。湯川秀樹らと共に第30回恩賜賞を受賞。北海道大学学長も務める。家紋は高崎扇紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


浪越徳治郎 。1905年11月15日 – 2000年9月25日、 指圧師。
香川県仲多度郡多度津町出身。東京市小石川区に指圧学校を設立。マリリン・モンローに素手で触って指圧した唯一の日本人。「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」は得意フレーズ。家紋は丸に五本扇紋。画像は小石川・伝通院の墓所にて撮影。


杉山寧 。1909年10月20日 – 1993年10月20日、 日本画家。
東京府東京市浅草区出身。読みは、すぎやまやすし。結城素明に師事。日本芸術院賞、文化功労者、文化勲章等を受章。長女・瑤子が三島由紀夫と結婚。代表作は、「野(の)」「穹(きゅう)」等。家紋は三つ雁木扇紋。画像は、寛永寺谷中墓地にて撮影。


武藏山武 。1909年12月5日 – 1969年3月15日、 大相撲力士。
神奈川県橘樹郡日吉村の農家に生まれる。本名は横山武。新十両・新入幕・新三役など全てで当時の最年少記録を樹立。最高位は第33代横綱。幕内戦歴は174勝69敗2分71休。幕内最高優勝1回。家紋は丸に雁木檜扇紋。画像は日吉・金蔵寺にて撮影。


新藤兼人 。1912年4月22日 – 2012年5月29日、 映画監督。
広島県佐伯郡出身。本名は新藤兼登、読みはしんどうかねと。妻は乙羽信子。社会派の映画監督の巨匠。代表作品は『裸の島』『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』『午後の遺言状』『一枚のハガキ』等。家紋は浅野扇紋。画像は鎌倉霊園にて撮影。


田中英光 。1913年1月10日 – 1949年11月3日、 作家。
東京市赤坂区出身。ただし両親は高知県の出身。息子は推理小説家、SF小説家の田中光二。太宰治に弟子入り。その自殺に大きな衝撃を受け後に禅林寺の太宰の墓前で自殺する。代表作『酔いどれ船』『愛と憎しみの傷に』。家紋は隅切り角に地紙。


高木彬光 。1920年9月25日 – 1995年9月9日、 推理小説作家。
青森県青森市出身。医者の家系。本名は高木誠一。『能面殺人事件』で第3回探偵作家クラブ賞を受賞。代表作は『人形はなぜ殺される』『成吉思汗の秘密』『白昼の死角』等。家紋は隅切り角に重ね地紙。地紙とは扇に貼る紙。画像は大吉寺にて撮影。


神山繁 。1929年1月16日 -、 俳優。
広島県呉市出身。本名同じ。妻は女優の文野朋子。山王ホテル勤務、進駐軍の通訳などを経て、文学座に演出部研究生として入座。代表出演作品は『八甲田山』『連合艦隊』『沈まぬ太陽』『葵 徳川三代』『落日燃ゆ』など多数。家紋は丸に三つ中陰地紙紋。


寺田ヒロオ 。1931年8月4日 – 1992年9月24日、 漫画家。
新潟県新発田市出身。本名は、寺田博雄。漫画「まんが道」、映画「トキワ荘の青春」などで、伝説的なトキワ荘のリーダーとして描かれている。代表作は『背番号0』『暗闇五段』等。家紋は五本骨日の丸扇紋。画像は茅ヶ崎・浄見寺の墓所にて撮影。


バーブ佐竹 。1935年2月7日 – 2003年12月5日、 歌手。
北海道釧路市出身。本名は佐武豊。『女心の唄』でレコードデビュー。250万枚を超える大ヒットとなり、翌年の第7回日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も『ネオン川』『カクテル小唄』がヒット。家紋は五本扇に月紋。墓所画像にて確認。


松尾和子 。1935年5月17日 – 1992年9月25日 歌手。
東京都大田区出身。「誰よりも君を愛す」(和田弘とマヒナスターズとの共唱)が大ヒットし、スターダムにのし上がり、後にムード歌謡の女王と称される。その後も「お座敷小唄」「再会の朝」等のヒットを飛ばす。家紋の丸に地紙紋は杉並の西照寺にて撮影。


福田康夫 。1936年7月16日 – 、 政治家。
東京府東京市世田谷区に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる。内閣総理大臣(第91代)。『低炭素社会』を目指す「福田ビジョン」を提唱した。 家紋は丸に五本骨扇紋。家紋画像は福田家の菩提寺・徳昌寺(群馬県高崎市)の墓所にて撮影。


尾上菊五郎(7代) 。1942年10月2日 – 、 俳優、歌舞伎役者。
東京都出身。本名は寺島秀幸。屋号は音羽屋。妻は、富司純子。長女は女優の寺島しのぶ、長男は歌舞伎俳優の五代目尾上菊之助。20代の菊之助時代に三之助の一人として人気を博す。家紋は重ね扇に抱き柏紋。画像は雑司が谷霊園の五代目尾上菊五郎の墓所にて撮影。


タモリ 。1945年8月22日 – 、 お笑いタレント、司会者。
福岡県福岡市南区出身。本名は森田一義。株式会社田辺エージェンシー所属。『笑っていいとも!』『ミュージックステーション』『タモリ倶楽部』等でMCを務める。『ブラタモリ』(2016年1月30日放送)にて登場した丸に地紙紋が自身の家紋と同じであることを告白。


三遊亭小遊三 。1947年3月2日 -、 落語家。
山梨県大月市出身。本名は天野幸夫。古典落語専門で、長屋ものを得意としている。1983年(昭和58年)3月 真打昇進・同年10月16日から『笑点』にレギュラー出演を続ける。東京オリンピックの聖火ランナーに抜擢されている。家紋は高崎扇紋。


井上純一 。1958年8月14日 -、 俳優。
東京都世田谷区松原出身。元妻は女優・声優の戸田恵子。『恋人ならば』でソロレコードデビュー。映画『はつ恋』にていきなりの主演も果たす。家紋の三つ扇紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


原田真二 。1958年12月5日 -、 シンガーソングライター。
広島県広島市榎町出身。1977年に吉田拓郎プロデュースにより「てぃーんず ぶるーす」でデビュー。「キャンディ」「シャドー・ボクサー」とヒットを飛ばす。家紋の丸に五本扇紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


長野智子 。1962年12月24日 – 、 アナウンサー。
アメリカ合衆国ニュージャージー州出身。武将・長野業政は先祖。テレビ朝日系『報道ステーション』『ザ・スクープ』『朝まで生テレビ!』等の報道番組、政治番組のキャスターを担当。家紋は丸に房付き五本骨檜扇紋。画像は青山霊園にて撮影。


藤森慎吾 。1983年3月17日 – 、 コメディアン、司会者。
長野県諏訪市出身。愛称は「しんご」。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。中田敦彦と組んだオリエンタルラジオのツッコミ担当。『武勇伝』ネタで有名。「笑っていいとも!」にて家紋は五瓜に檜扇であることを告白。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

鶴紋 -最も優美で華やかな紋- 森蘭丸、杉田玄白、太宰治...


多くの家紋の中で最もデザインが優れた家紋はおそらく、鶴の丸紋であろう。

その証拠にこの紋のデザインは様々に、変形され、社章などになって進化している。
一番有名なのが、日本航空の鶴のマークだ。
一時期、JASとの合併によって、この鶴の丸が機体についた飛行機は姿を消してしまったが、再度、復活した。それも、このマークが持つ伝統と美の力によるところか。
もともと、日航が社章を作るときに、フランスの高名なデザイナーに依頼したのだが、そのデザイナーから「日本の伝統にも素晴らしいものがある」と切り返され、鶴の丸をベーシックデザインとして採用したとの話が伝わっている。

また、清酒・白鶴のイメージも鶴の丸の影響を受けている。
鶴の首の方向、円の歪みなど、いくつかの点で異なっているが、鶴の丸をもとにしたデザインであることは確かなようだ。
白鶴酒造公式HPにはこのマークについて以下のような記載がある。

シンボルマークは、白鶴酒造が伝統的に使用してきた商標名「白鶴」を、現代的に感動あふれる形で表現したものです。
この躍動感あふれるフォルムは、力強い翼で鶴が天高く飛翔する姿を示しています。翼は鶴の頭部を保護するように楕円形になっており、日輪のような羽がダイナミックな感じを与えています。
このシンボルマークは昭和54年、業界に先駆けてCI(コーポレート・アイデンティティー)システムを導入した際に、スローガン「時をこえ 親しみの心をおくる」とともに設定されました。
現在では、このマークは多くの人々から認知され、親しまれており、日本のCIの代表例の一つとされています。

