彼等を生んだ土地の霊をも写した「ビートルズへの旅」

リリーフランキー&福岡耕造の「ビートルズへの旅」を入手。
リバプールとロンドン、ビートルズが生れて育った街の写真の数々と、フランキーさんの文章のコラボだ。
何度見ても飽きない、素晴らしい写真集である。
    ★
フランキーさんも「豊かではないけれど、その土地に漂う品格というものが漂う。」と書いているが、ビートルズ等の生家、学校、教会、町並み、バー、ライブハウス、あらゆる所に、当時の歴史を感じさせる雰囲気が残っている。
そこには、すでに彼等の姿は無いが、この写真集は、確実に影を写しているのだ。

写真の多くはなんとも重い曇り空の下にある。
これがなんともイングランドらしくていい。

そういえば、I Am The Walrus、Strawberry Fields Forever等の憂鬱なタイプのジョンの名曲の背景に感じる重い空気と通じている。

具体的に、この中で一番興味深かったのは、ジョンとポールが出会ったセントピーターズ教会の庭の写真だ。
全てが始まった場所、そこは、ただの庭ではない。
そこは墓場なのである。
想像力たくましくするならば、リバプールの土地の霊が、ジョンとポールを引き合わせたのかもしれない。
そんな事をも感じさせる奥深い写真であった。
    ★

なにか手に届かないはずだった伝説のひとつひとつを実際に確かめて、ビートルズ対する尊敬が愛しさに変っていく。
と、フランキーさんもこの本の中で述べているが、凄くよくわかる。

実は、僕も今から15年位前に、ケンブリッジに1ヶ月滞在した時に、空気の重さを大いに感じた。
イングランドには幽霊が住むと言われるのがわかるような気がしたものだ。
偶然、そこの劇場でデニーロ主演の「タクシードライバー」を観たのを思い出す。
そして、益々、憂鬱に...

Can you take me back where I came from.
Can you take me back.

僕を、元居た場所へ連れ戻してくれるかい。僕を元居た場所に...

Cry baby cryのエンディングのメランコリックなフェードアウトが頭から離れない。

いつになるかわからないけど、再びまた、死ぬまでにイギリスに行ってみたい。

まさむね

「銭ゲバ」は提供企業のCMも含めて楽しむドラマである

「銭ゲバ」第4回を見た。

ドラマの内容に関しては、細かい点で首を傾げたくある点は確かにある。
例えば、ざっと思いつくだけでも、以下の点だ。

主人公の蒲郡風太郎(松山ケンイチ)は既に、何人も殺人を犯していて、警察も彼を疑っているのだが、捜査が全く進展しない。
前回の放送で三國みどり(ミムラ)を襲った男が、あっさり追っ手から逃げ切る。
風太郎の正体を見破った白川(田中圭)を殺して埋めた死体を女中が見つけるのだが、黙っている。

まぁ、元々、原作は漫画なので、そのくらいは許容範囲とすべきなのだろう。
風太郎(松山ケンイチ)の迫力のある演技、風太郎の父親(椎名桔平)の会話のセリフの妙味、風太郎が三國家から連絡を待つ間のタイムカードのシーンを連続して流すジリジリした演出など、欠点を補って余りあるほど、見るべき所が多いからだ。

ただ、「銭ゲバ」が決定的に新しいのは、番組の前後中に流されるCM、クレジットがどのように変化するのかという点も面白いという点である。
それは、このドラマが、非常に微妙な内容だからだ。
簡単に言えば、「銭ゲバ」では、ある大企業の工場で働く派遣社員が社長家を乗っ取るという内容である。
いわゆる「派遣切り」が問題になっている昨今、ドラマの中では派遣労働の過酷さが映され、その間に、派遣切りを報道されている企業のCMが流れる。
視聴者はどう思うのか。
企業の広報としては最も気を遣わなければならないのは当然と言えば、当然である。。
何億円もスポンサー料を出して番組を提供し、それが逆パブにもなりかねないのだから。

