洲浜紋 -水神を奉った浜辺の豪族の紋- 最上徳内、青木周蔵、坪内逍遥...


州浜は、神仙が住む蓬莱島のこと。
海の向こうにあると言われている究極の幸せの国への憧れがこの紋に現れている。

和歌山県(24位)、徳島県(25位)で多い。


小田氏治 。1534年 – 1602年1月6日、 戦国大名。
常陸の大名小田氏の15代当主。読みは、おだうじはる。上杉氏・佐竹氏・宇都宮氏らと抗争を繰り返す。秀吉の小田原征伐に際し、秀吉軍に参陣せず秀吉方の佐竹氏の小田城奪還の兵を起こしたことを理由に所領を没収される。家紋は洲浜紋。


奥田行高 。1678年 – 1703年3月20日、 赤穂浪士47士の1人。
赤穂藩浅野家家臣の近松小右衛門行生の五男。読みは、おくだゆきたか。赤穂藩ではまだ家督前の部屋住みだった。吉良義央邸討ち入りの際には裏門隊に属した。享年26。主君浅野内匠頭と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。家紋は丸に洲浜紋。


最上徳内 。1754年 – 1836年10月14日 、 探検家。
出羽国村山郡楯岡村の農家出身。読みは、もがみとくない。江戸へ出て天文や測量等を学び、後に千島、樺太を探検して、『蝦夷草紙』『蝦夷方言藻汐草』などを著す。農民から商家の婿、武士へと立身出世した。画像は蓮光寺の墓所にて撮影。


宍戸たまき 。1829年4月18日 – 1901年10月1日、 長州藩士。
長門国出身。藩士・安田直温の三男。藩儒・山県太華、後に宍戸家の養子となる。松下村塾に学び、国事に奔走。謹慎中の学者佐久間象山を長州藩へ招聘のために訪問。第二次長州征伐後の幕府との交渉にあたった。家紋の花洲浜紋は染井霊園にて撮影。


本田親雄 。1829年10月3日 – 1909年3月1日、 武士、官僚。
薩摩藩の藩士本田弥右衛門の長男として出生。読みは、ほんだちかお。寺田屋事件のときには負傷者を救護。維新前国事に尽力し、元老院大書記官、元老院議官、貴族院男爵議員を歴任。家紋は丸に頭合わせ三つ洲浜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


黒川真頼 。1829年12月7日 – 1906年8月29日、 国学者・歌人。
上野国桐生新町出身。読みは、くろかわまより。代々機業を営む金子家に生まれ、遺言により黒川家を継ぐ。歴史、文学、美術、工芸など幅広く研究を行い、それらに関係する著書は数多い。「天長節」の作詞もしている。家紋の丸に洲浜紋は谷中霊園にて撮影。


青木周蔵 。1844年3月3日 – 1914年2月16日、 外交官、政治家。
長門国出身。村医の家柄。養子の梅三郎は杉孫七郎の息子。第一次、第二次山縣内閣、第一次松方正義内閣で、外務大臣を務め、条約改正に尽力。外交政略としては強硬路線を進め、義和団の乱の時には、積極介入を試みた。家紋は三つ盛洲浜紋。


園田孝吉 。1848年2月23日 – 1923年9月1日、 官僚、実業家。
大隅国太良村出身。薩摩藩士・宮内健吉の長男。のち、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。松方正義の推薦により横浜正金銀行頭取となる。後に東京倶楽部理事や帝国運輸倉庫社長など数多の会社役員を務める。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


坪内逍遥 。1859年6月22日 – 1935年2月28日、 小説家、劇作家。
美濃国加茂郡出身。本名は坪内雄蔵。代表作『小説神髄』『当世書生気質』は近代文学の誕生に大きく貢献。また、島村抱月らと文芸協会を開設し新劇運動の先駆けとなる。家紋の丸に洲浜紋は兄・坪内義衛の墓所にて撮影。


池上秀畝 。1874年10月10日 – 1944年5月26日、 日本画家。
長野県上伊那郡高遠町出身。紙商兼小間物屋の次男。読みは、いけがみしゅうほ。荒木寛畝に文人画をまなび、文展で3年連続特選。帝展では無鑑査となる。山水・花鳥画を得意とした。代表作は『初冬』等。家紋は州浜紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


藤原紀香 。1971年6月28日 – 、 女優。
兵庫県西宮市出身。第24回ミス日本グランプリを受賞。女優として『スタアの恋』『ハッピーマニア』『金曜日の恋人たちへ』等が代表出演作。その他、人道支援への協力でも知られている。父方の家紋は洲浜紋、母方の家紋は木瓜紋と自身のfacebookにて告白。

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