さらに、鶴の丸は、日蓮宗の寺紋としても知られている。
寺紋を見るには、門の脇の塀の端に瓦を見るのが一番わかりやすい。
写真は、「恐れ入りやの鬼子母神」で有名な真源寺の寺紋だ。
ちなみに、真源寺が所属する本門流には、あの信長が討たれた時に滞在していた本能寺も所属している。

さて、鶴紋の普及に関してであるが、全国で29位、決して多くは無い。ただ、青森県だけは12位と多いようだ。
確かに、津軽は、鶴紋を使用していた南部家から別れた津軽家の領地だったという事が一因かもしれないが、南部家の本家である岩手県ではそれほど多くない(29位)を考えると、別の理由があるのかもしれない。
その他、比較的に多い地域は、北海道(21位)、秋田県(21位)、宮城県(22位)、愛媛県(22位)、広島県(25位)、福井県(26位)、徳島県(26位)。

さて、鶴紋を使用している有名人だが、以下。


日野富子 。1440年5月20日 – 1496年6月30日、 将軍正室。
山城国に出生。公家・日野家の出身。室町幕府8代将軍足利義政の正室。関所、米相場、高利貸しからの賄賂等で得た財力によって室町幕府を運営。大河ドラマ「花の乱」の主役(三田佳子)。家紋は鶴の丸紋。画像は青山霊園の日野家の墓所にて。


蒲生氏郷 。1556年 – 1595年3月17日、 武将。
蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。織田氏家臣から、豊臣家(羽柴家)家臣となる。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。またキリシタン大名で洗礼名はレオン。家紋は蒲生対い鶴と左三巴。


森蘭丸 。1565年 – 1582年6月21日、 戦国時代の武将。
家系は清和源氏のひとつ河内源氏の棟梁 源義家の七男(六男?)源義隆を祖とする森氏。信長と衆道の関係にあったとされ、そのため稚児・児小姓として織田信長に優遇されたとの俗説が流布している。本能寺の変で主君・信長と共に討ち取られた。


南部利直 。1576年4月13日 – 1632年10月1日、 武将。
南部信直の長男として三戸の田子城にて出生。南部家は河内源氏流。関ヶ原の戦い時に領内で一揆を鎮圧し、家康から所領を安堵され盛岡藩の藩祖となる。定紋は南部鶴だが、割り菱、鶴菱も使用。画像は護国寺の南部家墓所にて撮影。


関孝和 。1642年3月 – 1708年12月5日、 和算家(数学者)。
上野国藤岡出身。関家の養子となる。本姓は内山氏。『発微算法』を著し筆算による代数の計算法を発明。和算が高等数学として発展するための基礎を作る。行列式や終結式の概念を世界一早い時期に提案。家紋は右向き舞鶴。画像は浄輪寺にて撮影。


杉田玄白 。1733年10月20日 – 1817年6月1日、 蘭学医。
江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれる。杉田氏は近江源氏・佐々木氏の支族である真野氏の家系。前野良沢らと『ターヘル・アナトミア』を和訳し『解体新書』として刊行。回想録として『蘭学事始』を執筆。画像は栄閑院にて撮影。


高山彦九郎 。1747年6月15日 – 1793年8月4日、 尊皇思想家。
上野国新田郡細谷村の郷士高山良左衛門の二男として生まれる。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身とされている。勤王の志を持ち、各地を遊歴して勤王論を説く。家紋は京都三条大橋にある皇居望拝姿の台座の丸に十字紋と鶴の丸紋。


戸塚静海 。1799年 – 1876年1月29日、 蘭方医。
遠江国掛川宿の医師、戸塚隆珀の三男。読みは、とつかせいかい。将軍徳川家定の急病に際し薩摩藩医より幕府医師に登用。法眼に叙せらる。伊東玄朴坪井信道とともに江戸の三大蘭方医と呼ばれた。家紋は向い鶴紋。画像は谷中霊園にて撮影。


大鳥圭介 。1833年4月14日 – 1911年6月15日、 幕臣、官僚。
播磨国赤穂郡赤松村の医師・小林直輔の子として生まれる。戊辰戦争では主戦論を唱え、伝習隊を率いて宇都宮や今市、会津を転戦。榎本武揚と合流するが、箱館五稜郭で降伏して投獄された。出獄後、新政府に出仕して殖産興業政策に貢献した。


肝付直五郎 。1835年12月3日 – 1870年8月16日、 薩摩藩士。
生家は肝付家。後に小松家の養子となり帯刀と名乗る。大河ドラマ「篤姫」では瑛太が演じた。肝付家の家紋は尻合わせ四つ結び雁金と鶴の丸紋。また、小松家の養子入ってからの使用家紋は抱き鬼梶の葉紋。画像は青山霊園の肝付家の墓所にて撮影。


澤宣嘉 。1836年2月9日 – 1873年9月27日、 公卿、政治家。
公卿・姉小路公遂の五男。公卿・澤為量の婿養子となる。八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ち(七卿落ち)。王政復古の後は外務卿等の要職を務める。家紋は、花菱紋と上下対い鶴菱紋。画像の上下対い鶴菱紋は雑司が谷霊園の澤男爵家の墓所にて撮影。


荒井郁之助 。1836年6月12日 – 1909年7月19日、 幕臣。
江戸・湯島天神下上手代町出身。父は幕府御家人。読みはあらいいくのすけ。海軍副総裁榎本武揚らと共に、箱館戦争に身を投じる。降伏後は開拓使の役人として新政府に出仕。初代中央気象台長に就任。家紋の鶴の丸紋は祥雲寺にある荒井家墓所にて撮影。


南部甕男 。1845年7月19日 – 1923年9月19日、 司法官僚。
土佐国大野見村出身。土佐藩郷士・陽明学者の南部従吾の長男。読みは、なんぶみかお。土佐勤王党に加盟。文久の政変では三条実美に従って長州へ亡命し大宰府にも随行。維新後は法曹会の設立に尽力。家紋は丸に向かい鶴紋。青山霊園にて撮影。


鶴原定吉 。1857年1月10日 – 1914年12月2日、 政治家。
福岡雁林町出身。黒田藩士鶴原道室の長男。立憲政友会創立委員、第2代大阪市長、韓国統監府の初代総務長官などを歴任。第三次日韓協約の締結を推進した。また、実業家としては、中央新聞社長等をつとめる。家紋の鶴の丸紋は、青山霊園にて撮影。


柳原愛子 。1859年6月26日 – 1943年10月16日、 天皇の典侍。
皇太后宮小上臈として出仕し、掌侍を経て権典侍となる。読みは、やなぎわらなるこ。伯爵・柳原前光の妹。「筑紫の女王」柳原白蓮は姪。大正天皇の母として明治天皇の没後は準皇族の扱いを受ける。家紋は鶴の丸紋。画像は目黒の祐天寺にて撮影。


森槐南 。1863年12月26日 – 1911年3月7日、 漢詩人、官僚。
尾張国名古屋出身。父・森春濤は漢詩人で尾張藩の儒者。読みは、もりかいなん。明治漢文学の中心的存在で随鴎詩社を主宰。官僚としては枢密院属、式部官を歴任。伊藤博文狙撃の際に同行し被弾。家紋は反り六角に鶴の丸紋。画像は多磨霊園にて撮影。


古島一雄 。1865年9月20日 – 1952年5月26日、 ジャーナリスト。
但馬国豊岡出身。古島家は旧豊岡藩士。雑誌「日本人」、日本新聞などの記者を務める。衆議院議員としては犬養毅の側近として行動を共にする。玄洋社の頭山満と結んで孫文を援助し辛亥革命を陰から助けた。家紋は鶴の丸紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


三鬼隆 。1892年1月14日 – 1952年4月9日、 実業家。
岩手県花巻市出身。読みは、みきたかし。日本製鐵・八幡製鐵(現・新日本製鐵)元社長。鉄鋼業界の大御所だった。経済復興会議副議長、日本経営者団体連盟会(日経連)第2代会長等も務める。家紋は鶴の丸紋。画像は多磨霊園にて撮影。


今東光 。1898年3月26日 – 1977年9月19日、 小説家、代議士。
横浜市伊勢町にて代々津軽藩士の家系の長男。読みは、こんとうこう。新感覚派作家としてデビュー。『お吟さま』で直木賞を受賞。主著は『朱雀門』『悪名』等。生前、日航機の鶴丸のマークを見て「自分の家紋を使ってもらった」と言っていたという。