しかし、よく考えれば、最近はHD録画、CMをスキップして番組を楽しむユーザーが多い中、逆にCMの方を注目させるという手法は、ある意味では画期的な方法なのかもしれない。

さて、今までの4回の放送のそのあたりのCMの入り方を見てみよう。
特に昨年末、非正規労働者の契約解除、解雇を発表した、スズキ(960人予定)とCANON(大分で1077人予定)の動向に注目だ。
なにぶん、僕の記憶に頼っているところもあるので、違っている可能性もあることはご了解ください。

第1回目の放送では、クレジットはスズキとコカコーラ。
また、ドラマに挿入されるCMにはスズキもあった。
さらに、CANONは番組後にだけCMを流す。

2回目の放送では、スズキのクレジットはなくなる。コカコーラのみ。
ただし、ドラマに挿入されるCMとしては出稿。
また、docomoのCMもドラマの間にあった。
CANONの番組後のCMは継続。

3回目の放送では、前回同様、クレジットはコカコーラのみ。
スズキのCMは番組のはじめにだけ流れ、ドラマに挿入されるCMからは姿を消す。
ドラマに挿入されるCMはコカコーラと公共広告機構だけになる。
CANON、docomoの番組後のCMは無くなる。

4回目の放送でも、前々回同様、クレジットはコカコーラのみ。
スズキのCMは番組の初めだけに放送(明治製菓のCMをはさんで4回、それぞれは別の車のCM)。
前回同様、ドラマに挿入されるCMは、コカコーラと公共広告機構のみ。
番組後のCMでは、docomoが復活。

また、ドラマ内の刑事が乗っていた自動車は、スズキ製の車であった。
さらに、3回目の放送までは、風太郎が派遣の契約を解除される場面、さらに、派遣切りに対する反対運動などの場面もあったが、4回目には、そういった露骨な場面は見られなかった。

ちなみに、Wikの「銭ゲバ」のページには、ちょっと前まで、提供企業に関する記述があったが、現在は見当たらない。

今後、ますます楽しみである。

まさむね

孤独死は本当に悲惨?-水曜ノンフィクションを見て-

今週の水曜日の「水曜ノンフィクション」で孤独死がテーマになっていた。

都会の団地で一人暮らしのお年寄りが亡くなる。
一人暮らしだから、すぐには分からなくて、ひどい場合だと数年位経ってから白骨死体になって発見されるという。

番組では、残された遺品を整理する専門業者を密着取材。
さらに、常盤台団地の、一人暮らしの老人を対象とした「気兼ねなくコミュニケーションできるサロン」、すなわち孤独死予防センターの活動も紹介していた。

孤独死する老人は悲惨だから、地域の人々が新たなコミュニティを作らなければならないのでは...という結論。

でも、実のところ、僕には違和感を禁じえなかった。

おそらく、そういったボランティアをされている方々は全くの善意の人々なんだろう。
その活動というのが、一人暮らしの老人のところに、突然「ピンポーン♪」って押しかけて、「最近どうですか」とか話かけるのだ。

いきなり来られて、嬉しい人もいるかもしれないが、自分だったらどうだろうかと考えてしまった。
とりあえず、作り笑いをして、「大丈夫です。ありがとうございます。」と言って、その場を取繕うに違いない。
それは、僕がまだ「孤独」ではないからそう思うのだろうか。

さらに、そういったボランティア達は、一人暮らしの老人の電気メーターの回り具合や、洗濯物、郵便物までチャックして下さるそうだ。
なんて、ありがたい事を(笑)。
    ◆
これは僕の想像だけど、孤独死する人って、多くは突然死だ。
寝たきりで一瞬でも治療を怠ったら死んでしまうような人は、介護スタッフが巡回しているだろうし、それどころか入院している。
とりあえず、一人暮らしの老人っていうのは、健康上、そこまでの状態ではないんだと思う。
それが風呂とかに入っていて、突然、脳梗塞とかで亡くなってしまうのである。
そして、誰にも気づかれず...というパターンが多いのだと思う。

