NHKの大河ドラマ「天地人」。直江兼続の少年、青年時代の与六(妻夫木聡)の放映が続いている。
ここで気付くのは、少年時代はともかく、青年時代の彼は、なんとも「女性的」に描かれているということだ。
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例えば、後日、妻になるお船=おせん(常盤貴子)との出会いの場面だ。
人々でごった返す道路に、突如としてあばれ馬が突っ込んでくる。
逃げ遅れそうになった女の子を助けようとして、身を挺して女の子を抱きかかえ、その場にうずくまる与六。
そこに迫り来る暴れ馬。
与六の大ピンチだ。
その時、その暴れ馬に飛び乗り、暴走を止める一人の女性の姿が。その場を収めてその女性が与六に言う。
「この頃の若サムライは馬の扱いも出来ぬと見える」
その態度に、ムッとする与六。
遠目からその女性を2度見し、鏡を見る女性らしさに微妙な笑顔。
そして、次の日の宴会で、その女性と再会して驚くのである。
言うまでも無く、この出会い>不快感>まんざらでもなく思う>再会というパターンは、ラブコメにおける出会いの紋切型である。
しかし、典型的なパターンではあるが、かつては男と女の立場は逆だったはずだ。
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また、与六は、主君の景勝(北村一輝)が、そのお船に惚れていると知ると、二人を接近させようとして、(景勝がお船に逢いたいという)偽りの手紙を書き、二人を逢わせ、それを影から覗く。
さらに、その後、故郷の母の体調が悪いと知ると木陰で一人泣き出すシーンも出てくる。
これら、与六の振る舞いは、どれもこれも、どう見ても、彼が「女性的」ということを表すエピソードである。
勿論、この「女性的」というのは、現実の女性がそのように振舞う仕草ではなく、芝居やドラマの中での「意味づけ」としての「女性的」にすぎないのであるが、どうして、これほど執拗に、与六を「女性的」にしたがるのであろうか。
そういえば、前作、「天障院・篤姫」では、少女期の篤姫(=於一)に対して、木登りをしたり、野原を駆け回ったり、「源氏物語」よりも「大日本史」が好きだったり、碁が得意だったりと、与六とは逆に「男性性」が付与されていた。
まるで、於一と与六、篤姫と兼続は合わせ鏡のようなキャラクタ設定だったのである。
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最近のドラマの多くが女性は「男性的」に、男性は「女性的」に描くのが勝ちパターンのようではある。
しかし、そのパターンを、現代ドラマと同様に、視聴率のために時代劇に持ち込むというのはいかがなものか。
一俗説によると、直江兼続が上杉家で重きをなしていく要因の一つとして謙信との衆道関係(ゲイ)にあったという。
真実はわからないが、例えば、篤姫の男性っぽさが、結局は、彼女が処女のまま生涯を終えるという「悲劇」の伏線になっていたように、この与六の女性っぽさが、大河では描けない「ひとつの可能性」の「ほのめかし」として、示唆的に扱われ、物語に厚みを加えるものであって欲しいというのは贅沢な願望だろうか。
そうなってくると、兼続の兜の「愛」の意味もより深みを増すと思われるのだが。
まさむね
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「篤姫」と「天地人」は韓国大河ドラマのテイストを取り入れていると言われましたね。
天地人で米沢時代の事にほとんど触れないまま終わりましたが、直江兼続は米沢時代にこそ手腕を発揮しているんですね。「大河ドラマで主人公のウィークポイントを描写するのは是か非か?」と言う事が議論の1つになりますが、ウィークポイントを描写しないと話が分からない事もあります。
日本の大河ドラマと韓国の大河ドラマを比較すると、「韓国の大河ドラマは風俗的な面では創作が多い」と言う指摘があります。これは日本人があまり気づかない事(ある意味当たり前?)です。日本の大河ドラマでは出来事の創作がありますが、韓国の場合は出来事は比較的忠実に取り扱います。韓国では日本より古い時代を扱う事が多いので、風俗的な創作はあると思います。
でも、「韓国大河ドラマ」と言う表現自体が韓国にはないかもしれません。
日本の江戸時代に当たる時期をあまり扱わないのも、韓国大河ドラマの傾向でもありますね。
えびすこさんへ
「天地人」は僕は途中で脱落してしまいました。
米沢時代の兼続は、放映されなかったのですね。実務的な話は退屈だからでしょうかね。
「韓国ドラマ」に近いのですか、そのご指摘は新鮮です。
「韓国の大河ドラマは風俗的な面では創作が多い」ということは、特に服装や食べ物に関して、最近、ネットなどでよく指摘されていますね。
僕としては、韓流ドラマは、ほとんど観ないし、朝鮮史にも疎いので、そういった風俗の創作は、あまり気になりませんが。
天地人も週刊誌等で「内容(演出的)について疑問を感じる」と言う記事がありました。
三遊亭圓楽師匠(5代目)が天地人を死去直前まで見ていたそうです。「せめて全部終わるまで生きていてほしかった」と言うのが弟子の本音でしょうね。
八重の桜の放送が決まった時に「東北地域と薩長との遺恨を蒸し返す気か?」と言う危惧がありましたが、「松本騒動」で遺恨は収束したと思います。鹿児島県と山口県が維新の遺恨を乗り越えて地震の救援に当たったと聞いたので、再来年にまで引きずる事がないと思います。その八重の桜で「大河ドラマの強いヒロイン」のピークを迎える気がします。
「利家とまつ」と「功名が辻」あたりではまだ夫を立てていたような気がします。
ご指摘の通り、大河ドラマではだんだん男性が弱くなるでしょうか?
確かに今年は「武闘派」と言われる武将の影が薄かったですね。
補足
「江 姫たちの戦国」では「男性的友情」の描写がそぎ落とされた気がします。
これは主人公が女性だからしょうがないかな?親族を含めた「女性的友情」は十分描写されましたが。
篤姫では坂本竜馬と小松帯刀、西郷隆盛と大久保利通の組み合わせで男性的友情の描写がありました。天地人では直江兼続と石田三成、直江と泉沢久秀の組み合わせで男性的友情がありました。男性の支持が低かった理由がそこにあるような気がします。
再来年の新島襄・八重夫妻の関係は夫婦ですが、「戦友」と言う感じもあります。
性格的には男性的な友情の部分もあるんです。
えびすこさんへ
一本気新聞へお越しいただきありがとうございます。
仰る通り「男性的友情」が描かれなかったという意味で「江」は近年、珍しいかもしれませんね。
「男性的友情」は、一般に多数の男性ファンを獲得するのに必要なのと同時に、コアな若い女性歴史ファン(いわゆる歴女)獲得にも必要かと思いますね。
例えば、近年の新撰組人気、戦国武将人気にはそういった女性層の存在も大きいかと思います。
「八重の桜」の時代は幕末から明治にかけて、たまたま個人が所属した組織自体の判断ミスで、個人が成功したり没落したりする時代ですので、その間に出来た個人と個人の友情や信頼関係が生まれるという話が作りやすいかもしれないので楽しみです。
特に、新島襄や内村鑑三、新渡戸稲造等、どちらかと言えば政治的には成功できなかったキリスト者の友情物語というのはあまり知られていないだけに、個人的に興味深いです。