豊田三郎 。1907年2月12日 – 1959年11月18日、 小説家。
埼玉県南埼玉郡川柳村出身。作家の森村桂(代表作は『天国に一番近い島』)は長女。戦争の体験をまとめた『行軍』で文学報国会賞を受賞。戦後は『仮面天使』がベストセラーになる。日本文芸家協会書記局長。家紋は鶴の丸紋。小平霊園の墓所にて撮影。


太宰治 。1909年6月19日 – 1948年6月13日、 小説家。
青森県北津軽郡金木村出身。県下有数の大地主・津島源右衛門の6男。本名は津島修治。自身「私の生れた家には誇るべき系図も何も無い。」と述べている。代表作は「斜陽」「人間失格」「走れメロス」等。画像は禅林寺にて撮影。


網野善彦 。1928年1月22日 – 2004年2月27日、 歴史学者。
山梨県東八代郡御坂町にて、江戸時代から続く地主の末男として誕生。中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし日本中世史研究に大きな影響を与えた。代表作品「異形の王権」「日本中世の非農業民と天皇」。


津島雄二 。1930年1月24日 – 、 政治家。
東京府(東京都杉並区)生まれ。旧姓は上野。太宰治の長女・園子と結婚、入婿。自由民主党所属の前衆議院議員。厚生大臣、党役職を歴任。平成研究会に加入し、旧橋本派の会長に就任し、同派閥を率いる。家紋は太宰治と同じ鶴紋。


徳田虎雄 。1938年2月17日 – 、 政治家、医師。
鹿児島県徳之島町出身。医療法人徳洲会理事長。元自由連合代表、元衆議院議員、元沖縄開発政務次官。地方自治体や医師会と対立しながらも、全国各地に病院や診療所を開設し日本で最大規模の病院・医療事業グループ・徳洲会を築く。家紋は向い鶴紋。


綾部伴子 。1940年12月27日 – 2000年7月7日、 劇作家。
東京都出身。本名は丸茂智惠子。『木曜ゴールデン』『火曜サスペンス』等の二時間ドラマや昼帯の連続ドラマの脚本を手がける。代表作は『ママは大ピンチ』。父は国学院大教授で文学博士の丸茂武重。家紋は舞い鶴。画像は多磨霊園にて撮影。


魁皇博之 。1972年7月24日 -、 元大相撲力士。
福岡県直方市出身。本名は古賀博之。友綱部屋所属。最高位は東大関。引退後は年寄・浅香山を襲名。通算勝星1047勝、幕内勝星879勝、大関勝星524勝は歴代1位を記録。通算成績は1047勝700敗158休。優勝5回。家紋は向かい鶴。


若の里忍 。1976年7月10日 -、 元大相撲力士。
青森県弘前市出身。本名は古川忍。金星は2個(若乃花1個、朝青龍1個)。上位には強く、殊勲賞を4回獲得。家紋の鶴の丸紋は、鳴戸親方(隆の里)の葬儀時の紋付で確認。引退後は年寄・西岩として、田子ノ浦部屋で後進の指導にあたる。


隠岐の海歩 。1985年7月29日、 大相撲力士。
島根県隠岐郡隠岐の島町出身。本名は、福岡歩。父親は、秋田県仙北郡西木村出身。八角部屋所属の現役大相撲力士。最高位は西関脇。長身に胴長短足、深い懐を活かした右四つ・寄りが持ち味。家紋画像の丸に鶴の丸紋は、化粧回しより。


渡辺小五郎 。江戸時代後期、 南町奉行所見廻り同心。
東山紀之が演じる必殺仕事人2009の登場人物。普段は、事なかれ主義の情けない同心だが、仕事人としての腕は一流。渡辺という姓に対応する紋は一般的には三星に一の字の”渡辺星”であるがここではおしゃれな、六角光琳鶴を使用している。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

菊紋 -後鳥羽上天皇の意地が生み出した優美な紋- 西郷隆盛、夏目漱石、野口雨情...


天皇家が菊紋を使用し始めたのは、後鳥羽上皇の頃からだといわれている。

後鳥羽天皇(後の上皇)は、平氏が持ち去ったため、三種の神器が無い状態で即位せざるを得なかった。
後に、神器のうち、勾玉と鏡は戻ったが、本物の剣は壇ノ浦に沈み、戻ることは無かったのである。

しかし、剣の無い天皇は、刀を打つ事を好み、自分専用の鍛冶場を庭に創らせたという。
さらに、力で幕府を倒そうと承久の変を起こしたが、失敗し、隠岐に流され、その地で崩御。

おそらく、天皇の刀へのこだわりは、剣無しで即位した自分の正当性に対するコンプレックスへの補償行為だったのではないだろうか。

そして、天皇は、自分の刀に優美な菊の紋章を入れた。
台頭する武家文化に対抗べく王朝文化の最後の維持をこの紋章に込めたのである。

その後、この菊紋は天皇を象徴する紋となる。
江戸の時代こそ、一般庶民にも広まったこの紋であるが、明治になると国家主義とも結びつき、権威を持った。

比較的多い地域は東京都(24位)、宮崎県(25位)、愛知県(27位)、北海道(28位)。茨城県、福井県、滋賀県、京都府、兵庫県、広島県、福岡県で29位。

さて、菊紋を用いた有名人であるが、以下の通りである。


楠木正成 。1294年 – 1336年7月4日、 南北朝時代の河内の武将。
河内国石川郡出身。伊予橘氏の橘遠保の末裔。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍するが湊川の戦で敗れ自害。明治以降大楠公と称される。後醍醐天皇から下賜された菊紋を菊水紋として使用。画像は楠木家の菩提寺・楠妣庵観音寺の菊水紋。


由井正雪 。1605年 – 1651年9月10日、 軍学者。
静岡県清水区由比町の紺屋の子として生まれるが、江戸へ奉公に出て楠木正成の子孫の軍学者・楠木正辰の婿養子となる。神田連雀町に軍学塾「張孔堂」を開いた。「慶安の変(由井正雪の乱)」を起こし駿府にて自害。菊水紋は養子先の楠木家の家紋。


江川英龍 。1801年6月23日 – 1855年3月4日、 幕臣。
伊豆国韮山出身。伊豆韮山代官・江川英毅の次男。通称は江川太郎左衛門。読みは、えがわひでたつ。洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱く。反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。家紋は井桁に十六葉菊紋。


増田甲斎 。1820年 – 1885年5月31日、 ロシア外務省の役人。
遠江国掛川出身。藩士・立花四郎右衛門の次男。読みは、ますだこうさい。ロシアに密航を企てる。ロシア正教会に改宗後、ロシア外務省の役人、ペテルブルク大学の日本語の講師となった。家紋は十六菊に三つ引両紋。画像は高輪源昌寺にて撮影。


得能良介 。1825年12月18日 – 1883年12月27日、 武士、官僚。
薩摩国鹿児島城下新屋敷出身。薩摩藩士・得能直助の長男。維新後、大久保利通の推挙によって大蔵大丞兼民部大丞に任じられる。その後、司法大丞、印刷局長、初代大蔵技監等を歴任。家紋は丸に三つ割菊に三の字紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


外島機兵衛 。1826年7月5日 – 1868年3月30日、 会津藩士。
会津出身。藩士・堀藤左衛門の次男。外島家の養子となる。藩主・松平容保に従って上洛。鳥羽・伏見の戦いでは兵糧などの調達にあたる。家紋は菊水紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。顔画像は、テレビドラマ「白虎隊」で機兵衛を演じた大河内浩。


那珂通高 。1827年 – 1879年5月1日、 折衷学派儒学者。
盛岡藩藩医江幡道俊の次男。読みは、なかみちたか。戊辰戦争後は奥羽越列藩同盟参加藩の幹部として責任を問われるが、維新後は大蔵省・文部省に出仕して「古事類苑」「小学読本」編纂に携わる。家紋は十六菊に一の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。


西郷隆盛 。1828年1月23日 – 1877年9月24日、 藩士、政治家。
薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長子。薩長同盟の成立や王政復古に成功し戊辰戦争を巧みに主導した。大久保利通や長州藩の木戸孝允と並び維新の三傑と称される。家紋は天皇より下賜された抱き菊の葉に菊紋。元の家紋は鷹の羽とも言われる。


木戸孝允 。1833年8月11日 – 1877年5月26日、 武士・政治家。
長門国萩呉服町萩藩医 和田昌景の長男として出生。桂家の末期養子となる。尊王攘夷派の中心人物。西郷隆盛大久保利通とともに維新の三傑として並び称せられる。桂小五郎時代は丸に三つ星紋。画像は多磨霊園にある類縁・木戸幸一の墓所にて撮影。