でも、ちょっと待って。
都会の団地の孤独死というものが、本当に一番、悲惨な死に方なのだろうか。
    ◆
思えば、昔から、日本には「ぽっくり寺信仰」というのがあって、突然死への切なる願いがあった。
例えば、八王子の龍泉寺にはぽっくり観音というのがあるらしい。

この観音様に祈願すると、下の世話にならずに、寝込むことなく、寿命の尽きる時まで健やかに暮らすことができると言い伝えられています。

ようするに、これは、みんなに迷惑をかけながら、毎日痛い思いをしながら、病床で寝たきりになるよりも、ぽっくり死なせてほしいという信仰。
僕は、それは、極めてまっとうな信仰だと思う。

勿論、孤独死でぽっくり死なれても残された団地の人々は嫌な思いをするだろうけど、それは仕方ないと諦めるしかない。
ちょっと言い過ぎかもしれないけど、極論すれば、死んだ者勝ち。

それよりも、20世紀末から3万人に増えたまま一向に減らない自殺。
その中でも、女性の自殺のほとんどが病苦によるらしい。
ずっと前に、自殺率が高いどこか田舎のある地方での老婆の病気>欝気味>自殺の流れに関するドキュメンタリがあったんだけど、そんな老婆の多くは、家族と同居している老婆だった(ように記憶している)。

ここからは、あくまでも想像上の話なんだけど、昔ながらの家族意識が強い地域で、家族の中でなんとなく疎外感を感じてるんだけど、愚痴も言えなくて、自分の中にいろんなものを抱え込んでしまった老人が、病気になって、さらに落ち込んで、それでも、お金が無くて別居したいとも言い出せなくって、そして追い詰められて自殺しちゃう。
でも、世間体があるから、自殺ってことじゃなくて病死ということで近所に伝えて処理されちゃう。
そして、残った家族はなんとなく、ホッとする。

こういう死の方がよっぽど、孤独だと思うのは僕だけでしょうか。

逆に長年一人暮らしの老人の方が、孤独に慣れていて、自分自身の趣味を持ってさ、今更、みんなでコミュニティでフラダンスなんて勘弁してほしいって思ってるんじゃないか。
ましてや、毎日、郵便物なんて覗かれたくないってね。
勿論、これはあくまでも僕の想像だけどね。
    ◆
孤独死というドキュメンタリを作るのは結構だ。
でも、都会>団地>一人暮らし>突然死>悲惨という紋切り型の不幸をなぞるだけじゃ本当の事は見えてこない時代なんじゃないかな。
視聴率を気にする以前の問題である。

まさむね

天下りに一番怒らなければならないのはそこの職員だ

天下り問題の議論が益々激しくなっている。

昨日の予算委員会での討論では、民主党は、天下りの省庁による斡旋だけではなく、OBの”数珠繋ぎ渡り”が問題だと指摘していた。
しかし、問題の本質は、そもそもそういった3年板だけで、ほとんど何もしないで何千万もの退職金を得られるようなポスト、すなわち、そういった無駄な公益法人が無数にあるという事が問題なのだろう。
そういった公益法人には、理事とか理事長とかいう少数のキャリアの天下りもいるが、ノンキャリアの役人の天下りもある。

実は、僕は今から10年位前に、ある公益法人に派遣SEとして働いていたことがあった。
そして、そこにも天下りはいた。
でも、その法人では、理事長はほとんど、見なかった。
2週間に一度くらい、事務所に来ていたみたいだけど、個室に入っちゃうから、目立たなかったのかもしれない。

一方、ノンキャリの天下りたち(立場は嘱託?)は、5~6人で、おじさん軍団を結成し、部屋の隅の島に朝から居て、夕方まで新聞を読んでいた。
でも、これらのおじさんたちはみんな気のいい人だった。
いつもお菓子をくれるは、ちょっとした話相手になってくれるは...
長年、下層・宮仕えで培ってきたんだろう、組織内を円滑に丸めようとする腰の低さはやはり本物だ。