松方正義 。1835年3月23日 – 1924年7月2日、 薩摩藩士、政治家。
薩摩国出身。第4代、6代内閣総理大臣。大蔵卿時、緊縮財政を行い深刻なデフレ(松方デフレ)を招いた。私生活では26子を儲け、長與專齋岩崎家、山本権兵衛森村市左衛門等と婚姻関係を結ぶ。家紋は抱き菊の葉に抱き茗荷紋。画像は青山霊園。


永山武四郎 。1837年5月28日 – 1904年5月27日、 陸軍軍人。
薩摩国出身。藩士・永山盛広の四男。北海道庁長官となり、北海道の開拓と防衛に情熱を傾け、「屯田兵の父」と呼ばれた。軍人としての最終階級は陸軍中将。家紋は丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋。画像は青山霊園の弟・永山盛輝の墓所にて撮影。


西郷従道 。1843年6月1日 – 1902年7月18日、 海軍軍人。
薩摩藩鹿児島城下加治屋町出身。西郷隆盛の弟。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。妻、清子は得能良介の長女。四男は上村彦之丞、六男は小松家の嗣養子。最終階級は元帥海軍大将。家紋は三つ寄り菊葉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


高島鞆之助 。1844年12月18日 – 1916年1月11日、 陸軍軍人。
薩摩国出身。藩士高島喜兵衛の四男。読みは、たかしまとものすけ。第1次松方内閣の陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。大阪偕行社附属小学校(現在の追手門学院小学校)を創設。陸軍大将野津道貫は義弟。家紋は抱き鬼柏に剣菊紋。画像は青山霊園にて撮影。


山田平左衛門 。1845年6月22日 – 1906年1月6日、 民権運動家。
土佐国高知城下帯屋町出身。父は土佐藩(馬廻役・580石)山田清粛(八蔵)。戊辰戦争に従軍し軍功を上げる。征韓論に敗れて高知に帰り、板垣退助植木枝盛らと立志社の設立に参加。第2代社長となり自由民権運動を主導した。家紋は菊水紋。


日高壮之丞 。1848年4月26日 – 1932年7月24日、 海軍軍人。
薩摩国出身。薩摩藩士・宮内清之進の次男。日高籐左衛門の養子となり家督を相続。NHKドラマ「坂の上の雲」では中尾彬が演じた。最終階級は海軍大将。幾多の軍功によって男爵位を受勲。家紋は割り杏葉菊に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。


益田孝 。1848年11月12日 – 1938年12月28日、 実業家。
佐渡国出身。明治維新後、世界初の総合商社・三井物産の設立に関わる。草創期の日本経済を動かし三井財閥を支えた。更に日本経済新聞の前身・中外物価新報を創刊。実妹の繁子は瓜生外吉に嫁ぐ。家紋は三つ割り菊紋。画像は総持寺にて撮影。


上村彦之丞 。1849年6月20日 – 1916年8月8日、 海軍軍人。
薩摩国出身。薩摩藩漢学師範・上村藤一郎の長男として生まれる。最終階級は海軍大将。渾名は船乗り将軍。日露戦争の日本海海戦では判断よくバルチック艦隊の進路を塞いだ。家紋は丸に橘紋と抱き菊の葉紋。画像は青山霊園にて撮影。


栗野慎一郎 。1851年11月29日 – 11月15日、 外交官。
筑前国出身。槍術師範・栗野小右衛門の長男。陸奥外務大臣から駐米公使兼駐メキシコ公使に任命され、日米改正新通商条約の調印を成し遂げる。また、パリ万国博覧会では、同郷の川上音二郎の公演を支援した。家紋の鬼菊菱紋は、鶴見総持寺にて撮影。


東郷正路 。1852年4月19日 – 1906年1月4日、 海軍軍人。
越前国出身。父は福井藩士・東郷晴霞。日清戦争時は「鳥海」艦長、「西京丸」艦長を、日露戦争では第6戦隊司令官として出征し、黄海海戦、日本海海戦に参戦し、後に海軍中将となった。家紋は抱き菊の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


菊池武夫 。1854年8月21日 – 1912年7月6日、 法学者。
陸奥国岩手郡出身。穂積陳重江木衷高橋健三元田肇等と英吉利法律学校を創設し、中央大学初代学長に就任した。他に、司法省民事局長、東京弁護士会会長、貴族院勅選議員等も務めた。家紋は菊水紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


青山幸宜 。1854年12月9日 – 1930年2月5日、 郡上藩青山家11代。
第6代藩主・青山幸哉の長男として生まれる。版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、廃藩置県で免職された。その後は実業家、貴族院議員となって活躍した。市川米庵に書を学び、多くの名筆を残した。家紋は青山紋。菩提寺である梅窓院の墓所にて撮影。


青山胤通 。1859年6月15日 – 1917年12月23日、 医学者。
江戸に苗木藩藩士・青山景通の三男として生まれる。読みは、あおやまたねみち。東京帝国大医科大学校長、伝染病研究所所長を歴任。明治大帝の侍医、宮内庁御用掛を勤める。原田直次郎の治療や、樋口一葉の診察も行ったという。家紋は抱き菊の葉に菊紋。


大橋新太郎 。1863年9月11日 – 1944年5月5日、 出版業者。
越後国長岡出身。博文館創業者大橋佐平の三男。父没後、博文館館主となり、博文館印刷所(現在の共同印刷)、日本書籍株式会社を設立。衆議院議員・貴族院議員もつとめる。家紋は杏葉菊菱紋。画像は護国寺の墓所にて撮影。


山之内一次 。1866年12月12日 – 1932年12月21日、 政治家。
薩摩国出身。藩士・山之内時習の長男。読みは、やまのうちかずじ。青森県知事、逓信省鉄道局長、第1次山本内閣内閣書記官長、貴族院勅撰議員、第2次山本内閣鉄道大臣などを歴任。家紋は丸に十六剣菊紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


夏目漱石 。1867年2月9日 – 1916年12月9日、 小説家。
江戸牛込馬場下出身。数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子。千円札の図柄としても著名。代表作は『坊ちゃん』『我輩は猫である』『こころ』など。家紋は井桁に菊紋とも言われるが雑司が谷霊園には菊菱紋(画像)がある。


血脇守之助 。1870年3月2日 – 1947年2月24日、 歯科医師。
下総国南相馬郡我孫子驛出身。加藤家に生まれるが、18歳の時に血脇家に入る。東京歯科大学の創立者の一人。日本の近代歯科医療制度の確立に尽力。また、野口英世のパトロンとして知られる。家紋の菊水紋は八柱霊園の墓所写真より。


尾上梅幸(6代) 。1870年11月8日 – 1934年11月8日、 役者。
尾張国名古屋出身。父は尾上朝次郎本名は寺島榮之助。屋号は音羽屋。昭和初期を代表する名女形役者。十五代目市村羽左衛門の名相方とうたわれ墓も隣にある。役者としての家紋は重ね扇に抱き柏だが、雑司が谷墓地の墓所の家紋は杏葉菊紋。


伏見宮博恭王 。1875年10月16日 – 1946年8月16日、 海軍軍人。
伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加。艦長や艦隊司令長官を務めるなど皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富。家紋は伏見宮裏菊紋。画像は息子・博英の墓所にて撮影。


有島武郎 。1878年3月4日 – 1923年6月9日、 作家。
東京市小石川出身。旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の長男。作家の里見とんは弟。長男は俳優の森雅之。同人「白樺」に参加。代表作は『カインの末裔』『迷路』。家紋は丸に雪持ち笹だが、多磨霊園の墓所には抱き菊の葉に雪持ち笹紋も見える。


野口雨情 。1882年5月29日 – 1945年1月27日、 童謡作詞家。
茨城県出身。生家は廻船問屋を営む名家。野口家は、楠木正成の弟、正季が先祖と伝えられているという。代表作は、『シャボン玉』『こがね虫』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など多数。家紋は菊水紋。画像は小平霊園所に撮影。


東久邇宮稔彦王 。1887年12月3日 – 1990年1月20日、 皇族。
京都府出身。読みは、ひがしくにのみやなるひこおう。陸軍軍人としての最高階級は、陸軍大将。第二次世界大戦終結後、鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣、陸軍大臣に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。家紋は東久邇菊紋。


小松輝久 。1888年8月12日 – 1970年11月5日、 華族、海軍軍人。
東京府出身。北白川宮家。長兄・恒久王は特に竹田宮家を創設し自身は臣籍降下し小松侯爵家を創設。終戦間際まで帝国海軍の軍務に服し、最終階級は海軍中将。戦後は平安神宮宮司を務める。家紋は三つ割菊紋。画像は護国寺にて撮影。


恩地孝四郎 。1891年7月2日 – 1955年6月3日、 写真家、詩人。
東京府出身。宮内省式部職・恩地轍の四男。読みは、おんちこうしろう。前衛的表現方法を用いた芸術家としてあらゆるジャンルで活躍。代表作は自身の詩や版画との組み合わせた写真集『飛行官能』『博物誌』。家紋は楠木氏家臣からの流れの菊水紋。


甲斐庄楠音 。1894年12月23日 – 1978年6月16日、 日本画家。
京都出身。甲斐庄氏は楠木正成末裔を称した旗本の一族。読みは、かいのしょうただおと。大正末期の暗い風潮を象徴したデカダンス画家の代表。代表作『青衣の女』『横櫛』等。家紋は菊水紋。画像は文京区・吉祥寺にて撮影。


笹川良一 。1899年5月4日 – 1995年7月18日、 政治運動家。
大阪府三島郡豊川村の造り酒屋の長男。衆議院議員、財団法人日本船舶振興会会長、福岡工業大学理事長を務めた。戦後は政財界の黒幕として「日本の首領(ドン)」と呼ばれた。家紋は半菊に一の字紋。顔画像は高見山の引退興行での紋付姿。


中村泰三郎 。1912年1月24日 – 2003年5月13日、 抜刀家。
山形県上山市出身。実践剣術・戸山流抜刀術を修練し中村流抜刀道を創始。国際居合抜刀道連盟(国際抜刀道連盟の前身)を組織。国際武道院より抜刀道十段を授与される。橋本龍太郎山岡鉄舟愛刀「左文字」の写しを献上した。家紋は丸に菊水紋。


石井ふく子 。1926年9月1日 – 、 テレビプロデューサー。
東京都出身。父(養父)は劇団新派の俳優・伊志井寛。TBSのプロデューサーとして「肝っ玉かあさん」「ありがとう」「女と味噌汁」「おんなの家」「渡る世間は鬼ばかり」等を手がける。家紋は菊杏葉紋。谷中・瑞輪寺の伊志井寛の墓にて撮影。


綿貫民輔 。1927年4月30日 – 、 実業家、政治家。
富山県南砺市出身。父・南佐民は兵庫県淡路島の出身で楠木正成の系譜だが、井波八幡宮の宮司を務める綿貫家の婿養子に入る。自民党の重鎮であったが郵政民営化を巡る党内抗争の結果、離党し国民新党を結成。菊水紋は南家の家紋。


恩地日出夫 。1933年1月23日 -、 映画監督。
東京市出身。堀川弘通監督の助監督を経て、27歳の若さで監督になる。『若い狼』で監督デビュー。代表映画監督作は『女体』『伊豆の踊子』『四万十川』など多数。一方テレビドラマでは『傷だらけの天使』の監督を手がけた。家紋は菊水紋。


北白川道久 。1937年5月2日 – 、 元皇族。
東京府出身。1947年10月14日に皇籍離脱し、以後は北白川道久となる。伊勢神宮の大宮司に就任。紀宮清子内親王(現・黒田清子)の結婚式において、斎主を務めた。現在は、神社本庁統理。家紋は北白川菊紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。


嵐山光三郎 。1942年1月10日 – 、 作家。
静岡県浜松市出身。本名は、祐乗坊英昭。2012年日本文藝家協会理事。独特の文体でのエッセイを多数の雑誌に発表。椎名誠らとともに「昭和軽薄体」と呼ばれた。家紋は三つ割菊紋。画像は高尾霊園にある祐乗坊家の墓所にて撮影。


竹田恒泰 。1975年 – 、 法学者。
東京都出身。家系は伏見宮家より分かれた北白川宮家の分家にあたる竹田宮家。明治天皇の女系の玄孫に当たり、皇太子徳仁親王の三いとこにあたる。竹田恒和は父。家紋の横見菊は、「たかじんのそのまで言って委員会」出演時の紋付より。


青山久蔵 。江戸時代後期、 北町奉行所与力。
テレビ朝日系で放送された「八丁堀の七人」という時代劇の主人公の一人(もう一人の主人公は片岡鶴太郎演じる仏田八兵衛)。村上弘明が演じた。青山という姓より、徳川譜代の青山氏の庶流を想定していると推定される。家紋は丸に立ち葉菊紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

雁金紋 -群れ飛ぶ雁に希望を仮託した紋- 柴田勝家、犬養毅、鳩山由紀夫...


群れをなして空を飛ぶ雁の家紋が雁金だ。

鳥に対する人間の願望が家紋として表出したのだと思う。
現代人の発想だと、鳥は自由の象徴ということになるのだが、昔はそうではなかった。

彼岸にいるであろう先祖との使者としての雁、仲良く群れをなす絆の強さの象徴としての雁。
そんなことを考えて家紋として採用したのであろう。

雁金紋で有名なのは、戦国武将の柴田勝家の「二つ雁金」だ。
この家紋の図案は、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した武将・勝家の悲劇を物語っているようにも見えるから不思議だ。

現在の県別分布では、雁金紋の発祥地・長野県と、何故か鹿児島県で比較的多い。
そういえば、梶紋も元々は長野県発祥の紋であるが、鹿児島県にも多い。
長野と鹿児島の間には何か独特の繋がりがあるのであろうか。

さて、雁金紋を持つ有名人は以下だ。


土佐坊昌俊 。1141年9月19日 – 1185年11月19日、 武将。
出生地不明。義朝の郎党金王丸と同一人物とする説あり。源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加。源義経を襲撃する(堀川夜討)が、敗れて六条河原で梟首された。「源平盛衰記」によれば、頼朝より二文字に結び雁金を賜ったという。


柴田勝家 。1522年 – 1583年6月14日、 武将・大名。
尾張国愛知郡上社村で土豪階層の家に生まれる。織田信長の家臣として近江、摂津など各地を転戦。長篠の戦いにも参加。信長死後、賤ヶ岳の戦い秀吉に敗れ越前北ノ庄にてお市と共に自害。家紋は二つ雁金。画像は勝家の孫・柴田勝重の墓所にて撮影。


平岩親吉 。1542年 – 1612年2月1日、 武将・大名。
三河国額田郡坂崎村で生まれる。家康の小姓として仕える。小田原征伐に戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。関ヶ原の戦い後甲府6万3,000石を、その後、犬山藩主として12万3,000石を領した。家紋は丸に結び雁金。


古屋佐久左衛門 。1833年 – 1869年6月25日、 幕臣。
筑後国御原郡古飯村出身。庄屋の次男。幕臣古屋家の養子となる。高松凌雲は弟。神奈川奉行支配定役をへて歩兵差図役。衝鋒隊を組織して各地で新政府軍と戦う。箱館五稜郭で戦死。家紋は丸に捻り雁金紋。画像は谷中霊園の墓所写真にて撮影。


肝付直五郎 。1835年12月3日 – 1870年8月16日、 薩摩藩士。
生家は肝付家。後の小松帯刀。大河ドラマ「篤姫」では瑛太が演じる。この尻合わせ四つ結び雁金紋が家紋。また、別に鶴の丸紋も使用。ちなみに、小松家の養子入ってからの使用家紋は、抱き鬼梶の葉(抱き鬼菊の葉とも)紋。


花房義質 。1842年2月10日 – 1917年7月9日、 外交官。
岡山藩士で実業家、政治家・花房端連の長男。壬午事変では暴徒に包囲された公使館を脱出して命からがら帰国。事件の損害補償とともに漢城への日本軍駐留を認めさせる。宮内次官、日本赤十字社社長等を歴任。画像は池上本門寺にて撮影。


犬養毅 。1855年6月4日 – 1932年5月15日、 政治家。
備中国賀陽郡庭瀬村で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男。若槻礼次郎・民政党内閣が崩壊したため反対党(政友会)の総裁として第29代内閣総理大臣に就任。五一五事件で凶弾に倒れる。家紋は嘴合わせ三つ雁金。画像は青山霊園にて撮影。


日比翁助 。1860年8月12日 – 1931年2月22日、 経営者。
筑後国久留米出身。父は藩士・安太郎。日比家の養嗣子となる。読みは、ひびおうすけ。三井銀行に入社。株式会社三越呉服店が設立され、専務取締役に就任。このときに「デパートメントストア宣言」を行った。家紋の丸に結び雁金紋は祥雲寺にて撮影。