そして、おそらく、彼等の生き甲斐っていうのは会社の外にあるんだろう。
とりあえず、昼間はここに居て、夜、休日に目を輝かせるんだと思う。
ハロプロのファン層は地方公務員だという話を聞いたことがあるけど、こういう法人嘱託もその層に入っているのかも。
みんな話題が豊富だったからね。

ただ、彼等が別の顔を見せる日がある。
それは、本省から課長が見学に来る日だ。
朝からピリピリするおじさん軍団。
何度も社員のところに来て、机の上を綺麗にしろだの、サンダルは履くなだの、背広を着ろだのと注意に来る。
いつもとはまるで違った顔を見せるのだ。
そして、その課長(多分30才位)が一瞬、顔を見せると、おじさん軍団がいきなりとテキパキと動き出す。
おじさん軍団はその課長を取り巻いて、なにかを説明する。
こっちを指差したりして。
そして、お決まりなのは、5分くらいして、軍団と課長は歌舞伎町へ消えていくのだ。
今、思えば、懐かしい光景だったな。

でも、一方で、その公益法人の職員達は本当によく働いていた。
ほとんど、土日も仕事してたからね。
彼等はよく業務を知っているし、仕事も出来た。
やっぱり、そういう人が頑張って、出世して、理事とかになれるようなシステムにすべきだ。
天下り先に12兆円もの大金が投入されているというニュースが流れれば、その時は、確かに一般の我々は許せないと思う。

しかし、天下り問題に一番、怒らなくちゃいけないのは多分、この職員たちかもしれないと思う。

まさむね

2000年以降のヒット曲には何故「桜」の歌が多いのか

先週のミュージックステーションは、3時間スペシャルで昭和の歌と平成の歌の、それぞれ投票によるベスト100が発表され、大変興味深かった。

まずは、昭和のベスト100、特に70年代の曲を見ると、なごり雪(7位)、木綿のハンカチーフ(29位)、心の旅(51位)、喝采(54位)といったところが目立つ。
これらの曲はみんな都会と故郷という図式が明確な歌なのである。

「心の旅」は、男性が都会に発つ前の日の、恋人を思う気持ちを歌にしている。
「なごり雪」では、汽車で帰るのは女性。男性の女性への残る気持ちと、二人が別れる駅のフォームでの情景を描いている。
「木綿のハンカチーフ」は、男性が都会に出てしまい、それから半年までの二人の生活と心の動きを歌った歌。
「喝采」は、都会に出て、歌手になった女性が3年ぶりに故郷に帰った時の心情を歌に込めている。

それぞれの状況は微妙に違うが、そこには男と女、都会と故郷というテーマがみえる。
あの頃は、つき合うという事と結婚という事が近い時代だ。
だから、二人が別れる物語には、上京や帰省が説得力を持ったのだと思う。

当時は、別の女性(あるいは男性)が好きになったから別れる、などといえるほど、恋愛の自由さはなかったのだ。
    ◆
昭和ベスト100の一番というのが、尾崎豊の「I love you」というのは凄い。
記録によると当時はオリコンでは最高5位だ。それが20年以上の時を経て、人々の心をつかんでいる。
歌詞を見ると、「逃れ逃れ辿り着いたこの部屋」「何もかも許された恋じゃない」「二人の愛には触れられぬ過去がある」というようなフレーズに目が行く。
おそらく、学校とか親とかから駆け落ちみたいに逃げてきた二人?
反社会的なシチュエーション、そしてそれと反比例した二人の愛。

「きしむベッド」とか「落ち葉に埋もれた空き箱みたいな部屋」みたいな状況は決して豊かではない。むしろ貧乏臭い。しかも不幸の影もある。
でも、この追い詰められた切ない感じにリアリティがある。

昨今の社会状況を考えると、こういう「切なくて美しい貧乏」を描いた歌が再び求められている時代なのかも。
    ◆
平成のベスト100を見ると、花、特に桜を歌った歌で、しかも、2000年以降の曲が多い。

1位 世界に一つだけの花(SMAP)、 3位 蕾(コブクロ)、6位 桜坂(福山雅治)、14位 チャリー(スピッツ)、23位 さくらんぼ(大塚愛)、26位 花(ORANGE RANGE)、27位さくら(ケツメイシ)、31位 桜(コブクロ)、47位 さくら(森山直太朗)、70位(CHE.R.RY)YUI。

おそらく、背景には、バラバラになってしまった日本人が、日本人としてのアイデンティティのよりどころを桜に求めているという事がある。
数少なくなった日本人としての共通の感性が、桜を愛でるという事。

もう、駅のプラットフォームでは共通の物語は作れなくなった時代に、男も女も、大人も子供も、金持ちも貧乏人も、日本人は桜が大好きだから、一人ひとりバラバラになってしまったドラマの背景として、桜は必要なのであろう。

それにしても、ソメイヨシノの花というのは、確かに綺麗なんだけど、新しいものは生み出せない花であるというのもゾクっとくる話だ。
それは、刹那の間、人間の目を楽しませるだけの花なのである。

日本人の桜好きが、将来への不安の裏返しとか、何かイヤな事の伏線とかじゃなければいいと思うのだが。

まさむね

「みなしごハッチ」に見る不条理と大人のズルさ

毎日、16:30からMXテレビの「みなしごハッチ」再放送を見ている。

勿論、子供向け漫画なので、単純な勧善懲悪的なストーリーも多いのだが、時として深いテーマ性や不条理性があって、それもまた楽しい。

さらに、1970年頃の作品だけに、「戦うのは本当の勇気ではない、耐えることが勇気だ」「暴力は卑怯者の言い訳だ」「話合えば、必ず分かり合える」あるいは、「武器(=軍隊)を持つのが悪い」というような戦後の価値観が色濃く出ていたりもして、それはそれで興味深い。
    ◆
例えば、一昨日の回は、おいぼれたスズメ蜂の話だった。

元々、ハッチはスズメ蜂の襲撃にあって、離れ離れになってしまった母を探して旅をする物語である。
そして、旅の途中で、ハッチが、仲間から見捨てられたスズメ蜂族の長老に出会うというのが一昨日の話だった。

最初ハッチは、その年老いたスズメ蜂の事が嫌いだった。
ハッチにとっての敵(かたき)だからだ。

だから、他のスズメ蜂や他の昆虫達からイジメられるそのスズメ蜂をいい気味だと思ってみていた。
「今までみんなをイジめてきたから、そういう目にあうんだぞ。」ハッチは老スズメ蜂にたたみかけるハッチ。
ところが、ハッチの中では、その老いたスズメ蜂といろいろと関わっていくうちに、段々、そのスズメ蜂が可哀相だと思う心が芽生えてくるのだ。
そうこうしているうちに、雨が降ってくる。
ハッチとスズメ蜂は、穴倉に逃げ込み、ハッチの身の上話になる。
スズメ蜂の襲撃になって、兄弟は殺された事、母親と離れ離れになった事...

するとスズメ蜂は「実はハッチ一家を襲ったのは自分だった」と告白し、ハッチに自分が持っていた槍で「わしを突き殺せ」と涙ながらに訴える。
うろたえるハッチ。
憎い敵を目の前にして復讐したい気持ちと、どうしても殺せない心との間の葛藤でハッチは悩む。
どうするハッチ。
「この槍を持っているのが悪いんだ。こんなもの捨ててしまえ」とやり場の無い怒りを槍にぶつけるが、気持ちは収まらない。
ところが、その時、雨はさらに強くなり、二人が居る洞穴に津波が押し寄せる。
老いたスズメ蜂はハッチを助けて、自らは首まで水に浸かっている。
「死んじゃいやだ。おじいさん」ハッチは泣き叫ぶが、スズメ蜂は既に水に飲まれそうだ。
そして、死に際に「ハッチ、お前のお母さんは...にいる」
「えっ、僕のお母さんは何処にいるの?おじいさん、おじいさん...」ハッチの叫び声もむなしく、スズメ蜂は大水にさらわれてしまった。