都筑馨六 。1861年3月27日 – 1923年7月6日、 官僚、政治家。
上野国出身。名主・藤井安治の二男。西条藩士・都筑侗忠の養子となる。読みは、つづきけいろく。妻・光子は井上馨の娘。井上馨外相、山縣有朋首相の秘書官を務め、立憲政友会の創立に参加した。家紋の尻合せ三つ雁金紋は、「華族家系大成」による。


高田実 。1871年5月8日 – 1916年5月24日、 新派俳優。
東京生まれ。川上音二郎一座の「日清戦争」で李鴻章に扮したのが出世役。大阪で成美団を結成。評論「自然主義新演劇を唱ふ」を発表、関西新派の中心俳優として活躍し「新演劇の団十郎」と呼ばれた。家紋は丸に結び雁金紋。画像は金嶺院にて撮影。


小泉策太郎 。1872年12月3日 – 1937年7月28日、 政治家。
静岡県賀茂郡出身。漁師の9人兄弟の長男。『自由新聞』に入社し、幸徳秋水らと親交を持つ。立憲政友会に所属し、田中義一総裁実現に尽力。政界の策士と異名を取る。若き日の林房雄を、共産党運動から転向させたという。家紋は丸に捻り雁金紋


寺田寅彦 。1878年11月28日 – 1935年12月31日、 随筆家。
高知県出身。土佐藩士族・寺田利正の息子。安岡章太郎、別役実とは親戚。夏目漱石の『吾輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデル。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉。家紋は二つ雁金紋。寺田寅彦記念館にて確認。


芦田均 。1887年11月15日 – 1959年6月20日、 政治家。
芦田家は京都府福知山市の豪農。読みは、あしだひとし。敗戦直後の日本政治の中心の1人。社会党・片山哲内閣を引き継ぎ、第47代内閣総理大臣となるが昭和電工事件により総辞職、逮捕される。家紋は桜輪に結び雁金。画像は総持寺にて撮影。


竹田敏彦 。1891年7月15日 – 1961年11月15日、 小説家。
香川県仲多度郡多度津町生まれ。本名は敏太郎。「大阪毎日新聞」記者をへて新国劇に入り文芸部長を務める。のち小説家として多くを書いた。代表作は「薔薇夫人」「母は強し」。家紋は亀甲に頭合わせ三つ雁金紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


瀧口修造 。1903年12月7日 – 1979年7月1日、 美術評論家。
富山県婦負郡寒江村大塚出身。3人姉弟の長男。近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱。治安維持法違反容疑で特高に逮捕された。家紋は二つ雁に沢瀉紋。墓所の写真にて確認。


鳩山由紀夫 。1947年2月11日 – 、 政治家。
東京都小石川出身。父・鳩山一夫は初代自民党総裁、第52・53・54代内閣総理大臣。弟・邦夫は元総務相、文相。自身は民主党代表(第2・7代)、内閣総理大臣(第93代)を歴任。家紋は尻合わせ三つ結び雁金紋。画像は谷中霊園の鳩山家の墓所にて撮影。


池畑慎之介 。1952年8月8日 – 、 歌手、俳優、タレント。
大阪府出身。ピーターという芸名も使う。上方舞吉村流四世家元・吉村雄輝 の長男。両親離婚後、母方の池畑姓を名乗る。画像の結び雁金は「父親から譲り受けて、ピーの芸紋にした」と記したブログ記事より。元々は父の養父・高田実(新劇俳優)の家紋。


薬丸裕英 。1966年2月19日 – 、 タレント。
東京都武蔵野市出身。読みは、やくまるひろひで。『2年B組仙八先生』でデビューし、アイドルグループ「シブがき隊」のメンバーとして活躍。『はなまるマーケット』の司会を長年務めた。家紋の頭合わせ三つ雁金紋は、自身のブログにて公開された手桶より判断。


陣内栄 。大正年間8月1日 – 8月、 「サマーウォーズ」登場人物。
戦国時代から続く陣内家の16代目当主。元教師で、教え子には政治家、官僚、地方の実力者なども多く、政財界に幅広い人脈を持つ。一族はもとより、国を動かせるだけの影響力をもっている。吹き替えは富司純子。家紋は右向き結び雁金紋と変り六文銭紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

亀甲紋 -北方を守護する玄武の力にあやかった紋- 浅井長政、手塚治虫、羽生善治...


亀甲紋は、北方を守護する玄武(亀)を表象する紋である。

出雲神社、香取神宮の神紋として知られている。
おそらく、元々、出雲大社は大陸(半島)、香取神宮は蝦夷(東北地方)に対する守りという意味があったのであろう。

ただ、この形状自体が美しいデザインのため、企業のマークとしても使用されている。
例えば、醤油でお馴染みのキッコーマンのマーク。
昭和のはじめに創業者の茂木佐平次が、香取神宮の氏子だったことから亀甲紋をマークに、採用したとのことである。

また、商標、後には会社名としても採用した。

また、ビデオレンタルのゲオ。
こちらのマーク、隅立ての3つの正方形のように見えるが、実は、創業者の遠藤結城氏の家紋であった三つ盛り亀甲のイメージをそのマークに込めたとのことである。

全国では20位。特に多い地域は、秋田県(15位)、徳島県(16位)、北海道(17位)、青森県(17位)、愛知県(17位)、佐賀県(17位)、山形県(18位)、島根県(18位)、香川県(18位)、千葉県(19位)といったところか。

さて、この紋を持つ有名人は以下の通り。


浅井長政 。1545年 – 1573年9月26日、 戦国大名。
近江国出身。浅井久政の嫡男として南近江観音寺城下に出生。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させる。織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが後に信長と決裂。姉川合戦に敗れ追い詰められ自害し滅亡。家紋は三盛亀甲花菱。


直江兼続 。1560年 – 1620年1月23日、 戦国時代武将。
越後国出身。戦国から安土桃山時代にかけて上杉家の生存を賭けた戦いと外交に尽力。2009年の大河ドラマ「天地人」では、妻夫木聡が演じた。三つ盛り亀甲の中の文様は細い葉説と剣花菱説がある。画像は墓所で撮影した三盛亀甲紋。


安松金右衛門 。1611年 – 1686年10月24日、 藩士、郡代。
河内国出身、生国は播磨国。安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し、名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。玉川上水・野火止用水の開削を行う。「算術の達人」と称された。家紋は一重亀甲に左三つ巴紋。平林寺の墓所にて撮影。


竹本義太夫 。1651年 – 1714年10月18日、 浄瑠璃太夫。
摂津国出身。両親は農家。読みは、たけもとぎだいゆう。大坂道頓堀に竹本座を開設し、『世継曽我』など、近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を上演した。浄瑠璃の義太夫節の創始者。家紋は竹亀甲に九枚笹。画像は回向院にて撮影。


川路聖謨 。1801年6月6日 – 1868年4月7日、 旗本、勘定奉行。
豊後国日田出身。読みは、かわじとしあきら。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ小普請組の川路家の養子となる。海防掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺にて撮影。


周布政之助 。1823年5月3日 – 1864年10月26日、 長州藩士。
長門国出身。藩士・周布吉左衛門の五男。周布氏は代々長州藩毛利家に仕えた家柄。財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力。禁門の変第一次長州征伐に際して事態の収拾に奔走。家紋は亀甲に久の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。


税所篤 。1827年12月22日 – 1910年6月21日、 武士、官僚。
薩摩国出身。藩士・税所篤倫の二男。読みは、さいしょあつし。戊辰戦争では新政府軍の軍事費工面などの財政処理を行う。維新後は、関西の各県令、知事、霧島神社宮司等を歴任。家紋は丸に亀甲に唐花紋、亀甲花崩し紋。画像は青山霊園にて撮影。


米倉一平 。1831年 – 1904年6月1日、 実業家。
豊後国出身。読みは、よねくらいっぺい。鳥羽・伏見の戦いで功をたてる。第五国立銀行取締役となり米穀市場を開き蠣殻町米商会所をおこし頭取となる。後に米穀取引所理事長などをつとめた。家紋は亀甲に唐花紋。画像は谷中霊園にて撮影。


船津伝次平 。1832年11月22日 – 1898年6月15日、 農業研究家。
上野国原之郷出身。読みは、ふなつでんじべい。篤農家として評価された「明治の三老農」の一人。経験を重んじる在来の日本農業に西洋の近代農法を積極的に採り入れた「混同農事」に力を入れた。家紋の丸に三つ盛亀甲紋は、船津家墓所写真にて確認。


岡内重俊 。1842年5月11日 – 1915年9月20日、 司法官。
土佐国土佐郡に藩士岡内清胤の長男として出生。読みは、おかうちしげとし。海援隊に入り秘書役として活躍。維新後、岩倉具視伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。家紋は丸に亀甲に武田菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