ここで話は終わり。

オチも無く、ただの悲劇で終わってしまった。
多くの視聴者の良い子達は取り残された気分を味わっただろう。
愛と憎悪の葛藤というテーマもウヤムヤになってしまった。
しかも、最後は、おじいさんが死んでしまったから悲しんでいるのか、お母さんの居場所が知りたいのかの優先順位も曖昧なまま終わってしまったのである。
    ◆
物語の筋が行き詰まった時には、どうすればいいのか?という疑問の一番強引な展開に、地球を爆発させればいいというのがあるが、まさしくその展開だった。

こうして、良い子は、現実の不条理さ、大人のズルさをハッチから学ぶのでした。

まさむね

大麻禁止と日本憲法は同じである

若麒麟が大麻所持で逮捕された。
トンパチな事をしたものだ。

自分の一生を台無しにしてしまった。

大麻が問題なのは、ただ一点、法律で禁止されているからだ。
パクられた時のリスクを考えれば、あまりにもつまらない行為だからだ。
    ◆
個人的には若麒麟という関取の印象は薄い。
正直なところ、白露山や若ノ鵬が解雇された時は誠に残念だったが、個人的には、今回はそれほどでもない。

大相撲協会はいつもながら右往左往して、結局、若麒麟を解雇した。
妥当なところだと思う。マスコミは退職金が出るから除名にすべきと言っているが、気にする事はない。
条件反射的に言っているだけで、明日には忘れている。

さらに、今後は行司も含めて、所属者全員に抜き打ちテストをするらしい。行司もというところが微妙に笑える。

可哀想なのは、尾車親方だ。何度も謝罪していた。
若麒麟自身もおそらく、親方に迷惑をかけた事が一番辛いだろう。それを考えても、トンパチな事をしたものである。

関係ないが、「ピンポン!」というオバさん向け情報番組で、麻木久仁子が「HIPHOPスタイルで外出したのだから、親方も、気付かなかったんですかねぇ」と言っていた。
この人、本名は田中久仁子といういうらしいが、わざわざ、「麻木」なんていう意味深な芸名にしているんだからマシな事を言うかと思ったのに、期待したのが間違っていた。
    ◆
ちょうど、月9の「VOICE」というドラマで大麻吸引していた(らしい)学生の死が扱われていた。
このドラマは法医学のドラマで、最初、大麻を吸ったため意識不覚状態になって自殺したのではないかという仮説が出されていた。
大麻で幻覚?
こういうドラマは、大麻に対する誤解(偏見)を増殖する。大麻は覚醒剤や阿片やLSDではないのだ。
    ◆
同日、アメリカのマイケル・ヘルプスも大麻を吸引していた証拠写真がイギリスのサン紙に掲載された。それで金メダル8個である。
ヘルプスといい若麒麟といい、これでまた大麻が肉体に害が無いという事が新たに証明されてしまった。(かな?)
    ◆
最近、若干、大麻は本当に悪いのかという事がマスコミでも議論する傾向が出てきた。いいことだ。
大麻禁止は、GHQが日本に押し付けたものだ。
日本国憲法と同じなのである。
つい最近まで、憲法を変えるという議論は、それ自体がタブーだったが、時が経ち、憲法論議も徐々にではあるが解禁されてきたではないか。
一回り遅れでもいい。悪と決め付けるのではなく、大麻に関する議論も起きてほしいものだ。
    ◆
昨年来、若者の中でアルコールの消費が減ってきたというのが話題になってる。
何人もの人が生活を破壊されてきた。体も壊してきた。酒の上でのトラブルも絶えない。
当たり前の話だが、アルコールは危険なのだ。
それでも、法律で禁止されているわけではない。
それどころか、テレビでバンバン宣伝している。