千家尊福 。1845年9月7日 – 1918年1月3日、 宗教家、政治家。
出雲国出身。出雲大社宮司の家に生まれ教派神道出雲大社教を創始。貴族院議員、埼玉・静岡県知事、東京府知事、司法大臣を歴任。「年の始めの 例(ためし)とてで」始まる「一月一日」の作詞者。家紋は亀甲に剣花菱紋。青山霊園にて撮影。


原口兼済 。1847年4月2日 – 1919年6月18日、 陸軍軍人。
豊後国出身。森藩士・林寛吾の四男。同藩士・原口等の養子となる。西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行し樺太全土を占領。貴族院議員も務める。最終階級は陸軍中将。家紋は亀甲に木瓜紋。画像は青山霊園。


寺内正毅 。1852年2月24日 – 1919年11月3日、 政治家。
周防国出身。長州藩士宇多田正輔の三男。読みは、てらうちまさたけ。母方の寺内勘右衛門の養嗣子となる。陸軍大臣、外務大臣、韓国統監、朝鮮総督、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は亀甲に三つ柏紋。


山根武亮 。1853年3月24日 – 1928年4月4日、 陸軍軍人。
長州国出身。藩士・山根修平の二男。読みは、やまねたけすけ。日清戦争に第2軍兵站参謀長として出征。日露戦争では臨時軍用鉄道監として出征し、仁川で任務を遂行した。最終階級は陸軍中将。家紋の亀甲に山の字紋は、「華族家系大成」による。


田村銀之助 。1856年8月30日 – 1924年8月20日、 新選組隊士。
磐城平藩出身。12歳で新選組に入隊し、局長近藤勇土方歳三附属の小姓として所属した。旧幕府軍が仙台で榎本武揚艦隊と合流すると、共に蝦夷地へ渡り、土方歳三に所属する榎本総裁附きの小姓となる。家紋は丸に亀甲に左三つ巴紋。


磯野計 。1858年9月 – 1897年12月14日、 実業家。
美作国津山出身。父は津山藩士。読みは、いそのはかる。弁護士から郵便汽船三菱会社社員を経て、横浜で明治屋を創業し、麦酒販売などを行なう。。家紋の子持ち亀甲に三つ鱗紋は青山霊園にて撮影。現在でも明治屋のロゴに三つ鱗が残っている。


下瀬雅允 。1859年7月11日 – 1911年9月6日、 発明家、工学博士。
安芸国出身。広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男。読みは、しもせまさちか。日露戦争における大戦果の一因とされた下瀬火薬を発明。実験事故で指を失ってもなお研究を続けたという。家紋は一重亀甲に右二つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


堀直弘 。1861年3月24日 – 1919年12月6日、 村松知藩事。
越後村松藩の第12代で最後の藩主。読みは、ほりなおひろ。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟軍に参加せず、新政府軍に帰順したため、明治元年、村松藩主堀家12代をゆるされた。家紋の亀甲に花菱紋は、谷中霊園内寛永寺墓地にて撮影。


鳥谷部春汀 。1865年3月29日 -1908年12月21日、 ジャーナリスト。
陸奥国三戸郡五戸村出身。南部藩士・木村忠治の子。母方の鳥谷部氏を嗣ぐ。本名は鳥谷部銑太郎。読みは、とやべしゅんてい。雑誌『精神』『太陽』『報知新聞社』等の記者となり人物評を連載する。家紋は亀甲に唐花紋。画像は吉祥寺の墓所にて撮影。


宮武外骨 。1867年2月22日 – 1955年7月28日、 ジャーナリスト。
讃岐国出身。庄屋宮武家の四男。読みは、みやたけがいこつ。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行い、たびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。家紋は亀甲に七曜紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


山田美妙 。1868年8月25日 – 1910年10月24日、 小説家。
武蔵国江戸神田出身。旧南部藩士・山田吉雄の長男。本名は山田武太郎。読みは、やまだびみょう。言文一致体、新体詩運動の先駆者。尾崎紅葉らとともに硯友社を結成。雑誌『我楽多文庫』を刊行。家紋は丸に三つ割亀甲に花菱紋。画像は染井霊園にて。


岩元禎 。1869年6月12日 – 1941年7月14日、 哲学者。
鹿児島県出身。士族の長男。読みは、いわもとてい。夏目漱石の『三四郎』の広田先生のモデル。極めて採点が厳しい名物教授として知られた。また、志賀直哉にドイツ語を教えた。主著は『哲学概論』。家紋は亀甲に花菱。画像は総持寺にて撮影。


馬場孤蝶 。1869年12月10日 – 1940年6月22日、 作家、翻訳家。
高知県出身。本名は勝弥。読みは、ばばこちょう。島崎藤村北村透谷上田敏らと雑誌「文学界」を創刊。本邦初訳のトルストイ『戦争と平和』を刊行。代表作は 『明治の東京』 『社会的近代文芸』 等。家紋は違い一重反り亀甲。画像は谷中霊園にて撮影。


畑英太郎 。1872年8月28日 – 1930年5月31日、 陸軍軍人。
福島県出身。会津藩士・警察官、畑能賢の長男。陸軍大臣陸軍大将・畑俊六は弟。軍事課長、航空局次長、軍務局長、陸軍次官、兼軍事調査委員長、第1師団長を歴任。最終階級は陸軍大将。家紋は亀甲に根笹紋。画像は多磨霊園にて撮影。


蒲原有明 。1875年3月15日 – 1952年2月3日、 詩人。
東京市麹町隼町に蒲原忠蔵の息子として出生。本名、隼雄。象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され北原白秋三木露風らに影響を与えた。家紋は亀甲に梅鉢紋。画像は麻布・賢崇寺の墓所にて撮影。


平福百穂 。1877年12月28日 – 1933年10月30日、 日本画家。
秋田県角館出身。本名は貞蔵。読みは、ひらふくひゃくすい。自然主義的写生画を目指し自然主義と古典が融合した作品を生み出す。また、伊藤左千夫と親しく歌人としても活動した。家紋は陰亀甲に隅立て陰四つ目結紋。画像は多磨霊園にて撮影。


冠松次郎 。1883年2月4日 – 1970年7月28日、 登山家。
東京府出身。読みは、かんむりまつじろう。日本アルプスや奥秩父の渓谷の多くを遡行し、優れた記録や紀行文を残した。登山の中に沢登りという日本独自の分野を開く。黒部の父とも呼ばれる。代表作は『黒部渓谷』『剣岳』等。家紋は三つ盛亀甲紋。


平塚雷鳥 。1886年2月10日 – 1971年5月24日、 思想家・作家。
東京府出身。父親は紀州藩士で明治政府の高級官吏・平塚定二郎。関ヶ原の合戦で戦死した西軍の武将平塚為広の末裔。女性解放運動・婦人運動の指導者。日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を創刊。家紋は一重亀甲の内梅鉢紋。


長田幹彦 。1889年5月28日 – 1929年3月5日、 小説家。
東京出身。谷崎潤一郎とともに耽美的作風を併称され、幹彦潤一郎と呼ばれた。『祇園情話』などの「祇園もの」でも人気を博した。戦後は、阿部定と組み阿部定事件を演じる劇団を旗揚げしたこともある。家紋は三つ盛一重亀甲紋。寛永寺第三墓地にて撮影。


山本宣治 。1889年5月28日 – 1929年3月5日、 政治家。
京都府宇治に料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松の長男。日本共産党系の労農党の京都府連合会委員長。衆議院議員として治安維持法改正などに反対するが、「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。家紋は一重亀甲に右寄り三階松紋。


橋本祐幸 。1890年1月 – 1944年1月27日、 政治家、内務官僚。
福岡県福岡市出身。読みは、はしもとすけゆき。本所警察署、向島警察署、日比谷警察署、四谷警察署の署長を歴任。衆議院議員総選挙に出馬し当選。頼母木桂吉東京市長のもとで第二助役をつとめた。家紋の丸に亀甲に花菱紋は多磨霊園の墓所にて撮影。


丸山敏雄 。1892年5月5日 – 1951年12月14日、 宗教家、教育家。
福岡県豊前市合河町出身。倫理研究所の前身・新世文化研究所を設立し、社会教育、研究、文化、出版等の事業を行なう。後に、日本全国に50,000社を擁する倫理研究所として発展させる。家紋は一重亀甲に左寄り三階松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