一方、大麻は別に体に悪いわけではない、少なくとも酒やタバコよりは。
吸ったことによって、暴力的になったという話は聞いたことがない。
だけど所持は犯罪だ。
酒と大麻の扱い、どうみても不公平ではないのか。

しかし、こんな不公平な状況の中、大麻を吸う若者が増えてきたという。
酒が減って、大麻が増えるという事は、彼等はどこかで、本当の事をわかっているのかもしれない。

ただ、くだらない法律や偏見がまだ生きている。くれぐれも気をつけてほしい。それだけだ。

よろしければ、こちらのエントリー「大麻ってそんなに悪いの?」もご参照ください。

まさむね

兼続の両義性が「天地人」の見所~謙信と信長の狭間~

NHK大河ドラマ「天地人」は、上杉家という大きな組織を、部下として、衰退させながらも上手く軟着陸させた直江兼続という男の物語である。

100年に一度といわれる経済危機の時代。
世界のトヨタやソニーといった大企業も、安穏としていれらない時代。
大きな発展を夢見るのではなく、いかに組織を維持し、あるいは、いかに上手に衰退させていくかというのが課題の時代。

今年の「天地人」は、そんな現代に相応しい物語になりそうである。

さて、本日放送の「信長は鬼か」は天正4年の頃の話までであった。
謙信が亡くなるのは翌年の天正5年なので、おそらく、今回~次回、次々回の放送の時期までの頃が上杉家が最も勢いがあった時代の回ということになるだろう。
もっとも、その流れの中で、規模という見地からすれば、秀吉の家臣として越後、出羽などを収めて120万石を領有する時代が一番、興隆した時代ということは言えるのだが、それはあくまでも天下を諦め、野望を捨てた存在であり、勢いという意味では無くなってしまうのだ。
上杉家の勢いという意味では、謙信存命中がやはり一番なのである。
ちなみに、年表的には今後、謙信の死、上杉家の内紛、五大老時代、関が原、米沢転封 となっていく。

おそらく、「天地人」のポイントは、戦乱から統一を向かえる歴史、組織の流れの中で、直江兼続が、(いわばサラリーマンとして)いかに働いたかというのがテーマになっていくに違いない。それはまさしく現代的なテーマなのである。

実は、似たような事は、前作「天障院・篤姫」にも言えたのを覚えておられるだろうか。
こちらは幕末に滅び行く江戸幕府・大奥という古い組織をトップとして静かに終わらせた一人の女性の物語であった。

「篤姫」と「兼続」は、トップと部下、女と男、消滅と衰退という違いはあれ、見比べてみるというのも一興であろう。
そういった意味でも、篤姫のコンセプトが「和と絆」であったのに対して、兼続のコンセプトは「愛と義」というのは注目なのである。
2月1日放送の第5回「信長は鬼か」では、「義」という思想にたして、信長は「戦争の口実」と言い、謙信は「人が生きる美学」と言っていた。
信長は「義」を相対的に捉えているのに対して、謙信は「義」を信仰しているのである。
それは、信長は合理的であるのに対して、謙信は原理主義者であるという事をあらわしていた。

歴史の必然としては、多くの場合、原理主義者は美しい結末をむかえ、現実的には合理主義者が勝利する。

今回、信長と謙信の二人に合った兼続の心は、二つの「義」の間で揺れ動いたが、彼のそういった(文字通りの)両「義」性が最終的に、上杉家を、美しい死ではなく、しぶとい衰退に導いく事の伏線になっていくのだろう。

今後、その「義」に殉じながら合理的に生きる、兼続の両「義」的な生き方、そして心の揺らぎこそがこのドラマの見どころになっていくに違いない。

まさむね

朝青龍ガッツポーズに横審が物言い。楽しくなってきた。

朝青龍の優勝直後のガッツポーズに横綱審議委員会がクレームをつけたという。

やはりそう来たか、という感じである。
横審としては当然の対応だ。
    ◆
実のところ、僕は、ガッツポーズぐらいいいじゃないかという立場でも、品格に欠けるからダメだという立場でもない。
自由奔放な横綱がガッツポーズをした。>それに対して監視する横審が文句をつけた。
いい流れになったな、と見ているというのがとりあえずの立場だ。

おそらく、そうやって相撲界全体が、ワサワサする、日本中があれこれ議論する、話題になる、マスコミが騒ぐ、次の場所にさらに注目が集まる。
そういった大相撲が長年培ってきた興行会社としての手法(戦略)をトータルで見世物として楽しむ、というのが僕の興味なのである。

それにしても、大相撲というのは日本が生み出した、実に日本らしい大発明である。
土俵上の仕草にしても、一つ一つはもったいぶっていて、意味ありげだが、実は、”それらしいもの”の寄せ集めなのである。
誰も確かな意味とか、起源とかを気にしない。
それでいいのだ。
気になって、調べてみたら、以外に戦後からのものとかが多い。伝統でもなんでもないのだ。
そんなものなのだ。

例えば、土俵にいるという神様。これは、戦前は、天地開闢の十二柱=神代七代の神だったのが、戦後、一人の行司と相撲評論家が二人でただの三柱にしてしまった。
おそらくGHQから文句をつけられないかという事で自粛してそうしたというのだ。(詳細は、「女はなぜ土俵にあがれないのか (幻冬舎新書)」内館牧子参照の事)

こんな日本的なおおらかさに満ち溢れた大相撲という見世物は素晴らしいと僕は思う。

日本人は今まで、カラオケとかアニメとかいろんなものをオリジナルとして世界に発信してきたが、大相撲も、世界に出て行けるには十分な魅力を持っている。

何よりもあの、丸い土俵というもののオリジナリティは凄い。
決まった枠の外に出たら、それだけで負けというのは世界広しといえども、相撲だけだ(だけらしい)。
これによって、立会いに頭からぶつかりあうという迫力という意味では世界でも稀有な格闘技が生れたのである。
もしも、土俵というものが無かったら、作戦としてどこまでも逃げ回るという手が出来てしまう。

その昔、元相撲取りがオクタゴンに入って、相手のキックボクサーを金網まで押していって、そこで何もする事が無くて、顔面を蹴られてKOされたという試合があったが、もしも土俵が無かったら、相撲の技はほとんど通用しないものになってしまうのである。
また、土俵があるから、強い者もたまに、しくじったり、小さい者が勝ったり出来るのだ。
    ◆
僕が夢見るのは、は世界中の巨人達が両国国技館で闘う風景だ。
とりあえず、アフリカのセネガルには”セネガル相撲”(日本名だけど)という独特の格闘技があるらしい。
それは日本の相撲とよく似た技が存在するらしい。(立会いがない等、異なる点も多いらしいけど)。
一度、80年代に彼等を日本に連れてこようとしたらしいが、その時は、髷が結えないのでは?ということで話が無くなったという。
全く、もったいない話だ。髷なんてなんとでもなるではないか。床山さんの技術ならば...

ブルガリアというヨーグルトくらいしか知られていない国に、”角界のベッカム”琴欧洲がいたではないか。
エストニアというバルト海の小さな国でさえ、あの”バルチッククレーン”把瑠都がいたではないか。

これからは日本のソフトパワーだと言っている政府の方々、外務省職員の方々、是非、全世界からそういった人材を集めてもらえないだろうか(と切に願うばかりだ)。

そして、彼等が大相撲に入門する、そしてまた何か問題を起こす。相撲界がまたワサワサと揺れる、日本中があれこれ議論する、マスコミが騒ぐ、相撲に注目が集まる。
これが、全部で楽しみなのである。
    ◆
さて、こうしているうちに、若麒麟が大麻で逮捕されたというニュースが入ってきた。
尾車親方は即刻、若麒麟を引退させた。ということらしい。
これに関しては、また後日、語ってみたいと思う。

まさむね