中川一政 。1893年2月14日 – 1991年2月5日、 洋画家、美術家。
東京府本郷に生まれ、岸田劉生に見出されて画家を志す。多彩な作品を制作し、全てが独学であり自ら「在野派」と称した。妻は千田是也の姉の暢子。次男・は映画監督中川晴之助。孫に女優の中川安奈。家紋は亀甲に花菱紋。雑司が谷霊園にて撮影。


甲賀三郎 。1893年10月5日 – 1945年2月14日、 推理作家。
滋賀県蒲生郡日野町出身。生家は、甲賀郡水口藩の藩士であった井崎家。本名は春田能為。読みは、こうがさぶろう。江戸川乱歩と並び本格派の探偵小説に取り組んだ。代表作は「琥珀のパイプ」「支倉事件」など。家紋は一重亀甲に立ち沢瀉紋。


相良守峯 。1895年4月14日 – 1989年10月16日、 独文学者。
山形県鶴岡市出身。読みは、さがらもりお。東京大学名誉教授、文化勲章受章。木村謹治とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれた。また、日本独文学会の創設にも貢献した。家紋の亀甲に花菱紋は春秋苑にて撮影。


玉川勝太郎(2代) 。1896年5月1日 – 1969年8月13日、 浪曲師。
東京府牛込区の生まれ。本名は石渡金久。17歳で初代に入門。師匠譲りの関東節任侠物を磨き上げ、『清水次郎長伝』『国定忠治』などを十八番にした。弟子には玉川良一、玉川ゆたか等がいる。家紋は三つ盛亀甲紋。画像は寛永寺第二霊園にて撮影。


猪口敏平 。1896年8月11日 – 1944年10月24日、 海軍軍人
鳥取県鳥取市出身。大工棟梁・猪口鉄蔵の長男。読みは、いのぐちとしひら。弟・猪口力平(海軍大佐) 神風特別攻撃隊命名者。最終階級は海軍中将。戦艦「武蔵」最後の艦長として知られる。家紋の亀甲に剣片喰紋は墓所写真にて確認。


堀越二郎 。1903年6月22日 – 1982年1月11日、 航空技術者。
群馬県藤岡市出身。三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて革新的な設計を行う。零式艦上戦闘機の設計主任として知られる。また『風立ちぬ』(宮崎駿著)の主人公としても有名である。家紋の丸に三つ盛り亀甲は多磨霊園の墓所にて撮影。


小林多喜二 。1903年10月13日 – 1933年2月20日、 小説家。
秋田県北秋田郡下川沿村生まれ。4歳の時に北海道・小樽に移住。伯父からの学資を受け小樽高等商業学校へ進学。『蟹工船』を発表し一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集める。非合法の日本共産党に入党。治安維持法違反容疑で逮捕され獄死。


塚本憲甫 。1904年9月16日 – 1974年6月7日、 医学者。
東京府出身。ノンフィクションライターの塚本哲也は長女ルリ子の夫。放射線医学総合研究所の二代目所長、国立がんセンター病院長を歴任するが、自身が癌に罹り在職のまま死去した。家紋は一重亀甲に違い笏紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


立原道造 。1914年7月30日 – 1939年3月29日、 詩人、建築家。
東京市日本橋区橘町出身。家系は桓武平氏の一家系 常陸平氏・大掾氏の一門 鹿島氏の庶流 立原氏。代表詩集『ゆふすげびとの歌』『萱草に寄す』『曉と夕の詩』。家紋は三つ盛り亀甲紋。上の紋は花菱、下の二つは角字(平と東)。画像は多宝院にて撮影。


古橋廣之進 。1928年9月16日 – 2009年8月2日、 水泳選手。
静岡県浜名郡雄踏町出身。水泳界で次々と世界記録を打ち立ててフジヤマのトビウオの異名を取った。日本水泳連盟会長、JOC会長を歴任。家紋は亀甲に花菱紋。画像は「週刊現代」2012年7月21日28日合併号の「著名人のお墓巡り」の記事より。


手塚治虫 。1928年11月3日 – 1989年2月9日、 漫画家。
大阪府出身。5歳から兵庫県宝塚市に育つ。代表作は、『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『ブッダ』『マグマ大使』『どろろ』『ブラック・ジャック』等、多数。ストーリー漫画の父と言われている。家紋は細輪に三つ盛亀甲紋。画像は巣鴨・摠禅寺にて撮影。


有吉佐和子 。1931年1月20日 – 1984年8月30日、 小説家。
和歌山県和歌山市出身。曽祖父は長州藩士の有吉熊次郎。カトリック教徒。『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり文壇デビュー。代表作は『紀ノ川』『恍惚の人』。家紋は一重亀甲に並び矢。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


西岡武夫 。1936年2月12日 – 2011年11月5日、 政治家。
長崎県長崎市出身。衆議院議員(11期)、参議院議員(2期)、新自由クラブ幹事長、文部大臣(第111・112代)、自由民主党総務会長、新進党幹事長、参議院議長(第28代)などを歴任した。。家紋の亀甲に横木瓜紋は、地元長崎の精霊船の写真にて確認。


松永高司 。1936年6月6日 – 2009年7月11日、 実業家。
東京都目黒区出身。松永4兄弟で全日本女子プロレスを創業し、社長・会長を務めた。「女子プロレスの父」の異名を持つ。後に、フジテレビでの試合中継も実現させて女子プロブームを興した。北斗晶のブログの墓参り写真より、家紋は亀甲に花菱紋と判断。


梅宮辰夫 。1938年3月11日 – 、 俳優。
満洲・ハルビン市出身。茨城県水戸市で育つ。本名は梅宮辰雄。タレント・モデルの梅宮アンナは娘。代表出演作は『人生劇場 飛車角』『仁義なき戦い』。テレビドラマ、CMでも活躍。家紋は丸に三つ盛り亀甲紋。画像は小平霊園の梅宮家の墓所にて撮影。


落合博満 。1953年12月9日 – 、 プロ野球選手、監督。
秋田県南秋田郡若美町出身。現役時代はロッテ、中日、巨人、日本ハムなどで活躍。3度の三冠王に輝く。2004年から中日ドラゴンズ監督。3度のリーグ優勝に輝く。家紋は息子・福嗣の自伝「フクシ伝説」の表紙の紋付より亀甲と判断。中は梅鉢か。


田中好子 。1956年4月8日 – 2011年4月21日、 女優、歌手。
東京都足立区梅田出身。実家は田中屋釣具店。本名は、小達好子。アイドル歌手でキャンディーズのメンバー。主な出演映像作品は『おしん』『黒い雨』『家なき子』など多数。家紋は亀甲に小の文字紋。画像は、多磨霊園の小幡家の墓所にて撮影。


原由子 。1956年12月11日 – 、 ミュージシャン。
神奈川県横浜市出身。サザンオールスターズのメンバー。本名は、桑田由子。キーボード担当。ソロ作品も数年置きのペースでリリースしている。家紋の亀甲に花菱紋は、生家・原家の家紋。1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


青木達之 。1966年8月15日 – 1999年5月2日、 ドラマー、作曲家。
東京都出身。日本を代表するスカバンド、「東京スカパラダイスオーケストラ」の結成当時からのドラマーとして活躍。小泉今日子などにも曲を提供。列車事故で急逝。画像は多磨霊園の青木家の墓所にて撮影。亀甲紋であることが確認できる。


羽生善治 。1970年9月27日 – 、 将棋棋士。
埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持。通算タイトル獲得数、通算優勝回数等は歴代1位。数々の実績から将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。紋付姿の写真より家紋は亀甲に梅紋と判断。


後藤洋央紀 。1979年6月25日 – 、 プロレスラー。
三重県桑名市出身。読みは、ごとうひろおき。新日本プロレス所属。得意技はGTR、昇天・改。2007年に、IWGPヘビー級王座、2015年にIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦。家紋の亀甲に花菱紋は自身のオリジナルグッズのデザインにも使用している。


羽生結弦 。1994年12月7日 – 、 フィギュアスケート選手。
宮城県仙台市泉区出身。読みは、はにゅうゆずる。2014年ソチオリンピック男子シングル優勝。2014年世界選手権優勝。グランプリファイナル二連覇する。家紋の丸に三盛亀甲紋は、2015年12月発売の「家庭画報1月号」(世界文化社)の羽織袴姿にて確認。


丹下左膳 。江戸時代、 剣士。
作家・林不忘の新聞連載小説、およびその作品内の主人公。隻眼隻腕の異様な姿の剣士。手塚治虫も同名の作品を漫画化している。映画では団徳麿、嵐寛寿郎、大河内傳次郎、阪東妻三郎等が主役を演じている。家紋は一重亀甲に二引両紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね